こんにちは!愛迷みんみんと申します。
私は講談社主催のオーディション「ミスiD2020」ファイナリストで中郡暖菜賞を受賞し、モデル活動や『広島原宿化計画。』という広島の番組レギュラーとして活動していました。
普段は臨床検査技師として病院に勤めており、今年で7年目になります。
私は1歳2ヶ月の時に、「ユーイング肉腫」という骨や軟部組織に肉腫が発生する病気になりました。患者の7割が20歳までに発症するといわれている、小児や若年者に多い病気で、症状としては病巣部位の痛みや腫れがあります。
私は6歳頃までのほとんどの時間を病院で過ごし、外科的手術、抗癌剤治療、放射線治療など様々な治療を経験しました。その甲斐あって回復することはできたものの、後遺症や治療の影響でできないことが多くあり、今でも体調を崩しやすいです。
病気になったこと、入院生活が長かったこと、退院してからも身体のことで悩み続けてきたこと…不安、困難、悲しみなどネガティブな感情を本当にたくさん経験しましたが、今私は、自分の人生に後悔はないなと思っています。
今回は、ユーイング肉腫の治療のことや、その後どうやって病気と付き合ってきたのか、私のこれまでの経験についてなどをお伝えしたいと思います。
「周りが心配するから『痛い』だけは言わないようにしよう」あらゆる治療を経験した幼少期
両親によると、私は生まれたときは特に病気や障害はなく、とても元気な赤ちゃんだったそうです。
私の体に異変が現れたのは、1歳を過ぎた頃でした。咳などの風邪症状が全くないのに発熱だけあるという、原因不明の状態が1ヶ月ほど続いたのです。それでも、どこの病院に行っても医者から受けるのは「風邪です」という診断でした。
こんなに熱が続くなんてさすがにおかしい。
そう思い母は病院で検査をお願いしたそうです。レントゲンを撮ったら、肋骨に白い影が写り、すぐに大きな病院を紹介されました。
当時医者からは「白い影として写った腫瘍は悪性か良性かわからないから、今すぐ入院してほしい」と言われ、そのまま私は入院することに。半年後ようやく検査結果が分かり、腫瘍は悪性で、「ユーイング肉腫」と診断を受けました。
「ユーイング肉腫」とは、主に小児や若者の骨や軟部組織に発生する悪性腫瘍のこと。一般的に、粘膜や皮膚など上皮組織から発生する悪性腫瘍を「がん」といい、骨、軟骨、血管、筋肉、神経などの非上皮組織から発生する悪性腫瘍を「肉腫」といいます。
症状としては主に病巣部位の痛みや腫れが出たり、私のように発熱を伴う場合もあります。約50〜60万人に1人といわれるほど珍しい病気で、再発した時の予後は今現在も不良であると言われていて、再発後の治療法も確立していません。
私の場合、発見が2週間遅れていたら命はなかったと言われました。
後からわかったことですが、この病気は一定の時間を置いて“痛み”が起こることが特徴にあります。当時私はまだ喋ることが出来なかったので「痛い」と周囲に伝えることができず、その間にどんどん病気が進行してしまっていたようです。

幼い頃のみんみんさん
診断後、私は無事治療を受け回復することができましたが、診断を受けた時に両親は医者から再発の可能性について、こう伝えられていたそうです。
もし今後、再発した時の為に自家骨髄移植を保存しておきましょう。しかし2回目の再発をしたらもう治療法はありません。そしたら助からないと思ってください。
骨髄移植とは、骨髄の中で血球をつくり出すもとになっている「造血幹細胞」を採取して保存しておき、移植する治療のこと。それを自分自身の骨髄で行う場合に、自家骨髄移植といいます。
1回目の再発が起こったのは、3歳の時でした。当時私はあらかじめ保存していた自身の骨髄を移植し、外科的手術、抗癌剤治療、放射線治療など、可能な限り全ての治療を行いなんとか回復することができました。
ですが、5歳の時に2回目の再発をしてしまったのです。
今度こそ本当にダメかもしれない。
両親はそう思いながらも、奇跡を信じたといいます。当時まだスタンダードではない放射線治療に全てを託し、人が浴びることが出来る限界量の放射線治療を乗り越え、寛解することができました。
その後は幸い再発はなく、現在も定期的に外来に通って診てもらっています。

病院の先生に抱っこをしてもらっている幼い頃のみんみんさん
私は6歳頃まではずっと病院にいて、病院が家だと思っていました。覚えているのは、嘔吐する時に使う銀のお皿があって、それによく吐いていたこと。点滴をつながれて走り回っていたこと。手術が終わって運ばれる時のことや、クリーンルーム(無菌室)のことなど…。
当時幼かった私は、自分の症状について理解をしていませんでした。そして病院での生活が当たり前になっていたので、ネガティブに考えることもなかったです。
なので、いつものように手術後の抜糸と消毒をしている時に、横で祖母が号泣しているのをみて「なんでこれだけのことで泣いているんだろう」と感じたこともありました。周囲が私の体調を心配していても、深刻さがわからず不思議に思うばかり。
クリーンルームにいた時は、ベッドから動くのを禁止されて、点滴が落ちるのを一日中眺めていましたが、この時も私は体調のことより、遊ぶことができないのが残念だと思っていました。
他にも入院中は「二つ下の弟やお父さんに会いたいな。早くお風呂に入りたいな。昨日一緒に遊んだ子はどこに行ったのかな?」など、色々な思いが交錯しながら過ごしていたと思います。
ただ治療については、子どもながらに深刻さを読み取っていたのかもしれません。
どんな治療であっても嫌がらずに大人たちの言うことを聞こう。『痛い』と言ったらお医者さん達や看護師さん、お母さん皆が心配するから『痛い』だけは言わないようにしよう。
そう決めていました。
大変な病院生活を支えてくれた、大切な家族
幼少期に大変な治療を乗り越えることができたのは、家族が支えてくれたことが大きいと思っています。両親と弟の4人家族ですが、本当に大切な存在です。
病院で入院していた時も、母がいつも隣にいたので、寂しい思いをすることはありませんでした。
後から聞いた話ですが、母は自分自身が悲しい顔をしたり泣いていたら子どもの私にも伝わると思い、どんな状況下でも私の前では泣かなかったそう。「娘は絶対に治る」と信じてくれていました。そのおかげで、自分が病気だったことは、10歳頃までは知りませんでした。
たった1度だけ、母が涙ぐんでいるのを見たことがあります。それは私が5歳で、3度目の退院をする時。母がバレないようにこっそり目に涙を浮かべている姿を見て、「お母さんって泣くんだ」と驚いたことを覚えています。
社会人になり小さい頃の話を聞いた時、「実は毎晩私が寝たのを確認した後に、声を殺して泣いてたんだよ」と言っていました。
他にも母は、部屋の中で遊べるおもちゃや絵本、可愛いパジャマ、マスクを探してよく買ってきてくれました。それを看護師さんたちに、「可愛いね」と褒められるのが嬉しかったのを覚えています。

幼い頃のみんみんさんが病院で過ごしている様子
いつも私を気にかけてくれた父の存在も心の支えでした。たまにある貴重な休みの日には、「ウォーリーをさがせ」の本を持ってきて一緒に遊んでくれました。後から聞いたら、どんなに仕事で忙しくても、消灯時間が過ぎて、病院が閉まっていても寝顔だけを見に、毎日欠かさず病院に来てくれていたそうです。
そんな家族の支えのもと、幼いながらに入院生活や大変な治療を乗り越えていきました。

幼い頃のみんみんさんと、お母さん、看護師さん、医師の先生。一緒にクリスマスを過ごしている様子
いつか自分も輝ける日がくると夢見て。治療後の後遺症と付き合いながら過ごした学生時代
治療が落ち着いた後、幼稚園へは年長から通い始めました。日常生活は問題なく送っていましたが、その頃から、自分は他の子より体力が無いことを自覚していたように思います。
皆と同じように学校生活が送れるように、両親は運動会などの行事に積極的に参加させてくれましたし、小学校は特別支援学級ではなく普通学級に通わせてくれました。
まだ再発する可能性があったので、必ず月に1度は血液検査とレントゲン、心電図、心エコーを検査するため通院をしていました。通院日は学校を休まないといけなかったのですが、クラスメイトには病気のことが伝わっていなかったのか、ズル休みだと思われたことがあり悲しかったです。
小学5年生の時には、小さい頃に受けた治療の影響で、自覚はなかったものの心臓に負荷がかかっていたようで薬剤性心疾患に。他にも、放射線治療の影響で、脊柱が左右に曲がっている状態になる側弯症を発症し、痛みなどはなかったものの、コルセットをつけるようになりました。
また中学1年生の時には、放射線治療の際に放射線を浴びすぎて、左の肺が機能していなかったことから、呼吸器疾患になっていることが健康診断で判明しました。この時点で肺の治療はできず、その後も定期的に病院に行って経過観察をしていました。
学校には通えていましたが、こうした疾患もあり体が弱かったことから、小学校の頃のスポーツテストは何回やってもE判定。
なんでこんなに頑張ってもできないんだろう?
負けず嫌いな私はひたすら悔しかったです。
中高生になってもスポーツは苦手で、50メートル走もタイムが10秒を切れたことがありません。体育の授業でチーム分けになると「同じチームになって最悪」と言われたり、明らかに私と同じチームなことが嫌そうな場面になることもあって。申し訳なさと悔しさでその度に唇を噛み締め、必死に涙をこらえていました。
私の身体には、手術で100針以上縫った跡があります。それを人に見られるのが怖くて、修学旅行では大浴場に入らず、1人だけ部屋にあるお風呂を使っていました。
中学時代は日常が辛すぎて、リストカットをしてしまったことがあります。傷跡を見つけたお母さんは、泣きながらこう叱責してくれました。
生きたくても生きられない子たちもいるのに何やってるの!
その瞬間なんて馬鹿なことをしたんだと思い、「どんなに辛くても生きよう」と私は心に決めました。生きていたら何とかなる…そう信じて。
身体も心も弱かった私はこの頃、Popteenというギャル雑誌を読むことが好きでした。雑誌を見るだけで、自分自身が強くなれた気がしたのです。キラキラした雑誌の世界が自分の逃げ道であり、いつか自分も輝ける日がくると夢見て学生生活を過ごしていました。
置かれた場所で咲きなさい。
おばあちゃんが言ってくれたこの言葉にも救われていました。自分はまだ何も咲いてない。いつか花を咲かせたいなと思っていました。
病気を未然に防ぐ大切な仕事「臨床検査技師」の道へ
高3の夏休みには、小学生の頃からあった側弯症が改善せず、ついに入院して手術をすることに。
私はそれまで、将来は雑誌を読んで憧れていた、へアメイクアップアーティストになりたいと思っていました。ですが、受験前の大事な時期で、進路を考えていたこのタイミングに入院したことで、医療の道に興味を持ったのです。
もともと理系にいたこともあり、私の周りには看護師を目指す友人が多くいたのですが、友人が医療関係の就活本を見せてくれたときに、初めて臨床検査技師のことを知りました。
この中で一番興味あるのどれ?
そう聞かれた時に、なぜか「自分は臨床検査技師に絶対なるんだ」と強く思いました。臨床検査技師という仕事は知名度は低いけれど、病気を未然に防ぐ大切な役割があります。幼い頃から病院や医療が身近だったことも影響してか、私は迷わずこの道を進むことに決めました。
その後は無事大学に進学。大学の先生は私が体が弱いことを知っていて、色々と気にかけてくれていました。
就職時にも病院に対して「体が弱いから最初は週3日の稼働から」と提案してくれていたようで、体調面でも無理なく、入職することができました。

仕事でMRI撮像をしている様子
私が就職した先は「脳神経内科」で、職場では病気のことを直接伝えているわけではありませんが、上司はどこからか聞いているのかもしれません。おかげで職場の人たちは優しく、自然と助けてくれたり、体調を気遣ってくれていて、いい雰囲気の中で働くことができています。
仕事内容は立ち仕事もありますが、しんどくなったら伝えて、座りながらできる仕事に交代してもらったり、体調の変化があれば都度相談をさせてもらうことも。
日頃から体調管理にも気をつけています。例えば、週に一日は何もしない日を作る、24時までには就寝する、心や身体が疲れたらその度に自分にご褒美をあげて、ストレスを溜めないようにする、など。私の場合は美味しい紅茶を飲んだり、好きなドラマを見ることがいい息抜きになっています。
また、体力向上の為にピラティスに通ったり、犬の散歩をしたり。適度に運動することも体力管理に繋がると思っています。
自分の経験を無駄にしたくない。発信活動をはじめる
発信活動を始めたのは、もともとポートレートを撮ってもらうことや動画配信をすることが好きで、仕事が休みの日にはじめてみたことがきっかけでした。
ある時動画で病気について何気なく発信したら、「応援したくなった」と言ってくれる人がいてくれたのです。病気についてマイナスな意見は一つもなく、背中を押してもらったような気持ちになりました。
私はこれを機に、小児がんやヘルプマークのことを発信していきたいと思うようになります。
そしてその後、2020年に高校生の時から夢だった講談社主催のオーディション「ミスID2020」に応募し、審査員の一人である中郡暖菜さんに選ばれ中郡暖菜賞を受賞。ここで正式に病気のことを公表しました。

ミスIDのオーディション中の写真
正直この頃はまだ病気を隠したい気持ちも少しありましたが、ふとこんな気持ちが湧いたのです。
自分が経験してきたことは珍しいことで、それはもしかして誰かに勇気を与えられるかもしれない。経験したことを無駄にしたくない。こうして今生きていることは当たり前じゃないことを伝えたい。
公表後は、今実際に小児がんで闘病している子どもの家族の方や、ユーイング肉腫を経験して助かった方など、さまざまな立場の人たちから、激励のコメントをたくさんいただきました。
「勇気をもらいました」「希望です」といった言葉もありましたが、私としてはみなさんの言葉から逆に勇気をもらい、自分の原動力になったように感じています。
私にとってはマイナスにも思えるこの病気の経験が、他の人にとってはプラスになることもあるんじゃないか。自分の経験を誰かに伝えていきたい。
様々な活動をするなかで、徐々にこんな気持ちが芽生えはじめました。
さらに、見た目は元気そうでも目に見えない病気や障害を持っている若い人たちがたくさんいて、時に夢を諦めなければいけないということを知りました。
そんな世界、どうなんだろう?病気や障害を持っている女の子が輝ける場所があったらいいな。
そう思い、2020年7月には「アイリス+♡」を立ち上げることに。この団体では、病気や障害がある人たちとともにヘルプマークの普及などに取り組みました。その後いろいろな事情があり、今は活動は停止しています。

ヘルプマークをつけてお出かけをしている様子
病気の影響による不安、困難、悲しみ…多々あるけれど、自分の人生に後悔はない
ユーイング肉腫の治療の影響で、体が弱く何度も手術や治療を経験してきた私は、現在も体調の波がありながら過ごしています。
今は薬を毎朝10種類は飲んでいて、病院へは月に1度は通院。血液検査、レントゲン、心電図検査などをしています。
常に疲れやすいため、仕事から帰ったらご飯も食べずに寝てしまうことも。他にも利尿薬を飲んでいるのでトイレが近く、仕事中や友達と遊んでいる時も、何度もトイレに駆け込むなど、日常的に困りごとが多い状態です。
最近はお腹の調子が悪く、アレルギー性腸炎と診断を受けたり、蕁麻疹が出やすかったり、体の不調を年々感じています。
治療の後遺症で心臓と肺にトラブルが多い状況も続いています。私は高校生の時、呼吸器内科で「小さい頃経験してきた治療の影響で、20代後半〜30代前半で亡くなることもある」と言われました。
小さい時にあれだけ頑張ったのに、どうして大人になってからもこんな思いしないといけないんだろう?
と当時のことを思い出して悲しくなることもあります。
病気を経験した影響は他にもいろいろとあって、私は人が照射できる最大量とも言われるほど多くの放射線を浴びたので、左上半身だけあまり成長せず、右と左のバランスが違っているのです。胸も左右で大きさが違うため、人に見られるのが嫌で下着の試着室にも入れませんし、それが「治療の影響だ」ということをなかなか人には言えていません。
人間関係においても、病気のことで悲しい思いをすることがあります。
以前パートナーに病気のことを話したところ、「支えられない」と言われてしまったり、病気を重くとらえられて別れの原因になったこともありました。友人や職場の人には理解してもらえても、親密な関係になりたい人に理解されないことは、正直、とても悲しい。私自身好きで病気になったわけではないので、傷ついてしまいます。
世間一般で病気へのポジティブではないイメージがあることには、難しさを感じる場面は多いです。「病気を経験しなかったら…」とも思うけれど、それでも病気の経験が今の自分を作っているとも思います。だから、色々とつらいこともありますが、それでも私は自分の人生に後悔はありません。
「お世話になった方々に恩返しをしたい」そんな気持ちを原動力に
今自分がこうして生きていられるのは、たくさんの人の支えのおかげだと思います。その一つが、幼少期の治療時からずっとそばにいてくれている家族の存在。
先ほど書いたように、私は高3の夏休みに入院を経験しました。その時、実は母が交通事故にあい、大けがをして片足を切断することになったのです。
その影響で母は今、義足で生活をしていますが、とても元気で私より歩くスピードが速いくらいですし、楽しそうに仕事もしています。仕事後には車椅子の卓球やバドミントンなどに週3〜4回は通っていて、とにかくアクティブ。その姿から「私も頑張ろう」と挑戦する力をもらっています。
お母さんがお母さんで、お父さんがお父さんで良かった。きっと両親じゃなかったら私ははこの世に生きていなかったと思う。二人の子どもでよかった。
心からそう思っています。
私にとって家族は、何があっても味方でいてくれる存在です。自分の病気のこと、お母さんの事故のことも含めて、こんな壮絶なことを経験している家族なんて、きっとなかなかいない。だからこそ、何があっても乗り越えられると感じます。これからも感謝の気持ちを忘れず、家族を大切にして、過ごしていきたいです。
大人になってから26年ぶりに、ユーイング肉腫の治療で入院していた1〜3歳の時に診てもらっていた先生に再会しました。以前は先生と私たち家族で、休日に一緒にボーリングにも行っていたくらい仲の良い関係でした。

幼い頃に診てもらっていた先生とみんみんさん
まだ私が赤ちゃんだったあの頃、先生や看護師さんは誰が私を抱っこするかの取り合いをしていたそうです(笑)。確かに娘のように可愛がってもらった記憶がありますし、実際に話を聞いて、病院の皆さんから愛されていたんだなと知って嬉しかったです。
病院での記憶は、症状に苦しんだことは覚えていますが、他に嫌な思い出は全くありません。先生にお会いした時も、もう一人のお父さんにあったみたいな安心感がありました。こんなふうに小さい時に病院でたくさんの医療従事者に助けていただいた経験から、今の自分があるのだと思います。
お世話になった方々に恩返しをしたい。
そんな気持ちを原動力に、今私は病院で働いています。
自分も病気を経験したからこそ、患者さんの気持ちがわかるところがあるんじゃないかと思っていて、私にとって病気を経験したことは強みでもあります。病気を早い段階で発見することで、治療ができてきちんと治るように。そう願いながら、今は無理のない程度にお休みもいただきながら、仕事に励んでいます。
「悩んだ人生そのものが、自分だけの美しい生き方になる」そう信じて生きていく
私は以前は、「たとえ自分を犠牲にしてでも、小児がんのことを伝えたい」と誰かのために活動をしていました。そして実際に疲れ切ってしまったこともあったのです。
しかし今は、自分が幸せにならないと、誰かを幸せにすることができないのかもしれないと思うようになりました。まず自分を大切にすることが、きっと誰かのために繋がると今は考えてます。
これからは、引き続き仕事で目の前の患者さんに向き合いながら、余裕ができたタイミングで、病気の経験や、今働いている病院で得た知識についてなどをまたYoutubeやSNSで発信活動をしていきたいです。
表に立って発信することで、批判や心ない言葉を受けることもあるかもしれないという怖さも、今は正直あります。だから自分がもう少し強くなったら、挑戦したいなと思っています。
病気になったこと、入院生活が長かったこと、退院してからも身体のことで悩み続けてきたこと。この全ての経験は無駄じゃないと思います。
けっして「病気になってよかった」とはいえないですが、病気になったからこそ気づけたこともあるし、そのおかげでいい出会いもありました。自分が病気を経験したからこそ、仕事では患者さんの気持ちに寄り添えることもあります。そして、こうしてみなさんに気持ちを伝える機会もあるからこそ、全ての経験に意味があったのかな、とも今は思うんです。
大変だったのは間違いないけれど、小児がんになった経験が今の自分を作っている。私はそう思います。
最後に、この記事を読んでくださっている人の中には色々な状況の人がいると思いますが、何があっても、生きることだけはやめないでほしいなと願っています。
私の座右の銘は「美しさとは生き方」という言葉です。
私は発信活動を活発にしていたとき、新たな病気によって体調を崩したり、SNSで批判を受けたりして、しばらく休養したことがありました。きっと誰もが、どんな形であってもつらいことや悲しみ、悔しさを数々経験してきていると思います。
でも、その悩んだ人生そのものが、自分だけの美しい生き方になる。そう信じて生きていってほしいと思っています。
私はこの記事を、編集部の方と相談を重ねながら、年単位で時間をかけて執筆をしました。
私自身、今は歳を重ねて20代後半になって、今後は自分が親の立場になるかもしれないことも感じています。ずっと守ってもらってばかりだったので、これからは誰かを守れるように、今はまず体力をつけたいと思っています。
過去に死にたいと思ったことは何度もあったけれど、今私は結局、生きたいという気持ちが強いです。これからのことを考えた時に浮かぶのは、「謙虚さと、愛と、力強さ」を持つということ。そんな生き方をしていきたいと思っています。
関連情報:
みんみんさん X Instgagram
(写真/提供写真、編集/工藤瑞穂、松本綾香、企画・進行/松本綾香)