【イラスト】笑顔で立っているみわきららさん

こんにちは!soar編集長の工藤です。

「soarを見て励まされたので、私も勇気を出して発信をしたい」

soarが始まって半年。ありがたいことに、なかなか認知されていない病気や障害を持った読者の方から、こんな声をいただくことがあります。私たちの発信が、誰かの背中を押しているなら、これほど嬉しいことはないなといつも感じています! 三輪きららさんも、そう連絡をくれたひとりでした。

「わたしは、難病とされる線維筋痛症という病気に罹患して9年ほどになります。 なかなか世の中の理解を得るのが難しいのですが、いつかこの病気のこと、取り上げて頂けたら、きっともっと認知が広まるかなと考えています。」

きららさんは一度しか会ったことがなかったけれど、会社に勤めながらライターとして楽しく仕事をしているのを見ていたので、そんな病気だったと知りとても驚きました! 実はそのメールが来る数週間前、ちょうど別の友人が「線維筋痛症」になったという連絡をくれたのです。 「全身に激しい痛みをともなう病気」としか聞いていませんでしたが、友人は病気が原因で、追いかけていた夢を一旦あきらめ故郷に戻る決断をしました。

一生懸命頑張って目指していた道が、病気によって閉ざされてしまうのは、私にとってもつらいこと。でも、治ることを信じて今はゆっくり休むことを選択した友人を見て、応援したい気持ちでいっぱいになりました。

きららさんの「原因もわからず、社会的にも理解されていないこの病気伝えることで、すこしでも同じ病気の患者さんの力になれたら」という気持ちを、世の中に届けたいと感じた私たち。 友人と同じ病気だというのは何かのご縁だと思い、まだ原因や治療法がわかっていない「線維筋痛症」という病気、そして病気とともに生きていくのはどんなものなのか。きららさんがライターとして自分で書いてくれたこれまでのストーリーを引用して、みなさんにお伝えしたいと思います!

病気を発症した子ども時代

【イラスト】空手の試合をするみわきららさん きららさんは今、25歳。普段、Webマーケティングポータルサイト「ferret」のライターとして仕事をしています。素晴らしい上司や先輩のもと、毎日の仕事に追われつつも、小さな幸せに浸りながら日々、楽しく生きている女の子です。 きららさんは、この病気を発症するまで、とにかく病気知らずの元気な子どもだったそう。

大人からだめと言われたことを、ついついやってしまいたくなるようなやんちゃが大好きで、幼いころから父のすすめで空手をやっていたり、塾にも通って勉学に励む。そんな幼少期を過ごしていました。

高校2年の夏、満を持して臨んだ空手の全国大会で、気合いが入りすぎていたせいか気持ちが焦ってしまい、きららさんは1回戦で敗退してしまいました。

呆然として、知らぬ間に自分の涙で溺れてしまいそうなほど泣いたことを覚えています。その帰りの新幹線の中で、初めての痛みに襲われました。突然の悪寒と発熱、筋肉痛、関節痛。どんなにきつい空手の練習をしても味わったことのなかったほどのつらさに、叫びたい気持ちになったのを今でも鮮明に思い出します。

最初は本人も含め、家族の誰もが疲れからくるかぜだろう程度に考えていたのですが、いつまでたっても痛みが止むことはなくとうとう病院で検査することになりました。結果を見てみると、体の炎症反応を示す血液の値が異常値を示していたため、入院することになったのだそう。

当時は、ちょうどクラスのキャンプが予定されていて、どうしても行きたかったわたしは、もうなんともない!と意地をはってみたりしたものです。当然、許可が下りるわけもなく、初めての入院生活が始まりました。毎日大量の薬を飲んで、注射の後が残ってしまうほど点滴を打って、それでも痛みや熱はひかず、病名もわからずひたすら検査漬けの毎日でした。

入院生活を3〜4ヶ月送ったのち、血液検査では炎症反応が落ち着いたため退院することができました。それでも免疫力も体力もかなり低下していたため学校には通えず、定期的に通院しながら薬を飲み続けていました。

痛みが慢性的につづく原因不明の病気、線維筋痛症

ではここで、「繊維筋痛症」がどのような病気かを具体的に。 線維筋痛症は、一言でいえば慢性的に全身に激しい痛みが生じる病気。きららさんのように筋肉痛・関節痛、アレルギー、原因不明の頭痛や発熱などの症状が出ますが、死に至るような病気ではありません。 痛みには、普段の生活で気にならない程度の軽度のものから日常生活が困難になるほどの激痛までさまざま。

厚生労働省の調査によると、現在日本には 人口の1.66%つまり約200万人の患者がいるのではないかと発表されています。40〜50代の発症率が高いといいますが、10代など若年層での発症も多いそう。 天候等の影響で日によってその痛みの度合いが変化したりしますが、重症化すると、ほんのすこしの刺激(髪や爪への刺激や温度や湿度の変化)でも激痛が走るため、自力での生活が困難になることも。その痛みで、うつ病になってしまうひともいます。

症状そのものも大変ですが、同じくらいつらいのは、周囲からなかなか理解を得られないこと。痛みは血液検査やその他の検査でデータとして現れないことが多いため、周囲のひとから「怠け病」と言われてしまうことも多い病気なのです。

痛みに加えて副作用にも悩まされる日々

病気が発症してからは、痛みや炎症を抑えるためのステロイド剤の影響で、思春期真っ只中のきららさんの体は、その副作用とも戦うことになります。

「たくさん食べているわけでもないのに、身長156センチ、45キロ程度の体は最高で60キロまで2ヶ月程度で簡単に太り、バッファロー肩(バッファローのような肩に硬い脂肪がついてしまう症状)、情緒不安定など、その副作用は本来の症状と同じくらい辛いものでした。」

高校3年生になると、だんだんと保健室登校をしたり1時間程度クラスで授業を受けたりなどができるようになりました。

みんなに会ったら何を話そう、あー早く行きたい!!」という気持ちで、小さいころから学校が大好きだったわたしは、登校前夜にワクワクしてなかなか寝つけずにいました。遠足前の小学生みたいですよね。でも入院前とまるっきり変わってしまったわたしを見て、周りの子たちもどう接していいのかわからなかったと思います。

学校にも行きにくくなってしまい、その後もひどい高熱などが出てしまうことがあり、きららさんは次は大学病院に入院することになりました。

二度目の入院生活で出会った子どもたちに癒された

【イラスト】男の子と女の子の子供を笑顔で抱くみわきららさん

膠原病を専門とする教授がいる科が小児科だったため、17歳で小児科病棟に入院するという奇妙なことになり、きららさんはなんともむずがゆい気分でした。

いろいろな治療をしましたが、根本的な解決はできずやはり病名もわからず「きらら病だね」と笑って言われたことは、その時はかなりショックでした。今考えれば、わたしの凝り固まった気持ちをほぐすためだったのだと理解できるのですが、当時は「こんなにつらいのになんてことを言うんだろう」と、さらに殻に閉じこもってしまいました。

でも小児科病棟では、毎日を必死で生きている小さな子どもたちとよく一緒に遊ぶようになったことが、きららさんの心にすこしだけ変化を与えたそう。

プレイルームで積み木遊びをしたりビデオを見たり。子どもたちとの生活は、痛みが続く日々の中でも大きな癒しでした。子どもたちのお母さんたちともたくさん話をするようになって、「いつも遊んでくれてありがとう」と言ってもらっていたのですが、こんなに小さな子たちが毎日笑顔で一生懸命生きているのに、17年間も生きてこれた自分が甘えたことは言ってられないと、私の方が元気をもらっていました。

その後も何度か入退院を繰り返し、高校をなんとか卒業するころには日常生活を送れるほどには回復し、副作用も少しづつ落ち着いていました。とはいえ、常に痛みと共にある状態でした。ここから「線維筋痛症」という病名がつくまでは、4〜5年ほどかかったのだそうです。

病気と一緒に生きていくためには、自分と向き合うこと

「痛い、苦しい、辛い」という感情は、他の人が寄り添うことはできても、自分にしか分からないもの。

つらさを口にすれば父や母、妹や弟が心配することは目に見えていたため、わたしの口癖は気がついたら「大丈夫」になっていました。相手が大事な人であればあるほど、わたしがつらいことを伝えることで苦しんでほしくなくて、すべてを打ち明けることをずっと避けてきました。 自分だけで感情を抱えきれない時は、湧き上がってくる気持ちをひたすらノートに書いては自分自身と向き合い続けてきました。これは今でもやっていることです。初めの頃は書いたノートはすべて破って捨てていたのですが、最近は捨てずに置いておくようにしています。

気持ちが落ち着いている時にそのノートを見返してみると、つらい時に考えることの傾向が見えるためどうやって落ち着けばいいのかがなんとなく見えてくるのだそう。「自分はこんなとき、こんな感情になる傾向があるな」とわかれば、そうならないように準備することもできます。自分で自分を助ける方法を、きららさんは一生懸命探っていったのでした。

こういう時はとにかく気持ちのむくままに行動することが、わたしにとっては一番良かったかなと思います。会いたい人に会って、食べたいものを食べて、読みたい本を読んで、、そういうことをしているうちに、痛みは消えなくてもつらい気持ちは小さくなります。

きららさんはだんだん、「やりたいことは、とことんやろう!」という考え方に変わっていきました。

いつ死んでも、後悔しない生き方をしてみたくなった

【イラスト】パソコンで仕事をするみわきららさんとそれを見守る上司

死を感じたときの「いつ死んでも後悔しない生き方をしたい」という思いが強かったこと、入院してから精神的に落ち込むことも多かったので、きららさんは心理学の勉強をして「自分の精神になにが起きているのかが知りたい」という理由から、東京の心理学科がある大学を受験し上京しました。

心理学科で勉強をして、自分の精神状態に説明をつけたいという想いがあったものの、今でも確かなこたえは得られていません。それでも好きな学問を見つけられたこと、落ちこんでしまった時にどのような対処をすればいいのかがなんとなく見えてきたことは、大きな財産になりました。

大学卒業がせまり、就職活動を始めたきららさんは、なんとなく気になった企業に片っ端から説明会の予約をして、最初の説明会が今働いているベーシックだったそう。

説明会を受けて「この会社の名刺が欲しい!」と直感的に思ってから、他のすべての説明会をキャンセルし、ベーシックに入社することだけを考えました。ただ入社したいという気持ちだけを伝え続けた結果、幸いにも入社することができたんです。

最初の半年は、同期と同じようにフルタイムで仕事をしていましたが、はりきりすぎたのか、無理がたたって一時的に働くことができなくなってしまったきららさん。病院からは「仕事を辞めることを考えてもいいかもしれない」と言われ、毎日悩みに悩んで苦しい時期を過ごしていました。

でも、いつのまにかフルで働かなければならないという固定観念を脱して、自分にできる範囲で会社に貢献できればと考えられるようになっていきました。会社の上司である飯高悠太さんや会社に正直に自分の気持ちや症状を伝えたら、「できる範囲でやろう」と理解を示してもらえたんです。

体調が崩れたとき「体が資本だからまずは体調をよくしなさい」と言ってくれる上司やチームに恵まれたことで、かなり救われているのだそう。今では自分の体調ときちんと向かい合いつつも仕事ができていて、「社会で生きている」ことを実感しているのだといいます。

社会人が病気になってしまったとき、ぶつかる一番の壁は「働くこと」にまつわる問題です。だんだんと企業での障害者雇用が進んでいますが、病気、特に難病のひとたちが働くことについては、ほとんど対応がなされていないと思います。精神的にも、金銭的にも、働けないことによって生じる悩みは大きなもの。

もちろん働くことだけが人間のすべてではありませんが、それでも「働いて社会に居場所を得ること」はひとの自信や尊厳につながる大事なことですよね。きららさんのように、病気であっても自分のペースを大事に働ける配慮をしてくれる会社がもっともっと増えていったらいいなあと感じます。

よく会社の人材募集要項に「健康な人」と書いてあることがありますが、そもそも健康ってなんだろうと不思議な気持ちになります。誰だって突然病気になるし、わたしのようにずっと病気と闘っている人にとっては、コントロールできるなら大丈夫だったりします。 健康の定義は難しいと思いますが、わたしは「自分の人生に満足をして幸せだと胸を張って言える」状態が健康なのではないかと思います。

どんな病気だって、各々が持つ特性でしかない

線維筋痛症の痛みは、検査結果などで目に見えるものではありません。なので、「線維筋痛症です」といっても「怠けているだけ」「がんばれないだけ」と捉えられてしまいがちです。

つらさをわかってもらうのは難しいと思うので、「「線維筋痛症」という病気があるんだ、そうなんだ」とそのまま受け入れてもらえれば、それだけで心の負担がかなり軽くなります。

なかなか理解が難しい病気だからこそ、周りの目が必要以上に気になってしまうもの。なので周りの人は、「気にしなくていいんだよ」ということを伝えてあげるだけでも、本人にとっては大きな安心になります。

世界に70億人以上の人間がいても、全く同じ人間は存在しません。どの病気もそうですが、個々が持つ特性のひとつにしかすぎないと思います。病気だからといって、そのひとの尊厳が失われることはありません。

世界を見渡せば、幸せは無限大にある

【イラスト】I wish you happinessと書かれた旗を持つみわきららさん

手の届く範囲で幸せに生きる道を探し続けることこそが、生きるほんとうの意味なのではないかと、きららさんはいいます。

現状を悲観しても、状況が好転することはないと思うんです。いま自分の周りの起きていることを、すべて周りのせいにしてはいけないと私は思っています。「自分が好んで病気を選択したわけじゃない!」と思う気持ちはきっとあるはず。治療法が確立されていないため、こうすれば治るということはありませんが、幸せを見つけようとするだけで生きる気力が湧いてきます。

きららさんの人生のレールは、病気になってから大きく方向を変えました。それまでの価値観が、180度変わるほど。でも変わったことで、自分の人生を幸せなものにするために強くなったのだそう。そして強くなれたからこそ、誇りを持ってやれる好きな仕事、会社の仲間や旦那さんに出会えました。

今、病気があっても幸せに生きているし、これからも幸せに生き続けるためにもっと強くなりたいと思っています。体の痛みはどうしようもなくても、幸せに生きたいという強い気持ちを持ち続けていればきっと光が見えます。病気になっても、心は支配されてもいけないと思っています。つらいときも、悲しいときも、最後には「幸せになりたい」という気持ちさえあれば進むべき道が見えてくると思うんです。

きららさんはこの病気のことを世の中に発信しようと思ったのは、同じ病気のひとを少しでも励ましたい、そしてまだ理解のないこの病気をたくさんの人に知ってほしいと思ったからです。

この病気のことを話すのは、正直言ってほんとうにつらいものでした。今のわたし自身をつくっている真髄と本気で向き合う必要があったからです。それでも、なんだかよくわからない「線維筋痛症」を知ってもらえるとしたら、掴むべきチャンスだったと思っています。これから先まだまだ長い人生、この病気とともにわたしは生きていきます。もし誰かがこの病気と闘うことになったときに、これを読んで「あの子でも前を向けているんだ」と、ほんの少しでもいいから思ってもらえると嬉しいなと思います。

そして少しだけ目線を広げて、世界を見渡してみることが大切だときららさんはいいます。

今見ている世界がすべてではなくて、世界は広いです。病気だけに限らず、なにかに苦しんでいる時はその世界しか見えなくなりがちですが、少し外に目を向けてみると幸せを探す道は無限大に広がっているんだと思います。人は誰しも幸せになる権利があると、私は思うんです。この記事を読んでくださったみなさんにも、たくさんの幸せが訪れることを願っています。

すこしの理解とサポートを

「幸せ」という言葉を、きららさんは何度も口にしていました。痛みのなかでも「病気に負けたくない。少しでも自分の心を前向きにしたい。」という、きららさんのひたむきな努力が今をつくっているのだと思います。

痛みで苦しいのに、それを周りのひとに伝える術がないというのはとてもつらいこと。どうしても目に見えるものだけを信じてしまいがちですが、こういった病気があることを知ると、相手の苦しみへの「想像力」がとても大事なのだと感じます。 線維筋痛症という病気は、原因や治療法が不明な点が多く、見た目にはわからない病気なので、何よりも周りから理解してもらうことが生きていくうえで重要になります。

もしも周りにこのような症状で苦しんでいる人がいたら、そっと手を差し伸べてあげてほしいときららさんはいいます。 線維筋痛症以外にも、まだまだ世の中の人たちの認知度が低く、配慮をしてもらえず大変な思いをされている病気の患者さんはたくさんいます。きっと少しずつの理解やサポートで、救われるひとは多いはず! 痛みのなかでも、すこしでも前向きに生きていけるようなお手伝いを、みんなでしていけるといいなあと思います。

【写真】笑顔で立っているみわきららさん

関連情報 三輪きららさん blog : twitter

(イラスト/ますぶちみなこ