【写真】石垣の前で車椅子に座り笑顔のおちみずようすけさん

こんにちは。落水洋介です。僕は2014年頃に原発性側索硬化症(PLS)という病気の診断を受け、現在は電動車いすに乗って生活をしています。

PLSは少し前にアイスバケツチャレンジで話題になった、筋萎縮性側索硬化症(ALS)という神経難病に似た症状があります。ALSは徐々に全身が動かなくなり、最終的にはしゃべることや、自発呼吸も難しくなり、人工呼吸器をつけなくてはならないこともあるといわれています。

簡単に言うとPLSはALSとほぼ同じ症状がありますが、進行がすこし緩やかです。PLSを発症する人はおよそ100万人に1人。この数字はALSの症例の2%ほどで、とにかく少なすぎてよくわからないという現状もあります。

ただ僕はこの先、どんどん手足が動かなくなり、しゃべれなくなり寝たきりになってしまうことは確かです。現在、歩くことは出来ず、手を動かすこともだいぶ不自由で、言語障害も進行していることをはっきり感じています。

こんなことを話すと『かわいそう!』と思う方もいるかもしれませんが、実は僕は今が一番幸せです。病気をする前よりも今のほうが幸せです。

なんで幸せなのか?

理由は色々とあるけれど、「些細なことや当たり前に感じていたことに『ありがとう』と感謝できるようになったから」というのが1番大きいです。今は、歩けていたことに「ありがたかったなー」と思える。手が普通に動いたこと、普通にしゃべれたことにも同じように思えます。

例えば、友達が遊びに来てくれるだけでめちゃめちゃうれしいし、楽しいし、感謝することができます。以前は当たり前で何とも思わなかったことに感謝できるようになり、ありがとうの数がどんどん増えてきた。その気持ちが大きくなり、僕は病気ではあるけれど、今が一番幸せだなーって心から感じることができているのです。

そんな僕ですが、仕事は当然発症後にやめなければなりませんでした。障害者雇用でも僕の場合は難しく、A型やB型の就労支援施設もありますが、それでは家族を養うことはできないのです。

だから僕は、寝たきりになってもできる仕事を作るために、興味の向くままにいろんなことにチャレンジしてきました。講演活動や、学校での“夢”を伝える授業、熊本復興支援、こども食堂、障害に関する動画配信、ブログや地域づくりのお手伝いなど他にもいろいろ。ボランティアがほとんどですが、楽しくやりがいがあり、この活動は僕の夢につながっていると思っています。

今回はそんな僕のこれまでの経験や、PLSの症状がある今こんなに幸せを感じられている理由などをお伝えします。

超がつくほどネガティブだった、以前の僕

【写真】おちみずようすけさんの幼少期の写真。多くの友達に囲まれている。

一番左が幼少期の落水さん

僕は決して昔から今のような前向きな性格だったわけではありません。超がつくほどネガティブな人間でした(笑)。

子どものころは運動が好きで、サッカーづけの毎日。明るい性格でしたが、自己中心的なところもあったように思います。小学校6年生くらいのときには、いばりすぎたことからいじめに遭い、それをきっかけに、人の目が過度に気になるようになります。

その後も、友人と大人数で遊んだりすることは好きでしたが、人に合わせてしまったり、「人によくみられたい」と思ってしまい自分の意見がなかなか言えなくなっていきました。

大学卒業後は美容室やエステサロン専売の化粧品メーカーに勤務。今は上場するようなメーカーですが、朝から夜中まで働き、まあ鍛えられました。

その後憧れていた先輩が起業し、僕も先輩についていくことにします。ですがしばらくすると、先輩が病気になってしまいました。そこからも、どうしようもない出来事が重なってしまったんです。なんとかしようと頑張りましたが、気づけば自律神経のバランスを崩して、不眠や、真冬でも異常に汗をかいたりといった症状が出てしまいました。

ストレスだから仕方ない、毎日何とかしないと。

そんな思いで駆けずり回っていましたが、限界でした。

2013年12月に安定した生活を求めて転職をし、営業の仕事に就きました。ですが入社後半年も経っていないときに、最初に身体に異変を感じます。31歳のときでした。

「なにかがおかしいけど気のせいだろう」身体に異変が起こった

本当に進行がゆっくりで、今思うといつから気づいていのたか、それとも気づいていなかったのかもわからないほどです。

なにかがおかしいけど気のせいだろう。

そんな状態が半年くらい続きました。

症状が出たのはまずは足から。歩いているだけで、数ミリのアスファルトの凹凸につまづく回数が増えたのです。お酒をのむと顕著だったので「お酒に弱くなったのかなあ」程度に当時は思っていました。

歩きづらさがだんだん酷くなっていきましたが、僕はごまかしていました。

そんなわけにはいかないんだ、まだ転職したばかりなんだ。やっと安定した会社に入り家庭の不安が解消したのに、なんで、なんで。

家庭に不安を与えてしまうことはどうしても避けたかったのです。でもまわりからも指摘されるようになり、病院に行かなきゃいけないなあというとき、偶然テレビでALSのドラマを観ました。

症状があんまりにも似ている…インターネットでも調べて「これはALSの症状かもしれないから、本当にやばいかもしれない」と不安になりました。なぜかこの病気に違いないという確信のようなものと、でも絶対それだけは勘弁してくれという思いが入り混じって、頭が煮えたぎるような異常な状態でした。ですが病院に行っても、病名はわからないまま。

最初に違和感があってから1年後くらいに、僕は会社内で転んでしまいます。それまでも動きがおかしいなど周りからも違和感があったはずでしたが、転んでしまったことで、次の日から突然営業に出ないようにと司令が出ました。

その頃から特定の上司からいじめのような、圧力のようなものを受け始めます。腕を故障したプロ野球選手の例を出して、遠回しに退社を促されたりもしました。入社後すぐだったため、周りもおそらくどう接したらいいかわからない状態だったのだとは思います。

一方そんな様子をみて、優しい声をかけてくれる人もいました。問題が解決するわけではないけれど、心配してもらえるだけでもありがたかく、本当に救いでした。

病名がわからない中での勤務、入院、そして退職

【写真】車椅子で外を移動しているおちみすようすけさん

現実問題としては、給与がないと生活することができない。妻と子どもとの暮らしもあるので、仕事を辞めることは簡単には考えられなかったです。傷つくようなことを言われようと、1日でも長く働かなくてはいけないと思っていました。次の仕事がないことは分かっていたから。

仕事量が多い社員の仕事を分けてもらったり、自分にしかできない仕事を作ろうと考えたりもしました。周囲には事務作業をそつなくこなす女性社員がたくさんいましたが、僕は事務の仕事もできないのに給料をいただいている状態。申し訳なさで悩むこともありました。

結局、とにかく目の前のことを一生懸命こなし、いつか認めてもらえるようにという思いのもと、感じ良く振る舞ったり、当たり前のことしかできませんでした。

その間も個人面談は繰り返され、僕は大丈夫だと伝えても、会社にとっては心配な点や難しさがあったようでした。そしてまずはリハビリのために、いったん入院してみることになったのです。

入院中も病名がわからず治療法もないので、リハビリを少しずつするものの、そもそも歩くことがかなり難しいような状態にはなっていました。実はこの頃すでに、かつては5分歩いて通勤していた道を、30分かけて歩いていたのです。身体に限界がきていたのは事実でした。車椅子での勤務や、障害者雇用なども期待しましたが、実現しませんでした。

そして退院するころ、「やはり復帰は難しい」という展開になり、退職せざるを得ませんでした。

死にたいけれど、お金をどうにか残さなければならない

退職後、身体は杖をついて歩くのがやっとで、左手が少し動かしづらくなってきていました。右手にもたまに違和感があり、緊張すると呂律が回りづらくなっていることも感じはじめます。

そんな中、ようやく病名が言い渡されます。それが原発性側索硬化症(PLS)でした。

自分の体はどんどん動かなくなって寝たきりになる。何もできないどころか家族やまわりの人に迷惑をかけ続けながら生きていく未来なんて、考えられませんでした。

家族の生活を何とかしないといけない。でも寝たきりになる自分には何もできない。死にたい。死にたいけれど、お金をどう残したらいいんだ?

加入していた保険、障害年金や失業保険を調べて調べて、でも答えが見つかることはありません。「なんとかしなければ」と、それだけを思いつづけていました。

自立とは相互依存関係が高いこと

寝たきりでもできる仕事はなんだろう。

そう考えたとき、体が動かなくても自宅でできる仕事はIT関係の仕事だと思いつきます。やってみたいこと、やれる可能性があることを調べて書き出してみて、様々な勉強会にも参加してみたりしました。

そこで、IT企業の社長さんに出会います。その方ははじめて会ったのに話をいろいろと聞いてくれ、その後も心配して何度も連絡をくれたんです。

大分県で障害者の就労に関するフォーラムが開催されたときは、片道2時間以上かかる会場まで連れて行ってくれました。道中、僕の心の闇も含めた話を全て受け止めてくれ、こう言ってくれました。

できなくなることは多いかもしれないけど、落水くんができないことはみんなができるし。例えばITで解決できることがあれば僕がいるよ。

さらにフォーラムに到着すると、登壇者が「自立とは相互依存関係が高い人のこと。社会と繋がってこそ人は価値を持つ」といった言葉を紹介していました。

僕はこれまでは迷惑をかけることが心苦しかったです。でも、支えてくれている人が多ければ多いほど、実は自立しているのだと、この時に知ったのです。

結局一人で生きるなんて無理なんだ。支える仲間が多ければ多いほど実は自立しているし、なんでもできるんだなあ。

そう思い、まず仲間を増やそうと思うようになりました。同時に、自分自身も人間力を高めて、たくさんの人を支えられる人間にならないといけないとも感じました。

「寝たきりの未来は最悪」は自分次第で変えられる

【写真】車椅子に座る笑顔のおちみずようすけさんとなかのげんぞうさん。周りをスタッフの方が楽しそうに囲んでいる。

中野玄三さんと一緒に

同時期に、SNSで難病がある人のブログなども見ていました。ネガティブな発信をしている人も少なくないなか、ALS患者の中野玄三さんに出会います。玄三さんは足先が少し動くだけだけれど、毎日楽しそうに過ごしていました。

玄三さんは電子書籍も出していたので、自分自身と重ねながら読ませていただきました。すると心の中で変化が生まれてきます。

まず、ほんの少ししか動かない足で何冊もの本が書けること自体に驚きました。そして今の“楽しそうなALS患者”になるまでのストーリーが事細かに書かれてあり、自分次第で寝たきりの未来も明るくできるんだと確信できたのです。

玄三さんは病気をした当初から明るく過ごされていたのではなくて、どん底も経験してきた中で築き上げてきた明るさを持つ人でした。勇気をもらったし、自分も誰かの玄三さんになりたいと心から思うようになりました。

この頃、同じような境遇の人が出てくる映画や本などにもたくさん触れました。そこでわかったのは、僕自身が「最悪の未来をみよう」としていたということ。

病気になったことはいくら悔やんでも悩んでも変えることはできない。仕方のないことで自分を苦しめるのはやめて、唯一変えれるのは未来なのだから、焦点を絞って、明るい未来を見るんだって。自分で明るい未来を作るんだって!

そう考えるようになりました。

WHILLとの出会い、人に頼ること

症状が進むにつれ、外出もできなくなりました。でも、外に出ないと何も始まらないんですよね。仲間を増やすために、動きたいと思いはじめていたんです。

そんなときに電動車椅子の「WHILL」をみつけました。見た瞬間に、「車いす=かわいそう、大変そう」といった意識が変わった。好きな服や車を選ぶように車いすを選ぶことができたならば、どんなに良いことでしょうか。さらにWHILLは小回りが効き、小さな段差であれば乗り越えられるんです。

【写真】木の前で車椅子に座り笑顔のおちみずようすけさん

自分ひとりで外出がしたい。いろんな人に会って、寝たきりになってもできる仕事をたくさんつくりたい。だから僕にはこれしかない!

そんな気持ちでWHILLを手に入れるために、役所と病院に行きました。

しかし病院や役所、車いす代理店、WHILLなど様々な打ち合わせをしましたが、事情が重なりなかなか話が進みません。この頃、他にも腹立たしいことがたくさんあったけれど、ブログをはじめていたので「よし、ブログに書くネタができた」と、自分に言い聞かせていました。

ブログを書き出してからはたくさんの人からアドバイスや情報、応援も受け取りました。その中で、町会議員さんを紹介していただいたことがありました。

最初は正直、議員さんにお願いしても制度がすぐに変わるわけでもないし…と否定的な気持ちがあったのも確かです。しかし、実際に会ってみると、議員さんは親身に話を聞いてくれて、有用な情報もたくさん教えてくれました。

なんでもやってみないとわからない。自分ひとりで何でもしようしないで、得意な人に相談するということ。そしてできない自分のことも受け入れないとな、と思いました。

人に頼るのが申し訳ない、恥ずかしいという気持ち。自分でしっかり調べているという自負や、やれることはやっているというような小さなプライドが、まだ人に頼ることに歯止めをかけていたような気がします。

【写真】笑顔でインタビューに答えるおちみずようすけさん

その後は親身になって話を聞いてくださる病院の先生との出会いや、教えてもらった制度の利用、周囲の人たちが僕のために募ってくれた募金などが、重なりました。本当に色々なタイミングが合ったことで、補助金が下りることが決まり、WHILLを購入することができたのです。

発信することで「仲間」が増える

ブログをはじめた当初は、誰も見てくれないと思っていたけど、実際にはたくさんの友達がみてくれていました。近い友人はもちろん、20年近く会っていない人からも連絡があり、家まで会いに来てくれたことも。

応援しているはずが、こっちのほうが勇気とか元気もらうし、もっと頑張ろうと思った。

会う人会う人がそんなようなことを言ってくれたんです。

【写真】サッカー日本代表のおおくぼ選手とおちみずようすけさん。楽しそうな表情の大勢の人々が二人を囲んでいる。

大久保選手と仲間と一緒に

そのうちの一人がサッカー日本代表の大久保選手です。大久保選手とは小学校時代に、北九州市の選抜チームで一緒にサッカーをしたこともあり、昔の知り合いではあったのですが、病気がわかってから改めて連絡をくれるようになりました。決勝点が入ったときにパフォーマンスをしてくれたことがあり、僕やPLSの知名度にもつながりました。

今僕は大切な仲間とともに色々な活動をしています。SNSで出会った方など、もともとは知り合いではなかった人も多いです。病気をしていなかったら会うこともなかったかもしれませんね。

仲間たちはいい意味で僕を巻き込んでくれるので、色々な挑戦を一緒にしています。僕は車椅子に乗り、動作にも不自由があったりしますが、過度に気を遣ってもらったりはしていません。

例えば、階段しかないような場所で飲み会をするなどはよくあることです。でも誰かが自然とおんぶをしてくれたり、外でも車椅子を押してくれたりするので、僕も一緒に楽しむことができるのです。

移動のサポート以外は“普通に”接してくれています。いじられたり、からかわれたりすることだってありますよ。例えば車椅子ごと置き去りにされそうになったり、頭を肘置きにされたり、ひざや車いすの後ろを物置代わりに使われたり、見えないことをいいことに車いすの後ろに張り紙をされたり…(笑)。

こうして自然体で接してくれていることが、本当に大きな支えになっています。

例えば僕が講演したいと言えば協力してくれる。そもそも僕が言う前に周りの方が企画して人を集めてくださったりします。「こんなことがしたい」と夢を語ると、仲間がまた仲間を呼んで叶えてくれるんです。仲間が知恵を集めてくれるから、仲間と一緒であれば何でもできちゃうような気になってしまっています。

【写真】満面の笑みのおちみずようすけさんと仲間たち。それぞれポーズをとっていて楽しそうな様子が伝わってくる。

仲間と一緒に

自分が応援してくれるみんなにできることは?

かつて僕はそう考えていました。でも僕の姿をみて元気や勇気を受け取ってくれるのであれば、頑張ることでしか恩返しができないと思います。だから仲間の存在は僕にとって、とても大きいんです。

「なにかしたい」という思いで熊本の復興支援に

仲間とともに活動したことのひとつに熊本復興支援があります。

僕は以前、仕事の都合で仙台に住んでいたことがあります。でも東日本大震災のとき、僕は、何もすることができなかった。とても後悔しています。

だからこそ、熊本での地震が起こったとき、「何かしないといけない」と強く思いました。すぐに物資の支援などをしましたが、「自分にはこんなことくらいしかできないのか」という悔しい気持ちがありました。

そんなときに偶然SNSを通して美容師である金子泰斗さんと出会い、「何かしたい」という気持ちが一致し、ともにヘアカットのボランティアにいくことが決まったのです。クラウドファンディングにも挑戦しました。金子さんは僕と一緒にいく前からボランティアカットやがれき撤去にも参加していたので、安心してついていくことができました。

【写真】おちあいさんがヘアカットボランティアをしている様子。全部で5名の男女が一列に並び髪をカットしてもらっている。

熊本でのヘアカットのボランティアの様子

当時はまだ自宅に帰れない人が多く、仮設住宅も足りず体育館に集まって、個人のプライベートは確保されていない状況でもありました。突然の地震で家や、家族まで失ってしまった人もいます。それにもかかわらず、驚くくらいに、みなさん本当に笑顔が素敵だったんです。

僕はカットにくる人の受付をしたり、順番を待っている人と話をしたりしていたのですが、熊本のみなさんは僕の病気を気遣ってくれたり、力強い言葉や笑顔をくださいました。

私は戦争で家族がみんな死んだ、今回の地震で家もなくなった。人生はいつ何があるかわからない、だから今を大事に楽しまないと。

あるおばあちゃんはそう話してくれました。

目の前には当たり前はないんだ、命があるだけでありがたいんだ、幸せなんだ。

そんな大切なことを教えてもらいました。熊本に行って、僕は自分が病気で悩んでいることはちっぽけなことかもしれないと思ったんです。

【写真】笑顔のおちあいさんと、熊本で出会った方々の写真。みなさん笑顔でほほえんでいて和やかな雰囲気が流れている。

熊本で出会った方たちと一緒に

時間がたっても、「復興が本当に進んでいるのだろうか」と愕然としてしまうこともありました。たとえテレビやメディアで取り上げられることが減ったとしても、忘れてはいけない。

僕は熊本の被災や復興と自分自身を重ねて考えているところもあったように思います。人間は忘れていく生き物ですが、僕自身「忘れられないひと」でありつづけたい。そのためには行動しつづけるしかないので、ブログなどを通して日常の些細なことであっても発信を続けていくのだと、自分にも言い聞かせています。

キャリア教育研究会『夢授業』との出会い

【写真】イベントにて、真剣な表情で話しているおちあいさん

イベントで登壇しているときの様子

母校から声をかけてもらったことをきっかけに、キャリア教育研究会の「夢授業」という授業に出会いました。夢授業では、小中高校の体育館に、多い時は80業種以上の仕事が大好きなキラキラした大人がボランティアで集まり、子どもたちに話をするのです。

そんな場所に無職の僕が行って何をするのだろう?

ひとまず参加してみると、北九州キャリア教育研究会の木原大助さんは「5分ぐらいみんなの前で話をしてみてほしい」と言ってくれたんです。きっとこの時はまだ僕のことを詳しく知らないはずなのに機会をくれた。それは居場所をもらったような感覚でした。

病気をした僕だからこそ、子たちに伝えられることがあるんじゃないか。学校で発信をしたり、子どもたちに障害のある人と触れ合う機会をつくりたい。

今はそんな思いを実現できる場所になっています。

キャリア教育との出会いで、人とのつながりも広がり、新しくやりたいことも発見できました。各業界で活躍しているひとばかりなので、より「なんでもできちゃうかもしれない」という思いが強まったんですよね。今はなぜか事務局という役割も名前だけですがいただいて、とても大切なライフワークになっています。

こうした場へは自分から出向いたものもあれば、見つけてもらえたものもあります。思い返すと、ほぼほぼ周囲の人たちに引っ張りあげてもらったかもしれません。

「前向きは技術」だということ

これまで学校や病院、公民館、企業、ライブやフェスなど様々な場に出向いてきました。

そんな病気をしているのに前向きですごいね。

活動をしていると度々こう言われます。確かに今は少しずつ前向きな解釈が出来るようになってきましたが、もともとの僕は超がつくほどネガティブな性格でした。

周囲の人にどう見られているかが気になり、自分の意見を全く言えない。相手の考えていることを過剰に気にして、緊張するようなタイプでした。飛び込み営業の仕事をしていた時も、「迷惑なんじゃないか?怒られるんじゃないか?」などいろいろ考えて踏み出せなかったほど。

【写真】楽しそうにイベントで話しているおちあいさん

だからこそ思うのは、「前向きは技術」だということ。

練習を繰り返すことで「前向き」は身につける事が出来ます。僕の場合は、2年ぐらいかけました。

病気がわかってからは、お金のトラブルもありましたし、生活をとりまくあらゆることに影響があり、きっと「誰が見てもかわいそうと思われるような最悪な事実」がたくさん襲ってきました。はっきり言ってどん底の状態でした。

しかし、このままでは駄目だという思いもありました。多くの本や映画、SNSを見る中で、僕以外にも大変な人はたくさんいるということが分かり、少し自分を客観的にみる事が出来ました。そして、どんな状態にあっても、いきいきと楽しく生きている人が大勢いることを知って、前向きに考える練習をするようになりました。今は色々なことに「笑うしかないよね〜(笑)」と思っています。

でも、ネガティブを否定しているわけではなくて、慎重に考えたりすることも必要だと思っています。ただ、壁にぶち当たった時などは、ポジティブな解釈が出来ると精神的負担が軽減されるし、楽しいので僕は力いっぱいお勧めします。

僕がそうだったように、誰もがいつ病気になるかわからないし、事故にあうかわからないし、災害に会うかわからない、誰もが障害者にいつなってもおかしくないんです。年を取り、足腰や目や耳も悪くなり障害を感じるこもあるかもしれない。

障害者にやさしい社会はきっと、みんなにやさしい社会。障害と健常と分けるのではなく、みんなにやさしい社会をみんなで考えていけるような社会にしていきたいです。

「寝たきりの楽しい人生」を描いて

現在はお互いに実家に住んでいるため、別の場所で暮らしているのですが、僕には妻と、6歳と9歳になる2人の娘がいます。

家族のためにも、寝たきりになってもできる仕事をたくさんつくって、その仕事で喜んでもらいながら、前に進みたい。これが僕の描く「寝たきりの楽しい人生」です。

そのために今は、ボランティアや講演など、活動の中で仲間を増やして、できることはなんでも挑戦していきたいです。PLSだからこそ生まれる出会いやチャンスもあるから、今は病気は自分の武器にもなっているとも思えます。

これからも仲間と一緒に、漫画のワンピースみたいに、それぞれ得意分野を生かして楽しく生きていけたらと思います。

実は、2018年3月にはとうとうデイサービスセンターの広報としての仕事をいただくことができました。活動を発信し続けたことを認めてもらったことがきっかけです。これは僕にとっての大きな一歩。これからも場所や範囲を広げながら、寝たきりになっても家族をしっかり養っていける状態をつくっていきます。

【写真】木々の前で、満開の笑顔をみせて車椅子に座るおちあいさん
僕ははじめ病気になったことを悔やみ悩み、自分の心を傷つけ苦しみました。でもいくら悔やんでも変えることはできないんですよね。

はじめは「寝たきりになる未来は暗いんだ」と勝手に思い込んでいました。でもALSで寝たきりでも、めちゃめちゃ楽しそうに過ごしている先輩を見てしまいました。思い描けば、明るい未来は作れるということを知ってしまいました。

だから、僕の寝たきりの未来は明るいと今は思えるんです。過去は変えられないけど、未来だけは変えることができる。どうせなら、明るい未来がいいに決まってます。

僕はこれからも、寝たきりの明るい未来を描き楽しく生きていきます。

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