【写真】車椅子を使って逆立ちをするかんばらけんたさん

初めてそのダンスを見たとき、私はいったい何をみたんだろう?と頭の中がぽかんと空白になったのを覚えています。

大きな車輪のついた車椅子から少しずつ腕に力が込められ、逆立ちになった先には折りたたまれた脚が。衣装に包まれ高く空に向かって伸びる姿は、車椅子と一つになったオブジェのよう。ただただ驚きながら情熱的な視線が印象的で、どうしようもなくそのパフォーマンスに惹きつけられている自分がいました。

動画の再生ボタンをリロードして、もう一度、もう一度、と繰り返し見て。何をどう思えばいいのか、どういうことなのか、わからない。でもまた見たくなる。もう一度、あのかっこいい姿を見たくなる。

「なんなんだろう、この人は」

会ってみたい。

先天性二分脊椎症という重度の身体障害を持って生まれたかんばらけんたさん。下半身に不自由があり幼い頃から車椅子を利用している彼は、今、日本中、いえ、世界からも注目されている数少ない「車椅子ダンサー」です。そんな彼が、soarのインタビューに答えてくれることになり、私たちは、都内のダンススタジオで待ち合わせをしていました。

車椅子に乗って颯爽とやってきたかんばらさんは、水を飲んで、「じゃあ、まず踊りますか」と、インタビューを始める前に、私たちに取材陣にダンスを披露してくれました。

ダンスを始めたのは1年前。きっかけはかっこいい車椅子に乗りたかったから。

【写真】左手を地面について右手を空高く上げているかんばらけんたさん

すーっとどこまでも伸びていく手。バーン、と音を立てて車椅子が倒れるのに、見ているこちらがハッとするまもなく、ぐるぐると車輪と体が回転し始めます。体と車輪が揺れている様子を追いかける目が、いっときも離せなくなります。

タイヤがフロアをこするキュッキュという音さえも、ダンスの一部のようで、私たちは息もつかず、しばらくかんばらさんのダンスを見つめていました。

かんばらさんは、「SLOW LABEL」が行うパフォーマンスプロジェクト「SLOW MOVEMENT」や「Integrated Dance Company 響 Kyo」に所属するだけでなく、ソロでも舞台に立ち、リオ・パラリンピックの閉会式でパフォーマンスを披露するなど、その完成度の高い表現が今、注目を集めています。

キレのある体や、鍛え抜かれた筋肉、アクロバティックで観る人を唸らせる技。観客を魅了するパフォーマンスにどれほどの訓練を重ねてきたのだろう、と思ってしまいますが、驚くことに、かんばらさんがダンスを始めたのは1年ほど前。

白い車椅子があって。あ、あれに乗ってみたいなって思ったんですよね。パフォーマンス用の電動車椅子でタイヤの横に、太鼓がついてたり、羽みたいなスピーカーから音が出たりするんです。かっこいいなあって(笑)。それで、その車椅子を使ってパフォーマンスをしているSLOW LABELでダンサーの募集をしていて、友人も参加をしていたのもあって、じゃあ、僕もやってみようかなって。

【写真】車椅子に乗って笑顔でインタビューに応えるかんばらけんたさん

そう言いながら、スマホで白い車椅子を見せてくれるかんばらさん。「あのかっこいいのに乗ってみたいな」そのかんばらさんの言い方はまるで、いい新車を見かけたから乗ってみたい、というような口調でした。

まあ、そんな感じです(笑)。僕にとっては車椅子はずっと使っているものなんで。それから、スロームーブメントの舞台に出ることが決まって、踊るしかないということになったんです。それまではずっと運動はいろいろしていたけど、ダンスの経験はない。でも車椅子のダンスの新しい技なんて考えられる人はいないから、自然と自分で考えました。

かんばらさんは、普段、システムエンジニアをしているサラリーマンです。急に創作ダンスを自分で作って踊れと言われて、これほど人を魅了するパフォーマンスを披露できる人はなかなかいません。

車椅子の上で逆立ちするのは、小学校くらいの時からできて。友達の前でやって、「すごいだろ!」って自慢してたんですよ(笑)。何かそういう、人に「すげーっ!」って言ってもらえるのが楽しい、という素質はあったんでしょうね、昔から。

それに、とかんばらさんは少し嬉しそうに小さな時の様子を話してくれました。

実家が神戸の山の方にあるんです。駅から家まで結構な距離の坂道を30分かけて上り下りしたり、あと自分の部屋がなぜか家の二階に作られてて(笑)、家の中では車椅子は降りて生活していたから毎日腕の力で這って階段を上り下りしなくちゃいけなかった。そういう生活の中で、腕とか体が鍛えられていった、というのはあるでしょうね。

【写真】笑顔でインタビューに応えるかんばらけんたさん

生まれた時から持っている重い障害。母や友人が「自然に」接してくれた。

先天性二分脊椎症ーーこれは胎内にいる時に脊椎が何らかの理由で形成不全になり、神経が切断されてしまう障害のこと。そのために、かんばらさんの体には、下半身に麻痺や感覚の弱さ、脊椎が片側に曲がる側弯(そくわん)などの症状が出ています。

背骨と背骨の間に脂肪の塊のようなコブがあって生まれてきたんです。その塊が神経を圧迫している状態で。生まれすぐその塊をとる手術を、10時間くらいかけて行ったんですがイメージとしては下半身には交通事故で背骨をボキッと折っちゃった人と同じ状態ですね。あ、でも腰から下の感覚が弱いと言っても、動かないってわけでもないんです。ほらこれ。

そう言って、かんばらさんは片足を持って、くいくいと動かしてくれました。

左は動くんです。でも右は、動かない。感覚も途中までしかない。はずなんですが、じーっと見て力を入れるとピクピクって動いたりもするんですよ。だから単純に動かないってわけじゃないし、他にも足の変形だったり、足の筋が張ってしまって伸びないとか、側弯があったりだとか、結構複雑で、障害にはいろいろなことが絡んでますね。

最初、身体の障害について具体的に質問をする時、どうしてもどこかで緊張してしまう自分がいました。その力みや緊張をかんばらさんは、和らげてくれるように、あるいはわかっていて無視するかのように、淡々と軽やかに質問に答えます。話をしていくうちに、「へえ、そうなんだ。そんなふうに感じるんだ」と知らないことを知る、純粋な好奇心さえ生まれてくるようで、どんどん質問が湧いてきます。

幼い頃、神戸の急な坂道を車椅子で上り下りしていたというかんばらさんが、学校で逆立ちをして同級生を驚かせていたかんばらさんが、きっとたくさんの友だちに愛される人気者だったんだろうな、というのは、容易に想像できます。

中学のとき3階の教室まで行くのに、神輿みたいにわっしょいわっしょいって全力ダッシュで担いで連れてかれたりとか(笑)。もちろん、手伝ってもらってるんだけど、介護とかそういうことでなく、できないことに普通に手を貸してくれる、もしくは遊ばれてるみたいな感じで(笑)。そんなふうにみんな自然に接してくれてましたね。

足が不自由な息子にあえて2階の部屋を使わせたり、支援学校ではなく普通の幼稚園や小学校に通わせ、山登りなどの行事にも積極的に参加させた、というお母さんもまた、かんばらさんの基盤を作った人です。

小さい時からあちこち連れて行かれてましたし、母親に言われて幼稚園から水泳を始めたりしていました。あとから聞くと、いろんな体験をさせておきたかった、というのは言ってくれてました。例えば学校で山登りがある、という時に「あんたは行きたいの? 行きたくないの?」と聞かれるんです。僕は、みんなが行くんだし、当然行きたい。「行きたい」と答えたら、おんぶをして連れて行ってくれましたね。

「弟の足は動くの?」と聞いた5歳の頃。10歳で、もう治らないと知った日。

ご両親や友人の支えもありながら、色々なことを、他の友達と一緒に、経験することが当たり前だったというかんばらさん。それでも、友だちにはできていることが自分にはできない、と少しずつ感じるようになっていきます。

急にというわけではないので、はっきりしませんが、幼稚園の頃から違いは感じていましたね。5歳の時に弟が生まれて、最初に親に聞いたのが「弟は足は動くの?」ってことだったんです。親が「動くよ」と言ったのを聞いて、「ああ、よかった」って答えたんですよね。だから、多分やっぱり、自分の足は人とは違うし、不便なものというか、よくないものっていう気持ちは多分5歳、4歳くらいから持っていたんでしょうね。

小学校に上がり、かけっこや運動をする時間が増えると、ますます自分にはできないことが多い、と思うことが増えていきます。ターニングポイントは小学校3年生の時でした。

親に「なんで歩けないの?」って聞いたんです。それまで、リハビリをしていても、「歩けるようになろうね」みたいな感じでしていたんですね。でも、だんだん治らないというのがわかっていって。その時僕が「もう一生歩けないの?」ということを聞いたらしいんです。そして親も正直に話した。と、母がそう言ってました。僕は、母と話して一緒にわーっと泣いた、という記憶はあるけれど、頭の中が真っ白になってて、全然詳しい内容は覚えていなんです。

でもそこからですね、徐々にですけど、障害を受け入れていくようになったのは。

障害は妥協。面倒だけど、付き合っていくしかないもの。

自分の足はもう治らない。そのことを知ったからといって、簡単に全てを「受け入れる」ということはできるはずもありません。かんばらさんも「だんだん」自分の体のことを受け入れていきました。

「自分のことを受け入れる」といえばきれいだけど、「妥協」です。もう付き合っていくしか仕方ないから付き合っていく、っていうことですね。障害の受け入れ方や付き合い方は、人それぞれだし、人それぞれでいいと思うんです。本人が自分が楽なように、受け入れるしかないと思うから。だから僕の場合は、ということですが、僕はよく言われるように障害を”個性”というふうには捉えていないんです。もちろんそう考える人のことを否定するわけじゃないけど、僕にとってはやっぱり個性という言葉では説明できないものがあるんですよね。

身体に重度の障害があるということは、日常生活を営むだけでも、他からは想像しきれないほどのつまづきがあるはずです。その自分の障害を受け入れるということについて、かんばらさんはこんなふうに言いました。

本当に、めんどくさいことも多いし、大変だし。でも、仕方ないというか。じゃあこの制限の中でどうするかっていうことです。階段一つ登るのも大変だし、不便で、面倒なことが多い。いろんな場面で、自分にはできないことがあるんですよ。たとえば、旅行中、景色のいい場所にあるお寺に登ってお参りしたいな、と思うじゃないですか。でもできない。誰かに運んでもらえばできるんだけど、すぐにはできないですよね。嫌だな、と思うことの積み重ねです。でも仕方がない。その制限の中でどうやったらできるか、という工夫をするしかない。そういう繰り返しで、だんだん、吹っ切れるようになっていった、という感じかな。

【写真】真剣な表情でインタビューに応えるかんばらけんたさん

できないことがあるたびに「工夫」をする。どうすれば、自分にもできるようになるか、そのことを考える癖が、次第に身についていきます。

できなくても工夫をしなさい、という教育を受けてきたというのもあるんですけど、僕の中でできることとできないことの区別がはっきりしているんです。「これはできない」、「これは必死に頑張ればできる」とか、整理がついているんですよね。

小さな段差ならスピードを緩めずに進むことができる。
階段を這って登ることはできる。
エスカレーターに車椅子ごと乗ることもできる。
長い階段を車椅子を持って登ることはできない。
料理も掃除も洗濯もできる。
でもそのために段差を作ったり、道具の位置を変えたりちょっとした工夫は必要。

そんなふうに、かんばらさんの日常は、はっきりと識別されているのだそう。

でも、本当は僕、車椅子を引きずって階段を登ることもできるんですよ(笑)。

そういうと、「え? どうやって?」と口を開けている私たちの前で、さっと車椅子からおり、かんばらさんは一段ずつ階段を登り、椅子を持ち上げる動作をして見せてくれました。【写真】車椅子から降り、地面に座って車椅子の足の部分をもつかんばらけんたさん

でも駅でこんなことしてたら、みんなパニックになるじゃないですか(笑)。僕自身も大変だし。だからそういう”必死感が強い”って僕は言ってるんですけど、そういうことは人に頼むようにしています。

自分にできることはする。できないことや苦手なことは助けてもらうかもしれない。誰だって、毎日そんなふうに生きているはずです。障害のある人だから、助けてもらうのが当たり前、助けてあげるのが当たり前、といったそんな感覚さえ、どこかでずれているんだなあ、とかんばらさんとお話をしていると自然に気づいていきます。

東京の地下鉄って、階段が多いじゃないですか。「お願いできますか?」と声をかけたらたいていの人は断らず助けてくれますよ。この間も、わっとスーツ姿の4人が集まって運んでくれて、運んでる最中もスーツの人の大きいバッグを、おばさんが来て持ってくれたりだとか(笑)。最後6人7人くらいにありがとうございますを言うような、ほっこりしたエピソードもありますよ。

【写真】笑顔でインタビューに応えるかんばらけんたさんとライターのたまいこやすこさん

結婚相手には、手を貸してもらってるけど、普通に助けあえてると思う。

大人になって、上京し一人暮らしを始めた時のことを、かんばらさんは「普通に親元を離れる不安があって、普通に大変だった」と振り返ります。そして普通に、楽しかった。

東京にきて、SEの仕事につき仕事を始めたかんばらさん。ボランティアで福祉関係の団体のホームページ作りを手伝っていたところ、現在の奥様となる女性と出会いました。

あんまり、がっつり連絡先聞いて、とかはしなかったですけど(笑)。Facebookでつながって。お互いの投稿の感じが似ていたりだとか、共通のミュージシャンが好きだったりということがあって、出かけるようになったんです。

1年ほどお付き合いを重ね、結婚を考えた時、障害のことが立ち上がってきました。でもそれもかんばらさんにとっては想定の中のこと。この時もかんばらさんは、普通にそのことに向き合いました。

結婚したい、しよう、ってなって、相手のご両親に会おうとしたとき、彼女に『まだ両親が受け入れられないから、ちょっと待って』って言われたんです。まあ当然だろうなって、思いましたね。だって障害は、明らかにマイナスの要素ですよね。無職のミュージシャン志望が結婚を申し込み、とかそういう感じと同じですよ、相手にしたら(笑)。自分の障害は受け入れてるけど、マイナスの印象を与えるってことを、僕はわかってるから、だからそこで凹んでも仕方ないと思って。

かといって諦めるつもりも全然なかったから、彼女にも「3年くらいかけてゆっくり理解してもらえばいい。無理やり押し切るのはやめよう」って伝えたんです。でもしばらくして会う機会があってお会いしたら、キャラをわかってもらって、そこからは話が進んで。今もすごく仲良くしてもらってます。

お互いキレにくい性格だから、と笑うご夫婦は、喧嘩もほとんどなく2年ほどの結婚生活を円満に過ごしているそう。

結構家事もするんですよ。スケボーを使って洗濯物を運んだりとか、ハンディ掃除機で掃除をしたりだとか。妻も、特に、日常生活で僕を”助けてる”感覚はないっていつも言ってくれてます。僕も、そう思ってます。

新婚旅行はキューバとメキシコ。かんばらさんは行けるかどうか迷ったといいますが、奥様の「階段があるなら私が運ぶから行こう」という言葉で決断。行動に制限を持たせない二人の生き方を象徴するような楽しい旅行になったといいます。そして今、ダンスパフォーマンスを通して、発信を続けるかんばらさんを、奥様はそばで見つめています。

でもずっと見てくれてるからこそ厳しくて。あの演技、失敗したね。とか、イマイチ、とかよく見てくれています(笑)。だからこそ、「今回はすごくよかった」って言ってくれたら、嬉しいですよね。

ダンスを始めて、ダンスをする時だけは、この脚を見せようと思うようになった。

【写真】地面に座って車椅子のホイールを持ち上げるかんばらけんたさん

かんばらさんのダンスやパフォーマンスには、「車椅子」や「障害のある足」という”道具”が付随してきます。そのことが、かんばらさんのパフォーマンスを唯一無二にしているのですが、それだけにご自身は、そのことを「技に頼ってしまってる」という言い方をします。

本当はもっと、ダンスのスキルを磨きたい。もっともっとちゃんと踊れるようになりたいって思ってます。かっこいいダンスをしたい。

十分かっこいいのだけれど……、と思う気持ちを口に出さずうなづくと、かんばらさんはこう続けました。

でも、自分の感覚のない脚に対して、変形している脚だからこそ、最後にこの脚を見せるポーズで終わったり、ということは意図的にしています。わざと脚の形が目立つようなダンス衣装をOKとしたりだとか。変形して、見た目は悪いけれど、それをわざと見せつけるような振り付けを考えたり、というのも、ダンスをして初めてするようになったことです。

【写真】ズボンをめくって自分の足を見せてくれたかんばらけんたさん。足は成人男性と比べると非常に細い

自分の障害があらわになっている肉体の部分を見せる。それは勇気がいることなのだと思います。ダンスを通して自分の障害への意識が変わったのですか、という質問については、即座にこう答えました。

それは、ないです。僕は、自分の障害をもう受け入れている。だからダンスをすることで、障害への気持ちが変わったっていうことは、ありません。でも、今までは、見せたくなかった脚を、ダンスをしている時だけは、見せてもいい、見せようと思うんです。最後にバン!とこれを見せると、ドキッとするでしょう。そういうインパクトをつけたい、という思いがあるんですね。

これまでは隠せるなら隠したいと思っていた、という脚。
今も日常生活でわざわざ人に見せようとは思わなけれど、ダンスのときだけは、これを使ってやろう、と思う。

ダンスを初めて、1年、今、かんばらさんの人生は大きく展開しています。

リオ・パラリンピック閉会式を経て。新しいパフォーマンスの挑戦へ。

【写真】車椅子を使って逆立ちをするかんばらけんたさん

今年開催されたリオ・パラリンピックの閉会式では、大勢のダンサーの中、かんばらさんにはソロパートが与えられ、その中で、得意の「ろくろ」と呼ぶ技を披露しました。

倒した車輪に乗ってくるくると回るパフォーマンスですね。リオでは振付師の方がいらして他のメンバーと一緒に踊るはずだったのに、2日前に突然、僕だけ車椅子を横に倒してろくろをしてしましょうってなったんです。その前後の振り付けも変えて。あまり緊張してないつもりだったのに、急に「大丈夫かな?」って頭がいっぱいになりましたね。

【写真】車椅子の車輪の上に乗り、腕を大きく広げるかんばらけんたさん

6万人以上の観客がいる中、国歌斉唱を歌った時が緊張のピークだったというかんばらさんですが、持ち前の精神力で、本番では肝が座った素晴らしい演技を披露。地鳴りのような大歓声が鳴り響く中、かんばらさんは東京で開かれるパラリンピックを思っていました。


<リオ・パラリンピック閉会式でのパフォーマンス。かんばらさん出演は8分25秒ころ>

歓声が上がって、空気がビリビリ揺れるんです。あれが、東京に来るんだなあって。以前は、東京パラリンピックで踊れたら、という思いがあったんです。でもリオに出られてしまったので、自分が絶対出たいという欲みたいなのはなくなりました。ただ、オリンピックを楽しんだ人が、2週間後にあるパラリンピックも楽しもうという気持ちになるような、パラリンピックにも関心を持ってもらえる人を増やすための活動はしていきたい、と思っています。

現在は、ダンスだけでなく空中ブランコの練習にも励んでいるというかんばらさん。自分の肉体だけでなく表現にも、もっと磨きをかけていきたいと語る瞳には、ダンスを踊っている時と同じ情熱が宿っていました。

舞台にいっぱい立ちたいとか、そういうことでなく、一つ一つ意味のある活動はしたいと思っています。先日も小学校に行って踊らせてもらって。全然車椅子の人に接したことがない子どもたちも、ダンスをみるとわーって盛り上がってくれて。いろんな質問をしてくれるんです。「一輪車は乗れますか?」とかね(笑)。「足細いけど、太くなりますか?」とか、そんな質問が出るんだ、っていう(笑)。

でもそれで、最初はかわいそうな人っていう感じだった子どもたちが、楽しそうだなって思ってくれるようになるのは嬉しい。普通に健常者と障害のある人が接する機会が増えたらいいな、と思っています。実際に僕自身、他の障害を持つ人との接点がなかったのが、ダンスを通してダウン症の子どもたちと知り合えたりして、広がった。ダンスがそのきっかけ作りになったら、という思いで活動を続けていきたいです。

障害者ダンサーだから、ではなく、かっこいいダンスを通して伝えたいことがある。

【写真】笑顔でインタビューに応えるかんばらけんたさん

車椅子ダンサー、という肩書きを持ちながらも、障害者としてどこまで踊れるか、ではなくあくまで、ダンサーとしてどれほどのパフォーマンスができるかを追求している、とかんばらさんはいいます。

普段、僕は自分の踊りにメッセージ性は込めないようにしていて。だって、車椅子で踊ってるってそれだけでもうメッセージじゃないですか。みなさん、自分で勝手にいろいろと考えたり感じ取ってくれる。でも、そこだけじゃ嫌で。車椅子だからとかじゃなくて、かっこいいな、面白いなと思ってもらえたら、そこから足が悪くてもダンスがそこまで楽しめるんだとか、自分もやってみたいとか、そういうことを考えてもらえると思うんですよね。だから、僕自身が目指しているのは、ちゃんとした、質の高い踊りをできるようになる、ということですね。

お会いした瞬間から、ずっと、かんばらさんの周りにはすーっとまっすぐな風が吹いているようでした。

自分の思いや経験したものの大きな渦の中で、ぶれない。どんな質問に対しても、まっすぐに目を見て即答してくれる、ゆらぎのなさ。

そうしたものが、どこから培われてきたのか、お話を通して伝わってくるものがたくさんありました。

かんばらさんはご自身のことを「別にメンタルが強いわけじゃない」と笑います。障害を運命だとか、個性だとか、意味のあるもの、と捉える方向にも向かない。むしろそれは、たまたま悪いくじを引いてしまった、ということだと思う。

でも、幼い日から、日々目の前に出てくるハードルを、どうやったら飛び越えることができるのか、きれいに、かっこよく、楽しく、飛び越えて走っていけるのかを考え続けてきたかんばらさんの姿は、間違いなく強く、日々、私なりの小さな石につまづくことがある自分の弱さに風を通してくれたようでした。

【写真】街道で車椅子に乗って移動するかんばらけんたさん

帰り道、駅までの道を取材陣と歩きながら、「あの、僕、今みなさんに合わせてゆっくり進んでますけど、いつももうちょっと速いんですよ」と言われ、「あ、じゃあいつものスピードでお願いします」と答えるやいなや、「あ!」っと言う間に、かんばらさんは私たちをおいて、ずっと先に走って行ってしまいました。

大笑いしながら追いかける私たちを振り返って、悪戯っぽく笑うかんばらさんを見ながら、今後、ますますかんばらさんのパフォーマンスが多くの人の目に触れ、多くの方の心に風が通って行くんだろうな、と確信を強く持ちました。

(写真/加藤甫、協力/松本綾香)