【写真】笑顔でインタビューに応えるたんのともふみさん

「病気だけど生き生き」って、一見矛盾して感じる表現かもしれません。人生経験の中で病気になることは、一般的にはネガティブに捉えられると思います。でも私たちがお会いした丹野智文さんは、まさに”生き生き”とした表情をしていました。

病気で経験していることを人のために活かしながら、自分を生きている。そんな輝きを感じたのです。

会社では車のトップセールスマンとして活躍し、家庭では2人の娘さんを持つお父さん。仙台市に住む丹野さんは、3年前、働き盛りの39歳のときアルツハイマー型の若年性認知症と診断されました。 “もの忘れ”なら誰でも思い当たる節があると思います。でも話したばかりの人の顔や内容を忘れてしまう。同僚の顔を忘れてしまう…。

若年性認知症は64歳以下での罹患をいいます。もっと若い年代の発症もあると聞いたことがありましたが、30代という若さには衝撃を受けました。認知症の増加が社会問題になっており、親世代では周囲に罹患した人も少なくない。でもこれまで「自分ごと」ではなかった私にとって、ちゃんと向き合う機会はありませんでした。

認知症になったらどうなっちゃうんだろう。仕事は?家族は? 

現役世代の当事者としてのお話を伺おうと、丹野さんにお会いしました。

若年性認知症イコール人生終わり、ではなかった

【写真】賑やかな商店街で笑顔で立っているたんのともふみさん

平日の夜の待ち合わせに、細身のスーツをしゅっと着こなし柔和な笑顔で現れた丹野さん。認知症という重い病気のイメージとは違って、よどみない軽妙な語り口で周りを和ませる、柔らかい雰囲気を持った人です。

丹野さん:いつも、“らしくない”って言われます。たぶんマスコミなどで描かれてるステレオタイプな認知症のイメージと違うから(笑)認知症と言ってもアルツハイマー型、レビー小体型、脳血管性の代表的なタイプに分かれるというだけでなく、100人いたら100通りの症状があるんです。これまで認知症の本人が語るのはあまりなかったと思いますが、認知症になっても終わりじゃない。それを知ってほしいんです。

丹野さんは薬での治療をしながら、今も会社に勤め、休みの日には講演会で当事者としての思いを積極的に語ったり、「翼合唱団」(認知症の人と家族の会)で合唱を楽しんだり。また、物忘れの相談窓口「おれんじドア」の代表として、認知症の当事者の相談に乗る活動をしています。先日は初期の認知症支援の先進国であるイギリス・スコットランドへ、当事者を訪ねる旅をしてきたばかり!重篤な印象ばかりだったけど、認知症って一体何だろうと考えてしまいます。

丹野さん:自分も認知症と診断されたとき、一時は「認知症イコール人生終わり」みたいに思いました。ショックでどうしていいか分からなくて、あてもなく町をうろうろしたこともある。認知症の症状のひとつに徘徊がありますが、周りからみたらあれはまさに徘徊でした。いずれ寝たきりになると思って、趣味のボディーボードやスキーを捨てました。新しい服もいらないと思ってずっと買わなかった。そのときは不安で自律神経もおかしくなって、体調が悪く、辛かったですね。

でも今、楽しいですよ、毎日が。このあいだ講演で「認知症になって良かったこと」をテーマに話しました。普通、あり得ないですよね(笑)

ストレスのせい?診断を受けるまでに感じていたこと

丹野さんは、地元の大学を卒業後、宮城県内に20店舗を構える車の販売会社・ネッツトヨタ仙台株式会社に入社。フォルクスワーゲンの営業を担当し、全国でも上位の売り上げを誇るトップセールスマンでした。

丹野さん:車を売り込むより、どうやって自分という人間を好きになってもらうかを考えて仕事をしていましたね。犬好きな人には犬の切手を貼って手紙を出したり、大雪が降った次の日には「大丈夫でしたか?」と電話を入れたり。いつも「あなたのことを気にしていますよ」という思いを伝えていたんです。すると、お客様の方からかわるがわる点検やお茶を飲みに気軽に遊びに来てくれるようになり、じっくり話せる関係になった。多くのお客様を抱えていたので、外に飛び込み営業や訪問に出掛けるより、効率も良かったんです。そのやり方は会社の方針ではないので、上司とは対立することもありましたね。

【写真】真剣な表情でインタビューに応えるたんのともふみさん

「頼まれたら断らない」をモットーに、まず店で1番になる努力をし、次に県で、それができたら東北でと目標を上げて。全国でも売り上げ上位になるなど、結果を出し続けてきた丹野さん。20代で結婚し、2人の娘さんと家族4人の生活を楽しんでいました。

記憶力に異変を感じ始めたのは、34,5歳のころ。以前なら簡単な単語で済んでいたメモが、次第に増えていきました。

丹野さん:担当客が増えていたし、忙しさのせいだと思っていたんです。でも2,3年経つうち、「佐藤さんにTEL」と書いておいても、どの佐藤さんに何の件で電話するのか、分からなくなってきたんです。とにかくやらなきゃいけないことを全部ノートに書くなど自分なりに工夫してしのいでいました。

若年性認知症に多いアルツハイマー型の症状のひとつに、記憶障害があります。とはいえ丹野さんのように、忙しさやストレスと思うのは年齢的にも自然なことだと思いました。丹野さん自身、それにしても…と心配になり周りの人に打ち明けてみても、「俺もそうだよ」「気にしすぎ」という反応だったそうです。

同僚の顔が分からない。1カ月の検査を経て受けた診断「若年性認知症」

【写真】インタビューに応えるたんのともふみさんとライターのせきぐちゆきこさん、くどうみずほ

丹野さん:「もの忘れはよくあること」と言われるたび、ではなぜみんな病院に行かないの?と思っていました。普通のもの忘れと違う感覚はあったんですね。認知症になっても、初期は家の中など日常のことはあまり間違わないものなんです。たいていの場合はまず仕事でおかしいなって気づきますが、周りは本人にはきっと言わないですよね。家族があれ?って気づくころは相当進んでいる。自分が病院に行ったきっかけは、一緒に働いてるスタッフの顔を忘れたこと。あの人は誰だっけ?と思い出せなくなったんですよね。

用事や物事を忘れることはメモをするなどしてしのげても、「顔を忘れる」という経験は丹野さんにとってもショックだったそう。

丹野さん:私の場合は、顔が覚えられない、忘れてしまうのが特徴みたいです。毎日会う同僚をこの人は誰だろうと思ったり、逆に街を歩いているとみんな知り合いに見えて来たり。よく、顔と名前が一致しないとか、名前が思い出せないというのは聞くと思うけど、思い出せないのではなく、顔が“分からない”んです。

まだ半分はストレスのせいだと思いながら、脳神経外科へ。その日はちょうどクリスマスでした。でもそこでもっと大きな病院を薦められ、2週間の検査入院。「若年性認知症みたいだけど、この若さでは見たことがない」と言われ、さらに大学病院で検査をすることになりました。

丹野さんのような年齢で「認知症」の診断を下すことに、病院側も慎重にならざるを得なかったのでしょう。何が原因で記憶の問題が起きているのか。別の可能性を試して消しながらの入念な検査だったそうです。

丹野さん:1カ月掛けて検査をしてやはり認知症だと診断されたとき、妻は隣で泣いていました。その姿が目に入って俺は泣けないと思って、先生から目をそらさず話を聞くのが精いっぱいで。妻が帰ってからは涙が止まらなかったです。

39歳、働き盛りでの認知症診断は、丹野さんに大きな不安を与えました。

丹野さん:眠れない夜に「若年性認知症」について検索すると、もちろん、何ひとついいことなんて書いてないんですよ。よせばいいのに、「若年性認知症 寿命」を見たら、2年後に寝たきりになると出て来た。それで先生に聞いたら、「すぐにではないがいずれその可能性はある」と言われて。それでもう、自分の人生は2年だと期限をつくっちゃったんですね。

一番に考えたのは、家族のこれからの生活。当時小学生と中学生の娘のために、親としての責任を果たさなければならないと思いました。

「家族のためにー。」

大きなショックを受けながらも丹野さんは退院してすぐに支援制度を求めて区役所へ足を運びます。でも若年性認知症に対して思うような支援制度はありませんでした。実は40歳以下は介護保険も使えません。現役で働いている人も多く、高齢者の認知症とはまた違った環境に置かれているのに制度が追いついてないわけです。何よりもまず、相談に来た本人が認知症であることを信じてもらえなかったそうです。

丹野さん:その後訪ねた京都に本部を持つ「認知症の人と家族の会」の宮城支部の事務所でも「誰の相談?」「私なんですけど…」「は?」みたいなね(笑)。当事者が自分のために動くという考えがなかったのでしょうね。でもそこで「若年性認知症のつどい」の存在を教えてもらえました。最初は介護をしている家族がネガティブな話をしているとしたら、それを聞くのはつらいので行きたくないという気持ちもありました。でも私が通っていれば、後で妻も行きやすくなるかもしれない。もし自分に何かあったら、誰かが妻を助けてくれるかもしれないと思ったんです。

思いがけない会社の対応。手探りで見つける“自分にできること”

大きな病気になって誰もが不安になるのは、仕事を失うことだと思います。丹野さんは大学病院に入院している間に、会社から自分の顧客を後輩に渡すように言われていたそうです。

丹野さん:当然辞めさせられると思っていたので、とにかく働くから、洗車でもいいからさせてくれってお願いしようと思っていました。そうしたら社長は、「体は大丈夫なんだろう?仕事はあるから戻って来なさい」と言うんです。「机を運ぶ仕事もあるから」って、そんな仕事そう何度もあるわけはないのに。ありがたかったですね。

【写真】インタビューに真剣な様子で応えるたんのともふみさん

宮城県の調査では若年性認知症の診断を受けた人は200人はいるそうですが、会社に病気のことを伝え、正規雇用で働いているのは「ほとんどいません」と丹野さん。本人も周りも気が付かない場合や、診断されても働かなくてはいけない、辞めさせられたくないから隠している人は多くいます。また、ミスして怒られたりするうちに精神的に追い詰められて、うつを併発する人もいるそうです。

丹野さん:営業から総務に異動になりましたが、病気になって、お情けで働かせてもらっているのではなく、やはり認められて仕事がしたい。自分も周りも何ができて何ができないのか分からないから、ひとつずつ、与えられた仕事を自分用にマニュアルを作りながら進めました。ひとつ終われば、「別の仕事ももっとください」と自分から進んで言いました。最初の1年くらいはみんな腫物に触るような感じもありましたね。

どう関わったらいいか分からない。そんな社内の雰囲気が変わったのは、あるとき、「何が困っているの?」と尋ねてくれた20歳の女性スタッフに認知症について講演したときの原稿を読んでもらったことがきっかけでした。何ができるのか、自分も試行錯誤だったけど、周りはもっと分からないと気が付き、自分からはっきり「ここができない」と伝えるようになったそう。今では「今日は頭の調子が悪いから、難しいことは無理」とか、「今日は調子いいからやるよ!」などユーモアを交えて伝えています。

少しでも円滑に仕事をするために自分の状態をきちんと伝え、まわりの理解を得ること。また、自分自身で「工夫すること」が欠かせないと強調します。

丹野さん:仕事をする上で大切な2冊のノートがあって、1冊は作業マニュアルとしてのノート。このプリンターにこの用紙をこの方向で入れるとか、棚から何番目のどのファイルに入った資料なのかとか、たぶん普通の人が考えつかないような細かな内容を書き込んでいます。たまに後輩から貸して欲しいと言われ、返ってくると新しく書き込んであったりして…。社内の作業マニュアルとして役に立っているようでうれしいですね。

もう1冊は、事務の仕事用。自分はやらなきゃいけないことは覚えているけど、終えた記憶があいまいになる。必ず終わった作業や提出した日にちも書いて、自信をもってきちんとやったと言えるようにしておく。営業時代から、お客様がたくさんいたので結構ノートを活用していました。

笑顔の当事者との出会いで気が付いた自分の役割

【写真】笑顔でインタビューに応えるたんのともふみさん
家族のためにという強い思い。会社の理解もあって前向きに歩んできたように見える丹野さんですが、1年ほどは落ち込んで自律神経に不調が出て心も体も具合が悪く、うつのような症状になっていたときもありました。

落ち込んだ気持ちが上向いたきっかけになったのが、「認知症の人と家族の会」のメンバーに誘われ、富山で開催された当事者の交流会に行ったこと。認知症と診断されてから初めての旅行でした。

丹野さん:その中にいた人がすごく元気でやさしくて、ほんとに認知症?って思うほど楽しそうに活動している。びっくりして「どうしてそんなに元気なの?」って質問攻めにしたんです。そうしたら「俺は1年半、家に引きこもりだったけど、認知症の友達のおかげで元気になった」って。

認知症でも人や社会と関わりながら楽しく暮らせる。当事者から元気をもらった自分も当事者としてできることがある…。そんな思いが湧きあがってきたそうです。少し人生を前向きに考え始めたそのころ、「宮城の認知症ケアを考える会」(現・宮城の認知症をともに考える会)で講演を頼まれ、そのときに会った人達との出会いが丹野さんの今に繋がる活動へ大きく流れを変えていくことに。

丹野さん:講演の後、話が盛り上がって、宮城県で認知症に関わる人達とみんなで京都に遊びに行くことになったんです。京都にいる認知症専門医で有名な先生に会いに、当事者として認知症の講演もしましたが、みんなでおいしものを食べ、観光して楽しみました。その仲間たちで、「丹野君と何か一緒にできないか」っていうことで、認知症当事者の為の相談窓口「おれんじドア」を立ち上げたんです。病院の先生だけじゃなく地域包括、介護士、施設長などたくさんの人達が一緒です。

心から嬉しそうに話す丹野さん。営業時代から培った“頼まれたら断らない”という姿勢が、出会いに繋がっていったと話します。

丹野さん:認知症のケアについてだけでなく、認知症とともに生きていくことすべてについて考える、すごい繋がりが出来ました。生活におけるいろんなことをパートナーに相談できるようになったんです。この会のいいところはみんな対等な立場で意見を交わしあえることです。

当事者だからこそ分かり合える。繋がり合える居場所づくり

丹野さんは、「ともに考える会」の支援を受けながら2015年5月に医療・福祉関係者などとともに「本人のためのもの忘れの相談窓口」を立ち上げました。「おれんじドア」と名付け、認知症と診断された直後の人や、まだ病院に行っていないけど記憶に不安を抱える人などが気軽に集える場として、月1回、東北福祉大学(仙台市青葉区)のステーションキャンパスで活動しています。認知症当事者が当事者の相談に乗るのは全国的にも珍しい取り組みです。

丹野さん:名前や病名などもこちらからは聞かない。とにかく当事者が来やすいようにゆるい感じでやっています。少人数で、当事者と家族(支援者)に分かれ、互いに姿は見えるけど声が聞こえないくらいの距離に配置。当事者のグループでは、話したい人から話していき、自分から無理に話す必要はないというスタンスですが、だいたいみんな話をしてくれます。不安なことや病名も自分から言いますね。

今、何を不安に感じているか。どんな思いが胸の内に駆け巡っているか。事務的に聞き出すのではなく、誰かの助けを借りるでもなく、自ら話したくなる雰囲気にこだわったそうです。

丹野さん:一緒に来た家族や支援者は最初、「この人、自分のことしゃべれないから」って言うんです。でもワンテンポ、ツーテンポ遅れているだけで、言いたいことは心の中にいっぱいあるのだと思う。言葉に詰まったとき、みんなつい助けるつもりで口をはさんじゃう。僕は本人から言葉が出るのを信じて待てますから。

【写真】笑顔でインタビューに応えるたんのともふみさん

当事者同士だからこそ、不安や失敗を共感し合える、笑い合える。病気で落ち込んで、笑顔もなくなっていた当事者がそんな風に笑い合っている様子を、家族や支援者は遠くから見て、「あのひと、あんなにしゃべれるんだ」と驚くそうです。

丹野さん:おれんじドアをやってみて思うことは、周りが当事者を守り過ぎて、何もできない人にさせてしまっているのではないでしょうか。当事者も何か失敗して怒られたり迷惑をかけたりしたくないから、周りの言う通りにしようという気持ちになってしまいますよね。

優しさからの「転ばぬ先の杖」も、ときに自力で歩む、生きる脚力を奪う可能性もあるということ。おれんじドアは、人と出会い、生きた情報を得ることで認知症ってこういうものという思いこみに気づく場となっているのです。

診断される前の人も対象にしたのは、不安だった自身の経験から。「病院に行くのが怖い」という人が多いのも、十分理解できるのだそうです。

丹野さん:そういう人には、病院の先生を、そうと知らせずに話し相手になってもらい気楽に話してもらったりするんです。後で、実は認知症の専門医なんだけど、って打ち明けて、繋がりを作ってあげると行きやすいみたい。「おれんじドア」という名前にしたのは、最初の一歩を踏み出してもらうための入り口のイメージなんです。

丹野さんの気さくな雰囲気と細やかな心遣いで、「認知症と共に生きる」一歩を前向きに踏み出した人は多いようです。

丹野さん:この間、「おれんじドア」に来てくれていた若年性認知症の当事者と一緒に講演会で対談したんです。最初に来たとき、家族が「この人はしゃべれません」って言っていた人が1年後に登壇することもありますよ。不安が取り除かれるとみんな変わるんです。自分がスコットランドに旅行に行って不在の時は他の当事者が司会をやってくれました。

「私は認知症です」カードで、遠慮なく助けてもらおう

【写真】額に入れられた写真の前で笑顔で立っているたんのともふみさん

認知症当事者のもとへ訪れるために向かったスコットランドでは、日本での活動に役立てたいことがたくさん見つかったそう。

丹野さん:この間の講演のタイトルにした「認知症になって良かったこと」ですが、今まで当事者がそんなこと言うなんてなかったわけで、「なんかばちあたりかなぁ」なんて思っていたら、スコットランドではみんな同じように言うんですよ。今、自分が認知症でも生き生きと活動できているのは、決して特別なことでなかった。日本は守り過ぎていると感じました。自分のことは自分でさせることをしないと。きっかけがあれば、当事者は変わるんです。

認知症になってできないこともあるけど、すぐ諦めるのではなく、「どうやったらできるかを自分で工夫することって大事です」と丹野さん。丹野さんの言葉には何度も「自分から工夫して」という言葉が出てきます。

丹野さん:会社に行くとき、道に迷ったり、利用する駅名を忘れたりしてしまいます。人に訪ねたことがありますが、スーツ姿で自分の会社を忘れたというと、確かに変な顔されますよ。「新しいナンパですか?」って(笑)。

そこで「若年性認知症本人です、ご協力お願いいたします」と書いたカードを自分で作りました。困ったときに人に見せてサポートをお願いするんです。これまでも自分がいる場所が分からなくなったとき、「一緒に行きましょうか」って声を掛けて案内してくれた人や、窓口より振込手数料が安いけど自分にとっては困難なATMの操作を、銀行員の方が一緒にやってくれたりしました。

【写真】たんのともふみさんが見せてくれたカードには「若年性アルツハイマー本人です。ご協力お願いいたします」の他にも地下鉄などの最寄り駅も書かれている。

周りにどう思われるかと気にするとオープンにできない。本当はオープンにして周りに理解と助けを求めながらどんどん外に出て行った方がいいし、その過程には当然失敗がある。本人の意識はもちろんそれを受け止められる社会でなくてはいけません。

丹野さん:みんなに前向きなことを伝えながらも、自分はどんなことがあっても子どものために働かなければと思ったのでできたのかもしれないとも思います。1人だったら引きこもっていたかもしれない。

妻も認知症について勉強してくれながら、はじめは心配で心配でという感じでした。でも一人で全部やった。工夫して失敗しながらも元気になっていく姿を見て、妻もふっきれたんだと思います。今は娘の学費を振り込んできてって僕に頼むくらいになりました。認知症の人にですよ(笑)

特に身近な家族の接し方に助けられ、勇気づけられることが多いようです。

丹野さん:娘は一番の反抗期。パパは記憶が悪いだけ。病気だからと気を使っているなら反抗して来ないと思うから、そう思ってくれていると思うんです。リビングの真ん中に予定を書き込んだカレンダーを貼っておくと、会社に行く時間が分からなかったとき、娘たちが「出掛ける時間だよ」って言ってくれます。

ともに生きるパートナーとして。ほどよい距離で支え合える社会

厚生労働省では2025年の認知症罹患者数の推計を700万人と発表しました。2012年の1.5倍という数字です。65歳以上の5人に1人。誰もが当事者になりえ、介護者になりえる身近な病気。予防を含む医療や薬剤の進歩を願うのはもちろんですが、今回のインタビューで、個人の意識もそうですが、認知症とともに生きる社会のあり方を考えなければいけないと教えられました。

認知症を正しく理解し、地域や職場で認知症の人やその家族を支える「認知症サポーター養成講座」が全国で開かれ、2016年3月までで全国で750万人が受講しています。なかなか「自分ごと」にならないと向き合えないことかもしれませんが、正しく理解しようという意識は社会全体に必要なこと。働く年数が長くなってきている中、認知症の人が身近に増えていくかもしれません。

丹野さん:認知症っていうと何でもやってあげなきゃって思う人が多いけど、特別扱いするんじゃなく、「困っていたら助ける」くらいに思っていた方がいいと思います。友達に対してってそうじゃないですか?サポーターよりパートナーだと僕は思いますね。

【写真】微笑んでインタビューに応えるたんのともふみさん

丹野さんには、若年性認知症と診断されて1年半ほど経ったころのこんな思い出があります。

丹野さん:中高一貫校時代の弓道部仲間との飲み会に誘われたんです。すぐに返事は出来ませんでした。病気を打ち明けたらなんて思われるのだろう、もしかしてもうみんなの顔が分からないかもしれない…。だいぶ迷いながらも行ってみたら、楽しかった。いっぱい飲んで話をしました。

認知症になって、連絡や待ち合わせへの不安や、コミュニケーションへの不安から友だち付き合いがなくなっていくことも多いはず。でも、そんな心配は友人の一言で吹き飛んでしまいました。

丹野さん:その席で、「今度会ったときみんなの顔を忘れていたらごめんね」なんて冗談っぽく言ったら、先輩の一人が「それは心配するな」と。「お前が俺たちの顔を忘れても俺たちがお前を覚えているから大丈夫だ」って言うんです。うれしかったですね。肩の荷が下りたような気持ちになりました。その仲間たちはそれから、「忘れないように」って半年に一度集まってくれています。

プロや支援者でない、これまで付き合ってきた関係の中で「そういういい積み重ねがあったから、病気をオープンにして来れたかもしれない」と丹野さん。その後続けた「外に出るのが怖くなくなった」という言葉が印象的でした。

困難な状況にあっても、自らを生かして生きる

丹野さんが認知症の当事者のためにと「おれんじドア」を立ち上げて1年ちょっとの間に、認知症に関わる専門家や家族、支援者、行政など、今までなかった形の連携が生まれています。生き生きと生きる認知症当事者と出会い、同じ目線で活動できる仲間を得たことで希望を見つけた丹野さん。これからの目標は?

丹野さん:これからは、認知症に生きる人たちの居場所をもっとつくっていきたい。今ある認知症カフェとはもうちょっと違った形で考えています。当事者が前向きに動き出すと、認知症のケアやサポートについて世の中のおかしいところが見えてくると思うんですね。地元、仙台からに変えていき発信していきたい。認知症になった人、支え合う人たちの入り口→居場所→発信する場をつくっていきたいです。

あとは、捨てちゃったスキーやボディーボードを買って、もう一度やりたいですね。

【写真】笑顔で立っているたんのともふみさん、ライターのせきぐちゆきこさんとくどうみずほ

できないことを数えるのではなく、できることにスポットを当てる考え方。認知症の人たちのために、当事者として自ら動き、人と人との縁を繋ぐ…。同じ病気の人や家族は丹野さんからたくさんの勇気をもらっているのだろうなと思いました。

「今、自らを生かして生きる」ということ。その生き方は、病気のような困難な状況にあっても、人を輝かせるのだと思います。

元気な様子に感心していると「長く一緒にいないと僕の認知症の症状に気が付かないと思いますよ」と言われました。視点を変えれば、普段の街の人波の中に、丹野さんと同じように助けを必要として迷う人があるかもしれないわけです。

支援や社会のあり方を問う前に、せわしない毎日の中でもそういう人に気づける、声を掛けられる自分でありたい。丹野さんの笑顔を見ながら、そんなことを感じた時間でした。

関連情報:
おれんじドア ホームページ

ライター:
関口幸希子
宮城県出身。仙台を中心に情報誌・新聞・PR誌・web等で幅広く取材・執筆。関心のあるテーマは食や農をはじめ、ものづくりや生き方など。

<写真/板橋充(バシフォト)>