こんにちは!たむらあやこです。

私は、2002年に難病の「ギラン・バレー症候群」になり、2年以上寝たきりの生活を経験しました。闘病中は体中の痛みで24時間寝ることができず、「つらい」「具合悪い」としか考えられない生活が続いたのです。

そこから私が立ち直れたのは、「大好きだった絵を描けるようになりたい」という気持ちからでした。

ギラン・バレー症候群は、特定の細菌による食中毒や一部のウイルスの感染がきっかけで、自分の抗体が自分の神経細胞まで攻撃してしまう自己免疫疾患の難病です。

いまも手足の感覚疾病などの後遺症によって、手足の感覚はありません。それでも、絵を描きたい一心で挑戦し続け、2016年に闘病記をエッセイ漫画として刊行することができました。今は漫画家として、自らの生い立ちや生活について、表現を続けています。

今回は、これまでの闘病経験や、私の今の仕事や暮らし、生き方についてお話できればと思います。

絵が大好きだった子ども時代。でも将来を考えて選んだ、准看護師の道

私は幼いころから絵や漫画を描くのが好きで、紙とペンさえあれば、1日中絵を描いているような子どもでした。小学校では、漫画を描くのが好きな友達同士で、漫画の交換日記をしていたことを覚えています。交換するたびにコマが増えていく様子は、物語が広がっていくようでワクワクしました。それが、漫画を描いた初めての経験です。

高校生のときはバイトに打ち込みながら、趣味で漫画を描き続けていました。「美大に進学したい」という思いもありましたが、実は父がギャンブル依存症だったこと、安定した職に就けなかったこともあり、我が家はあまり裕福ではなかったのです。なので美大に進学できる余裕はなく、泣く泣くその道をあきらめます。

そして身内から、「資格のある仕事がいい。看護師になりなさい」と言われて、医療の道へ進むことを検討しはじめました。

絵で食べていけるはずがない。貧乏にはなりたくない。

そう考えていたし、自分でも「手に職を持っているほうが安泰だ」と思っていたので、どこかで夢をあきらめるのは仕方がないと思っていたのです。

資格をとって安定した職業につこうと考えたとき、看護士ではなく理学療法士になる道も考えたのですが、地元には学校がなく、一人暮らしをする余裕もなかったことから断念。

「仕事をしてお金を貯めてから理学療法士の学校にいきなおそう」と考え直して、なんとか准看護師の資格をとることができました。資格を取得した後、病院の小児科で仕事をはじめました。もともと人の役に立つことが好きだったこともあり、「患者さんに喜んでもらえた」と感じられることが嬉しかったです。

私はよく注射のあとに貼るパッチに、子供に人気のキャラクターの絵などを描いていたのですが、「それを貼るためにがんばる!」と言ってくれたことなどがありました。

また、病院にいつも先生や看護師さんの似顔絵を描いてくれていた子がいたのですが、半年くらい経って私のことも描いてくれるようになり、その時は私もメンバーとして認められたようでうれしかったですね。他にもずっと薬が必要だった子が、薬がいらなくなって来なくなったことを知った時などは、回復が結果としてあらわれたようで喜びを感じました。

病院で回復する子どもたちの姿は、自分にとって大きな励みとなりやりがいも感じられ、「看護師を目指すのもいいな」と感じはじめていました。

40度の高熱、湿疹…。体に様々な症状が出始めた

働きはじめて2年目の秋、インフルエンザワクチンを打つ人が増えたことや、風邪の流行によって病院がとても混んでいたので、忙しい日々を過ごしていました。当時、私はずっと風邪が抜けないような症状が続いていましたが、普段から子どもの風邪をもらうことも多かったので、大したことはないだろうと思っていたのです。

しかし、体調は次第に悪化して、1週間以上40度の高熱がひかず、腰に湿疹まで出てきました。

もしかするとただの風邪ではないのではないか?

そんな気持ちも胸に浮かびましたが、当時スタッフが何人も入院して人手不足だったこともあり、「休みたい」と言い出せる雰囲気ではありませんでした。今でも、「もしあのとき働くことをやめていたら、ギランバレーになっていなかったかもしれない」と後悔します。でも、当時の私は無理をして働き続けてしまったのです。

早く症状を治そうと病院の血液検査を受けてみると、入院しなければいけないレベルの炎症反応が出ました。それでも私は、勤務先の医師に「大丈夫です!働けます!」と言ってしまいました。あとからわかりましたが、このとき私は、ギラン・バレー症候群と胃潰瘍、髄膜炎が発症している状態だったのです。

検査をしてすぐに、職場で突然足に力が入らなくなり、私自身「さすがに様子がおかしい!」と思いました。周りも「すぐに病院にいきなさい」と言ってくれたので、近くの病院に向かったのです。

最初にいった病院では「風邪です」と言われたのですが、もっと重大な病気なのではないかと思い次に行った別の病院では、さらに大きな病院を紹介されました。そこで入院しながら検査を受けたのですが、最初は髄膜炎の症状が強く出ていたため、なかなか正しい診断をしてもらえませんでした。手足が腫れたり足の感覚がなくなったりしていたので、医師によると髄膜炎以外に何か原因があるとのこと。

私は看護の知識があったこともあり、自らの症状を冷静に分析して、命に関わる病気も覚悟していました。

もうダメかもしれない。

でもなぜか意外に悲観したり「怖い」という感情はありませんでした。

難病であるギラン・バレー症候群を告知されて

入院して数日後、「ギラン・バレー症候群です」と医師から告げられました。

ギラン・バレー症候群は、特定の細菌による食中毒や一部のウイルスの感染がきっかけで、自分の抗体が自分の神経細胞まで攻撃してしまう自己免疫疾患の難病です。症状としては、四肢筋力低下や顔面神経麻痺、感覚障害、自律神経障害がなどがみられます。

私は看護の勉強を思い返して、自分は教科書に書かれていた症状と一致していないから、当初は「本当にそうなのかな?」と思っていました。ただ、担当医がこの領域に詳しく、とても勉強熱心な人だとわかったので、次第に「この人が言うならば間違いない」と思えました。少し時間が経ってから病名に納得できるようになったのです。

そのときの私は、それまで家庭環境の悩みなどつらいことがとても多かったので、「執着するほどの人生ではない」と考えていました。また、看護の勉強をしていたので、「人はいつ何があるかわからない」という覚悟も多少出来ていました。そのせいか、病気がわかっても不安や恐怖はありませんでした。

いつ死んでもいい。

これで終わるなら終わるでいいか。

そういう気持ちで人生に執着がないことが、自分にとっては身軽で楽だったのかもしれません。

つらくても死ねないなら、生きるしかない

ギラン・バレー症候群だとわからないときは、体調が悪くても「早く准看護師に復帰したい」と思っていました。でも病名がわかってから、予後が良好ではないことは、早い段階でわかりました。体の感覚が戻らず、症状が悪化し続けるなかで、だんだんあきらめの気持ちが生まれてきたのです。

全身の猛烈な痛みは一日中続き、息が吸えなくなる、ものが二重に見える、体温調節ができないなど、さまざまな症状が次々に出てきました。眠ることさえできず、考えるのは「痛」「つらい」「具合悪い」ばかり。

「これから一体何ができるんだろう」と自分の行く末を案じながらも、「一つでもいいから症状が減ってほしい」と願う日々でした。ときには「つらすぎて死にたい」と思うことまでありました。そんな大変な日常を支えてくれたのは、家族や親戚、友人たちです。

母はずっと私に付き添ってくれたし、ギャンブル依存症で仕事についていなかった父は、ギャンブルを絶ち、私の治療費を稼ぐために、一生懸命働き始めました。さらに、育ての親のような存在のおじさんとおばさんも心配して「早く治れ」と声をかけてくれて、ほぼ毎日お見舞いにきてくれました。

心配した友人たちは病院までお見舞いに来て、泣きながら心配してくれました。そのとき、「私のことをこんなに思っててくれたのか」といううれしさで、本当に心強く感じたものです。

小中学校のときに漫画をいっしょに描いていた友人の中には、プロの世界に飛び込んだ人もいます。漫画を仕事にしている友人たちが、こんなボロボロの状態の私に「漫画を描きなよ」と言ってくれました。

漫画家として働くことの厳しさを知っている友人が、「できるで」と背中を押してくれたことは、本当に嬉しかったです。その友人の言葉で前を向くことができたと思います。

きっと人って、自分が死ぬときには何となくわかると思うんです。でも、私は「死にそう」「死にたい」と思う一方で、不思議と死ぬ気はしませんでした。

死ねないなら生きるしかない。

私の中には、消去法で「生きる」が残ったのです。そして、どうせ生きるなら、自分のやりたいことをやろうと強く感じました。

ギラン・バレー症候群が治らないとしても、私は絵を描きたい

治療を行って1年がたち、相変わらず症状は続いていましたが、医師から「これ以上良くなることはない」と告げられました。

そのとき、これまで一緒に頑張ってきた医師に「突き放された」と感じて、大きなショックを受けてしまい、「1人になってしまった」という孤独感を覚えたのです。

後から知ったのですが、医師の思いとしては、「症状をよくすることが難しいからこそ、現状に慣れていって、元の状態に近くなるようリハビリする時期になりましたよ」と伝えたかったそうなのですが、思い違いが生じてしまったようです。

とにかくそんな状況になり、私は自分の頭の中で「自分会議」を開きはじめました。

あきらめよう。もう何もしないで生きていく?

でもそれで一番損するのは自分じゃないか?

たくさんの問いが自分の頭の中に浮かびます。このときまだ23歳だったので、これから死ぬまであきらめたまま生きるのは地獄ではないか、と感じました。また、自分で自分の人生を放棄するのは、生きながらにして死んでいるようにも思ったのです。

そして悩んだ末に私が出した結論。

自分で自分の人生を楽しみたい!

せめて絵を描けるようになりたい

そんな声が、自分の中から自然と生まれてきました。落ち込んで目の前の“不幸”だけをみている時間も、“不幸”をみながらもやりたいことをする時間も両方経験するならば、前者のような時間は短縮したほうがいいと考えたのです。

それからは絵を描くためできることをしたいと考え、握力をつけたいから出来るだけ手を動かす、など日常の小さな事すべてを絵のための「リハビリ」と意識してやるようになりました。

必死に痛みに耐えて、リハビリを重ねる日々

その後は、症状を悪化させないために、病院を転院してリハビリを始めることになりました。私は1年以上尿パッドをつけて生活していたので、転院するまでに一人でトイレにいけるようになる必要があったのです。

リハビリの末なんとかトイレに自力でいけるようになり、1年3ヶ月ぶりに病院を退院して、リバビリの専門病院へ転院しました。

そこでは、最初は座っていてもめまいがするような状態でしたが、理学療法士とのリハビリが始まりました。毎日少しずつ立つ練習や歩く練習をする中で、1ヶ月後には短い距離ですが、歩けるように。さらにリハビリを続け、3ヶ月経つころには寝た状態からなんとか起き上がることもこともできるようになったのです。

そして、退院して約2年ぶりに自宅に帰ることができました。この頃はまだまだ後遺症が激しく、その日その日を生きるのに必死でした。なので日々「痛い」「具合が悪い」という感情ばかりで、自分がリハビリで前に進んでいる感覚はなくて。数年かけて少しずつ良くなってる事にあとから気づく、という感じでした。

自分のためだけでなく、誰かのためにも、絵を描きたい

自宅に戻ってすぐ、やっぱり心の奥底から込み上げてきたのは、「絵を描きたい!」という気持ち。そのうち毎晩描きたいネタを考えているうちに朝になって眠れなくなることを繰り返して、ついに3日間寝れずに、体調を崩してしまったのです。このままずっと描かなかったら、私は死んでしまう!とすら思った瞬間でした。

もし私がもともと絵を描けなかったら、そんなことは思わなかったと思います。でも、絵を描くのが大好きで「描ける喜び」を知っていたからこそ、描けていた当時の自分自身を思い出してしまうのです。

頑張れば、当時の自分の実力をもう一度発揮できるかもしれないと思うと、ますます気持ちは焦りました。

描きたい、描きたい!悔しい!

何かをつくりたくて、頭の中のものを現実に表現しないと、まるで気が狂ってしまうように感じていました。まだ体は思うように動きませんが、それでも私は絵を描きはじめることにしました。

最初はリハビリ感覚で、指で描くことからスタート。

当時たむらさんが描いていたイラスト(提供写真)

手には力が入らなかったので、直に色画用紙に絵の具を出し、少しずつ絵の具を塗り重ねて、金魚やマンボウの絵を図鑑を見ながら描きました。描き終わったあとには、「これからもっと描くぞ!」という気持ちを込めて裏に残った絵の具を全部混ぜて、「1枚目」と描きました。

次にボールペンを使いましたが、力が入りすぎてしまったり、ちょっとでも気が抜くとボールペンが離れてしまったりして、苦労しました。きつく握りすぎて、ボールペンが手に食い込んであざができたこともあります。1年ほど描く練習を続けて、ようやく筆で絵が描けるようになりました。

その後、リハビリで入院したあとも週2回通い続けていた病院では、私が描いた絵を飾ってもらえることになりました。その私の描いた馬の絵を、毎日みてくれている青年がいました。彼は競馬の騎手をしていましたが、落馬事故によって重度の脳の障害を負うことになってしまったのだそうです。

彼のために馬の絵を描きたい。

その思いに突き動かされて、私は絵をプレゼントすることにしました。

時間はかかりましたが、なんとか完成させた馬の絵を渡すと、それまで起き上がることさえできなかった彼が嬉しそうに自力で起き上がり「ありがとう」と言ってくれたのです。このとき、私は初めて絵を描くことが誰かの役に立てることを知りました。

これからは自分自身のためではなく、誰かのために絵を描きたい。

そう心から思いました。

自分の経験を描くことが、誰かの役に立つのなら

誰かのために絵を描くという夢が生まれたその頃、父が以前借りていた借金が残っていたことが発覚して、真冬に電気を止められるくらい我が家は貧しい状態に。もはや生きることに恐怖を感じる貧しさだったので、私もなんとか働かなければと必死でした。

「どうしたら働けるんだろう?」と悩んだ末、「自分が人よりできることは絵しかない。描くことを仕事にできるかどうか、自分の実力をためすなら今だ」と考えたのです。そして、「早く自分の絵が人の目に触れ、稼げるレベルにまでならなければ!」という思いに駆られました。

そこからは月にいくつかのイラストのコンテスト応募し、チャンスをつかもうと頑張日々。「これから仕事にするなら慣れるためにも、少しきついくらいの方がいいのでは」と考え、ちょっと大変だと感じるくらいの量に挑戦しました。

そしてとうとうイラストで仕事をもらえるようになったのです。

しかし、単発で終わる仕事が多くなかなか仕事を継続できません。そこでよく考えた結果、「イラストではなく漫画が描けるようになったら、継続して仕事ができるチャンスが広がるのかもしれない」と思いつきます。

私自身、小学生のころから描いてきた漫画には、特別な思い入れもありました。

当時描いていた漫画の続きを描きたい。

そんな思いを胸に、漫画を描く訓練をはじめました。最初は、「とにかく以前描いていたレベルに近づけるように」ということだけを考えていたので、絵を上達させることに精一杯で、漫画で自分のことを描くつもりはありませんでした。

そんなとき、「めずらしい病気を経験しているのだから、その闘病記を描くのはどうだろう?」と友人が言ってくれたのです。

もしかしたら自分の体験が誰かの役に立つかもしれない。

そんなことを思うと、「描きたい」気持ちが込み上げてきました。

「よく描いてくれた!」ギラン・バレー症候群を描いた漫画に集まった共感の声

自身の闘病記を描き始めた私は、2014年に「絵が下手でも大丈夫」と書いてあるのをみて、講談社のマンガ雑誌「モーニング」の新人賞に応募しました。そのころ飼っている猫の体調が悪ったため、「治療費の足しになるくらいの賞が取れたらいいな」くらいの気持ちでの挑戦でした。

その結果、なんと「編集部賞」を受賞することができたのです!

私は一番下の賞を狙っていたので、「え、本当に!?」と信じられない気持ちでいっぱいでした。しばらくしてからとんでもなく嬉しくなりました。

そして私は、漫画家としての一歩を歩み始めたのです。翌年にその闘病記を再編集した「ふんばれ、がんばれ、ギランバレー!」の連載を始め、2016年には書籍を刊行することができました。

自分の病気を描くことについては、怖さも感じていました。「自分の病気までもお金にして、不謹慎だと思われるかな?」とか、「同じギラン・バレー症候群の人たちからは『この人は症状が軽い』と批判が来るかな」と心配する気持ちもあったのです。

しかし、漫画を読んだ人から内容に対する批判はなく、むしろ「よく描いてくれた!」や、「人になかなか理解してもらえないので嬉しい」など、共感の声をたくさんいただきました。また「病気についてわかってもらうためにこの漫画を使っている」という、ありがたいお言葉まで。

同じ病気の人達から肯定的な声が寄せられたと聞いて、ようやくホッとしました。そこで褒めていただいたことで、描いてよかったなと思えたし、自分の励みにもなりました。漫画家としてはこれから、もっとしっかり描き込んだ絵が描けるようになりたいし、長編漫画もいつか描いてみたい。細々とでも、自分らしく続けていきたいと思っています。

体の負担は減らせないからこそ、自分を大切にして心の負担を軽く

年々病気の症状は改善していて、一番大変だったときに比べてよくはなっていますが、手足や全身の感覚がまだらになる状態が続いています。

季節の変わり目や天気が悪い日の前は、感覚がないところが痛くなったり、腹痛があったり。低血圧はどうにもならず、スーパーを一周くらい歩いて回れるような日もありますが、まだまだ立てる時間は少ないため、外出には車椅子を使っています。

それでも、病気になった最初のころは、痛くて吐き気もあって、寝ることもできなかったことを思えば今は寝られるし、大体の症状のことは気にならなくなりました。それは、昔よりは自分の症状を受け入れることができるようになったからかもしれません。

病気になってからのことを考えると、自分の視野がずいぶん広くなったと感じています。

以前は、人と関わるときに「仲良くなりたい」と思うがゆえに、「何かしてあげたい」と気を使いすぎてしまうところがありました。でも今は、身体的にできないことが増えたので、他者に何かをしてあげることが難しい。ただそれによって、人と自然体でうまく接せることができるようになったので、今くらいがちょうどいいのかもしれないと感じています。

私は無理をしてしまいがちで、ついつい「もうちょっとがんばったらできるかも」と思ってしまっていました。病気になってからも最初は、「無理ができないこと」に悔し泣きをしたこともあります。でも、「できないときは保留にする」という風に考え方を変えると、今すぐには解決しないけど、いつかできるかもしれないと考えられるようになりました。

目の前に課題があるとついつい焦ってしまうけれど、自分は失敗続きだったからこそ、「できないや、保留!」みたいな考え方になれたのだと思います。

体の負担は減らせない、それならばせめて心の負担は減らして、自分を大切にしていたいと考えています。

自分なりの新しいチャレンジをしながら、これからも病気とともに生きていく

病気になったことは大変だったけれど、病気になったからこそ出会えた人もいっぱいいます。今の私は、結果としてギラン・バレー症候群になってよかったと思えています。

もしいま病気でつらい人がいるとしたら、きっとどんな言葉も聞ける余裕はないと思いますが、もしよかったら少しでも好きなもの、やりたい事、趣味を自分の中に見つけて欲しいと思います。

好きな事でしたら多少大変でも続けられると思いますし、それが生き甲斐になるかもしれません。そう思うと、私自身は過去の自分に「今大変でもちょっとずつ何とかなるよ」と言いたいです。

今、自分なりに新しいことに挑戦をしています。

例えば、今チャレンジしているのは料理。実は病気になる前は、魚もさばけていたし、ホタテの貝殻も2秒で開けられていました。これまで何気なくやってきたことがすごく尊かったのだと感じます。今はまだ昔のようにはできないけど、そこまで戻れたらいいなと思っています。

自分は一度ゼロになったからこそ、一からやっていける楽しみを感じられる。

そう考えると、楽しみにできる目標がいっぱいあることに気づきます。 いつも前向きで明るく、は出来ませんが、落ち込んだり寝込んだりしながら、ゆっくりじっくり目の前の小さな目標を叶えて行けたら、と思います。

関連情報:

『ふんばれ、がんばれ、ギランバレー!』  ワイドKC

(執筆/高村由佳、編集/工藤瑞穂、イラスト/やまぎしみゆき、企画進行/高村由佳、木村和博)