あなたにとって、自分の「弱さ」や「苦労」とは、どんな意味を持つものですか?

「弱さ」とは、恥ずかしいもの、隠さなきゃいけないもの、克服するべきもの……。「苦労」とは、つらいもの、できれば避けたいもの、乗り越えるべきもの……。

これらの言葉から一般に連想されるイメージは、どこか後ろ向きで、うつむきがちだと感じますが、どうでしょうか。

私も、弱さとか苦労とかって、しんどいものだよなって思っていました。そう、べてるの家の「当事者研究」の考え方に出会うまでは。

当事者研究では、お互いの「弱さ」や「苦労」を持ち寄ることによって、人がつながり、その場にやさしさと助け合いが生まれ、新たな知恵が創出されることを大切にしてきました。ですから、「弱さ」とは、大切な生活情報のひとつであり、みんなで分かち合うべき共有財産なのです。

(引用文献 べてるの家発行:『当事者研究ノート』、「当事者研究の理念集」より)

べてるの家は、統合失調症をはじめとした精神障害のある当事者が営む地域の活動拠点です。私はライターとしてsoarに関わる中で、べてるの家と、彼らが取り組む「当事者研究」の活動を知り、大きく心を揺り動かされました。自分にとってネガティブに捉えがちな要素を、そんなふうに生かせるものなのかと。

自分の苦労や生きづらさを周りに開示して、仲間と共に自分を助けていく――こうした「弱さの情報公開」の下に行なわれる当事者研究の在り方は、近年ビジネスの領域でも、組織マネジメントの文脈で注目され始めています。仕事の成果を出すためには、組織の中で「心理的な安全性」が担保されていることが重要であり、それを担保する上で「お互いに弱さの情報共有をすること」が大事なのではないか、などと言われています。

しかし、それは「弱さをただ単純にさらけ出せばいい」という話でも、「周りの助けを借りて、問題を楽に解決しよう」なんて話でもありません。むしろ、周りの支えを借りることで、ひとりではなかなか向き合えない「弱さ」や「苦労」と、逃げずに向き合っていこうというタフな心持ちこそが、当事者研究の真髄だったりする。なぜなら、「弱さ」や「苦労」から目を背けていては、自分が“自分の人生の主人公”になれないから。

当事者研究のことを深く知ることで、“私”という個人の生き方だけでなく、組織や企業の在り方も、きっとよりよくアップデートしていけるはず。そんな思いを胸に、今回はsoarの理事である鈴木悠平が聴き手となって、べてるの家の理事である向谷地生良(むかいやち いくよし)さんに、当事者研究の成り立ちや思想について、じっくりとお話を伺いました。

表層的なノウハウに寄らず、当事者研究の根底にある「研究志向」の意義を掘り下げることで、“私”と“私たち”が生かせるエッセンスを、読者の皆さんと一緒に見つけていきたいと思います。

べてるの家、当事者研究とは?

【写真】穏やかな表情で歩くむかいやちさん

さて、本題の対談に入る前に、まずは皆さんにべてるの家(以下、べてる)と「当事者研究」についてご紹介させてください。

べてるは、北海道の浦河町にある地域活動拠点です。浦河赤十字病院の精神科を退院した人たちを中心に立ち上がった回復者クラブ「どんぐりの会」をルーツに、障害のある人と町民有志によって、1984年に立ち上げられました。

彼らはここで共同生活をしながら、日高昆布、夏いちごといった地場産業を生かした事業を起こして自ら働く場をつくっています。診療所など他機関と連携しながら少しずつ地域での活動を拡げ、現在は訪問看護ステーションやグループホームも併設され、生活・仕事・ケアが一体となった場所になりました。ソーシャルワーカーの向谷地さんは、このべてるの設立に当初から関わり、立ち上げから今日まで理事を務めています。(参考記事

そして「当事者研究」とは、2001年にべてるから始まった、さまざまな精神疾患を経験した当事者が自らの生きにくさについて研究し、周囲と語り合うなかで対処法や生き方を探していく手法のこと。医師や専門家にすべてを委ねるのではなく、自分自身が「苦労の主人公」として自分の生きづらさを研究し、仲間とともに「自分を助けていく」試みを実践していきます。(参考記事

soarには、べてるで実際に行なわれている当事者研究の様子を取材した記事が、いくつかアップされています。そこには、病気の当事者である人たちが「統合失調症精神バラバラ状態」「人間アレルギー症候群バツつけ型」「明るい躁うつ病笑い型」などと自己病名をつけることで、自分たちの病気をポジティブに自分事として受け止め、仲間と支え合いながら、その状態との付き合い方を研究している様子が記されています。(参考記事①参考記事②

経験は宝

自分の苦労をみんなの苦労に

研究は頭でしない、身体でする

当事者研究の理念には、私たちが生活や仕事に向き合っていく上で、とても大切にしたいと思える要素がたくさん詰まっています。そんな当事者研究は、どのようにして生まれ、形づくられていったのか……お待たせしました。これより、本編となる対談のスタートです。

問題だらけの現状を生きていく中、必然かつ自然に生まれた当事者研究

【写真】向き合って話すすずきと、むかいやちさん

鈴木:向谷地さん、今日は宜しくお願いします。

2年前の夏に僕もべてるにお邪魔したのですが、当時、適応障害を発症していてしんどかった時期だったんです。でも、そのしんどさや苦労に名前をつけるというユーモラスな視点や、症状を消そうとするのではなく、自分の「隣人」として付き合っていくという姿勢など、当事者研究の理念に触れてすごく楽になった経験があります(参考記事)。今日、あらためて向谷地さんのお話を聞けることを、とても楽しみにしていました。

まずは当事者研究がどのような背景から生まれ、定着していったのかを伺わせてください。そこにはやっぱり、「困っている人たちをなんとか支援したい」といった気持ちが強くあったのでしょうか。

向谷地:そうですね、私はソーシャルワーカーですけど「誰かを何とかしようと頑張ってきた、実践してきた」というよりも、実感としては、人間そのものへの謎解きのような強い興味や関心、それを探るための冒険、探検をしてきたような感覚なんですね。化石だとか遺跡を発掘する時のような感じにも似てますね。

もちろん、人の助けになりたいという思いもありますが、それ以上に何と言っても、自分自身への好奇心が原動力になっている部分が大きいです。このことは、今から40年近く前に仕事をし始めた頃から、ずっと変わっていませんね。

この領域で、いわゆる“心の病気”を抱えた人たちとたくさん出会って、「人間の謎」がさらに深まったんです。彼ら、彼女らの中で、一体何が起きているんだろうと。そうしてどんどん、強く関心を持つようになっていきました。そして、それが自分を知ることにもつながる。

鈴木:ふむふむ。

向谷地:だから今でもそうなんですけど「この地域を~」とか、「この社会を~」とか言って上段に構えているわけじゃなくて。自分の足元から具体的に小さな安心、居心地の良さを生み出して、それを失敗も含めて社会に向けて発信してきたような気がしますね。

べてるが町おこしの文脈で、一つの成功例のように取り上げられることは何度かありましたが、僕らが置かれている現状は昔から今に至るまでずっと、全然甘くはなくて。それこそ、日々、問題だらけなんです。

鈴木:というのは?

向谷地:浦河に住んで40年以上経ちますが、当時およそ2万人あった人口は半分近くに減っているし、魚も採れない、馬も売れない状態で地域経済もどんどん疲弊しています。商店街も空き店舗が増えて、全体を見たら、決して前向きな方に向かっているわけじゃない。何かを積み上げて作る以上に、むしろどんどん失われていく、崩れていくものが多い地域の現実を、私たちは生きています。

私は、社会や地域の抱える問題は、一番弱い立場にある人たちに現れると考えてます。とくに社会の行き詰まりは、人の苦労が究極に煮詰まった結果として、その人のメンタルヘルスの部分に顕著に現れる。その意味では、浦河というコミュニティーにとって、べてるの人たちは“炭鉱のカナリア”のような存在だとも言えるわけですよ。

鈴木:何らかの異変をいち早く察知して、知らせてくれる存在だと。

向谷地:だからこそ、当事者から発信された情報や語りは、とても大切になってくるわけです。地域や社会が病気を経験した人たち、何かしらの困難や痛みを抱えている人たちが発するメッセージに対しての共感や理解を持っていないと、結果的に立ち行かなくなっていってしまう。

私たちは病気や障害を抱えること、生きにくさとか苦労を抱えること自体に関心を寄せて、それらとどう向き合っていくべきか、どんな態度で生きるべきかと、自分たちなりの発想で生き方を模索してきました。当事者研究も、こうした歩みの中で必然的に立ち上ってきた発想なんです。

鈴木:なるほど。当事者研究は、目標を立てて計画的に編み出したわけではなく、のっぴきならない現状や起こった出来事に対する態度、在り方の積み重ねから、自然に生まれてきたものなのですね。

「一緒に研究しよう」という言葉で、みんなが楽になった

【写真】手振りを入れながら話をするすずき

鈴木:当事者研究のアイデアが立ち上がってきた、最初のきっかけみたいな出来事って、何かありましたか。

向谷地:ありましたね。と言っても、特別な出来事があったわけではなくて。今から20年くらい前、べてるに、一人の統合失調症を抱えた若者がいましてね。家族ばかりではなく、地域の中でもいろいろなトラブルが頻発して、彼も苦しんでいたと思うんですけど「この人をいったいどう応援したらいいのか?」と途方に暮れたことがあったんです。

それについて、みんなでずーっと困っていたんですけど、一向に出口が見つからない。そんな時に、もうお手上げだと思ったときに、目の前でうなだれている彼に向けて、私の口からポロっと「どうしたらいいかわからないから、一緒に研究しない?」という言葉が出たわけです。

鈴木:ポロっと、「研究」が。

向谷地:その瞬間、私自身が一番「何とかしなくては」といった重圧から解放されたような感覚を持ちました。もちろん、彼も「研究したいです!」と言って表情が変わったんです。そこで「これは面白いぞ」と感じて、“研究”を軸にしていろいろな困難との向き合い方を工夫してみようと。

鈴木:その「一緒に研究しよう」という言葉が、当事者研究の原点になったのですね。

向谷地:そうですね。トラブル続きの彼を叱ったり、諭したりするのは、簡単です。でも「叱られるから、注意されるから、評価が下がるから」といった動機づけから生まれるものって、長続きしない。やる気の素は、やっぱり探究心や冒険心、興味関心なんだと思います。そういうのが盛り上がって、初めて人は能動的に動けるんだよなと、“研究”という言葉が気付かせてくれました。

“研究”というフィルターが、苦労を取り戻す助けとなる

【写真】話を聞いているむかいやちさん

鈴木:今まで“問題”として、ある種「向き合わなきゃいけない大変なこと」と認識していたことを、“研究”という言葉で捉え直してみたと。それによって、当事者や周りの支援者の皆さんの意識は、どのように変わったのでしょうか。

向谷地:大きく2つの変化がありました。ひとつは、いまお話ししたような興味関心をベースにして、前向きに自分の苦労と向き合えるようになったこと。もうひとつは、当事者だけでなくスタッフたちも、自らの苦労を“研究対象”として自分の外に置くことで、「今を生きる当事者」として目を逸らさずに、自分や周りの人と向き合えるようになったことです。

私の研究仲間である西坂自然さんは「“支援者もどき”の人の前では、つい自分も、本来の自分からかけ離れた“もどき”――病気“もどき”、元気“もどき”、良い人“もどき”になってしまう」と言っています。つまり支援者は、一方的に支援者ぶっていてはいけないんです。現場では人を支える以上に、“支えられる人”としての経験が大事になってきますね。

鈴木:「苦労を自分の外に置くことで、より当事者として自分の苦労と向き合える」というのは、どういうことなのでしょう。外に置くと、他人事のようになってしまいませんか?

向谷地:それが、逆なんですよ。外に置くことで、自分事になるんです。持ちやすくなるし、見えやすくなる。他人事にするんじゃなくて、“他人事のように”扱うことによって、自分事になるんです。

かつて私が病院にいた時、患者さんは当然なんですけど、治してもらおうと思って病院にやって来ます。でも、精神医療の世界は「骨折しているから骨がくっつけばいい」というような外科的、対処療法的な発想では、決してとらえきれない非常に難しい領域なわけです。

鈴木:対症療法的、つまり「この症状にはこの薬を飲めばいい」という単純な対応で回復する問題ではないと。

向谷地:はい。学説的にはさまざまな立場があるんですけど、精神疾患の根底には基本的に「人として苦悩している状態」があります。私たち人間は、暮らしの日常的な苦労が積み重なって行き詰まると、まず身体に異変が起きる。その苦労が出口を失ってさらに行き詰まると、メンタルな部分に症状が出てくる。

その根底には、普段あまり意識せずにやり過ごしている、誰しもが避けて通れない“生老病死”とも関連する「人生の意味」という最も深いテーマが横たわっているわけです。この構図を、私たちは「苦労のピラミッド」と名付けています。

当事者研究における苦労のピラミッドの図。1番上は見せかけの苦痛(精神・身体症状)、真ん中は現実の苦労(仕事・お金・人間関係)、一番下は本質的な苦悩(生きる意味ー人間共通)と書いてある。

向谷地:日常の中では解消しきれなくて、身体の中に蓄積していった“生きづらさ”が、私たちに一種の注意サインのように生理的な不調をもたらします。その警告を無視していると、さらに“生きづらさの濃縮”が進み、私たちの気分や物の感じ方、見え方、聴こえ方、記憶などのこころのシステムに負荷がかかって、そこに歪みが生じる。

べてるには、笑顔が怒り顔に見えたり、「おはよう」の挨拶で傷ついたりする人がいます。周囲の人と物の見え方、感じ方にズレが生じて、コミュニケーションが難しくなって、それがトラブルのもとにもなる。人によっては、まるで、夢を見ているかのように奇想天外な変化を引き起こすこともあります。

鈴木:精神疾患と呼ばれる状態は、日常の生きづらさが影響している。

向谷地:そうですね。もっと細かく言うと、個人の「ミクロ」な領域、家族などの身近な「メゾ」の領域、社会という「マクロ」の領域が、お互いに繋がり合いながら、人の生きにくさの“クラスター”のようなものを形成しているのではないかなと。この3つに加えて私は、遺伝子レベルの「超ミクロ」と、宇宙レベルの「超マクロ」の領域も含めて考えたいと思うんです。

だから「いま出ている症状だけが消失すればいいか?」と言えば、それはNOですよね。苦労のピラミッドを降りながら、「自分の生きづらさ」の中身を明らかにしていかないと、謎が解けない。そういう見えにくい、分かりにくい領域なんです。

この「自分の生きづらさ」は、自分の中に置いたままだと、ブラックボックスになりすぎていて、なかなか向き合うことができません。見えないし分からないから、解決をほかの人に丸投げして委ねてしまいたくなる。「治してください」と医者を頼る行為は、まさにそれですね。

鈴木:まな板の上の魚みたいに、自分のことを他人に明け渡す感じになってしまうと。自分の中に隠れていてよく分からないものを、一旦外に置いてみることで、あらためて「あ、これは自分事なんだ。自分でなんとかするほかないんだ」と気づけるのですね。

向谷地:そうなんです。苦労を“病気”として捉えて、解決を人任せにしていたら、なかなか状況は良くならない。回復に向かうには、病気として手放していることを、自分事として捉え直して、自分の大切な人生の苦労の一部、貴重な経験として「取り戻す」必要があります。「取り戻す」ことで、逆にその苦労から「解き放たれる」可能性が高まるわけです。

鈴木:苦労を取り戻す。

向谷地:ただ、苦労を個人がそのまま受け止めるには重すぎる。受け止めきれなくて、今まで蓄積してしまったわけですから。そこで“研究”というフィルターを通すと、前向きな気持ちで向き合えるし、持ちやすくなって、似たような研究テーマを持った仲間と一緒に探求できるようになる。研究のためと思えば「弱さの情報公開」も、自然としやすくなるはずです。

個人の困りごとを、組織の貴重な学びに繋げていく「弱さの情報公開」

【写真】真剣な表情で話をするむかいやちさん

鈴木:苦労を取り戻すのは大切だけど、それは生半可なことではなくて、ひとりで抱え込むと非常にしんどい。“研究”として捉えることで、みんなで一緒に考えられるのは、とても楽になるし、より楽しい気持ちで向き合えそうですね。

向谷地さんが先ほどおっしゃった「弱さの情報公開」は、当事者研究を語る上で、とても大事なキーワードだと感じていて。soarも組織において、弱さを共有できる関係性づくりを大事にしていますが、最近は企業の組織マネジメントの文脈でも「弱さの情報公開」の重要性が語られ始めています。

向谷地:そうなんですね。

鈴木:チーム内の相互理解を深める際に、得意や強みだけでなく、苦手なこと、困っていることもフラットに共有するようにしようというワークが実施されたり、日々の心身の調子をチーム内でお互いに共有・開示しながら働いたり……僕が見知っている範囲では、そういった事例も見られてきています。

それはとても心強いなと思う一方で、「弱さを共有して終わり」「共有したら誰かが助けてくれる」というふうに、言葉の意味が少し誤解されたまま使われているケースも、少なくなさそうです。

あらためて「弱さの情報公開」とは、どんなことを考えながら行なっていけばよいのか、聞かせてもらえますか。

向谷地:実は「弱さの情報公開」は、精神医療の世界で“保護”の名の下で個人の語る行為が規制されることが多かった中で、2005年に「個人情報保護法」が成立した時、それに対するささやかな抵抗として始まったものなんです。

鈴木:そんな背景があったのですね。

向谷地:「弱さの情報公開」の本質とは、「困っているときに“困っています”と言えること」なんだと思います。「自分は今こういう状況に置かれている」と、一人で抱え込まず身近な人に話せること。「自分は今これが足りない」「前に進むための情報がほしい」「応援がほしい」と周りに前向きに依存できること。一言で言うと、「情報収集」と「情報発信」のイメージです。

「弱さの情報公開」は、決して迷惑なことではない。この場で起きている困りごとは、私たちが共によりよく生きていく上で、未知の可能性を秘めた大切な情報である。みんなで考えて、みんなで解消できれば、組織にとって貴重な学びになる――そういう組織文化を全体で共有できたら、さまざまな組織や企業でも機能するんじゃないかと思います。

鈴木:前提を共有できているからこそ、安心して弱さを公開できると。

向谷地:そうですね。自分が「恥ずかしい」とか「弱みだな」と思っているものは、実は他人からしたらそれほど弱みじゃないかもしれない。むしろ、「悩み方が上手になった」「苦労の発信力がある」などと“反転”させてみたら、強みにもなるかもしれない。それは外に出して、みんなで確認するまでは分からないんです。

鈴木:弱さが外に出せない状態だと、真面目な人ほど自責的になりそうですね。何か困りごとが起きたとき、「私のスキルが足りないから」「私の体力が、根性が足りないからだ」と、無限に自己責任を問い続けてしまう。けれども、やっぱり組織の中で働くことは、常に相互作用で何かが起きているわけで。

向谷地:そうですね。

鈴木:仕事において、その人だけで完結することなんて少ない。だからこそ、弱さを開示してみると「うまくいってないのは私のせいだけじゃなくて、こういう環境があったからなんだな」と認識をアップデートしたり、「そこはみんなでサポートできるね」といった議論に繋げることができそうです。

向谷地:特にみんなを引っ張っていくリーダー層の人たちは、「弱さの情報公開」を意識的に行ってほしいなと思っています。そうすることで、ほかのメンバーも弱さを公開できるようになって、困りごとをみんなで支え合って解消する文化が生まれ、組織全体がどんどん元気になっていく気がしています。ただし、それは「強いる」ものではなくて、「生まれる」ものであることを覚えておく必要があります。

研究志向で捉えたら、どんな出来事も貴重な宝

【写真】べてるの家や当事者研究に関する本が3冊並んでいる

鈴木:ここまでのお話で、当事者研究は「困りごとを“解決すべき課題”ではなく、“研究対象”として捉え、みんなで情報公開をしながらワイワイ研究していく」という態度で取り組めると上手にできそうだ、と整理できてきました。

向谷地:私たちは生きてると、色んなことがありますよね。困ったこと、扱いにくいこと、どう対応すればいいか分からないこと。そんな時に、悩む、困る、不満を感じるレベルで止めておかないで、「よし、研究してみよう」と考えてみる。そういう感覚を、べてるではみんな、とても大切にしています。

当事者研究とは「日々の営みに対して、研究志向であること」――これが最も素朴で、それ以上も以下もない説明だと思います。

鈴木:その発想は、困りごとを抱えた人たちだけでなく、どんな人にとっても大事だし、実践できそうです。

向谷地:普段の生活の中で、それほど困っていないときにでも、職場や家族の中で研究的な対話が行なわれて、よりよく生きる術が日々見出されていく。そんなふうに、誰もが日頃から研究志向を用いていることが、一番の理想だと思っています。

鈴木:いいなあとは思いつつ、いざ「研究志向になるぞ!」と思い立っても、何から実行していったらいいか迷う人は多そうです。研究志向を定着させるためには、どんな工夫ができるでしょうか。

向谷地:先ほども触れましたけど、自分の仕事も含めて、生活とは不確実性に富んでいますから、いろいろなアクシデントがつきものです。そこで起こる悩みごと、困りごと、腹が立つことを、練習だと思って「ちょっと研究してみよう」と“置き場所”を変えてみる。そこから見えてきたこと、考えたこと、それでも不明なところを誰かに話してみる。

工夫としては、「愚痴」や「不満」ではなく、「難しい課題」として捉えるように。もちろん、そこで起きる怒りやつらい感情も、自分に起きている“現象”として、そのまま話しても構いません。雑談の発展型だと思えばいい。

それが職場の共通課題になるのならば、グループをつくり、それぞれが自由に研究テーマを持ち寄ってアイデアを出し合う場を、定期的に設けたらいいと思いますよ。ちょっと楽しいイベントにすることで前向きな気持ちで臨めるし、定期化によって研究志向が鍛えられ、根を張っていきます。そういう効果を狙って、私たちはあちこちで研究の場づくりをしているんです。

鈴木:研究志向をインストールしていくためのきっかけとして、イベント的に場づくりをすることが効果的なのですね。研究を実践する場づくりにおいて、意識するといいことって、何かありますか。

向谷地:「どんなことがあっても、研究志向で受け入れていくこと」ですかね。

鈴木:どんなことがあっても。

向谷地:そうそう、この前ある当事者研究の交流の場で、参加者が「自分のグループは非常につまらない、二度と来たくない」と思うような状態になっていて、「向谷地さんがちゃんと指導してくださいよ」と言ってくる方がいたんですね。

鈴木:あらら。

向谷地:けれども私は、指導する気なんてまったくなくて(笑)、「それはむしろ研究のチャンスですよ」とお伝えした。

鈴木:チャンス、ですか?

向谷地:反転させて「どうやったら二度と行きたくない場が生まれるのか?」と考えてみたらいいのでは、とね。「二度と参加したくない当事者研究の場づくり」の研究ですね。

そのうちどんどん参加者が減っていって、ついに誰も来なくなったら、あなたの仮説は実証されたことになる。そしたら、今度はそれをぜひ研究成果として発表してくださいよと。「二度と行きたくなくなる場の研究」って、そんな発表とっても面白いじゃないですか。

鈴木:面白いですね。そうか、研究志向でいられれば、ポジティブだろうとネガティブだろうと、どんな事象も研究対象にしていけるのか……!

向谷地:上手くいくことだけじゃなくて、情けない場面も大事にしたらいい。そうしたら、世の中捨てるものがないんです。失敗は、失敗じゃない。見方を変えたら、それは貴重な宝の山だからね。

当事者研究のファシリテーションは「一緒に困る、むやみに傾聴や共感をしない」

【写真】インタビューに応えるむかいやちさん

鈴木:研究志向を定着させるための場づくりについて、もう少し伺わせてください。その場では、狙いをある程度わかっている人が、ファシリテーターを務めたほうがいいのかなと感じています。研究的な場において、ファシリテーターはどんな振る舞いをしたらよいでしょうか。

向谷地:私は当事者研究の場で、実は「ファシリテーター」という役割を設けることに、必要だと思いつつ、まだ半信半疑なんです。レストランでみんなとワイワイご飯を食べているときに、ファシリテーターはいないですよね。そんなふうに、自然に研究的な対話が起こるのが理想だなと思っていて。

鈴木:ああ、たしかにそうですね。

向谷地:ただ、対話的な状態になりましょうと言って、なれるものではないことも分かっています(笑)。それでも、これだけ当事者研究への関心が高まって、それを人に説明したり、実際にそれを展開するということを考えた時に、何か欲しいという声はあって、いろいろな試みが始まってますね。

当事者研究を一つの「対話の場」と考えると、最も大事なのは、そこにいる人たちのお互いの関係が「民主的であること」です。当事者研究でのファシリテーターの役割は「その場が民主的であるようにバランスをとること」に尽きると思いますね。そこが、望ましい結果を意図した心理療法やグループワークとの根本的な違いだと感じています。

また、ファシリテーターに大切なセンスのひとつとして、「相手の苦労を自分ごとにする感覚」が挙げられます。

当事者研究では「自分は今これで困っている」というような話題から始まることが多い。こうした話を聞いて、自分事に近い感覚で捉えてみる。答えを考えたり、解釈する以上に、相手と一緒に困れる感覚を大事にできるといいのかな、と感じています。相手の見えている、感じている土俵で考えられるかどうかですね。

鈴木:先回りして議論を主導するよりも、想像力を働かせて、相手と一緒に困ってみると。

向谷地:そうですね。それと、むやみにカウンセリングのような傾聴モードにならないことも、大事かもしれません。

鈴木:傾聴モードにならない?

向谷地:べてるのメンバーの中には、黙ってうんうんと話を聴かれ続けると「本当は私の話なんて聴きたくないんじゃないか」と感じて、具合が悪くなる人がいるんです。彼らにとっては、どちらか一方が受け止めるドッジボールじゃなくて、お互いに投げ合うキャッチボールが成立しないと、“気心が通じ合う”関係が成立しないわけです。だから、傾聴する人がかえって“マイナスのお客さん”になってしまう。

ちょっと具体例を紹介しましょうか。これもある当事者研究の場でのことですが、私が席につくなり、とある顔見知りの参加者さんが駆け寄ってきて「ここにいる全員、誰も信用できません」と不満を言い始めたんです。場の全体のムードも、ちょっと険悪な感じでした。

鈴木:およよ。

向谷地:どういう流れがあって、その人が「信用できない」と思うに至ったのかはいろいろあるんですけど、だいぶ切羽詰まっていた様子でした。なので、少し時間が経ってから、その人に「ちょっと教えてもらってもいいですか?」と切り出して。

鈴木:うんうん。

向谷地:「『ここにいる全員、誰も信用できません』というのは、すみません、私も入ってますか?」「それを聞いて、ちょっと私のこころに刺さるものがあったものですから」って聞いてみたんですよ。それから「もし私が入っているならば、全然傷つかないので、私のどの部分が信用できないとか、どこが気に食わないとか、遠慮なく教えてもらってもいいですか?」という話もして。

【写真】すずきとむかいやちさんが笑いあっている

鈴木:なんと大胆な(笑)

向谷地:すると、その人もうろたえ始めてね(笑)。ミーティングが終わった後で謝ってきて、「なんで誰も信用できないと思ってしまったのか」と、研究志向で冷静に振り返りをしてくれました。

こういった問いかけや、人ではなく、ことを批判する“前向きな批判”は、率直にしていくといいと思います。弱さを共有し合う場だからといって、決して「そうなんだね、そうなんだね」とカウンセラーになったように傾聴したり、共感じみたことばかりを言う必要はなくて。相手の痛みを尊重し合う前提は持ちつつも、思ったことや感じたことは、素直に言えるほうがいいですね。

ただ、素直と“そのまま”は、ちょっと違います。評価を交えない、“現象”としての気持ちや考えを伝えることが、素直さです。

鈴木:「分からない、知りたい」と思ったら、ちゃんと伝える。それを、変にどちらかが抑え込んで、傾聴モードになるのはよくないと。人と人が素直に関わると、お互いにハッとしたり、気持ちが変わったりする瞬間が起こりやすくなるんだろうなあ。

向谷地:加えて言えば、話したいのに素直に話せないときは「なんか緊張して話せないんだよね」とそのまま言っちゃえばいいんですよ。無理やり素直にならなくていいんです。

「弱さの情報公開」に慣れないうちは、「慣れないなあ」と言えばいい。自分に対してちょっと戸惑っていたり、もどかしく感じているくらいが、ちょうどいいですよね。その戸惑いも含めて、ちゃんと周りに言えることが大切なんです。そのほうがきっと、周りも共感するし、安心しますよ。

研究志向は地層的なフィルターである

【写真】質問をするすずき

鈴木:研究志向や、研究のための場づくりについて、だいぶ解像度が上がってきた心地がしています。向谷地さんのお話を聞いていると、自分も何か研究してみたいなと、ワクワクしてきますね!

向谷地:ありがとうございます。ただ研究って、すぐに成果が出るものばかりではないですから、答えのない時間を楽しむ感覚が大事ですね。

別な言い方をすると研究の過程とは、地層みたいなイメージなんです。最初はゴミの混ざった泥水がいっぱい流れ込んでくる。それが幾重に広がるさまざまな地層によってろ過されることで、最終的に飲めるくらいキレイな水になっていく。研究志向とは、そういうフィルターを組織の中に、みんなで時間をかけてつくるプロセスなのかもしれないですね。

鈴木:ろ過するフィルターを。

向谷地:べてるも浦河の町も、上から下まで真水じゃないわけですよ(笑)。べてるも上だけ見ればいつも泥水だらけだし、ゴミやホコリもわんさかある。何十年という月日をかけて、混沌とした現状をじっくりろ過するフィルターをつくって、なんとか生きやすい環境に変えてきた……そんな作業をしてきたような気がします。

鈴木:ろ過できるフィルターがあるから、泥水のような日々の問題を受け止められる。だからこそ、べてるの人たちは「今日も順調に問題だらけ」と言えるんですね。

向谷地:そうそう。

鈴木:「弱さの情報公開」の話が出てくるとき、多くの人は、ろ過された後の真水の部分に目が行きがちなのかもしれません。そのイメージを持って会社で実践しようとすると「問題が表出するばかりじゃないか!」と、ギャップを感じてしまう。

向谷地:その点は、ちょっとわかりにくい世界なのかもしれません。私たちはべてるのことを「世界最先端の理想的な苦労集積地」と言ってます。小川のせせらぎみたいなのを予想している人たちがやって来ると、みんなビックリしますからね、ははは(笑)。

鈴木:「研究志向は地層」というイメージを持つと、積み重ねの大事さを一層感じられますね。

向谷地:「苦労のピラミッド」でも紹介したように、人の抱える“生きにくさ”も、地層のように考えるとわかりやすいんですよ。

「苦労のピラミッド」の一番上の「見かけの苦労」は、医師などの専門家が主に関与する領域です。なぜ「見かけ」なのかと言うと、たとえばお金がなくて生活に事欠いて、その心労から眠れなくなったとします。その状態で病院に行って「不眠」と診断されても、それはあくまでも「見かけの苦労」だという意味で、フランクルの言葉を借りるならば、「不眠」は「金欠」の“偽装”と言えるわけです。

「現実の苦労」は、誰しもが暮らしの中で抱え得る苦労ですね。一番下の「本来的な苦悩」は、スピリチュアルな世界、“プレディカメント(人間が本来的に背負わされている苦悩)”の領域で、宗教者や哲学者が担ってきました。

現状では、それぞれの領域が分断され、分業化されていますよね。でも、これらは本来ひとりの人間の中で、ぜんぶ繋がっているものじゃないですか。

鈴木:そうですよね。

向谷地:問題を横に切り出して、解決をアウトソージングする。そういう社会は合理的なんだけど、すごくその場しのぎ的なんです。横の思考で当事者研究をやったら、「お金で苦労しています」「じゃあ貸してあげよう」「これで解決だね、はいおしまい」となってしまう。

鈴木:そうすると、表面的な不具合を取り除くだけの対処療法になってしまいますね。苦労しているそもそもの複雑な背景にアプローチしてないから、そのうちまたお金がなくなって、また貸しての繰り返しになってしまうと。

向谷地:だから当事者研究では、すべてが繋がっているという前提を持つ「縦の思考」が大事なんです。これからは、縦の思考をできる人たちを増やしていかなきゃならんなあ、と感じています。

遺伝子レベルで考えてみる、大きなスケールで人間を捉える

【写真】笑顔でお話をする〜さん

向谷地:ちょっと話は逸れますが、最近は遺伝子に興味があってね。

鈴木:遺伝子。

向谷地:人類が生まれてからの歴史は約700万年。そのうち699万年は、ずっと狩猟民族だったわけです。野生動物と同じように、自然の中で必死になって、どう生き延びるかを模索してきた。そのときにできた設計図、遺伝子の配列は、いまを生きる私たちにも受け継がれているわけです。

これは私の理解ですけど、「自然淘汰―生態的な環境に適応するものは生存し、そうでないものは自然に滅びる」という大きな生命の歯車に抗うように、人類の遺伝子の設計図には「助け合って暮らす」「子育てはみんなでする」というコンセプトが備わっているわけです。

しかし、近代的な科学文明の「競争原理」「個人主義」は、適応できないものは排除するという自然の歯車に迎合して、淘汰を加速させている。それに対して、遺伝子はブレーキをかけようとする。その部分から、鬱などの心の病や生きにくさが起きている……と考えることができるわけです。

鈴木:なるほど。

向谷地:最近読んだ環境情報学の本に書いてあったんですが、私たちは持っている遺伝子の一部しか使ってなくて、多くはオフの状態になっているそうです。そして想定外の出来事が起こり、私たちに負荷がかかった時に、眠っていた遺伝子のスイッチである「オペロン」がオンになる。そのスイッチの入り方によって、さまざまな病気が起きてくる。

鈴木:それは壮大な話ですね。

向谷地:ですから、最近はいろんなことを考えるときに、遺伝子レベルで考えるようにしているんですよ。「体調が悪くなるときは、遺伝子レベルで設計図に書いていないことをしている可能性がある」とかね。

それと驚いたのが、人間の遺伝子には「種の保存」という大義名分があって、そこから逸脱するとブレーキがかかるようになっている。逸脱が過ぎると、いわゆる最後通告のように“自己解体プログラム”が作動して、「君の生命はここで終了だよ、土に還りなさい」と、シャットダウンさせるスイッチも備えられている。

鈴木:なんと……。

向谷地:そういう意味で「自分のことは自分が一番よく分かっていて、すべて自己決定して生きている」という態度は、おそらく大間違いなんです。自己決定できることなんてごく一部で、私たちは地球上のひとつの種として、もっと大きな流れの中に生かされている。

そんなふうに考えておかないと、人間ってやっぱり傲慢になる。人類史とか遺伝子とか、大きな流れで自らの生を捉えて考える感覚を、ちゃんとみんなが持てたらいいなと思うんです。

鈴木:大きなスケール感で捉えられたら、より相対的に自分の存在と向き合えそうですね。「この人類史の一部を担う者として」とか考えたら、行動も変わってきそうだ。

向谷地:それと、遺伝子にまつわる話で興味深いのが、遺伝子には、常にそのとき生きている種の趣向や生き方が、絶妙に書き込まれていくそうです。それは情報として次世代に受け渡されて、次の進化の際の書き換えに影響してくるのだとか。

いまを生きる私たちが不安や恐怖、怒りの感情に占められていたら、それらは次の子孫に伝わって、生まれながらに疑心暗鬼な性質を持ってしまうかもしれない。そういう可能性があることを踏まえれば、後生に責任を持つという意味でも、やっぱり機嫌よく生きていたいなあと思うんですよ。

支援から応援へ、そしてゴキゲンであれ

【写真】笑顔で話をするすずき

鈴木:当事者研究も、ひとりではやり切れない苦労との向き合いを、研究というフィルターを通してできるだけ前向きに、それこそ機嫌よくやるための工夫だったりしますよね。

向谷地:そうだと思います。「機嫌がいい」というのは、べてるの歩みを考える時の大事なキーワードかもしれません。その関連で言うと、べてるの家はいま、第5次ベビーラッシュがきていまして(笑)

鈴木:第5次!

向谷地:それも8ヶ月くらいになってから「できちゃった」とか、この前なんか10ヶ月目で「できたかもしれない」と言い出すケースもあったりしてね。

鈴木:それはなかなか大変だ。

向谷地:こういう人たちは大体、周りから「養育能力もないのに」と責められて、結果的に母子分離させられてしまったりする。実際、行き詰まって育児困難とか虐待に走ってしまうケースもあります。

ただ、依存症だとか統合失調症などをかかえる親たちの子育ては、たくさんの難しい現実を見てきた中で、「それでも私たちは応援したい、応援するよ」という思いがあって。

鈴木:はい。

向谷地:もちろん、応援することで私たちもバッシングを受けるんです。「だらしない人たちを甘やかしている」「育てる力もない人たちにいい顔をするから、また不幸な子どもが現れる」とかね。

そういう批判も一緒に引き受けつつ、それでも応援するよという気持ちを込めて、最近やっているのが「応援ミーティング」なんですよ。

鈴木:応援ミーティング?

向谷地:特別なことはしないんです、基本はチアリーダーのように、ワイワイ応援するだけのミーティング(笑)。そういうのを、いま増やしていてね。それがあって、はじめて具体的な支援が意味を持つ。

支援って言うと、やっぱり「支援する人/される人」みたいな構造になりがちで、支援者も「あんたちょっとこうしなさいよ」とアドバイスしがちになる。一方で応援は、「あなたが主役だよ、私たちは周りで踊ってみんなの気分を盛り上げる」というニュアンスがありますよね。

鈴木:それで、支援ではなく応援なんですね。応援だと相手の当事者性を奪わない。

向谷地:応援には、支援とは違うゆるさとか、機嫌の良さがちゃんとある。そう、応援は「ゴキゲン」じゃないとダメなんですよ。ニコニコしてて、楽しくないとね。

応援をされるほうは、応援があることによって気持ちが少し明るくなって、前向きになれる。そういう雰囲気、大事だなと。個人的にですが、これからは「支援でなく応援」を推していきたいと思っています。

鈴木:支援より応援を、ゴキゲンに。いやあ、めちゃくちゃ面白い! 

まずはシンプルに「一人一研究」から

鈴木:最後に、これまでのお話の総復習的にもなるかと思いますが、あらためてお聞きさせてください。

今回お伺いした当事者研究、研究志向的な場づくりは、さまざまなコミュニティや組織で活用できるものだと感じています。この記事をここまで読んで「うちでもちょっと研究の場をつくってみよう」と心躍っている人も、きっと少なくないと思います。

そんな方々に、ぜひ「こんなところから始めてみては?」「こんなふうに進めたらいいんじゃないか」といったアドバイスをお願いできたら嬉しいです。

【写真】インタビューに応えるむかいやちさん 向谷地:それで言うとですね、今から30年前になりますけど、私たちの当事者研究の源流のひとつに、博進堂という新潟の印刷会社で行なわれていた「一人一研究」という活動があるんですよね。

鈴木:一人一研究。

向谷地:社員一人ひとりが自由にテーマを決めて、それを一年間研究してみんなで発表し合う、というシンプルな活動です。これを「べてるでもやってみよう」と試行錯誤してできたのが、当事者研究につながるんです。

そう、当事者研究のルーツは企業にあるんです。だから皆さんも、あまり難しいこと考えないで、まずは「一人一研究」をやってみたらいいですよ。二人でも、三人でも構わないと思います。

鈴木:そうですね、やってみてわかることもたくさんありますし。

向谷地:それをきっかけに職場の中から「研究的な対話」を起こしていくことが大事なんです。テーマはなんでもよくて、たとえば「どうやってもっと儲けるか?」「売り上げトップになるためにはどうするか?」という研究でもいいと思うんです。

それをやった結果、売り上げは伸びたけど、周りの人がみんな去っていったとかね(笑)。そういうこともまた一つの研究成果として、みんなで共有しながらやっていけばいい。

鈴木:やってみた結果が良かろうと悪かろうと、そこで得られたデータはすべて財産になると。研究志向で物事を捉えられると、「失敗」が存在しなくなる。そこがすごく素敵ですね。

向谷地:結果を良し悪しではなく、すべて大事な成果のひとつとして共有すること――この前提さえ押さえられれば、研究活動は実りの多いものになると思います。その中でいろんな研究が立ち上がってきて、それを受け入れられる土壌が育っていくと、多様性のある組織文化ができていくんじゃないかな。あんまり研究の進め方やセオリーにこだわらないで、楽しく雑談する気分で始められたらいいですね。

鈴木:最初から自分たちのハードルを上げすぎず「まずは最近気になること、ちょっと研究してみようぜ」くらいから始めるのがいいのかもしれませんね。

向谷地:そうそう。テーマがお金儲けに向かっていようが、個人の心や人との関係性の問題に向かっていようが、「研究してみる」という姿勢から、いろんな対話が新たに生まれてきますから。

それと、過去の研究リソースを持つこと。べてるにはたくさんの「失敗と行き詰まりのリソース」があります。ものすごくデリケートで、傷つきやすいべてるのメンバーが働きやすい環境は、それだけで普遍性がある。そこには、無数の失敗や生きにくさのノウハウの蓄積があるんです。

鈴木:研究志向、これから僕も大切にしていきたいと思います。今日は本当にたっぷりお話を聞かせていただき、ありがとうございました!

“研究志向”で世界を楽しもう

【写真】こちらをみて微笑むむかいやちさん

向谷地さんのお話から浮かび上がってきた、当事者研究の根底にある“研究志向”。

それは、どんな出来事も自分の人生にとって貴重なデータ、かけがえのない財産として扱うこと。その財産を惜しむことなく周りにシェアして、仲間と一緒によりよい生き方を見つける研究をすること。課題解決ではなく、研究と捉えて、前向きに楽しむこと。

研究という言葉に馴染みがなかった方も、ここまでの語りの中で「なるほど、そう捉えたらいいのか」「それならできそうだ」「明日から何か研究してみようかな」などと感じられたのではないでしょうか。そう感じてもらえたらいいなと、祈りを込めて、ここまで綴ってきました。

いきなり組織全体で当事者研究を取り入れよう、などと試みるのはハードルが高いと思います。そんな人はまず、身近な人たちと小さく“研究”を始めてみてください。具体的に何かを始めなくとも、この記事の内容について誰かと話したり、時折思い出したりすることで、“研究志向”が身体にしみ込んでくるはず。

そこからきっと、日頃の行動や言葉、景色の見え方、出来事の受け止め方が、ちょっとずついい方向に変わってくるのかなと思います。

「これ気になるな」「なんでこうなるんだろう」「よし、研究してみよう」――“研究志向”が板についたら、きっと世界はワクワクするような謎だらけに見えてくるのでしょう。

あなたは明日から、どんなことを研究してみたいですか?

【写真】すずき、むかいやちさん、ライターのにしやまが笑顔でカメラを見ている

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(編集/工藤瑞穂、写真/中里虎鉄、協力/三谷奈津子)