【写真】手振りを交えながら語るそでやまさん

こんにちは。ろう者に向けた英会話教育「Eyeth for English」を運営する、袖山由美です。私はろう者であり、幼いころからほとんどの音が聞こえない中で生活をしています。

私は小さい頃から好奇心旺盛で、いろいろなことに挑戦してきました。たくさんのことを経験してインプットするのはいいですが、人間は忘れる生き物です。忘れる前に残しておくためのアウトプットとして、私は聴導犬のこと、アメリカ文化のこと、夫の影響で興味を持ったアスリートフードマイスターのことなどを、ブログホームページを作って発信しています。

今回は、私がこれまで経験してきたこと、家族のこと、学校生活やアメリカ留学で感じたことなどをお伝えしたいと思います。

手話に口語、様々なコミュニケーションの方法を使い分ける

【写真】幼い頃のそでやまさん。両手を広げて笑顔を見せている

私は3歳くらいまでは難聴だったので、少し音が聞こえている状態でした。でも当時の記憶はあまりなく、聞こえなくなったという記憶もありません。物心がついたときはすでに手話で話していました。

そして私の家族は全員ろう者(聴覚障害者)です。難聴者の母と兄、そして父は生まれつきの全ろう。祖父母と親戚は耳の聴こえる聴者(健聴者)です。

家族の聴覚レベルが違っていたこともあり、コミュニケーション方法もさまざまでした。例えば、父とはほぼ手話で話しますが、母と兄は難聴者なので母に対しては口話と手話を織り交ぜて話す。兄と話すときは口話で話す。親戚に会うときも口話。

「コミュニケーションの仕方は1つだけではなく、相手に通じるベストな方法でするものだ」と、小さな頃から自然と考え、使い分けていました。

ことばを覚えるときは、手話から語彙を増やしていきました。ろう者の教育では文字や絵が描かれた「フラッシュカード」と呼ばれるカードを使って「見る」ことで覚える教育もありますが、母の教育方針でカードは使わず、体感型での言葉教育を受けていました。

例えば、絵本などを使って「春は花が咲く」という絵を見たりするのではなく、外に出かけて春の感覚や花そのものに触れる。触れるたびに「これは?これは?」とことばを探します。「触れる」という感覚によって新しい言葉を覚えるのは、楽しみでもありました。

英語をはじめとする多国語の勉強にも、このときの経験が役立っているのかもしれないと思うことがあります。「もしかしたら、こういうことを言っているのかな?こういう意味かな?」と思い浮かべてことばを覚えてきたので、外国語も意味を想像しながら理解を深めていきました。

「聞こえない=できない」ではなく、「とにかく真似してやってみよう」

興味を持つとすぐ始めてしまう、好奇心旺盛な性格は小さな頃からでした。子どものとき、ピンクレディが好きだったので、よくテレビを見ながら真似して踊ったり、歌もわかる部分だけ歌っていました。

【写真】手遊びをする、幼い頃のそでやまさん

今思えば、「なんでも真似して身に着けること」が私の原点なのかもしれないとも感じます。兄がバスケを始めたら、私も真似して兄についていきました。いとこの姉がピアノを弾いていれば、私も真似て弾いていました。「聞こえない=できない」という感覚は私の中にはなくて、とにかく真似してやってみようと思っていたのです。 

当時、それを見た母がピアノ教室を探してくれました。後から知ったのですが、耳が聞こえないからという理由で多くのピアノ教室に断られたのだそうです。それでもなんとか教えてくれる教室を見つけて通うことになりました。

教室では、音が聞こえないぶん、メトロノームを使用するという工夫がされていました。先生がメトロノームのリズムに合わせて私の肩を叩き、それによってリズムを感じる。これを繰り返して、音のリズムを覚えていったのです。続けることで、少しずつ曲を弾くこともできるようになりました。

こうしてピアノを弾くことに面白さを見出していきました。その後はどんどんと他のことへの興味も広がっていき、結局ピアノを習うことは数年でやめてしまいましたが、このときにメトロノームで学んだリズムは、今のリズム感にも生きているようにも思います。私はリズムに合わせてダンスを踊ることもできるんです!

「社会で認めてもらえない」と感じていた

【写真】手振りを交えながら話すそでやまさん

両親自身も聞こえないので、聞こえなくてもやってみたいという私の気持ちをよく理解してくれていて、駄目だと言わずになんでも挑戦をさせてくれました。もしなんでも「ダメダメ」と言われていたら、好奇心が消えてしまったかもしれません。自由にさせてもらえたからこそ、「好奇心を自分の力にする」ということを覚えていったのでしょう。

両親は応援してくれていましたが、一方で社会からは“拒絶”も感じていました。

例えば、私は頭の中で楽しいことを妄想するのが好きな子どもだったらしく、道ばたで手話を使って演技をしたりして遊んでいたことがあったそうです。私自身は全く自覚はありませんが…。

それを見た知人が両親に報告をして、以来両親は「恥ずかしいから外では手話を使わないでほしい」と言いました。

私の言語である手話を外で使わないで?だけど家の中では構わない?どういうことだろう?

今思えば、手話に対して今ほど理解のない時代でしたから、手話を使っただけで白い目で見られていたようです。そんな社会からの視線を子どもながらに感じていたのでしょうか。

また、私はろう学校へ通っていたのですが、そこでは1クラス5人から7人程度の生徒がいました。小学5年生のとき「聴者の学校ってどんなところだろう?クラスメイトが何十人もいるって、友だちがたくさんで楽しいだろうなあ」と思い、聴者が通う小学校に転校することにしたのです。

でも、転校先ではいじめられました。原因は、私がかけっこで男の子に勝ってしまったことから。「女のくせに。聞こえないくせに」といった、わけがわからない理由のいじめが始まったのです。

私がことばを話せば、発音がおかしいと馬鹿にされる。助けてくれた女の子もいましたが、もともと聴者が苦手だった私は、さらに自信をなくして、登校拒否になりました。

伝えたいことを聞いてくれる人がいる。バスケを通して聴者と信頼を築いた

【写真】屋外での写真。傘をさしたそでやまさんが立っている

兄がYMCAミニバスケッドボールを習っていた影響で、真似をして小学3年生からはじめたバスケット。学校へ登校できなくなってしまった私ですが、そんな中でもバスケだけは続けていました。

バスケを始める前の私は、家族以外の聴者は信じられないと思っていて、知らない聴者を前にすると、どもってしまい声が出なくうまく話せなかったのです。でも、YMCAのチームでは、聞こえない私をそのまま受け止めてくれました。

バスケはチームプレーなので仲間とのコミュニケーションが必要になります。聴者が信じられなかった私でも、どうしてもコミュニケーションが必要になり、勇気をもって声を出してしゃべるようになりました。そして仲間たちは私の発音を馬鹿にすることなく、一生懸命に聞き取ってくれたのです。

「ちゃんと伝えたいことを聞いてくれる人がいるんだ」と感じ、このとき初めて聴者に心を開きました。今思うとそれまでは聴者に対して、私は心がトゲトゲとした状態で接していたように思います。

小学校には居場所はないけれど、バスケットチームには居場所があった。この2つの世界があったことで、それぞれを比較したり、いろいろな人がいるのだなと学習することにもつながっていました。

他人の人格を否定するのではなく、そのまま受け入れる体制が整っていた、YMCAミニバスケッドボールチーム。そんなYMCAは海外発祥でもあります。

聞こえない以外はなんでもできる。祖母のことば

「社会は私のことをよく知らないから、気にしてもしょうがない。社会からの評価は関係ない。最大の味方(家族)がこんなに近くにいるのだから自分を信じてやってみよう」

気づけばだんだんと、そう考えるようになっていました。大きな心の支えになったひとつに、アメリカ生まれの祖母のことばがあります。

You can do. Believe yourself!

あなたはできる子です。自信を持っていいですよ。そしてできることを自慢することは、いいことなのですよ。聞こえない以外はなんでもできるのだから。

祖母はいつだってそう伝えてくれていたのです。

【写真】微笑みを見せるそでやまさん

こうして身内からはたくさん褒めてもらっていたので、少しでも私のことを応援してくれる人との関係を大切にしようと思うようになりました。「私のことを悪く言う人のことは気にしたってしょうがない。無視していいんだ」そう決めてからは心が楽になりました。

実は今は、過去の大半のことは忘れてしまっています(笑)。それは、常に前を向いているからかもしれません。私は常にかっこいい自分のイメージして、作り上げて、その自分に出会えることを目標として生きてきました。

英語やアメリカ文化に触れていた幼少期

【写真】英語教材。色に関する手話について説明する写真が並べられている

英語に興味を持つようになったのはおそらく、アメリカ生まれの祖母の影響でしょうか。数えると私は日系4世に当たるんですね。大祖母は亡くなるまでずっとアメリカに住んでおり、遠い親戚もいまだにアメリカにいます。その影響か小さい頃から食生活や考え方が、日本人らしくなかったようです。私自身にとってはそれが普通だと思っていたんですけどね。

ある程度の年齢になると、友達の家でお泊り会をしたりしますよね。そのとき初めて私の生活は普通と違うんだと気づきました。

第1にデフファミリー(ろう家族)なので、家の中で手話で会話することも、他の家庭との違いのひとつ。デフファミリーで形成している家族はとても少ないことはだんだんと知ることになったので、それなりに私は自覚しているつもりでした。ただ、それだけの違いだろうと思っていました。

でも、その他の違いにもたくさん出会いました。まずは3時のおやつ。私の家族は3時のおやつはお客様が来たときや特別なことがない限り出てきません。「なんでお菓子があるの?なんで3時のおやつなの?」と聞く私に、友人とその母親は驚いていました。

そして今度は夕食後、食事が終わったらごちそうさまでおしまい。「ん?デザートは無いの?」と言う私に、「デザートって何?」と聞く友人。今は普通にデザートって言いますけど、当時はあまり言われていなかったんですね。

朝食でも、友達の家ではみそ汁とご飯が出されていましたが、私はシリアルフードを食べていたのです。私はそれが普通だと思っていました。

他にも、毎年アメリカからプレゼントとして送られてきた服を着て学校へ行くと、そのデザインを物めずらしそうに友人たちは見ていたり。知らずに英語やアメリカ文化が身近にあったようです。「あれ?デフファミリーというだけではなく、暮らし方も他のひとと違うのかな?」と思うようになりました。

また、私は英語を習うよりずっと幼いころからすでに、自分の名前をローマ字で書けていました。英語に、アメリカ文化に自然に触れていたからだと思います。

【写真】傘を握り、前を向いているそでやまさん

もう一つ、アメリカへの関心が強まったきっかけの一つが、ヘレン・ケラーとの出会いです。

40年前の日本は、今ほど手話や障害者に優しくはなかったように思います。「障害者は目立ってはいけない。我慢しなさい」といった空気を私は感じていて、不服に思っていました。「やりたいことも、聞こえないからダメ!諦めなければならない!」そんな圧力は私には納得ができないことでした。

あるときヘレン・ケラー伝記を読んで、アメリカでは障害に関係なく、やろうと思えば、頑張れば、夢を実現できるということが描かれていて、感銘を覚えたのです。

祖母の教え、そしてヘレン・ケラー伝記。私の道はアメリカに繋がっているように思いました。日本は出る杭は叩かれるけれど、アメリカでは伸ばしてくれるんだと私なりに理解して、「祖母が生まれたアメリカで私の可能性を伸ばしたい!」と思い、小学生のときアメリカへ行きたいという気持ちが生まれたのでした。

手話を通してことばが「見える」のが当たり前の世界

【写真】真剣な表情を見せるそでやまさん

けれどもその後の中学、高校の6年間の英語はそこそこできるくらいのレベルで、決して得意というわけではありませんでした。丸暗記しているだけで、英語そのものを理解していなかったからです。「英語は好きだけれど、英語授業は楽しくない。なぜだろう?」とずっと思っていました。後になって、学習方法が自分に合っていなかったことに気づくのです。

進路選択を前にアメリカ留学を目指したときは、「ヘレン・ケラーみたいにハーバード大学へ行くぞ!」という気持ちでしたが、のちにものすごくレベルが高く私の英語力に見合わないということがわかり…。そんなときにろう者のための総合大学であるギャローデット大学を知りました。ろう者の私にはぴったりの環境のはずだと思い、留学を決意。それが正解だったのです。

ギャローデット大学キャンパス内は私にとって、まるでろう者のディスニーランドのようでした。どこを見渡しても手話。聴者が毎日回りから音を通してことばが聞こえてくるのが当たり前のように、ろう者は手話を通してことばが「見える」のが当たり前な場所でした。

英語語彙、文法を手話で説明してもらったら、6年間の英語教育は何だったのかというほど簡単に英語そのものを理解することができました。これは、私の第一言語は日本手話でそのあとに書体日本語が続くのですが、手話という視覚言語で学ぶことで理解しやすかったということなんです。英語で考えるプロセスが癖づくことで、書体英語も音声英語もどんどん身に着けられるようになりました。

【写真】大学の卒業式での写真。学位を持って笑うそでやまさんが写されている

また手話は世界共通語ではなく、「それぞれの国の言葉の手話」として成立しています。ただ、手話という文法は世界共通なので、国によって手話が違っても文法で理解でき、各国の手話もマスターしやすいように思います。実際ろう者同士では、お互いが違う国の手話を使っていたとしても、会話としては成り立っていたり。そのため在学中も、いろいろな国から来ている生徒と交流をすることができました。

外国語手話を通して、ろう者にも世界と繋がってほしい

【写真】海外の子どもたちに囲まれて笑うそでやまさん

その後も留学の後に仕事もアメリカで経験し、合計で7年半もの間滞在をしていました。帰国後もその経験を生かしたいと思い、アメリカ手話を伝える仕事をはじめたのです。

先ほども伝えたように、ろう者ならばこれまでの聴者のやり方ではなく、ろう者にあったやり方で学習することで英語への理解が深まることは、自分が身をもって感じていました。「ろう者にも世界と繋がってほしい。グローバルな人材として活躍する人が増えてほしい」そんな思いではじめたのが、「Eyeth for English」です。

【写真】Eyeth For Englishのホームページ

ろう者の英会話にも、アメリカ英語とイギリス英語があるのですが、私が教えるのはアメリカ英語。America Sign Languageと言って、略してASLと呼ばれることもあります。

「Eyeth for English」ではレベル別の教材を設けたり、世界ろう歴史、世界ろう偉人物語、世界ろう文化など、ろう者が興味を持てる題材を扱っています。LINEなどのチャットツールを使って気軽にやりとりをすることも。間違えても気にしない。気軽に、そして何より楽しく学んでほしいと思っています。

生徒さんの一人に、積極的に海外在住のろう者との交流をしているろう者の方がいました。以前は英語でのメールのやり取りに苦労していたそうですが、講座を受けて改めて学び直したことで、英語に自信がついて交流も楽しくなったとの声をもらったときはとても嬉しかったです。

【写真】Eyeth for Englishの教材の一部を紹介している

聴者に比べるとろう者の人口は少ないので、その分世界が狭くて距離も近い。手話の文法は世界共通なので英語以外の外国語手話を使う人でも、わりとすぐに交流をして、仲良くなれることも多いと思います。こうしてろう者同士の輪を広げていけたら嬉しいですね。

また意外なことに、受講生の中には聴者も少なくありません。手話が使えたり、興味があったというわけではない人も多いです。ろう者のためにつくった教材でしたが、英語学習への様々なアプローチに関心を持つ方が、聴者にもわかりやすいと受講してくださっているようです。

ろう者であることを公言することで、気持ちが通じ合う

【写真】傘をさしてカメラに目線を向けるそでやまさん

私は今、ろう者であることを隠さず暮らしています。障害を隠すよりはっきり公表するようになって、困ることが減りました。私が障害を隠してしまうと、きっと相手はどう対応したらいいかわからないから。今は、理解してくれないと不満を言うよりも、公表して手伝ってもらえるときは手伝ってもらったほうがいいのかもしれないと思っています。

といっても、私もプライドからなのか、あまり人に言いたくないと思っていたこともありました。ただ、例えば東日本大震災などの震災では、健常者よりも多くの障害者が命を落としたという結果が出ています。その原因の一つはきっと、健常者もどう手伝ったらいいのかがわからないことも挙げられるはず。

「手伝ってあげたい気持ちはあるのだけれど、聞こえないかどうかの確信ができないから何もできないことがあるんじゃないかな」と知人が話してくれたこともありました。その知人は「耳が聞こえません」というオリジナルカードをつくってくれました。

カードを使うことで実際、勘違いされることが少なくなったように思います。この間、道で愛犬と散歩していたとき、犬が好きなおじさんから声をかけられ、答えたのですがうまく伝わらなかったんです。おじさんは少し戸惑ったような、ムッとした表情をみせていました。

すぐにカードを見せたら、「そうかそうか、犬可愛いね」と身振りを入れてくれました。すれ違いをカードで解決したんです。

他にも、たとえば電車の中で事故があったときなどのアナウンス。周りの様子を見れば何かあったことは分かるけど、その「何」がわからない。そんなときは周りの様子を伺いながら、声をかけやすそうな人を探します。

ぽんぽんと肩を軽くたたくと、もちろん慣れていない相手はビックリしてしまいますよね。そこで「私は耳が聞こえません。何かありましたか?教えてください」と紙に書いたものを渡しています。

それを読んだ相手は「事故があったので10分ほど停車していますが、大丈夫です」のように簡単に内容を書いてくれるのです。

何回も経験していてもやっぱりこういうことが起きるたび、ドキドキはします。でも、勇気を振り絞って声をかけることで、助けてもらうことができる。小さなことではあっても、お互いに気持ちが通じたときはとても気持ちがいいのです。

「困っているのはあなただけじゃない」と伝えたい

【イラスト】そでやまさんと、そでやまさんの夫、そして犬が描かれている

私の夫は同じくろう者です。夫はゴルフ一筋のアスリートなので、国際試合などでは、私が国際手話通訳や英語翻訳をしたこともありました。

またアスリートとして活躍できるよう私もサポートしようと、食事に気を配るようになり、身体を育てるための勉強をしてアスリートフードマイスターの資格に挑戦し習得!持ち前の好奇心を様々なものに向けながら生活をしています。

私はアメリカに住んでいたときから聴導犬とともに暮らしをしているのですが、聴導犬からもたくさんのサポートを受けています。例えば宅配がきたとき、チャイムの音になかなか気づけないと何度もきてもらわなければならないですが、聴導犬が知らせてくれるので、おかげで1回で対応することができます。

他にも、これまでの暮らしで様々な工夫を積み上げてきました。幼いころから「手話が通じないから、コミュニケーションがとれないから、どうしよう」ではなくて、「どうしたらできるようになるのか」を考えてきた私の根本的な姿勢は、今も同じ。湧き上がる好奇心に従って、どうしたらできるかを考えて、挑戦するのです。

耳が聞こえないというのは常に困ることだらけではあるのですが、解決方法を知っていればなんとかなる。困るけれど困らない。障害者も健常者も関係なく、きっと誰にでも「困ること」はあると思うので、「聞こえないから困る」ことへは私なりの工夫をしています。

だから、「困っているのはあなただけじゃない」と伝えたいです。そして、私がそうだったように、“困難”って自分自身で壁や枠を作ってしまっていることもあると思います。なにか困ったことがあったとき、笑顔で「お願いします」と伝えると、案外同じ笑顔で返ってくるんだということも私は経験から知りました。困ったときの自分の顔を見てみてみるときっと、少し暗い顔をしてますよね。

私は本当に「笑う門には福来る」だと思います。あなたを助けてくれる人は必ずいますよ!

You can do! Believe yourself!

【写真】腕を組み、まっすぐ起立するそでやまさん

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(写真/工藤瑞穂)