【写真】街頭で車椅子に座り、笑顔のみおしんさん

こんにちは!麻酔科専門医のみおしんです。この名前は中学生のころの生物の授業に出てきた筋肉の繊維の「ミオシンフィラメント」が 由来で、友人が名付けてくれました。

私は「線維筋痛症」という病気を発症して20年になります。その間に、寝たきり半年を経て、8年半医師として病院勤務を経験。この8月にフリーランスとなりました。そして10月に医療福祉分野の情報やサービスとエンターテイメントをかけ合わせたWiTH PAiN(ウィズペイン)という事業を始めたばかりです。

線維筋痛症は原因不明で強い痛みや、倦怠感に襲われる病気。治療法は確立していません。いたみやつらいことに日常を支配されると、楽しむことは後回しになるし、だんだん楽しいことをすること自体に罪悪感を感じるようになります。でも、人は楽しいこと、嬉しいことがあるからこそ生きていけるんだと、私は、思っています。

「いたみがあっても大丈夫」「いたみと一緒に生きて行こう」というメッセージを、活動を通して伝えていきたいです。

今回の記事では、私の持病である線維筋痛症に対して、どういった工夫や生活をしているのかお伝えします。

体を動かすことが好きだけれど、異常に疲れやすかった学生時代

私は保育園のころから運動が大好きで、かけっこでは男の子と張り合ったりするような性格でした。小学校に入ってからは中休みにバスケットボールを、放課後はサッカーやキックベース、泥警などをして遊んで、とにかく外で走り回ってばかり。

【写真】幼少期のみおしんさん。柵のようなものに囲まれた空間で遊んでいる。

子どもの頃のみおしんさん(提供写真)

姉がスラムダンク世代でバスケ部所属だったことに影響を受けた私は、体力をつけるためにも小学6年生からバスケットをはじめました。大学6年生までの約20年間は、完全にバスケ少女として過ごします。

体を動かすことが大好きな一方で、朝がしんどくてよく遅刻し、体を動かしていくうちに元気になっていく、という症状がありました。

【写真】街頭で車椅子に座り、微笑むみおしんさん

本当にだるくて動けない日は、近所のクリニックに行って点滴を1本受けてから学校に行っていました。点滴を受けると、30分くらいで嘘のように回復するのです。そのため先生も家族も、私の症状を気持ちの問題と思っていたように感じます。

ポカリスエットみたいな点滴ですぐ回復するなんてへんだなー。

私自身も不思議に思いながら、それでも定期的に、点滴をうけてから学校に行く、という過ごし方をしていました。

私の身体が軽く感じるのは、運動したり、入浴で筋肉が温まるときだけでした。寒いと悪化するので冬がくるのがいつも怖かったです。毎年両手がパンパンにむくんで、指はつるつる。こわばってしまい手を握りづらくなるは、ボールは滑るは痛いは……。でも、これも毎日のことなので「冬の生理現象」と解釈して誰にも相談せず、シュートなどはひたすら練習でカバーしてしまいました。

ただ、やはり疲れやすさが異常だったので、大学に入る前と、就職する前のタイミングで採血で不調の原因を探しました。結果は、ホルモン値含めほぼ正常値。不調の原因は不明のまま仕方なく、週1,2回の接骨院、整体、中国針、アロマオイルマッサージなどに通って、どうにか元気になろうとしていました。

産婦人科医を目指す矢先に発症した、ウイルス性腸炎。そのまま動けない状態に

1999年、高校1年生の時に、少年事件を題材にした草彅剛さんと西村雅彦さん主演の刑事ドラマ「TEAM」を観て、少年犯罪の分野に興味を持った私は、彼らが犯罪を起こす前の段階で助けられないかと精神科医を志すようになります。ですが、大学4年の座学で勉強してみたら、彼らの気持ちに寄り添いすぎて、自分自身が精神のバランスを崩してしまいそうだと気づき断念しました。

その後大学5年の病院実習でお産に立ち会ったことがきっかけで、産婦人科医に夢がシフト。大学時代の成績は学年下位20人の中にはいるほど悪かったですが、猛勉強してどうにか国家試験をパスし、やる気満々で研修医となりました。

【写真】親友と一緒にほほえむみおしんさん

大学6年卒業時に、親友と一緒に(提供写真)

ところが、初めてのフルタイムでの仕事で、徐々に疲労が蓄積。研修先の麻酔科ペインクリニックに週3回通い、トリガーポイントや肩関節内注射、神経ブロック、遠絡、漢方などの内服治療を行い、なんとか勤務にあたっていました。

そして2010年冬、25歳、ついに限界が来ます。下痢、腹痛、おう吐などの症状がある「カンピロバクターウイルス性腸炎」で倒れ、その後起き上がれなくなってしまったのです。

【写真】街頭で車椅子に座り、真剣な表情のみおしんさん

今までは体が重くても気合で動けていたのに、この時は鉛の鎧を着ているような重さで、もう全然動けない状態。自分の身に何が起きたかわかりませんでした。

動きたいのに動けない、食べたいのに食べれない、寝たいのに寝れない…。

これでは研修先に迷惑がかかると2010年5月から休職に入りましたが、この頃の記憶はもう曖昧です。病院では「全身倦怠感に襲われる病気、『慢性疲労症候群』の疑いがある」と言われ、専門医が大阪にいることは突き止めましたが、通う元気はなく、もやもやしたまま自宅療養と通院を続けました。

1日12時間以上寝続け、ものすごい倦怠感に襲われる。半年間続いた寝たきりの日々

人生の夏休みということにしよう。

そんな風に最初は半年くらいゆっくりすれば治るだろうと、焦りすぎないようにしていました。ですが、精神的には元気なのに、1日12時間以上寝続けたり、目が覚めると身体が押しつぶされそうな倦怠感に襲われる日々が続きます。

体重はみるみる落ち、最低体重は42㎏。自分が骨と皮のようになっていくのが怖かったです。

体重は軽いのに体感は鉛を背負っているなんて、そんな病気があるのか…

ずっと自問自答していました。

半年を過ぎたころからようやく少しずつ外出できるようになりましたが、近所に買い物に行っても車に戻ると動けなくなって、そのまま2時間休むしかない、そんな繰り返しでした。

【写真】街頭で車椅子に座るみおしんさん

検査をしても何も異常はない。病名もわからない。意味のわからない症状に襲われる毎日。

こんなに身体がしんどくて治る見込みもわからないし、ただただ時間が過ぎていく状況なのに、なんで死にたいって思ったらいけないのか。もし私が死にたいと言ったら、うつ病と言われてしまうのだろうか。

そんなふうにネガティブな気持ちになり、「生きなくてはいけない世の中」は残酷だと思ったりもしました。

また「こんなことになるならもっと好きなことやっておけばよかった」と激しく後悔することも。

もし次また動けるようになったら、いまやりたいことはちゃんとやろう。

そう強く思いました。

【写真】インタビューに丁寧に答えるみおしんさん

転機は、大学時代の親友の結婚報告でした。

もう死ねない。

そう悟りました。だってそんなハッピーなエピソードを聞いた直後に私が死んだら、彼女は自分を責めてしまうかもしれないから。「死にたい」なんて言っている場合じゃない。

1年後、彼女の結婚式で心からお祝いをするためにどうしようか、何かに頑張っている姿を見せたいな。

そう思い、仕事を再開できる方法を探しはじめました。

不調とは一生付き合っていかなければならないなら、今のうちに好きなことをやっておこう

とにかく細く長く続けられそうで、やりがいも感じられる仕事。

そう考え選んだのが麻酔科でした。一人の患者さんの全身状態と手術の進行状況に合わせて、医療行為を進める麻酔科医。働き方のフォーマットがある程度決まっている仕事だと思ったのです。麻酔の導入が終われば、手術中は基本的に座りながらの監視業務がメインとなるので、手術終了に向けてペース配分が出来ると考えました。

もちろん薬をいくつも扱いますし、量や投与経路を間違えれば命に直接関わるリスクがあり、慎重に仕事をしなければなりません。それでも慣れていくことで、なんとか続けていけるのではないかと考えました。

働く上では、見栄を張らないこと。出来ないものは出来ないと、不安も隠さず周りに伝えること。自分が間違った時に誰でも突っ込みやすくなるよう、誰に対してもフラットでいることを心がけました。

また、患者さんが具合が悪い中、不安の中、何時間も待ってようやく外来や手術室に入ってくることを、私は身をもって知ってるので、労いながら診療にあたることができました。

【写真】街頭で車椅子に座り真剣な表情でインタビューに答えるみおしんさん

2012年に週3回からスタートさせた復職。最初の2年は立って仕事をするのがやっとで、合間を見つけては机で回復体位をとりながら勤務していました。徐々に週5.5日まで増やしましたが、結局動けなくなってしまったため、週4日勤務で固定。週1,2回マッサージを受けながら働くギリギリの生活を続けました。

それでも、また働けるようになったことは嬉しくて、仕事が大好きでした。

この不調とは一生付き合っていかなきゃならないんだろうな。どうせしんどいなら、今のうちに好きなことをやっておこう!

2014年にはこう開き直るようになりました。まずは、次の寝たきりになった時に寂しくないように、新しい友人を作ろうと、土日は医療関係以外のコミュニティに参加。カメラや音楽、映画と、趣味が合う友人たちができたおかげで、ガラッと毎日が変わりました。好きが好きを呼び、よい循環が生まれ、自尊心がようやく戻ってきました。

それでも友人に、私の感じている不調の話はしませんでした。伝えたところで誰にもどうにもできるものではないので、困らせてしまうと考えていたからです。「超疲れすいキャラ」として押し通していたので、「みおって自分の話しないよね」と言われると、内心胸が痛くなったこともありました。

原因不明の疲れやすい体質は「線維筋痛症」だった

【写真】街頭で車椅子に座るみおしんさん。後ろには多くの人々が行き交っている。

そんな中、2017年秋、歌手のレディ・ガガさんが線維筋痛症だというニュースを知りました。線維筋痛症は一般的に「風が吹くだけでも全身に激痛が走る」と言われるほどの病気。私も医師として線維筋痛症の存在は知っていたので、歌って踊れる線維筋痛症なんてあるのかと、一瞬信じがたがったのを覚えています。

ですが、人の“いたみ”に向き合う麻酔科医としての視点で改めて考えたとき、ある気づきが生まれました。

確かに“いたみ”って、チクチク、ピリピリ、ずーんとした痛みなど、色々な種類がある。もしかしたら私の感じてる「重さ」や「つかれ」も、線維筋痛症の「いたみ」の一つなのかもしれない。あれ?私はバスケができる線維筋痛症かも?!

2018年1月に受診し、初回で線維筋痛症と診断されました。半信半疑でうけた点滴で本当に体が楽になったのでびっくりしましたが、ようやく診断名が見つかり、心からほっとしました。

苦節20年、長かったけれど気のせいではなく、病気だとわかり、治療を始めることができたのは、本当に良かったと思います。

“ずっと健常者ぶっていた”自分に気づく

友人たちに、不調の原因が線維筋痛症だったと伝えると、驚きとともに、妙に納得して「原因がわかってよかったね」と言ってくれたり、病気やヘルプマークのことを調べてくれた子もいました。遊んでいる時に「疲れた?休む?」と声をかけてくれることが増えて、私も以前よりずっと素直に「休みたい」と言えるようになりました。

基本的に周囲の人たちは、病人としててではなく、以前と変わらない態度で接してくれたのがとても嬉しかったです。

そう言った変化の中で、私自身、これまで変に同情されたり、信じてもらえないのが怖くてずっと健常者ぶっていたのだと気付きました。

また、線維筋痛症の症状の中には、新しいことを覚える記憶力の低下「記銘力障害」があります。病院で働く上で、もともとすでに「うっかり」キャラとして定着していて、他科の先生やコメディカルの仲間からサポートを受けてきていたので、病気を公表したあとも特に変わらず、支えてくれました。

【写真】街頭で車椅子に座るみおしんさん

一方、当時所属していた麻酔科内では、「病気を受け入れてもらえていない」と感じることもありました。おそらく、元来の「痛みが激しくて日常生活が難しい」という線維筋痛症のイメージと私の症状とでは、解離がありすぎたのだと思います。

机で回復体位をとっていると「寝るな」と注意をされる、体調が悪くてノーメイクでどうにか仕事をしていると「最低限の化粧はマナー」と笑われたり、麻酔科医は日常業務で麻薬を取り扱うことから「“麻薬中毒”なんじゃないのか」と疑われてしまったり…。悔しい想いをたくさんしました。

そして2019年4月。専門医を取得したタイミングで、フリーランスの道を歩くことにしました。

ダンスにモデル講座など、楽しくリハビリに励む

専門医取得のための試験勉強と仕事で頑張りすぎた反動で、退職後は重力が5倍の世界で生きているような全身倦怠感で、週3日ほど寝込む生活になりました。箸や指も重たく感じ、身体の細かいコントロールがしづらくなり、食べ物をこぼしやすくなったり、脚が持ち上がらずなにもないところでつまづいてしまうことも。

電車の小さな揺れに抵抗することすらも疲れるようになり、10年前の症状が多発しました。

歩くこと、立つことがしんどい状態をどうにかできないか…。

考えた末、2019年6月からは電動車椅子WHILLを使用して移動の消耗を減らせないか、実験を開始。使い始めてすぐに、身体の疲労感が変わりました。また実験を続ける中で、「1日3000歩台であれば毎日動ける」ということがわかってきたのです。移動の消耗が減った分、好きなことに体力をきちんと使えるようになりました。

【写真】街頭で車椅子に座るみおしんさん。車椅子にはうぃると書かれている。

現在の治療は、薬物療法としての服薬と、月に1,2回程度点滴を受けるためにクリニックに通っています。以前は運動療法にホットヨガを利用していたのですが、10分ほどしか立っていられなくなってしまったため現在はお休み中。代わりに、友人が所属しているダンスチームに参加させてもらっていました。この冬からまたヨガを再開することを目標にしています。

また、以前からモデルの勉強をしたかったことと、歩き方を改善すれば疲れづらくなるかもしれないと考え、モデル講座を受講することにしました。ダンスとウォーキングの、楽しい自己流リハビリプログラムです。

色々なことを試している私ですが、なにかを決断するときは、例えば先ほどのモデル講座のように、複数の理由づけをしてから実行しています。身体に制限があるからこそ、厳選しないといけないと感じているからです。

それは本当に今やりたいのか、やるべきなのか、寝たきりになってからでもできるのか、今しかないのか。

タイミングも重要で、条件が揃ったものから挑戦しています。そしてやらない、という選択も大事にしています。

みんなが社会復帰しやすく、生きやすい世の中に

幼少期を含めると、30年近くしんどい思いをしてきたので、こんな辛い思いをしなくても、みんなが社会復帰しやすく、生きやすい世の中にしたいという思いがあります。

近年では働き方も、ようやく多様性が認められてきました。フレックス勤務、ワークシェアリング、時短勤務、外出ができなくても在宅勤務、分身ロボットのOriHimeや、 ボディシェアリングをコンセプトとしたロボットのNIN_NINに入って勤務だってできる時代です。

私は、どんな病気や課題があろうがなかろうが、その人個人個人の得意分野を活かして働ける仕組みを作りたいです。全ての人が自尊心を持って、ハッピーに生きていてほしい。

来年の目標は、パラリンピックに関わること、ヘルプマークとこころのバリアフリーを浸透させること。

将来の夢は、楽しく生きやすい社会に変えて、10年以内にカンヌライオンズにノミネート。レッドカーペットをモデルウォークでかっこよく歩きたいですね(笑)。

欲張りなんで、たくさん言っておきます。

【写真】街頭で車椅子に座り笑顔のみおしんさん

絶望を知ったからこそ、全部ハッピーに捉えることができる

線維筋痛症は、日本ではデータとして、200万人の患者がいるはずですが、診断を受け治療までたどり着けている人は、わずか2万人しかいません。

また診断がついても、私の場合は似た症状の人を見つけるのが難しかったです。統計では60人に1人いるはずなのに、探しても探してもなかなか見つけられない。

やっぱり私だけ違うの?誰も同じ症状の人はいないの?

不安を感じていた分、ようやく出逢えたときは、感動と嬉しさが募り、一人じゃないと勇気をもらいました。今は線維筋痛症患者4人のグループラインで、症状あるあるを言えるのがとても嬉しいです。愚痴も言い合うけど、傷の舐め合いというわけでもなくて、「こんなことがあった」「こう言われた」とこぼしながら、励まし合っています。

病院を飛び出して逢いに行った人たちは、皆、世知辛い世の中を良い方向にしようと、自分の使命に燃え、行動している強くて優しい人ばかりでした。彼らの背中を追いかけていけば必ずできると思えたので、私は活動を始められたのです。世の中はまだまだ、捨てたものではないと、今は心の底から思います。

【写真】笑顔のみおしんさん

私はこれまで体調を理由に、思い出せないくらいたくさんのことを諦めてきました。もしかすると、ずっと我慢してきた分が今、表出されているのかもしれません。今までこしらえた悔しさ、憤り、悲しみなどのネガティブな感情をガソリンにして、超ポジティブエネルギーに変換できている気がしています。

というのも、1度寝たきりで動けない経験をすると、働けることが嬉しいし、誰かと会ったり話をする他愛もない日々がありがたいと思えます。絶望を知っていると、全部ハッピーに捉えることができるし、失敗したら「このやり方、伝え方はダメだったんだ。次はこうしてみよう」と、経験としてとらえるようになりました。

残された時間で本当に何がしたいかを考えると、あとはもう、実行するだけです。

約30年ずっと大変だったから、私は今が一番楽しいし幸せです。先のわからない未来に不安がるよりは、「何があってもきっとなんとかしてみせるし、なんとかできる」と信じています。

知らない世界はたくさんあって、全部を知ることなんて、到底無理なことでしょう。だからこそ今つらい状況にいる人には、自分がいま見ている世界、知っている世界だけが全てではないことを伝えたいです。

「今」を大切に、「今やりたいこと」に集中していれば、きっと誰かが助けてくれる。仲間は必ずいるので、探すのを諦めないでほしい。死を選ばないでほしい。カッコ悪くてもじたばたあがいてほしい。必ず同じ志の人はいるから。

【写真】街頭で車椅子に座り満面の笑みを浮かべるみおしんさん

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(編集/松本綾香、写真/馬場加奈子)