【写真】街頭で笑顔で車椅子に座っているうめつえりさん

こんにちは!梅津絵里です。

Co-Co Life(ココライフ)タレント部」という障害者・難病のタレント専門の芸能プロダクションに所属し、タレント活動をしています。また車椅子チャレンジ・ユニット「BEYOND GIRLS(ビヨンドガールズ)」として、車椅子ユーザーのメンバー3人で歌やダンス、講演会、イベント出演などに挑戦したり、病院への慰問公演などを行っています。

私が車椅子に乗って生活を始めたのは、難病の「全身性エリテマトーデス(SLE)」や「中枢神経ループス」の診断を受けたことがきっかけです。今回は病気のこと、寝たきりの状態で過ごした6年間のことや、現在の活動にいたるまでのお話をしたいと思います。

元気が取り柄だった幼少期から突然、全身性エリテマトーデスに

【写真】笑顔でインタビューに答えるうめつえりさん

私は全身性エリテマトーデスの診断を受けるまで、自分のことを病気の一つもかからない健康体だと思っていました。幼少期は活発で、夏は外遊びのしすぎで真っ黒に日焼けしていたほど。大人になっても体を動かすことが大好きなのは変わらず、短期大学の保育科を卒業した後は、エアロビクスのトレーナーや幼稚園の先生として働いていました。

24歳の時、現在の夫と付き合ったことをきっかけに、夫の趣味であるサーフィンをするようになります。私はすっかりサーフィンの虜になり、結婚後に福岡に移住した時はほぼ毎週末、海に行っていました。

私の20代は、毎日のすべてが海だったな。

毎日天気と波の状態を気にしたり、大会に出ていた当時を振り返るとこんな風にも思います。

【写真】街頭で車椅子に座り満面の笑みをみせるうめつえりさん

エリテマトーデスの症状がでてくるようになったのは、26歳の時のこと。最初の症状はなんだか皮膚がかゆくなり、あざができたり変色するようになったことでした。

「サーフィン中にクラゲに刺されたのかな?」ぐらいに思っていましたが、そのうちファンデーションでも隠せないくらいの蝶形紅斑(頬に蝶々が羽を広げたように赤味ができる状態)ができてきました。当時は幼稚園教諭をしていて、他の先生からとても心配されるように。自然に消えるだろうと思っていましたが、次第に自分でも気になりはじめ、病院へ行くことにしました。

はじめに診察した皮膚科では塗り薬をもらっただけでした。しかし塗り薬ひとつで症状は治らず、倦怠感や手首の痛みを感じはじめて…。いつのまにか包丁やシャワーヘッドも持てなくなり、日常に支障をきたすようになります。最終的にはペンを持つだけでも痛みが走り、仕事にならないほどの苦痛を感じていました。

今度は整形外科にいきましたが病名を診断されることはなく、処方された鎮痛剤で痛みに耐えしのぐ日々が半年間ほど続きました。食欲もなくなり、体重が落ちていき、疲労感が溜まっていく日々。口内炎ができたり、関節の痛みや皮膚の変色、倦怠感など、今思えばさまざまな症状が出ていたと思います。それでもなお、当時の私は「夏バテかな?」程度に思っていました。

そんなとき、夫が内科クリニックに行く用事があったので私もついて行き、そこで今までの症状や経緯などを医師に話したのです。

膠原病(こうげんびょう)かもしれないね。

医師にそう言われ、すぐに採血を行うことに。聞きなれない病名に、すごく怖いと感じました。家に帰ってインターネットで調べると、エリテマトーデス(以下、SLE)の症状が見事に当てはまり、私はSLEなのかなと思いました。

大学病院に入院して精密検査を受けたところ、SLEによって引き起こされる他の病気も発症していたことが分かりました。関節痛や発熱など、腎障害を起こすループス腎炎、目・口などさまざまな場所が乾燥してしまうなど、自己免疫疾患であるシェーグレン症候群も併発し、かなり症状が進行していたのです。

何で健康を楽観視してしまったのだろう。

今思えば、それまで病気にかかったことがなく周りも元気な人が多かったので、健康を意識することがなかったのです。もっと自分の体を大事にすればよかったな、と反省しています。

病気のことを知るうちに「大変な病気なんだ」と思うようになり、自分や夫の両親に伝えるときは、とても気が引けてしまいました。

元気だけが取り柄だったのに、病気になっちゃってごめんなさい。

そう申し訳なく思っていました。

【写真】インタビューに答えるうめつえりさん

ただ病名が分かった時は、少し気持ちが楽にもなりました。

病名がわかったから治療ができる!薬を処方してもらって治していけるんだ!

またサーフィンもできるし、子供を生むこともできる。早く元気になりたいという思いが膨らみ、治療が始まることへの希望を感じていました。

実際にステロイド治療で次第に元気になり、退院したあとの半年間は自宅で療養していました。でも、ずっと自宅にいることに飽きてしまって。事務の仕事を探そうとハローワークのスクールに通うようになります。しかし、体力的にも精神的にもストレスがかかったのか、28歳の誕生日のときに急に体を動かせないほどの高熱を出してしまったのです。

主治医に電話で相談し、ステロイドの量を増やすことになりましたが、熱が全然引きませんでした。再入院して精密検査をすることになったのですが、そこからは、私自身はあまり記憶がない状態が続きます……。

中枢神経ループスを発症し、寝たきり状態に

倒れてから何日経ったのかもわからず、目を開けたら私は集中治療室(ICU)にいました。いろんな管が私の体にくっついていてとても息苦しくて。寝返りをうつことすらできませんでした。点滴から栄養をとるしかなかったので、ふと自分の足をみたらとても細くなっていて、すごく驚いた記憶があります。

発症したのは、SLEが重篤化したときに合併すると言われている中枢神経ループスという病気。発症後一年もの間、意識が朦朧とした中で体を動かすこともできず、起きてもすぐ寝てしまうといった状態が続きました。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるうめつえりさん

再び精密検査を受けたところ、脳と脊髄に炎症が起きてしまい急に悪化したようでした。その結果、運動障害、感覚障害、嚥下障害など、いろんな症状が出ていました。思い返せば、以前退院するときに主治医からは「なるべく体に負担がかからないように、日光にもあまり当たらないように安静に過ごしてください」と言われていました。しかし、私はわかっていながらも家でじっとすることができず、サーフィンにも行っていました。

あのとき先生の言うことを聞いていれば、こうはならなかったのかな。

突然寝たきりになってしまったことに戸惑いを覚えながら、また健康に気を遣えていなかったことを反省しました。

頑張る姿を通して希望をくれた、夫の存在

寝たきりで何もすることができない入院中は、仕事帰りにお見舞いにきてくれる夫の存在が唯一の楽しみでした。

私は意識がほとんどなく話もできなかったけれど、毎日欠かさず顔を見せてくれて、関節が固まらないようにマッサージをしてくれたり、声をかけてくれたり。倒れてから変わり果てた私の姿を見ても、いつもと変わらずに優しく笑顔で接してくれて、気管切開をして話せるようになるまでは文字盤で会話していました。

ある時、私が自分の体を労らなかったからこんなことになってしまったんだと思い、謝ったことがありました。

私、不良品だったね、ごめんなさい。

それを聞いて、夫は「申し訳ないなんて思ってほしくない」と思ったそう。自衛官として働いている夫はその後、仕事で頑張る姿を私にみせるために幹部に昇格するための試験を受ける決意をしたと聞きました。

【写真】笑顔で車椅子に座り、ポーズをとるうめつさんと、その横で笑顔でポーズをとるうめつさんの夫

当時の梅津ご夫婦(提供写真)

俺が頑張って目標を叶えていくことで希望を見せられるんじゃないか。絵里に元気になってもらうためにできることは、自分が努力することだ。

そう思ってくれていたんだと後日談で聞き、あのときの前向きな夫がいたから今の私がいるんだと心から思います。

【写真】笑顔でうつるうめつごふうふ

当時の梅津ご夫婦のお写真

胃ろうを始め、食べることができなかった6年間

その後も28歳から34歳までずっと、私は病院で入院生活を送ります。そして寝たきりのときもリハビリ生活が始まった時も、口から食べ物を摂取することができませんでした。そのため、口から食事をとれない人のために、おなかに小さな「口」を作る「胃ろう」の手術を経験。

直接チューブから胃に栄養を入れる方法を中心に、まずは経管栄養でドロドロの流動食も食べるように。治療の経過とともに少しずつ段階を踏んで、柔らかい食べ物や固形物も食べる練習をしていきました。

ご飯を食べられないことで落ち込んでいたときに私を元気づけてくれたのは、当時テレビで大活躍していた大食いタレントの「ギャル曽根」さんです。

病室のテレビで爽快に膨大な量をたいらげるギャル曽根さんの食べっぷりを見て、まるで自分も食べているような気になっていました。

料理番組からCMまで、テレビに食べ物が映れば前のめりで見て、視覚から食欲を満たそうとしていました。お見舞いに来てくれた人たちにも「今日は何を食べたの?」と食べ物の話をたくさん聞いていましたが、聞かれた人たちはきっと答えづらかったですよね(笑)

【写真】笑顔でインタビューに答えるうめつえりさん

「食べる」イメージトレーニングをすることで、「私も早く食べられるようになりたい!」いう欲求を刺激していました。この意欲が体を動かして、リハビリへのモチベーションにつながったと思います。昔から食いしん坊なわたしですが、この時期は食べることはできなかった分、人生で一番食べ物に執着していたと思います。

だから今、食べたいものを食べられる人生は、心から幸せです。食べることは当たり前じゃない。「美味しい」と感じる瞬間はとても大切な時間です。レストランで運ばれて来た自分の料理に「うわ~おいしそう~!」と喜ぶだけでなく、人の料理にリアクションしてしまうほど。「リアクション芸みたいだね」って言われることもありますが、本当に食べることが大好きなんです(笑)

たくさんの楽しみを見つけることでリハビリのモチベーションに

私は入院中6年間のうちの1年間は大学病院にいて、そのあとはリハビリ中心の療養型の病院へ転院しました。そこで始まったのは、車椅子でリハビリに励む日々。

初めてひとりで車椅子に乗れたときは、嬉しくて泣いてしまいました。それまではストレッチャーでしか移動できなかったので、自分で体を動かせるんだという感動で胸がいっぱいになったんです。

今まではベッドの上の天井しか見られなかったけど、これからいろんな所に行ける、いろんなものを見ることができる!

私にとって車椅子に乗るということは、リハビリを頑張るモチベーションにもなりました。

【写真】街頭で車椅子に座るうめつえりさん

変わらず夫は毎日お見舞いをしてくれたのですが、来てくれるのは面会可能時間の15分前、ギリギリの時間。それでも私にとってはすごく楽しみで、その時間がなければ毎日しょんぼりしていたなと思います。

お見舞いには、夫の両親、実家から家族や親戚、友達も来てくれて、本当に励みになっていました。長期入院だったこともあり病院の看護師やリハビリの先生たちも仲良くしてくださって、日常のことだけではなく恋愛相談もし合ったりして。病院という空間の中でも笑顔で過ごす時間もたくさんありました。

【写真】入院している時の写真。病院のベッドで寝ながら笑顔でうつるうめつさんと、横で笑顔でピースサインでうつるご友人たち。

入院時のお写真

他にも、大好きなバンド「ユニコーン」のライブDVDを擦り切れるまで見て、ライブに参戦することを目標にしていました。退院直前に近くでライブがあることを知り、退院を待ちきれずに行ったことも。ライブ会場で開幕した瞬間、涙が止まりませんでした。テレビの中でしか見ることができなかった人たちの目の前まで自分の体で行くことができた、そんな喜びを噛みしめました。ただ先生に外出届をだしたときはとても驚かれて「この病院でライブの為に外出届を出した人は、貴方が初めてですよ」と言われてしまいましたけど(笑)

【写真】花の前で笑顔でうつるうめつえりさん

美味しいご飯を食べたい、体をいっぱい動かしたい、たくさんライブに行きたい。そんな希望を胸にリハビリを行っていましたが、常にモチベーションがあったわけではありません。

「いつ退院できるんだろう」という不安ももちろんありました。

そんな私がリハビリを頑張れた理由は、「楽しみの見つけ方」が上手だったからだと思います。というか、そうせざるを得なかったんです。新たな目標ややってみたいことがないと、寝たきりの日々を送っているだけだったので。入院生活も壮絶だったけど、その中でもできる限り楽しもうと思っていました。日々のできごとから、「やりたいこと」をたくさん発見するような、そんな入院生活でした。

念願の退院後に失った、自分への自信

ようやく訪れた退院。しばらくは専業主婦として家事をしながら通院してリハビリを行い、休日は夫とおでかけをしました。そんな日々の中で、入院中は「退院」を目標に頑張ってきたのに、退院を機に「新たな目標」を見つけることができなくなりました。

夫がいなかったら私は家事しかやることがないし、ぼーっとするだけ。私の人生、これでいいのかな。

入院中は「患者さん」だったけど、社会に出てみたら「障害者」。何もできなくなったように感じ、自分への自信がなくなっていきました。生きがいを見出だせず自分の人生を生きていないような気がして、気持ちが落ち込み家に引きこもることも…。

転機が訪れたのは、夫の転勤で東京に引っ越したことでした。車椅子の方にオーダーメイドの洋服を製作する「アトリエ エスプリロープ」のデザイナーである鈴木綾さんとの出会いをきっかけに、私の人生は大きく変わります。

綾さんが編集スタッフとして関わっている、障がいや難病の女性のためのフリーペーパー「Co-Co Life(ココライフ)☆女子部」を知ったのです。

『一歩踏み出すための「きっかけ」や、一緒にやりたいという「共感」を提供する「こころのバリアフリーをめざすコミュニティ&フリーペーパー』

このコンセプトを聞いて、未来へのわくわく感や生きることへの希望を感じ、Co-Co Life☆女子部のサポーターに登録しました。フリーペーパーの誌面に出ている障害や難病とともに生きる読者モデルたちの表情はみんな生き生きとしていて、心が惹かれたのを覚えています。

【写真】街頭をほほえみながら車椅子で移動するうめつえりさん

それまで「障害者の私は、社会の役に立たないんじゃないか」とネガティブな気持ちを抱いていました。でもフリーペーパーを見て「自分はこれまで一体なにをしていたんだろう」と思いました。次第に雑誌のイベントに参加し始め、車椅子ユーザーの友達もできるようになったりと、積極的に家の外でるようになります。

私も心のバリアフリー活動の一助となりたい!

そんな思いも持ちはじめました。そして大人の女性が安心して集える場の必要性を感じ、コミュニティを作りたいと思いました。何も取り柄はないけど女子会くらいはできるのではないか、とまずはSNSでメンバーを募ったところ、結構反響が良かったんです。

退院して自信を失い、殻にこもっていた以前の私のような人が、外に出られるきっかけを作りたい。そして大人の女性が楽しく活動をする姿から、障害があり、未来を悲観している若い世代に「年齢を重ねることに臆病になる必要はない」と伝えたい。

多くの方に背中を押してもらい、友達と一緒に障害や病気のある30歳以上の女性の集う場として「Handicapped Womenオトナ女子」を始めることができました。横浜のフレンチホテルを貸し切った初めての大きなイベントは「Co-Co Life☆女子部 公認イベント」として開催してもらえることに。当日の様子は表紙に載せてもらい、反響が良かったと聞いたときは、一歩踏み出して良かったと思いました。

【写真】ここらいふ 女子部の表紙。くるまいすにのってポーズをきめるびよんどがーるずーのめんばーたち

CO-CO LIfe☆女子部(提供写真)

肩書きのない2年前の自分と、肩書きを作り出す現在の自分

そして2017年、「オトナ女子会」経由で仲良くなった小澤綾子さんと中嶋涼子さんと個性の強い3人で(笑)、車椅子チャレンジユニット「BEYOND GIRLS(ビヨンドガールズ)」を結成しました。

BEYOND GIRLSとは、誰もが違いを超えて楽しむ社会をめざし結成された車椅子チャレンジユニット。「今」を大切に自分の可能性に挑戦し、車椅子のイメージを覆せるようさまざまなかたちで発信しています。イベントで歌やダンスを披露したり、講演会を開催したり、マルチタレントとしても活動しています。

【写真】素敵なドレスをみにつけ笑顔で車椅子にのるびよんどがーるずのめんばー三人

BEYOND GIRLS 左から梅津絵里さん、小澤綾子さん、中嶋涼子さん(提供写真)

2年前の私は、自分が社会に出るなんて考えていませんでした。私が持っている肩書きは主婦のみで「仕事なんてできない」と思っていたし、ましてや発信活動やモデルをしているなんて夢にも思っていませんでした。でも今は、思わぬ出会いによってさまざまな肩書きを持つことができてる。信じられない、奇跡のようです。

「元気をくれてありがとう」「勇気がでた」といった言葉をファンの方からいただくと、温かい気持ちになります。車椅子の女の子に「BEYOND GIRLSになりたい!」と言われたときは、私たちの経験や思いが誰かの心に響き、社会貢献に繋がっているんだと大きな力になりました。この活動は、私にとっての生きがいそのものです。

【写真】車椅子でダンスパフォーマンスをするびよんどがーるずのメンバーたち

BEYOND GIRLSでダンスショーをしている様子(提供写真)

【写真】車椅子にのり笑顔でパフォーマンスをしているうめつえりさん。とても楽しそうだ

人生は、良くも悪くも予期せぬことばかりだから楽しい

小さな病気ひとつかからなかった元気な状態から、突然、難病になり寝たきり状態に。そして障害者になり、社会に出ることはないのだろうと思っていたのに、気づいたらタレントになっていた。何が起きるか予想がつかないからこそ楽しいし、そういうサプライズに溢れた自分の人生、すごいなって素直に思うんです。

一生寝たきりかもしれない…。

入院当初はそう宣告されて寝返りも打てず、見えるのは天井のみ。口から食べ物も食べられないし、自由に話すこともできず、行きたいところにもいけない。思い描いていた未来とは違う自分の人生を悔やむこともありました。そんな毎日から、車椅子でいろんなところに行けて、美味しい物を食べられて、いろんな人に会えている今が本当に嬉しくて幸せです。入院生活の6年間、諦めないで頑張ってよかったなと思います。

当たり前のことができなくなることを経験した私だからこそ、毎日を大事にしたいし、何でもない日々でも愛おしいです。

私には、入院中に東日本大震災があり自分の無力さに落ち込んでいた時期があります。震災でつらい思いをしている友達を慰めることもできず、「健康だったらボランティアに行けたんじゃないか、誰かを勇気付けられたんじゃないか」と思うばかりでした。何もできない自分がみじめでした。

だからこそ、現在はたまたまですが病気が落ち着いている状態なので、体が動くうちはだれかのために活動したいと思っています。

【写真】街頭で車椅子に座り空を清々しい表情でみつめるうめつえりさん

私が生きる上で大切にしていることは、大きく三つあります。

一つ目は、「笑顔と感謝」を忘れないこと。

どうにもならない現状を泣いて過ごすより、残された人生を笑って過ごしたほうが、絶対楽しい!そして笑顔は人を幸せにする!

今の自分があるのは、家族や周りの人の支えがあってこそ。うまく笑えない過去があった分、今度は私がみんなを笑顔の力で幸せにしたい。そんな気持ちが生きる原動力になっています。

二つ目は、「自分らしく生きる」ということ。

障害があることが良いことだと思わないし、なくなればいいと思っています。でも、現状に嘆くのではなく、障害を強みに変えて色んな夢を叶えられている今、とても充実しています。ありのままの自分を受け入れたことで、「人として生きる為に本当に大切なこと」に気づくことができたと思います。

三つ目は、「ポジティブ思考と諦めない気持ち」を持つこと。

諦めなければ願いは叶うと信じて、叶った時のイメージとそのための努力をし続けています。やりたい!と思ったときにすぐに飛び込めるフットワークの軽さや勇気、心の余裕を持ってチャレンジしています。

「自分は何もできない」と悩んでいる方がもしいたら「まずは社会に目を向け、一歩踏み出してほしい」と伝えたいです。似ている立場の人と想いを共有することで、世界が広がると思います。そして、なんでもいいので楽しみや目標を見つけてほしいです。その為に私を利用してほしいですし、ぜひCo-Co Life☆女子部のサポーター登録もしていただきたいです。

【写真】花を手にもち笑顔でうつるびよんどがーるずのめんばー

(提供写真)

そして、障害がある人がさまざまな分野で役割を持ち、当たり前に活躍する社会を描きたいです。「障害者=かわいそう」というネガティブなイメージや偏見、過剰に特別視されることがなくなってほしい。障害がある人もそうでない人も、パーソナリティが異なることを理解しあうダイバーシティが社会全体に広がってほしいなと思います。

これから増やしていきたい活動は、病院を慰問すること。自分の体験談を話したり患者さんの話を聞いたり、一緒に歌ったりすることで、同じ病気の人に諦めない気持ちの大切さや元気を与えられたらと思っています。自分がお世話になった病院にもいつか訪問して感謝を伝えたいです!

障害者がもっと身近な存在になっていくために自分が表に出ることで、今まで支えてくれた多くの人たちに恩返しができたら嬉しいです。これからも時間と体が許す限り、人生を私らしく、精一杯楽しんで活動していきたいと思います。

【写真】街頭で車椅子を笑顔で移動するうめつえりさん

関連情報

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(写真/馬場加奈子)