【写真】カメラに笑顔を向けるさいとうさん

私は小さい頃、背が低くぽっちゃりとした体型でした。

記憶に残っているのは、小学校入学時の、114センチ、23キロという数字。発育状態としては「太っている」と判定されます。

当時はまったく気にしていませんでしたが、高学年になり、片思いをした男の子に言われたこの一言が、私の意識を変えました。

お前、その太もも、どうにかしろよ。

その後、私の中には「太るのが怖い」という恐怖心が呪いのように宿ってしまいました。

高校生で10キロの減量。生まれて初めて、男性に「かわいいね」という言葉をかけてもらい、その後は“細い体型の人”に大転身。20代では156センチという標準の背丈にもかかわらず、30キロ台前半に激ヤセした時期もありました。

体型維持を支えているのは、主に主食と肉を極端に減らす食生活。家で食べるご飯は子どものお茶碗の半分程度。7歳の娘よりも少ない量しか食べず、お肉も大皿で出し、私はほとんど手を付けません。

我慢なのか本当に食べたくないのか、自分でもわからないのです。この食生活は私の中で習慣化していて、外食で主食やお肉を「食べてしまう」と、その後2〜3日はいつも以上に食事制限。そんな無意識に近い行動からも、やはり根っこに「太る恐怖」があるのかな、と自己分析しています。

【写真】道を歩くさいとうさんの足元

私が突然この話をしてしまったのは、ある方のインタビュー記事を通して、人に言いにくい食生活と“ともに生きる”という考え方を知ったからです。

その記事に登場していたのは、さまざまなアディクション(依存症)の治療に長年携っているソーシャルワーカー(精神保健福祉士・社会福祉士)の斉藤章佳さん。

ご自身も摂食障害に苦しんだ経験がある斉藤さんは、直接的な被害者がでたり他者の健康や人権を著しく害する類の依存症でないものに関しては、「その症状とともに生きていく」というイメージを持てるようになることが大切だ、と語っていました。

【写真】遠くを見つめるさいとうさん

この「症状とともに生きていく」という言葉と出会い、私の中で、「恥ずかしい」と思っていた自分の食生活に対するイメージが、とてもポジティブに変換されていくのを感じました。自分のどんなところもまるごと受け入れて、私らしく生きていけるかもしれない。そんな希望までも透けて見えた気がしたのです。

11月半ば、複雑な私自身の想いもそのまま携えて、斉藤さんにお話を聞きに行きました。くすぶっていたこだわりや執着に気づき、それらがガラガラと崩れ落ちていった約2時間のインタビュー。

斉藤さんとの対話の先に、私が垣間見たあたたかな世界を、みなさんと共有したいと思います。

【写真】微笑みながらカメラに目線を向けるさいとうさん

心と体の不一致を埋めるために。原体験としてのアディクション

斉藤章佳さんは、摂食障害のほか、アルコールや薬物、DVや児童虐待、性犯罪やクレプトマニア(窃盗症)など、さまざまなアディクション(依存症)の治療や支援に携わるソーシャルワーカー。

アジア最大級とも言われる依存症施設「榎本クリニック」にて約20年に渡りさまざまな患者と向き合う一方、『男が痴漢になる理由』、『万引き依存症』(ともにイースト・プレス)『小児性愛という病-それは愛ではない』(ブックマン社)、『しくじらない飲み方 酒に逃げずに生きるには』(集英社)、最新刊『セックス依存症』(幻冬舎)といった書籍や講演活動を通して、依存症問題と社会をつなぐ情報発信も積極的に行っています。

インタビューの始めに、私はまず、斉藤さんご自身の人生の歩みについて聞きたいと思いました。「幼少の頃のお話を聞かせてください」と問いかけると、斉藤さんは微笑みを浮かべつつ、遠くに目線を向けながら語り始めました。

質問に答えるさいとうさんとライターのいけだ

そうですね、体の大きな子でした。今でも数字を覚えていますが、小学校1年生のときに身長130センチ、6年生では170センチ、70キロ。父親よりも担任の先生よりも大きかったんです。

だからみんなから「ガリバー」とか「巨人」と陰で呼ばれ恐れられていた。1年間に15センチくらい伸びたこともあって、「このままどこまで伸びるんだ」って自分でも怖くなったこともありました(笑)。

そんな“体の大きな少年”が出会ったのが少年野球。地元の強いチームに入りましたが、当時は「気合と根性」という言葉に象徴されるような、強い選手に育てるための体罰にも近い過剰な指導も行われていた時代。コーチの厳しい言動に体が拒否反応を示し、練習に行くのが嫌になってしまいました。

休憩中に水が全く飲めないとか、バットでお尻を叩かれるとか、本当にひどい指導方法で。同じチームに入った弟と一緒に野球をサボって家の近所の公園で一日時間を過ごすようになりました。

親には「練習に行っている」と嘘をついているので、バレたらどうしようとびくびくしながら心と身体が不一致な状態が続きました。そうすると心と身体の間に葛藤状態が生まれて、その葛藤状態のバランスをとるため、苦痛から遠ざかることを目的とした嗜癖が必要になってくるんです。

斉藤さんが葛藤を埋めるためにのめり込んだ行為、それは抜毛でした。無意識のうちに自分の髪の毛を抜くようになっていた、と当時の心境を追体験するように語る斉藤さん。

抜毛症(トリコチロマニア)は一種の自傷行為でもあります。私の場合、弟も巻き込んで親に嘘をついていることが苦しいので、それを忘れるためにあの「チクッ」とする痛みに耽溺していきました。たぶん私が最初に経験したアディクション(依存症)は、このときの抜毛でしたね。

【写真】身振り手振りを交えながら話すさいとうさん

しばらくして、抜毛による円形脱毛症のような状態に気づいた母親に自分の苦しい心境を打ち明けることができた斉藤さんは、野球をやめたとたんにストレスから解放され、抜毛も必要なくなりました。嗜癖行動のエスカレーションは“周囲へのSOS”。斉藤さんは症状によって周囲に「助けて」を伝えていたのです。

その後高学年になってからは担任の先生の影響で、サッカーチームに所属。中学校でもサッカー部に入部し、大きな体をいかして徐々に活躍するようになってきました。

78キロ。数字にすがらないと生きていけなかった。

高校生になり、斉藤さんは本格的にサッカーに打ち込みました。文字通り朝から晩までサッカー漬けの毎日で、「今思い出しても人生で最も努力した3年間だった」と振り返ります。1年生からめきめきと頭角を現し、レギュラーとして試合に出場。Jリーグが始まった頃とも重なり、プロサッカー選手への夢を抱き始めます。

高校2年生のときには、両親に頼み込んで数ヶ月間のサッカー留学へ。地球の反対側のブラジルで、ハングリー精神にあふれ、科学的エビデンスに基づき厳しい管理下におかれた本場のトレーニングを体感します。

毎日の競争が本当に激しくて、彼らの意識の持ち方は多くの同世代の日本の選手たちと根本的に違いました。なんとしても、この貧乏な生活から抜け出すんだ、家族を幸せにするんだ。そのためには、誰かを蹴落としてでもサッカー選手になるという心持ちですし、管理がむちゃくちゃ厳しいんです。

私はトップチームの下部組織であるジュニオールというカテゴリーに所属していたんですが、体重と体脂肪の管理がとにかく厳しかった。筋肉量と身長から適正な体重を割り出すんですが、私は当時182センチだったので、78キロ。78をオーバーしてもダメですし、少なくてもダメ。

「トレーニングをしながらベスト体重をコントロールしないと、一流選手ではない」ということを徹底して刷り込まれました。だから今でも78キロにはすごくこだわりがあります。

【写真】さいとうさんの話を真剣に聞くライターのいけだ

厳しい環境の中でも「いい経験ができた」とブラジル留学を振り返る斉藤さんですが、帰国後すぐ、とても大きな怪我をしてしまいます。左膝の半月板損傷。痛くても誰にも言わずにハードなトレーニングを続けたことが災いし、手術後のリハビリに半年間ほどの歳月がかかってしまいました。

高校生、しかもスポーツに打ち込む斉藤さんにとって、半年はとても長く、「自分だけが取り残されている」という感覚にどんどん追い詰められていきました。

そんな中で斉藤さんに重くのしかかっていったのは、「78キロ」という数字。日本では誰にも強要されなかったにもかかわらず、「78キロを維持しなきゃいけない」と強迫的に思っていたと語ります。

その数字にすがらないとやっていけなかったんだと思います。とにかくプレーできない間でもそこだけはちゃんとしないと、って。

太りたくない、でも食べたい。そんな思いにがんじがらめになっていた斉藤さんが思いついたのが、極端な食事制限と「出せばいいんだ」というシンプルな答えでした。

食べて、出す。最初は自分で喉に指を突っ込んで食べたものを吐く自己誘発性嘔吐を繰り返しましたが、嘔吐時の体力の消耗が激しかったため、そのうち、チューイング(噛み吐き)という方法に変えました。これなら、嘔吐ほどの体力を要せずに「食べた」と脳を錯覚させることができるのです。

家族に内緒でトイレに行き、チューイングしては出すという行為と、食事制限を繰り返す日々。「しんどいのならやめてしまえばいいのに」と思う方もいるかもしれませんが、「それはできなかった」と、斉藤さんは振り返ります。

サッカーという、人より優越感を感じられるものが無くなった。競争で勝てるものが無くなった。つまり、自分に酔えるものが無くなったんです。周囲にくらべてそんなに勉強ができるわけじゃなかったですし、まるで裸で外を歩いているような感覚で、こうなったら自分はなんの価値もないな、って。

だからチューイングが、自分を支えるための行為だったんですよね。78キロを維持しないと世界がすべて崩れていく感覚がありました。それができなくなることは、自分にとっては「死」を意味することだったんです。

【写真】遠くを見つめながら話すさいとうさん

生きのびる手段としてのチューイング。「いわゆる摂食障害だったと、今なら思える」と斉藤さんは続けます。

特定の物質や行為をやめたくてもやめられず、生活に支障が出ることを「依存症」と呼ぶのですが、私の場合はまさにそうでした。

やったことがある人にはわかるかもしれませんが、吐くってすごくスッキリするんです。リセットできる、つまりなかったことにできるんです。私にとっては手ごろなストレス発散方法として有効だったんですよね。

その後、リハビリを終えて復帰し、Jリーグのプロテストでは最終選考まで残り自信を取り戻しかけましたが、その直後に今度は反対側、右足を損傷。2度めの手術とリハビリを行い、結局3年間のうちトータル約1年間はリハビリに費やすことになってしまいました。

2度目の怪我で「終わったな…」と感じてしまったという斉藤さん。再びチューイングを始め、大学でサッカーから離れても、ストレスがたまるたびにその行為を繰り返していました。斉藤さんにとってチューイングは、もはや体重をコントロールする手段ではなく、ストレスへの対処行動としての意味合いが強くなっていたのです。

この頃には、チューイングをするための理由を探して行動するようになっていました。目的と手段が入れ替わってしまった。“体重コントロールのためのチューイング”じゃなくて、“チューイングのためのチューイング”になったんです。

大学時代は時間に余裕があったので、空虚な時間に耐えられず、それを埋めるために行動していた、というところもありましたね。

【写真】真剣な表情でお話をされるさいとうさん

斉藤さんの語る「目的と手段が入れ替わってしまった」状態というのは、私自身も思い当たります。

当初は、好きな男の子に振り向いてもらうための食事制限だったのですが、20代の頃の激ヤセは、すでに結婚後のこと。仕事でなかなか評価されなかった頃とも重なるので、努力が数字として表れるダイエットという行為で、承認欲求を満たしていたのかもしれません。

「体重減るのって面白くなってしまう部分があるんですよね。体重の増減で気分を変えることもできたりして」と共感してくださる斉藤さんの言葉で、心が柔らかくなっていくのを感じながら、インタビューを続けました。

生まれて初めて、弱い部分をさらけ出した相手は…

大学時代はフットサルの普及活動にも取り組みましたが、特に将来やりたいこともなく、サッカーから離れてしまったことによる劣等感をずっと感じ続けていたという斉藤さん。4年生の春休みには、卒業旅行と称して逃げるようにひとり沖縄へ行きます。所持金はバイトでためた約10万円。宿も決めずに旅立ったその場所で、事件は起きました。

那覇市のメインストリートである国際通りから少し離れた桜坂という夜の飲み屋街。とあるバーに入ると、3人組の中年男性が「酒をおごってあげる」と声をかけてきました。「飲み比べしよう」と言われた斉藤さん、「負けるはずない」とノリで飲み始めたところ、一升瓶を1ビン半ほど空けた頃に記憶を失いました。

逃げてきて少し自暴自棄で気持ちも荒んでいるので、酩酊するのも早かったんでしょうね。意識を失って、気づいたら朝、バーの前の通りで寝ていました。たぶん店から引っ張り出されたんだと思いますが、全然覚えてない。財布もPHSも荷物も、全部取られていました。

就職の内定も決まらないまま、誰にも言わずにやってきた沖縄。「警察に行くと親に連絡される」と直感的に思った斉藤さんは、公園のベンチに座り込みます。そこから動かないまま1日経ち、2日経ち、迎えた3日目の朝。ひとりのホームレスが近寄って声をかけてきたそう。

「お前、そこで何してるんだ?」って。「卒業旅行で来ました」って答えたら、ニヤニヤして「2日前からずっとそこにいるだろう」と。見られてたんですよね。あ、もうこれは逃げられないな、と思ったら、いままでの経緯を自分から話し始めていました。

サッカーで怪我をして、挫折して、チューイングしてて大学はずっと腐ってて、逃げて沖縄に来た。そんな話をたぶん30分以上、堰を切ったように話していて。「もう隠すものはありません」って、全部言葉にした感じです。21年間の、名前がついていなかったさまざまな経験を、ちゃんと言葉にして外在化したんです。

それは「気合と根性」の世界で生きてきた斉藤さんにとって、生まれて初めて、自分の弱い部分をすべてさらけ出した経験だったそう。でもなぜ、その方には、素直に話ができたのでしょうか。

なぜでしょうね。全部見られていたので、降参したと言うか。利害関係が無く対等で、ここでしか会わないだろう、と思ったからかもしれません。

彼はとにかく傾聴してくれたので、もう本当にスッキリしました。沖縄の空みたいに、雲ひとつない、心の中がスッと抜けるような感じ。サッカーでも経験したことない清々しさでした。

そして聞き終えたあと、その人は何も言わずに賞味期限が切れたサンドイッチをくれました。3日ぶりに食べた食事だから、とにかく美味しかった。だから今でもサンドイッチは本当に好きで、朝よく食べます。もう泡盛は絶対飲まないですけど(笑)。

【写真】過去を思い出しながら笑顔をうかべるさいとうさん

アルコール依存症の人から学んだ、人としての謙虚さ。

声をかけてくれたホームレスの方の誘いで“シケモク(吸い殻)”拾いをしたり、徒歩で沖縄本島を一周したり…。

沖縄でさまざまな経験をして「なんとなく過去に踏ん切りがついた」という斉藤さんは、逃避旅行から帰ってきたあと、福祉・医療関連の相談援助を行う社会福祉士の国家資格取得の勉強を始めました。もともと心理学や精神医学に興味があり、「たまたま入った」という学部が、福祉専門職を養成し社会福祉士の受験資格を取得できるコースでした。

また、大学時代に不良行為などを行った、もしくは行う可能性のある児童のための施設(現在の児童自立支援施設)でボランティアをしていた経験も資格取得の動機につながったそう。

それまでは結局、過去の挫折を言い訳にして甘えていたんですよね。「自分はこんなはずじゃない」とか、「もっとふさわしい場所があるはずだ」とか、自分の中にこだわりがあった。

それが沖縄でお金も安全に寝泊まりできる場も無くなって、自分で生きていかなきゃいけないという現実に直面したときに、「自分の居場所は自分でつくらなきゃいけないんだ」、「他人はそれほど自分に興味が無いんだ、期待してないんだ」って確信しました。大学では絶対学べないことでしたね。

1997年に新しくできた精神障害者に対する相談援助などの業務に携わる人の国家資格である精神保健福祉士と同時に受験し、見事合格。こちらも「たまたま」欠員があり、先輩が紹介してくれた当時としてはめずらしい依存症治療に特化した精神科・心療内科である「榎本クリニック」への就職が決まりました。2002年11月11日、いまから18年前のことでした。

【写真】お話をされるさいとうさんの手元

クリニックで主にアルコール依存症の患者さんと向き合う日々の中で、斉藤さんにとって最初の壁は、「自分の弱さを開示する」ことだったのだとか。アルコール依存症の自助グループ(AA:Alcoholics Anonymous)に参加した帰り道、アルコール依存症から回復した方に言われた一言が、斉藤さんのターニングポイントになりました。

「斉藤さん、ミーティング中ずっと苦しい顔をしているね」って言われて、ドキっとしました。「私は斉藤さんの弱い話が聞きたいんだ。成功体験は聞きたくない。あなたの弱い話が、仲間の強さに変わるんだ」って言われたんです。これが本当に、金槌で頭を殴られるような衝撃で。

自分の弱さが他の人のエンパワーメントになるという発想は、それまで全く無かった。でも確かに、そういう連鎖が起こっているんですよね。率直で正直な話は、人の心にあたたかいものを残す。そのあたたかさが心の穴を埋めてくれ、今日1日飲まない生き方を積み重ねていくことができる。

回復した依存症当事者が良く言う、「過去が価値に変わる瞬間」です。

依存症は「自分が強くなれば気合と根性で断ち切れる」と思われがちですが、実は意志を強く持ってもやめ続けることはできない。自分の弱さを知ることが、やめ続ける強さに変わっていく。斉藤さんは、このようなケースをこれまでたくさん見てきたと言います。

その「弱さ」というのは、再発防止を目的とした、認知行動療法の「リラプス・プリベンションモデル」で言う、リスクやトリガー(引き金)にあたります。

人が弱さに直面する瞬間は、症状の再発リスクが高まったり、再発の引き金となってしまう。なので、その状況に対してどう向き合うかを考えることが大切です。まずは自分の弱さを知ることが回復のスタート。完全なパラダイムシフトでしたね。

【写真】顔に手を当てながら考えるように話すさいとうさん

さらに斉藤さんがそれを身を持って感じたのは、職場の先輩から「1日3回職場で助けを求めなさい」と言われ、実践したときだったそう。

たぶん先輩は、私が患者さんと向き合うのに一生懸命すぎてバーンアウトすると思っていたんでしょうね。「気合と根性でアルコール依存症の人のの酒は止まらないよ」って言われたんです。

「まずあなたが変わらないといけない。あなたは助けを求めるのが苦手だから、1日3回、同僚でも先輩でもいいから助けてと言いなさい」って。

最初は「仕事ができないヤツと思われるんじゃないか」という恐怖から、それができなかったという斉藤さん。でもアドバイスを活かして、助けを求めることを実行してみたところ、まわりが気にかけてくれるようになったのです。

斉藤さんが何も言わなくても「困ってない?」と声をかけてくれて、人間関係のダイナミクスがみるみるうちに変わっていく。「これはすごい」と、周囲に頼ることの大切さを自分ごととして実感できました。

自分は今までなぜ相談できなかったのか考えてみたら、謙虚じゃなかったんだ、ひとりで何とかしようとしていた自分は傲慢だったんだ、って気づきました。

依存症から回復していく人たちって、仲間をうまく頼るようになるんです。つまり援助希求能力が上がっていく。酒しか信じられなかった人が仲間を信じられるようになって、酒が必要なくなる。すごく謙虚になって、人に素直に聞けるようになる。私にはそんな謙虚さが足りませんでした。

「当事者は先生でもある」という言葉をよく聞くのですが、私は依存症の人からいろいろなことを学びました。沖縄で出会ったホームレスの方も、たぶん今考えるとアルコール依存症だったかもしれないと思います。でも私は、すごく恩を感じているんですよね。

【写真】笑顔で話すさいとうさんとライターのいけだ

回復とは、つながりを取り戻すこと。

斉藤さんの人生をたどりながら、その時々の心のあり方と症状の関係性を感じてきましたが、ここからは、“ともに生きる”という考え方につながる「回復」についてお話を聞いていきます。

先ほど「自分の弱さを知ることが回復のスタート」というお話がありましたが、斉藤さんは依存症における「回復」をどのように定義しているのでしょうか。

以前は、アディクション(依存症)の反対は、ソブラエティ(シラフで生きること)だと捉えるのが一般的でした。でも今は、アディクションの反対は「コネクション=つながり」だと言われています。

私もこの仕事を始めたばかりの頃はとにかく酒をやめさせたくて、「もう絶対飲まないでくださいね。これは男と男の約束です」って相手をコントロールするような関わりをしていたんです。でもそれは全く効果がなくて、次の日に破られてしまってばかりで(笑)。

回復していく人たちに伴走していると、酒をやめ続けていく中で、酒で失った人間関係を再構築していくんです。依存症という病気によるさまざまな弊害が原因で自分から離れて行ってしまった人々とのつながりを取り戻していきます。

シラフで生きることももちろん大事なんですけど、その中でつながりを取り戻していくプロセスが回復なんだ、と思うようになりました。

お酒に依存することをやめた人とやめられなかった人。新人の頃、患者さんの最期まで関わることを信条としてきた斉藤さんは、その明らかな違いを目の当たりにしてきました。

回復をして亡くなった人の葬儀は多くの弔問客が訪れ賑やかだったのに対して、結局死ぬまで飲み続けた人の葬儀には全く人が来なかった。

それはおそらく、やめ続けるプロセスで自分の棚卸しをしたり、置き去りにしてきたことの埋め合わせを通して、迷惑をかけてきた人とのつながりを取り戻してきたから。改めてそのことの価値を感じたと語ります。

【写真】質問に答えるさいとうさん

さらに「回復=つながりを取り戻す」過程においては、信じられる仲間や見守る人の存在が大切だと斉藤さんは続けます。

アルコール依存症になると、酒しか信じられなくなってくるんです。酒は一定量を飲めば確実に酩酊できるから、裏切らない。薬物もそうです。やめられない理由のひとつは、「気持ちいいから」という以上に、「酒は裏切らないよね」というのがあるんです。

その依存先がお酒だけ、という状態が一番危ない。ちゃんと依存先の分散ができていれば、1カ所がなくなっても他の依存先で生き延びることができる。だからこそ、やめ続けていくためには信じられる仲間が必要です。

人生の中で大切な人に裏切られた経験をしている人も多いので、側で見守ってくれる人の存在は、唯一無二のものになってきます。

回復において欠かせない「仲間」や「見守る人」の存在。たとえば身近な人がアルコール依存症になってしまったとき、回復までの道筋をどのように見守れば良いのでしょうか。

その人はたぶん生きていく中でお酒が必要なわけですよね。この習慣はすぐには変えられないんです。極論は、治療機関や自助グループにつながりながら変わっていくのを待つことしかできない。だから、周囲には「タフラブ(tough love)=見守る愛」が必要です。

カウンセリングの中で、「信頼関係ができてきたある日、クライアントが泣き出したときにあなたはティッシュを差し出しますか?」という問いを投げかけられることがあります。ティッシュを差し出すか、差し出さないか。なぜそうするのか、しないのか。自分との対話が重要です。

「ティッシュを差し出す」という一見親切な行為が、クライアントの感情の回復の気づきを阻害してしまうかもしれない。泣くのは悪いことだから泣き止みなさいというメッセージとして伝わってしまうかもしれない。

ここは見守るべきか手を出すべきか、自分自身に問いかけながら相手の成長を願って待つことができるかどうか。タフラブをどう実践していくか、というのは大事なポイントです。

ここでふと私は疑問に思いました。ここまで依存症からの回復のプロセスについて伺ってきましたが、依存症とともに生きてきた斉藤さんご自身の中で「回復した」と感じた瞬間はいつだったのでしょうか?

私ですか?私はどのタイミングになるのかな…。

摂食障害で人間関係が壊れたことはほとんど無いんですけど、気がついたら症状が必要なくなっていました。あと、私の場合は摂食障害について話すことで新しいつながりがたくさんできたと実感したときでしょうか。

今日もそうですが、こういう話をすることで、新しいつながりができました。そう思えているので、今日1日チューイングをせずに、平穏に生きていけるんです。

【写真】笑顔で話すさいとうさんとライターのいけだ

依存症における「回復」は、「完全にやめる」ことだけではない。自分の弱さを知り、それを信じられる仲間や見守ってくれる人と分かち合うことで、一度は失ってしまったつながりを取り戻していく。それが、斉藤さんの考える「回復」です。

さらに斉藤さんのように、恥ずかしいと思っていた自分の過去も弱さも新たなつながりづくりのきっかけになっていると思うと、なんだか「話してみようかな」と思えてきます。「やめなきゃ」とがんばるのをやめ、肩の力が抜けたときが、回復のスタートなのかもしれません。

一方で依存症には、被害者のいる性加害や万引きなど、加害と被害の関係を内包しているものもあります。

依存症は大きく分けると、自分の健康を害するものと他者の健康を害するもののふたつがあります。前者はアルコールや薬物、ギャンブル等の依存症で、再発を繰り返しながら回復していくと捉えられますが、後者の性加害や万引きなどは、被害者がいる問題です。

そういう場合は、アルコール依存症の患者さんと全く同じように「症状とともに生きる」という視点とともに、加害行為に責任をとるという視点が重要になります。なぜならその加害行為による被害者がいて、その人の人生の尊厳に大きく関わってくることだからです。

なので、「再発は回復のプロセスである」という捉え方は一概にはできません。そこは「依存症という病気」と「行為責任」をちゃんと分けて考えないといけないと思います。

「性犯罪や万引き等の加害行為をしてしまう可能性を抱えながら、どう生きていくか?」という問題に、斉藤さんは多くの人たちとのかかわりを通して、向き合い続けています。

依存症からの回復は一生取り組んでいくものですが、加害行為に責任をとることも一生かけて背負っていかないといけないことです。

加害者臨床における「症状とともに生きる」とは、「対象行為への衝動制御ができるように自分自身とうまく付き合っていく」ことに加えて、「自分が傷つけた人にどう責任をとっていくのか」を考え続けていく、という2つの側面から回復のプロセスを考える必要があると思います。

社会からの“刷り込み”の中で生きるということ。

ここまで話を伺ってきて、私の中に、「そもそも人々が依存症になってしまう根本的な要因はどこにあるのだろう?」という問いが浮かびました。

斉藤さんの場合は、“体育会系”といわれる社会の中でサッカーに打ち込むあまり弱い自分をさらけ出せなくなり、そのストレス対処行動として摂食障害になりました。私の場合は、幼少の頃の体験から「痩せているほうがいい」という考えが根付き、太ることへの恐怖から食事制限をするようになりました。

それぞれの体験に依るところも大きいとは思いますが、「こうあらねばならない」と頑なに思ってしまいがちなその根底には、現在の日本の社会構造や教育といった外的要因も影響しているのではないでしょうか。

そう問いかけると、「そうですね、もちろんあります」と、斉藤さん。個人の生きづらさを社会モデルでとらえることは重要で、特に日本社会は、ジェンダーについての「男尊女卑的価値観」の刷り込みが強いのではないかと指摘します。

ジェンダー観の形成については、YouTubeなどメディアの影響はやはり大きいですし、幼い頃から与えるおもちゃや洋服の色を性別で分けるなど、親や周囲の大人からの刷り込みもあるでしょう。あとは、学校と社会。その4つがジェンダーバイアス刷り込みのポイントになっていると思います。

たとえば少年サッカーの指導者が「お前男だろ」とか、親の知らないところでたびたび言っていることもあります。たとえ家庭でジェンダーで決めつけて発言しないよう気をつけていても、他のところで刷り込まれていることは往々にしてある。

この家庭の外からの刷り込みについては、私の人生においても思い当たります。両親は「ぽっちゃりしてかわいい」と言ってくれていましたが、テレビで目にする女性芸能人やアニメの主人公などは、みんな細くてかわいかった。その印象が、私の中の「女の子は痩せていたほうがいい」という決めつけに少なからず影響していたのかもしれません。

【写真】メモを取りながら話をきくライターのいけだ

「過去を価値に変える」という“生き様”を許容する社会へ

生きていくためにさまざまな困りごとに直面し、何かとストレスを感じることの多い今の社会。たとえ依存症があったとしても自分らしく生きていくために、斉藤さんは「依存症とともに生きていけばいい」と教えてくれています。

もちろん人の尊厳を著しく傷つける加害行為を含む依存症は別ですが、「その症状とともに生きてきていく」というイメージを持てるようになることが大切だと私は思います。そういった気持ちが持てると楽ですよね。

【写真】笑顔をうかべて話すさいとうさん

今では「アディクトである自分を少しずつ受け入れている」という斉藤さんを支えているのは、自分の弱さを開示し、安心して話せる場所の存在です。

私は立場上もあって現在の職場では相談しにくいですが、困ったときはアルコール依存症の自助グループであるAA(Alcoholics Anonymous)に行くんです。そして長くお酒をやめている人に相談します。そうすると自分の中にあった、こだわりや頑固さや嘘に気づきます。あぁ、僕のほうこそ重症だな、と(笑)。

さらに、回復者から「いいんじゃない?僕なんて14回精神病院に入院してるんだ」なんて言われちゃうと、「You are OK. I am OK!」な状態になれます。あぁ、生きているだけでいいいんだ、ゆっくりと回復していけばいいんだと気持ちが楽になりますね。

斉藤さんの笑顔で、私もなんだか「I am OK!」な気分に。自然に始めてしまった癖や行動も、無理にやめようとせずに“ともに生きる”ことができる。私の目の前には、そんな希望が見えてきました。

斉藤さんは今、「依存症とともに生きる」という考え方を発信するとともに、書籍や講演などを通して、「万引きや痴漢も依存症である」と伝えています。

「依存症」や「病気」といった、いわゆる“ラベル”にも感じる呼び方をつけて伝えようとするのは、なぜなのか気になりました。そのラベルが、人々の心理や行動にポジティブな影響を与えることがあるのでしょうか?

依存症って病気ではあるけど“習慣”であって、もっと生活モデルの言葉にすると、“癖”なんです。それが社会的に許容される癖なのか、そうじゃない癖なのかの違いであって、癖ってみんなありますよね。

それを落とし込んで考えていくために、アディクション(依存症)の枠組みはすごく理解しやすい。たとえば「万引き依存症」という言葉は無いんですけど、依存症のモデルを使って説明するとわかりやすいんです。

それで「あ、もしかして私も」って思った人が、失うものが少ない段階で気づいて自助グループや専門機関にアクセスできるといいな、と思います。

もっと言うと、知識が広がることで身近に感じてもらいたいと思っています。日本ではAAの存在はまだあまり知られていませんが、アメリカでは「アルコール依存症の人が回復する場所だよね」って多くの人が知っています。

日本はそのくらい依存症からの回復への理解が遅れていると思うので、まずは依存症のモデルを使って理解を深めてもらうことが大事かな、と思います。

【写真】身振り手振りを交えて話すさいとうさん

依存症治療における考え方を、依存症のみならず多くの人の気づきに変えるための発信を続ける斉藤さん。思い描くのは、「過去を価値に変える」という生き様も許容する、包容力あふれる社会です。

依存症は癖で、癖は“生き様”とも捉えられると思うんです。医療モデルで捉えると病気ですけど、生活モデルや社会モデルでは、その人の生き方やライフスタイルでもあるのかな、と。

もちろん加害行為を含む犯罪行為はあってはならないことですが、社会的に許されない行動をしたからといって、一発でレッドカードみたいな社会ではカミングアウトできなくなり、回復や更生に至るのが難しい。だから、ひとりひとつ、自分の過去の経験や弱さを、たとえ犯罪でも絶対批判されずに安心して話せる場所が持てる、そんな社会になるといいですよね。

僕は、自分が恥だと思っていた過去を価値に変えて生きている人の“生き様”は、潔くてかっこいいと思っています。

【写真】顔をみあわせて笑うさいとうさんとライターのいけだ

「自分の過去を価値に変えて生きる」。最後の言葉はまさに斉藤さんご自身のことだと受け取りながら、心からの感謝の気持ちとともに、インタビューを終えました。

インタビュー前、私は自分の食生活との向き合い方について相談しようと思っていました。でも、斉藤さんのお話を聞きながら、「あ、そうそう、それは私にもある」「私にとってのトリガーって何かなぁ」などと自分に照らし合わせていくうちに自然と心が軽くなり、相談する必要が無くなってしまいました。それどころか、自分の恥ずかしい食生活も、自分らしさの一部とさえ感じられたのです。

おそらくそれは、斉藤さん自身が謙虚な姿勢で私と向き合い、自分の弱さもさらけだしてくださったから。インタビュー中はもちろんですが、翌日、私宛に届いたメッセージには「依存症って癖なんですよね。話していて気づきました」という一文が。斉藤さんが私に「教えよう」とするのではなく、話す中で自らも「学ぼう」という姿勢で接していてくれたのだと気づき、心にあたたかなものが宿りました。

この記事で私が自分の過去を含めてオープンに書くことができたのは、斉藤さんのそんなあり方のおかげです。斉藤さんから私へと、弱みをオープンにして過去を価値に変えていく連鎖が起きたのです。さらにこの記事を通して、私から誰かへの連鎖が起こってほしい、と願って止みません。

その連鎖の先には、誰もが自分のままで正直に生きられる社会のイメージが広がります。私もすぐに自分の癖を“生き様”として受け入れることはできなくても、斉藤さんとの出会いを通して、いつもより少しだけ堂々と、ご飯を食べることができるような気がしてきました。そして同じように癖に悩む人に対しても、「ともに生きていこうよ」と声をかけてあげられたらな、と。

肩の力を抜いて、癖とともに、弱さとともに。斉藤さんの言葉たちが、そんなあり方を許容する、しなやかであたたかな社会への一歩を踏み出すきっかけになったら嬉しいです。

【写真】空をみあげるさいとうさん

関連情報:
榎本クリニック

著書
男が痴漢になる理由
万引き依存症
小児性愛という病-それは愛ではない
しくじらない飲み方 酒に逃げずに生きるには
セックス依存症

(撮影/川島彩水、編集/工藤瑞穂、企画・進行/岡本実希)