【写真】ビーチで笑顔のきど夫婦

毎日、私たちは何気なく生きていて、必ず明日が来ると思って眠りにつきます。

でも突然に事故のニュースを見たり、誰かの訃報に触れる。すると、実はそんな考えは間違っているのだと気づかされます。

悲しいことは、自分自身にも、家族、友人にも、同じように起きる可能性がある。

例えば、かけがえのない相手が大きな事故に遭ってしまったとしたら。命にかかわるような、怪我をしてしまったとしたら。

すぐに頭を切り替えて、全力で相手を支えようと思えるわけではなく、きっと時間がかかってしまうだろうと思います。

soarでこの夏取材させていただいた、神戸・須磨海岸で行われた車椅子ユーザーも海を楽しめるようビーチマットを敷く「須磨ユニバーサルビーチプロジェクト」。

【写真】砂浜にビーチマットを敷いて車椅子で移動するきどしゅんすけさん

この取り組みを実現させたひとりである木戸俊介さんは、突然の事故で下半身麻痺となりました。そんな辛い状況のなかでもこうしてポジティブな挑戦ができるのは、妻である彩さんの存在が大きいといいます。

大切な人とのパートナーシップについては、多くのひとが悩むテーマ。お二人が困難をどんな風に乗り越え、支え合って生きていきたのか。

8月の暑い日、お二人の住む神戸・須磨海岸にお邪魔して、お話を伺ってきました!

「車椅子で最高の人生、歩いてもっと最高の人生」がテーマ

とても爽やかな笑顔で、私たちを出迎えてくれた木戸さんご夫婦!とても明るく快活なお二人は、一緒にいるだけで元気になってしまう、ポジティブな空気感があります。

夫の木戸俊介さんは、神戸出身で小さな頃からサッカーひと筋。筑波大学のサッカー部でご活躍された後は、大手の広告代理店でバリバリと働いていました。

【写真】サッカーの試合に出ているきどしゅんすけさん。

妻の木戸彩さんも同じく神戸出身。アメリカのノースアラバマ州立大学に進学し、学生時代はずっとバレーボールに打ち込んでいたそうです。以前はアパレル会社でマーケティングを担当していました。

実は彩さんと俊介さんの出会いは、地元であるこの須磨海岸!結婚して東京で楽しい毎日を送っていた2年半前、俊介さんは大きな交通事故に遭いました。「命があるだけで奇跡」と言われたほどの大きな怪我を負ったことで下半身不随となり、今は車椅子で生活をしています。

事故のあとお二人がどのような道を歩んできたのか、そして現在の活動まで、たくさんの海水浴客でにぎわう須磨海岸の海の家で、お話を聞かせていただきました。

インタビュアー椎名絵里子(以下、椎名):事故に遭われる前、まずは、お二人の馴れ初めから伺ってもいいですか?

【写真】笑顔でインタビューに応えるきどしゅんすけさんときどあやさん

木戸俊介さん(以降、俊介):そうですね。異性の中で、自分が嫉妬してしまうような人生を生きている相手に初めて出会ったと思いました。すごく面白い人生で、バイタリティ溢れているところがいいなと、それが決め手ですね。

僕自身は大学までサッカーをして、最終的にインカレで準優勝しています。そんな経緯もあって、「自分はサッカー人生で有終の美を飾った、それから僕は就職をしたんだ」という話を彼女に話したんです。そうしたら、彼女はアメリカの大学に通っていたという話を聞いて、そしてバレーボールをしていてアメリカでも続けていて。最終的に全米2位になったと。

しかも、そのあと大学の学部を首席で卒業したというんです。僕の話を全部超えられてしまった!と衝撃でしたね(笑)

木戸彩さん(以降、彩):私は海外で生活していたので、男性に負けないくらいのバイタリティを持って仕事もしたいし、社会の役に立ちたいとずっと思っていました。私は英語ができるようになりたくて留学していて、一方で彼は、サッカーひと筋で生きていて、続けるという才能は誰もが持っている訳ではないと思っているので、お互いがそれぞれ、一つのことを続けて来たことに共通点を見出しました。

椎名:知り合ってどれくらいでご結婚をされたんですか?

俊介:出会ってから、約1年後に付き合うようになりました。付き合ってからは3週間で結婚を決めたんですよ。

交通事故を境に、暮らしが一変した

【写真】当時のことを思い出し、少し辛そうな表情をするきどあやさん

椎名:3週間で!!そうだったんですね。俊介さんが事故に遭われたのは、結婚してからどれくらい後のことだったのですか。

彩:結婚してから3年後です。2015年4月4日。桜が満開だった日です。その日、夫が朝方になっても帰ってこず、心配になって夫の携帯電話に電話したところ警察から「ご主人が事故に遭われて危険な状態です」と告げられました。

椎名:そう聞いて、気持ちが動転したりしませんでしたか?

彩:事故といっても、いろいろな種類の事故があるし、彼は運動神経もよいので、少し当たった程度かなと思ったんです。「主人はどのような状態ですか?」と聞いたら、「意識がなくて、命があぶないです。今すぐに病院に来てください」と。彼の携帯にはロックがかかっていた上に、家の電話番号も分からなかったため、「こんなにも早く奥さまから連絡をいただくことができてよかったです」と言われました。

椎名:きっと心配で仕方なかったですよね。

彩:とにかく、すごくショックで、親に電話をして、着替える元気もないから財布と携帯だけを掴んで家を出ました。

椎名:事故当時のことを俊介さんは覚えてらっしゃいますか?

俊介:実は、病院で目が覚めるまでの記憶はないんです。事故の直後のことは彼女の方がよく覚えているはずで。

彩:病院に着いた時は、彼は脳の検査をしていました。看護師さんからは「旦那さんの状態はまだなんとも言えません」となだめられてしまい・・・。容態を確認したら、肋骨は12本中10本が折れ、肩甲骨も折れ、顔は左半分が粉砕骨折をしていて目玉が落ちてしまうのではないかという状態でした。「この状態で無事に生きているのは奇跡ですよ。ただ一つ、足だけはもう動かない」と言われました。

椎名:突然の事故で、しかも足がもう動かない。一人でその事実を抱えていた彩さんも、つらかったですよね。

彩:はい。彼が意識が回復するまでは、1時間くらいかかりました。すごく傷だらけだったので、その姿を見るだけでショックでした。意識の回復する時を待っているときが、一番しんどかったです。頭も真っ白になるし、足が動かなくなるということに、「嘘でしょ!?」という気持ちでいっぱいでした。サッカーを愛する彼の足が動かない。昨日まで元気だったのに・・・。

椎名:意識の回復を待つ間や、その後のお見舞いを重ねていた時期は、どんなお気持ちでしたか?

彩:人って不思議なんですけれど、事故など不運な話って、どこかで聞いたことがあるはずなのに、多分、心のどこかで自分とは違う世界、ドラマの中での話だと思っていると思うんですよ。それが、実際自分の現実になると、やはり受け止められないんですね。意識が戻るのを待つ間もそうでしたし、戻った後の数日間も「これが夢であってほしい」と思いながら、朝を迎えていました。それくらい、受け入れるのに時間がかかりました。

毎日夢と現実が分からなくなる一方で、彼の会社や自分の会社への連絡はどうしようとか、加害者や警察とのやりとり、保険のことや、自分の人生どうなるのかな、などと考えていました。冷静に頭が働いていたので、いろんなことを考えてしまい眠れず、必死でした。

椎名:俊介さんは、目を覚ました時のことで覚えていることはありますか?

俊介:目を覚ましたとき、家族全員が自分のことを覗き込んでいたんです。家族がそろうという状態は兄弟の結婚式以来だったので、「そんなにやばいの!?」と思いました。事故の影響で、歯の噛み合わせもガタガタで気持ち悪く、体もしんどかったですし、ただただ、そんなに悪いんだ、俺・・・と思いながら仰向けに寝ていました。

その上、2週間は集中治療室にいたので、固定されて少しも動けないから、余計に、家族がそろっていたという景色だけはすごく覚えていますね。その景色を見たことで、自分は事故に遭ったんだと思いました。そのときは、先のことは考えられなかったです。

彩:体が動かない中でも脳への影響がなかったので、先に頭が働いて、仕事の心配をしていましたね。

俊介:当時、広告代理店で勤務していて、スポーツ関係の仕事をしていました。とあるゴルフ場のマップを制作するための入稿を控えていたのですが、事故当時は4月で、スポーツは3月から開幕戦が続いていたため、余計に「やばい、迷惑かかっている!」と思っていました。会社での直属の上司がお見舞いに来てくれたことから、よっぽど迷惑をかけているんだとも思いました。

「足はもう一生動きません」。その事実を受け止めるまで

【写真】砂浜で笑顔のきどあやさんと車椅子に乗っているきどしゅんすけさん

椎名:ご自身の症状について聞かれたのは、いつ頃のことですか? 

俊介:事故の2週間くらい後です。事故後、足が動かなかったので、一生足が動かないと言われた時には、「やっぱりか」と思いました。2週間ほぼ寝たきりだったので、確信は持てないし、家族もはっきりと言わないし。そのあとに、先生に「本当に100%動かないんですか?」って聞いたら、「ご家族にも話したのですが、人間の体なので、100%ということはないです」と言われました。そこで、「じゃあ、いいや!」と。「1%でも、2%でも可能性があるなら、自分自身は諦めずにやろうかな」という気持ちはありました。

椎名:もし、自分がそう言われたらと思うと、そんな風に考えられないと思います・・・。

俊介:個人的に思うのは、「先生の言っている100%って、今までの患者さんの中での100%だから、そこに自分はおらへんよな」と。僕自身は、「死ぬまで可能性は0ではないと思っているから、叶えられるまでは、一生リハビリを続けよう。そういう目標を持っている人もあんまりおらへんやろうな」と捉えていました。それに自分は、とりあえず歩けませんよ、と言われたところから、歩けましたよってなった方がイケてるなと思っていました(笑)。

椎名:すごくポジティブですね!本(※)で拝見しましたが、お医者さんから「もう歩けません」と言われたとき、俊介さんは即答で「命を救ってくださってありがとうございました!」と答えたそうですね。

※クラウドファンディングをした際のお礼として用意した非売品の本

俊介:なんとなく、歩けないことは分かっていたから、歩けない足を歩けるようにするチャンスがあるなら、次に行こうと切り替えていたんかなぁと思います。

彩:彼に足が動かないことをいつ言おうかと悩んでいたんですが、お医者さんに「言わないと次に進めませんよ」と言われたことの他に、言おうと思ったきっかけが2つあるんです。

1つは、毎日先生が回診にきて、彼は賑やかしい性格なので、楽しい話をしようと思ったのか、「こうやって瞳孔を調べたときに、亡くなっている方いるんですかね?」と聞いたら、先生が「いますよ。ICUってそういうところですよ」という話をされたんです。その時に、彼は、「こういう壮絶な場で日々命と向き合っていて、ふとした瞬間に命がなくなるかもしれない職場に身を置くことを仕事って呼ぶって、俺らが思っている自分たちの仕事とは相当レベルが違うことなんや」って言って泣いていたんです。

俊介:自分がやっていた原稿の入稿とかの仕事が、どれだけ小さいことなのかって思っていました。小さいからあかんとかではなくて、目の前のお医者さんは、生きるか死ぬかの人を相手にしているというのが、本当にすごいなと思ったんですよ。

彩:そのとき、彼はすごく泣いていて。たぶん、「生きないといけない」って自分の中で思ったと思うんですよね。

俊介:事故に遭ってからは、「死のう」と思ったことは一度もないですね。事故に遭う前よりかは間違いなく思ってないですね。

【写真】真剣にインタビューに応えるきどしゅんすけさんとそれを見守るきどあやさん

彩:もしも、自分が同じ状況だったら、周りの人のせいにしがちだと思うんですよ。「なんで俺が、なんでこの状況で」って思うのに、そこで、助けてくれた人に感謝できるところや、お医者さんの仕事に目を向けられることに、すごいなって正直に思ったことが、1つめのきっかけです。

椎名:本当に、そうですね。

彩:2つめは、私が内緒にしている間、看護師さんに「僕って足が動かないんですか?」って何回も聞いているっていうことを、お医者さんから報告受けたんです(笑)

俊介:僕は早く知りたかったんです。早くスタートを切りたかった。

彩:彼は、お医者さんに「うちの母や嫁は、足が動かないことを伝えたらすごく動揺するから、もしそうであれば、僕に最初に伝えてください」と言っていて、自分のことより、周りのことを思っているんだったら、伝えても大丈夫かなと思って、伝えました。

「思ったより強いな」。気持ちの浮き沈みと付き合う時期を経て

椎名:当時のことで覚えていることが他にもあったら教えてください。

俊介:足が動かないとわかってからの切り替えは早かったのですが、夜になると1人になるので、最初の頃はリハビリと誰かがお見舞いに来てくれることが唯一の生きがいでした。人と話して、「今日はこれをやって、これをできるようになって」っていう話をして、元気をもらって。お見舞いにきた他の友達から「木戸が前向きに頑張っているって誰々から聞いたわ!」と言われるんです。

椎名:嬉しい一方で、頑張りすぎている一面もあったのかもしれないですね。

俊介:そうなんです。誰に会うときも気が抜けないんですよ。モチベーションが上がりっぱなしというか、「じゃあ次はこれしよう、次にこれしよう」と思って、モチベーションを維持していました。でも、夜になると、1人になるので、「ほんまに歩けへんかったらどうしよう」と泣いたこともありました。切り替えは早かったけど、リハビリ中の2〜3ヶ月は浮き沈みがありました。

椎名:そんな俊介さんを見ていた彩さんのお気持ちはどうでしたか?

【写真】真剣な表情でインタビューに応えるきどあやさん

彩:思ったより強いな、という印象はありました。例えば、入院してから初めての食事のときに、「食べる元気が無くて、残すだろうな」と思っていたんですけど、犬みたいに食べたんですよ(笑)!

椎名:俊介さんらしいエピソードですね(笑)。

彩:でもそれは、体をうまく動かせなくて、お箸を上手に持てないからだったんですけど、そのときに手伝おうとすると、「やめてくれ、これは俺にとっては生きるための一歩やねん。本当は、全部食べて、おかわりもして、看護師さんに、なんなんあの患者、すごいやんって言われたいねん」って。

彼の負けず嫌いはすごいなって思いました。こんな目に遭ってしまって、自分の状況を知ったら、「俺あかんわ、死にたいわ」って言うかなと思って接していた分、「こんなに生きようとしているのに、自分が悲観的に考えたらダメだな」って思わされた瞬間でした。

生活をつづけていくためのリハビリは、長い長い道のり

【写真】インタビューに真剣な様子で応えるきどしゅんすけさんとそれを見守るきどあやさん

椎名:それから歩くためのリハビリが始まって。

彩:いえ、それよりも前にやるべきことが沢山あるんです。彼のように脊髄損傷の人が救急車で運ばれる場所は大抵の場合が総合病院です。約3ヶ月様子を見て、どのくらい足を動かせるかを確認してから、一生足が動かないのかどうかの判断がされるんですね。3ヶ月は総合病院で過ごして、体全体のメンテナンスをして、そのあとに脊髄損傷専門のリハビリのための病院へ行きました。

椎名:リハビリは、とても長い道のりなんですね。

彩:彼の場合は、脳の出血が止まり体の怪我が落ち着くまで、様々なことがあったので。事故から2週間後にICUを出てから、少しずつリハビリが始まりました。トータルとしては8ヶ月入院をしていました。脊髄損傷になると、血圧のコントロールができなくなります。なので、寝たきりだった姿勢から急に座る姿勢になると、ブラックアウトといって、気が飛んでしまうんです。だから、両手足をベッドにくくりつけて徐々に起こしていくというリハビリから始まります。

俊介:足のリハビリは、もう歩けないとお医者さんに言われたので、リハビリ病院でもあまりやっていないです。でも僕がどうしてもやりたかったから、お願いして最後の2〜3ヶ月はやらせてもらいました。その前は、ほとんどが、車椅子を使う練習や、ベッドから起き上がる練習など、身の回りのことをできるようになるためのリハビリでした。

椎名:完全麻痺か不完全麻痺かで、リハビリの処方が分かれてしまうのですね。

【写真】インタビューに真剣に応えるきどあやさん

彩:総合病院で行われる3ヶ月ほどの生活をするためのリハビリの期間で、足に反応があったり動いたりしたら、不完全麻痺という形で歩くリハビリをやってみることになるんです。でも彼の場合は3ヶ月足の感覚が戻らなかったので、病院の先生としては、「足のリハビリをするよりは、残された部分を使ってどう生活するのか」というリハビリをする指示が出ていました。

椎名:リハビリ生活で大変だったことはどんなことですか?

彩:リハビリが大変というよりは、あまり知られていないと思いますが、排泄コントロールができないことが大変でした。いつ排泄物が出ているのかも分からない、その失敗の方がメンタル的にきます。若い女の看護師さんが、自分の漏らしたものを片付けていることや、リハビリ中に漏らしてしまって、匂いとかで分かってしまったりして。申し訳なさで、一時期彼は、謝ってばっかりだったんです。

俊介:寝たきりの期間では、誰も見ていないところで処理してもらうので、自尊心が傷つけられることはなかったです。ですが、リハビリための病院に移り、「これからは自分自身で身の回りのことをやってもらいますよ」と言われてからは恐怖でした。いつ漏れるか分からない、お見舞いに誰かが来てくれるけど、お見舞い中に漏れたら自分は病室に帰らなければいけない。キャラもあるから、明るく振る舞えるけど、続くと落ち込みました。排泄がコントロールできない状態で、社会に復帰できるのか、このままではお先真っ暗だと思うこともありました。

椎名:それで彩さんは、栄養学を学ばれたんですよね。栄養学を知ることで、排泄コントロールはどれくらい変わるものなのですか?

彩:全然違います。水分の量もそうですし、油物への反応など。食事日記をつけると、何がダメだったのかが具体的に分かるようになるんです。例えば一般的には、体にいいものとされていても、彼の体には合わないものもある。そういうことをトライし続けているんです。

俊介:病院食の時は、薬で排泄コントロールしやすいようにしていましたが、食べ物によってはどうしようもできないときもありました。退院したら病院食は食べられないですから、自分の体に合うものが何かをトライし続けなければいけないんです。何回も試していたときは、食生活のことしか考えられなかったですし、多くの失敗をして落ち込んでいました。彼女がよくしてくれることが、本当にありがたかったです。

椎名:そうですね、伺うほどに、彩さんの一生懸命さが伝わります。

彩:彼のために何かできないかと思って学び始めたんです。

俊介:当時、先生との相性もよく、今やっているリハビリを頑張れば、歩くためのリハビリもできるようになるから、と思いながらリハビリをしていました。ただ、その時々で、排泄の問題が出ていたから、「これと一生付き合わないといけないのか」とイヤでしたね。今はだいぶ良くなって7割くらいは大丈夫なのですが、外出時間が長いなど、不安なときには、オムツを履くようにしています。失敗の不安より、オムツを履く恥ずかしさを選ぶことにしましたよ(笑)。

「できないことができるようになる可能性」を求め、海外でのリハビリを選んだ

【写真】砂浜でビーチマットの上を歩くきどあやさんと車椅子に乗って移動しているきどしゅんすけさん

ビーチマットに出会ったのも、リハビリ先に選んだオーストラリアだった

椎名:完全麻痺と診断され、歩くためのリハビリはほとんど受けられない。その様子を見ていて、彩さんが次に考えたのが、海外でのリハビリだったと。

彩:以前彼が働いていた職場は、車椅子の人の受け入れ態勢も整っていたので、戻ることもできたんです。それはそれで楽しい人生ではないかなとも思ったんです。

ただ、彼には「絶対歩いてみせます!」という目標があるので、以前働いていた職場に戻った後、リハビリの時間が取れるのかと考えたときに、難しいなと思いました。2人の中で、「これで終わって本当に後悔しないのかな」という気持ちがあったんですよね。

椎名:やっぱり2人のなかでは、「歩きたい」というのは大きなものだったんですね。

彩:事故当時から、「本当に歩けないのか?」という疑問はあって、多くの病院の情報やニュースを集めたり、問い合わせたりをしていました。当時はすごく焦っていて、海外の友達に助けを求めたんです。そしたら海外には脊髄損傷専門のジムがあることを知り、アメリカに行くという選択肢が生まれました。

椎名:リハビリのために海外に行く、なかなか大きな決断ですよね。

彩:海外でリハビリをしたら?と彼に勧めたとき、留学経験がある私の中では狙いがありました。障害があるとどうしてもできないことへの悲しみに目が向きがちだけど、「できないことをできるようになること」自体に目を向けたいと思ったんです。自身の留学経験では、他の何にも変えられないほどの多くの経験ができたと思っていたので、彼の性格上、最悪歩けなくても、海外での生活は彼にとってよいものになると思っていました。

自分たちのタイミングと意識とお金をここで使わなかったらいつ使うんだ、と思って決意しましたね。同時に、他の人にとってもいい情報にもなると思ったんです。そして、彼に伝えたら、「海外でのリハビリ、かっこええやん!」と言われて、案の定やなと思いました(笑)。

【写真】インタビューに真剣に応えるきどしゅんすけさんと微笑んでいるきどあやさん

椎名:彩さんが俊介さんの性格をちゃんとわかっているからこそ、できることですね(笑)。

彩:そんなことを考えてたら、あるとき友達との食事中に、偶然、隣の席で、外国人の車椅子の方が同伴者にご飯を食べさせてもらっている場面に出会ったんです。それを見て思わず、「私は英語を話せるから困ったことがあったらなんでも言ってね」と言ったんです。

話していくうちに、その車椅子の方が、オーストラリアで再生医療について研究していることがわかりました。自分の旦那さんも脊髄損傷で歩けないこと、アメリカの施設へ行ってリハビリをしようと思っていることを伝えたら、「僕はその施設のことも知っているし、オーストラリアにもある。オーストラリアの方がコストも安いし、環境もいいから」と誘われ、急遽アメリカとオーストラリアに行くことになったんです。

椎名:運命的な偶然ですね!そこからすぐオーストラリアへ行かれたんですか?

俊介:いや、まずはアメリカとオーストラリアへ、視察として5日間ずつ滞在しました。やってみないとわからないから、2日間ずつトレーニングを体験してみました。

彩:現地での移動距離や雰囲気、住む場所の目処があるのかを考えるためにも、まず行ってみたんです。

俊介:オーストラリアでは、彼女が出会った車椅子の外国人との出会いも含めて、5日間で人との繋がりがものすごく広がって、自分たちが住んでいるイメージも湧きました。それがきっかけとなってオーストラリアで頑張りたいと思って、直感で決めたんですよ。

【写真】オーストラリアで出会った友人ときどしゅんすけさん。

海外で待っていたのは、かけがえのない経験と出会い

椎名:海外の人たちとの出会いの中で、どんなことを感じましたか?

俊介:僕は事故にあって落ち込んでいた時期は「あと少しずれていたら、歩けていたのにな」と思っていたんですよ。でも様々な障害者の方と会うなかで、もしずれていたら、脳に麻痺があったかもしれないし、死んでいたのかもしれないということを痛感しました。

それに出会ったオーストラリア人の彼が、自分と同じ状況でも世界中を飛び回って研究費用を集めて、再生医療の研究をしていることを聞くと、「自分は何をしょうもないことで悩んでんねん!」と思ったんですよ。「自分たち夫婦もオーストラリアへ行って、なかなかイケてる人生を送ってんで!」と周りに言いたかったんです。結果的に、ビーチマットや多く友達との出会いもあって、心から行ってよかったなと思っています。

「障害のある今の自分も最高にクール!」海外でのポジティブな価値観との出会い

【写真】座ったままリハビリでボクシングをするきどしゅんすけさん

椎名:それで本格的にオーストラリアでリハビリを始めることになって。実際、内容はどんなものだったのですか?

俊介:内容はその全てが、もう一度歩くためのリハビリメニューでした。例えば、動かない足を動かすトレーニングとして、「トレッドミル」というランニングマシンを使用し、ハーネスで体を吊り上げた状態で歩くトレーニング。他にはコアトレーニングなど、脚以外の箇所を強化するトレーニングもしました。 正しい姿勢で歩行するために必要な体幹の筋肉を鍛える、というように、実際に歩いたり、歩くために必要な筋肉を鍛えたりと、その全てが再歩行に直結している実感がありましたね。

椎名:他にも日本との違いを感じたことはありますか?

俊介:最も違いを感じたのは、リハビリの内容よりもリハビリに対する患者のスタンスです。障害に対する受容度といってもいいと思います。

椎名:と、言いますと?

俊介:日本だと、リハビリの目的が社会復帰するための、自立するためという位置付けがスタンダードです。どこか、障害のある今の状態をマイナスととらえ、人に迷惑のかからない、ゼロの状態を目指してリハビリをしている印象を受けるんです。 でも、オーストラリアでリハビリをしているメンバーは、誰も障害のある今の自分をマイナスなんて思っていません。「障害のある今の自分も最高にクール!」という考え方がベースにあるんですよ。その上で、「自分のやりたいことを実現するためにリハビリを続けている」という印象を受けました。

椎名:例えば、どんな方がいらしゃいましたか?

俊介:いつも一緒にリハビリしていたアンディは、元々モトクロスバイクに乗ってフリースタイルでジャンプを行うプロのライダーでしたが、ジャンプの大会中の事故で脊髄損傷になりました。なのに、今もリハビリをしながらジャンプをしています(笑)

椎名:それは・・・すごいですね!

俊介:彼はこう話していました。「今の自分は、以前の自分よりもうまくジャンプをするのは難しい。でも、上半身だけでドリフトするとか、ジャンプすることが以前よりも難しいからこそ、チャレンジする価値がある。だから今の自分は、以前の自分よりも多くの人たちを勇気づけるコトができる」って。

椎名:ものすごく前向きで、力強い言葉ですね。

俊介:そう、まさに、自分のやりたいチャレンジを実現するためにリハビリを行っていたんですよ。そんな周りの仲間の空気感が、今の自分を最高にポジティブにしてくれたと思います!

椎名:そういった日本とは異なるリハビリ期間を経て、どんなことを思いましたか?

俊介:ケガをして、8ヶ月もの入院期間に、僕は「車椅子で最高の人生、歩いてもっと最高の人生。」という人生のスローガンを思いつきました。 車椅子になったコトを後悔するのではなく、車椅子でよかった!と思えるような人生にしたい。だからまずは、今の車椅子の人生のなかで、最高のエピソードをたくさんつくっていきたいと考えたんですね。

オーストラリアに行ったことで、異国の地で一生の仲間ができました。英語でのコミュニケーションがとれる、というだけでなく、最高に楽しい瞬間を仲間と共に送ることができたんです。それだけでなく、それまで仕事でほとんど過ごせなかった夫婦一緒の時間を、オーストラリアという最高の環境で過ごすことができました。

椎名:オーストラリアでの時間が、さらに俊介さんの人生を素晴らしいものにしたんですね。

俊介:「歩いてオーストラリアの友達に会いに行く」という新たな夢もできました。今、お話しているどの出来事も、車椅子にならなければ実現しなかったもの。リハビリだけでなく、オーストラリアで過ごした時間の全てが、僕の人生にとって無くてはならない思い出になりました。

椎名:海外でのリハビリを経て、彩さんはどんなことを思われましたか?

彩:私は、障害者と障害者の家族との関わり方ってすごく難しいと思っていたんです。事故後のある一時期は、家族が「歩いてほしい」などの思いを、無意識に本人に押し付けがちになってしまうこともある。私自身も、その気持ちのコントロールがうまくできずに苦労したこともありました。 でも、海外に行っていろんな人に出会い、今後の選択肢が増えたおかげで、自然と「本人が選んで決めたことなら」と納得できるようになりました。私は、なるべく多くの選択肢を用意する、そして彼に選んでもらう。それが一番納得できる方法だと今は思っていますね。

俊介:歩かないといけない、ということではないですから。車椅子の方がいいという人は、その選択は間違ってないと思います。だけど、「他にも選択肢があることを知らなくて、諦めるしかなかった」という状況は変えたいですね。

「伝えたい」。その思いからクラウドファンディングに挑戦

椎名:歩くことを諦めているひとたちに、選択肢があることを伝えたい。そう考えてオーストラリアでのリハビリの様子を情報発信するための費用を、クラウドファンデイングで募ることにしたのですか。

彩:はい、私がオーナーとなって「死にかけた愛するアホ旦那をもう一度歩かせたい! 〜 Re:Walkプロジェクト 〜」というタイトルで実施しました。目標金額は200万円だったんですが、最終的には525人の方から540万円もの支援をいただいて!

俊介:クラウドファンディングで集まった500万円は、自分のリハビリ費用には一切使っていません。あくまでwebサイトや本の出版など、情報を集めて紹介し、選択肢を広げてもらうためのツールに使う、という発信でした。自分たちは情報がなくて悩んでいた時に、多くの人に応援をしてもらったから、「自分たちも次に伝えていきたい」という使命感の下でやってみたんです。

椎名:実際、どのような方が支援してくださったんですか?

俊介:実は半分ぐらいの支援金が身内も含め、知っている人だったんですね。そこで、「こんなにも応援してもらっているんだから、最後まで諦められない」という気持ちが確固たるものになりました。自分たちの活動の最終地点は、「応援してくれている方々に、歩くことができるようになったという報告をすること」だから、へこたれている場合ではないと思ったんです。

彩:私は英語も読めますし、ウェブの仕事の経験もあるから検索する力はあると思っていたけれど、なかなか情報が見つからずにすごく苦労しました。見つかっても、正しい情報かどうかの判断も難しく、内容が偏っている情報もあって・・・。

日本せきずい基金によると、アメリカでは脊髄損傷の人は25万人もいるそうです(参照リンク)。日本においても、「あなたは歩けませんよ」と言われたから歩こうと思わなかった、そしてそのまますんなり諦められたという人は誰一人としていないと私は思うんですよ。自分たちと同じように悔しい思いをしている人が絶対にいると思いました。

椎名:ご自身が経験した悔しい思いが、彩さんを突き動かしたんですね。

彩:そうですね。だから、「私達を見つけてよ!」くらいの気持ちで活動しようと思っていて。同じようにしんどい思いをしている人は、他にもいるんだということを知ってほしかった。私たちは、なんでもやってみる精神で勢いがあるから、「もし自分ではチャレンジできなくても、代わりに私たちにやってみてほしいことがあったら教えて!」と思いながら発信をしていました。

クラウドファンディングのページより

椎名:お二人の行動を見て、協力したいと思った人はきっとたくさんいたでしょうね。

彩:そうなんです。知り合いでなくても支援してくださる方がたくさんいて、声をあげれば「助けたい」と思ってくれる人もたくさんいるんだと知りました。「助けてほしい」と言えない人のほうが多いと思うので、クラウドファンディングを使うことで「助けてほしい」というのはアリなんじゃないかな、と思いますね。

俊介:広告代理店で勤務していた身としては恥ずかしいですけれど、改めて、クラウドファンディングでメディアの力の凄さを知りました。僕の中での、このプロジェクトの最終目標は「歩くためのリハビリを、完全麻痺の人でも、国民保険の医療制度を使ってリハビリ施設に行けるようにすること」なんです。賛否両論あるかもしれませんが、当事者としては、それを可能にしたいと思っています。クラウドファンディングを通して、問題を知ってもらって、動く人が増え、大きな波になると感じることができた。もしかしたら市民を巻き込むことができるメディアだな、と思ったんです。

彩:活動を始めれば、いろいろな意見が届きます。正直、批判的な言葉には考え込んでしまうこともあります。ですが、今思っている”当たり前”のことは、本当に”当たり前”なのか?ということを議論する場って、すごく大事だと思っています。批判を受けることもあるけど、大事なことは「議論する場が生まれるのか」ってことだと思うんです。

椎名:批判されるかもしれないからやめよう、ではなく、まずはやってみること。それで議論が生まれることに意味がある。

彩:このビーチマットだって、賛否両論あったとしても、実現できたことがまずすごいことなんです。だから、賛否両論あるかもしれないけど、やりたいことを場に持って行って、みんなでしっかり議論することが大事だと思います。

子どもにスベらない話を聞かせたい。それが夢

【写真】真剣にインタビューに応えるきどしゅんすけさん

椎名:夫婦二人で、本当にいろんなことにチャレンジされてきたんですね。今後はどんな風に生きていきたいと考えていますか?例えばお子さんのこととか・・・。

俊介:これは事故に遭う前から話しているんですけど、そもそも僕の生きている意味というか人生のミッションは、自分の息子や娘にいかに自分の人生のすべらない話をできるかっていうことだと思っているんですよ。そのうちの一つが、サッカーの話であり、広告代理店で勤務していた話であり、そういうすべらない話がどれだけできるかだと思っているんですね。そう考えたら、なかなか下半身不随になるって、普通は経験しない話じゃないですか。だから、自分自身の価値上がったよなとか言っていました(笑)。

彩:確かに、そう言っていたことは言っていました。ですが、当時はそれどころではなくて・・・。

俊介:でも、歩けなくなったことに負けたくなくて。僕はあの頃は何度も、いろんな人にそう言っていましたね。

椎名:車椅子生活になったからこそ、いい方向に変わったことはありますか?

俊介:今になって思いますが、車椅子になって、いろんな人に会えるようになったんですよ。例えば、市議会議員の人に話を聞かせてほしいと言われることもあります。そんなことは、今までありえないことで。あとは、病院の偉い先生に会えたり。そう考えたら、車椅子って結構すごいぞと思うんですね。

だから、最近ふざけてよく言うんですけど、「実は僕はもう、歩いている可能性ありますよ。それなのに車椅子に乗っている可能性あるんですよ」と。車椅子の方が目立つから、みたいな(笑)。こんなことを言っているから、ポジティブモンスターと言われているんです。

椎名:それは俊介さんだから言える冗談ですね(笑)。

俊介:すべらない話をしようにも、子どもがいなかったらできないので、子どもがほしいですね。それに、人生のミッションを考えると、今の状態から子どもができたとき、絶対嬉しいじゃないですか!だから、そのつもりでいます。いける気しかせえへん(笑)。ただ、不妊治療をするにしても、体外受精をすることしかできないので、そもそものスタートが難しいんです。今年、精巣から精子を取り出す手術を2回したのですが、すごく難しくて。

彩:ただ、卑屈にはなりたくないんです。それに、リハビリにしても、不妊治療の技術にしても、いろんな人の努力のうえで成り立っているから、トライできること自体に感謝しています。

俊介:一般の人に比べて僕らが成功する確率20%と言われているんですけれど、「20%!?僕が歩ける確率0%に比べたら、全然あるやん!」って思いました(笑)。トライし続けたいですね。

彼女のバイタリティが僕を支えてくれている

リハビリ中に彩さんが撮影した写真。傍らにはいつも彩さんの存在が

椎名:お二人の話を聞いていると、ポジティブな俊介さんと聡明で行動力がある彩さんのコンビネーションが素敵だなと思います。俊介さんは彩さんに、どんな思いを持っていますか?

俊介:食事のことも日々のお世話のことも、いろいろと感謝しています。人生において、常に刺激をくれる存在です。オーストラリアに連れて行ってくれる行動力や、これからやりたい夢を持てるような刺激をくれることが、一番嬉しいことですね。

仕事については、お互いに独立したばかりなので、ライバルだと思っている部分もあります。刺激をいつも横からもらえるのはすごくいいな、と思います。結婚するって決めたときのバイタリティもそうです。例えば、彼女は本を読んで感動したら著者に会いに行こうとするんですよ。

彩:著者さんも、会いに来る人なんてそんなにいないから、結構会ってくれるんですよ(笑)。何だってやらなかったら0%だけど、やったら可能性が増えるんです。

俊介:その行動力をきっかけに、その縁をつかんで来るって言うのが、僕には決定的になかった部分ですね。ブログも彼女から提案されて、初めは「ブログなんて」って思っていたんです。でも、きっかけをくれたのは、彼女であり、車椅子でした。

ブログを始めた時期に、発信したいことはありましたし。最初は非公開で、お見舞いに来てくださる人への「リハビリ報告」として活用していました。会えないけど、応援してくれている人のためにも更新するようになったんです。書かなければ「死んだ!?」って思われてしまうから。

彩:私は検索結果などを通じて、脊髄損傷で悩んでいる人がいることがわかっていたんです。なので、彼がブログを書くことを通して、同じ気持ちの人が他にもいると言うことをたくさんの人に知ってほしいと思ったんですよね。

椎名:彩さんから俊介さんについて思うことはありますか?

彩:とにかく続ける力がすごいなと思います。彼の原点はブログなんですよね。ずっと続けていて。読者の方から「勇気をもらった!」と言葉をいただくことが多いです。ブログがきっかけで繋がった縁もあり、クラウドファンディングも不妊治療の先生も、そこからのご縁なんです。

続けていることがよいことなんだ、そして続けていることの理由は「誰かのため」なんだ。彼は人のために何かを続けることができる人なんだと学びました。あと、意外に(笑)、文才があったのねと思いました。

椎名:俊介さんの文章、素敵ですよね(笑)。最後に、今後の2人の目標について教えていただけますか?

俊介:夢ノートにはいくつか書いてあるのですが、一番は、歩きたいということ。またオーストラリアに行きたいですね。それから、世界中いろんなところに旅して、『車椅子で行きづらい世界遺産ランキング』という本も出したいですね(笑)。

椎名:それはおもしろいですね!(笑)

俊介:僕は、他人からの評価ありきの人生なんです。「人にどう思われて死ぬか」っていのが、自分のテーマです。自分がやりたいことをやっているけれど、それ自体が人から見て、面白いと思われる人生だったらいいな、と思っています。

僕が好きなネイティブ・アメリカンの言葉で、「あなたが生まれたときは、あなたが泣いて周りの人は笑っていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣いているような人生にしなさい」というのがあるのですが、まさにこのような人生にしたいんです!誰かの心に残るような人生だといいなって。

【写真】ビーチマットの上で車椅子に乗っている笑顔のきどしゅんすけさん、しゃがんでいるきどあやさん、立っているライターのしいなえりこさんとくどうみずほ

とにかく明るくてよくしゃべる俊介さんに、絶妙なツッコミを入れるのが彩さん。月並みな言葉ですが、「素敵な夫婦だなぁ」と終始思いながらお話を伺いました。

未来が見えなくなるほどの壮絶な経験をしたのちに、その状況から立ち上がり、自分の経験を伝え、誰かの役に立ちたいと思った。

「発信し続けることは使命だ」と言えるのは、お二人の強さでしょう。もともとの性格があってこそのようにも思いますが、事故をきっかけとし、二人それぞれが強くなり、また絆が深まっていったのだろうなと思いました。

事故や病気でなくても、何かしらでつらい状況に立たされた時、「なんで自分がこんな目に!」と思ってしまうのはとても簡単で。こう書いている私自身も、そんなことを思いがちな一人です。

そんなときに感情のベクトルを自分に向けず、周りに感謝をすること。そして、自分の経験から得たものを、誰かに伝えてみること。

それができるだけで「儲けもん」と考えられたら、きっと人生の見え方は変わっていきそうです。

お二人の挑戦はまだまだ続きます。これからの活躍を楽しみにしながら、私たちは神戸を後にしました。

木戸さん夫婦のホームページ「Re:Walk Project

(執筆/椎名絵里子、写真/二神亨、協力/糸賀貴優)