【写真】ユニフォームを着て車椅子に乗りカメラを見つめるはたけやましゅんやさん

みなさん、こんにちは。畠山駿也(はたけやましゅんや)と申します。

普段はeスポーツの大会やイベントの運営などを行う株式会社ePARAに所属し、バリアフリーイベントのプロデューサーとして働きながら、「Jeni」という名前で格闘ゲームをプレイしています。

僕は生まれつき、「デュシェンヌ型筋ジストロフィー*」という遺伝子の異常により全身の筋肉が次第に衰えていく難病を抱えています。病気の進行により、今は四肢を動かすための筋力がほぼなく、残っている力は指先と首から上だけになりました。

*筋ジストロフィーとは筋肉の形成・維持に必要な遺伝子に変異があることで、身体の筋肉が壊れやすく再生されにくいという症状がある、複数の遺伝性筋疾患の総称です。

僕は小学2年生の頃から車いすで生活していて、現在も身の回りのことや移動のほとんどを、ヘルパーさんや家族に支えてもらっています。また1年半ほど前から呼吸に使う筋力の低下により、鼻に人工呼吸器を取り付けています。

僕は、今も昔もゲームをすることが大好きです。少しずつ身体が動かなくなり、できないことが増えていく中で、ゲームが唯一夢中になれることであり、自分を保つ方法でした。

一時期は症状の進行によりコントローラーを握り続けるのが難しくなり、ゲームを諦めた時期もありましたが、今はあごと指先で操作するコントローラーを自作して、ゲームを続けています。

仕事でeスポーツ*を通してゲームに関わるほか、2024年7月には世界最大級の格闘ゲーム大会「EVO 2024」に参加するため、海外遠征の費用をクラウドファンディングで集めて、ラスベガスまで行ってきました。

*「eスポーツ(esports)」とは、「エレクトロニック・スポーツ」の略で、広義には、電子機器を用いて行う娯楽、競技、スポーツ全般を指す言葉であり、コンピューターゲーム、ビデオゲームを使った対戦をスポーツ競技として捉える際の名称。(引用元:一般社団法人日本eスポーツ連合ウェブサイト

今回は僕のこれまでの経験や、病気とともに過ごす日常のこと、EVOへの挑戦についてお伝えしたいと思います。

他人と競えるゲームに夢中だった小学生時代

僕のゲーム好きは、幼少期から。5〜6歳くらいの頃から、よく弟とゲームをして遊んでいました。

僕が勝つと弟が怒るし、弟が怒るとその後は僕が母親から怒られるんですよ。「大人げない」みたいなことを言われてですね…そのときから「勝ちに徹してなにが悪いんだろう」と疑問を抱えていました(笑)。

【写真】微笑みながら左上の方を見つめるはたけやまさん

幼少期は今ほど症状も進んでいなかったので、立って歩いていたし、身の回りのことも自分でやっていました。

なんとなく「他人よりも僕は体が弱いんだろうな」と認識したのは、小学校に入ったあたり。バンザイができない、自力で立ち上がれないなど、他の子ができているのに自分にはできないことが増え、徐々に周りとの違いに気付いていきました。

その後、だんだんと長時間の歩行が難しくなり、移動のときに車いすに乗ることも増えました。それでも、ちょっと手すりに掴まって立つ、学校で「起立」のときに立つことはできていたんです。

でも、小学校2年生の夏休みに、おばあちゃんの家で毎日ゲームをしていたら、気づくと自分の足では立てなくなっていました。

ただ、その時の自分の感情は「あ、立てなくなってんじゃん」くらいの軽いもので。「まあ別に、手が動けばゲームできるからいいか」と、大きなショックを受けることはなかったです。

成長するにつれて、徐々に離れていく友達との距離

小学校1年生から4年生くらいまでは、病気があることで大変だと感じた記憶はあまりありません。本当に周りに恵まれていたんだろうなと思います。

何より僕が毎日を生き生きと過ごせていたのは、魅力的なコンテンツがあったからこそだと思うんです。毎月新しいゲームが出るし、毎月『コロコロコミック』を買って読んでいたし、プラモデルを作ったりもしていて。体のこと、病気のことを考える余裕すらないほど楽しかったですね。ちゃんと「小学生」をしていたなと思います。

学校には身の回りのことをお手伝いしてくれる学習支援員さんがいたので、サポートを受けながら普通教室に通うことができました。

【写真】車椅子に乗るはたけやまさんの足元

それから5年生になって、教室が3階になったこと、学校にエレベーターがなかったことにより、登り降りが大変なので「養護学校」へ転校することになりました。今でいう、特別支援学校です。

それと同時に、養護学校に併設されている障害のある子ども向けの病院へ入院し、病棟から学校に通う生活を2年間送ることになります。

病気の進行によって身の回りの世話が増えるので、家族の負担をなるべく減らせるという点で、病院に入ること自体は気持ちの上では問題ありませんでした。

ただ、病院で過ごす時間がめちゃくちゃ暇だったんです…!夜は20時に歯を磨いて寝る準備をしないといけないし、ゲームができる時間も決まっている。ゲーム三昧の生活が一変して、規則正しい生活になりました。

また、養護学校では同じような学習レベルの子がおらず、僕一人で授業を受けていました。

【写真】車椅子に乗るはたけやまさんの後ろ姿。人工呼吸器のチューブも見える。

土日は自宅に帰って過ごしていたので、普通教室で一緒だった友達と遊ぶのですが、そのときどうしても“疎外感”みたいなものを感じてしまう自分がいました。

病棟の中という狭い空間で普段の生活が完結しているので、友達と「何のテレビを見た」「ゲームをどこまでやったか」などの会話ができなくて、悲しさ、寂しさを感じてしまうんです。結局、友達とはどんどん距離ができていってしまいました。

自分の選択に責任を持ちたい。そう考えて自宅から養護学校に通うことに

行動範囲の限られた病棟生活は、僕にとってかなりストレスが溜まるものでした。それと同時に、病気のある自分が将来どうやって自立しお金を稼ぐことができるのかをよく考えていました。

いろんな人とのつながりをつくりたい。将来のためにパソコンを勉強しておきたい。自分なりに今後のことを考えたうえで、中学生になるタイミングで自宅から養護学校に通う生活を選択します。

【写真】車椅子にのるはたけやまさん。鼻には人工呼吸器がついている。

その意思を母に伝えると、「別にいいんじゃないの。好きにしたらいいじゃない」と言ってもらえました。

やりたいことがあったら何をやってもいいよ。ただし、全部自分で責任とってね。

うちの家族、特に母は基本的にそんなスタンス。

僕のように身体障害を持っていたら、親は過保護になることもあると思います。しかし僕の母の場合は、もちろん日々の身の回りの世話はしてくれていましたが、僕の選択にネガティブな反応をすることはありませんでした。

好きなことは自分でやる。できないことがあったら自分でどうにか考える。

母親の教育方針のおかげで僕はこのようなマインドになり、自立するためにいろいろ工夫しようと思うようになりました。

病気があることで、養護学校や病院の先生たちをはじめサポートをしてくれる人が多い環境でしたが、全てをサポートしてもらうのではなく、自分で選択し、自分の行動に責任を持ちたいと思ったんです。

中学になると、自宅から養護学校に通って、帰ってきたらパソコンでゲームばかりする生活に。

当時、友達から「オンラインゲームが流行っているから一緒にやらない?」と言われ、やってみるとはちゃめちゃにハマってしまったんです。インターネット上では年代を問わずにいろんな人がいて、通話やチャットができるのがすごく新鮮で。

ゲームを通じて出会った同世代の人とは学校という共通点があるので、「テスト勉強が嫌でさ…」といった他愛のない話をしたりしていました。進路や病気について悩むことが多かったのですが、年上の人に相談に乗ってもらったこともあります。

「悩むって行為は、自分以外にもいろんな人が同じようにやっていることなんだ」と感じられて、当時はすごく救われました。今までさまざまなことに悩み、選択してきた自分を、ポジティブに肯定できた瞬間でした。

僕は就職も進学もできなかった。格闘ゲームに熱中し続けた3年間

養護学校の中学部を卒業した僕は、地元の公立高校を受験しました。地元の高校を選んだのは、養護学校の高等部に進学しても生徒数はほぼ増えず、関わる人の範囲が変わらないと思ったからです。

「このままでは就職も進学も難しいのではないか」と進路に不安があったため、プログラミングの勉強をしようと、総合学科の中から商業科を選びました。実際に入ってみると、プログラミングの受講希望者が少なすぎて授業がなくなってしまい、簿記を勉強することにはなりましたが、WordやExcelなどの資格を取ることができました。

勉強するだけでなく、人とのつながりがほしかった僕は、高校の3年間でとにかく人とコミュニケーションを取ろう、友達を100人つくろうと決めて、実際にたくさん友達ができました。

僕の家は学校からすぐ近くだったし、いろいろなゲームがあったので、放課後に友達がいっぱい遊びに来てたまり場のようになっていました。

僕は美術部だったんですが、部活が終わって家に帰ると、野球部がランニング中に僕の家に寄って、母にコーヒー入れてもらって飲んでいたり。約束もしていないのに友達が家にいて、僕のほうが「おかえり」と言われることも(笑)。接点がなかった違うクラスの同級生がいきなり家に来て、一緒にゲームをして仲良くなったりもしました。

【写真】はたけやまさんがスクリーンを見ながらストリートファイターをプレイしている後ろ姿

畠山さんがストリートファイターをプレイしている様子

僕が今も熱中している格闘ゲーム「ストリートファイター」と出会ったのは、高校2年生の頃でした。

動画サイトでプレイを観て面白そうだなと思ったんですが、当初はゲームに使用するコントローラーを握り続けられるのか、重さは大丈夫なのかと不安がありました。

でもやっぱり面白そうでいてもたってもいられず、1年後に母親に「すみません、頑張るんで買ってもらってもいいですか」「コントローラーがうまく操作できなくて投げるということはないように努めるので、お願いですから買ってください」と頼んで買ってもらったんです(笑)。すっかり夢中になり、1年くらいはこのゲームばっかりやっていましたね。

そのうち、格闘ゲームは技術よりも知識が大事なんだと気付いて、とにかくゲームの調べ物ばかりしていました。誰かに褒められるわけでもないし、「強くなった」という結果しか残らない。でもそれが、楽しくてしょうがなかったんです。

現実世界の自分は、病気が進行してどんどんできることが少なくなっていました。手を動かせる範囲や、自分で車いすを運転して出かけられる時間はどんどん減って、ゲーム中もコントローラーのボタンが段々と押しづらくなって。

だからこそ、ゲームの中での頑張った分だけ結果を残せるというシンプルな体験で、自己肯定感を得られることが、すごく支えになっていました。

今やらなかったら後悔する。もうやれるうちに好きなことを全力でやったほうがいいな。

なんとなくそう思っていました。

病気が進行するペースや度合いは全くわかりません。だから僕はやりたいことができなくなったら、また違う「やりたいこと」を見つけるということを繰り返してきました。できなくなったときに「ああ、もうできなくなっちゃった、どうしよう」となる前に、「こっちのほう面白そうだからこっちやろう」と次の選択肢を取る。そんな生き方をしてきたと思います。

ゲームに熱中している間にどんどん高校卒業が迫ってきて、僕は進路についても考えるようになりました。

卒業後はできればデザインの道に進みたいと思っていたけれど、通学できる距離にはデザインが学べる学校がありません。

一般就職できる方法も探しましたが、車いすで会社に通うことは現実的ではなかったし、当時はリモートの仕事などもほぼない状態。パソコンを使う仕事すらなかなか見つからず、僕は高校を卒業後、進学も就職もできませんでした。

地元の就労継続支援B型事業所に行ってみたりもしましたが、やりがいを感じられずに2週間で辞めてしまいます。好きではない仕事をするくらいだったら、その時間を就職するための勉強の時間に費やしたいと思って、そこからPhotoshopなどの本を買ってデザインの勉強をし始めました。

実際のところ、僕は障害者年金を受け取ることができるので、就職や進学ができなくても経済的には生きていけるんです。しかし、それだと「あなたは頑張らなくてもいいよ」と言われているようで、僕の場合は疎外感を感じたと言いますか…。

周りは就職、進学など自分なりの道を選択している友達が多い環境だったこともあって、僕だけが「就職も進学もしなくて、自宅にいてもいいよ」と社会に言われているような、しんどい気持ちでした。

【写真】はたけやまさんの手元。車椅子にのっており、太ももあたりに置かれている

この時期どうやって自分を保っていたかというと、やっぱり格闘ゲームでした。

自分じゃどうにもならない状態から、逃避する術が他になかっただけかもしれません。だけど、ゲームの中だったら自分が努力すればその分強くなれた。自己肯定感が持てた。自分のプレイの課題を洗い出して、一個一個潰すのが楽しくてしょうがなかった。

できないことがどんどんなくなっていくような気がしていました。

ゲームとデザインの勉強を同時並行でやっていた約3年間は、「現実でムカつくことがあれば、ゲームで頑張ってうまくなる努力をする」の繰り返しに没頭していました。

eスポーツの魅力を発信することで、ゲームからもらった恩を返したい

卒業して4年後の2016年、デザインの勉強とゲームに打ち込んでいた経験をアピールし、Webデザインの会社に就職することができました。名刺やフライヤーを作成するグラフィックデザインの仕事です。

ちょうどその頃、手が思うように動かなくなってきたため、大好きだった格闘ゲームはやらなくなりました。そのぶん、ライブ、プロレス、映画、旅行など外に出かける趣味で日々を充実させていましたね。

【写真】車椅子に乗るはたけやまさんの横顔

格闘ゲームはやらなくなっても、違うゲームを通じて友達とはずっと繋がっていました。全国にいる格闘ゲームの友達みんなで旅行に行ったこともあり、友達と過ごすのはとても楽しかったです。

僕がそんな風にのびのびと外出を楽しめるようになったのは、19歳の時に経験した一人旅があったからだと思います。

行き先は、東京の渋谷会館というゲームセンター。なるべく旅先で合流する友達に迷惑をかけないよう、東京のヘルパー事業所に電話をかけてサポートを依頼しました。

トイレや着替え、入浴などはヘルパーさんにお願いできるスケジュールを立てて、その通りに行けば何も心配はないプランを作って。その通りに全てをこなして帰ってきたときの達成感は、半端なかったです……! 「俺1人でできた!」という自信につながったし、自分で工夫をすれば解決できることっていっぱいあるんだ、と気づけた体験でした。

ただ、2020年から新型コロナウイルスが流行し始めます。その頃はリモートワークで働いていたので、仕事自体は問題はありませんでしたが、外出を自粛しなければいけない状況になり、僕は2年ほどほぼ家から出られませんでした。当然、旅行など外に出て楽しむ趣味は一切できません。

とうとう自分の好きなことは、何もできなくなってしまった。じゃあ家にいてもできることってなんだろう。自分自身が一番やりたかったことはなんだろう。

そう考えてたどりついたのが、「eスポーツの魅力を発信することで、今まで僕がゲームに受けた恩を返せないか」という思い。まずはできることから始めようと、SNSやブログを通じてeスポーツに関する発信をはじめました。

さらにこの頃感じていたのは、「もう一度格闘ゲームと向き合いたい」ということ。身体が思うように動かない状況でも、どうにかコントローラーを使えないか、どうしたらゲームができるかを考えました。

そこで、友人の協力のもと、あごと指先で操作するゲームコントローラーを自作。そのおかげで格闘ゲームを再開することができて、また昔のように夢中で格闘ゲームをするようになりました。

【写真】車椅子に乗り機器を見つめるはたけやまさん

環境やデバイスを工夫して、ゲームも仕事も自分らしく

さまざまなチャレンジをするなかで、僕は「障害」と「eスポーツ」に関連する仕事がしたいと思い始めました。情報を探すなかで出会ったのが、ePARAです。

ePARAは、eスポーツを通じて、障害者が自分らしくやりがいをもって社会参加するためのサポートを行う企業。「年齢・性別・時間・場所・障害の有無を問わず参加できる環境のもと行われるeスポーツ」を意味する、「バリアフリーeスポーツ」というオリジナルワードを提唱しており、バリアフリーeスポーツに関するニュースの発信や、イベントの企画運営などをしています。

僕は2021年から、ePARAでeスポーツイベントのプロデューサーとして働くことになりました。現在は、バリアフリーeスポーツのイベント開催に向けて、スタッフをアサインし、プロジェクトを進めていく仕切り役のような業務をしています。ある程度裁量を与えてもらっているため、一つのプロジェクトを完遂するまでのプロセスは自分で判断できる部分が多く、居心地がよく仕事をしやすいです。

本社は埼玉ですが、僕は岩手在住なので基本はリモート勤務で、労働時間も自由に決められるフレックスタイム制。毎日ヘルパーさんや看護師さんが生活のサポートに来てくれるので、それに合わせて休憩時間を取って働けるように配慮してもらっています。

【写真】ベッドに横になり、ヘルパーさんのサポートを受けるはたけやまさん

ヘルパーさんのサポートを受けている様子(提供資料)

病気があるなかで継続して働いていくためには、期限があるタスクはある程度余裕を持って進めたり、突然の体調不良で休みを取る可能性を考えてリスク分散するよう心がけたり。腰が痛い日や疲労が強いときは、相手に事情を伝えた上でベッドの上からオンライン会議に参加することもあります。

僕が苦手な作業は大量に文字を打つことで、すごく疲れます。noteの記事を書くときはとても大変で、頭の中で構成や内容を入念に考えた上で、丸1日かけて書き上げますが、次の日は両手が動かないくらい疲れ果てて倒れてしまいますね……。

普段の仕事では、大量の文字を打つ機会はそこまで多くないですが、メールのやりとりは、ChatGPTに手伝ってもらうこともあります。

また、体に負担がかからないようなデバイスを使う、という工夫もしています。

仕事用の椅子やデスク周りの機器は自分仕様に調整し、マウス操作やキーボードの打ち込みなどは手元のスイッチをほんの少し動かすだけで反応するようにしているので、楽に操作ができるんです。だからこそ長時間仕事をしていられるのかもしれません。

【写真】コンピュータを操作するはたけやまさんの手元

今は体がほぼ動かせないので、肉体的に「疲れる」という感覚は少なくて、正直仕事をすることによる体への負担はあまりありません。最近は体調も安定していて、心臓の負担を軽くするために血圧を下げる薬のみ毎日服用していますが、通院もしておらず半年に一度検査をしている程度です。

数ヶ月に一度は、関東や関西に出張に行くことがあります。もともと旅が好きな僕にとっては大切な時間です。旅の準備は人より時間がかかりますが、遠出を重ねる中でだんだんその段取りも楽しく感じられるようになってきました。

2024年6月には川崎フロンターレ主催の「かわさきSDGsランド」にて、僕を含むパラeスポーツプレイヤーとお客さんが、ストリートファイター6の対戦をして交流するブースを出展しました。

【写真】KAWASAKIと書かれた大きな横断幕や、ゲームのモニターやキャラクターのぬいぐるみが複数置かれている。

川崎フロンターレ主催「かわさきSDGsランド」にてePARAがバリアフリーeスポーツ体験企画を実施している様子

一般の方と顔を合わせてゲームができるのは嬉しいですし、普段は画面越しでコミュニケーションしている同僚と触れ合える貴重な機会でもあるので、今後は出張を増やせたらいいなと思っています。

チャレンジを積み上げて、原点の夢に立ち返る

僕は、10代の頃から「いつか格闘ゲーム好きだけが集まる大会に出てみたい」という憧れを持っていました。

大会に出ること自体はもちろんのこと、格闘ゲーム好きの人がたくさん集まる場所に行ってみたかったんです。そして、いつもオンラインでしか対戦できない人とオフラインで会えたらいいな、と。

当時はその夢を叶えられる舞台がなかったのですが、2018年から長い歴史を持つ格闘ゲーム大会の日本シリーズ「EVO Japan」がスタート。2023年、ついに念願が叶って、僕はEVO Japan 2023に出場できることになりました。

大会に出るための準備は、本当に大変でした。

今の僕は、病気の進行により身体がほとんど動かないので、出かけることはもちろん、ゲームをするためのポジショニングをとることも、自分一人では難しいのが現状です。

まずは体の状態に合わせて、格闘ゲームをプレイしやすい状況をつくりあげる必要がありますが、これも誰かの協力が必要なため、普段からリハビリを担当してくれている理学療法士さんに手伝ってもらい、試行錯誤をしました。

どんな姿勢で車いすに乗って、どんなコントローラーの配置にするか…。1週間ほど夜中まで理学療法士さんと話し合って、時には作ったもの全部とっぱらったり、破壊と再生を繰り返しながら(笑)、最適な仕様を見つけていきました。その末に辿り着いたコントローラーは、その後も改良を重ねていて、今では5代目を使用しています。

待ちに待った大会当日も、理学療法士さんと現地のヘルパーさんとともに参加しました。日本中の格闘ゲーマーが集まる大会に参加できたことが本当に嬉しかったし、格闘ゲーマーのコミュニティの一員になれたと思えた瞬間でした。

【写真】車椅子にのり機器を操作するはたけやまさんの手元

EVO Japan 2023に参加後、「自分で格闘ゲームの対戦会を開いてみたい」という新たな夢が生まれました。それを会社に相談した結果、ePARAの自社イベントとして、僕の地元である岩手県八幡平市で、バリアフリーゲーム交流会イベント「HACHIMANTAI 8 FIGHTS」を開催することができました。

当日は障害の有無を問わずにたくさんの方に参加してもらえて、これまでお世話になってきた格闘ゲームコミュニティに感謝を伝えられた機会にもなり、達成感がありました。

さらにその次に出てきたのは、「ラスベガスで行われる、EVOの世界大会に行きたい」という思いでした。この大会は毎年行われていて、ラスベガスに世界中から格闘ゲームプレイヤーが集まり競い合います。2022年は約1万人の参加者数があったそう。

海外へ遠征するとなると、国内のゲーム大会よりも参加ハードルが上がります。ゲーム環境の構築や身の回りのサポートをしてもらうために、チームで渡航しなければならず、多額の費用が必要となります。そこで遠征資金を募るクラウドファンディングに挑戦しました。

【写真】カメラを見つめ微笑むはたけやまさん。写真には、過去の夢に、今の自分で挑戦するという文字が書かれている

(提供写真)

目標金額50万円は、なんと初日で突破。最終的には目標を遥かに超える、500万円以上の支援をいただきました。

支援者数は489人。友人や知人、ゲームが好きな方、僕と同じ病気を持つ家族がいる人など、たくさんの人たちが僕一人の力では叶えることができないこの夢を応援してくださり、心から感謝しています。

格闘ゲームの世界大会・ラスベガスで見た素晴らしい景色

ラスベガスには、僕、母、友人、理学療法士さんとアシスタント、看護師さん、カメラマンの7人チームで向かいました。おかげさまで、渡航費から滞在費まで全てクラファンの支援金で賄うことができました。

初めての飛行機でしたが、さまざまな方のサポートのおかげでスムーズに現地に到着。同じ大会に出場するゲーム仲間と連絡を取り合って、大会前日にはホテルに集まり、パソコンをベッドやキャリーバッグの上に置いて対戦しました。

【写真】車椅子に乗り微笑むはたけやまさん。後ろでは仲間がゲームをしている

ホテルの部屋で仲間とゲームをしている様子(提供写真)

この時間が本当に楽しくて。「明日はみんなで生き残ろうぜ」みたいなノリを、まさか30歳にもなってやるとは思わなかったですね。

僕は部活でそういった経験ができなかったので、学生時代に仲間と切磋琢磨して大会に挑む、といった経験をしたことがなかったんです。あの頃はできなかったことを、今体験させてもらっているかのようでした。

そして大会当日。約16,000人が集まった会場は熱気がすごくて、とにかく気持ちが高まりました。僕はXで発信をしていたので、日本人の大会出場者と会場で会うこともできて、本当に楽しい時間でした。

結果は目標としていた1日目の予選を無事突破し、参加者5,300人中257位タイ。自分としては良い成績だったんじゃないかなと思っています。

現地では仲間がずっと隣で応援や指示出しをしてくれて、普段より落ち着いてゲームができました。会場が寒かったのと緊張で、手が冷えて動かなくなってしまったんですが、仲間が手を握って温めてくれたり、日本人のプロゲーマーの方がカイロを持ってきてくれたりして。人の優しさのおかげで試合に勝つことができたと思います。

SNSで応援のコメントが送られてきたり、クラファンで応援してくれた方々のメッセージが届いたり。「こんなにたくさんの人に応援してもらっているんだから、下手なプレイはできないな」という気持ちが、ゲームプレイにも反映されたと思います。

チームの仲間、家族や友人、クラウドファンディングやSNSで応援をしてくれた人たちなど、本当にたくさんの人たちのおかげで、夢を実現することができました。

【写真】世界大会が行われた会場の外観。大きなガラス張りの会場で、その前には車が4台停まっている

EVOの会場の様子(提供写真)

大会遠征を通していろいろなことがありましたが、印象的だったことの一つがラスベガスのバリアフリーな環境でした。

僕が訪れた場所は基本的に道路は広くフラットで、段差は全然ないし、どの建物にもエレベーターがありました。

驚いたのは、車いすでも乗車できる福祉タクシーが24時間いつでも来てくれること。日本の福祉タクシーは事前に予約しないと利用できないんです。ラスベガスに到着したのは夜中の0時ごろでしたが、わずか5分でタクシーが来たことに感動しましたね。

EVOも、さまざまな立場の人が参加できる工夫がされていました。会場の「ラスベガス・コンベンションセンター」は段差がないフルフラットで、多目的トイレやジェンダーを問わず利用できるトイレが複数用意されていましたし、英語以外にも色々な言語が話せるボランティアスタッフがいたようです。

僕が車いすに乗って会場に入るとスタッフがすぐ声をかけてくれて、入場の列に並ばずに済むパスを用意してくれました。

中でもすごく心が燃えたのは、試合を全世界に放送する配信台のステージ全てにスロープがついていたこと。

配信台のステージは、トーナメントを勝ち抜いて上位に上がった人のみが登れる場所。僕には「お前が強くなったら、乗せてやる場所は用意してあるからな」とでも言われているように思えたんです。

eスポーツにおいてさまざまな人が平等に戦うための最大の配慮は、こういうことなんだろうなって思いました。ハンデを設ける、などの配慮ではなくて、アクセシビリティの部分で誰でも平等に戦える用意が当たり前にある。それが、「どんな人でも受け入れる準備ができている」というメッセージのようで、何よりも嬉しかったです。

あと2〜3回勝てば配信台での対戦だったので、いつかステージに上がって試合をすることが夢の一つになりました。

自分の困りごと、やりたいことを発信するからこそ、誰かがサポートしてくれる

世界大会を終えて日本に帰ってきたのも束の間。次なるアクションとして、翌月には今年も岩手県八幡平市で、バリフリーeスポーツイベント「ハチエフ HACHIMANTAI 8 FIGHTS ’24」を開催しました。昨年は交流会イベントでしたが、今年は障害の有無を問わず、プロでも一般人でもみんなが参加できる格闘ゲームの「大会」としての開催です。

対戦による交流を重視してイベントを設計しましたが、当日の参加人数は昨年の3倍近くと多くの方に足を運んで楽しんでもらえてホッとしています。来年もまたパワーアップして開催したいですね。

今まで僕は本当にたくさんのサポートを受けて、そのおかげでいろいろな挑戦をすることができました。

【写真】真剣な表情で、顎でゲームを操作するはたけやまさん

その経験を経て、やりたいことを叶えるには、今の自分の状況やどんな思いを持っているか、その達成のために具体的に手伝ってほしいことなどを、順序立てて説明することが大切なんじゃないか、と感じています。

今後できることがどんどん減って、やりたいことができなくなった時、自分で説明ができないと、助けたくても誰も助けられないよ。

昔小学校の先生に言われた言葉が印象に残っていて、これが今の僕の生き方につながっている部分もあるのかもしれません。

それでもたまに慢心してしまい、「もうちょっとちゃんとスケジュールを立てて行動してほしい」と友達に注意を受けて、「この間は大丈夫だったから今回もいけると思ったんだけどな」と反省することはあります…。

人にお願いすること、頼ることは関係性ありきですし、難しいことだとも思います。

僕はもともと人にお願いするのは苦手で、「相手にどう思われるか」と考えてブレーキがかかってしまうタイプでした。

ただ僕の会社の代表が、可能性が数パーセントでもあったら聞いてみる、時には頭を下げてお願いしにいく、というのをすごく頑張っている姿を見たことがあって、「まず聞いてみるのも大切なんだな」と思うようになったんです。

意外と困っていることを伝えてみれば、手伝ってくれる人ってやっぱりいるし、逆に考えると自分が発信しないと相手は拾いようがないんですよね。

僕の場合は困ることもやりたいこともゲーム関連のことがほとんどですが、ゲーム好きな人は自分の知識や工夫を教えてくれることが多いし、ゲームコミュニティという場には一緒に解決しようとする力がすごくあると思っています。

困っていることや工夫を発信することが、結果的に誰かの役に立ったり、eスポーツ業界の変化にまでつながることだってあるんです。現にこれまでも、誰かが発信してきたことが積み重なって、大会ルールが変わって、僕を含めた多様な人が参加できるようになってきたという経緯があります。

【写真】車椅子に乗り、少し微笑みながら機器を操作するはたけやまさん

僕は好きなことを諦めない。それが巡り巡って誰かの挑戦につながれば

僕は自分の人生において、無謀な挑戦はしたことがないと思っていて。一つひとつ、ゲームを攻略するみたいに経験を積み重ねて、できることが広がっていったからこそ、無謀な夢でしかなかったEVOに挑戦できたと思っています。

僕は学生時代は家族に頼まないと一人で出かけるなんてできなかったですからね。そこから高校一年のとき初めて同級生とドラッグストアにヘアワックスを買いに行って、どの道だと段差がないか、車いすでも安全に通れるかなどを把握して、段々と一人で出かけられるようになった。

旅行に行くこと、就職すること、自分のお金で好きなことを楽しむこと、ゲームで実力を上げていくこと…全部がつながっているのかなと感じています。

【写真】車椅子に乗り、カメラを見つめるはたけやまさん

今回EVOに出場して改めて、自分の好きなことややりたいことは、人と比較するものじゃない。他の人がどうかより、自分自身がやりたいことを見つけて、それをただやっていこうと思いました。

僕はやっぱり格闘ゲームがすごく好きで、だからやってるし、やめられない。帰国後も何度もEVOの夢を見るくらいで、どれだけ好きなんだよって自分でも思います(笑)

病気の進行で一度ゲームをやめていますが、好きなことを病気などの理由で諦めるのは生きていくうえで何よりも残酷だと感じるんです。

でも僕のように、一度やめてしまったとしても新しい工夫を考えることで、またできるかもしれない。やりたいこととの向き合い方は、一つじゃなくて、いろいろな方法があるかもしれない。

僕はゲームという好きなことを諦められなかった人間ですが、諦めが悪いとこうして海外まで行っちゃう人もいるんですよ。

今回、僕がEVOの国際大会に行ったという実績ができたことで、「じゃあ自分もいきたい」という人も出てくるかもしれません。こうして自分が好きなことを一つずつやっていく中で、巡り巡って誰かの挑戦につながれば嬉しいです。

今年ラスベガスでEVOに参加できて、競技者としての夢は叶いましたが、僕はこれからも「生涯現役」のプレイヤーでありたい。そして、対戦会の開催などゲーマーが集まる場をつくることも通して、バリアフリーeスポーツの普及に努めていきたいと思います。

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畠山駿也さん X note

(執筆/森恭佑・soar編集部、撮影/野田涼、編集/工藤瑞穂、企画・進行/松本綾香、協力/山田晴香)