初めまして!小林えみかです。
私は現在、大阪在住の24歳で口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)を患っています。
実は他にも、両耳が高度難聴に加えて、右耳は耳たぶが無く左耳は通常より小さい「小耳症」、今は閉じていますが心臓内部に3つ穴が空いていた「心室中隔欠損症」を持って生まれてきました。
大きくなってからも、ストレスで「パニック障害」になったり、血が止まりにくい難病「先天性フォンヴィレブランド病」が発覚したりと、たくさんの病気と一緒に生きています。
3年前にブログ「私、重度の口唇口蓋裂です。」を開設し、口唇口蓋裂疾患者やご家族が集まる患者会「笑みだち会」を立ち上げるなど、ブロガーとして情報発信をしています。今日はみなさんに口唇口蓋裂を中心に、私の半生を知ってもらえたらと思います。
口唇口蓋裂は珍しい病気ではない
まず、「口唇口蓋裂」と読み方からして難しく感じるこの病名を、ご存知ない方もいらっしゃるかと思います。
口唇口蓋裂とは、様々な症例がありますが分かりやすく言うと、唇や上あごに割れ目が残って生まれてくる疾患です。原因はまだ正確に解明されていませんが、500人に1人の割合で発症すると言われていることから、けっしてめずらしい症状ではありません。
口唇口蓋裂の治療は、生後3ヵ月頃から20歳前後まで続く、長期的な手術・治療が必要な場合が多いです。では、私がどのような人生を歩んできたのかお話したいと思います。
口唇口蓋裂、心臓の穴、鼻の修正。治療と手術を繰り返す日々
私は、父・母・6歳年上の兄と4人家族。母が私に口唇口蓋裂があることを知ったのは、2,462gの低出生体重として産まれた瞬間でした。
当時、母は「あ、口唇口蓋裂か!手術すれば治るわ」と楽観的だったそうです。なぜなら私の母は、結婚するまでは歯科衛生士として働いていたため、専門学校時代の実習で口唇口蓋裂の手術に立ち会った経験によって知識があったからです。
しかし出産後、医者からこんなことを言われました。
口唇口蓋裂以外にも、心臓に3つ穴が開いていたり、片耳に耳たぶが無かったりという症状があります。まだ小さいので詳しい検査が出来ませんが、今分かっているだけでもこれだけの障害があれば今後、目が見えていないかもしれないし、脳の発達が遅れているかもしれないし、歩けるかどうかも分からない。大きくなるにつれていろんな障害が出てくることを覚悟して下さい。
それを聞いた両親は、驚きでその場で失神しそうになったそうです。
まず私は、生後3ヶ月に、小さな体で心臓に3つ穴が開いた状態で唇を閉じる手術に挑みました。通常は、1時間半~3時間で終わる手術ですが私が病室に戻って来たのは、5時間後。
体よりも何倍も大きい酸素ボンベを抱えながら、体中に繋がれたチューブで痛々しい姿で戻ってきた私を見て両親は「とてもたくましく見えた」と今でも語ってくれます。
医師たちのおかげで手術は大成功。その後も、成長段階に合わせて様々な治療・手術を受けました。口唇口蓋裂を治す手術、鼻の修正手術、他の部分の皮膚を使って耳たぶをつくる手術。
他にも、両耳が高度難聴を診断されたので骨伝導補聴器をつけたり、言語障害があるため発声や発音を向上させるために言語訓練をしたり、歯並びの矯正に通ったり。今振り返って数えてみると、なんと20回以上手術していました。
鼻に関しては、実は7回も手術しています。なのに、まだ全然終わりが見えないので大変です。
「私の顔は他の人とは違うの?」幼少期の戸惑い
私が物心ついたころの一番最初の記憶は、病院のベッドの上でした。家では畳の上に布団を敷いて家族みんな川の字になって寝ていたのに気付くと、また病院のベッドで母と2人っきり。家と手術での入院が繰り返されて、なんだか不思議な感じでしたね。
常に病院通いでまともに公園デビューをしていなかったので、初めて保育園に入園した時は「私と同じ背丈ぐらいの子がいっぱいいる~」って。集団になっている同じ世代の子を目の当たりにし、心底怯えてたのを今でも覚えています(笑)。
思えば、病院では医師や看護師さん等、大人ばかりの環境で育ったので子供には慣れていなかったんですよね。そんな怯えてる私を見て、保育園の子たちは笑ったり、少しにらむような目をしていました。
私の顔は他の人とは違うの?
周囲の反応で生まれて初めて、そんな疑問を持つようになりました。
だから幼い頃は、絵本を読むのが大好きな人見知りで大人しい子でした。でも家族や心を開いている人の前では、ゲラゲラ笑ってはしゃぐおちゃめな一面もあったと思います(笑)。
こうして幼いながらも、周囲の反応を敏感に感じとるようになった私は、当たり前のようにしている病院通いや、骨伝導補聴器をつけていることは、他の人とは少し違うようだ…と認識するようになりました。
治療で辛かったことは、きっとあったと思うんですが、これといったエピソードがないんですよね。というのは、小さい頃から「痛い」という感覚が当たり前だったんです。
「痛い!」「怖い!」と思っても、すぐそばで大好きな母が付き添ってくれていたし、頑張ったご褒美にお菓子やジュースを一つ買ってもらえることが嬉しかったから頑張れたんです。
入院や手術になるとお菓子やジュースから、漫画やパズル等のおもちゃにランクアップするし…って単純ですよね(笑)。だから私は、手術前の注射するときの一瞬に半泣きになるだけで、それ以外は一切泣いたりしませんでした。きっと無意識に「頑張らなくてはいけない」と思ってたんだと思います。
入院生活は、痛くて泣いて、楽しく笑って
9歳の時に受けた手術当日、手術室に向かうストレッチャーに乗せられた私は不安でいっぱいでした。でも「頑張らないと…」と涙目で歯を食いしばっていたんですね。すると、母は何かを感じ取ったのでしょう。
手術怖い?怖いね。辛かったら我慢せんと泣いてええねんで。お母さんおるから。
こう言われた瞬間、ピンと張っていた糸が切れたように私は「手術怖い。嫌や。痛いの嫌や~!」と大号泣。我慢強いと言えば聞こえ良いけど、私は弱音を吐けなくて溜め込んでしまうような子でした。でも、入院中は同じ病室の子供たちと遊べるし、看護師さんは優しいので、毎朝の痛い処置もなんか頑張れちゃったんです(笑)。
今でも出生当時に担当してくださった看護師さんがおられて、診察で会う度に「つい昨日まで赤ちゃんやったのにな~」「もう20歳過ぎてる…!」と覚えてくれています。毎年のように入院しているので、そのたびに「えみかちゃんおかえりなさ~い♪」と言われたり。
ちなみに私は、補聴器を外して寝ているので、自然に目覚める以外には体を叩き起こしてもらわないと起きられないんです。だからいまだに看護師さんには「えみかちゃん起きなさい!朝やで!」と叫びながらシャーッとカーテンを開けてくれたり、お母さんみたいに叱ってくれたりして完全に甘えきっています。
今私を担当してくださってる先生とは、教授と患者というより、孫とおじいちゃんみたいな安心できる関係性です。教授との会話のやりとりをブログに書くと皆さんに「厚い信頼関係を築けて羨ましい~」と声をいただくこともあるんですよ!(笑)
きっと、こうした現場の医療チームが作る温かい雰囲気が、私たち患者が治療を頑張る元気につながるのかもしれません。
自分を好きになれなかった中学時代
今までの流れを読むと、楽しそうに日常をエンジョイしているように見えるかもしれません。でも思春期に入った私は、今まで思いもしなかった考えや感情が湧き出てきました。
中学時代は、口唇口蓋裂を始めとした障害を持つ自分に悩み始め、どんどん自信を無くしてしまいました。周囲に「今度の治療頑張ってね!」と言われる度に「これ以上どこまで頑張ったらええねん!」と反発する気持ちが生まれたりして。私の心はどんどん限界に近づいて、ついに中学二年生のとき、不登校に。
集団行動が苦手だったり、廊下ですれ違うときにからかわれたり。小さな悩みが無いことは無かったけど、かといって口唇口蓋裂を理由とした目立ったいじめはありませんでした。
だけど、自分で自分を、言葉責めでいじめていたんです。
「なんで鼻ぺったんこなん?」「なんで変な口してるん?」「なんでみんなは楽しそうに遊んでるのに私は病気やからって我慢せなあかんねん?」「いろんな病気あんのに、なんでよりによって顔の病気なん?」
とにかく自分が大嫌いでした。
みんなと違うかわいい・かっこいいは注目されて、みんなと違う見た目・病気は除外されているように思えて、学校に行けば行くほど健常者との違いを見せつけられてるように感じて辛かったです。
だからといって、家に帰っても親は仕事で誰もいない。寂しくご飯を食べてはテレビをボーっと眺める毎日が続いていました。やっと両親が帰ってきたかと思えば、喧嘩をはじめることもあり、眠りにつくまで私の心は休みませんでした。
今なら仕事疲れでストレスが溜まっていたんだと理解出来ますが、当時の私には大人が喧嘩する姿は恐竜を見てるかのように恐ろしかったです。学校に馴染めなくなったことや病気について悩み始めたことを親に言えず、1人で悶々としていました。
いつもそばでサポートしてくれたのは支援学級の先生
友達はいたけど「入院や手術した経験がない子に私の気持ちなんて分かってもらえない」と勝手に心を閉ざし、私の心は闇に深まるばかり。気づけば、人間不信になった私をいつも心配してくれたのは支援学級の先生でした。
実は私、食が細く幼い頃から入退院を繰り返していたからか、まわりの子と比べて体力がなく、支援学級に籍を置き、年に数回しんどくなると支援学級で1時間自習という形で利用していました。
私が不登校になった時は、私の母と親子揃ってサポートしてくださった恩人の先生でもあります。学校に行けない時は、毎日のように先生から電話がかかってきて「今日の気分はどう?何もしなくていいから遊びに来ない?」と優しい声でとても心配してくれました。結局、中学2~3年は全く学校に行けず、校長室で卒業証書を受け取り、私の中学時代は幕を閉じました。
その後も先生は仲良くしてくださっています。昔の私の姿を知っている先生が「今こうして人前で堂々と皆さんのために活躍されている姿を見て、とても嬉しい」と感慨深く語ってくれたときは、少しは恩返し出来たのかなと嬉しくなりました。
高校に入学し、宝ものだと思える友達ができた
貴重な青春を暗く過ごしてしまったのが嫌で、自分で探して入った高校では新しい友達をたくさんつくりました。でも私が通っていた高校は通信制で、当時私と仲良くしてくれる友達は、みんないろんなものを抱えていました。不倫で生まれた子、虐待を受けて育った子、少年院上がりの子、家庭環境が複雑な子。だけど、性格はめちゃくちゃ良い子ばかりでした。
入院することになったとき、しばらくお休みしないといけないことを伝えるため、ある日の放課後、仲が良い子に勇気出して病気を打ち明けました。
あのな、私生まれつきの病気があってな、口唇口蓋裂っていう病気持ってんねん。手術して治していかなあかんくていつも毎月病院行く言うて学校休んだりしてるやろ?あれも口唇口蓋裂の治療の一環やねん…って、いきなり言われてもびっくりするやんな…ごめんごめん。やっぱ聞き流して!(笑)
友達が急に黙り込んで私は急激に不安になった。やっぱ言わん方がよかったかな…。
すると…
そうなんや~!えみかめっちゃ頑張ってるんやな!病気なったことないから、しんどい気持ちとか分かってあげられへんけど退院したらいっぱい遊ぼう!二年のクラス替えでは、えみかが寂しくないようにえみかの席作って待ってるからな!安心して手術頑張ってきて!
と言ってくれた。それがとてもとても嬉しくて。
他にも、耳が聴こえなくてカチューシャ型の補聴器をしていることも話しました。
いろんな病気持ってて、ぶっちゃけ私障害者やねん。障害者手帳持ってるし…
そう言っても友達はこんな反応でした。
うん。で?そんなん関係なくない?えみかはえみかやん。優しくて面白くて一緒におって楽なえみかが好きやから友達になったんやん。そんなしょーもない理由で友達やめたりせえへんわ(笑)話してくれてありがとう。大事な話を打ち明けてくれて嬉しかったで。
その後も、私の病気を理解しようとしてくれる姿が嬉しかったです。自分の昔の失敗を打ち明けてくれる子もいました。
そっかぁ。今無邪気に笑ってるあの子もこの子も人それぞれ抱えてるものがあるんやなあ。
私は病気でたくさん泣いたし傷ついたけど、友達も様々な事情でたくさん泣いて傷ついてたんやなぁ。友達は私を受け入れてくれたのに当の本人が受け入れなくてどうする。少しぐらい今まで治療から逃げなかった私を褒めてもいいかな。
そう思うと、肩の力が抜けました。そんな風に捉えることが出来た友達に出会えたのは私の財産。友達の存在が今の私を支えてくれています。ほんまありがとう。
もちろん病気を打ち明けて離れていった子も何人かいました。でも、病気を打ち明けることで相手の本当の姿が見えて、上辺の付き合いかどうかが分かるんです。だから私は、そんなこと全然気にしませんでした。
みんなの好きは私の嫌い
破天荒な友達と笑い合う高校生活は、毎日が楽しくて仕方ありませんでした。だけど、みんなと遊んでてもたまに虚しくなることもありました。
それは、同年代の女の子が好きなランチも化粧も鏡も自撮りもヘアサロンも長電話も、私には苦痛だったから。
噛み合わせが悪いから食事に時間かかるし、化粧しても顔に傷あるし歪みが目立つし、鏡も自撮りも可愛い自分が写っているわけではない。しゃべってるとだんだん顎が疲れてくる長電話も苦手意識があった。どれもささいなことばかりだけど、ちりも積もれば山となる。小さな苦手が大きなストレスになってしまいました。
でも、それは自分が口唇口蓋裂を受け入れていないから…なんてことは自分が一番知っている。だから苦しい。だから私は逃げるかのように遊び回りました。
そんな私を友達と一緒に心配してくれたのは高校の先生でした。私自身、目立った素行は無かったものの無断欠席が多く学校に行っても授業は出ず、空き教室で一人で寝ているような掴みどころのないような子だったらしく。
担任以外にも、私が「おじいちゃん」と呼ぶ先生にもお世話になっていましたね。真っ白な白髪でサンタクロースのようなおじいちゃん先生は、私の話を唯一真剣に聞いてくれた人でした。学校では、いきがってて笑ってばかり、いや、笑うことしか出来なかった私が、なぜかおじいちゃんには病気のこと、家庭のこと、全て話せて弱い部分を見せられたんです。
そんな私に、おじいちゃんは「いつも笑ってるところしか見たことなかったけど苦労してたんか~」って、優しい眼差しでいつも応援してくれていました。今でも担任やおじいちゃん先生とは連絡を取り合っていて、本当に私は良い先生に巡り合えたと思います。
人生で初めて治療が嫌だと泣き叫んだ
高校3年生の時、1年間で3回手術するときがありました。この時ほど苦しかった毎日はなかったです。
大好きなみんなとピクニックしたり、クリスマスパーティーしたい!なのに、私は病床の身。口唇口蓋裂に想い出を奪われた気がして悔しかったです。ただただ「なんで手術せな治らん病気になったんかな…」って悔しくて泣きました。
春休みに耳の手術で入院した当日。外泊許可が出て、患者用リストバンドを付けて家に帰ってきた途端、「いよいよ闘病生活が始まる」と実感した私は、溜まりに溜まっていたものがとうとう爆発。狂ったように親の前で泣き叫びました。
見た目だけのことで、こんな辛い思いしてまで手術する意味あるん?手術する意味が分からん。
反抗したのはこの時が人生初めてで、両親のびっくりした顔は今でも忘れられません。
反抗する私にみせた、母の愛情
私が親の前で涙を見せたのは人生で数える程度。手術に前向きで頑張ってくれていると思っていた両親は、思いがけない言葉に心底びっくりしたようです。すると、母は泣きながら私を抱きしめてこう言いました。
辛いな。今までずっと辛い思いしてたんやな。えみかの気持ち分かってあげられへんかってごめん。代わってあげられるもんなら代わってあげたい。
でもな、この手術は絶対えみかのためになるねん。見た目だけのことかもしらへんけど、人間の体に本来あるべきものが無いというのは不便なことやねん。辛い時は辛いって甘えてええから一緒に頑張ろう。今辛い思いしているのは絶対に意味のあることやから。
母の涙を見て、さらに泣けてきた私の心は母の愛情で温かくなりました。
そこからは、母の手を握り締めて度重なる手術を頑張って受けました。
手術がしんどすぎて「手術大嫌い」と何度も思ったけれど、高校3年最後の冬休み、1年間に3回行う手術が終わって退院する前日の夜。今までの大手術を乗り越えることが出来たことや、周りの温かさを知れてよかったという思いで、ベッドの上で感謝の涙が溢れ出てきました。
私は毎回入院したら闘病日記を書いているんですが、当時の日記を読み返したら
いよいよ明日退院。どれも大変だった。苦しかった。でもね、愛を知って人の温かさを知って幸せだったよ。
これからがスタート!この経験を活かして頑張ります。人に感動を与えられるような人間になることを夢に目指して…。完
って書いていました。今見ると恥ずかしい!笑
辛い闘病生活が終わった頃には、あんなに喧嘩ばかりだった両親の仲も修復し、現在のように仲良し家族に戻ることが出来ました。きっと口唇口蓋裂の治療が、私たち家族を強くさせてくれたのでしょう。
自分にできることで生きていきたい
高校卒業後、一旦は就職したのですが、なかなか休暇が取れず治療を続けるのが困難になり退職。その後は、シフトの融通が利く派遣のアルバイトを約2年続けていました。
バイト内容は主に接客業。顔をマスクで隠せるライン作業や裏方の仕事も考えましたが、私の性格的に接客業が合っていたようで、イベントガールをしていました。イベント会場でお客様を誘導したり、ときには駅でティッシュ配りをしたり、いろんな経験を積ませてもらいました。
当然、不特定多数の前での仕事となると、指を指されたり露骨に避けられたりもしました。でもそんなこと以上に、人間関係に恵まれ現場ディレクターを任せてもらったことは、私にとっていい思い出となっています。
そして治療と手術が20歳で一旦落ち着き、21歳の誕生日を迎えた私は将来を考えるようになりました。
今までは治療を最優先に生きてきたけど、これからの私はどういう生き方をしていこうかな?会社のために働くことも立派なお仕事やけど、何か自分に出来ることで人に想いを伝えてみたいな…。
ネガティブではなく、楽しく。同じ仲間の励みになれば
自分にできることはなんだろう。そう考えたときに、「口唇口蓋裂の本人が書いてるブログは、あまり見たことないかも?」と思いつきました。
いつも口唇口蓋裂の治療法をネットで調べるんですが、名前も顔も分からない口唇口蓋裂の人のブログをやっと見つけても、書いてあるのはネガティブな言葉ばかり。
口唇口蓋裂で生まれたばかりに…。
幸せには生きられないかもしれないので、親御さんは覚悟して育てて下さい。
少しでも安心したくてネットで調べたのに余計に不安になった!って感じた出来事があったんです。だから手術のことを具体的に伝えたかったし、何より私はこう言いたかった。
口唇口蓋裂で生まれた人は今ここで幸せに生きてますけどー!!
数少ない貴重な情報なのに、暗い内容で病気仲間を不安にさせるのではなく、私ならではのおもしろエピソードを交えて一緒に頑張っていきたい。そんな想いを込めて、2015年1月に「私、重度の口唇口蓋裂です。」のタイトルでブログを立ち上げました。
ブログで伝えたいのは、安心したくてネットを使った「当時の私が知りたかったこと」
すると、口唇口蓋裂疾患の本人が顔を公表して赤裸々に綴るブログは珍しかったようで闘病ブログのランキングで1位に!たくさんの親御さんや本人の方から「すごく参考になる!」「闘病ブログなのに面白い!」と言われた時はとっても嬉しかったです…。今でも応援メッセージが届く度に感激して、みなさんからのメールを晩酌できるほどです(笑)。
あれよあれよという間に、ブログを開設して半年足らずでテレビからオファーがあり、テレビ番組にも出演させてもらいました。
でも反響があるということは、中傷・批判も耐えないのです。ただの冷やかしならまだ我慢できるのですが、同じ疾患を持つ人から批判を受けたときはつらかったです。
でも批判的な言葉に隠れている悲しみに気付いた私は「要するに、口唇口蓋裂であることが社会に馴染んで隠す風潮がなくなれば、私たちが人生を悲観する原因もなくなるということやん?」って思ったんですよね。目の前の課題も大事やけど、もっとその先のビジョンを見据えて頑張っていこう。そう思い、みなさんの応援もあって、今日も元気にブログ更新させてもらっています。
昔は不安になりながら更新していましたが、いつしか本当に書きたい内容を楽しく書けるようになりました。
今は、ブログ読者はどんな内容を読みたいのか?と考えるよりも「当時の私が知りたかった内容を今の私が伝える」ことを意識して書いています。いつからか中傷・批判コメントはピタッと無くなり応援して下さる人が増えました。
闘病ブログなのに読んでて元気もらえる!(当事者の方)
ご両親と仲良くされているえみかさんの姿を見て、今はとにかく愛情を注いで私達らしい家庭を築いていこう、と前向きになれました。(当事者の親御さん)
連日、様々なメッセージをいただいて、嬉しい気持ちでいっぱいです。
同じように頑張る仲間がいると知って欲しい。アットホームな患者会「笑みだち会」
今私は、「笑みだち会」という口唇口蓋裂の当事者やその家族が集まる会を主宰しています。
笑みだち会を立ち上げた発端は、ある当事者の親御さんであるブログ読者さんから、「入院中にママ友が出来ても、退院後は交流する場がないから交流会を作ってくれませんか?」と相談されたこと。「作っちゃおう!」という若さがゆえのノリが幸いして、相談を受けた1ヵ月以内には笑みだち会を立ち上げました。
小林えみかの「えみ」と「笑い」溢れる「友だち」を掛けて「笑みだち」と呼び、そんな笑みだちが集まる患者会として「笑みだち会」という名前をつけました。
当事者のお子さんと親御さんが集まるファミリーの会もあれば、中高生から大人の当事者の本人が集まる会もあります。本人が集まる患者会は珍しいとのことで毎回大好評で、患者会とは思えないアットホームな雰囲気が自慢の笑みだち会です。これまでに大阪を中心に東京・名古屋・岡山で11回開催し、累計で約300人以上の方が参加して下さっています。
親御さんの子育ての悩みに応えたり、当事者本人の悩みを聞いたり。「本当に楽しかった!こんなに明るくてパワーもらえる場所なんですね!」と眩しい笑顔で会場を後にされる方を見ると、胸にグッとくるものがあります。こんなことを言ってくれた親御さんもいました。
口唇口蓋裂の手術をしたばかりでお口にテープを貼ったままの我が子を隠すように、いつもベビーカーのフードをおろして顔が見えないようにしてました。
でも、笑みだち会で元気をもらえて帰り際は、勇気を出してベビーカーのフードをあげて子供の顔が見えるようにしたんです!そしたら電車に乗る時、2人の女子高生が子供に近寄って「赤ちゃん可愛い~♪」って言ってくれたんです!これからは堂々とフードを上げて歩きます!
それを聞いた私は、うれし涙が出てきました。同じ治療でも孤独を感じて受けるのと仲間がいると知って受けるのでは、治療に対するモチベーションは違うと思うんです。これからも笑みだち会の存在意義を果たせるように、がんばっていきたいです。
美容家IKKOさんの前向きな姿に影響を受けた
何をしても長続きしなかった飽き性でめんどくさがりな私が、ブログを書き始めて4年目に突入というのは私の中ではすごいこと。元々の私は今ほど明るい人間でなく、ネガティブですぐに弱音ばかり吐いていました。何をきっかけに今の明るい性格になったのかは正直わかりませんが(笑)、とにかく「前向きな女性になりたい!」という強い憧れが私を突き動かしたように思います。
実は私が特に影響受けたのは、美容家のIKKOさんです。16歳の春、たまたま通りかかった本屋さんでIKKOさんの本を見かけ、入院中の暇つぶしに読もうと思って買ったのですが、その本が私の人生を変えたといっても過言ではない衝撃でした。
IKKOさんの場合は、「心と体の姓が一致しない」という悩みでしたが、読み進めていくうちになぜか親近感が湧いてすごく勇気をもらったんです。IKKOさんの本を買った二ヶ月後に、IKKOさんが患ったパニック障害に私も患ったので不思議な縁を感じましたね。
人生を真剣に生きる人ほど壁が多いの。その壁は乗り越えるためにあるのよ。
こんな深い名言ばかり。
美容を究極に愛する姿にはすごく魅かれて、私がどんどん美容にハマっていったのもIKKOさんの影響です。今は口唇口蓋裂の情報発信の活動をしていますが、いずれは心理療法を用いたメイクで元気になっていただく「メイクセラピー」など、美容に関わるお仕事をするのが私の大きな夢です。
今は辛くても、その経験が未来の自分への光になる
私の人生は今、幸せに満ち溢れています。今も治療は続いており大変なこともありますが、「病気を持つ大変さ=不幸」ではありません。口唇口蓋裂もどんな病気も「頑張るぞ!」と前向きになれる時もあればそうでない時もありますよね。それでいいと思うんです。私自身も毎日前向きに頑張っているように見えますが、病気と闘うのに疲れきってしまう日もあります。
頑張らないといけないことは嫌ってほど自分が一番わかってる。でも、やっぱり20代の女性である自分は、病気のせいで何かを失ったようにも思えて仕方がありません。尊い命を持つ人間としての幸せは感じる。だけど、女としての幸せは…。そんなことを考えて暗闇で泣いて朝を迎えたこともあります。
私は自信を持ちたくて頑張ってみても、なかなか自信が持てませんでした。ただ、私はとっても諦めが悪いので(笑)、「自分自身」を見失わず何度でも挑戦をしました。
そして、私の人生は障害や病気があったり、不登校だったりしたけれど、それはいつのまにか人生に深みを増すプラスな出来事へと昇華されました。だから今みなさんにつらい出来事があっても、その”影”は、きっと未来の自分が輝ける瞬間に光となって支えてくれると思うんです。
この前、友達こう言われました。
昔は弱さを見せまいと突っ張ってたけど、今のえみかは自然体で素敵やで!
そう、私が大切にしたい人が知りたい私というのは取り繕ったものではなく、ありのままの私だったんですよね。
私はこれからも、口唇口蓋裂がこんなに身近で、ありふれているんだよってことを知ってもらえるよう、活動に励んでいきます。手術や治療で生活に制限があったとしても、口唇口蓋裂で自分の個性を制限する必要はありません。
口唇口蓋裂が、コンプレックスからチャームポイントになることを願っています。
小林えみか
NPO法人笑みだち会 ホームページ
(写真/向直弥)