ある日、とつぜん、それまで「当たりまえ」にあったものを失うことになったら……。その衝撃には、はかり知れないものがあります。
他人からすると、それは、その人の“一部”に過ぎないかもしれない。
だけど、本人にとっては、たとえそれがとても小さな一部であったとしても、全体を歪めてしまうほどの大きな力をもって、その後の人生に影響を与えることもあるのではないでしょうか。
倉澤奈津子さんにとって、その“一部”は右腕でした。
40代で骨のがんである骨肉腫であることがわかると、生きるために、右腕を肩甲骨から大きく離断する決断を迫られます。「とても腕を失って生きていくイメージなど持てなかった」と、倉澤さんはいいます。
それから6年。今ではまっすぐな目でこう話してくれます。
「右腕を失くす前の私より、“今の私”が好き。欲しいものは欲しいと言える強さがもてたから」
なぜ、大切なものを失っても、倉澤さんは自分を好きになることができたのでしょうか。受け入れるだけでも大変な状況を、“前よりも好き”とは、なかなか言える言葉ではないはずです。
私たちは、その“強さ”の理由が知りたくて、倉澤さんのもとを訪れました。
大切なものを失ったその後、一人の女性が前を向いて歩いていけるようになるまでのプロセスを、みなさんと共有できればうれしいです。
「NPO法人Mission ARM Japan」の活動を支える、社会で働く女性の”凛とした背中”
初めてお会いしたときの“倉澤さんの背中”を、私は、はっきりと覚えています。
それは、天井の高い都会的なオフィスビルの一角でした。私たち取材陣の前を歩く倉澤さんの後ろ姿は、細くて、白い首筋に向かってまっすぐに伸びていく背中がとてもきれいでした。そのためでしょうか。不思議と、倉澤さんの失った右腕部分に目がいくことはありませんでした。
私は、その背中に、社会で働く人特有の“凛とした強さ”を見たような気がしました。
病気になる前は、今とはまったくちがう “自分らしさ”を生きていた
倉澤さんは今、上肢障害者のコミュニティ「NPO法人Mission ARM Japan(以下MAJ)」の代表として、上肢に障害がある方の新たな可能性を追求しています。
上肢障害者だけでなく、医療関係者やエンジニアなど、さまざまなフィールドで活躍する人たち同士をつなぐハブとなって活動しています。
新たなニーズを掘り起こし、玩具、食器、衣服などのプロダクトも開発中だそうです。
新たな境地を、ぐんぐんひらいていく倉澤さん。
私ははじめ、活動に関わる多くの人たちが、倉澤さんの、その凛とした背中について行っているのだと思いました。倉澤さんが、幼い頃からそうしたリーダーシップをたずさえて生きてきた人なのだろう、と。
しかし、インタビューをはじめてすぐに、倉澤さんはひかえめにこう切り出します。
倉澤さん:表に立って人を引っ張っていくなんて、ぜんぜん。学生時代から部長というよりは副部長タイプだったんです。みんなを影からサポートしていくような役回りが気持ち良くて。
人の意見にも流されやすいんですよ。短大卒業後は言われるがまま父と同じ銀行に勤めていたくらい。すぐに辞めちゃいましたけどね
その後は、さまざまな業種で派遣社員やパートとして働いてきたそうです。プライベートでは、結婚、出産を経て、二人の娘さんのお母さんとして家族をサポートしてきました。
たとえ生きられなくても手術はしない。頑な考えを変えるきっかけは、ある女性との出会い
そんな日常が失われたのは6年前のことです。職場仲間とボーリングをしに行った翌日、倉澤さんは、右腕に、これまでに感じたことのない“違和感”を覚えました。
倉澤さん:筋肉痛とはすこしちがって。はじめは五十肩かな、と思い、病院にも行きませんでした。でも、そのうちまったく腕が上がらなくなってしまって……。
はっきりとした診断がつくまでには2ヵ月がかかりました。そして、告げられたのは「骨肉腫」という病名。
骨肉腫は、主に小児の骨に発生する悪性腫瘍です。年間の発症者は約200〜300人(※)。けっしてよくある病気ではありません。10代での発症が大半で、倉澤さんのように、40代で発症することはめずらしいといいます。
治療では、一般的に、抗がん剤で腫瘍を小さくしてできるだけ手足を温存する方法がとられます。しかし、倉澤さんの場合、抗がん剤の効果がまったくありませんでした。
医師は、腕だけでなく、肩や肩甲骨から大きく離断する方法を勧めたといいます。
倉澤さん:『肩甲骨から取る!?何言っているの?』って。当時は腕を失うこと以上に、肩から取ってしまうイメージがまるでわかなくて。実際にそういう状態の人を見たことがなかったし、それって、体を半分失うのも同じでしょ?って思っていたんです。
倉澤さん:手術をしなければ余命は2年。では、手術をすれば確実に生きられるかというと、そういう保証もなかった。だったら、死期を待ち、緩和ケアを受ける方法もあるんじゃないかって。家族にもその気持ちは伝えていたんですね。
さらに、当時の倉澤さんは、眠ることもままならないほどの極度の痛みにも苦しんでいました。
倉澤さん:とにかく、一刻も早くこの苦痛から逃れたい、楽になりたいって思っていました。そのためならもう死んだってかまわない。そんな気持ちですよね
投げやりでもなんでもなく、倉澤さんのような極限状態にあれば、誰だって、一度は同じことを思うのではないでしょうか。「生きていてほしい」とは、きっと、家族でさえ容易に口にすることはできなかったはずです。
転機となったのは、医師からの一言でした。
倉澤さん:あなたと同じ病気で、3、4日前に腕を離断した同年代の女性が入院しています。どうですか。一度会ってみませんか?
その場では、「見知らぬ人に負担はかけられない。どうせ自分の気持ちは変わらないのだから」と、断ってしまった倉澤さん。
しかし、数日後、検査の順番待ちをしていた倉澤さんのもとに、一人の女性がやってきます。片腕のない女性。倉澤さんは、その姿にハッとしました。
倉澤さん:今思えば、病院側の配慮ですよね。もしかして……と思ってその女性に訊ねると、『そうですそうです!』って。『痛いですか?どうやって決断したんですか?』と、矢継ぎ早に質問する私に、彼女は『大丈夫よ。いい痛み止めがあるからぜんぜん平気よ!』って言って、にこにこしてくれたんですね。それが、すごく明るい笑顔で。
立って歩くこともできなくなる。日常のすべてがままならなくなる。腕を失ってからの自分をまったく想像できなかった倉澤さんにとって、点滴棒を持ち、自分の身の回りのことをこなすその女性の姿は驚きであり、希望でもありました。
その出会いをきっかけに、倉澤さんは考えを一変します。
倉澤さん:彼女が、なんだかすごくキラキラして見えたんですよね。きっと、落ち込んでいたはずなんです。それでも彼女は、彼女なりに精一杯の明るさを私に見せて励ましてくれた。私だけ『できない』なんて逃げていちゃいけないんだって思って。その日のうちに『私、手術を受けます!』と医師に伝えに行ったんです。
それからというもの、2人はいつも一緒でした。2人でいれば、不思議とネガティブな感情にとらわれることはなかったといいます。
倉澤さん:朝食についてきたバナナを見て、『どうやって皮を剝けっていうのよ!』って2人でつっこんだり、痛み止めのモルヒネの影響でハイになっている私を見て、彼女が『変だよ!』って(笑)。
さあ、歯磨き粉をどうやって歯ブラシにつけようか、どうやって髪を洗おうか、あらゆることが初めてづくしで、『どうすれば片手でもできるか』って、いつも2人で試行錯誤していました。まるで、部活動の合宿みたいでしたね。
失敗するから外出はしない。「腕を失くす前の自分にもどりたい」と引きこもっていた
退院後は、さっそくリハビリに励んだ倉澤さん。早い段階で家族のサポートは断っていたそうで、できるだけ、以前と変わらずに家族をサポートしていくことを心掛けていたといいます。
そこには、「以前の自分に戻りたい」「できないなりに迷惑はかけたくない」という母親としてのプライドもあったのかもしれません。
まずは、高校へ通う娘さんのお弁当作りからスタートしました。
倉澤さん:料理はずっとやりたくて仕方がなかったんです。卵焼きはできた。お弁当もまずまずって。入院中からパソコンだってメイクだって左手でできたし、だから他のことだってできるはずって。始めのうちはできることが増えていくのがうれしかったんですね。
だけど、当然、そのうち失敗することも出てきますよね。新たなことに挑戦すれば失敗してしまう。失敗すれば落ち込む。それを繰り返しているうちに、『失敗して落ち込みたくないから挑戦はしない』って、そう考えるようになってしまって。
特に、片手で包丁を使うことには、これまでに感じたことのない「恐怖」を感じたといいます。
倉澤さん:切ってしまう心配、というよりは、包丁を持つ手がぐらついて捻挫したらどうしようって。左手まで使えなくなったらって、そっちの心配ですよね。そう考えるだけで、何をするのもすごく恐くなってしまって。
万が一両手が使えなくなったら、排泄すら一人ではできない自分になってしまう。その不安や恐怖は、当事者でなければわからないものです。
倉澤さん:抗がん剤の影響で髪の毛が抜けていたので、ウィッグをつけて外出してみたこともありました。だけど、その先ではお財布を地面に落として泣きながら小銭を拾うことになったり、雨の日に傘が閉じられなくて、お店の前まで行って引き返してきたりして。
徐々に強まって言った「失敗するのが恐い」という感情。倉澤さんは、ついに外出すること自体を避けるようになります。職場に復帰したい気持ちは強くあったもののそれも叶わず、気づけば、引きこもりのような状態になっていました。
幻肢痛患者の“うらやましい”という言葉
そんな状況を変えたのは、当時、唯一の外出先である病院でのことでした。
重度の幻肢痛に苦しんでいる患者さんがいる。少しでいい、お話してもらえませんか?
医師は、倉澤さんに相談を持ちかけました。
実は倉澤さん。今でも、右腕には「幻肢痛」があるといいます。幻肢痛とは、四肢を切断した患者さんによく見られる、「あるはずのない手や足が痛む症状」のこと。脳の錯覚によって起こるそうですが、詳しいメカニズムや原因はまだわかっていません。
倉澤さんのように、長く腕を使っていて切断した人に発症しやすく、子どもや高齢者にはあまり見られないそうです。
倉澤さん:実際にはない部位の痛みって、痛み止めが効かないんですよね。痛みを理解してくれる人もなかなかいなくて。でも、私は、彼女にも幻肢痛があったのでよく電話していたんです。2人でよく電話口で慰めあっていました。
病院から紹介された幻肢痛患者さんは2名の男性でした。当日は、彼女にも声を掛けて4人で集まることに。すると、彼らは口々に「わかり合える相手がいていいなぁ」と、倉澤さんたちの関係をうらやましがったそうです。
それは、上肢障害者のリアルな“心の声“でした。
倉澤さん:彼女以外で、私と同じ立場にある人達の本音をきいたのはこの時が初めて。自分以上に孤独に痛みと向き合ってきた人が、実はもっとたくさんいるんじゃないかって気づいたんです。もしかして、こうして集まることには意味があるのかもしれないって。
やがて、その集まりは上肢障害者のための「定例会」となり、患者会「上肢の会」に発展していきます。参加者の数は回を重ねるごとに増え続けました。
しかし、私にはどうしてもわからないことがありました。
それは、こんなにもネットには情報が溢れているのに、なぜ、上肢に障害のある患者さんはこれまで繋がるチャンスがなかったのか、ということ。倉澤さんはこう答えてくれました。
倉澤さん:最初の頃はずいぶん検索したんです。同じ障害を負った人がどんなふうに生活しているのか、やっぱり気になりますから。でも、当時は「上肢 切断」でヒットするのは難しい義手の文献ばかり。下肢障害にはさまざまな情報があるのに、上肢となるとほとんど見あたらなかった。
やっと見つけた掲示板にも、つらい闘病生活が延々とつづられていました。パタリと更新が途切れてしまっているのを見ると、同じ病気を抱えているだけにつらい記憶がフラッシュバックしてしまって。
「そんなのは調べちゃダメだよ」と、仲間にも言われたそうです。
自分や家族に不調があると、すぐにネットを検索するという人は少なくないはずです。倉澤さんたちのような状況にあれば、知るべき情報の有無が、その後の人生や生き方にまで影響を与えることだって充分に考えられます。
翌年、医師や作業療法士などの医療関係者と共に「NPO法人 Mission ARM Japan」を設立した倉澤さんたち。これにより、手に入らない情報の「受け手」でしかなかった倉澤さんは、一気に、情報の「発信者」へとその役割を転換させていくことになります。
NPO法人Mission ARM Japanを始動。義手が、人と人をつなげるツールになる
2014年に設立した「NPO法人Mission ARM Japan(以下MAJ)」は、上肢障害者のQOL(生活の質)の向上を目指し、当事者だけでなく、上肢障害にかかわるあらゆる人たちに、「出会いの場」を提供するべく活動をスタートしました。
現在、おこなわれている定期的な交流会は、当事者同士で気持ちを共有し合う「Mカフェ」、アイディアの共有や開発に関するディスカッションの場である「W fab」の2つ。「ほしいをつくる、つくるをつなぐ」を合言葉に、集まった情報をフルに活用して、さまざまなプロダクトの開発にも取り組んでいます。
2015年には3Dプリンタによる筋電義手製作を手がけるexiii株式会社とタッグを組み、Google Impact Challengeのファイナリストに選ばれました。現在も「従来よりも安価でスタイリッシュな電動筋電義手の普及」をテーマに活動しています。

exiiiで筋電義手を開発していた近藤玄大さん。今はMAJでともに活動をしている
倉澤さん:exiiiさんの電動義手はすごいですよね。ロボティクスな見た目でこれまでとはまったくちがう反応を相手から引き出してくれる。握手をした相手が笑顔になり、健常者と障害者の壁を取り払うツールになってくれているんです。
義手は“つけない派”だったという倉澤さんでさえ、初めてその電動義手を見たときには、違う世界がひらけていくような気がしてワクワクしたといいます。
倉澤さん:今では当事者同士が腹を割って話すのにも一役かっているんです。障害をもっている人たちが”気持ちを共有する”となると、どうしてもネガティブに捉えられがち。特に、男性は女性以上に過去の経験にフタをしてしまうところがあって。それが、義手をはじめとする『物』を介すことで、すごく自然な形の交流につながっていっているんですよね。
上肢に障害のある人といっても、それが先天性なのか、事故によるものなのか、病気が原因かなどその背景はさまざまです。
倉澤さんは、どのようなことを意識して交流会を運営されているのでしょうか。
倉澤さん:義手一つとっても、実際に使われている人もいればそうじゃない人もいて、肯定派や否定派など、考え方は人それぞれですよね。
うちには先天性の赤ちゃんを連れていらっしゃるお母さんもいますが、そうした多様な価値観、見たこともない義手やあらゆる情報に触れることで、きっと、混乱してしまうこともあると思うんです。
倉澤さん:でも、私はもっと“混乱してもらえればいいな”って思います。私たちがいいと思うものを勧めるのは簡単かもしません。でも、私はこれをいいと思っているけれど、もっと違う義手も試してみようって。そうやって、みんなで一つひとつ経験を重ねていくことも交流会の前提にはあるんですよね。
かつて、明るく笑う彼女との出会いから手術を決断した倉澤さん。今は、倉澤さんたちが励ます側となっています。
倉澤さん:腕を切断するのはとても辛いことです。でも、その先には、同じ障害を抱えている人たちがすごく元気に集まっているから。少しでも楽しそうな私たちの姿を見せられればいいなって思うんです。
『今は入院中ですが元気になって参加します』と、メールをくださる人もいれば、参加を躊躇されている人たちもいるはず。そうした人たちにどうやって情報を発信していくのかというのは、私たちがずっと抱えている課題でもあるんですよね。
一貫してこだわってきた“肩パッドプロジェクト”。納得のいく自分を取り戻す
コミュニティを運営する一方、MAJでは、これまでに培ってきた情報を元に新たなプロダクトの開発も担っています。原点は、ユーザーの「こんなものが欲しい」というニーズにあるそうです。
倉澤さん:これまでの義手は『いかに義手によってできることを増やすか』という機能性ばかりにスポットが当たっていました。
でも、私は、義手には補助的に物を押さえられる機能があればそれでよくって。むしろ、膝やテーブルに手をのせたときに女性らしいラインを表現してくれるものが欲しいなって。それ以外にも、ネイルができる義手、ハレの日の義手、料理用の水に強い義手とか、これからはもっと、『選択の自由』を増やしていきたいと思っているんです。
中でも一貫してこだわってきたのが、「肩パッド」の開発。実は倉澤さん、入院した当初から、パジャマの肩部分に市販の肩パッドを縫い付けてもらっていたそうです。
倉澤さん:肩って、すごく重要。肩がないとどうしても服が着崩れてだらしなく見えてしまう。やっぱり、腕を失くしても“きちんと”していたいじゃないですか。
一般的な肩パッドは、肩の形状を整えるためのものです。しかし、倉澤さんが求めるのは、失った右肩の形状を再現する肩パッド。ハードルの高さは想像以上でした。
倉澤さん:最初に病院で処方された肩パッドは、革製の重いパッドをベルトでしっかりと体に装着するタイプ。でも、退院してすぐは体力が落ちていて、とても長くつけていることができなかったんですね。
そこで、軽くて楽に装着できる肩パッドを求めて、文化服装学院に協力を仰ぎました。1年間に渡る試行錯誤を経て辿り着いたのは、やわらかな布製の肩パッド。使用した倉澤さんの感想は、「他の肩離断の方にも使ってもらいたい」と思えるほどだったそうです。しかし、縫製によって肩の形状を再現するには高度なスキルと充分な時間が不可欠。人材の確保が課題だったといいます。
実際に使用していくうちに、新たな課題も見つかります。
倉澤さん:私のように肩から離断していると、発汗に必要な、脇、そして腕一本分の代謝が一般の人より少ないんです。そのぶん身体の内側には熱がこもりやすくて。これが、夏になるとけっこう切実な問題なんですよね。
理想は、軽くて、涼しくて、それでいて肌当たりがソフトなフィット性の高い肩パッド。風穴を開けたのは、MAJの開発チームの一員で現役大学院生の竹腰美夏さんの一言でした。
竹腰さん:肩の形状を再現するんですよね。それ、3Dプリンタでもできますよ。
それは、今ある倉澤さんの左肩をスキャンし、データを反転させて右肩として3Dプリントするという方法でした。
弾性力があり、長く人体に装着していても問題のない最先端の素材を使用することによって、フィット性はもとより、肌当たりが良く、それでいて重さは単1電池1本分の140g。これであれば、柔らかなベルトで固定すれば体への負担もわずかで済みます。
倉澤さん:まるでレースみたいに見えますよね。素材がキラキラしているので華やかさがあって。これなら、襟から少しくらい見えてもまるでアクセサリーか何かをつけているみたい。
これまでの肩パッドは、話しているときに相手の視線を感じることもよくあったから。これはすごくきれいだな、いいなって。
そう言って、うっとりと肩パッドを眺める倉澤さんの顔を見ていると、なんだかこちらまでうれしくなってきてしまいます。
肩パッドの役割は、あくまで倉澤さんの一部を取り戻すことにあります。ですが、倉澤さんが取り戻したかったのは、失った腕や肩という“一部”ではなく、“全体の印象”だったのではないでしょうか。
きちんとしていたい。それは、長く社会の中に生き、社会で働いてきた倉澤さんらしいこだわり。初めて会ったときの倉澤さんの背中が凛として見えたのは、そうした倉澤さんの“思い”が、そこに感じられたからなのかもしれません。
倉澤さん:この肩パッドができたことで、今後は、同じ悩みを抱えている人たちに、自分の姿を見てもらえるんじゃないかって気がしているんです。肩パッドを着けると、好きな服が着られるようになるってことを、もっと、みんなに知ってもらいたいって思うから。
焦らなくてもいい。試行錯誤を繰り返すことが自信につながるから
今年6月末から、倉澤さんは家族に相談して、より仕事に集中できる環境を求めて竹腰さんとの共同生活をスタートしています。
20歳以上も歳の差のある2人の生活。一体どのようなものかと訊ねると、予想もしなかったプロフェッショナルな答えが返ってきました。
竹腰さん:片手の人の身体性を理解する研究として、いつも倉澤さんの日常の動作を観察しているんです。たとえば製氷機の氷をどうやって取り出すのかな、とか。はじめは手を貸さずに黙って見ていてもいいのか迷うこともありましたが、倉澤さんは、『手を貸すよりも観察していて』って言ってくれたので、なるべくそうしています。
倉澤さんの「観察していて」という言葉には、こんな意図があります。
倉澤さん:最初の頃とはちがい、今は、怪我をしそうなとき、命にかかわるとき以外はほとんど人に頼ることがなくなりました。
それでも、自分のできないところ、格好悪いところをあえてみんなに見せていきたいっていう気持ちがあって。『大丈夫、できないのは自分だけじゃないんだ』って、勇気づけられる人もいると思うから。
そんなふうに思えるようになったのには、理由があるそうです。
倉澤さん:腕を失くしてから今年で6年目。今、私の左手歴はやっと小学1年生くらい。最近、苦手だった麺類が上手に食べられるようになってきました。
以前できたことができなくなってしまうと、最初は、焦ってしまうことも多いと思います。でも、焦らなくていいのかなって思うんです。工夫して試行錯誤を繰り返していくことが、自信に繋がっていくこともあると思うから。
目下の目標は、腕を肩から離断した男の子が、ランドセルを背負えるような肩パッドを作ること、だそう。
心機一転、仕事のために生活の場までかえた倉澤さん。とても、以前からは想像もつかない思い切った行動だったのでないでしょうか。
倉澤さん:そうかもしれません。私、腕を失くしてから、ずいぶん“我慢”しなくなったんですよね。今、竹腰さんと暮らし始めて開発のスピードが急速に増しているんです。そういう意味では、少し欲張りになったような気がしているんです。
自分を愛せない時期があった。今は、自分の人生を歩いていきたい
倉澤さん自身も言っているように、腕を失ってからの倉澤さんの変化には目を見張るものがあります。多くの人が、変わりたいのに変われない、そうしたジレンマを少なからず抱えているなか、なぜ、留まることなく成長していくことができるのでしょうか。
倉澤さん:それは、大切な”仲間”がいるからだと思います。以前、MAJの活動拠点を探していて『障害のある自分でもいいですか?』って訊ねたことがあって。そこのシェアオフィスのオーナーが、『何か手伝うことがあったら言ってください。障害のある人と接する機会のない自分にはいい勉強になるから』っておっしゃったんですよね。そのとき、ああ、頼ってもいいんだって、すごく勇気づけられたんです。
それからですよね。シェアオフィスを通じてたくさんの人に出会い、今の仲間たちと繋がっていける自分になれたのは。
倉澤さんは、腕を失う以前は「〇〇ちゃんのママ」「〇〇さんの奥さん」として長く過ごしてきたといいます。充実してはいたけれど、それは、どこか自分の人生を歩いている実感がもてなかったそうです。
倉澤さん:今、こうして私がMAJの活動に没頭して自分の身体を多くの人の前にさらけ出そうとしていることって、私の両親からすると、すごく心配なんです。私も親ですから、その気持ちはよくわかるんです。これまでの私なら諦めていたかもしれない。
少し潤んだ目で、倉澤さんはつづけます。
倉澤さん:でも、私には長く自分の身体を愛してあげられない時期があったから。今はもう、泣いて暮らしていくのは嫌だなって。きちんと自分の意志を伝えて、自分の人生を好きに歩いていきたいって思うようになったんです。腕を失ったことにはきっと意味がある。今は、こうなってむしろ幸せなんじゃないかって思えるようになってきているんです。
仲間が“右腕”となって本当の右腕以上のものを運んできてくれる。だから、私は強くなれた
最後に、「以前の倉澤さんと今の倉澤さん。どっちが好きですか?」という質問をしてみました。
倉澤さんは、一瞬、昔の自分を思い出すかのように天井を見上げてから、「今のほうが好きかもしれませんね」と笑います。
倉澤さん:最近よく思うんです。私が腕を失くした意味ってこういうことかな?って。それは、仕事のパートナーってよく『右腕』に例えられますよね。『自分の右腕として働いてくれた人』とか。
私は、自分の本当の右腕は失ってしまったけれど、実は、本当の右腕は今いる“仲間”なんじゃないかって思うんです。
今の私には仲間がいて、その仲間が、以前の右腕以上のさまざまな物を私に運んできてくれる。だから、私は強くいられるようになったんだと思います。
MAJの活動によって、上肢に障害をもつ人の状況はずいぶん変わってきたように思います。数年前までは情報すらなかったところから、倉澤さんの肩パッドをはじめとする多様なプロダクトが開発されるまでになりました。
ですが、倉澤さんが言うように、人の可能性を広げるのは「物」の力と共に、「人」の力によるところも大きいはず。人を介して物とつながり、物を介して人とつながる。大切なのは、「つながる」という行為そのものなのだと思います。
つながることで見えていく世界の広がりを、倉澤さんは私たちに見せてくれました。
劇的に変わる現実はない。小さな一歩を成功体験に変えて
NPO法人の代表として、アグレッシブに活躍する倉澤さんの変化には、共感を覚える一方、もしかすると「彼女だからできたこと」と、自分とは切り離して考えてしまう人もいるのかもしれません。
ですが、倉澤さんだって、階段を踏み飛ばしてそこに辿り着いたわけではありません。
見えるもの、見えないものに関わらず、人は生きていく限り、何かを失い、何かを得ながら前に進んでいきます。倉澤さんの人生がおしえてくれたのは、その失くしたものとの向き合い方でした。
何かを失ったとき、つらくてしかたがないとき、私は、つい、劇的に状況を変える方法を探してしまいます。だけど、もしそんな方法が見つからなかったとしても、焦ることはないのかもしれない。
倉澤さん:焦らなくていいのかなって思うんです。工夫して試行錯誤を繰り返していくことが、自信に繋がっていくこともあると思うから。
倉澤さんがそう教えてくれたように、どんなにつらくても、苦しくても、一歩一歩なら進んでいけるはず。小さな成功体験をひろい集めながら、ほんの少しの自信を積み上げながら、前を向いてコツコツと歩いていくことは、きっとできるはずです。
たとえ、そうしている自分が以前の自分とはちがったとしても、歩いているうちに、また、そんな自分を好きになれる日がくるのかもしれません。
その先に「ワクワクできる何か」が待っていると思えたなら、きっと、踏み出した一歩は、前よりちょっとだけ軽くなっているような気がします。
関連情報:
Mission ARM Japan ホームページ
exiii株式会社 ホームページ
※参照URL 効率研究開発法人国立がん研究センター希少がんセンター
http://www.ncc.go.jp/jp/rcc/01_about/bone_sarcomas/index.html
(写真/田島 寛久)