【写真】満面の笑みでこちらをみるあさいじゅんこさんと盲導犬のヴィヴィッド

こんにちは、浅井純子です。普段はアパレル企業のヘルスキーパー職として、社員の体と心のケアに関わる仕事をしています。

私は2003年に特発性周辺部角膜潰瘍を発症し、角膜移植のための入退院を繰り返してきました。この病気は角膜周辺部に潰瘍をきたす疾患で「Mooren潰瘍」とも呼ばれます。症状は人それぞれの部分もありますが、治療をしなければ、急速に視力が落ちることもある病気です。

私自身は2018年に全盲になり、光を感じられなくなりました。現在は、眼球の形をした人工物「義眼」を装着しながら、パートナーである夫と盲導犬のヴィヴィッドと共に生活をしています。

会社に勤めながら、講演を行ったり舞台に役者として出演したり、コンサートで歌ったり、小学校に訪れて視覚障害や盲導犬についての授業を行ったりと、充実した日々を送っています。最近はYouTubeチャンネルを開設し、目が見えない私がメイクをするプロセスや、盲導犬と共に生活する上で知っていただきたいことを伝える動画を作成して、発信もはじめました。

映像クリエイターのオオツキWAYタイジさんやたくさんの人の協力を得て、制作をしています。

今回は、発症前から現在に至るまでの経験やそのとき感じていたことについてお伝えしたいと思います。

蛍光灯や太陽の光を見るのもつらい状態から診断がおりるまで

30歳を過ぎた頃、長年コンタクトをしていた私は目にゴロゴロとした感覚がありました。

その頃は会社員として働いていて、パソコン画面を見ることも多かったので、「めんどくさいなぁ」と思いながらいつもの眼科に向かいました。先生は診断で「コンタクトで角膜に傷が付いているので目薬を処方しておくね」と一言。

しばらくそのときもらった目薬をしていましたが、全く治らずゴロゴロ感は増していき、少し痛みを感じるようになりました。2ヶ月ほど通院したのですが、目の状態は悪くなっていくばかり。少し規模が大きい病院を紹介してもらって通院するも症状は良くなりません。そのときには、目の表面に白い突起物が現れるようになっていました。

症状が出てから10ヶ月が経つと、蛍光灯や太陽の光を見るのが辛く、家の中でも下を向いて歩くように。特に辛かったのは、洗濯のときです。光が目に入らないように下を向きながら、手探りで物干し竿を探し、涙を流しながら洗濯物を干していました。

症状が治らず、あまりにもおかしいと思った私は、違う病院を探して駆け込みます。すると、たまたま角膜を専攻している先生に出会いました。

ここでは、あなたの病気は治療できません。大学病院を紹介するので、すぐに行ってください。あなたの病気は、Mooren潰瘍です。

えー!?何ですって?

心は驚きと戸惑いでいっぱい。そして聞き慣れない診断名が、最初は覚えられなかったのが正直なところです(笑)。

その後先生からはすぐに紹介状をもらったのですが、病気がはっきりわかってしまうことに怖さがあり、1ヵ月ほど大学病院に行くのをためらっていました。

「大丈夫よ、がんばって」病院で出会った女性との出会い

やっと大学病院へ行き診療してもらうと、私の目の状態はさらに悪化していました。先生や看護師さんたちがバタバタと手続きをしてくれましたが、当の本人である私は、何が何だか分からず、ぼーっとしていました。

そのときに角膜移植手術の手続きをして、2週間ほどで移植用の角膜が見つかったので、すぐに入院、手術を行いました。

手術は無事成功したのですが、当時のことはあまり覚えていません。

ですが、ある人との出会いについてははっきりと覚えています。私は喫煙者だったので、手術後に病院で過ごす日々のなかで、眼帯をし見えにくい状態で何とか外の喫煙所に通うのが日課となっていました。

お姉さんどうしたの?

その喫煙所で、ある女性が声をかけてくれました。

この間角膜移植をしたんです。でも病気の原因はよくわからなくて。どうして私がこんな病気になったんだろう?

するとその女性はこんなふうに言ったのです。

お姉さんはこの病院から外に出られる!たくさんのことができる。大丈夫よ、がんばって。

その人は10年ほど病院に入院していて、「私は病院から出ることができない」と言っていたので、だからこそこんな言葉で励ましてくれたのだと思います。一度しか会っていないので、今はもう顔は覚えていませんが、その人がくれた言葉は今でも覚えています。今も覚えているということは、私に影響を与えてくれていて、変わるきっかけになる出会いだったんだと思います。

私は現在、人前に立って自分の経験をお話しさせていただく機会が多くあります。その中でよく言われるのは、「どうしてそんなに前向きなの」という言葉。

当初はかけてくれた言葉の意味をすぐ受け止めることはできませんでしたが、今私が前向きになれているのは、入院中にその人と出会ったことが大きい気がしています。

私だったらこの試練に耐えられるのではないか?入退院と移植を繰り返してきた7年間での葛藤と気づき

はじめて手術をしてからの7年間は何度も何度も入退院と角膜移植を繰り返す日々。1人で過ごす時間が多かった私はあるときから、心の中で、神様に問いかけながら葛藤していました。

神様神様!なんで私にこんなことばっかりするの?いつになったら許してくれるの。

毎日毎日、葛藤し続けていました。数年の間、うっすらと視力はあるものの、自宅から1人で外出できなかった私は、あるときから命を断とうと考えるようになりました。そしてとうとう私は、自宅マンションの屋上に向かうことに決めます。

玄関を出た私は、外の世界が怖く、1人では歩けなくなっていました。それでも、明確に見えていた頃の記憶を思い出し、壁をつたいつたってエレベーターに到着。上か下のボタンは2つしかないのでそれはなんとなくわかる。でも、エレベーター内のボタンが多くありすぎて、どれが屋上のボタンかわかりませんでした。

屋上すらも私は上がることができないの?1人で何もできない、どうしてなの?

とりあえず一番下にあって、いつも押している1階のボタンを押して、エントランスを出て歩き出しました。わずかですが自宅から離れた私は再び、自宅へ戻ろうとします。すると、目が見えていた頃だったら1分ほどで帰れる自宅への道が、怖くて足が前に進まず30分以上かかりました。その道中にも問いかけは続きます。

どうしてなの神様?どうしてそんなに試練ばっかり与えるの?試練!試練?試練!試練?

そう考えていたら、どんどん、「きっと私だったらこの試練に耐えれるのではないか」という思いが溢れてきました。

よっしゃ!受けてたってやろうやないかい!かかってこんかい!

そう思って、命を絶つのをやめました。そしてこの頃から私は、病気を試練と思い向き合うようになっていったのです。

感謝の気持ちがもっと伝わるにはどうすればいいのだろう。毎日、夫に感謝を言葉にする日々

【写真】結婚式でドレスを着ているあさいさんとパートナーさん

結婚式でドレスを着ている浅井さんとパートナーさん

入退院を繰り返していた7年間を支えてくれたのは夫でした。

入院中、夫は2、3日に1回は必ず会いに来てくれました。自宅から片道1時間ほどかかり、来たからといって何かできるわけではないのですが、それでもこまめに私のもとへ訪れてくれていたのです。

その頃、私は夫に対し毎日言っていたことがあります。

パパ!今日もお疲れ様でした。ありがとうございました。明日も、どうぞよろしくお願いいたします。

この言葉を繰り返し伝えていました。この感謝の気持ちはどうすれば、もっと伝わるんだろう、と考えながら過ごしていましたね。

目の状態が悪化してくると本当にすることがなくなってきます。当時は今のようにiPhoneもありません。本も読むこともできないし、テレビを見るのもお金がかかる。そのため、ポータブルのDVDプレイヤーを持ち込み、DVDを10枚ほどレンタルして来てもらい、朝から晩まで韓国映画や『24 -TWENTY FOUR-』などを音で楽しんでいました(笑)。

土曜日は外泊し、日曜日に病院に帰る生活でした。その頃から考えると、今は全く見えない状態ですが、入院せずに家で生活ができています。家で過ごせて、自由に外出できるのが夢のようで全てに感謝したい気持ちです。

「あなたの目をオペできるのは私しかいないでしょう」新しい主治医との出会い

7年間のうち、4年ほどは大学病院にお世話になっていました。当時、治療を繰り返した私の目の状態は“ボロボロ”。そんな時期に、大学病院での主治医が転勤になると聞かされます。

浅井さん。私の紹介する先生のもとに行ってください。この病院ではあなたを治療することが困難です。

私は紹介先に転院することを断りました。しかし、主治医が変わると、ものすごいスピードで症状が悪化しはじめたのです。

これまでの先生は、症状が進行するスピードを遅らせる努力を懸命にしてくれていた、とそのとき実感しました。そこで私は前任の先生のもとに出向き、新しい先生を紹介してほしいとお伝えします。紹介先は、自宅の大阪からは距離がある千葉の病院でした。

母に付き添ってもらって、はじめて千葉の病院を訪れたとき、大学病院よりはるかに小さい病院を目の当たりにして、「こんなところで大丈夫?」と不安を抱きました。

午前中に診察を終え、待合室でしばらく待っていたのですが、その後、いつまでたっても名前が呼ばれません。気づいたときには18時を過ぎており、待合室には私と母だけ。

あとで理由を聞いたのですが、角膜専門の先生たちが集まって治療方針などについてお話をしていたそうです。そしてやっと名前を呼ばれ、再び診察室に。

このままオペをしなければあなたの目は確実に見えなくなります。オペもとても難しい状態ですが、あなたの目をオペできるのは私しかいないでしょう。どうしますか?

私は迷うことなく「よろしくお願いいたします」と答えました。

そこから約1週間後、私はその病院へ入院しました。視力が低下し、もう1人で歩くことができなくなっていた私は目が見えない辛さよりつらいと感じる出来事に直面していたのです。それはストレス発散のひとつだったタバコを気軽に吸いに行けないこと。

病院内がしっかり把握ができていない私は部屋から1人で出ることができません。そのため毎日2回ほど看護師さんにお願いして、1階の喫煙室へ連れて行ってもらいました。

自宅から距離があるので、夫が病院に来るのは1週間に1回だけになり、入院中の楽しみは、タバコと週に1回夫と会える時間でした。

このときの入院期間は1ヶ月ほど、年に3、4回は入退院していた気がします。その頃、「どうして、1人でタバコを吸うことすらも許してもらえないんだろう?」と大泣きしたことも。ちなみに大泣きした後は、「タバコに支配されるなんて」と悔しさがつのり、禁煙することを決めました。以降現在までもうタバコを吸いたい気持ちになったことがありません。

そんな入院生活を経て、はじめて先生に角膜移植の手術をしてもらいました。私の目を見て、夫は「めっちゃきれい!」と言いました。でも、その幸せは長くは続かず、今度は拒絶反応が私を苦しめました。

拒絶反応の症状は、少しクリアに見えていた視界が、突然真っ白になってしまいます。そうなると、また病院へ駆け込み治療をしてもらわなければいけません。

何度も角膜移植を重ね、ある日先生から「あなたの目はもう人の角膜を入れることができません。まだまだ日本では少ないですがBoston Kpro(人工角膜移植)をやりませんか」と言われます。

またもや出てきた新しい言葉に「なんじゃそりゃ」。 たしか、当時手術をするのであれば、私が日本で7人目で、私の病気でその手術を行うのははじめての取り組みでした。つまりこれまでに事例がないためどうなるかわからない。それでも私の言葉は決まっていました。

やります。よろしくお願いいたします。

先生への信頼度が100%だったので、私は不安を感じることなく、手術を決断することができました。そして手術は無事成功。ほとんど何も見えていない状態だった視力は、退院する頃には0.01ほどまで取り戻していたように思います。

それから私は、“私なりの普通の生活”を取り戻していくことができるようになりました。発病してから7年後の9月でした。

とにかくできることからやってみようと盲学校の理療科に入学

9月に人工角膜のオペをした私は、止まっていた時間を取り戻すようにいろいろなことを始めます。

1番大きかった事は盲学校の理療科への入学でした。目が見えなくなったとき何ができるかわからなかった私は「とにかくできることからやってみよう」と突然の入学を決意。3年間勉強に励んだのですが、その期間がとてもつらかったです。

視覚障害者が読書をしたり、書き物をしたすることを補助する拡大読書機を使い、厚み3センチほどある、文字の大きな本を何冊も持って学校へ毎日通う。あまり見えない目を酷使して、文字を拡大しながら勉強する。本当に本当につらかった。当時は38歳、学び直すことにも高い負荷を感じていました。

目が疲れるので、耳で記憶しようと注意深く聞く。でも頭には全く残らない。今までは、目で見て覚えていた要素も大きかったのだと気づきます。

でも、そんな困難に立ち向かっているのは私だけではありません。同じ学校に通っている人は、それぞれ違いはあれど、なにかしら難しさに立ち向かいながら勉強している。私だけが、「できないと言いたくない」。

そんな思いを胸になんとか国家試験を受験し、あん摩マッサージ指圧師免許を取ることができました。そして今働いている会社に、ヘルスキーパーとして入社が決まったのです。

「そんな簡単には信用できへん」時間をかけて築いた盲導犬ヴィヴィッドとの関係性

入社して半年経ったとき、私の目がほとんど見えなくなり、白杖を使っての歩行が困難になってきました。今度私に現れた病気は目と脳をつなぐ視神経が障害され、徐々に視野障害が広がってくる緑内障。Mooren潰瘍が落ち着いてきたと思ったら違う病気が進行してきたのです。

緑内障は、わずかに見えていた私の目の視野を奪ってきます。はじめは左目の目頭側、そして目尻側の左上の部分、中心少し下の部分と視界が白くなりました。

すぐに緑内障インプラント手術をし、無事終えたのですが、私は直感的に「私の目はたぶんこのまま見えなくなるだろう」と考えます。

もしこれから見えなくなった場合どう生活していこう。白い杖で歩行するかそれとも……。

そこで私の心に芽生えたのが“盲導犬を持つ”という選択肢でした。そこからの私の行動は早かったです。術後、退院までの間に盲導犬を使用している方に話を聞き、すぐに日本ライトハウス盲導犬訓練所へ連絡を入れていました。

その半年後、盲導犬ヴィヴィッドと出会います。まだうっすらと目が見えていた私は彼の顔が少しだけ見えました。

目が大きくクリクリとしていて、鼻は真っ黒、尻尾の先と耳だけが少しベージュ、体全体は真っ白い大きな子。会うと長くて太いしっぽを大きく振り、愛情を表現してくれて、私は一瞬でヴィヴィッドの虜になりました。

【写真】盲導犬のヴィヴィッドと共に歩くあさいじゅんこさん

ただ一緒に生活する前に行う1ヵ月の訓練はハプニングだらけ。とにかく最初は恐怖。白杖のときとは違い、めちゃくちゃ歩く速度が早い。白杖で歩いていたときは、少しへっぴり腰で「大丈夫かな?何かにぶつからないかな?」と周囲の障害物に対して意識を集中し、危険を避けることに精一杯になりながら歩いていました。

そんなことはつゆ知らず、ヴィヴィッドは私を連れて颯爽と歩いてくれます。だからこそ今まで白杖で歩いていた“私の当たり前”を捨てる怖さと、ヴィヴィッドをどこまで信用していいのか、という不安が混在していました。

お互い信用できないまま、手探り状態が何ヶ月か続きましたが、その生活にもやがて慣れていきました。ヴィヴィッドを信用できるようになった私は歩くことの楽しさを感じ、これまで1人では行きづらかった世界へ行けるようになりました。

しかし、ヴィヴィッドが来て1年ほど経った頃、私の視力はほとんどなくなり、光もうっすらとしか感じることができなくなり、状況が変わります。今までは少し見えていた私の感覚とヴィヴィッドのサポートで歩いていたのですが、全部ヴィヴィッドに頼らないといけなくなったのです。

すると、ヴィヴィッドに対する信頼感が変わります。なぜなら盲導犬はロボットではないので、間違えることがあるだろうし、私の指示と違うことをすることもあるから。それを知っているからこそ、全面的にヴィヴィッドを信用するのがとても難しくなったのです。

またもや歩くことへの不安が出てきます。ハーネスを持っていても「大丈夫?」という気持ちが強くなり、腰がへっぴり腰になり、心の中で「早く歩かないで、ゆっくり歩いて、怖いから」と言うように。

それを相談すると、訓練士さんが、私とヴィヴィッドの歩行訓練を丁寧に手伝ってくれました。

浅井さん。ヴィヴィッドを信じて。ヴィヴィッドは大丈夫、凄いから。とにかくヴィヴィッドを信用して、大丈夫だから。

信用なんかできるわけないやん!だって間違えることがあったよ!だって怖いもん!どうしたらいいのよ!

こんな感じで、自分のつらさや怖さを共有させてもらいながら、サポートしてもらいました(笑)。訓練では、私とヴィヴィッドが歩いているところを後ろから見守ってもらったのです。そして慣れていくことで徐々に私の不安が消えて、ヴィヴィッドを信頼できるようになりました。そこまでくるともう怖いものはありません。

もちろん、ヴィヴィッドが間違うこともたまにあります。それでも、見えないながらも私ができることも駆使して、ヴィヴィッドと一緒に考えるようになりました。

ただ、盲導犬を持っているからといってどこでも行けるわけではありません。人に助けてもらうことが私にとってはとても大切なこと。なので私はそれを最大限に使わせていただいております(笑)。困ったら「すみません、ちょっと手伝って欲しいのですが」と口で伝える。それをすることによって新たな人と出会い、話ができます。

そこには新たな発見があり、そして感謝できる。神様がくれた私へのプレゼントだととらえています。

【写真】自宅であさいさんを見つけて座っている盲導犬のヴィヴィッド

ヴィヴィッドと共に生活している私が、自分の言葉で盲導犬を伝えていこう

ヴィヴィッドと周囲の人に支えられる一方で、まだまだ盲導犬ユーザーが当たり前に暮らせる社会になっているとは言い切れない現状があります。実際に、まだ盲導犬が入るのが難しいお店が多くあるのです。

2002年に試行された身体障害者補助犬法にも「国、地方公共団体、公共交通事業者、不特定多数の者が利用する施設の管理者等は、その管理する施設等を身体障害者が利用する場合、身体障害者補助犬の同伴を拒んではならない」と記載があります。

ですが、商業施設のインフォメーションに「補助犬(注1)はどの場所でも入ることができます」と掲げてあっても、各店舗のスタッフさんはその事実を知らないケースも多いです。

注1:盲導犬、介助犬、聴導犬の総称

「盲導犬のためのスペースがありません」「ご一緒に入店いただく準備が整っておりません」「他のお客様のご迷惑になります」「補助犬同伴可のステッカーを私どものお店は貼っておりません」これまでこういった対応を受けることが頻繁にありました。

ですが、これらの回答にも誤解が含まれています。「盲導犬のためのスペース」は、特別必要だと思われていることもあるのですが、盲導犬は私が着席した足下に待機します。そしてお店の通路が狭いスペースであったとしても、盲導犬はきちんと歩くことができるように訓練されています。人が通れるスペースがあれば盲導犬は通れるんです。

また、「他のお客様の迷惑」になるような行動を盲導犬はしません。他の方から声をかけられたり、触られたりすると興味を示す場合はありますが、訓練されているのでよっぽどのことがないかぎり吠えたりすることもないんです。

ここも誤解を受けることが多いのですが、「補助犬同伴可ステッカー」は、入店の許可を示しているのではなく、補助犬への理解促進や啓発を推進しているお店が貼るステッカーです。そのためステッカーがなくても法律上、入店をすることを拒否できません。

盲導犬にかかわる啓発活動はこれまでたくさんの方が実施されていますが、それでもまだまだ理解が進んでいないのが現状です。私自身、自分が盲導犬ユーザーとして実際に入店拒否をされるまで関心を強く持てていなかった、と思います。でもだからこそ、ヴィヴィッドと共に生活している私が自分の言葉で、盲導犬のことを伝えていこうと思っています。

浅井さんとクリエイターのオオツキWAYタイジさんが作成している盲導犬の理解促進のための動画

好きな化粧や洋服を着ることで、いきいきとした自分でいる

私には、普段生活をする上で大切にしていることがあります。それは「大好きなおしゃれを楽しむこと」です。

目が見えなくても私が笑顔で生きていくには、社会に参加をすること、人に声をかけてもらうこと、助けてもらうことが必要だと思っています。そのために、第一印象は大切だと思うんです。

それはけっして容姿端麗でなければいけないという意味ではありません。好きな化粧や洋服を着ることで、いきいきとした自分でいる。それがいろんな人との出会いを増やせると感じています。

鏡を見れないなかどうやって化粧するんだろう?と思う方もいるかもしれませんが、見えなかったとしてもある程度はできるものです。たとえばアイシャドーはペンシル型のものを使い、まぶたに沿わせて、指で整える。チークも筆をつかわず、指で付けられるものにして工夫する。化粧品は、デパートの化粧品売り場にいって目が見えなくても化粧しやすいものを店員さんに相談して選んでいます。

浅井さんのYouTubeチャンネル。お化粧をする様子が記録されている

見えないのでウインドウショッピングはできませんが、洋服選びも大好きです。

全盲になった当初は、目が見えた頃に通っていたお気に入りのお店で「きっとこのお店のものは私の好きなものだろう」と想像して買っていました。でもそれだと、どこかで自分に似合った服を選べているのか疑問があったんです。

それ以降、お店の店員さんに「最近の流行ではなく、あなたが私に似合うと思う服を選んで欲しい」と伝えて買うようになりました。お願いした人が持つ好みも含まれるのですが、その中でも私に似合うものを考えて提案してくれる。それが新たな楽しみにつながりました。

会社で一緒に働く人たちも、「これが似合う」「上がこの服だったら、下はこの色のパンツがあいそう」と声をかけてくれて、今ではクローゼットの中が服でいっぱい!宝の山になっています(笑)。

また、大切にしていることがもうひとつあります。それは、なにごとも「やりたいと思ったらやってみること」です。これまで知人からお誘いしてもらって役者として舞台に出演したり、コンサートで歌ったりしたことがあります。これまでは未経験だったのですが、機会あればやってみようと飛び込みました。

そこで感じたのは、私が関わることによって、「視覚障害がある私って、こんな人なんだよ、こういうことに困るんだよ」と知ってもらえることの価値でした。私は舞台やコンサートを通して、観に来てくれるお客さんに私の困難を伝えようとは思っていません。でも稽古場で関わる人たちに、「視覚障害のある人」という大きな主語ではなく、目の前にいるいち個人として出会ってもらえたらと思っています。

「私と一緒に作品づくりをした経験があることで、白杖で歩いている人が困っていそうなときに気軽に声がけできるようになった」と伝えてもらったときは嬉しかったです。

私だけの経験がある。そこで出会えた人もいる。そんな自分を認めてあげる

【写真】盲導犬のヴィヴィッドと見つめ合うあさいじゅんこさん

2021年現在、発病して17年目が過ぎようとしています。

今私にとって、見えないことで生じる障害は、もう私の身体の一部です。「これから目が見えるようになったらどうする?」と聞かれても、もう見える世界は私には必要ないかもしれません。

完全に視力を失うまでは、見えなくなることへの不安がありました。でも今はその不安がありません。見えないことで、得られる情報の70%や人生で楽しめるはずの選択肢は失っているとは思います。それでも、前の世界に戻りたいと思いません。

なぜなら、見えているときには、人の顔色を伺ってストレスを感じていた自分がいるからです。失った選択肢も多くありますが、それを上回るストレスがあったのも事実。

今の私は、好奇心の塊で、とにかく何でもやってみる精神が強いです。やらないで後悔するよりやってから後悔したい。そんな気持ちが私を前へと進めてくれている。

人それぞれ夢ややりたいことがあると思います。その道へ進むことが良いこととされますが、そこに向かう道から外れていくことがあります。最終地点に立って振り返ったとき、回り道をしたと思うこともあるかもしれません。でも私はその回り道があったからこそ最終地点に立てていると考えたい。回り道こそが私ならではの経験で、私が講演をするときでも大切にしているキーワードとなっています。

明るく、いつも笑顔でいますが、困難がないわけではありません。でも私には困難に阻まれたときに、助言をしてくれる知人や友人、上司など沢山の素晴らしい方々がいます。そんな人たちに励まされることで、挫けそうになっても、以前より高く立ち上がることができます。

だからこそ、夫をはじめとした大切な人のこと、その人と過ごす時間を何よりも大切にした上で、いろんなことをやっていきたいと思っています。

ただそれは、周りの人たちに判断を委ねているわけではありません。最終的に決断を下すのは全て自分です。

人から助言をもらったからと言って決めるのは自分。自分がやると決めて、それによって向かっていくしかありません。成功もありますが、失敗の方がめちゃくちゃ多いです。でもその失敗がまた私にチャンスを与えてくれます。

人との関係性もそうかもしれません。私は、多くの人と出会い、ときにすれ違いながら、私を受け入れてくれる人や場所を得ることができました。そしてそれらを大切にして今を生きています。

今の私はとっても幸せで1分1秒を楽しんでいます。自分の道は自分で切り開き、そして自分の足で大きく一方踏み出して夢を実現させていく。1つの夢が叶うとまた新しい夢を見つけそれに突き進んでいく。そんな素晴らしく楽しい人生を、これからも歩んでいきたいと思います。

【写真】盲導犬のヴィヴィッドを抱きながら笑っているあさいさんと、それに応えるヴィヴィッド

関連情報:
浅井純子さん YouTubeチャンネル

(記事内写真提供/オオツキWAYタイジ、編集/工藤瑞穂、企画・進行/木村和博、協力/佐藤みちたけ)