【写真】笑顔で立っているよしおかりよさん

当たり前ですけど、人って一人ひとり全然違うじゃないですか。その違いを発見するのが劇的に楽しくて。だから私、人間が好きなんです。

国際的な人権NGO「Human Rights Watch」で働く吉岡利代さんは、インタビューの冒頭からこんな素敵な言葉を投げかけてくれました。違いを楽しむこと――このシンプルな価値観で、人間が好きなれる。

もしかしたら“世界平和”のために必要なことって、これだけで十分なんじゃないか……なんて、ちょっと大げさかもしれませんが、こんな風に考えが飛躍するくらい、利代さんの一言一言にはグッとくるものがあります。

人権侵害は、主に社会的弱者であるさまざまなマイノリティに対して起こります。その悲劇を食い止め、マイノリティの人たちの今と未来を明るく照らすために尽力するのが、利代さんの務めです。

時には紛争地に赴き、自分の命を賭してまで“他人のため”に動くことがある職場でも、いつも笑顔を絶やさない利代さん。そのありあまるほどの優しさと包容力のルーツは、一体どこにあるのでしょうか。利代さんの過去・現在・未来のお話を、じっくりと聞かせていただきました。

<profile>
吉岡利代(よしおかりよ)さん
国際人権NGO「Human Rights Watch(ヒューマン・ライツ・ウォッチ、HRW)」上級プログラムオフィサー。高校と大学はアメリカで過ごし、日本に戻ってから外資系金融会社に就職。その後、国連難民高等弁務官事務所での勤務を経て、2009年にHRW東京オフィスの創設メンバーとなり、現在に至る。2011年、AERA「日本を立て直す100人」に選出。同年、世界経済フォーラム「Global Shapers Community (GSC)」に選出され、2013年度は東京ハブのキュレーターを務めた。

「他人のため」と「自分のため」が、つながっている

【写真】笑顔でインタビューに応えるよしおかりよさん

日本だけではなく、世界中の人権問題の解決のために、身を粉にして働いている利代さん。率直に「どうして、他人のためにそこまで動けるのか?」と聞いてみました。

どうなんでしょうね、ちゃんと他人のためになっているんですかね?(笑) 私の中では、あまり「他人のため」って意識はなくて、結局は今の仕事も「自分のため」にやっているんだと思います。私にとって、利他的なことと利己的なことは、根っこでつながっているんです。

「他人のため」が、そのまま「自分のため」になる――この考え方にはとても共感しました。世間では「他人のため」が行き過ぎると、「何か裏があるのではないか」と勘繰られたり、「偽善者っぽい」と見られてしまったりすることがあります。

けれども、世の中には“利他と利己”が自然とつながっている人が、少なからずいる。その事実を素直に受け入れられることができれば、私たちの住む世界の体温が、今よりも少し温かくなる気がします。 利代さんは、いつから“利他と利己”がつながるようになったのでしょうか。具体的なきっかけを伺ってみると、意外なエピソードが出てきました。

初めてボランティアに興味を持ったのは、小学生向けの雑誌……多分『りぼん』だった気がするんですけど、その付録でついていた小冊子に「つらくなった時はボランティアをするといい」って書いてあったのを見つけて、「なるほど!」と思って(笑)

それから少し間が空いて、利代さんが初めてボランティアに携わったのは中学2年生の夏休み。自治体のボランティアセンターに登録をして、保育士の手伝いに参加したそうです。

初めてだったので、一番やりやすそうだなと感じたものを選びました。ボランティアというよりは、保育園で子どもたちと遊んでいた記憶しかないのですが(笑)、なんだかそれが楽しかったし、それ以上に「しっくりくるな」と思ったのは、今でも覚えています。

「みんな同じ」がつらかった中学校時代

【写真】笑顔のアメリカの友人とよしおかりよさん

中学に入学前、アメリカに親子留学。

ボランティアを通して「他人のため」に何かをすることの楽しさに目覚め始めた中学生時代の利代さんですが、学校生活は部活のバスケにはのめり込んでいたものの、「一番しんどかった3年間だった」と当時を振り返ります。

「みんな同じ風にしなきゃいけない」という空気が大嫌いだったんです。ある時期にあるデザインのカバンが流行れば、そのカバンを持ってないと不思議がられる。スカートの長さもみんなと同じじゃないと気まずい。話題を合わせるためにテレビを見ておかなきゃいけない……そういう同調圧力が本当に煩わしくて。

「運動部は中心、文化部は周縁」といった理不尽なスクールカーストが生まれ、マジョリティが意味もなく干渉力を持つ、狭い世界で完結した学校社会。その風潮に納得のいかなかった利代さんは、文字通り“静かな”抵抗を始めます。

当時、私はバスケ部に所属していて、スクールカーストで言えば安全圏にいました。学校内であからさまないじめはなかったと思うのですが、安全圏内の慣れ合いも、安全圏外の諦めも、すべてが気に食わなかった。

だから、学校でしゃべるのを止めました。本音も個性も胸の内に閉じ込めて、自分のことは一切言葉を発さないようにしたんです。3年になり、唯一の支えだったバスケ部を引退する頃には体が悲鳴をあげ、拒食症になって半年間ほど学校に行けなくなってしまった時期もありました。

不平に向かって声を上げず、黙り込むことを選んだ利代さん。そこにはどんな意図があったのでしょうか。

今振り返ってみると、「ここで私の個性が値踏みされてたまるか」と、社会に対する抵抗の意志を表現したかったんだろうなと思います。おそらく、この中学生時代の抑圧が、その後の私が人権問題にこだわり「一人ひとりが自分らしく生きられる世の中にしたい」と願うようになった原体験なのかもしれません。

「みんなちがって、みんないい」、心が解放された留学経験

高校生のときに、アメリカの高校へ留学。

高校生のときに、アメリカの高校へ留学。

人間関係の閉塞感にさいなまれていた利代さんに転機が訪れたのは、高校進学の時でした。父の仕事の都合で、アメリカに留学することが決まったのです。高校の3年間と大学の3年間をアメリカで過ごした利代さんは、「世界が180度変わった」と話します。

日本の学校は「みんな同じ」が大原則でしたが、アメリカはその真逆でした。「みんなちがって、みんないい。むしろ、違ってナンボ」というのが共通の認識で。

大学の入試も、センター試験で「同じ課題に対してどれだけ頑張れるか」を見る日本と違って、「あなたは何ができますか、どの分野で秀でていますか?」ということを問われるんです。「他人とは違って優れていること」を見出そうとしているから、アメリカの高校生は一人ひとりが個性的で、とても自由でした。

気兼ねなく自分らしくいられる環境に身を置けたことで、生きづらさから解放された利代さん。この留学の経験が、利代さんの今の仕事につながる思いを育てていきます。

海外での滞在期間が長くなるにつれて、「この経験を社会に還元しなくちゃ」という意識が芽生えていきました。少しずつ世の中を俯瞰的に見ることができるようになって、世界は動くジグソーパズルと感じて。

一つひとつのピースの形が目まぐるしく変化する中で、自分はどう形を変えながら、空いているところを埋めていけばいいのか……そんな風に考えていました。「自分は日本人として、世界に何ができるかな」と日々考えて、悩んで……気がついたら、今の仕事に就いていたんですよね。明確な理由があったと言うよりは、直感に従って動いた結果でした。

日本の子どもたちが、深刻な人権侵害にさらされている

HUMAN RIGHTS WATCHは、世界の様々な地域で人権問題について調査している。

HUMAN RIGHTS WATCHは、世界の様々な地域で人権問題について調査している。

利代さんが所属しているHuman Rights Watch(以下、HRW)は、アメリカに本部を構える国際NGOです。「世界中すべての人々の人権を守ること」を目標に、世界90カ国で人権問題について調査をし、その実態を政府や関係各所に伝えて、「解決のために行動してください」と働きかけています。

平和な日本で暮らしていると“人権問題”という言葉は、なんだか大げさに聞こえるかもしれませんが、決してそんなことはありません。利代さんは「私たちの身近にも、深刻な人権侵害が潜んでいる」と語ります。

HRW東京オフィスが日本の人権問題として初めて取り扱ったテーマは「実親と暮らせない子どもたちの権利 (社会的養護)」でした。最初は震災孤児に焦点を当てていたのですが、調査のなかで彼ら、彼女らのほとんどは親族に引き取られていることがわかりました。

しかし、調べを進めていく中で、震災孤児はある意味例外的な位置づけだということに気づいて。全国でおよそ4万人いる社会的養護下の子どもたちのうち、約9割近くが施設で暮らしているんです。これは、国際的な基準で言うと、かなり深刻な子どもの権利の侵害に当たると言えます。

岩手県にある児童養護施設の、女子用の寝室。8人部屋で、個人の空間は唯一ベッドの上だけ。HRWホームページより

岩手県にある児童養護施設の、女子用の寝室。8人部屋で、個人の空間は唯一ベッドの上だけ。HRWホームページより

ベビーベッドが所狭しと並ぶ東京都内のある乳児院。定員35人のベッドルーム2つに、0~2歳児が暮らしている。HRW ホームページより

ベビーベッドが所狭しと並ぶ東京都内のある乳児院。定員35人のベッドルーム2つに、0~2歳児が暮らしている。HRW ホームページより

「子どもは施設ではなく、あたたかい家庭で育つべき」ということは、子どもの権利条約にも明言されている世界的な原則です。諸外国では、養子縁組や里親が見つからなかった場合の最後の手段として、児童養護施設が機能しています。

しかし、日本では「子どもの社会的養護≒施設行き」という構造になってしまっているのです。施設の職員の方は一人で大勢の子どもを見なくてはならず、一人ひとりの子どもの利益を最優先することが難しい面も多々あることが、調査によって判明しました。

HRWはこうした現実を世の中に伝え、変化を起こすことで、現状の打破を試みます。「真実の力で、世界を変えていく」のです。

HRWでは2014年、これらの日本の社会的養護制度の現状や問題点をまとめ、調査報告書の形で発表しました。今は、調査結果や現場の声を政府や自治体に伝えながら、「社会的養護下にある子どもたちの人権が守られるように行動してください」と呼びかけています。

たとえば国レベルでは、厚生労働省や国会議員に対し、児童福祉法が子どもたちの権利が最優先された法律に改正されるよう訴えています。自治体レベルでは、賛同してくれた多くの首長さんたちが主導し、養子縁組や里親委託を推進する体制を充実させてくれています。

この「子どもたちの社会的養護」のテーマは、「施設にいる子どもが多いから、里親を増やせばいい」というような、単純な話ではありません。里親を増やしても、大人と子どもたちを適正にマッチングする機能がなければ、現状の改善にはつながらないからです。

また、マッチングした後のフォローアップにも課題があります。里親さんや養親さん含めどんな親でも、社会的に孤立してしまうと助けを求められなくなってしまい、そこから虐待に発展する可能性も高くなってしまうのではないでしょうか。解決すべき問題は山積みです。

同時に、子どもたちの未来についても考えていかなくてはいけません。現在の制度では、18歳になった時点で社会的養護制度から卒業します。子どもたちは、そこから自立した生活を強いられます。

でも、家庭で暮らした経験がない場合、電気のつけ方や切符の買い方、お金の管理の仕方など、家族の中では当たり前に経験するようなことが、本当にわからなかったりするんです。こうした自立支援までしっかりと取り組んでいかないと、社会的に弱い立場にある子どもたちの人権が守れているとは言えません。

大きな社会的問題を解決に導くためには、部分的にではなく、広く全体を見渡してバランスよく事を動かしていくことが重要なんだと感じています。

家族にも打ち明けられない、セクシャル・マイノリティの現実

【写真】インタビューに真剣に応えるよしおかりよさん

「子どもたちの社会的養護」から始まった、日本の人権問題に関するHRWの調査活動。現在はこれと並行して、「LGBTの中高生へのいじめ問題」についても調査を進めており、2016年5月のレポート発行に向けて、利代さんも準備に走り回っているとのこと。

昨年辺りからニュースで「LGBT」(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)という言葉を聞く機会は増えていて、少しずつ社会の風向きは変わっているようにも思えますが、当事者はどのような悩みや問題意識を抱えているのでしょうか。

今回の調査を通して、中高生のLGBTの当事者が抱えている問題は、私たちが考えていた以上に根深いものだと痛感しました。とりわけ「カミングアウトのハードルの高さ」には、個人的にも衝撃をうけました。

この調査のアンケートに協力してくれた生徒の中には「自分がセクシャル・マイノリティであることを初めて他人に打ち明けた」という人も少なくなかったんです。

友だちにはもちろん、家族にも話せない――カミングアウトできなくて悩む子どもたちの多さに、利代さんは「想像以上に、目に見えにくく複雑な問題だ」と、ショックを受けたそうです。

先ほど話した社会的養護でも、セクシャル・マイノリティの問題でも共通していますが、私たちはどこかで「家族は無条件で受け入れてくれる場所」という意識を当たり前に持っています。しかし、現実は決してそうとは限らないんですよね。

受け入れられなかった時の恐怖を思えば、家庭内で自らの性的指向や性自認を打ち明けることの難しさがひしと感じられます。また、子どもから打ち明けられた時の、親の悩みも深刻です。情報も、社会のサポート体制も少なすぎて、セクシャル・マイノリティだとわかった子どもにどう接すればいいのかわからなくなってしまう。

結果的に、子どもと食器を分けたり、玄関からの出入りを禁じて勝手口しか使わせなくなったり……といった悲しい仕打ちをしてしまう親御さんもいるんです。

LGBTに関する理解が追いつかないために、子どもにきつく当たってしまう……それでも、「そういった親を責めるのは違う」と、利代さんは問題の本質を見すえて言葉をつなげます。

私は、「自分の子どもを愛したくない親はいない」と思っています。理不尽な当たり方をしてしまうのは、絶対に理由がある。そうした問題意識を共有して、支え合う親同士や家族ぐるみのネットワークが、これからもっと広がるべきだと考えています。

情報感度の高い環境にいると、セクシュアル・マイノリティは少しずつ社会的に認知されてきているように見えますが、私の家族にLGBTの話題を振ったら「え、日本にもそういう人っているの?」と言われて……まだまだ、理解を得られていない層は多いんだろうなと感じていますね。

これからセクシャル・マイノリティの子どもたちの人権を守る上で、「保護者となる大人たちの、LGBTへの理解度を高めること」は、大きなポイントとなりそうです。

セクシャル・マイノリティの子どもたちを取り巻く環境では、ご家族の理解と同様に、学校の先生の理解もとても大事ですね。「男の子らしくない」「女の子らしくない」といった、「普通」とちょっと違うだけでいじめにつながりやすいのが学校の現実ですから、先生たちへのさまざまなトレーニングや研修は今後の取り組むべき課題だと考えています。

マイノリティ支援は「認定すること」がゴールじゃない

社会的養護報告書を発表した際の記者会見の様子。

社会的養護報告書を発表した際の記者会見の様子。

人権侵害は、その多くが社会的弱者であるマイノリティに対して起こります。HRWとして、今後はどんなマイノリティにフォーカスしていきたいかと、利代さんに尋ねてみました。

いろいろと考えています。個人的にまずは、難民問題。日本は難民の認定基準も厳しいし、認定を待っている間も大変な環境に置かれてしまうので、その状況を少しでも改善していきたいですね。さまざまな障がいを持った方の権利についても、ちゃんと現状を把握し、動いていきたいなと思っています。

あとは、soarでも取り上げていた難病指定を受けている患者さんや、実質は難病なのに難病指定を受けられていない患者さんも……。普段見えていないだけで、私たちが認知できていないところに、社会的に不利益を被っているマイノリティの方々がいらっしゃるはずです。

顕在化している問題だけでなく、声なきSOSに耳を傾け、存在を見つけ出していくこと――それはとても尊い行為だと、お話を伺って感じました。ただ、こうしたマイノリティの支援の仕方については、もっと慎重に考えていかなければいけない部分もあると、利代さんは言葉をつなげます。

行政が少数派の問題を扱うとなると、まず認定や証明など、特別視して型を用意することから始めたがる気がしています。何かにつけて「型にはめたがる」のは、日本の特徴なのかもしれません。

その型を制度として作ったり、運営していくのに膨大な時間がかかってしまって、行政の担当者はもちろんのこと、声を上げている当事者も疲れきってしまうケースも少なくないのではないでしょうか。

また、型を作ったことで生まれる弊害もあると思うんです。たとえば、障害者手帳を得ることによってサービスは受けられるけれど、それによって「特別なひと」になってしまったり。障がい者である前に、1人の人間なのに。

マイノリティを助けるための施策が、マイノリティの孤立を助長するようなことは、絶対にあってはならないことだと思います。私たちに必要なのは、一つひとつのマイノリティを「少数派の助けるべき人たち」として受け入れる姿勢ではなく、「みんなちがって、みんないい」とすべての個性を認めて尊重する意識なのかもしれません。

イヤだなと感じる人だって、生まれた時は無垢な赤ちゃんだった

【写真】微笑んでインタビューに応えるよしおかりよさん

当たり前の話ですが、世の中にはたくさんの人がいます。そして、いい人ばかりではありません。自分と相性が合わなくてイヤだなと感じる人もいれば、人をおとしめるような犯罪に手を染めてしまう人もいます。立場上、常にあらゆる人の味方であり続けなければならない利代さんですが、イヤな人と向き合う際にはどうしているのでしょうか。

最近ようやく言葉にできるようになってきたんですけど……自分がイヤだなと思う人たちも、生まれた時はみんなかわいい赤ちゃんなんですよね。それは、たとえば今人権侵害を犯してしまっている人も同じで。無垢な赤ちゃんから犯罪者になるまでには、その途中の環境に必ず何かしらの問題があったはず。

イヤな人と向き合う時には、どこに踏み外してしまうきっかけが、原因があったのかを見つめていきたいと思っています。

もし、自分の命を犠牲にしてまでテロ行為に及ぼうとする人が、そのありあまるエネルギーを社会貢献に注いでいたら……そう考えると、彼らの道を踏み外した原因を知り、同じ道をたどる人が出ないようにすることは、悲劇を未然に防ぐこと以上に大きな意味を持つ行為になり得ると感じます。

一方で、利代さんは「苦手だと思った人とは、反射的に離れてしまったり、忘れてしまったりすることが多い」と言います。

多分、自分を守るために無意識でしているんだと思います。ネガティブな感情を持つのってしんどいし、結構エネルギーが要るじゃないですか。私、そこに注ぐエネルギーがあるなら、その分もっと好きな人にエネルギーを使っていきたいんです。自分にとっての「好き」のために使うエネルギーは、どんなにあっても足りないくらいなので。

社会貢献は、それぞれができる範囲でやればいい

HUMAN RIGHTS WATCHチャリティーディナーにて。

HUMAN RIGHTS WATCHチャリティーディナーにて。

社会貢献やボランティアの周辺には、「偽善」という言葉がついて回ります。東日本大震災の初めてテレビで目の当たりにした時、誰もが直感的に「何か手助けになることをしたい」と感じたことでしょう。

しかし、「善意の押し売りにならないか」「本当に求められていることは何なのか」と思い悩み、具体的な行動を起こせなかった人も、少なからずいると思います。私もあの時は、そうやってややこしく考えすぎた結果、「何かしたいけど、何もできない」状態に陥ってしまった1人でした。

日頃から社会貢献的な活動にかかわっていない人間が、ふとしたきっかけで「社会のために何かできることはないか」と思い立った時、どんな心持ちで向き合ったらいいのか……そんな個人的な疑問を利代さんにぶつけてみたところ、優しくこう答えてくれました。

私は、それぞれができる範囲で、できることをやればいいと思っています。難しく考えすぎて疲弊したり、何もできなくなってしまったりするのは本末転倒で、とてももったいないことです。

たとえ周りから「偽善」と言われようとも、自分のハッピー度が高まるような形で、少しでも社会のハッピー度を上げられることがあるのならば、それは絶対に間違いじゃない。

コンビニに置いてある募金箱にお釣りを入れることでも、自分の好きなアーティストが出るチャリティーイベントに行くことでも、会社のCSR活動に参加することでも、なんでもいいんですよ。

とは言え、他人のためにする行為が、自己満足に終始してしまうような事態は避けたいところ。性善的な人間であればあるほど、「自分のやっていることが自己満足になっていないか」という恐れを抱きがちな気もします。ボランティアが自己満足にならないために、私たちはどんな意識を持っていたらいいのでしょうか。

難しい問題ですね。私もさまざまな支援の形を見てきましたが、ニーズとサプライが完全に一致することは、ほぼ不可能に近いことだと思っています。他人の気持ちを100%理解することはできないから、それは致し方ないことなのかもしれません。

他人との隔たりはなくならない。けれども、そのギャップを限りなくゼロに近づけることはできるはず。そこで必要になってくるのが「情報」と「想像力」だと、利代さんは続けます。

他人のために何かしたいと思ったら、まずはあらゆる手段を使って情報を集めます。その情報をもとに「自分が相手の状況に置かれたら何を求めるか」と、ひたすら想像するんです。そして、想像をもとに行動を起こす。行動を起こせば、現場の情報が入ってくる。情報収集、想像、行動……このサイクルを繰り返すことで、支援者と被支援者の間にあるギャップは、きっと少しずつ縮まっていきます。

「社会問題」ではなく、「みんなで幸せになるためのプロセス」だと捉える

【写真】微笑んでインタビューに応えるよしおかりよさん

「情報」と「想像力」の大切さについて、利代さんはさらに言葉を広げます。

私は、あらゆる差別は「情報と想像力の欠如によって生まれるもの」だと考えています。自分とは違うもの、自分が理解できないものに、人は恐怖を感じるから。

だからこそ、差別をなくすためにはマイノリティについて正しい「情報」を知り、「想像力」で相手の痛みを推し量ることも大切です。さらに、利代さんはもっと根本から「差別がなくなるために必要なこと」を考えていました。

そもそもの差別意識が芽生える原因は、自分の人生に対する不満なのかもしれません。満たされていれば、わざわざ他人を排除するようなことはしないはず。私たちは、自分のなかのどこかが不幸だと、もっと不幸な人を探してしまう……そうすれば安心だから。一人ひとりが幸せな人生を歩める世の中になれば、きっと差別はなくなります。

一人ひとりが幸せな人生を歩める世の中――そこには、マイノリティやマジョリティといった概念は必要なくなるでしょう。言葉にするとシンプルですが、これ以上に私たちが目指すべき社会像はありません。「そんな社会を実現するために、解決すべき問題はまだまだたくさん残っていますね」と言うと、利代さんはこんな言葉を返してくれました。

「社会問題」って言葉自体が、あまりよくないのかもしれませんね。問題って、ちょっと響きが重くるしくて、避けたくなっちゃう。

今、「社会問題」と見なされているさまざまなことを「みんなで幸せになるために必要なプロセス」として捉えるようにすれば、もっと多くの人が積極的に問題と向き合えるんじゃないかな……と感じています。暗すぎる話題に関心を持たせることは難しいから、どんな状況下でも前を向いて、明るいビジョンを描いていきたいですね。

【写真】笑顔で立っているよしおかりよさん

利代さんが向き合っている人権問題は、いくつもの原因が複雑に重なりあっていて、解決が困難なものばかりです。時には問題の根深さを感じて、途方に暮れることもあると思います。たくさんの暗い現実を見てきてもなお、「前を向いて、明るいビジョンを」と語る利代さんに、私は大きく勇気づけられました。悲観したって状況がよくなることはありません。無理をせず、まずは身の回りから「一人ひとりが幸せな人生を送れる世の中」に近づけるために、私も自分にできることを地道にやっていこうと、強く思いました。

 

関連リンク:

HUMAN RIGHTS  WATCH ホームページ

日本における社会的養護の子どもたち 調査報告書

 

(協力/森一貴)