海岸にて笑っているかとうてつおさん

小学生の頃、オカルト本で予言された「人類滅亡の7の月」が到来するぞと、クラスで話題になった時期がある。誰も本気で信じちゃいなかったし、実際、何も起こらずに人類は存続した。

みんなは「なーんだつまらない」とぼやきつつも、すぐにその話題を忘れていったけど、当時の僕は、笑いながらもホッとしていたのを覚えている。「起こるはずはない。でも、もしかしたら…」という、0.1%もあるかないかの可能性に密かに怯えていたからだ。

純朴な少年は大人になり、もう突飛な妄想をして「世界の終わり」に怯えることもなくなった。

かわりに、一人ひとりの命と暮らしは、もっと具体的で、もっと多種多様な危険に晒されながら成り立っているのだということを知った。

明日、通勤中に交通事故に巻き込まれるかもしれない。気づかぬうちに病が進行しているかもしれない。見えない新型ウイルスに感染するのは、1ヶ月後の自分かもしれない。

意識するかしないかにかかわらず、僕たちは常に、「リスク」と共に生きている。

じわじわと個人の心身を蝕むものもあれば、一度にたくさんの人の命を脅かすものもある。その脅威が発生する要因も、実際に発生したときのダメージもさまざまだが、0.1%未満のリスクも含めて、なんでもかんでも「かもしれない」と気にしていたら、不安で身動きが取れなくなってしまう。そうならずに済んでいるのは、さまざまなセーフティネットが社会に張り巡らされているから。

検診や予防接種、たばこへの課税や注意書き、運転免許や交通ルール、治水工事や気象予報、手洗いうがいや適度な運動…。人類の知恵とそれを活かした社会システムのおかげで、自らを取り巻くリスクの大部分を忘れてしまっても、ほとんど支障なく日常生活を送ることができる。

しかし、社会と個人がどれだけ対策を尽くしても、それは決して「100%」の安全を保証しない。生きている限り、自分がルーレットに「当たる」可能性は残っている。

いざ自分が、生死を左右する病気の「当事者」になったらどうするだろう。医師から提示されるいくつかの治療法、期待される効果とそれにより発生する副作用や後遺症のリスク。治療に伴う痛み、お金と時間、自身の暮らしへの影響…。

たくさんの選択肢がリスクを表す「数字」と共に並べられたとき、自分は何を恐れて、どのように対応するのか。

いくら考えても想像の範疇を出ないが、確実なのは、「それ」が現実に起こってからの後戻りは不可能だということ。何か一つを選ぶと、別の選択肢は消えてなくなる。それでも、提示された選択肢の中から、どれか一つを選ばなければならないのだ。

生死にかかわるリスクの「当事者」が見た景色

手術を重ねるたびに、自由になっていく感じがするんだよね。

生死とリスクにまつわる思考の迷路を彷徨う僕に、その人は笑いながら軽やかに語った。

【写真】笑顔でインタビューにこたえるかとうてつおさん

加藤徹生さん。1980年生まれ。一般財団法人リープ共創基金の代表理事として、国内外の社会課題に挑むさまざまな企業・団体への「社会的投資」を手掛けてきた。このメディアの運営団体、NPO法人soarのアドバイザーでもある。

加藤さんは、命にかかわる心臓の病気にかかり、リスクの大きな外科手術を経験している。それも、2度。

結果から言うと手術は2回とも成功し、加藤さんは無事生還した。だけど、手術前後の経緯や状態を聞くと、病気や死を「乗り越えた」などとはとても表現できない。

部分的な麻痺、思考や会話への影響など、手術後にはいくつかの後遺症が残ったし、また同じような病気が再発する可能性も決してゼロではない。生死を左右する手術を終えた「その後」も、加藤さんは他の人よりも大きなリスクと共に生きている。

それでも「自由」だと彼は言う。

いったい、どういう感覚なのだろう。そこに至るまでにどんな変遷があったのだろう。理解も、想像も、実感も及ばないかもしれない。

ただ、話を聴いてみたいと思った。加藤さんが生きてきた歴史に、触れてみたいと思った。

光化学スモッグに覆われた街で育って

僕が生まれた頃、80年代の大阪ってまだ工業都市で、光化学スモッグもけっこう出ててさ。物心つくぐらいからちょくちょく入院してたのね。喘息がひどくて、そのうち皮膚にも影響が出て、アトピーになって…そんな幼少期。

大阪市の南にある住宅街で生まれ育った加藤さん。工場から出る排気ガス由来の光化学スモッグに覆われ、もやのかかった街並みが原風景だ。決して“キレイ”とは言えない空気に加藤さんの身体は敏感に反応し、幼少期から喘息やアトピーに悩まされた。家から100メートルのコンビニへ行って帰ってくるだけで窒息しそうになったという。

喘息症状は日中の活動だけでなく、夜の平穏な眠りからも加藤さんを遠ざけた。横になると気管に体重がかかって苦しくなり、咳き込んでしまう。そのままではまともに眠れないが、かといって眠らなければ体力も回復しない。

椅子に座って寝たり、布団の角度を変えたり、母親が布団と身体の間に詰めものをしたり、ギリギリ寝られる状態を探してどうにか眠りにつく。そんな夜も珍しくなかった。

見ている母親も辛かっただろうね。子どもがしんどいままで自分が眠るわけにはいかないからさ。

僕の方も、発作のピークを何回か重ねていくうちに、身体の問題から精神の問題も大きくなってきちゃって。

体が弱いことに劣等感も感じるし、皮膚に症状が出ると見た目もよくないし、だんだん自分を呪い始めるというか、「こんな自分は、いない方がいいんじゃないか」って考えが浮かぶようになってきた。

発作がひどくなる度に入院し、小康状態のときだけ学校に通うという生活を続けていたが、だんだんと症状が重くなり、小学3〜4年生の頃には自宅療養と入院を繰り返すだけの「不登校」状態に。同世代の子どもたちが思いっきり体を動かして学校生活を楽しんでいる様子を横目に、呼吸すらもままならない自分の体を呪った。

転機が訪れたのは、加藤さんが小学5年生のとき。病弱児を対象とする養護学校である貝塚養護学校(現在は廃校)に転入することとなった。喘息やアレルギー、生活習慣病や心身障害のある子どもが医療的ケアを受けながら学ぶための学校だ。看護やケアに慣れているスタッフもいる環境で、安心できる場所だったという。

そこでの同級生との出会いが、加藤さんの死生観を大きく揺さぶることとなる。

養護学校の同級生から学んだ、生き方を自ら「選ぶ」ということ

養護学校に転入した加藤さんは、それまで通常学級では出会わなかった、さまざまな病気や障害のある子どもたちと共に学ぶこととなった。喘息のある子も珍しくなく、中には自分よりはるかに症状が重い子もいた。その一人が、小学5年生クラスの同級生だった。

彼女はもともと赤血球が少ない体質の子で、喘息の発作も僕より重くて、何かあるとすぐ死んじゃいそうなぐらい体が弱かった。それなのに吹奏楽部に入ってさ。わざわざそんな危険なことして何考えてんだ、アホなんじゃないだろうかって思った(笑)。

でも、彼女はそれがやりたかったんだよね、きっと。繊細な体だからこそ、「選択する意思」がものすごく強い子だった。

自分よりはるかに「死」に近いところにいるのに、リスクを伴う活動に自ら飛び込む同級生に、加藤さんは衝撃を受けた。楽器を吹けば倒れるかもしれないし、そもそも長く生きられないかもしれない。そんなことは承知の上で、「こう生きるんだ」と意思決定する。

加藤さんが後に出会い、自らもその道を選ぶことになる、社会起業家という生き方の”原型”を目の当たりにした瞬間だった。

なんかおもしろかったよね、僕みたいに症状が軽いやつの方が人生呪うんだよ。それを受け入れざるを得ないぐらい症状が重い子たちの方がよっぽど明るかった。

前向きな選択をするとか、少なくとも明るく振る舞うようにするとか、それって環境や病状で決められるものでなく、自分で「選べる」ことなんだって教えてもらって、びっくりしちゃったな。自分もそうなりたいなと思ったけど、当時はとても真似できなかった。

【写真】インタビューに応えるかとうてつおさん

加藤さんの心を強烈に揺さぶった彼女は、中学2年生でその短い人生の幕を閉じた。残された加藤さんには、「まだ生きている人間」として何をするべきかという宿題が課せられた。

どうして彼女は死ななければならなかったのか。工業の発展と引き換えに苦しむ人たちがいるのに、国や、企業は、どうして助けてくれないのか。

自分や友人たちの体を蝕む公害病が、社会問題が憎い。しかし、どうしたら変えられるのかが全くわからない。まずは知ること、勉強して大学に行かなければ…。そうやってはじめて、自分自身の“将来”へと意識を向けられるようになった。

それでもやっぱり、自信がない自分の方がこの時期はまだまだ強かったな。社会問題を憎んでなんとかしようとする自分が出来ていく一方で、「普通の学校生活」に馴染めない現実があって、そのギャップがすごく大きかった。

中学校の同級生や家族と比べて、運動能力も学力も如実に劣っていたから、「やっぱり自分なんかには何もできないんじゃないか」っていう劣等感は常にあったなぁ。

そこから抜け出すのにすごく苦労した。

成功と挫折を繰り返し、アジアの最果てで見た風景

生きる目標を見つけたものの、理想と現実のギャップの大きさに自信を持てないでいた加藤さんだったが、20代でのさまざまな出会いと経験が、「世界は変えられる」という信念へと彼を導いた。

大学は立命館アジア太平洋大学(通称APU)へ進学。アジア太平洋地域を中心に約80を超える国・地域から学生や教員が集まる国際的な大学として知られ、日本の学生からの人気も高い同校だが、加藤さんが入学したのは創立初年度である2000年。

大学としての基盤がほとんど整っていない状態で、バックグラウンドも使用言語も異なる学生たちが集まって共に学ぶという、混沌とした状況だった。

もう問題ばかりですごかったよ。大学と学生で揉めて、学生同士でも揉めて、あんなに揉めるコミュニティは人生で他に見たことがない(笑)。

英語と日本語、片方の言語だけで喋ると「平等ではない」と叩かれ、誰かが教壇に立って意見を言おうとすると「偉そうだ」とかって総スカン。そりゃ世界から争いはなくならないよねと(笑)。

でも、一人ひとりが主張していることにはそれぞれに正しさがあったし、主張しなければ不平等を被るから妥協するわけにはいかない。何もルールが整っていないゆえの、ある種“まっとうな闘争”だったと思う。

かといって、文句を言っているだけじゃ何も変わらない。じゃあどうやってこの対立を乗り越えて妥協をつくっていくかというと、「何をどう決めるか」というところから、一つずつ地道に交渉して合意を積み重ねていくしかないんだよね。一人ひとり違う世界を生きているわけだから、それをうまくつなぎあわせる必要がある。

そのことに途中で気づいてからは自分の動き方も変わって、気づいたら自然と対立と対立の取りまとめ役になったりして、周囲に影響を及ぼせるようになっていた。ずっと自信がなかったから、大きなブレイクスルーだったな。

【写真】微笑みながらインタビューにこたえるかとうてつおさん

身体が弱く、運動も勉強も常に周りより遅れていた。「みんな同じ」の平等さに重きが置かれるゆえに、スタート時点でのギャップは埋めがたい。公教育の仕組みの中で苦しんだ加藤さんが、初めて自信と手応えを得ることができたのは、「みんな違う」ことを前提に、「何もない」ところから新しい価値をつくり上げる経験だった。

そんな加藤さんが社会起業の世界に引き寄せられたのは、自然な成り行きだったのかもしれない。

日本の社会起業家育成・輩出に取り組む井上英之氏の記事を読んだことがきっかけで、社会課題をビジネスの手法を用いて解決する「社会起業」というコンセプトに出合う。在学中に経験したインターンシップを機にコンサルティングの手ほどきを受け、大学卒業と同時に経営コンサルタントとして独立。

NPO法人ETIC.での起業家育成モデルの地域展開、NPO法人Gnet事務局長としての事業・経営再編など、社会起業家の育成や支援を中心に経験を重ねていった。

その後、より大きな価値をつくるべく自らも会社を立ち上げたが、その矢先に「リーマン・ショック」と呼ばれる世界規模の金融危機が起き、事業が頓挫してしまう。

自分のビジネスモデルが甘かったのもあるけど、想定していた市場が100分の1ぐらいに縮小しちゃって。

おまけに、会社つくって事業が失敗したのと、母親が亡くなったのと、最初の結婚をしたのが全部同じタイミングで重なって、1ヶ月で冠婚葬祭全部やるみたいなハードな状況で、さすがに鬱になっちゃってさ。起業には運も重要なんだと学んだ(笑)。

鬱になってせっかく療養しているんだから、ついでにアレルギーも治せないかと思って色々試したんだけどかえって悪化して、安定して仕事ができない状態が2年ぐらい続いて。これはなにか、ちょっと大きな転機を作んなきゃとだめだと思ったんだよね。

行き詰まりを感じた加藤さんは、2009年からアジア各国を旅し始める。旅の途中、カンボジアの最北部ストゥントゥレン州で文盲の職人たちとフェアトレード・シルクを生産・販売する草の根NGOである、SWDCの代表チャンタ・ヌグワンとの運命的な出会いを果たす。

日本で経験してきたビジネスとは比べものにならないほどの過酷な環境でなお挑戦を続ける、彼らの「あきらめの悪さ」に圧倒された加藤さんは、自ら事業の支援を買って出た。

最も厳しい環境に置かれた 「問題の当事者」にこそ、世界を変えるイノベ ーションを生み出す可能性が秘められているのではないか。事業支援に携わったSWDCをはじめ、アジアで出会った社会起業家たちのエネルギーから得た着想を元に加藤さんが執筆した本が、『辺境から世界を変える』だ。

旅を終え、原稿を書き終えた加藤さんはここで、自らの原体験に立ち返ることになる。大阪で生まれ育ち、進学し、独立し、遠いアジアの果ての地へ。自分はなぜここにいて、どうして社会起業家たちに惹かれたのか。脳裏に浮かぶのはやはり、養護学校で出会った同級生の姿だった。

本を書いていると、結局自分が何者かっていうことを突き詰めないといけなくて。それで、大切な友人が喘息で亡くなったことがこの領域に踏み込んだきっかけで、彼女のような子どもたちを苦しめてきた社会問題は解決できるのかもしれない、世界は変えられるのかもしれないということを本の最後に書いた。

それから、自分自身も公害病認定された当事者だってことも明かした。これまで全然他人に言ったことがなくて、これが初めてのカミングアウトだったな。

それまでは、自分が公害病の患者であるとか障害を持っているとかいうことを言わずに、「普通の人」であるかのようにずっと振る舞っていた。

誰かに原体験を聞かれても、大学で社会起業に関心を持ってとか適当に話してごまかしていて、病気のことがバレたら情けないとか、恥ずかしいとか、そういう感覚に縛られた時期が長かったな。でも、人に本当に影響を与えたいなら、やっぱり自分自身が「正直」でないと伝わらないんだよね。

自分の出自を隠さずに語るようになって、ようやく自分自身も「社会起業家」に近くなった気がする。

アジアの社会起業家たちを訪ねた加藤さんの旅は、単なる観察者としての見聞録を記す旅ではなかった。それは、加藤さん自身が自らの運命を受け止め、社会起業家としての生き方を選び直すための旅でもあったのだ。

どうにもならないリスクを前にして、自分の命を100%他者に委ねると決めた

【写真】笑顔でインタビューにこたえるかとうてつおさんとテーブルを挟んで話を聞くソアー理事のすずきゆうへい

「公害病患者」としての自分を受け入れ、子どもたちが自分と同じように苦しまない未来をつくるため、世界を変える社会起業家たちを支援する。

旅を終えた加藤さんがたどり着いたのは、「社会的投資」と言われるアプローチだ。

公害のように、関わるほぼ全ての関係者が不幸せな結末に至る社会問題は少なくない。その結末を変えることができるのが社会的投資である。

一つの企業やNPOへの支援ではなく、アプローチしようとする社会的課題を構成する全ての利害関係者の関係性の更新を狙った投資を行うことが特徴であり、上手く機能すれば、困難のある当事者を取り巻く状況の変化だけではなく、彼ら自身の尊厳や活力を中心とした長期的な変化が可能になる。

ベンチャーキャピタルと呼ばれる投資会社が実施する、成長著しいスタートアップ企業への投資と異なり、より複雑な社会課題に挑む企業やNPOに支援を行う。社会課題領域での起業は、他の領域より急速な成長や収益化が難しいと言われている。

また、上場や売却が可能な株式会社だけでなく、NPOなどの非営利法人で運営されることも多いため、そもそもベンチャーキャピタルからは投資対象とされない団体・事業も少なくない。

しかし、そうしたNPOや社会的企業の中にこそ、世界を変える可能性が秘められている。アジアの旅を経てそう確信した加藤さんは、財団を設立し、社会的投資の選択肢を拡充しようとしている。

加藤さんが運営するリープ共創基金の社会的投資の仕組み(提供画像)

一般のベンチャーキャピタルと加藤さんの財団法人、形態は違えど、投資活動には常に「リスク」が伴う。投資先の企業が思うように成長せず、収益を回収することができない可能性もある。持続的に投資を行うためには、基金を運営する側が投資先・助成先企業を見極め、成長を支援するプログラム、複数企業への分散投資といった知恵と技術を駆使して成果を出すことが求められる。

リスクを一つひとつ数値化・分析し、それを予防し、コントロールするためのシステムを構築する。投資の世界で加藤さんたちが行っていることは、医療や公衆衛生の世界で人々の健康を守るためのさまざまな取り組みとその点では相似しているのかもしれない。

そんな加藤さんがある日、自分自身の体に大きな、それもコントロールできないリスクを抱えることになった。一度目の危機は、2013年に到来した。

もともとの原因はアトピーで。アトピーのある人は、皮膚のバリアが弱いから菌が血管の中に入って菌血症になっちゃうことがあるんだけど、たまに菌が心臓まで飛んで増えちゃうことがあって、僕がそのケースだった。

心臓に2つある僧帽弁っていう弁の一つが菌に食べられちゃって、一緒に脳梗塞や腎梗塞も起きて体調が悪化してしまった。手術が一日遅れたら「はい、さよなら!」ってレベルだったみたい。

これまでも長年、喘息とアトピーに苦しめられて生きてきたが、命にかかわるほどの症状ではなかった。それが突然、心臓手術をしなければ死んでしまうという病気を引き起こした。自分の身体に起こっていることを受け止める余裕もないまま入院し、手術の説明が始まる。提示されたのは血の気が引くほど数多くの「リスク」たちだった。

担当のお医者さんがすっごく丁寧に説明してくれるんだよ、手術に伴うリスクを20個ぐらい順番に(笑)。

脳死とか、肝梗塞とか、心肺停止とか、「この症状って即死ですよね」みたいなものがダーッと書いてあって、「それでもいいですか?手術に同意しますか?」というのに自分でマルをつけていくわけ。ほんとびっくりして失神しそうになったよね。

おまけに心臓の手術だからさ、手術をするためにも一時的に心臓止める必要があるわけで、それにもマルをつけて同意しなきゃいけない。「手術にあたって心臓を止めていいですか?」はい、同意、マルって。もうドン引きだよね、あんだけ引いたのは人生で初めて(笑)。

求められたのは、手術のリスクへの「同意」だけではない。「最悪の場合」にどうするかを、家族と話し合って決める必要があるという。それも、ごくわずかな時間の間に。

説明がようやく終わったと思ったら、もっとびっくりしたのが、運悪く自分が植物状態になってしまったときにはどうするかをご家族で話し合って決めてくださいって言われて。

もう、引きまくりだよね。早く手術しなきゃ手遅れになるから時間の余裕もあんまりなくて、カレンダーみながら慌てて遺書を書いてたら、「予定より早く手術することになりました」みたいな連絡がきて。もう、なにこれ、俺の後ろに放送作家でもいるのかなというぐらいの急展開。

で、ちゃんとした遺書を書く時間もないから、1人1メッセージぐらいの短い文章を100人分ぐらい書いて、合間に残った仕事の連絡を携帯で送ってって、なんで俺、脳梗塞なのにこんなに頭使ってるんだろうって(苦笑)。

今まで体験したことのない状況に、混乱しながらも対応する加藤さん。次第に、恐怖がやってきた。

書面と数字で説明されて「同意」した、たくさんのリスク。それが本当に自分の身に起こるかもしれない。ここで自分の人生が終わってしまうのかもしれない。

怖い。でも自分にはどうすることもできない。この身体を治すことができるのはここにいる医師たちしかない。だったらどうするか…。

恐怖に苛まれながら、幾度も考えを巡らせ、ふと、加藤さんの頭に浮かんだ言葉は「信頼」だった。

本当に、ずっと怖かった。怖かったんだけど、よくよく考えると、リスクを負っているのは患者の僕だけじゃなくて、お医者さんたちも一緒なんだよね。職業人生を賭けて、生きるか死ぬかの瀬戸際の僕を助けようとしてくれている。

お医者さんも看護師さんもみんな熱心で、こういう病院だったら応援したいなって思うぐらいのいい病院でさ。

「そういえば僕の仕事は、他人を応援する仕事だった」って思い出して、他人を応援する仕事をしているにも関わらず、こんなに熱心な人たちを信頼をしないのは失礼なんじゃないか、だったら、恐怖に怯えるか信頼するか、自分の態度ぐらいちゃんと決めようと考えた。

結局、心臓の手術って自分では出来ないじゃない?したところで100%死ぬわけだから。だったらもう、「信頼できる人を100%信頼してみよう」という意思決定をして、それで僕は、信頼する方に賭けた。そしたらなんか、スーッと恐怖も消えちゃって、仮に植物人間になっても後悔はしない、お任せしよう、と自然と覚悟が決まった。

きっと僕の人生で初めてのことだったと思う。こんなに100%すべてのことを他人に委ねる決定をするのって。

自分の命を、100%他人に委ねてみる。それが、どうしようもない「リスク」を前にした加藤さんの決定だった。

手術が終わると、なんか顔つきが変わったねって言われた。そこからかな、「私」っていう感覚が解体されていったのは。自分の運命を100%人に委ねてみると、「私」を「私」として強く守る必要は実はあまりないということに気づいたというか、それでだいぶ自由になったかな。

この身体と、一緒に戦ってみよう

【写真】海岸を歩くかとうてつおさんとすずきゆうへい

公害病患者としてのカミングアウト。自分の命を他人に委ねるという心臓手術の経験。少年時代、寝室にうずくまり咳き込んでいた加藤さんの身体は、少しずつ他者へと開かれ、そして世界とつながっていく。

最後につながり、対話することができたのは、もっとも身近な「他者」である、自分の身体だった。

やっぱり、根っこのところでは、自分の身体の弱さを受け入れられないという気持ちがすごく強くてさ。自分の身体が大嫌いで、「なんで俺のいうこと聞かないんだこの野郎」って、ずっと敵だと思ってた。

手術後の加藤さんの身体には、半身麻痺、構音機能や認知・処理能力の低下など、さまざまな後遺症が残った。身体の感覚が変わり、これまで当たり前に出来ていたことができなくなる。思い通りにいかない身体への苛立ちがますます募った。

ちょっとしたきっかけですぐに指がきかなくなるし、物もうまくつかめずに落とすしさ。俺の自由を縛るのは何故だって言いたくなるよね。

あるとき受けた心理系のセッションで、「自分と身体の関係を手で表してください」って言われたときに、右手と左手をバチバチとものすごいぶつけてさ。「そんなひどい関係性の人、初めて」って言われたよ(笑)。

ようやく自分の身体との“和解”を果たしたのは、2度目の心臓手術を受けたときだという。

菌が侵食した弁を1度目の手術で除去した加藤さんの心臓には、カーボン製の人工弁が取り付けられた。人体由来の弁ではないために、菌が付着した際に周囲の細胞が簡単に攻撃することができず、基地として菌が留まりやすく、感染症にかかりやすいというリスクがある。前回の手術から6年ほどがたったある日、急な発熱症状が加藤さんを襲った。

インフルエンザかなーと思ったら、やっぱり心臓に菌が広がっていて、似たような症状だった。前回よりは軽かったけど脳梗塞も再発して、またかー、と。入院したらまたお医者さんに手術の説明を受けて、1回目のときは死亡率10%って言われていたけど、今回は5%だと。

じゃあ、受けるには受けようかと、前回よりは割と簡単に意思決定できたけれど、やっぱり心臓の手術って負担もかかるし、胸を切り開いたり心臓を止めたり、あんまり自然なことだとも思えなくて、受けないという選択肢も頭にはよぎったよ。

負担も大きく、失敗や後遺症のリスクもある手術を受けてまで生を留める必要があるのだろうか。そんな疑問が湧いてくる。しかし、加藤さんの考えとは裏腹に、不自由だらけのこの身体は、「生きよう」という意思を示していた。

入院中に40度ぐらいの高熱がずっと続いて、走馬灯みたいな幻覚が見えるようになった時があったんだけど、そのときにはじめて、身体からのメッセージをちゃんと受け取ることができた。

高熱のときって自分の細胞が死んでいく感覚が何となく分かるんだよ。心臓に菌の巣ができて、その菌が各地に飛び散っていく過程で、臓器不全とか脳梗塞とか、手に腫瘍ができたりとか、身体のあちこちに症状が出てくるんだけど、そこにいた細胞は部分的に次々と死んでいくんだよね。

死にゆく細胞はそのとき特殊な動きをするらしくて、細胞が死んだことを他の細胞に伝える信号を送って護衛体勢をつくるんだって。その動きが感覚として伝わってきて、そこでやっと気づいた。

ああ、そうか。身体は僕の敵なんかじゃないって。自分の生命を維持しようと命がけで闘ってくれる存在なんだって、ようやく認められるようになった。

よくよく考えてみたら、自分の命が終わるより先に、一個一個の細胞が死んでいくわけでさ、僕が頭で「この手術は自然なんだろうか」とか考えているうちに、身体は生命を維持しようと必死にいろんな信号を発して、精神を励まそうとしてくれていたんだよね。

ずっと敵だと思っていた身体は、誰よりも近くで、自分の生命を守ろうと闘ってくれる味方だった。そのことに気づいた加藤さんにとって、2回目の手術は、より能動的な選択となった。

前回はお医者さんに「委ねる」という感じだったけど、今回は「この身体と、一緒に戦ってみよう」という意思で臨むことができた。「まな板の鯉」から「鯉の滝のぼり」だなんて、くだらない冗談も言ったかな(笑)。

無事に手術を終えて、病院から出て初めて食べる食事は、ほんと美味かったよね。「俺、生きてる!」って。

【写真】海岸で笑みを浮かべて立つかとうてつおさん

リスクと共に、生と死のあわいを往く

手術を終え、病院での療養を経て退院を果たした加藤さんは、その後も「社会的投資」の世界で働き続けている。財団のスタッフだけでなく、投資家や起業家といったステークホルダーに対しても自身の手術や術後の身体のことを開示しているという。

手術が成功したとはいえ、後遺症や病気の再発といった、他の多くの人より大きな身体的リスクを抱えて生きるという事実は変わらない。そうしたリスクを抱えた自分が、多くの人からお金を預かり、企業への投資やNPOへの助成を担う財団法人の代表を務めることに不安はなかったのだろうか。

代表である自分が障害者であるということは財団運営上のリスクなんじゃないかと思って、続けるかどうかを迷っていた時期もあったけど、今は逆かな。システムをうまく作れば、僕が生きてるか生きてないかはあまり関係ないというか、法人としては今後僕に何かあっても乗り越えていけるだろうという手応えを得られていて。

2度目の手術の前には、財団のスタッフと相談しながら、自分が死んだ場合にはどうするかという「事業継続計画」を策定。組織体制の改変や権限移譲などの意志決定も行い、加藤さんの状況によらず財団運営を継続していくための仕組みをつくっていった。

リスクを一人で抱えず、スタッフを信頼し、自律的なシステムを編み直していく…。それは、加藤さんが2度の心臓手術で医療者たちと、そして自分の身体と共に辿ったのと同じプロセスだったのかもしれない。

心臓の手術は「信頼」のプロセスだったんだよね。「私」っていう感覚にしがみつかずに手放していって、大きなシステムの一部として自分を開いて委ねていくプロセス。

病気で苦しんでいる僕を守って助けてくれたのが、「医療」というシステムであり、心臓を含めた「身体」というシステムだった。「社会起業」の世界でも同じように起業家を支えるシステムをつくることはできるし、それをこれからより大きくしていけばもっと色んな課題を解決できるようになっていく。

でもそれは、「私」がこうせねばと思って一人でやるものじゃない。自分も大きなシステムの一部として、求められることに応えていけばいい。手術を2回もしたから、いい感じに力が抜けてそんな感覚になってきた。

他者を信頼して、大きなシステムの一部として求められることに応えていく。そう語る加藤さんからは、「生」と「死」、その間にある数多の「リスク」への恐れや執着はほとんど感じられない。では、そんな加藤さんにとって、「生きる」とはどういうことなのだろう。

そうだね…今は、「生」にも「死」にもどちらにも偏り過ぎない状態が、一番バランスがいいんだろうなと思っている。

ICU(集中治療室)で手術した後ってほんと、子供に戻るっていうか、最初はまったく身動きとれなくて一人でトイレにも行けない状態から、介助されながら少しずつ出来ることが増えていくという、ある種、自分が生まれ育ってきた過程をやり直させられる経験をすることになるんだよね。

でもそのときって、一人でおしっこ出来るようになるとか、ごはんを食べられるようになるとか、シンプルなことですごく幸せを感じられていた。

ところが人間面白いのが、だんだん回復してくるとまた自分の欲望に囚われやすくなってくるんだよね。おしっこ出来るだけで幸せ感じていたはずが、「もっとこんなものが食べたいとか」「こういうことをしたい」とか。そういう欲望が肥大し過ぎた状態が、「生」に囚われている状態。

逆に、リスクを気にしすぎて「死」に囚われてしまうと、怖くて食事も外出も何もできなくなってしまう。どっちに偏りすぎても良くないんだよね。

心臓病のリスクを抱えて生きるってことは、死にすごく近くにいるということなのかもしれないけど、外からは生きているようにしか見えないよね。生きてるのか死んでるのか、ちょっともうよく分からないのが僕の身体(笑)。

でも、そういう身体になったからこそ、過度に死を恐れる必要もないし、生に溺れる必要もないと思えるようになったんだろうな。人工弁を入れると、弁が閉じたり開いたりすると音がシャカシャカ聞こえるんだけど、最初はそれが自分のリスクを告げているみたいに感じられて、すごく怖かった。今では、この音が僕のお守りになってくれている。自分が今、生と死のどちらに傾いているかをシグナルみたいに教えてくれるんだよね。

生と死は、対立関係にあるんじゃなくて、互いに創造的な関係を結ぶことができるんだって、そんなふうに感じている。

意識するかしないかにかかわらず、僕たちは常に、「リスク」と共に生きている。

明日、来週、1年後、10年後…果たして自分は、生きているのか死んでいるのか。

それらは常に、未だ来ずの「未来」だ。

体には気をつけていたのに病気になった。適当に過ごしてきたけど健康無事だ。そんなことだって起こりうる。

定量化された「リスク」は考える材料にはなるが、一回きりの人生に絶対の「正解」はない。僕たちに出来るのは、「選ぶ」ということだけだ。

喘息で身体が弱い「から」吹奏楽はやらない。
喘息で身体が弱い「けど」吹奏楽をやる。
心臓病「だから」財団をやめる。
心臓病「だけど」財団をやる。

亡くなった加藤さんの友人も、加藤さんも、どちらを選ぶことも可能だった。する自由も、しない自由もあるなかで、二人は世界を信頼して、前に進むことを選んだ。

僕が死んで、身体が朽ちたとしても、残るものは残るからさ。

最後に加藤さんはそう言った。

一人ひとりの個体としての生命は小さく脆い。それでも、大きなシステムの一部として繋がりあっている。

亡き友人の生き方が、加藤さんを突き動かしたように。

加藤さんのつくった財団が、これからも多くの起業家を支えていくように。

人の記憶は、思いは、「私」という個体を越えてつながっていく。

怪我をしたり病気になったり、その結果、命が脅かされてしまったり。

想像すると、確かに怖い。痛いことや辛いことは、出来れば避けたいなぁと、正直思う。

でも、自分に今後なにがあっても、バトンをつないでくれる人はきっといる。加藤さんの話を聞くと、そんなふうに世界を、他者を信じられるようになった。

生と死のあわい(間)を結ぶもの。

それをきっと、「信頼」と呼ぶのだろう。

関連情報:

加藤徹生さん Twitter

一般財団法人リープ共創基金 ホームページ

『辺境から世界を変える――ソーシャルビジネスが生み出す「村の起業家」』  ダイヤモンド社サイト

(編集/工藤瑞穂、写真/加藤甫、企画・進行/木村和博)