【写真】街頭で微笑んで立っているなかむらしんじさん

こんにちは!笑顔を届けるてんかん講師の中村真二です。

みなさんは、てんかんをご存知ですか?

てんかんは1000人に5人~8人の割合で発症すると言われていて、現在日本には60万~100万人の患者がいる病気。意識を失うなどの発作を繰り返し、自分の意志とは無関係に、勝手に筋肉が強く収縮する痙攣を起こすケースもあります。

僕は、そんな病気に16歳のときになりました。

それでも現在は、コワーキングスペースに勤めながら、全国各地で講演をしたり、「リンカーン中村」という名前で「てんかん患者のてんかん患者によるてんかん患者のためのブログ」の運営やTwitterなどでの発信をしています。

また、今月からは「リンカーン中村のてんかんチャンネル」と題し、Youtubeでの動画配信も開始しました。

僕が講演や、発信を通して自分の思いを届けているのには、理由があります。それは「てんかんで悩んだり、苦しんだりしている人の力になりたいから」です。

人生を変えた「お笑い」との出会い

【写真】笑顔でインタビューに応えるなかむらしんじさん

僕は、日本のほぼ真ん中に位置する、静岡県浜松市で生まれました。子ども思いで優しい母と、寡黙な大工職人である父との間に、兄、姉がいる末っ子として誕生し、すくすくと育っていきます。小さい頃は引っ込み思案で周りに馴染めず、兄や姉の後ろにくっついて過ごしていました。

【写真】なかむらさんの幼少期の写真。ポーズをとっているなかむらさんの両隣には、ピースサインをみせているなかむらさんのお姉さん、お兄さんがいる。

真ん中に写っているのが子どもの頃の中村さん

人見知りな僕でしたが、「お笑い」との出会いをきっかけに大きく性格が変わっていきます。

今でも忘れられません。小学3年生のとき、5歳上の兄が嬉しそうに、ビデオテープを持ってきて、僕が見ていたテレビを横取りしました。

また謎のアニメかなぁ。

そう思っていた僕は、流れてきた映像に衝撃を受けました。

そこには、1本のマイクを挟んで立つ、2人の男性。1人がおかしなことを言い、もう1人がツッコミを入れる。すると会場にいるお客さんから、笑いが起きる。そして、それが繰り返されていき、会場は次々と笑いが起きる。隣を見ると、兄も笑っているではありませんか!気がつくと、僕もお腹を抱えてゲラゲラ笑っていました。

このとき、僕は生まれて初めて漫才を見たのです。

この日をきっかけに、僕はお笑いにのめり込こんでいきました。兄のビデオテープを擦り切れるほど見返し、お笑い番組を探しては録画し、いつの間にか、ネタを覚えるようになっていきました。

ちょっとやってみようかな…

興味本位で、覚えたネタを、仲の良い友達に披露するとみんな笑ってくれたのです。それがとても嬉しく、新しいネタを仕入れては次々に披露していくようになっていきました。

【写真】微笑んでインタビューに応えるなかむらしんじさん

そこから、人見知りだった僕の人生は変わっていきます。クラスで学級委員になったり、小学4年生にして彼女ができたりしました。中学に入ってからは、その勢いがさらに加速していきます。テニス部の部長、応援団長、そして生徒会長を務めるまでになりました。さらには女の子に告白されたり、モテ期が到来していました(笑)。

人見知りな1人の少年は、お笑いを知ったことで、人気者へと変わっていったのです。

そして、高校では僕の人生を変える、さらなる出会いが待っていました。しかし、それは僕の人生を“最悪”へ変える出来事でした。

人生を狂わせた「てんかん」との出会い

16歳の誕生日から2週間が過ぎようとしていた、夏休みのある日。僕は部活の大会に向かうために、朝6時に自転車で家を出ました。

しかし、家を出て数分で、ある異変に気付きます。

・・・頭が重い?

単なる寝不足かと思いましたが、だんだんと重みは増していきました。近所の走り慣れた坂道を立ち漕ぎで登っていると、一瞬グラっと大きく揺れたのです。そして、体に軽い電流が流れたかのように、全身がブルっと震えました。

なんだこれは…

そう感じた直後、グラグラっと、さっきよりも大きな揺れを感じました。より強い電気を流されたような感覚になり、まばたきのコントロールも効かなくなって、目の前の景色が、パパパっと遮断されます。視界が少しずつ斜めになっていきました。

あれ、倒れ……

自分の体がゆっくり倒れていくのを感じたところで、僕の意識は完全になくなりました。

【写真】インタビューに応えるなかむらしんじさん

目が覚めるとサイレンの音が聞こえました。どうやら、僕が今横になっているこの車から鳴っているようでした。

大丈夫ですかー?聞こえますかー?

全身真っ白な服を着た人が、ゆっくりと、大きな声で、僕に声を掛けています。突然の状況に理解が追いつかない僕は、パニックに陥りました。

死にたくないです!助けてください!助けてください!!

藁にもすがる思いで、泣きながら叫んでいました。

大丈夫ですよー。落ち着いて下さいねー。鼻からゆっくり息を吸って、口からゆっくりと息を吐いてみてくださいねー。

目の前の人の冷静な声掛けにより、深呼吸を繰り返すことで、僕は次第に落ち着きを取り戻していきました。その後、救急隊員の人の質問に、少しずつ答えられるようになり、名前や住所を伝えました。

道路に倒れているのを発見した人が、通報してくれて、今病院へ向かっています。

救急隊員の人は状況を説明してくれました。しかし、冷静を取り戻しても、なぜそうなったのかが全く思い出せません。

搬送された病院では、1日入院することになり、MRIなどの検査を行いました。ただ、特に異常はなく「おそらく貧血だろう」という診断。

【写真】インタビューに応えるなかむらしんじさん

しかし、それから約半年に1回のペースで、同じ症状が出ることになります。3回目の症状は、友達とキャンプをしているとき。朝目を覚まして帰り支度をしている最中に、倒れてしまったのです。

その様子を見ていた友達から、「全身がすごい震えていた」という情報を得たことで、「てんかんかもしれない」ということに。そして2008年に浜松市内に開設したてんかんセンターで詳しい検査を行い、僕が持っている病気は「ミオクロニーてんかん」であることが判明しました。

てんかんの診断を受け、荒れだす高校生活

みなさんは、てんかんというと、どんなことをイメージしますか?

中には、「てんかん=意識を失って倒れる」イメージを持っている人もいるかもしれません。けれど、てんかんは人によって症状や原因が異なり、例えば発作の中には、意識を失わない発作もあります。なので「てんかん」は幅広い意味を持つ言葉なのです。

僕の場合は、全身あるいは手足などがピクっと震える瞬間的な症状「ミオクロニー発作」が起きた後、強直発作と言われる、いわゆる全身の発作に移行します。このとき、意識は全くありません。意識が戻った後も、何をしていたのか思い出すまでに時間がかかったり、一時的に記憶が飛んでいたりもします。

頭がものすごく重くなり、例えるなら富士急ハイランドのFUJIYAMAに1時間ぶっ通しで乗り続けたんじゃないかっていうくらいの重さを感じます。

【写真】真剣な表情で語るなかむらしんじさん

てんかんは身体への負担だけでなく、徐々に僕の心までも侵食していくようになっていきました。

忘れられないのは、修学旅行のときのこと。1日目を大阪で過ごした後、フェリーで九州に向かうというルートだったのですが、このフェリーの中で、発作が出てしまったのです。朝、目を覚まし支度をしていると、一瞬頭が揺れ「あっ、ヤバいかも…」と思いましたが、次の瞬間には完全に意識がなくなっていました。

2段ベッドの上段にいたはずが、目が覚めると先生の背中に担がれ、運ばれていました。

何があった?どうした?

そんな声と共に、廊下には同級生がずらりと並んでいました。

どいてー!道開けてー!

僕を背負った先生が、その中を駆けていきます。同級生たちの覗き込むような視線が重く、恥ずかしくて仕方がありませんでした。

こんな姿を誰にも見られたくない。

僕は顔をうずめて寝たふりをしました。目の前の現実が辛くて、とても目を開けられませんでした。その後、鹿児島市内の病院へ搬送され、MRIを撮り、検査をすることに。倒れた時に強打した右肩が「鍵盤断裂、脱臼」だと判明し、全治3ヶ月の大怪我を負ってしまいました。

てんかんの発作ではこんな風に、怪我してしまうことがよくあります。意識を失い倒れてしまうので、頭に巨大なたんこぶが出来たり、舌を噛んだり、顔に擦り傷を負ったり、僕自身様々な怪我を経験しました。

さらに、この時病院で先生から言われた言葉がとても印象に残っています。

首から落ちなくて良かったね。首から落ちていたら、骨が折れて死んでいたかもしれないよ。

僕はこのとき、自分の病気が死に直結する可能性があるものだと理解しました。

発作のタイミングが悪ければ、いつ死んでもおかしくない。

この日から残酷すぎる現実と、向き合うことになりました。それから「発作が出たらどうしよう」という恐怖がなかった日は1日たりともありません。僕は、この恐怖と一生付き合っていく必要があるのです。

そんな日々を過ごすストレスからか、学校生活も荒れ始め、部活を辞め、髪を金髪にしたり、耳にピアスを開けたりもしました。

病気を持っている自分なんて、本当の自分じゃない!

僕なりの現実逃避だったのでしょう。

僕を支えてくれる家族の存在

しかし、そんな僕のことを心配している人がいました。それは、僕の母さんです。専門医を調べてくれたり、「てんかんに良いらしいよ!」とすごーく苦いお茶を買って来てくれたり、明るく僕を支えてくれました。基本的に暗い表情を見せることはあまりなかったのですが、ある日、それが勘違いだったことを僕は知ります。

毎日のように友達と遊んでいた僕は、家に帰るのも遅く、24時を過ぎることもありました。僕が家に帰ると、母さんはいつもリビングのソファーで寝ていました。

部屋で寝ればいいのに。

そう思っていました。しかしあるとき、遅く帰って来る僕を見かねた姉が、「もっと早く帰って来なさい!」と怒りながら詰め寄ってきたのです。

なんで母さんがいつもリビングで寝ちゃってるか知ってる?あんたが心配で、帰って来るの待ってるんだよ。それでいつも遅いから寝ちゃってるの!

えっ・・・。僕は返す言葉がありませんでした。そのまま姉が続けます。

ほんとは心配で仕方ないんだよ。だけどあんたに言ったら、迷惑掛けるからって、いつも言わないんだよ!少しくらい気持ちわかってやんなよ。

僕の頬に、すーっと涙が流れ、あっという間に抑えきれなくなりました。自分がとんでもない愚か者だということを知りました。

いつも明るく振舞ってくれたことも、文句一つ言わず病院の送迎をしてくれることも、生活に制限をかけずに自由にさせてくれたことも、全て、僕に余計なストレスを掛けさせないためだったのです。

【写真】真剣な面持ちで話すなかむらしんじさん

母さんに対して申し訳ない気持ちになりました。同時に、本当にありがたく感じました。

それから、僕は自分の生活を見直し、なるべく早く家に帰るようにしました。それでも母さんはリビングで寝ていることがありましたが、「風邪引くから、部屋で寝なよ」と声を掛けてあげられるようになりました。

夢を追いかけ東京へ。恐れていた発作の再発

周囲の人の支えもあり、無事に高校を卒業できた僕は、ある決意を胸に秘めていました。それは「お笑い芸人になる」ということです。

苦しいときも、お笑いを見ている時間は、てんかんのことを忘れて、思いきり笑えていました。生活の一部にもなっていたお笑いは、次第に見るものから夢へと変わっていました。

てんかんがあっても、自分のやりたいことをやろう!

そう心に決め、高校卒業後はお笑い芸人になるために、東京にある松竹芸能のお笑い養成所に行くことにしたのです。一人暮らしをし、夢に向かって懸命に日々を送っていました。

【写真】勤務しているコワーキンスペースで丁寧な様子でインタビューに応えるなかむらしんじさん

この頃もてんかんの発作は半年〜1年に1回ほど起こったり、起こらないこともあったり。いつ発作が起こるかわからない恐怖と共に生活を送っていました。

そして養成所に通い始めて4ヶ月が経とうとした頃、発作が出て倒れてしまいました。恐れていたことが起きてしまったのです。一度発作が出ると、僕の心はてんかんに対する恐怖で支配されていきました。

このまま1人暮らしで大丈夫なのか?発作は治まるのか?

次第に、お笑いのことが一切考えられなくなりました。日々の生活がストレスで溢れ、1人きりの部屋で、毎晩泣くようになっていました。

このままでは、自分が自分じゃなくなってしまう…

そう感じた僕は、実家のある浜松へ帰ることに決めました。

「てんかんは武器にもなる」僕に希望を与えてくれた、友達の一言

浜松へ帰ってきた僕に残ったのは、絶望でした。僕を支えていた夢も失い、仕事を探そうにも、応募の際にてんかんがあることを伝えると、なかなか雇用してもらえません。そんな現実は、僕から生きる意味を奪っていきました。

てんかんさえなければ…。こんな人生なら、ないほうがいいんじゃないか…。

毎日毎日、暗い闇の中をさまよっていました。

しかし、そんなある日、僕の人生にポツリと小さな明かりが灯ることになります。それは、高校時代の友達と電話で話していたときのこと。

てんかんを持っている自分に、できることなんてないと思う…。

仲の良い友達だったので、自分の思いを素直に伝えてみました。すると、彼の口からは、驚きの言葉が返ってきたのです。

そんなことないよ。てんかんって、すごい個性じゃん。

僕は唖然としました。今までなくなればいいと思っていた病気を、“個性”と言われたのです。初めは理解不能で、バカにしているのかと思いました。それでも、彼は続けます。

てんかんは、なろうと思ってなれるものじゃない。てんかんに何かを掛け合わせるかで、きっとすごい武器にもなるよ!これから何でもやっていけるよ。

同情するわけでもなく、否定するわけでもなく、むしろ楽しそうに彼は話してくれました。確かに、例えばてんかんのある人がお笑い芸人だったら、アーティストだったら…その人にだからこそできることがあるかもしれません。

【写真】街頭で微笑んで立っているなかむらしんじさん

てんかんは個性。

電話が終わったあとも、この言葉が頭から離れることはありませんでした。

もしもてんかんが僕の個性だとしたら、何ができるだろう…。

「やれることなんてない」と思っていた僕の頭の中の歯車が、少しずつ回転を再開し始めました。

てんかんのことを正しく知ってもらいたい。同じ病気で苦しんでいる人の力になりたい

そんなあるとき、テレビから衝撃的なニュースが流れてきました。それは「てんかんの持病を持つ運転手が交通事故を起こし、死亡者が出た」というもの。事故は2011年4月には栃木県で、2012年4月には京都府で起きていました。

同じ病気の人が、取り返しのつかないことをしてしまった…。

僕は言葉を失い、息をするのが苦しくなり、心臓がギューっと締め付けられました。テレビでは連日てんかんのことが取り上げられ、ネットでは「てんかんの人は運転をするべきではない」「免許を取り上げろ」などの声が上がりました。

確かに、てんかんを申告せずに免許を取得したり、仕事に就くことには問題があります。悲しい事故を防ぐために、てんかん当事者の人たち自身の努力や配慮でできることはしていく必要があるでしょう。

同時に、てんかんのある人でももっと生きやすい世の中であればという気持ちも湧き上がりました。「てんかんを持っていても、受け入れてくれる世の中」「車がなくても就職しやすい世の中」であれば、もしかすると事故は起きていなかったかもしれません。

そのとき、僕の中にある感情が芽生えました。

多くの人にてんかんのことを正しく知ってもらいたい。同じ病気で苦しんでいる人の力になりたい。

少しずつ、自分のやるべきことが見えてくるようになり、講演活動をしようと決めました。

【写真】笑顔でインタビューに応えるなかむらしんじさん

初めての講演の機会を頂いたのは2014年。中学校の担任の先生が、中学2年生200人の前で話をする機会を作ってくれたのです。その後も、地元の小学校、中学校、高校などで講演の機会を頂き、自分の思いを伝えていきました。

【写真】学校で登壇しているなかむらしんじさん。多くの女子生徒がなかむらさんの話を真剣に聞いている。

学校での講演の様子(提供写真)

さらに2018年からはブログとTwitterを開始し、多くの方に反応を頂けるようになりました。

当事者だからこそわかる気持ちが伝わり、勇気づけられています。

薬を飲みたくないと言っていた娘に、中村さんのブログを教えたら薬を飲んでくれるようになりました。

こうした反応をもらう中で、僕自身も大きなものを得ることができました。それは、「生まれてきた良かった」という思いです。

【写真】街頭で笑顔で立っているなかむらしんじさん

てんかんを持っている自分に生きている価値なんてない。そう思っていた僕でも、てんかんを持っているからこそ、他の人に元気や勇気を届けることができたのです。

てんかんを通して経験してきた苦しい思いは、他の人を助けるためだったんだ。

講演や発信を通して、1番勇気付けられたのは、他の誰でもない、僕でした。

状況が変わらなくても、考え方を変え、行動に移すことで生き方は変わる

高校生のころ、僕はてんかんになったことを受け入れられず、発作が出るたびにひどく落ち込み、母さんにも強く当たってしまっていました。ある日、いつもは弱いところを見せない母さんが、僕の目を見ずに、声を震わせながら言いました。

…元気な子どもに産んであげられなくてごめんね。

……!!僕は何も言い返せなくて、自分の部屋に戻ると扉をそっと閉め、布団にくるまり、声が漏れないように大泣きしました。母さんは、顔に出さないだけで、本当は胸が張り裂けそうなくらい悩んで、今にも泣き出してしまうほど苦しい思いをしているのだと、気づきました。

僕がてんかんのことで悩み苦しんでいるとき、僕以上に悩み、苦しんでいる人がいたのです。

僕はこれまで病気で悩んだり、苦しんだりするのは、仕方のないことだと思ってきました。けれどそんな僕の姿を見て、周りの人も苦しい思いをしていました。

こんな僕を、文句の一つも言わず、毎日毎日支えて続けてくれる母さんを悲しませたくない。

ひとしきり泣き終えたあと、そう心に決めました。それから数年が経ち、講演活動をはじめ、あるとき新聞に取り上げてもらえる機会がありました。

【写真】なかむらさんが紹介されている新聞。見出しには「生きる幸せ 講演で訴え」と書かれている。

中村さんが掲載された新聞記事(提供写真)

「同じ病気を持っている人の力になりたい。そんな思いを伝えているよ」と、初めて自分の活動を母さんに伝えたのです。すると、母さんは、「あなたを産んだことを誇りに思う」と言ってくれました。そして、長年の思いが溢れたかのように続けます。

本当はずっと、ずっと申し訳なく思っていた。自分のせいで苦しい思いをさせたと思っていた。でも、それを乗り越えていると分かって、ほんとうに、良かった。これからも頑張ってね。

気づけば、僕も母さんもボロボロに泣いていました。

このとき、1つのことに気がつきました。それは“自分の考え方や行動次第で、自分だけではなく周りの人の人生にも大きな影響を与える”ということ。

もし、僕がずっとあのまま悩み続け苦しんでいたら、きっと母さんも悩み苦しんでいたことでしょう。しかし「てんかんがある」という状況が変わらなくても、考え方を変え、行動に移すことで、僕自身も母さんも救われたのです。

病気になったとしても、どう捉えるかで、生き方は大きく変わっていきます。もし、今何かの病気を持っていることで悩んでいる人がいるとしたら、自分の周りの人も心配の気持ちから悩んでしまっているかもしれません。

もちろん、自分のことで精一杯のなか、周囲の人のことも思いやるのはとても難しいことです。

でもきっと、身近な人に感謝を伝えたり、小さくても前向きな行動を取ることで、悩みや苦しみから少しずつ抜け出すことはできるはず。僕は自分自身、そして僕の周りの人のために、自分の日々の行動を前向きな方向へ変えていきたいと考えています。

てんかんを持っているけれど、誰よりも人生を楽しんでやろう!

【写真】街頭で微笑みながら立っているなかむらしんじさん

16歳でてんかんになり、今年で14年が経ちます。落ち着いた生活、過度な疲れやストレスがない日々、自分に合った薬。これらのおかげで、ここ8年くらいは、発作は出ていません。

仕事については2年半ほど前から、今の職場であるコワーキングスペースで働いています。様々な人に出会える場なので、自分も成長できると思ったからです。

それまではなかなか仕事に就けなかったので、面接のときに不安はありました。それでも、てんかんのことを隠さず説明し、そんな自分でもできることを伝えたら、快く採用してくれました。

僕はてんかんという病気を持っていますが、そこから多くのことを学びました。今後はそれらの経験を活かして、社会に貢献していきたいと考えています。

これは僕が面接のときに伝えた言葉です。てんかんを持っている事実ではなく、自分がてんかんのことをどう思っているのか。それを伝えることで、相手に与える印象もプラスなものになったのかなと感じています。

僕は、これまでたくさんの辛い経験をし、頭がごちゃごちゃになるくらい悩んだ日々の中で、決心したことがあります。

それは、「てんかんを持っているけれど、誰よりも人生を楽しんでやろう!」ということ。自分がこの世から去るときには、“てんかんを持っていたけど、それで良かった!”と胸を張りたいと思っています。

人生が不幸になるなんて、誰かが決めるわけでもないし、もちろん病気が決めるわけでもありません。自分で決めることができるのだと、僕はてんかんになったからこそ知ることができました。

これを読んでいるあなたも、何かコンプレックスを抱えていたり、悩みを持っているかもしれません。けれど、だからと言って“必ず人生が不幸になる”わけではありません。自分の足で、幸せになる道を歩むことができます。

僕の記事を読んで、1人でも多くの人が、その道を歩んでくれたのなら、僕も嬉しいです。いつかその道の先で、お会いできることを、今から楽しみにしています。

僕にはこの先の目標があります。それは、本を出版し、全世界で販売すること。そして歌で自分の思いを届け、武道館でライブをすることです。

てんかんで悩む人たちに僕の思いを届けることで、少しでも元気や勇気を届けたいです。そして、てんかんがある僕自身がもっと人の目に触れることで、てんかんを知ってもらうきっかけになればいいなと考えています。それが、僕の好きな“歌うこと”で表現できたら、尚、嬉しいですね。

これからも僕は進み続けます。1人でも多くの人が、“てんかん”という病気を、新しい可能性に“転換”できるように。

【写真】街頭で満面の笑みで立っているなかむらしんじさん

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(編集・撮影/松本綾香)