【写真】笑顔でこちらをいているうけばさん"

こんにちは!筌場彩葵(うけばさき)といいます。私は現在、認定NPO法人D×Pで広報やファンドレイジングにかかわっています。

また個人でも、性の多様性についての講演やワークショップをしたり、セミナーや講演会でグラフィックレコーディングをしたり、NVC(非暴力コミュニケーション)やファシリテーションを通した自己内省の場づくりなどをしています。

周りからはよく「いろんなことに手を出してるね~」と言われます(笑)。自分でもたまに「何やってるんだろう…」と思うこともありますが、今に至るまでにはさまざまなプロセスがありました。

小さい頃からずっと、「自分はこうしたい」の声を抑圧してきたこと。親との関係性に悩み続けてきたこと。そして身体的には男性として生まれ育ってきたけれど、社会人になってから性自認が女性である「トランスジェンダー」というあり方にたどり着いたこと…

それらの経験が今の活動に繋がっているのだと感じます。

今回は紆余曲折しつつも、人との関わりや対話のプログラム、ワークショップなどを通して、自分にとって居心地の良い身の置き方を模索してきた過程を綴っていければと思います。

目立ちたがり屋だった小学生から、人とのかかわりを避けるように

子どもの頃の私は、のびのびと自由奔放に育ちました。自然豊かな祖父母の家で過ごすことが多かったので、野山をかけまわってたけのこを掘ったり、探検ごっこをしたりして遊んでいました。

【写真】遠くを見つめるうけばさん

母は祖父母の家の一室で音楽教室を開いていました。母にピアノを習いに来る年上のお姉さんや、送り迎えのお母さんたちによく遊んでもらっていて、身の回りにいたのは大人の人たちばかり。

そんな環境から小学校に入学すると、急に同い年しかいない空間でとても戸惑いました。みんなと同じようにすることができなくて、周りから浮いていたと思います。

小学生の頃の私はとても目立ちたがり屋。学級委員長に立候補したり、弾けもしないのにピアノの伴奏をやりたいって言い出したり……。

変わったことをしていると学校の中では悪目立ちしてしまいます。周りからからかわれた時、うまくスルーしたり、やめてよって口で伝えられたらよかったんですけど、カッとなってつい手を出してしまったことがあったんです。

先に何かしてきたのは相手でも、手を出した私も悪いということでよく先生に怒られて。理解はできたけれど、自分の気持ちをどう言葉にして伝えたらいいかわからなくて、混乱していました。

そんなことを繰り返していると、こう母に言われたんです。

そんなことしてるとお父さんみたいになるで。

父はイライラすると声を荒げて怒ることがよくありました。母からは父の悪口を聞くこともあったので、「お父さんみたいになるで」と言われることは、私にとって「母に嫌われてしまうかもしれない」というピンチに陥ってしまいかねない言葉だったんです。

自分の気持ちを出しちゃいけない。手を出してしまう自分がダメなんだ。

当時はそう思っていました。この辺りからだんだんと自分の気持ちを隠すようになって。人とかかわることが好きだったのに、避けるようになってしまいました。

当時父は仕事と趣味で忙しく、家にあまりいませんでした。母も仕事をしていたので、私の面倒はいつも祖父母が見てくれていました。どこか寂しかったんでしょうね。特に4つ下の妹が生まれてからは寂しさを募らせ、大きくなってくると、今度は妹と自分を比べるようになりました。

母は自分の子どもにもピアノをしてほしいと思っていたようなんですが、私はいろんなことが長続きしない性格(笑)。ピアノをやり通していて母と共通の話題を持っている妹を、どこか疎ましく思っていました。だから今思えば、目立つことをして母の注目を集めようとしていたのかもしれません。

音楽を表現することで救われた

【写真】過去のことを思い浮かべながら話をするうけばさん

中学に入っても、周りとどんなふうに接していいかわからないままでした。入学してすぐからかってきた同級生とケンカする事件を3回起こして、担任の先生が家庭訪問に来たことも。1、2年の間はずっとしんどいと思っていました。

でも、中学3年のクラスは少し雰囲気が違って、担任になった音楽の先生は、私が入部した文化創造部の顧問もしていたんです。

ある日音楽の授業で新しい曲を習う時に「筌場、ちょっと見本で歌ってみてや」と言われました。目立ちたがり屋の血が騒いだんでしょうか(笑)。良い気分で意気揚々と歌ったら、クラスメートが面白がってくれて。それまではクラスでバカにされる感じだったのが、ちょっと空気が違ったんです。

その後、文化祭ではクラスで合唱する機会があったので、練習の時から1人張り切って大声で歌っていました。さらに文化祭の時間内で希望して発表できる枠にも応募して、1人で歌を歌うことに!緊張で全身震えてたんですけど、すごく満たされた気分だったのを覚えています。それまで言えなかった気持ちや思いを思いっきり解放できたみたいでした。

しかもなんと、クラスメートがサイリウムを用意していたんです!すごくきれいで、その時の光景は今でも目に焼き付いています。歌い終わった後は、みんなが「よかったよー!」って言ってくれて、すごく嬉しかったです。

この経験が残っていたので、なんとなく歌手になりたいなって思うようになりました。それから、高校の授業で将来の夢を書く時や、進路面談で「歌手になりたい」と言うように。高校を卒業したら音楽系の専門学校に進学したいなって考えていたんです。

でも、母は反対しました。母も音楽をしていたからそんなに甘いものじゃないって思ったんでしょうね。

私としてはまず、窮屈に感じていた地元を出たかったので、しぶしぶ母の言うことを聞きました。というのも私の高校の同級生はほとんど保育園から一緒の友人たちだったので、ずっと顔ぶれが変わらない環境で、閉塞感があったのです。

周囲の人となんとなく合わないな、自分は人と違うのだな、ということはずっと感じていました。

今思えば、そのうちの1つの要素として、性別への違和感もあったのだと思います。成長するにつれ友人との関係性が「私とあなた」ではなく「男子と女子の関係」になっていって、「男子」として扱われ、男子としての振る舞いをしなければならないことが気になっていました。

こうして私は地元を出る決心を固めていったのです。

転機になった大学生活。一度の挫折がきっかけで対人恐怖症に

大学に入学してから、「ファシリテーション」と出会いました。私が進学した京都産業大学には「F工房」というファシリテーションを専門に扱う部署があったんです。

F工房では年上か年下か、教員か職員か学生か、女か男か……。人を属性ではなくて、個として見てもらえているように感じて、私にとって安心できる「居場所」のような場所でした。

最初は遊びに行くだけだったんですけど、だんだんとファシリテーションにも関心を持つように。それから、授業に学生ファシリテータとして関わったり、依頼のあったゼミにF工房の職員とアイスブレイクのアクティビティをしに行くことになったのです。

【写真】笑顔でこちらをみているうけばさん

だんだんと私は学外での活動にのめり込んでいきました。教育に関心を持つ学生と社会人を集めて夜通し議論する合宿や、著名な講師を呼んでのシンポジウム、読書会などF工房で学んだファシリテーションの手法を活かしていろんな場づくりに挑戦していました。

大学3年の時にはあるプロジェクトのリーダーになりました。そこに関わっていた、イベントの発起人でもある社会人の男性との関わりが、私に大きく影響を及ぼすことになります。ある日その人が思うような働きを私が達成することができず、強く叱責されてしまったんです。

怖い……!

相手にとっては、些細なひと言だったのかもしれません。けれど私は、その人に対して恐れを感じ、萎縮してしまいました。

それから日を追うごとに、だんだんと消極的になっていく私の態度と反比例するかのように、相手のかかわりはどんどんアグレッシブに。そしてついに私は、プロジェクトから逃げ出してしまいました。

この出来事をきっかけに、また人と接することに臆病になっていきます。特に、男性と接することが怖く感じるようになり、避けることが増えました。

安心できる居場所になっていた別のサークル活動でも、男子メンバーとの何気ないやりとりから「何してんねん!」とメッセージが届いた時、私はテキスト上なのに強く叱責されてる声が聞こえてくるような気分になってしまいました。

そんな状態でサークル活動からも遠のいて、そうしてしまった自分にも後悔が残っていて。

こんなふうに捉えてしまう、自分が悪いんじゃないか……?

私の過去を見つめ返し、要因を探っていく暗黒期がスタートしました。

なんでこうなったんだろう?なんでこんなに傷ついたのだろう?何がいけなかったんだろう……。

悶々と考えながらも答えの出ないまま、半年間ほど授業に出られない日々が続きました。4年で卒業できる見込みはなくなり、留年することが決まってしまいました。

こんなにいろんな人がいるなら、自分もいていいのかも。

こんなに傷ついてしまうのは一体何が原因なんだろう?

自分が男だったから、こんなふうに考えてしまったのではないか?

そんなことを考えるようになったタイミングで、私は友人の誘いである講座に参加しました。それが京都市中央青少年活動センターが主催する、「みさやまミーティング」という若者の性と生を考える連続講座です。

その場には色々な人が参加していました。臨床心理士や看護師など専門職の人、なんとなく来たという大学生、ジェンダーを研究している大学院生、ゲイやトランスジェンダーの当事者の人、初めて恋人ができてどうしようかなって話す高校生など……。多様な人がいてあまりにもカオスで正直戸惑いました(笑)。けれど、どこかホッとした気持ちも。

「こんなにいろんな人がいるなら、自分もいていいのかも」

そんなふうに感じたのです。

【写真】穏やかな表情で話をするうけばさん

講座が終わってからは、参加者が企画する側になる機会も用意されていました。もともと「性」について話すことは苦手だなと思っていた私。他のメンバーがどんどん発言していく中で、自分から話せないことに劣等感を抱いていました。

話し合いが進まなくなった時、私はこれまでファシリテーションを学んだ体験から自然と、どうしたら話し合いが進むかを考えて動くようになりました。講座の目的をまず決めようと提案したり、話してる内容をホワイトボードに描きだしてみたり、発言の少ない人に話を振ってみたり。

そうしていると、だんだんと私が介入しなくてもメンバーが自ら周囲を巻き込むように進めていくようになったんです。

講座が終わった後にはあるメンバーから「あなたがいてくれたから、話し合いが進んだんだよ」と言われました。自分は何もできないと自信を失くしていたところだったので、とても嬉しかったです。自分にもできることがあったんだなぁって。

自信をなくして学校にも行けなかった中で、みさやまミーティングは自分の役割や居場所を感じられた機会になったように思います。同時に、これまで考えてこなかった性別やジェンダーについて関心を持つことにもつながりました。

そこから少しずつ自信を回復してきて、大学にも復帰しました。

性別への違和感に気づく

大学5年目を迎えると、今度は卒業後の進路が頭をもたげてきました。教育や若者にかかわる「NPO」での就職を考えましたが、当時は今よりもNPOがメジャーではありません。周りの人にも「やめときなよ」「まずは普通に就職したら?」と言われてしまいました。

そんな時に出会ったのがNPO法人full bloomの主催する「Being camp」という活動。就職活動中の学生や、卒業を控えた大学生たちが集まり、自分のこれまでの人生やどんなふうに生きたいかを対話するプログラムです。

最初、私は留年しているし、就職活動もまともにやっていなかったので気後れしていたのですが、合宿の序盤に行った「自分のこれまでの人生を語る」ワークショップの時に同じグループの子がすごく深い話をし始めて。

え!いきなりそんな話しちゃうの?!

とてもビックリしたんですが、そこで私も話してみてもいいかなと思って、これまであまり人に話してこなかったことも思い切って話してみたんです。そうしたら、意外とみんながすんなりと受け止めてくれて。そこですごくホッとしたんです。

私はこれまで人に本音を話すことができませんでした。「何か思われるんじゃないか」と気を遣いすぎて、食事に行き「何食べる?」と聞かれることすらしんどいほど…

だけれどここでは、場を作っている人たちが「恥ずかしい」「みっともない」「弱い」といったネガティブに見えることすらも、「それがあなたの素敵なところ」と信じていることが伝わってきました。

そして私と同じようにこれらの気持ちと向き合っている参加者の人たちが、自分をさらけ出している。だからこそ私も、一歩踏み出すことができました。

【写真】自分のことを話すうけばさん

その後、Being campの運営としても手伝うようになっていきます。

Being campは合宿プログラムが主だったので、お風呂や着替えなど男女で分けられる部分がどうしてもありました。最初はずっと男子のほうに行っていたんですが、だんだんと気持ち的に引っかかるようになり、「性別への違和感」に気づきました。

また子連れで参加しているスタッフの赤ちゃんを何人かで、「かわいいね」と順番に抱っこしていった時のことに私が抱っこしたら赤ちゃんが泣いてしまったんです。その後隣にいた女の子が抱っこしたら泣き止んだのを見て、「やっぱり、女の子がいいんだね」という言葉が聞こえました。

すごくショックでした。でも、なんでそれがショックだったのか自分でもわからなくて混乱していました。

その後さらに、「授乳するから男性陣は外に出てもらえる?」と言われて。その時になぜか排除されたように感じてしまったんです。頭の中では仕方ないことだと思いながらも、悲しい気持ちがずっと後に残っていました。

これはこのまま置いておけないな。

そう思いました。NPOのメンバーや合宿の場はとても大切な存在になっていたので、違和感を隠してしまったらこれまでと同じようにはいられない。正直にいたいなと思って、この気持ちを伝えることにしました。

このタイミングの時にすごくショックで、男性として扱われることが嫌だったんです。

メンバーには1人ずつ、2人っきりになったタイミングで伝えていきましたが、最初はうまく話せなくて。相手の反応も「気持ちはわかるけど……」とイマイチ伝わってる感じがなく、今思うとどう受け止めたらいいのか戸惑っていたのかもしれません。

でも、そのNPOの代表に話をしたことが大きな転機になりました。話を受け止めてくれた上で「私自身がどうしたいのか?」を聞いてくれたんです。

本当は性別なんて関係なしに人と深い関係が築きたい。

そう話すと、さらにこんな問いをかけてくれました。

もし、生活する上で男性か女性か問われる場面があったなら、その時はどっちとして扱われたい?

問われて初めて、「女性として扱ってほしいです」と答えました。その思いに気づいた瞬間、自分でもビックリしました。まさかそんなことを思っていたなんて自分でも気づいていませんでした。「男性扱いが嫌だ」ということと、「女性として扱ってほしい」ということは自分の中で全く別のことだと思っていたのです。

これまでもLGBTやトランスジェンダーといった言葉は知っていましたが、私はずっと確信が持てませんでした。

みんな何をもって性別を定められるのだろう。自分ってなんだろう。

考え続けていく中で、「私は変態なんじゃないか」と偏見を内面化していたこともありました。だけれど人に問われて初めて「女性として扱ってほしい」気持ちに気づくことができたのです。気恥ずかしさもあるけど、しっくりきた、そんな不思議な感覚でした。

性別移行。そして母へのカミングアウト

【写真】遠くを見つめるうけばさん

それから、私は少しずつ性別を変えていくことを始めます。あくまで私の場合はですが、「女性として扱ってほしい」気持ちから、「トランスジェンダー」というセクシュアリティにたどり着いたからです。

その後は服装や下着はレディースのものを身につけて、呼んでほしい名前をつけ周りにも「さきちゃん」と呼んでもらうようにしました。

SNSで自分の思いをオープンにしたり、話せる人からカミングアウトをしていくことに。幸い大きく否定されることはなく、受け入れてくれる人が多かったので安心していました。

ただ、家族にはなかなか受け入れてもらえなかったのです。特に母とはよく衝突しました。私は母とのかかわりに執着していたので、性別を変えて生きることについても、きっと受け入れてくれるだろうと思っていたんですよね。でもそう上手くはいきませんでした。

なんでわかってくれないの?!

涙ながらに訴えたことは一度や二度ではありませんが、母にも母でいろんな思いがあり一筋縄ではいきません。

専業主婦じゃなかった自分が悪いのか。子育ての仕方が悪かったのか。

母は自分を責める気持ちもあったようです。

あなたを見ていると痛々しくて見ていられない。

そう言われていて、一時期は同じ家にいるのに目も合わさないし言葉もかわしませんでした。

何度か家出をしていて、もう諦めて実家を頼らずに1人で生きていくしかないんじゃないかと思ったこともありました。ですが、この頃仕事もうまく続けられなかったんです。家族にも頼れない、仕事も満足にできない。このままじゃダメだと思い、思い切って実家に帰って母と対話してみることにしました。

この時は反発する気持ちを一旦脇において、母の気持ちを聞いてみることにして。そうしたら、母の口から心配や恐れの気持ちを聞くことができました。

大学に進学して実家を出てから母の目の届かないところで就職などで挫折をして、さらにいつの間にか性別を変えたいと言うようになっていて驚いたこと。

これまで自分と過ごしてきた出来事は嘘だったのかと信じられない気持ち。

一緒に描いていけると思っていた未来が崩れてしまって、裏切られたような思いがあること。

そして、私が自分の知らないところで変わっていってしまうんじゃないかという恐れ。

後悔してほしくないし、自分が年老いてしまったらもう手助けできない、という焦りや心配。

だから働くよりも、目の届くところにいてほしいという思いがある…

初めてちゃんと母の気持ちを聞くことができました。この時に、お互いに歩み寄る準備ができたんだと思います。私も思い切って、昔抱いていた気持ちを伝えてみました。

小さい頃習っていたピアノを辞めさせらて嫌だったことと、高校卒業後の進路で本当は音楽系の専門学校に行きたかったこと…それを話したら母は謝ってくれました。後悔していると。今だったらそんなことはしないと言ってくれたんです。

母は母で、私はわたし。母には母の世界があるんだ。

その後、近々やる予定になっていた母の音楽教室の発表会に、母の伴奏で私が歌で出演することになりました。

ただ母からはこんな条件を出されました。

普段している女性の格好では出させられない。

私は、母と歩み寄るチャンスを逃したくないと思ったので、この時だけならと条件を飲むことにしました。

ですが、発表会の前に母と一緒に本番で着るメンズ服を買いに行くと、私が良いなと言う服はことごとく却下されて、母の好みの服を着せかえ人形のように次々にあてがわれていったんです。少しずつ自分の気持ちがしぼんでいくのを感じていました。

迎えた当日。発表会は何事もなく終えられたんですが、最後に母が生徒さんや保護者の方に向かってスピーチをしている瞬間を見た時、まるで母が私の知らない人に見えたんです。その時私にある思いが湧いてきました。

母は母で、私はわたし。母には母の世界があるんだ。

自分の中に、母にどこかで期待していた自分に気づくことができました。

母に認めてほしかったこと。だから心配事を自分で解決しようとせず、まず先に母に相談して決めていたこと。性別のことも、母だからわかってくれるはず。受け入れてくれるはずだと思っていたこと。

でも、そうじゃないんだ。自分には自分の世界があって、母には母の世界がある。自分のことは自分で決めないといけないんだ。

それは、これまでずっと周りの空気を読んで、自分がどうしたいかよりも「今この場で求められていることは何か」「何をするのが適切か」を選択してきた私にとって、とても不安なことでした。

でも、「自分は自分だ」と気づけた時、肩の荷が下りたようなすっきり感と、ちょっぴり寂しさがありました。

【写真】空を見上げるうけばさん

抑圧してしまってた本音に気づく。そうすると安心して「自分がどうしたいのか」に踏み出していける

今の社会では、親に感謝することは「良いこと」「当たり前なこと」とされていると思います。

育ててくれて、大学まで行かせてくれた親に感謝すべきじゃない?

私も以前、ある人にこう言われて、すごく腹が立ったことがありました。

みんながみんな同じような環境で育ってるわけじゃない。それなら、親がいない人もいるし、感謝できない人もいる。

実際、無理して親に感謝してるように見える人にも出会いました。キャリア支援のNPOで活動していた時に大学生の悩みを聞いていると、自分がやりたい仕事と親が望む仕事が違った時に、「親には感謝してるけど……」と話す人がわりと多くいたんです。

感謝してるって気持ちは確かにあるんだと思います。でも、深堀りしていくと「それ以外」の気持ちも出てきたりして。

自分のことを見てほしかった。話を聞いてもらいたかった。

そんな本当の気持ち。本人でさえ、いつの間にか心の底に封印してしまっていて、気づいていなかった声がふっと湧いて出てくる瞬間に立ち会う体験を、何度もしました。

【写真】花を手に取り見つめるうけばさん

「感謝してる」か「感謝してない」かではないのだと思います。白か黒かってきっぱり分けられない、もっと複雑な、多面体な自分の気持ち。それらがあらわになって、涙が溢れてきて、抑圧してしまってた本音に気づいていく。そうすると、心から安心して、改めて「自分がどうしたいのか」に踏み出していける。

そんなプロセスを見ていくうちに、私自身も、悩んだり葛藤したりしてるのは自分だけじゃないんだなと思えるようになっていきました。一見普通そうに社会に溶け込んでいたり、順調に過ごしていたりしているように見える人でも、いろんな思いを抱えて生きてるんだなって気づけたんです。

自分の中にある「複雑性」

私は今、「トランスジェンダーの当事者」として性別やセクシュアルマイノリティについて、企業や学校で講演する活動もしています。

マイノリティの当事者として自分について語ることは、大抵の人にとってハードルがあること。これまでに悩んだり、傷ついたりしてきたことを振り返り、見つめなおし、わかりやすい言葉にして伝える必要があるからです。

同じように活動をしている人の中には、講演の後しんどくなってしばらく活動をお休みしたり、辞めてしまう人もいました。でも、私は講演のことでそんなふうにしんどくなったことはほとんどないんです。

なぜだろうと思っていたのですが、もしかしたら私にとって性別やトランスジェンダーについて語ることは「自分の一部」でしかなかったからなのかもしれません。実際の私はもっと複雑で、多様。その一部を切り出しているだけだから、それほどダメージを喰らわなかったのかもしれないです。

自分は〇〇です。

そう何かのラベルを当てはめることは楽な面もあると思います。

わかりやすいラベルがあることで人に伝わりやすくなる。そして1人で抱えていた混沌とした感覚を、同じラベルをつけている人と分かち合えるかもしれません。

また、ラベルをつけることの何よりの利点は、自分の存在や感覚に名前をつけることで肯定できることではないでしょうか。自分が何者かわからない、この感覚は自分だけかもしれない、そういう状態はとても不安で居心地が悪いです。名前がつくことで安心することができる部分もあるでしょう。

だけれど、「自分は◯◯です」と言うことは、本当はその周りにある細かいニュアンスや、背景にある息づかいが削ぎ落とされてしまうことでもあると、今は思うのです。

私は、「自分は◯◯です」と明確にすることでの利点を感じながらも、その危うさを同時に考えてしまいます。それは、自分という“まるごと全体”をすくい取れない残念さが心に残ってしまうから。

自分は何者なんだろう。

ずっとずっとそう考えてきました。その答えは今でも分かりません。

わかりやすくするために「トランスジェンダーです」と自己紹介のように伝えることは私にもあります。

でも「トランスジェンダー」は、言語化しやすい人との違いの1つ。それだけじゃなくて、振り返ると私は敏感な気質を持った人と言われる「HSP」や、発達障害などの特性もありますし、他にも人と違うことを感じ、それらに名前をつけたことはよくありました。

ラベルじゃなくてタグでいいんじゃない?

そんな言葉を知人から聞いたことがあります。それからは、剥がせないラベルだとつらいから、付け替えられるタグくらいの認識で、「自分は何者か」という問いと向き合っていけたらいいなと思っています。

【画像】自分が考えるジェンダー、見た目が表すジェンダー、生まれたときに決定された性別、身体的に惹きつけられる対象、感情的に惹きつけられる対象、それぞれの項目で自分のセクシュアリティを説明している図

講演で使っている、セクシュアリティを説明する資料(提供画像)

今は講演でも、トランスジェンダーという名前ではなくて、体と心と、惹かれる相手の性別と、性の指標がグラデーションであることを、図式化したモデルを使って説明しています。

セクシュアリティにも複雑性があることを伝えたい。そして名前が付けられないけど普通にははまれない気がする、そんな以前の私のような人のことも考えたい。

そう思っているからです。

【写真】桜の木の下で笑顔を見せるうけばさん

いつの間にか抑えていた「こうしたい!」気持ちに向き合う

私はずっと性別や親といった、昔から当たり前にあった「変えられない」と思っていた存在を、自分がどう捉えるのか向き合ってきました。

それによって、一般的には男性としてみなされて生きてきたし、自分でもそう思っていたけれど、女性として扱ってほしい気持ちに気づいた。そして、親は感謝すべき存在で、自分と同じ世界を見ていると思っていたけれど、「自分は自分で、母は母の世界がある」のだと考えるようになったのです。

きっと私は「こうしたい!」や「~~が好き!」っていう感情や、自分で選ぶということを、いつの間にかやめてしまっていたんだなぁと思うんです。自分の気持ちを抑えるようになって、自分の感情やどうしたいかがわからなくなって。

私はずっと、この言葉がすごく苦手でした。

あなたは、どうしたいの?

性別の違和感に気づいた瞬間は、この言葉に救われたけれど、他の場面じゃ今でもまだまだ上手くいきません。

日常の些細な瞬間でも、たびたびこの言葉と向き合ってきました。 友達とご飯に行って何を食べたいか聞かれる時。仕事で自分の意見を尋ねられる時……

自分はこう思う。私はこうしたい。

少しずつ変わってきたけれど、はっきりと伝えられないもどかしさを感じることは今でもあります。

【写真】笑顔でこちらをみているうけばさん

そんな私はいま、「NVC(非暴力コミュニケーション)」や「プロセスワーク」と呼ばれるワークショップで使われている手法を学んでいます。それが私にとっては「リハビリ」のようなもの。

今でも日々いろんな場面でモヤッとすることがあったり、漠然とした不安に襲われたりすることもあります。その時々で、何にモヤっとしたのか、それは私がどんなことを必要としているからなのかを丁寧に見つめていく練習をしています。

自分の気持ちに向き合えるようになってこれたのは、周りの人たちのおかげだと思います。安心安全に過ごせる場所やつながりがあったからこそ、自分の本当の思いや気持ちに気づくことができたし、ありのままに話していいんだと思えるようになりました。

これからは自分でも、そんな場を開いていきたいです。特に、「こんな気持ち話してもいいのかな?」「これって自分だけかもしれない」と思っている人たちが、共感的に自分の思いや感情を言葉にして語り合える場を作っていきたいなと思います。

【写真】晴れやかな表情で空を見つめるうけばさん

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(企画・進行・編集/松本綾香、写真/横山みずほ)