こんにちは、神原由佳です!
私は「眼皮膚白皮症」という疾患を持って生まれてきました。一般的には「アルビノ」と呼ばれています。アルビノは遺伝子疾患で、よく知られている症状としては、メラニン色素が作れないために金髪と青い瞳、白い肌といった特徴的な外見があります。
症状の出方は全身にわたる場合もあれば、眼球だけの場合もあります。髪の毛の色をとっても、メラニンの量によって赤毛や銀髪などがあり、様々なケースがあるのです。
私は現在、福祉系大学院の修士課程に在籍し、疾患などによって見た目(外見)に特徴がある人が直面する問題、「見た目問題」についての研究をしています。
ほかにも、アルビノ当事者と家族のための団体である「日本アルビニズムネットワーク」でお手伝いをしたり、精神障害者のグループホームでアルバイトをしたりと、少しずつ福祉に関わってきました。将来は、“やさしいソーシャルアクション”ができるソーシャルワーカーになることを目指しています。
今回は、私が生きてきた24年間を振り返りながら、これまでの経験をお話したいと思います。
「自分の子どもだから」、両親はそのままの私を受け入れてくれた
1993年、私は長女として生まれました。現在は父、母、私と愛犬の3人+1匹で暮らしています。自分で言うのもなんですが、私は生まれてから今日まで恵まれた環境で育ってきたと思います。
私が生まれた時、両親は白い肌や金髪などの外見をみてもさほど驚かなかったそうです。
(アルビノであることは)見ればわかるし、自分の子どもだから。
そんなふうに自然に受け入れたといいます。
私たち家族は、ふだんから疾患のことを話し合ったりはほとんどしてきていません。両親からは、身体機能へのフォローについて言ってもらうことくらいだったと思います。
というのも、アルビノの症状には、外見の違い以外にも弱視などの視力障害を伴うこともあります。また、肌の色が白いために日焼けをしやすく、皮膚がんを発症するリスクが高いため、日焼け対策も日常的に行う必要があります。
弱視のために、メガネを作る。日焼け止めクリームを使う、長袖を着る、帽子をかぶる。そういったことを気をつけるように教えてもらっただけで、私が生まれた時に両親がどう思っていたかはつい最近知りました。
人と違う外見であることに少しずつ気づいていく
私は幼い頃からおおらかでマイペースな性格で、幼稚園でも友達と優しい先生に囲まれて楽しく過ごしていました。
時にはいじわるやちょっかいをかけてくる男の子もいましたが、それよりも毎週あるプールの授業のほうが嫌だったくらいで、ほとんど気にしていませんでした。
小学校でも友達と担任の先生に恵まれます。ただ、低学年あたりから、自分の外見が人と違うことになんとなく気づいていきます。
きっかけのひとつは、工作の時間に描く似顔絵でした。
「鏡を見ながら自分の顔を描く」という授業でのこと。クラスメイトがせっせと描く中、私はなかなか画用紙にクレヨンを入れることができません。クレヨンの中には髪も肌も瞳も、私の色はどれ一つないからです。
それでも、なんとか時間内に完成をさせようと、色を混ぜたり私なりの努力をして、絵を仕上げました。
完成した絵は、黒板の上にクラス全員分が掲示されます。すると、黒と肌色で描かれた似顔絵の中に、黄色と薄い肌色と水色で描かれた私の絵だけが“浮いている”ように見えるのです。
その頃、国語の時間に、赤い魚の群れの中で、1人だけ黒い魚が一緒に暮らしている物語『スイミー』を知りました。そこでスイミーと私を重ね合わせたりもしましたが、私はスイミーのように、リーダーシップをとったり、何かに立ち向かう勇気などない…当時の私にはスイミーは遠い遠い存在のように思いました。
また、弱視へのフォローのために、授業中に短眼鏡やルーペを使用させてもらっていました。でも、そうした“特別扱い”が余計なお世話だと嫌な気持ちになり、さらに「できない」ということに恥ずかしさを感じていたのです。
こうした配慮を受けられることは「権利」なのだと認識できるようになったのは、本当に最近のこと。今思えば、あの頃の自分は本当に勝手だったとも思います。
「どうしてそんな色なの?」と疑問をぶつけられて
人と違うことを感じながらも、クラスメイトからなにか言われたり、いじめに遭うことはありませんでした。反対に、母子家庭の子や周りと少し違う発言をした子なんかが、そのことを指摘されたり、明らかに不平等な扱いを受けているのを見ることがあり、不思議でなりませんでした。
外見が違う私がいじめられず、別の健常者の子がいじめられているのはなんでだろう。
そんなことを思いながら、傍観者でいることしかできませんでした。
小学校卒業まで、私はアルビノという病気であることさえ知らず、ただただ自分への違和感だけが強くなっていったのです。
小学校高学年のとき、人から見た目についてなにも言われてこなかった私が、とうとう初めて外見について指摘される体験をします。
それは、ある日の昼休み、廊下を歩いていたとき。後ろから呼び止められ、振り向くと1年生くらいの男の子が立っていました。そして、純粋な表情でこう言いました。
お姉ちゃんは、どうしてそんな色なの?
それは、私が一番人から言われたくなかった言葉。
だけどその子の表情に悪意はこれっぽっちも感じません。純粋に「わからないから聞いた」ということはすぐにわかりました。だから、私はこの子を責めることはできないし、私が抱いている悔しさと悲しさを彼にぶつけてはいけない。
生まれつきだよ。
以前、母が私と歩いている時に人から聞かれて答えていたのと同じように、上級生らしく、そう答えました。
すると、その子は納得したようでした。
いっそのこと、悪意に満ちた質問だったらどれだけよかっただろう…だけど、誰も悪者ではありません。男の子も私も、そして両親も、誰も悪くない。だから、「人と違う」ことを指摘されて抱いたこのもやもやとして気持ちを、どこにぶつければいいのか分からず、ひとり悶々とする日々でした。
そんな矢先、市のスピーチコンテストが開催されるにあたって作文を書くことになりました。テーマは“人権”。
そこで私は感じていた思いを原稿にぶつけることにします。
見た目が人と違うことでなにか言われることもあるし、生きづらいと感じることもある。受け入れてもらうには伝えていかなければならないと思っている…そんな思いは文字となり、あっという間に原稿用紙は埋まりました。
そして学校代表に選出され、大会当日。両親と仲のいい友人が応援に来てくれて、とても嬉しかったです。
当時の私は、発表原稿にこんなことを書いていました。
かみの毛の色がちがうのが何がいけないのでしょうか。どうして、みんなと同じじゃないといけないんですか。これが私にとっての疑問です。
ステージの照明がまぶしくて、客席にいる人たちの顔ははっきり見えませんでした。だけど、その人影に向かって、最後まで訴え続けました。
結果は予選敗退。予選通過をしたのは聴覚障害のある子でした。その時私は「ああ、そうか」と妙に納得した気持ちを抱きました。身体障害と「見た目問題」を比較して、自分の中で勝手に「見た目問題」はわかってもらえないのだと、軽視してしまったのです。
さらに応援してもらったのにも関わらず、結果を残せなかった申し訳なさで、切ない帰り道でした。
今でもそうですが、私は親しい間柄であればあるほど、相手に本音を伝えることが苦手です。会話で伝えることが難しいのであれば、一度文章にしてから伝える“スピーチ”という表現は、当時の私にはぴったりの方法だったと思います。
なので、下級生から見た目について疑問をぶつけられた経験と、スピーチコンテストが重なったことは偶然ですが、2つの経験は今の私をつくっている大事な出来事です。
アルビノの情報に出会い、「自分は病気なんだ」と知った
アルビノであることを知らぬまま、私は小学校の卒業式を迎えました。
帰りの会で、6年間保存されていたであろう個人情報の書類が返却されました。先生は「大事なものだからちゃんと持って帰ってね」と注意を促します。
それが何だか秘密の書に見えて、わくわくしながら目を通しました。すると目に入ったのは、特記事項の欄にある“白皮症”の三文字。初めて見た言葉ではあったけれど、漢字の意味から何となく予測はつきました。
帰宅してからインターネットで検索をすると、結果の一番上に、kon-konのページというブログがヒット。それはアルビノの子どもの親御さんが運営する、病気の説明や子供の成長日記と、当事者同士の交流もできるサイトでした。
一番最初にアルビノの赤ちゃんの写真が掲載されていて、私にそっくりな赤ちゃんが画面の中にいました。それは思わず「私だ!」と思うほど。
こうして、私はアルビノという疾患であることを知り、自分が何者であるか分かった満足感と、「同じ状況の人もいるんだ」と安心感を持ちます。
一方でこれまで“人と外見が違う”と思っていたけれど、それは“病気”だったとわかってしまったことは、衝撃であり、心は揺らぎ続けました。
中学校入学を機に、吹奏楽部に入部しました。初めての上下関係は、自分にとっては厳しかったです。
弱視のため、譜読みに人一倍時間がかかってしまう私は、一人ペースを乱すと注意をされることもしばしばありました。今思えば被害妄想っぽいところもあったと思いますが、当時の私は、演奏のことよりも先輩の目が気になって仕方がなかったのです。
思春期真っただ中で、“人と外見が違う”ことに折り合いがついていない13歳の私は、部活のことも含め、本当に毎日がいっぱいいっぱいでした。
音楽は変わらず好きだったので、高校でも吹奏楽部に入部しました。3年生の進路選択では、一人っ子ということもあり、将来親の介護なども必要になるかもしれないから、福祉関連の資格取得ができそうな社会福祉学科を選択。社会福祉士/精神保健福祉士を目指すことにしました。
でも、この頃はまだ、社会福祉とはどんなもので、どう面白いのかさっぱりわかっていませんでした。
大学入学とともに多様な人たちに出会い、楽になれた
大学に入学すると、高校までの環境とは一変しました。
年齢、個性、障害、セクシュアリティが様々な人たち。制服や校則、年齢に縛られた金太郎飴みたいな環境から、一気にお菓子のバラエティーパックに放り込まれたような気分でした。
多様性に富んだ環境で、そこで初めて“同調圧力”のようなものから解放されて、私自身とても楽になりました。
友人たちがアルバイトを始める中で、私も当然、大学生になったらアルバイトをするものだと行動に移します。ところが、面接に行く先々で不採用になってしまったのです。
髪色が会社の規定外であるから。
黒髪に染めるのならば採用はできる。
他の人で採用が決まってしまったから。
その理由はさまざまでした。
私は高校生の頃は茶髪や黒髪に憧れていましたが、いざ大学生になって自由になると、髪を染めるにはお金や手間もかかるし、そこまでしてやりたいことではないと思うようになっていました。「髪は染めない」と意志が固まっていたので、染髪を要求されることが不採用になること以上に悔しかったです。雇用側の考えも頭ではわかっているものの、それでも枠からはみ出ることを良しとしてもらえないのか…これが日本の風潮なのかな、とも思いました。
そのかわりに、勉強と部活に専念する事に。友人の誘いもあって、吹奏楽部から心機一転してバスケットボール部のマネージャーをやることになり、引退する4年生の秋の大会までやり通しました。
“当事者性”の持つ可能性を感じ、「見た目問題」を研究
大学の授業では、児童・障害者・高齢者福祉など、確立された分野を学ぶことが多かったです。「見た目問題」や、制度に該当しないひとたちのことを学ぶ機会はほとんどありませんでした。自分もある種の“生きづらさ”みたいなものも感じていたので、授業では扱われない事に少し驚きました。
3年以降の実習の中で印象に残っているのは、総合病院で出会った患者さんです。今すぐにでも治療をしなければ命にかかわるような状態であるにもかかわらず、治療拒否をしている方でした。その患者さんの病床を何度か訪ねていくうちに、ある日こんなことを言われたのです。
あんたも大変でしょう。
びっくりしてしまいました。重篤な患者さんが他人(私)の心配をするとは思っていなかったからです。
病を背負う者同士、この患者さんは私を見て何か思うことがあったのかもしれません。そして私も、この患者さんを通して、病や障害と死ぬまで付き合っていくことに向き合い、“当事者性”の持つ可能性に気づきました。
ゼミでの卒論のテーマは「見た目問題」しか考えられませんでした。当事者だからこそリアルな想像ができるかもしれないし、違和感にも深く考察をすることができるのではないかと思ったからです。ただもちろん、同じ当事者だからといっても別の人間なので、「分かりきったように思ってしまう」のではなく、丁寧に行う必要があるとも考えています。
研究の中で当事者の書いた手記を読むほど、本の中に出てくるエピソードと私の経験とが乖離していきました。私もつらい思いはしたことがあるけれど、本の中の人々はもっとつらい人生がそこにはありました。
この違いは何なのか?
そして、「社会福祉士として何か得意分野がほしい」と思うようになり、大学院進学を決断しました。
「自分は子どもを持ってはいけない」と思い続けていた
修士論文は「『見た目問題』当事者の子どもを持つ親の語り」というテーマで研究をしました。
見た目に関するインタビューは、当事者が話すことが多く、親にフォーカスしたものは多くありません。生まれつき疾患がある等、見た目が周囲と違う子どもたちは、親がどう病気を捉えているかによって、その先の生き方が変わるのではないかとも思います。
様々なひとにインタビューをする中で、疾患を持つ子どもの親御さんたちは自分を責めたり、他者からジロジロ見られるなどの経験をしたり、自己肯定感が低くなってしまったりといったことがあるとわかりました。それでも、とても明るく話してくれましたし、親であることを“後悔していない感じ”がしていて、表情は晴れやかでした。
そんな親御さんたちに出会ううちに、自分の中にも変化が訪れます。
私は子どもの頃から漠然と、「アルビノである自分は子どもを持ってはいけない」と思っていました。その思いが、親御さんたちの話を聞くうちに弱くなっていきました。
母親になる選択肢も、“絶対にない”わけではないのかもしれない。
そんな風に考えられるようになったのです。
研究中、自身も、そして子どももまた特徴的な外見の当事者である、母親へのインタビューにも恵まれます。彼女の言葉からは重みや説得力とともに、なにより、今幸せなのだというメッセージを受け取りました。
その様子に、ゆらゆら揺れながら歩んできた私の生き方も、なんだか許してもらえたような気がしました。
多くの親御さんにインタビューを重ね、修士論文は完成。親御さん一人ひとりに、それぞれの“人生の物語”がありました。
私は研究を通して「自分は、家族はどういう人間なのか」を考え、見つめ直していたのだと思います。もちろん私の研究が人の役に立ったら嬉しいなと思いながら、でも「自分のため」でもあったのかもしれません。
なぜ私は、“普通に”愛されて育ててもらえるのだろう
なぜ私が「見た目問題の当事者の“親”」を研究テーマにしたのか。本当の理由は、両親に自分のことを聞いてみたかったからなのかもしれない。今はそう思っています。
ずっと、聞きたかったけど聞けなかったこと。それは、なんで私が両親から“普通に”愛されて育ててもらえるのかということです。
疑問だったけれど、それを聞いたら今まで受けてきた“普通”の恩恵をもう二度と受けられなくなってしまうのではないか…。両親は今まで疾患について話したくないから、私に話してこなかったのかもしれない…。
しばらく気持ちは揺れていました。
でも、今聞かなければもう二度と聞くチャンスはないかもしれない。
そう思い、研究という形でインタビュー依頼をしました。
そこで、両親は「病気の子どもとそのかぞく」という関係性にしたくないと考えていたこと。だから日頃からお互いあえて、病気のことには触れないで過ごしてきたことなどを知りました。
あなたはあなたのままで良い。病気があっても強く生きよう。
私の両親の場合はこういったこともあえて言いませんでした。それくらい“自然なこと”として受け止めてくれていたようです。
今が、娘にとって一番いい時だと思います。
私が以前出演したテレビ番組の事前取材に応じた母は、取材でこんなことを言ったそうです。ずっと私のことを“普通”に受け入れて、見守ってきてくれたこと、そして今の私を受け止めてくれていることがとても嬉しく、私はやっぱりこの家に生まれてきてよかったと心から思いました。
人を傷つけるのも、人を笑顔にするのも、すべて人
私は両親が“普通に”接してくれたから、今の自分があると思っています。もしかするとその分“普通”へのこだわりは強く、普通に扱ってもらえないときには違和感を持ってしまっているかもしれません。
例えば自分の安全圏のなかでは、家族も友達も普通に接してくれるけど、外に出ると“普通”ではないと見られている感じる。「特別な目で見られているなあ」と嫌な気持ちになることがあります。
でも、数分間嫌な気持ちにはなるけれど、その後引きずることはありません。そう思えるようになったのは、何度も何度も特別な視線を向けられながら、慣れていったからかもしれないです。今はそうした視線に怯えたりするということはありません。
見た目問題を研究しているけど、結局、神原はアルビノであることを生かしているよね。
以前大学の友人からこんなことを言われました。確かに人一倍顔を覚えてもらいやすかったり、アルビノだからこそ出会えた人、できた経験…人生悪いことばかりではありません。
昔、母親から「悪いことしたら人より目立つんだから、悪いことはしてはいけない」と言われたことがあります。けれど、それは逆の発想をすれば「いいことをすれば。その分人より目立つ」ということかもしれない。だとするならば、私はいいことや面白いことをたくさんしたいと思いました。
私は今、「見た目問題」当事者としての活動にも参加しています。一つは、当事者同士の交流やセミナーを通した家族支援を行う、日本アルビニズムネットワーク(以下JAN)。
もう一つは、アルビノだけではなく、アザや脱毛症、その他の「見た目」に特徴がある人たちが集まるNPO法人マイフェイス・マイスタイルです。違う疾患であっても同じ悩みを抱える人々が集うことで、共感できる部分が多々あり、JANとはまた異なった居心地のよさを感じています。
日常生活では、明るい色の服を着たり、遮光レンズが入ったおしゃれなメガネを着用したりして、アルビノ含めてトータルコーディネートを楽しむこともできています。
いつからかはわからないけれど、気づけば色々なことに折り合いつけられるようになったと気づきました。
今思うのは、人を傷つけるのも、人を笑顔にするのも、すべて人だということ。私は今日まで生きてきて、色々な人に育ててもらい、成長させてもらったということを実感しています。
私はこれからも、私のまわりにいる愛おしい人たちと一緒に生きていきたいです。
(写真/馬場加奈子)