【写真】にこやかな笑みを見せるきくかわさん

こんにちは、菊川恵です!わたしは子どもの時、家族と離れて暮らしていたことがあります。

でも、いろいろな方が支えてくれたおかげで、わたしは無事に大人になれました。今は、病児保育や特別養子縁組など親子に関わる事業をしている「認定NPO法人フローレンス」で働いています。

今回は、わたしの生い立ちと、そこから気づいたことをお伝えしようと思います。

「私はみんなと違うんだ」親と暮らせなかった子ども時代

【写真】目線を下に落としながら話すきくかわさん

わたしは生まれてすぐに親元を離れ、母方のおじいちゃんとおばあちゃんの家で暮らしていました。お母さんには、重い心の病気があり、自分のことも周りのことも何も分からない状態でした。また、失踪癖があり、夜中にひとりで家を出ては、数日後に遠い街で見つかることを繰り返していました。そのため、小さな赤ちゃんを育てられなかったのです。物心つく前から、おじいちゃん、おばあちゃんと暮らしていたので、二人と過ごす日々は、わたしにとって当たり前のことでした。

でも、小学校にあがったタイミングで、「わたしは普通じゃないのかも」と思うようになりました。

おじいちゃん、おばあちゃんと三人で暮らしてるんよ

友達にそう伝えると、その話は小さな田舎町に一瞬にして広がっていきました。気づけば、知らない大人からも「かわいそうな子だ」と言われるようになったんです。それが「わたしはみんなと違うんだ」と気づいたきっかけでした。

それからは「普通になりたい」と願う日々がはじまりました。でも、その夢は叶いませんでした。わたしはいつからか、どこか遠くに行きたいと思うようになりました。わたしはとうとう中学校に上がるタイミングで、親元に帰ることを決意。誰も知らない街に行けば、何か変わるかもしれないと思ったんです。

何があっても生きる。そのために何ができるかを考えた

中学生になって、お父さん、お母さん、お兄ちゃんとの暮らしが始まりました。お父さんは、ちょうどわたしと一緒に住み始めたタイミングで仕事を辞め、職を転々とする日々を送っていました。新たな生活を選んだものの、思い描いていた「普通」とは、ほど遠い日々でした。

お母さんの病状はほとんど変わりません。お父さんはいつも苛立っていて、家族に強くあたることも多く、近所の人とのトラブルも絶えませんでした。誰も掃除をしない、ゴミが散らかった家で過ごす毎日。気づいたら、ご近所さんからは目が合うだけで避けられるようになり、わたしたち家族は孤立した暮らしの中にいました。

そんな日々も長くは続かず、お母さんは、ある日突然亡くなってしまいました。わたしは初めて自分で救急車を呼びました。

お葬式は家族でしましたが、お金がなくて、お墓がつくれませんでした。お母さんの遺骨は、ずっと散らかった家の中に置かれたまま。それを見て「命ってなんだろう」と思いました。そして「死んだって、現実は何も変わらないんだ」と気づいたんです。

【写真】凛とした表情で語るきくかわさん

それまでは、家でつらいことがある度に「このまま死ねたらいいのになあ」と思っていました。自分が亡くなってニュースになったら、周りの人たちに、自分のことを気にかけてもらえるんじゃないか。そんな風に思っていたんです。

でも、実際は、当たり前の毎日が続いていくだけでした。それに気づいたとき「何があっても生きよう」と決意しました。「死」という切り札がなくなったことで、「生きるために何ができるか」という問いを持てるようになったんです。

”普通のレールに乗る”ために、必死だった日々

お母さんがいなくなってから、お父さんからの風当たりがさらに強くなりました。いつからか名前で呼ばれなくなり、自分だけご飯がないのが当たり前に。家の中で気が休まることはありませんでした。

また、お父さんの親戚からは「女の子なんだから」とお母さんの代わりになって家族を支えるように言われていて、なんだか板挟みだなって思っていました。

わたしはちょうどその頃から、声が出づらくなったり、どもったりするようになり、日常生活を不自由に感じるようになりました。授業中に当てられても、答えがわかっているのに、答えられない。友達と話している時に、面白い話が思い浮かんでも、口に出せない。

話したいのに言葉が出てこないのは、想像以上にもどかしいことでした。伝えられなかった言葉が募るほど、心はどんよりと重たくなっていきました。

【写真】口元に笑顔を見せながら語るきくかわさん

そうやって誰にも話せなかったことを、日記に書くようになりました。文字だったら、自由に話せる。そう気づき、勇気を出して、家族のことや声のことを、学校の連絡帳に書いてみました。

でも、先生から返ってきた言葉は「気のせいだよ」だけでした。やっぱり気づいてもらえないんだな、自分はいてもいなくても同じなんだな、と感じました。

当時、中学校は荒れていて、不登校や非行に走る子たちがたくさんいました。きっと先生たちはその子たちのことで手一杯。それに、彼らのほうが、わたしよりもずっとずっと大変なのかもしれない。毎日学校に来れているわたしは、優先順位が低いんだろうな、と感じていました。

改めて思ったのは、自分の力で生きていくしかない、ということ。そのためには「普通のレールに乗り続ける」ことが必要だと考えました。どんなに学校でつらいことがあっても、風邪を引いても、一回休んでしまったら、もう二度と学校に行けなくなってしまう気がして、三年間ずっと無遅刻無欠席の皆勤賞。成績もできるだけ上位を守りました。

自分を気にかけてくれる人がいると知り、初めて誰かを信頼できた

だけど、行きたい高校には行けませんでした。お父さんの意向で、一番就職に役立ちそうなところに進学することになったからです。また、学費免除を受けることや学校納入金を自分で支払うことが条件とされました。みんなが受験勉強をして、入りたい高校を目指す中で、自分ははじめから道が閉ざされている。本当は悔しかったけど、「自分の力で生きるためだ」って、言い聞かせていました。

高校に入ってからは、さらにお父さんからの風当たりは強くなりました。その生活にも慣れていたことと、周りの友達も家族から強く当たられている子が多かったので、特に違和感はありませんでした。

【写真】伏し目で語るきくかわさん

でも、そんな日々は、がらりと変わりました。冬のある日、お父さんから強く当たられ、家で怪我をしてしまったんです。

次の日は、いつも通り学校に行くことにしました。「顔の怪我は恥ずかしいな」そんな理由で、眼帯をもらうために保健室に行きました。小学生以来、はじめての保健室でした。実は、中学校に上がってから、怖くて保健室に行けなかったんです。休んだら、もう教室に戻れないんじゃないかって思って。それほど、自分がイメージする「普通のレール」から外れることが何よりも怖かった。

不登校や非行を経て大人になった人と出会う機会がなかったから、その選択肢を選ぶことも怖くて。毎日欠かさず学校に行くことが自分を保つ唯一の術でした。

そうこうしているうちに、担任の先生が保健室に来てくれて、「ずっと気になってたんよ」と言ってくれました。

ああ、自分を気にかけてくれる人なんていたんだ。

そう思い、はじめて大人を信頼することができました。

その日のうちに、学校に児童相談所の人が来てくれて、「親元で過ごすか、一時保護施設に行くか。どうする?自分で選んでええよ」と言われました。一時保護施設は、不適切な養育などの理由で親元を離れる必要がある子どもたちが、一時的に保護される場所。短期間しか居られず、次の居場所を見つけて出て行く必要があります。

正直、すっごく迷いました。

一時保護施設は、子どもの安全を守るために、親にも友達にも居場所がわからないようにされるし、学校にも行けないと言われたからです。なにがあっても「学校に通うこと」だけは守り続けてきたのに、それを手放さなきゃいけない。ただただ怖かった。とはいえ、お父さんと一緒に過ごすことに希望はないと思いました。

今日は生きられた。でも、明日は生きられないかもしれない。だったら、生きるために、希望があるほうを選びたい。

【写真】優しい笑顔を見せながら語るきくかわさん

やったことのない方を選んでみます。

わたしはそう告げて、一時保護施設に行くことを自分で選びました。

「やったことがないから」という理由で、一時保護施設を選ぶ子どもが珍しかったからか、児童相談所の人に「あのときの言葉に勇気をもらった。自分のこと、見直してみたいと思った」と言われたことを、今でも覚えています。

似たような境遇にいる子どもたちを「かわいそうな子」にしたくない

一時保護施設での暮らしは自分にとって、人間らしい暮らしでした。思い返してみれば、自分のためにごはんを作ってくれる人がいるのも、怖がらずにお風呂に入れたのも、本当に久しぶりのことでした。

一方で、学校に行くことができない、通信機器を持てない、他の人に居場所を伝えられないなどの決まりもあります。

また、警察から事情聴取を受けるなど、社会とは切り離された生活でもありました。事情聴取は暴力を受けた様子を言葉で説明したり、再現したりする必要があり、高校生の自分でもかなりエネルギーを使うものでした。一緒に過ごしていた小学生の子も、自分と同じように事情聴取を受けていました。彼らはまだ、自分の置かれた状況がわかっていなかったと思います。

中学生や高校生になって、自分の置かれた状況に気づいたとき、この子たちはどうやって生きていくんだろうと感じました。わたしが出会った子どもたちの中には、心身ともに年齢に合った発達ができていない子が多かったです。16歳の自分から見ても、今まで出会ってきた子とは何かが違うと感じていました。

【写真】寂しげな表情を見せるきくかわさん

その中には、不適切な養育の中で、本来持っている力を奪われてしまっている子もいました。

この子たちが社会で生きていくためには、わたしよりも、もっと多くの人の力を借りなきゃいけない。普通に生きてきた人たちが、すんなり乗り越えられる壁を、この子たちは頑張らないと乗り越えられない。

そんな子たちのことを「かわいそうな子」にしたくないな、って思いました。

自分自身のこれまでの経験を通して、「かわいそう」という憐れみの目は、一見やさしそうに見えて、自立して生きる力を奪うと感じていたから。子どもたちの姿を見て、自分はたまたま運がよくて、助けてくれる人たちに出会えただけだ。そう痛感しました。

それからわたしは「生かされた自分に何ができるのか」と考えるようになりました。

どんな環境に生まれたって、きっと自分で生き方を選んでいける

【写真】屋外で、優しい笑顔を向けるきくかわさん

その後、わたしはベテランの里親さんの元に引き取られ、もう一度学校に通うようになりました。里親さんはすごくあたたかい老夫婦で、自分の家のようにのびのびと過ごすことができました。

ある日、里親さんから「〇〇ちゃん、知ってる?」と懐かしい名前を聞かされたのです。それはわたしが過去に憧れていた、同級生の女の子の名前でした。里親さんは、かつて、児童養護施設で暮らす子どもたちを週末やお正月などに家庭に迎える週末里親を担っていました。どうやらその一環で、その女の子と一緒に暮らしたことがあったようです。

誰もがうらやむような素敵な子だったので、「きっと自分よりも、何もかも恵まれているんだろう」と思い込んでいたんです。でも、里親さんと話す中で、彼女が複雑な過去を抱えていたことを知りました。

その話を聞いて、今まで自分は何をやっていたんだろう、と自分を恥ずかしく思いました。親に必要とされなかった過去を人と比べ、言い訳を並べては、後ろばかり向いていたと気づいたからです。それと同時に「どんな環境のもとで育っても、自分で生き方を選んでいけるんだ」と、確かな希望を持つことができました。

【写真】歯を見せて笑うきくかわさん

その後、高校2年生に上がるタイミングで、里親さんの元を離れ、母方のおばあちゃんの家で二人暮らしを始めることになりました。そのために県外の高校へ転校し、新たな生活をはじめました。

新しい学校は、髪の色や服装が自由で、いろいろな個性が認められている学校でした。抑圧がない環境に身を置いたことで、身体も心も回復していき、言葉の症状も徐々にやわらいでいきました。

転校先の先生の勧めもあり、わたしは大学に進学することに決めました。全額学費免除が取れそうで、かつ、自分が学びたいことを実現できるところはどこか、いろいろなパンフレットを眺める日々が続きました。それは自分にとって、希望を持てる体験でもありました。

中学生の頃は、生きるために進路を諦めました。でも、今度は、自分の意思で学校を決めることができました。諦めることが当たり前な日々が、自分で選択肢を決められる日々に変わったのです。

「アダルトチルドレン」という言葉が、親の気持ちを想像するきっかけに

【写真】視線を横に向けて笑みを浮かべるきくかわさん

わたしは努力の末、無事に大学に合格。一人暮らしをはじめました。

20歳になるまでは、何をするにも保護者のサインが必要です。親と離別しているわたしには、少しだけ不自由さもありましたが、なんとか普通の大学生活をはじめることができました。念願の20歳を迎えたタイミングで、今までお世話になったおばあちゃんに感謝を伝えに行きました。いろいろと話し込むうちに、自分が知らなかった過去の話を知ることになります。

それは、わたしが本当は中絶される予定だったこと。

中絶をするとお母さんの身体に負担がかかります。病気の悪化を恐れたおじいちゃんが、「自分が育てるから、子どもを堕ろすのはやめないか」と声をかけたんです。その一声があったおかげで、わたしは生まれてくることができました。今は亡きおじいちゃんに向けて、ありがとうと伝えました。

しかし、「本当は生まれる予定ではなかった」という事実は、わたしの心に深く突き刺さりました。

本当はこの世にいるはずのなかった自分。そんな自分が生きていくことで、誰かから何かを奪っているんじゃないか、と思うようになったんです。わたしが生まれてこなければ、他の子を一時保護できたかもしれないし、別の子が大学に合格できたかもしれない。そして、おじいちゃんもお母さんも、亡くならなくてよかったかもしれない。そう感じるようになりました。

いつの間にか、また声が出づらくなり、アルバイトもクビに。人生のどん底に落ちた気分でした。

どうにかして、目の前の現実を変えたい。

そう思ったわたしは、声が出る方法を一生懸命探しました。毎日毎日、インターネットで検索を重ねる日々。そのなかで出会ったのが、「アダルトチルドレン」という言葉でした。アダルトチルドレンとは、子ども時代に親との関係でトラウマを負ったと考えている大人を指す概念です。その影響で、大人になってからも、様々な生きづらさを抱えることが多くあります。

【写真】考えるような表情を浮かべるきくかわさん

もしかしたら、わたしもアダルトチルドレンなのかもしれない。

今までの「得体のしれない生きづらさ」に名前がついた瞬間でした。この言葉に出会って、なんだかほっとしました。生きづらさの理由がわかったから、あとは、向き合うだけだ。そう思えたからです。同時に「大人になった自分が完璧じゃないように、親も完璧じゃないんだ」と気づきました。

わたしはこれまで、自分の親を「ひとりの人」ではなく、「親」としか見てこなかった。自分の「理想の親像」を押し付けていただけなんじゃないか、と思ったんです。家族のことを「ひとりの人」として見つめたとき、親の感情を一つひとつ丁寧に想像することができました。

また、自分の親が何層にも連なる生きづらさを抱えていたことに気づかされました。病気、貧困、非正規雇用、DV。どれを一つとっても、社会課題と呼ばれるものでした。わたしだけでなく、家族がまるごと社会課題とともに生きていたのです。

そう気づいたとき、わたしは「悪者なんて、いなかったのだ」と思いました。それがはじめて家族を許せた瞬間でした。

一見普通に見える人も、痛みを抱えている。それを気軽に共有できたら

それからは、アダルトチルドレンの克服方法を探し続けました。

しかし、心療内科は多すぎてどこに行けばいいかわからないし、カウンセリングは大学生のわたしにはあまりに高額です。自助グループという、同じ課題や心の傷を持つ人たちが集まって、自分の体験をシェアする場にも足を運んだことがありましたが、自分ではない何か大きなものの力に頼ったり、ルールが多かったりするなど、わたしには少しハードルが高く感じました。

家族という身近なテーマなのに、なぜこんなにも向き合うことが難しいのだろう。

途方に暮れてしまったわたしは、「もっと気軽に自分と向き合える場があればいいのに」と思うようになりました。

また、子どもに対しての支援はたくさんあるのに、大人には支援があまりないのではないか、とも感じました。高校生の頃は、一時保護をされたことをきっかけに、周りの大人が手を尽くしてくれました。しかし、20歳になった今は、つい最近まで子どもだったにも関わらず、サポートがほとんどないと気づいたのです。

わたしは子どもの頃に助けてもらえたけど、取りこぼされたまま大人になった人はどうしたらいいんだろう。そんな人たちのことを、見て見ぬ振りしてもいいのか。今までわたしはたくさん助けてもらったから、今度は同じような環境の人たちと一緒に回復していきたい。

【写真】ゆっくりと考えながら語るような表情を見せるきくかわさん

そう思い、最低限のルールだけにしぼった自助グループを開くようになりました。始めてみると、自助グループには、自分よりも20歳以上年上の人が訪れるようになりました。彼らとの出会いは、「普通に見える人たちの生きづらさ」に出会った瞬間でもありました。

訪れる人の中には、両親がそろっていて、比較的裕福な家庭で育った人もいました。しかし、周りから恵まれていると思われていたからこそ、自分がつらいと認めづらかったのです。経験の重さや痛みはその人だけのもので、ほかの人が測ることはできないのだと痛感しました。

「生きづらさのなかで編み出した工夫」が私を救ってくれた

わたしは自分の経験や気持ちを言語化する中で、いつの間にか、自分の過去に折り合いがつけられるようになっていました。言語化のプロセスは、自分との対話を繰り返すこと。また、自分の痛みを認めることでもあるのです。

思い返してみれば、言語化が習慣になるまでは「自分がつらかった」という事実を認める勇気がなかったように思います。自分が一時保護などで救われたからこそ、「自分は運がいいんだ」という思いが消えなかったんです。

【写真】明るい表情を浮かべるきくかわさん

でも、ある時、自分の痛みをなかったことにすると、苦しみの総量が増えることに気づきました。自分の気持ちにふたをして、見て見ぬふりをするほど、ふとした瞬間に悲しみや怒りがよみがえります。最終的には、自分の気持ちさえもわからなくなり、漠然とした生きづらさだけが残ってしまうのです。

たとえ小さなモヤモヤであっても見逃さず、「なんでだろう?」と自分に問いかけることで、すとんと腑に落ちる瞬間が訪れます。それを繰り返すことで、自分の気持ちに気づき、過去に新たな意味づけができるようになりました。

痛みと向き合い、自分との対話を繰り返すようにしたところ、歳を重ねるにつれて、生きづらさは薄れていきました。

それでも時折、自分の環境や過去を思い、どうしようもない悔しさや悲しみに襲われることがありました。特に声が出づらい症状は、実感しやすいこともあり、何度も落ち込みました。気づけば、10年にわたって、苦しみが続いていました。その間、満足に人と話せなかったことで、誰にも伝えられなかった自分の気持ちを紙に書いて言語化することに慣れていました。

書く作業は、必然的にひとりになります。ひとりで自分と向き合う期間を長く取れたことが、わたしの心の回復を早めたように思います。

「生きづらさの中で編み出した工夫」が、同時に自分自身を救ってくれていたのでした。

【写真】目線を下に向け、笑うきくかわさん

当時を振り返ると、書く以外の別の選択をするのは、難しかっただろうなと思います。人と話すことから逃げたのは、自分にとって生存戦略だったんだ、と気づきました。時が経つにつれ、徐々に生き延びる術を身につけられたように感じます。でも、同時に「失っているもの」もありました。

人を信頼できなかった時期は、目の前の人の顔色や話し方を見て、本当のことを話しているかを敏感に見抜こうとしていました。それらは人を信頼する気持ちを取り戻すと同時に失っていきました。極端な敏感さが薄れて生きやすくなったものの、当時の感覚は二度と取り戻せないのだと悟りました。

そのとき、「回復することは、失うことでもある」と気づきました。

そう気づいたとき、「今の生きづらさも、未来から見たら”かけがえのないもの”かもしれない」と思えるようになり、生きづらさを肯定できるようになりました。

気づかれないうちに、ちゃんと支援されている。そんな仕組みを求めて

自助グループを開いてみて気づいたことは、もう一つありました。それは、自助グループに行ける人は、他の場所にも行ける人だということです。何かのきっかけがあれば、心療内科にも行けるかもしれないし、カウンセリングにだって行けるかもしれない。

でも、本当につらい状況にある人ほど、自分の痛みを言語化できないと気づいたのです。また、助けを求めるためには、自分のつらい経験や人に助けられる自分を認めることが必要です。それは、すごく痛みが伴うことです。自分の痛みに気づくのも、それを言葉にするのも、力が必要です。きっと、心の不調は、忙しい生活の中では、どうしても後回しにされます。

本当の意味で、より多くの人たちを支えるには、支援される敷居を下げることが必要です。そのためには「気づかないうちに支援されている」状態をつくればいいんじゃないか、と思ったんです。

通常の支援ではつながれない人でも、サービスの利用者という立場では、抵抗なくつながれるかもしれない。

生活に切実に必要で、かつ、当たり前のように使えるサービスで家族を支えたい。そう考えて、病児保育などを運営している認定NPO法人フローレンスに就職しました。

当事者であるという役割を降りよう

一時保護施設の子や同じような環境で生きていた友達。過去に出会ってきた人たちと同じ環境で生きる人にできることはなんだろう。

フローレンスで働くなかで、こんな問いを持つのが習慣になっていました。

考える度に、自分にできていることは、ほとんどないと気づかされました。仕事終わりや休日は、問いの答えを探すために、関連する知識を身につけることに一生懸命でした。

誰かを支援する仕事には、厳しい意見がつきものです。特に同じように人を支える仕事をする方からの意見は、刺さるものがあります。それは、わたし自身が子ども時代に、彼らから支えられる立場だったからです。

わたしが支える側に回ったとたんに、その大人たちが味方じゃなくなったように感じました。また、「厳しい家庭状況で育った人は、こうあるべき」というような、当事者としての正解を求められている気分でした。

そこで気づいたのは、”自分のいびつさ”でした。彼らはただ、過去のわたしではなく、今のわたしを見ているだけ。それなのに、わたしはいつまでも、自分の過去に縛られていました。「厳しい家庭状況で育った人」という「役割」を背負ってしまっていたんです。

これまでいろいろな人から「つらい思いをしたあなただから、できることがある」という励ましや応援の言葉をもらってきました。いつからかそれに縛られ、人の期待に答えようとしてしまっていたんです。

【写真】明るい笑顔を見せるきくかわさん

実際は「同じ経験をした」という理由だけで、解決できることばかりではありません。過去の経験による当事者性は、本来、アイデンティティのひとつ。本当は、いろいろな自分がいるはずです。それなのに当事者性だけに光を当てると、ほかの自分と出会えなくなってしまう。

それに気づき「当事者という役割を降りよう」と思ったら、肩の荷が下りました。

過去の話をすると、誰かに応援の声をもらうことが多いです。ただ、その声に敏感になり、それが正解かのように思ってしまう自分もいます。だから「過去を背負わなくていい」と、いつも心の片隅に置いていたいと思いました。

「過去があったから今がある」そう思える手助けを

【写真】顔を上に向け、笑うきくかわさん

今後は仕事を通じて、不適切な養育のもとで育った人たちが、大人になって同じことを繰り返さないですむように、予防していきたいと考えています。

大人へのサポートは、巡り巡って悲しい思いをする子どもたちを減らすことにつながります。何よりも、子どもの頃に助けてもらえないまま大人になった人たちが、大人になってからも取りこぼされることがないようにしたいのです。そして、一度、親として不適切な養育をした人でも、何度でもやり直せる社会にしていきたいと思っています。

また、プライベートでは、自分の過去を言語化しづらい人であっても、過去と折り合いをつけて、一緒に生きていくにはどうしたらよいのかを探っていきたいです。過去を消してしまうのではなく、「この経験があったから、今がある」と思える。きっとそれが、人の回復につながっていくと考えています。

生きづらさは、自分の大切なアイデンティティのひとつでもある

もしも、自分の過去やコンプレックスに縛られて動けなくなったら、「この苦しみがきっかけで、どんな工夫をしただろう?」と問いかけてみてほしいです。

その工夫は、見方を変えれば、生きづらさがあったからこそ、手に入れられた価値でもあります。

でも、今後、自分の過去やコンプレックスと折り合いをつける中で、その工夫が必要なくなる日が来るかもしれません。回復することや自分の理想を実現することは、それと引き換えになにかを失うことでもあります。

失ったものは、なくしてからでないと、気づくことができません。だから、なかなか理想に近づけなくても、焦らないでほしいなと思います。たとえ今苦しいとしても、気づいていないだけで、今の自分だからこそ手に入れた価値があるはずだから。

生きづらい、という感覚は苦しいものです。

それでも「生きづらさ」を悪者にするのではなく、自分の大切なアイデンティティとして光を当てられたら、きっと何か変わるんじゃないか。私はそんなふうに考えて、これからも生きていきたいと思います。

【写真】溢れるような笑顔を見せるきくかわさん

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(写真/馬場加奈子)