Wheelchair Traveler Miyoこと、三代(みよ)達也と申します。
僕は18歳の時にバイク事故で頸髄損傷という障害を負い、両手両足に麻痺が残り車椅子生活を送っています。
23歳の時に初めて海外に行ってから人生観が大きく変わり、28歳の夏には9ヶ月間かけて、車椅子単独世界一周の旅に出ました。
現在の仕事は旅人。障害者だから”こそ”の旅の楽しさを発信すべく、講演会や大手旅行会社エイチ・アイ・エスと提携したバリアフリーツアーをつくったり、2019年7月には世界一周の旅の経験を書いた旅行記も出版しました。
一人でも多く旅の楽しさを感じてもらいたい。そんな思いで活動する僕の人生について、お話させてください。
「僕の人生ってなんだろう」悩んだ日々から突然、交通事故に巻き込まれる
茨城県日立市で生まれた僕は、人を笑わせるのが好きな、ひょうきんな性格の子どもでした。兄と姉がいて、お母さん以外全員剣道をしていた剣道一家で、何不自由ない暮らしを送ってきたと思います。
しかし、高校に入学してから大きく生活が変わりました。毎日毎日同じことの繰り返し、変わり映えのない日々。それはどうしようもなく苦痛で、半年ほどで学校には行かなくなりました。
その頃から地元の魚市場やガソリンスタンドでバイトを始めたのですが、どんどん勉強が面白くなくなり、結局退学することに。髪の毛は金髪にして背中まで伸ばして、暴走族みたいなバイクを乗り回していました。外を歩くときは肩で風を切って歩いて、踏ん反り返って。でも内心は、「僕の人生ってなんだろう」と日々悩んでいました。
しかし18歳になりたての冬、僕の人生を揺るがす大きな転機が訪れました。
職場のガソリンスタンドからの帰り道に、乗用車と正面衝突する大事故に巻き込まれてしまったのです。
車とぶつかった瞬間に意識が飛んで、目が覚めると僕は道路にうつ伏せになっていました。痛みもほとんど感じず、体も全くと言っていいほど動かない。気がついたらぽーっと眠くなり、目もつむっていて一切の感覚が無くなりました。
しかしその時、何も見えない中で知らないおばちゃんの声が聞こえてきたんです。
あんた生きてるからね、あんた死んでないから!
何度も何度もすぐ隣で繰り返されるそのおばちゃんの声を聞いていたら、そのうちに救急車の音が聞こえてきました。
後に救急隊員に、そのおばちゃんの話をしたら「そんな人いたかなぁ・・?」と言っていました。
人間は死ぬ直前、最後に聴覚だけ残ると言われているのを後に知りましたが、「そうか、僕は実はあの時一度死んでいて、おばちゃんの声だけを頼りに生かさせてもらったのかな」と今になって思います。
「このまま一生車椅子なら人生終わりだな」人生の底を経験する
一命をとりとめたものの大怪我を負った僕は、頸髄を損傷してしまい、両手両足に麻痺が残ることになりました。
入院生活が始まってお医者さんに言われたのは、「一生ベッドで過ごすことになるかもしれない。運が良くても、車椅子での生活だろう」という一言。あまりにも現実味がなくて、涙の一滴すら出なかったのを今でも覚えています。
そこから始まったリハビリでも、メンタルをボキッと折られました。
当時の僕は、自分の唯一の長所はこの190cm近い身長の高さだけだと思ってたんです。それがリハビリのなかで自分の状況を受け入れざるを得なくなりました。130cmの車椅子に乗ると、今までと全く見える世界が変わってしまいました。
数ヶ月リハビリを頑張ると、少しずつ体が動くようになってきました。最初はそれが楽しかったんですが、だんだんと限界が見えるようになってきてしまいます。
まず手は、どう頑張っても動かないことがわかってきました。足は少しずつ動くようになってきたので、そのわずかな足の動きだけが僕の人生の希望でした。
このまま一生車椅子なら人生終わりだな。
僕の当時のリアルな心境はこうでした。これ以上良くならないならもう死のうと思っていたし、看護師さんにも自殺をほのめかすことを言っていました。気がつくといつも病院の下り階段の前に居て「ここから落ちたら楽になれるだろうか・・」と考える毎日。
周りの人の幸せな報告を聞いても無関心。僕より不遇な境遇に生きている人の話を聞いては、一瞬ホッとする。この頃が僕の人生の底でした。
リハビリ施設での“師匠”と呼べる人との出会いが人生を変えた
病院を転々とした僕は、最終的に静岡の伊東にあるリハビリ施設に入所しました。そこで僕の人生を変えた、“師匠”とも呼ぶべき方に出会ったのです。
それは、東京で工務店の社長をしていたAさん。当時50歳くらいで、僕と同じ障害を負っていて同じ病室で生活していました。
当時の僕は堕落の極みに達していて、施設では朝食を食堂で食べないといけないのですが、面倒くさがっていつも介護士さんたちに「部屋まで持ってきてよ〜」とお願いしていました。それでも、誰にも文句を言われることはありませんでした。
しかしその時初めてAさんから一言言われたのです。
お前、甘ったれてんな〜。
それまでは、「若くして怪我をしてかわいそうに」「生きているだけでよかった」などと持ち上げてくれる人ばかりでしたので衝撃を受けました。
最初は「なんだこのやろう」と思いましたが、それは自分にとっては図星だったんです。彼が正しいことを言っていると思うからこそのイライラでした。
しかしながら、同室ということもあり少しずつ素直に彼の話を聞くようになっていきます。
ある年末の帰省の時期には、「お前実家までどうやって帰るんだ?」と聞かれました。茨城から家族が迎えにくると話したら「車で茨城から静岡まで往復なんて大変じゃん、電車で帰れよ」と言われたんです。
車椅子で電車にどうやって乗ればいいかすら知らないし、無理だな。
はじめはそう思っていたのですが、同じ車椅子の入所者達に聞きながらなんとか一人で帰ることにしました。
東京駅で親と待ち合わせしていたのですが、何もできなかった僕が一人で新幹線に乗って帰ってくる姿を見て親も感動していました。
親が喜んでいたことを伝えると、Aさんは「まぁそういうことだ」といったような、何とも言えない表情で頷いていました。僕にとっても、あの時の両親の喜んだ顔が、少しだけ自分の自信に繋がったことを覚えています。
その後も色々なミッションをAさんは与え続けてくれました。
1年半という入所期間も終わりの頃、Aさんと今後のことを話しました。
お前ここを出たらどうするんだ?
そう問いかけられた僕は、「実家に帰ってDVDでも見ながら暮らしますよ」と伝えました。するとAさんに、「本当にそれでいいのか?やりたいことやったほうがいいんじゃないか?」と言われたのです。
そして最後に「東京に来い」と。お前は一度実家に帰ると引きこもって堕落した生活を送ってしまうだろう、その前に独り立ちしたほうがいい。そう言われてる気がしました。
すっかり気が変わった僕は、そこから静岡と東京を週に1、2度往復し家を探す日々が始めました。見ず知らずの土地で不動産屋を回るのはプレッシャーがすごくて、不動産屋に入るたびに勇気が要りました。
僕車椅子なんですけど一人暮らしできますか?家借りれますか?
断られたらどうしよう。そんな恐怖でいっぱいでした。
でも、師匠から言ってもらった「お前が一軒でもアパートでもマンションでも見つけてきたら、俺の工務店でバリアフリーに改修してやるから安心しろ」との言葉を支えになんとか乗り切れたのです。
東京での一人暮らしに挑戦。臆病になっていたけれど少しずつ変化が
不動産を何件も回り、なんとか家も見つけることができた僕は、リハビリ施設を退所して東京での一人暮らしをスタートすることができました。
行く前は、華やかな東京での一人暮らし生活をイメージしていました。でも現実はそう甘くはなかったんです。
施設ではAさんから与えられたミッションをこなしていくことで、確実に成長を実感していたのですが、東京ではヘルパーさんにあらゆることをやってもらい家にこもる生活。やりたいことも何もない。むしろ外に出たら悪いことばかりでした。
電車で高校生数人に囲まれて笑われたり、満員電車で車椅子が後ろにいる女子高生の体に当たったのか「痛い、何だよコレ」と言われたり。人が怖くなり、周りから見下されていると思うようになってしまいました。
そんなある日、何でもやってもらっていたヘルパーさんに買い物を頼むのを忘れ、すごく久しぶりに自分1人でスーパーに行きました。欲しいものがあって高いところにある棚に手を伸ばしましたが、車椅子に乗っていると全く届きません。取るのを諦めようとした瞬間、隣にいたおばちゃんがサラッと「これ欲しいの?」と言って取ってくれました。
そのとき、なんでもない数秒のやり取りに僕はとても感動し、「世の中には良い人もいるんだな」と思えたのです。
嬉しい出会いに心が高揚したのか、自分にまた少し自信がついたのか。帰り道は、行きとは景色が全く違って見えました。
そして家に着くやいなや、「買い物行った!すごいじゃん!やった!俺!」と自分を褒めたんです。この時から、今までは臆病になっていたけれど、少しずつ外に出て行こうと心に決めました。
病院のベッドにいた1年前から、仕事やツインバスケットボールに熱中する日々に
気持ちが前向きになってきていたある日、僕は「ツインバスケットボール」に出会いました。この競技は、四肢に障害がある人が参加できる車椅子バスケのこと。おかげで僕は初めて、東京生活で「やること」が出来たのです。
週一回の練習がとてもとても楽しくて、気がついたら他県のチーム練習にも参加してほぼ毎日外出するようになっていいました。
そして、埼玉で練習をしていたある時、とあるメンバーからこんなことを言われました。
お前毎日いろんなとこに練習行ってるようだけど、昼間何やってんの?」と。
何もしてないっす。
じゃあ、うちの会社紹介してやろうか?
これをきっかけにとんとん拍子に話が進み、僕は会社員として働くことになりました。仕事は、家でパソコンを使いリモートワークです。
1年前まで病院のベッドで、僕は心の底から死を願っていた。それなのに1年後の僕は、平日はサラリーマン、仕事が終わった後と土日にバスケをプレーする充実した毎日を送れるようになっていました。
そんな人生の変化を師匠に報告すると、「そうか、在宅で勤めてるのかぁ」となんとも含みのある回答が返ってきて。なんとなく複雑な気持ちになりましたが、当時はその意味がわかりませんでした。
しかしその半年後、師匠の言っていることがわかりました。
毎日朝起きて1人でパソコンに向かって仕事をしているその日中の時間が、なんとなく退屈に思えてきたのです。どうせなら通勤して、毎日人と顔を合わせて、あーだこうだ言いながら仕事をする方が僕の性に合っていそうだと思い始めました。
そして当時の会社の上司に直談判し、オフィスに通勤にさせてもらうことになったのです。
こんな風に師匠に報告をし、支えてもらいながら僕は前に進んできました。その時期を経て今度は、自分の中で自分で作ったミッションをこなしていくと言うことを初めてみました。
たくさんの不安を抱えながらハワイ一人旅へ
ここから僕の人生での最も大きな転機とも言うべき出来事が起きるのです。それが23歳の時のハワイ単身一人旅。
きっかけは何でもない会社の同僚との会話から始まりました。
三代さん、夏休みどうするの?
特に予定は無いですねと伝えると、その社員から「三代さん海外とか言ってみたら?」とさらに言われました。ただ、海外に行くだなんて、僕はあまりにも遠い世界のように感じ、無理な理由を並べ尽くしたんです。
今までの人生で1回も飛行機に乗ったことがないし、英語は話せない。海外のバリアフリーがどうなっているかもわからないし、なんとなく外国人と話すのは怖いし…。しかし、その言い訳を聞いた社員はこんな風に言いました。
ハワイだったらバリアフリーだし、日本語も通じるって聞いたけどなぁ。
その一言が頭から離れず僕は、仕事の帰り道に近くのショッピングモールに寄って旅行代理店に顔を出しました。
あの、車椅子1人なんですけどハワイ行けますか?
担当のスタッフさんはキョトンとした顔で、「はい、いけますよ?」とラフに答えてくれました。その場でチケットをお願いし、何時間も心配な点を相談。
そしてついに僕は、たくさんの不安を抱えながらもハワイへ旅立ったのです。
「心の距離の近さ」を感じたハワイでの出会い
初めての海外!でも着いてみると、ハワイは日本人ばかりでいささか拍子抜けしました。
あれ、なんか想像していたものとは違かったなぁ。
フライトの疲れもあり、そのままベッドで物思いにふけりながら眠ってしまい、目が覚めたのは夜中。眠れず夜のワイキキを散歩し、僕は一軒のバーに迷い込みました。
すると、かわるがわる外国人が話しかけてきたのです。
お前一人?どこからきたの?なんで車椅子乗ってんの?
この人たちオブラートもない、壁もないなーって衝撃を受けたんですよね。
その後仲良くなって話は盛り上がったのですが、トイレに行きたくなった僕はホテルに戻ることにしました。
え?なんでだよ、ここのトイレ入ればいいじゃん。
そう言われて咄嗟に日本での常識だけで、「こんな小さなバーに車椅子が入れるトイレがあるわけないじゃん」と答えてしまいました。
そしたら「は?いいから見てこいよ」と言われたので見に行ってみると、ちゃんと車椅子が3〜4台入るような大きなトイレがあったんです。
海外ってこんな感じなんだ!と僕は大感動しました。トイレがあったことにも感動しましたが、やっぱりそこに居た人たちもみんな心の距離が近かった。
そこで「海外って最高だな」と思った僕は、ハワイから帰国した翌週に「海外をもっと見たくなった」という理由で退職願を出したのです。
海外滞在を経てサラリーマンに。安定したけれど、心は満たされなかった
そこからは、アメリカへ一ヶ月半の短期間留学をしたり、オーストラリアで半年間ワーキングホリデーをしました。いずれの国でも、あのハワイで感じたノーストレスな環境は変わらず、心地よく過ごせました。
日本にいた時との大きな違いは、車椅子の人にはどう対応できるかな?と周りの人たちが考えてくれた事ですね。バリアフリーになっていなくても、よっぽどのことが無い限りお店に入るなどは断られる事がなく、「設備がないなら人間が適応していこうよ」というスタイルには本当に魅力を感じました。
海外での生活を経験した後は、日本でまたサラリーマンに戻りました。海外にいたときと違って生活はすごく安定していましたが、僕の心は全然満たされていませんでした。
僕は人生に疑問を持ったら、自分会議を開くのがいつものクセです。
18歳の時に死んで生かしてもらったこの人生、これでいいのか?
よくないと思う。
じゃあどうする?
そもそも自分が一番楽しかったのは?輝いていたときは?
自問自答していると、楽しかった瞬間として「旅」を思い出しました。
周りを気にして「また旅に出るのかよ」という自分もいて悩んだけれど、結局「じゃあ今回は違う旅にしよう!」と決意。今までのアメリカやオーストラリアは自分への挑戦で完全に自分に矢印が向いていたけれど、今度は、僕の旅行がきっかけで誰かが一歩踏み出せるような、人に矢印を向けた旅行にしよう!と思いつきました。
そして、海外のバリアフリー情報や旅行でのエピソードを発信しながら回る世界一周の旅に出発したんです。
嫌な思い出は、良い思い出で上書きできる
世界一周の旅の始まりは最悪でした。世界一周の旅が始まってまだ数日しか経っていないのに、パリで詐欺グループに騙されていきなり5万円取られちゃったんです。
いや〜ショックでしたね…。友人たちがなけなしのお金を集めて、餞別にくれたお金の一部でしたから。
もうその日は何のやる気もなくなってしまいホテルへ戻ると、おじさんが立っていました。本名はドミニク、でも私はパッと見た雰囲気からピエールと命名し勝手に心の中で呼んでました。
僕は気がつくとピエールに今日あったことを話していました。僕は哀しい。もうパリが嫌いになりそうだ、ルーブルがトラウマになってしまったよ。
ピエールはゆっくり話を聞いてくれて、「何か困ったことがあったらメールしてね」と連絡先を教えてくれました。
翌日朝起きると、ピエールからメールが入っていたんです。
実は昨日のMiyoの話を受付やメイドさんたちに話したんだ。そしたら、朝食を毎日無料で出してあげようよって決まったんだ!みんなが喜んで三代のためにアレンジするよって言ってくれた。
あと、何かあったらこの番号にかけてくれればいつでも助けになるよ。TEL### ドミニクより
ドミニクのメールを見た瞬間、泣きそうになりました。暗い気持ちだったのに、そのあとはすっごく心と体が軽くなってパリの観光を目いっぱい楽しめたのです。
僕はピエールにお礼がしたくてメールを返しました。もし時間があればご馳走したいからご飯でも行かないか?と。
すると返事は意外な内容でした。
いいね、じゃあもう一回ルーブルに行こうよ。その後近くにご飯屋さんもあるからさ。
え、僕のトラウマスポットに連れてくの?僕はご飯だけ誘ったんだけど…。
理解不能でしたが、どうしても連れて行きたかったらしく、おとなしくピエールに連れられるがまま僕はルーブルに向かいました。
夜のルーブルは昼とはまた印象も変わり、ピエールのおもしろおかしいガイドもあって本当に楽しかったです。そして、美術館から出てひとしきり夜の散歩を終えた後、ピエールは立ち止まって夜空を眺めながら僕に一言語りかけました。
君の悲しい思い出が残ったルーブルを、楽しかったルーブルの思い出に変えてあげたかったんだ。
その一言に体が震えました。
僕はルーブルでの事件がきっかけで、たしかにパリが嫌いになりました。しかしピエールのおかげで、結果的にはパリが好きになって離れることができた。
嫌なことがあっても、嫌な人に出会っても、その第一印象で決めつけないで付き合っていればもしかしたら良い印象になることもあるんだ。 嫌な思い出は、良い思い出で上書きできるんだ。
ピエールとの出会いで学んだことは、今後の僕の生き方や考え方に大きく影響を与えてくれました。
270日間続いた世界一周の旅で、僕はいろんなことを学びました。
旅をするまで僕は、障害があること、車椅子に乗っていることは不便で悲しい事ばかりだと思ってました。実際に今でも心のない言葉をかけられることや、やりたいことを「車椅子だから無理」と諦めることもあります。僕は何年もずっと、そんな障害を受け入れられませんでした。
でも旅の途中でアテネで出会い、僕を助けてくれたオジさんがこう言いました。
俺たちは宇宙生まれの宇宙育ち。そんな世界で、性別や年齢、障害なんて関係ない。俺は今日時間があって、体が動いて、君を助けることができた。そんな1日を与えてくれてありがとう。
この言葉をもらった時に、「あれ、感謝されてる。障害ってなんだっけ」ってなったんです。
何となく僕の中で染み付いた、「障害を抱える事で助けてもらうことは=迷惑という事は、被害妄想だったんだと気づきました。
幾多の出会いから学んだことは、自分は自分で居て良いんだ、というとてもシンプルな事でした。
旅というツールを使って、誰かの人生の一歩目を踏み出せるきっかけが作りたい
世界一周から帰ってきたあとは、全国津々浦々での月に数回の講演活動や、旅のコラムや書籍の執筆。大手旅行会社エイチ・アイ・エスのユニバーサルツーリズムデスクでバリアフリーツアーの監修等など、NPOや様々な団体、企業から旅を主としたお仕事いただけるようになりました。
僕はこれから、いろんな人に旅を楽しんでもらえる環境作りをして行きたいなぁと思っています。
旅の定義は様々ですが、僕の中では旅は、ルーティーン化されてる人生があるとしたら“意図的にズレ(非日常)を作る”ことだと思ってます。
現状維持から一歩踏み出して、あえて変化を自ら作る事によってイレギュラーを体験する。イレギュラーが起こるたびに、人は考え、誰かに頼ったり、勉強したりして成長するのかなと思うんです。
僕は師匠から、沢山の旅を経験させてもらいました。
そんな師匠のような人になりたくて、僕は旅というツールを使って誰かの人生の一歩目を踏み出せるようなきっかけ作り屋さんになれたらいいなと思ってます。
「No Rain No Rainbow」本当に小さなきっかけひとつで、人は変われる
講演や旅に関する仕事において最も嬉しいのは、「あなたのおかげで」と言ってくださる人に出会うことに尽きます。
出不精だった方が、「三代さんのおかげで外に出られるようになりました」と言ってくれた時は体が熱くなりました。僕は障害を負ってから「死にたかった」と思うこともありましたが、いつのまにか「生きてて良かった」と思うようになっていました。
僕は、旅は活字が並ばない人生の教科書だと思ってます。そして人それぞれのステージでその教科書の内容は全く違うし、どんどん変わっていく。
引きこもっていた時は、一歩外にでることすら大冒険でした。
しかし外に出るたびに、想像もしていないイレギュラーな出会いや出来事を繰り返して、一喜一憂しながらほんの少しずつ自信をつけていって。そんな積み重ねがいつの間にか自分を成長させて、気づけば過去もがき苦しんできたことが今では、「あれ、昔そんなことで悩んでたんだ」ってなるんです。
僕が世界一周したからすごいだなんてことはなくて、あんなに辛かった僕がここまで立ち直れたのは師匠から学んだ3つのことを大事にしてきたからなんです。
それは出会い、行動、挑戦。もうそれだけ、と言ってもいいくらいこれを大事にしてきました。
誰かと出会うことによって、自分が一人では気付くことのできない新たな価値観に気づく。挑戦することで、小さな成功体験を積み重ねて自信をつけていく。出会いによって得た価値観と、挑戦を繰り返して育んできた自信が行動の幅をどんどん広げていく。
いやいや、そんなこと頭ではわかってる。でもできないんだよ、という方もいらっしゃると思います。
僕も心の底から、その気持ちはわかります。辛い時って本当に周りすら見えなくなって、何もしたくなくなるんです。もう俺なんて何にも役に立たないし、ほんと終わってるな〜って何億回思ったことか。
でも、ひょんな出会いとか、本当に小さなきっかけひとつで人って変われる時が必ず来ると思うんです。それが何かはわかりません。
だからそんなとき僕は、ハワイで出会ったこの言葉を伝えるようにしています。
No Rain No Rainbow
おそらくどんな人にも辛い時期、苦しい雨の時期が必ずある。でもそれは、その後の幸せという“虹”を存分に噛み締めるための、必要な雨なのかなって思うんです。
事故で挫折からの師匠との出会い。パリでの詐欺からのピエールとの出会い。
いつも悪いことってその後にさらに良い形で返ってくる。雨が降るから虹が架かる。
嫌な事があったら…もちろん凹んでも良いし、自暴自棄になってもいい。でも、最後に “これは必要な雨なんだ”と思ってもらえたら、僕は嬉しいです。
関連情報
三代達也さん ブログ Twitter
著書『No Rain,No Rainbow 一度死んだ僕の、車いす世界一周』
(写真/馬場加奈子、編集/工藤瑞穂)