【写真】笑顔で座っているたかはしあみさん

生きる上で壁にぶつかったり、仕事でトラブルにあったり、人間関係や恋愛・結婚に深く悩んだり……そういったことは、誰もが一度は経験したことがあるかと思います。大人になって親元を離れ、「自立」への一歩を踏み出したとしても、いざ、という時、相談できる身近な誰かがいてくれてこそ、人は、壁やハードルを乗り越えて、また進んでいけるのかもしれません。

でも、もし誰にも相談することができないとしたら?

病気で倒れた時にさえ、支えとなってくれる家族がいないとしたら?

現在の日本で、親や保護者の元で暮らすことができない子どもたちの数は、約4万6千人という厚生労働省のデータがあります。保護者の死別や不在、親の病気、貧困、虐待など、背景には様々な理由があります。そうした子どもたちは、社会的養護のもと、児童養護施設や里親家庭で、育っています。多くの場合、高校を卒業と同時に子どもたちは、施設等を出て行かなくてはなりません。

その後に子どもたちが親元に帰るケースは、ごくわずか。ほとんどが、自分でなんとか生活費を稼ぎ、住む場所を探して、直ちに「自立」をせざるをえません。施設を離れた後の自立の先には、何が待ち受けているのでしょうか。

恥ずかしながら、私はこれまで、そういったことに想いを馳せることがあまりありませんでした。

アフターケア相談所ゆずりは」(以下ゆずりは)はそうした社会的養護のもとを巣立った人たちの、その後の人生をサポートをする駆け込み寺のような場所として、2011年に誕生しました。

【写真】額縁に入れられた絵を暖かい光が照らしている

私たちは、一般的に捉えられている血のつながりのある家族だけではなく、血縁はなくても心でつながっている「かぞく」のあり方があると考えています。ゆずりはの活動を通して、家族ではない様々な人が子どもや若者の人生に関わることは、まさにもう一つのかぞくのかたちなのかもしれません。

今回はゆずりは代表の高橋亜美さんに社会的養護の現状、そして高橋さんの考える「かぞくのあり方」について、お話を伺っていきたいと思います。

施設でともに暮らした子たちの「自立」の先に待っていたもの

【写真】木製の看板には「アフターケア相談所ゆずりは」と書かれている
東京都・国分寺にある小さな構えの一軒。爽やかなグリーンが目を引く入り口には、小さく「ゆずりは」と書かれています。ガラス扉越しに見えるカウンターには、ジャムの瓶を手に談笑している数人の女性たちの姿が見えます。

一見するとお洒落なカフェのような、ここゆずりはには年間で約2万3000件の相談が寄せられています。

その内容は、生活保護申請の相談、DVの相談、精神科や産婦人科への同行、各種保険申請の手続きなどの日々の生活に関わるものから、就労、就学に関わるトラブルまで様々です。どれも深刻な問題で、そしてその多くが、児童養護施設や里親家庭など、社会的養護から巣立った人たちからの相談です。

【写真】木製の家具を日光が照らしており、暖かい空気を作り出している

代表の高橋亜美さんは、福祉施設でケアワーカーとして勤務する中で、施設を出た後の「アフターケア」こそが、今まさに必要とされている支援だと痛感し、この場所を開きました。

9年間、自立援助ホームと呼ばれる施設『あすなろ荘』で職員として働いてきました。自立援助ホームとは、何らかの事情で家庭で生活できない中学を卒業した15才から22才の若者たちを対象とした、グループホームのような形態の児童福祉施設です。入所者の多くは貧困や虐待など過酷な環境に置かれた子たち。自立支援ホームは、その名の通り「自立」を目的とするため、就労して生活費を自分で納めないといけないんです。学歴は中卒や高校中退の子どもたちが多く、児童養護施設や里親よりも、より厳しい環境の中で、生活しなくてはなりません。

家族の中で安心して幼少期を過ごすことができなかった子たちや、保護者から暴力を受けてきた子達は、「いつでも死んでいい」「大人なんてみんな敵」「助けて欲しい時に誰も助けてくれなかった」という絶望や諦め、苦しみで一杯だったと言います。

私たちは一緒に生活することを通じて、傷ついた心と体のケアを行いました。そして、そんな子どもたちが生活を積み重ねていくことで変わっていく。『今まで苦しかったけどここまで生きていてよかった』『あすなろ荘に来られてよかった』って憎しみや怒りを手放して巣立っていく姿を見せてくれたんです。そのことはすごく嬉しかった。でも……。

【写真】少し涙ぐんでインタビューに応えるたかはしあみさん

一緒に涙を流し、笑い、共に生活してきた子たちが、施設を出た後、どんな暮らしをしていくのか。その巣立ちの向こうは決して明るいだけのものではありませんでした。高橋さんは、その事実を目の当たりにし、打ちのめされます。彼らが強いられている自立は、かぞくのセーフティネットがある状況での自立とは全く異なりました。

体を壊したりトラブルに巻き込まれたりしても、親を頼れない。いざという時も誰の支えもなく、常に頑張り続けなくてはいけないという緊張感は相当な負担です。それだけでなく、小さい時に受けた虐待がフラッシュバックすることで、仕事や人間関係が破綻する子も少なくありませんでした。

一緒に暮らしていた子たちが、ホームレスになったり、望まない形で性風俗の仕事に就いたり、借金を背負ったり、精神疾患で働けなくなったり、と本当に過酷な状況に追いつめられているという現実を目の当たりにしました。

大人になってからも続ける支援が、絶対に必要だと確信して。

普通は、『この家が安心か?』なんて子どもは考えないですよね。でも、幼少期に虐待を受けたり、深刻な貧困の中にいて、今日ご飯を食べられるかどうかもわからないというサバイバル状態に置かれ続けている人、『当たり前の安心・安全』を家族の中で経験できなかった子たちは、非常に強い不安や緊張を抱えさせられてきました。

施設に滞在している中でのケアはもちろん、その後の人生も支える必要がある。巣立った後でも人生に大変なことがあって当たり前じゃないか、その視点に気づいた高橋さんたちは、退所前の子どもたちにこう話しかけるようになります。

『住む場所が変わるだけだから。あすなろを出た後も、大変な状況になりそうだったらいつでも連絡してね』って。その取り組みを始めたら、すごくたくさんの相談が来ました。

『一緒に暮らしてきた施設の職員たちにはこれ以上迷惑をかけられない』とか、『自立したのだから甘えちゃだめだ』とか。そんな思いから声をあげたくてもあげられなかった退所者が、生活に困窮したり、悩みを抱えた時、次々と相談に訪れるんですね。

高橋さんに相談を持ちかける退所者は、10代の子もいれば30代の方もいるのだそうです。

18歳や20歳になったから自立ができるわけじゃない。十数年経ってから、フラッシュバックやPTSDに苦しめられる人もいます。年齢が上がれば上がるほど巣立った施設や里親を頼るというハードルも高くなります。年齢では区切られない一人一人の問題がいろんな時期に訪れるんだということもわかりました。

【写真】真剣な表情でインタビューに応えるたかはしあみさん

あすなろ荘の出身者だけでなく、口コミで他の施設出身者からの相談も増え、ホームレスの自立支援団体や、DVや性被害を受けた女性たちのための保護施設などからの引き継ぎ依頼も出てきたと言います。

支援団体や行政の相談窓口はあるはずだけれど、情報が届かず、それをうまく利用できている人はほとんどいませんでした。これだけニーズがあるなら、アフターケアを独立させて充実させないと絶対にダメだ、と。あったらいいな、なんてレベルじゃなくて、もう絶対にこれが必要なんだ、という気持ちでした。

その思いに突き動かされるように、高橋さんはあすなろ荘の運営母体である社会福祉法人「子どもの家」の後ろ盾のもと、ゆずりはを設立しました。

父の圧力に苦しんだ少女時代の思い出が活動の原点に

自立支援ホームでの9年間の勤務も、ゆずりはを立ち上げてからの6年間も、高橋さんは常に、家族の元でくらせなかったために負った傷を持つ人たちに寄り添ってきました。人間不信になり支援者の心を試すような行動を取ってくる利用者にも、真っ向から向き合い、小さく伸ばした手をしっかりと掴み支えてきました。

支援者であることが天職のように感じられる高橋さんですが、実は幼いころから、福祉の仕事に就こうとは全く思っていなかったと言います。

【写真】当時のことを思い出しながらインタビューに応えるたかはしあみさん

もともと福祉の道に進みたいなんて全然思っていなかったんです。美術系の大学進学に失敗して入ったのが福祉系の大学だったというだけで。大学でも落ちこぼれていたので、同級生や恩師は驚いているくらい(笑)。ただ、自分の幼い時の体験が、今の仕事に就くベースになっているな、と思うことはあります。

その体験とは、高橋さんにとって忘れられない、自身の父親との苦しい思い出にありました。

父がすごく厳しい人だったんです。厳しい時期があったというか。昔、卓球の選手を目指していた父は、その夢を私に託そうとしていて、普段は穏やかな人なのに卓球のことになると人が変わるんです。

小学校時代の2〜3年間、私は望みもしないのに卓球をやらされ、暴言を吐き、時には暴力を振る父と毎日卓球の練習をしていました。態度が悪ければ叩かれたり、土下座させられたりは日常茶飯事でした。

【写真】インタビューに応えるたかはしあみさん

普段は優しいお父さん。しかし、圧倒的な力で抑えつけられる苦しさは、幼い高橋さんの気持ちを少しずつ追い詰めていきました。毎日の厳しい練習を重ねていくうちに、高橋さんは自分が驚く行動をとっていくことに気がつきます。

いつの間にか、万引きをするようになっていたんです。それに、鳩に向かって石を投げたり、友達にもひどいことを言ったり先生にもはむかったりして、すごく“嫌な子ども”になっていたんです。鳩をいじめるからって神社の神主さんに追いかけられて出入り禁止になってました。

そんなふうにどんどん何かがおかしくなっていく自分を、高橋さんは「自分はなんて悪い人間なんだ」と思っていたと言います。

悪い人間だから、友達にもひどいこと言っちゃうし、動物を威嚇したり、万引きまでやっちゃうんだ。自分はダメなやつだって思っていました。それが卓球を強制的にやらされていることや、父親の暴力に関係しているとはその時は思っていなかったんです。

中学生になった時、高橋さんはとうとう卓球をやめたいと切り出します。お父さんも渋々認めてくれ、卓球から離れた時の晴れやかな気持ちを、高橋さんは今でも覚えているといいます。

もう卓球をしなくていい、父に暴言を吐かれたり暴力を振るわれたりしなくていい、ということがとても嬉しかった。霧が晴れたようでした。そうしたら、いつしか、あれ? 私、万引きしてない、鳩もいじめてない、って気づいたんです。その感覚を知ることはとても大きなきっかけになっていると思います。

最初から悪魔のような子なんて誰一人いない

見渡せば、学校で問題を起こし、教師にいつも叱られているクラスメートや、いわゆる「グレて」しまっている子たちがたくさんいました。でも、そんなふうに自分のせいにするのは違うのではないか、そうしたくて暴れている人なんていないんじゃないか、高橋さんの目にはそう写りました。

環境やストレスや周囲の関わり方によって人はどんなふうにも変わる、そのことを高橋さんは自身の体験から、実感として持つようになっていたのです。

学校で教師に悪者扱いされている子たちは、自分のことを『俺ってバカだから』とか『ダメな人間だから』なんて言うんです。そういう子たちを集めて、『いや、あんたダメじゃないよ』なんて言ってました(笑)。

当然、『お前、何さま』」とか『うるせー』とか怒られて、聞いてくれないんですけど。でも振り返ってみると、その子達も家庭環境が複雑だったり大変な思いをしていたりしたんです。当時は適切な言葉も知らず何の知識もなかったけれど、何か伝えたいという気持ちだけで動いていました。

【写真】微笑んでインタビューに応えるたかはしあみさん

どう伝えたらいいのかわからない。でも、「あなたも私もダメじゃないよ」ということを伝えずにはいられなかったという高橋さん。その強い衝動は今の活動の原点でもありました。

私は、父に『卓球をやめたい』と言えた。そして父もそれを受け入れてくれたからよかったけれど、あのまま暴言や暴力を受ける毎日だったら自分は確実におかしくなっていたと本気で思うんです。

当時は毎日、『卓球しなきゃいけないなら死んだほうがマシ』とか、父のことを『死んでしまえ』とさえ思っていました。だから少年犯罪を起こす子の気持ちが、自分のこととして感じられて。そういう精神状態や心理について知りたい、という気持ちは早い段階で芽生えていました。

「あすなろ荘」との出会い。職員の姿に衝撃を受けて

本当は美術大学に行きたかったという高橋さん。でもその希望がかなわず進んだ大学は、「福祉の東大」と言われるほど、全国から福祉の現場に就きたい若者が集まる場所でした。その中で常に居心地の悪さを感じていたという高橋さんですが、その運命の皮肉は、高橋さんを天職に導いていきました。

入ってみたら、思い描いていた大学生活とは全く違う4年間でした(笑)。全国から意欲に燃えた学生が集まってくるんです。その人たちとの温度の違いも辛かったし、もっと嫌だったのは、講義をしてくれる多くの教授の言っていることが何一つ自分にはピンとこなかったということ。人間を相手にする仕事だからコミュニケーションが大事だと言われても、先生が伝えようとしてることが私には届かない。その矛盾が苦しくて、今思うと嫌な学生なんですが、そんなことばかり思っていました。

3年次には、“不祥事”を起こし1年間停学になったという高橋さん。4年生になって現場実習をする際も、「あなたみたいな学生を受け入れている施設は、ここしかないから」と一方的に配属先を言い渡されました。それが、のちに、高橋さんがケアワーカーとして勤めることになる自立支援ホーム「あすなろ荘」でした。

支援をするために、自分自身と向き合い大切さを知った。

そこで出会った子たちの生まれ育った環境が、本当に過酷で衝撃を受けました。私も辛い思いをしてきたと思っていたけれど、そんなの何でもないというくらい、本当に厳しい貧困や虐待を経ている子たちも多かったんです。

深く傷ついた心と体を回復してもらうため支援をする。そのことはキャンパスでも学んでいたはずですが、それを実践することは、言葉にするよりはるかに困難なことでした。実習生として途方にくれる高橋さんの前に、体を張って入所者の子どもたちと向き合う職員の姿が目に焼きつきました。

当然、傷を負っている子たちは、関係を築くのも難しくて。死にたいと思っている子もいるし、穏やかになんていかないんです。それでも職員の人たちは身体と言葉と行動で、信頼関係を築こうとしていました。

激しくぶつかり合うことや怒ることも日常的にあったけれど、翌朝にはおにぎりを作ってあげて、それを昨日暴れていた子たちも黙々と食べている。腹が立つことも何もかもひっくるめて向き合い続けてる姿が、暮らしを作るということなんだ、と本当に職員の人たちが輝いて見えたんです。

自分と少ししか年齢が違わない子たちの壮絶な人生や、心に持つ苦しみを聞くことは、簡単にできることではありません。ずっとうちに秘めてきたことを、ふとした瞬間に話してくれることがある。当初、高橋さんはひたすら、話を聞くことしかできませんでした。

でも、職員の方に、『そのままのあなたでいい』と言われたんです。言葉で取り繕うようなことを言ったり、わかったようなことを言ったりしたら、彼らはすぐに見破るし、そういう人は信頼しない、って。知識なんて二の次で、そのままのあなたで向き合ったら良いよと。だから本当に普通に、わからないことはわからない、と言い、教えてほしい、と言いながら話をするようになりました。

私が聞いて何かが解決するわけではないけれど、そういう時間を過ごすことの大切さを経験させてもらえた貴重な時間でした。

実習を通して、高橋さんは初めて、自分自身に向き合うようになったと言います。過去を振り返り、自分と親との関係を見つめ直し、親への思いを認めて、手放せる思いは手放し、そして自分はどういう人間かを知る。

遠回りのようでいて、その過程が、高橋さんにとっては必要なものでした。

「あなたはこの仕事が向いていると思う。続けてみない?」そう言われて、しかし、高橋さんは決心がすぐにはつかなかったと言います。

やっぱり、本当に大変な仕事なんです。とてもじゃないけれど、自分はこれを続ける器ではない、と思いました。

5年間の空白。この期間があってこそ踏み出せた支援員としての一歩。

大学を卒業し、地元の岐阜に戻った高橋さんは、そこから5年間、福祉とは全く異なる仕事をし、自分の人生を楽しむことに徹しました。

フリーターみたいなことをして、お金を貯めては海外旅行をしたり、カフェで趣味のお菓子を販売したり。とにかく楽しいと思うことを何でもやりました。でも、楽しいことはもうやりつくしたな、と思った時、ふとムクムクと自分の中で思いが湧き出てきたんです。『あなたのやりたいことは、これでしょ』って。

“これ”とは、再び、児童福祉に関わることでした。

それまでも少年犯罪の事件や、児童福祉施設での虐待の事件などをニュースで見るといつも揺れる想いがあったんです。でも気づかないようにしていた。気にしていたけれど、自分には無理だと逃げていたんです。それが、ふと『もう、いいんじゃないかな』と思えたんですよね。『よし、やろう』って。

【写真】真剣な様子でインタビューに応えるたかはしあみさん
上京し、向かった先は、あすなろ荘でした。

福祉の道で働くなら、あすなろ荘だ。そう心に決めていた高橋さんは、なんでもいいからやらせてくださいと頭を下げ、人生をかけた支援者の道へと進んでいきました。

遠回りしたようでいて、5年の間にとことん自分と向き合えたことは、すごく大切だったと思うんです。ケアワーカーはやっぱり友達でも親でも先生でもない存在です。あれもこれもやってあげたいと思っても、福祉には必ず限界があります。目の前にいる人の人生に絶望してしまいそうなときもある。でもそこで、自分を保てないと支援はできません。

だから、自分ができるのはここまで、という限界を知り、その中では精一杯やる。ケアワーカーとしてできることとできないことを見極め、できないことはきちんと伝えることも誠実な支援だと私は思っています。その自分のキャパシティやウイークポイントを知ることは大切で、そのために自分の時間を持てた5年間が必要だったと思っています。

相談者と支援者であっても、人間同士の信頼関係を築くことが大切

あすなろ荘での9年の勤務を経て、ゆずりはを立ち上げた高橋さん。現在は、岐阜に住まいを構え、パートナーと二人のお子さんを育てながら、新幹線で通勤しています。

無料夕食会や、相談会、高卒認定資格取得のための無料勉強会など、事務所を公開してのステップアップのための支援もありますが、主には連絡を受けた相談者との個別相談の時間がほとんど。国分寺にある事務所に来る交通費や時間が工面できない人がほとんどなので、こちらから出向いて話を聞きに行く、と言います。

ゆずりはに来られる交通費を持っていない人もたくさんいます。ホームレスなのだけどこの状況をどうしたらいいか、予期せぬ妊娠をしてしまった、保証人がいない、など深刻な相談ばかりです。相談は1回で終わるということはまずありません。

言葉で表しきれない、見えにくい困難さを紐解いて、必要な支援を共に整理し、一緒に保健所や病院や行政の窓口に向かって解決するまでやり取りを続けていきます。特に初めて出会う相談者の方とは、まず信頼関係を結ぶところから仕事がスタートします。

ギリギリのところまで追い詰められた相談者との信頼関係を築くことは当然、一筋縄ではいかず、近年ではアフターケア支援をする団体やNPOも少しずつ増えてきたものの、どこも関係性の構築には、苦労が絶えないと言います。助けを求めるその人たちの苦しさの矛先が、支援する側、高橋さん自身に向けられることも少なくありません。

苦しい環境下で育ってきた人たちは、他人との距離の取り方や接し方が難しいところがあります。反発し怒りを露わにしたり、逆にすごく密接な関係を求めてくることもあります。これまで人に頼りたくでも頼れなかった、という人は不安で仕方がないんですね。毎日電話をかけてきたり、メールをすぐに返さなければ怒鳴られたり脅されたりということもあります。

【写真】インタビューに応えるたかはしあみさん

高橋さんはそんな中、毅然とした態度で接すると言います。自分を保ち、自分自信の暮らしを大切にする。その切り替えがなければ、ケアワーカーは決して務まらない、と考えているからです。

私は支援者でもあるし、二人の子どもがいて家族がいる一人の人間でもある。ゆずりはのことを精一杯やって相談者に向き合うのと同じくらい、家族との時間も大切にしています。住み分けは完璧にとはいきませんが、相談者の人生を自分の人生に重ねて背負うことはしてはいけないと思っているんです。

たとえどんなに困難な状況下で生活していたとしても、人を脅したりしてはいけないし、信頼するということは全部を委ねることではない、ということも含めて伝えながら、信頼関係を築くようにしています。

そうして寄り添ってくれる高橋さんのことを、多くの人が信頼し、自分の人生を取り戻そうとする姿を見せてくれいます。

必要に応じて生まれた新たな活動は、「ゆずりは工房」での就労支援

【写真】瓶詰めされたゆづりはのジャム。とても美味しそうだ

最初は小さな相談室から始まったゆずりはですが、この6年の間に様々な支援プログラムが生まれ、次々と活動を広げています。2年前からは就労支援プログラムである「ゆずりは工房」を開設。武蔵野エリアの農家から野菜や果物を譲り受けて、ジャムを作り、その瓶詰めなどの作業を通して、就労の手助けをしています。

【写真】ゆずりはのカウンターで作業する3人の利用者さん

私たちが訪れた際に、カウンターで作業をしていた女性たちも、そこで働く利用者さんたちでした。

就労支援をしていて、企業に就職が決まったはいいけれど、過去のトラウマやPTSDのせいで、精神的なケアが必要だったり、休んでしまったりすることで、会社内でトラブルが発生して辞めてしまう人がとても多いんです。働きたいけどどうしてもできないという人には、その人のペースで仕事ができる場所が必要じゃないか、そう思って、工房を立ち上げました。

ここで働く人の中には生活保護を受けている人もいます。工房での仕事をステップとして、一般就職ができるようになる人もいれば、そうではない人も。それでも、定期的にこの場所に来て働くことで、自分の役割を持てることや、社会への繋がりを感じることが、利用者の方の支えになっています。

【写真】真剣な表情でインタビューに応えるたかはしあみさん

普段は支援をされる側にいる人は、自分自身が社会の中で担うものがあるということが何よりの活力になるんです。ここに通うことで、心身の回復に繋がった方や、不眠の頻度が減ったという方もいます。だから、私は今、何も再就職ができることが、ゴールじゃないんじゃないかと思うんです。利用者の方に無理な目標設定を押し付けることはしたくない。あくまでそれぞれのペースで安心して働くことができたらと思っています。

親だって、自分の人生を楽しむことが社会の中で許されていい

これまで、高橋さんのお話を伺ってきて見えてきたように、無条件で自分を愛し守ってくれる存在を幼少期に感じられずに育つということは、その人の人生にとても大きくくらい影を落とします。そうした環境下で育った人たちをできる限り支え、暮らしを営む力、安心できる人間関係を取り戻してもらおうと奮闘する一方で、高橋さんは、子どもと愛着関係が結べない親たちのことも、社会が支える必要があると考えています。

ゆずりはでは、4年前から虐待や不適切な養育をしている親を対象とした「MY TREEペアレンツ・プログラム」を実施しています。これは、親のセルフケアと問題解決力を回復し、虐待的言動の終止を目的としています。

虐待をしてしまう親もまた、子どもを愛したいのに大切にしたいのにそれができないと苦しんでいるというのも事実です。子育てに苦しんでいる親に、子育てはこうあるべきだと押し付けるよりも、まずは親自身が健康で元気でいるかどうかを見るということが大切だと思っています。

自身の育ってきた家庭環境、パートナーとの関係、過去のトラウマなど、虐待をしてしまう親には、その人自身の辛い経験があることがほとんどだ、と高橋さんはいいます。

一つ一つの理由を紐解いていくと、自分が健康でいられない理由がわかって。そうした苦しみや怒りの裏側にある感情に気づくことや、押し付けの価値観を手放すことで、自分を労ったり、自分にお疲れさま、と言えるようになる。自分を大切にしていく感覚が芽生えたとき、子どもとの関係も変えていくことができるのだと思います。

プログラムが終われば、すべてが解決して決して暴力を振るわなくなるということではなないかもしれません。でも、お母さんたちは確実に変わります。別人かと思えるくらい綺麗な晴れ晴れとした顔になる、ぐんと素敵な女性になる、柔らかな表情になる。このプログラムは毎年続けていきたいです。

【写真】花瓶に飾られている小さな花が太陽の光を浴びて暖かい空気を作り出している

新聞やwebで告知をしたり、児童相談所や児童館に置いたチラシからプログラムのことを知り、プログラムに参加したお母さんたちは5年間で40人ほどになるそう。

虐待は個人だけの問題ではなく、もっと社会的なしくみのなかで生まれる大きな問題だと感じています。だからこそ、こうあるべき、という家族像や親像を押し付けすぎるのはやめたほうがいいと思う。親自身も生活や子育てもっと楽しんで、自分を大切にしていいんだよ、ということを伝えていけたらいいと思っています。

「生まれてきてくれてありがとう」ではなく「生きていてくれてありがとう」

幼少期に受けてきた心や体への傷が、その人の人生にどれだけの影響を与えるかは計り知れないものがあります。施設を巣立ったから、大人になったからといってその苦しみから逃げられない人がいるという事実は、今、決して他人事ではありません。

高橋さんの願うことは、ゆずりはを頼ってきてくれる人たちに、まず「生きていてほしい」ということだけだと言います。

『生まれてきてくれてありがとう』っていう言葉がありますよね。親が子供に伝える言葉で。でも施設で出会った子たちは、この言葉が大嫌いだというんです。産んでくれなんて頼んでないし、産んだんならなんでこんなふうにしたんだって、悲しみと怒りを抱くんです。それを聞いて、ああ、それは大人側の勝手なコメントなんだなって気付きました。

だから私は、いつも相談してくれる人たちに『これまで生きていてくれてありがとう』と伝えています。10歳の子にも15歳の子にも、30代や40代になっていても、同じように言いたいんです。

家族の中で居場所がなく、自分には価値がない、死んでしまいたい、そう思いつめながら、それでも生きてきた人たちの過酷さを、別の人が心底理解することは難しいのかもしれません。でも、それでも自分の力で生き抜いてきた人たちの尊さに、高橋さんは、敬意をはらいたい、出会えたことを嬉しいと伝えたいといいます。

【写真】瓶詰めの作業を利用者さんに教えているたかはしあみさん

そんなこと言って、うるさい、なんて言われますよ(笑)。『でもしょうがないじゃない、私はそう思うんだから』って、伝え続けています。生きていてくれたから、話もできるし、ケンカもできる、一緒にジャムも作れる。支え合うことができるということだから。

多様化するかぞくのあり方を、支えていける社会を目指して

「かぞくとは何か?」これはとても大きな問いです。

虐待や親との離別といった過酷なものでないとしても、多くの人が、血縁のある家族のあり方について悩んだり、苦しんだりした経験を持っているはずです。その裏に「家族はこういうもの」という理想像や、それを手に入れられない絶望が潜んでいるのも確かです。

血のつながりだけではない温かい「かぞく」のあり方を、社会はどう支えていけるのでしょうか、その大きな問いに高橋さんはこんなふうに答えてくれました。

さっきも言ったように、家族の問題には、社会的な背景も大きく起因しています。子どもは親を選べません。『なんでこんな家に生まれてしまったんだろう』と苦しむ子がいなくなるのは、正直、難しいと思います。

でも、家族は選べないけれど、自分を受け入れてくれる人や、出会えてよかったと思える人はきっといる、ということを私は伝えたい。それを伝えられる社会は作れると思うんです。血縁関係がなくても、育み合い、つながり合う社会は、私たち個々が、作っていくことはできるはず。きっと、誰もが、そこに寄り添える立場になれると思うんです。社会の誰もがそこにその人なりの寄り添い方が、できたらいいんじゃないか、と思って、私は活動を続けています。

【写真】微笑んで立っているたかはしあみさん

自身も幼い頃に家族との関係に悩み、苦しみ、自分自身と、苦しい人生を歩む人たちに真摯に向き合ってきたからこそ生まれてきた高橋さんの言葉に、ハッとするものがありました。

「アフターケア相談室ゆずりは」の入り口には、背の高いグリーンが輝いています。

新芽が生えてくると、古くからある葉は枯れて、新芽に太陽の光が多く当たる場所を「譲る」ゆずりはの木。この木のそばに立って、集まってくる人たちを迎え入れる高橋さんの笑顔は、新しい可能性を持って育ち羽ばたく人たちの可能性を見守ってくれているようでした。

【写真】ゆずりはの事務所の前で笑顔で立っているたかはしあみさんとライターのたまいこやすこさん

(写真/馬場加奈子、協力/百合本麻莉子、監修/特定非営利活動法人 SOS子どもの村JAPAN)

関連情報:
アフターケア相談所ゆずりは ホームページ
自立援助ホームあすなろ荘 ホームページ

<1>親と暮らせないこの子たちに、安心できる家庭をつくってあげたい。「子どもの村福岡」で里親をする田原正則さんと子どもたちの日々

<2>キックオフイベントのレポート:地域の多様なひとが「かぞく」や子どもの育ちに関わる社会に。SOS子どもの村JAPAN、よしおかゆうみさんと考えるかぞくのあり方

<3>福岡は「里親」先進都市って知ってました?まちぐるみで子どもを育ててきた地域の軌跡

<4>この保育園はまるで“家族”みたい。夜の歓楽街をやさしく灯す「どろんこ保育園」という親子の居場所

<5>日本でただ一つ、匿名で赤ちゃんを預かる「こうのとりのゆりかご」に託された思いとは?ひとりで妊娠・出産に悩む女性のためにできること

<6>生みの親にも育ての親にも「ありがとう」と伝えたい。特別養子縁組を結んだ家族と暮らしてきた近藤愛さん

soarと認定NPO法人SOS子どもの村JAPANは、「もう一つの“かぞく”のかたち〜これからの社会的養育について考えよう」と題し、子どもたちにとってより望ましい「“かぞく”のあり方」とは何か、読者のみなさんと一緒に考えていく企画を展開しています。

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