こんにちは、木戸奏江です。私は10歳の時に顔面肩甲上腕型筋ジストロフィーと宣告され、20歳から車椅子に乗って生活するようになりました。現在は、WHILL株式会社という次世代型の電動車椅子を製造するベンチャー企業に勤めて、マーケティング業務を行なっています。
今回は、私自身が10歳の時に筋ジストロフィーであると宣告されてからの経験と、車椅子利用者として多くの人に知ってほしいことについてお話できたらと思います。
“上手に笑うこと”が苦手だった幼少時代
顔面肩甲上腕型筋ジストロフィーとは、年齢とともに症状が進行し徐々に筋力が低下していく難病です。進行についてはひとそれぞれですが、顔面肩甲上腕型では初期症状として、顔面と上半身の筋力低下が見られます。
私に初期症状が見えはじめたのは、2歳か3歳くらいの頃からでした。私は身体を動かすことが大好きで活発な性格でしたが、「感情が顔に出にくい」子どもだったそうです。
笑った時もニコッとした表情が出にくいことから、「楽しい」と思っていても、周りには伝わっていない。そのせいで、思っていることがうまく伝わらず、誤解が生じてしまうこともありました。
もしかしたら、自分が想像している自分の見え方と、周囲に映っている自分の姿は違うのではないか。どうすれば人と同じように笑えるんだろう。
表情で伝えることができないせいで、自分を表現できない。幼いながらにこの状況に悩むこともありました。
私の中では、笑顔をつくれないことは手足などの不自由さとはまた違う、社会生活での支障が出ると感じています。なぜなら笑顔になれない理由が、「物理的に筋肉が動かない」っていう発想にはみんなきっとならないから。だから「愛想の悪い人だな」とか「何を考えてるのか分からない」みたいな印象になってしまう。
身体的にできないことがあるわけではないので、助けを求める状況がなく、それをカミングアウトもしづらいので、どうしても誤解されてしまいがちだなと思います。
10歳のときに筋ジストロフィーと診断される
感情が顔に出にくいこと以外は何不自由なく過ごしていたので、病院に行くこともありませんでしたが、小学4年生の時に身体にも症状が出始めました。
当時、私は剣道クラブに所属していて、素振りの時のフォームを確認するために腕を頭上に挙げたポーズで止まるように指示されたときのことでした。他の部員がぴったりとポーズを止めている中で、私は腕を上げて止まることができなかったのです。何度やってもどうしても止まることができず、不可抗力のように腕は落ちてしまいました。
このことをきっかけに「他人と自分の腕は何かが違う」と思い、親と一緒に病院に行きました。
上手に笑えていないことにも関連しているんじゃないか。
母はそう考えたようで、整形外科を受診しました。医師からは何らかの筋疾患の可能性があると言われ、今後は神経内科の受診をすることに。
そこで精密検査を受け、「筋ジストロフィー」と診断されました。
両親は10歳の私に、表情のこと、腕が上がらないことは病気が原因だったと伝えてくれました。
表情のことも腕のことも、原因は私の努力不足じゃなくて病気だったんだ。病気なら風邪と同じように治るものなんだろうな。
私自身はそのとき、精密検査をすること自体を深刻に捉えていなかったですし、徐々に筋力が低下していくことも知らなかったので、悲しい気持ちはありませんでした。むしろ、悩んでいたことは自分のせいではなく病気のせいなんだとわかって、ホッとする気持ちの方が大きかったです。
「徐々に障害者に近づいている」という感覚
当時も現在も顔面肩甲上腕型筋ジストロフィーに有効な治療法はなく、病気は少しずつですが確実に進行しています。
少しだけ徒競走が苦手だった小学生が、走ることのできない中学生に。そして中学三年生になるときには友達の歩くスピードに追いつけなくなりました。その頃には足を引きずる歩き方に変わり、クラスの男の子から馬鹿にされたこともあります。
“何かができなくなる”だけでなく、私の身体の動きは他のみんなとは“違うもの”になり、自分が異質で目立つ存在になってきていることを自覚し始めました。
他人事だと思っていた「障害者」に、自分がなりつつあるんだ。これから先、どれだけのことができなくなるのだろう。
考えると不安で、病気が進行していく怖さを感じました。両親が親として責任を感じていることも察していたので、この気持ちを伝えることはできなかったです。それでもやっぱり気分が落ち込んだときは、保健室の先生やカウンセラーの先生に相談していました。
ただ話を聞いてくれる人の存在は、私にとってすごく大きかったです。病気のない人に「わかるよ」と言われても信じられなくて、腫れ物に触るような扱いや特別扱いも、みんなと同じだと思いたい当時の私の気持ちを重くしていたと思います。
病気について考えていることを誰かに話しながら整理して、むやみに感情的になることなく解決策を見つけていけたことが、私の糧になったのだと思います。
こうして、中学・高校、と無事に卒業し、私は大学に進学しました。
車椅子ユーザーになって抱いた「自分らしくない」という気持ち
大学では社会福祉学の中に自分の人生のヒントがあるのではないかと思い、教育学と社会福祉学を総合的に学べる学部に進学しました。
1年生の時はまだ歩けていて、パッと見では障害者だと思われないこともあったため「外見からは分からない障害」という観点で、精神障害者の福祉について学んでいました。車椅子に乗り始めてからは「こうありたい自分」と「他者から見えている自分」のギャップや社会的イメージという観点で、LGBTについて学んだり。広くマイノリティの存在について勉強しながら、自分との共通点を探っていました。
私は高校生の時、病気に理解のある友達がクラスでたくさんできて楽しかったことから、大学入学時に「わざわざ顔の表情のこと言わなくてもやっていけるんじゃないか」と思いカミングアウトをしませんでした。そしたら不愛想なキャラが定着してしまって、なかなかその壁を打ち破れなくなってしまいました。
このままだといけないな。
そう思い、入学して3ヶ月後に、懇意にしてくださった教授に授業中の時間を10分もらって同じ学部の同級生にカミングアウトすることに。
なーんだ、あんまりお喋りが好きじゃない子なのかと思ってたよ。
いろんな子がこんなふうに声をかけて来てくれるようになったんです。そこから一気に本来の自分で人間関係を築いていくことができました。
それでも症状は進行していき、歩くと疲れやすくなりました。でも病気を理由に行動範囲が狭められることは嫌だったので、二年生のときに電動車椅子を使うことに決めました。電動車椅子は移動手段として画期的だと思っていたので、自転車のように必要な時だけ生活に取り入れていければと思っていたんです。
しかし、乗り始めて気づいたのは、周囲からの強い視線でした。
車椅子生活になっちゃったのね、病気が進行しちゃったのね。
友達のお母さんにそう言われてしまったり、遠目に見ている人から気づかいの目を向けられることは違和感がありました。
行動範囲を広げるための前向きな選択として乗り始めた車椅子なのに、周囲からは「病気で車椅子生活になってしまった可哀想な子」と思われている。
そのギャップが悔しくて、「こんな見られ方をしているのは自分ではない、自分らしくない」と思いながら生活していました。
「障害」は属性のひとつ。「障害者」であることが自分を構成する全てではない
違和感をはっきりと明確に言語化できるようになったのは、アメリカ留学で知ったある障害への価値観がきっかけでした。
当時私は、大学の最寄駅には実用的な場所にエレベーターがなかったので、大阪市の自治体に駅にエレベーターをつけてもらえるように要望書を提出する課外活動をしていました。活動を続けているうちに、自治体のバリアフリー施策には、当事者の意見を汲み取り、活かすプロセスが少ないのかもしれないと思い始めるようになります。
そんなとき、障害者を対象にボストンでアメリカの公共交通のバリアフリーについて学ぶプログラムがあることをインターネットで知り、参加を決めたのです。
もちろん公共交通に関しての学びも語り尽くすほどあるのですが、5ヶ月の研修で私は「『障害』は性別や年齢、国籍と同じように、その人の属性のひとつである」という価値観に出会うことができました。
私という人間は、障害者であると同時に女性や学生、日本人といった様々な属性を持っている。だけど、車椅子に乗るようになってからはどんな時も「車椅子に乗った障害者」としてしか見られない寂しさがあったんだ。
そう気付くことができました。
例えば、私たちが「日本人であること」は自らの一部であり、影響をもたらしていると思います。でも、それを日本の中で意識することってそんなに多くないですよね。生活の中で「日本人っぽい行動」にとらわれる必要もないですし、「日本人であることに関して」何かを思うということも少ないかもしれません。
私は障害者になった途端に「障害を受け入れる」とか「障害を肯定/否定する」とか、障害に関して何かしらの感情のアクションを決めなければいけないような気がしていました。初対面の人が「障害者はこういう人たち」というフィルターを通して私と接しようとしている、と感じることも少なからずありました。
「障害者であること」は属性だから、何かの感情を付けなければいけないわけではないし、「取るに足らないこと」と考えるのもアリ。そういうドライな距離感でいいのかもしれないと、今は思っています。人間関係の構築においても障害は関係ないんです。
「障害者であること」は私を構成するものの一部であって全てではない。
そう気づいてからは、もっと「障害者であること」から自由でいてもいいと思えるようになりました。
そして、もっと障害に捉われなくてもいい環境を作りたいと思いました。
次世代型の電動車椅子「WHILL」との出会い
電動車椅子は、運転しても疲れにくく行動範囲を広げてくれて、乗る人の可能性を広げてくれます。ただ、心理面では葛藤を伴う場合もあると思います。私自身、不必要に障害や病気を強調させ、本来持っている性格や豊かさを隠してしまう側面もあると感じていたのです。
「車椅子にはなるべく乗りたくない」といった抵抗感を払拭し、胸を張って移動できたらいいのに。車椅子が障害や病気の象徴となってしまっている今の状況を変える方法はないだろうか。
そう思っているとき、現在勤めているWHILL株式会社に出会いました。
デザインとテクノロジーの力を生かした、 身体の状態や障害の有無に関わらず、 誰でも乗りたいと思えるパーソナルモビリティ
WHILLのコンセプトを知ったとき、「私が考えていることに取り組んでいる会社があるんだ!」と心が踊りました。そしてこだわりの詰まったスタイリッシュなデザインと、障害のある人だけでなく、全ての人がさまざまなシーンで使えるモビリティとして使われることを目指す姿勢に、車椅子への壁を取っ払う可能性を感じたのです。そのデザインはまさに「乗り物」で、WHILLに乗れば「障害者であること」から自由になれるのではないか、と思いました。
この胸の高鳴りを行動に移したいと応募をし、インターンを経験することになります。
インターンではユーザーヒアリングなどの経験をし、有意義に過ごすことができました。そしてこの先の未来で、WHILLは既存の車椅子のイメージをどのように変えて行くのかを思い浮かべると、インターンだけで終わらせたくないと思い、2ヶ月のインターンを経て正社員として入社を決めたのです。
WHILLの一番のファンとして多くの人に希望を伝えたい
現在は、マーケティングコミュニケーション部で、広報誌である「WHILL MAGAZINE」の企画から執筆、発刊などに携わっています。
「WHILLがその人にとってどんな存在なのか、その人の人生がどのように広がったのか」を伝えられる広報誌を作りたいと思いながら働いています。
また、社内でWHILLユーザーは私だけなので、エンジニアに使い心地や要望をお伝えすることもあります。自分が欲しいと思った機能や感想が開発に貢献できていると思うと嬉しいです。
以前、筋ジストロフィーの患者さんが集う場で、こんな方に出会いました。
歩くのはすごく疲れるけど、車椅子に乗るのが受け入れられなくて、無理やり歩いているんだよね。
車椅子に乗ることへの抵抗感を抱いている方はまだまだ多いのだと感じます。
私も以前、車椅子に乗ったまま写真に写るのが苦手だったことを思い出しました。まるで気に入らない服を着せられているような感覚で、写真を撮るときは車椅子から降りていたんです。
ですが、WHILLに乗り始めてから、それも含めてありのままの自分だと思うことができています。WHILLに乗っている私の写真を撮ってほしい!と思うほどです。
そのほかにも、電車に乗ったり、海や観光地を見たり、友達の家に行ったり。行きたいと思った場所を障害を理由に諦めることもなくなりました。障害があるから車椅子に乗せられているのではなく、自分で選んで乗っているという自信にも繋がっているような気がしています。
筋ジストロフィーと宣告されても、変わらずに接してくれた両親の存在
私の人生には、両親の関わりによる影響がとても大きいと思います。筋ジストロフィーの診断を受けてから、両親が病気について触れることは多くなかったですが、同時に今までと接し方を変えることもありませんでした。
そのおかげで、私は「できないことが増え、諦めることも増えていく」という考え方ではなく、「できないことが増えていくならば、どのように補っていくか」を考えるようになれたのです。
「障害があるからできないのは仕方ない」「危ないから諦めなさい」
両親の口からは、そんな言葉を聞いたことはありません。だからこそ、私は病気を宣告された後も、課題活動や留学、一人暮らしなど、やりたいことに挑戦し続けてこれたのだと思っています。
病気が消えなくても、障害は消せるもの。
私はいろいろ活動をしていますが、正直、病気と完全に折り合いをつけられているわけではありません。無理矢理に「乗り越える」や「向き合う」ことを考えると、壮大で掴みどころのない何かを相手にしているような気持ちになり、気分が落ち込んでしまいます。
病気って自分にとってなんなんだろう。障害は私の人生にどう影響しているのだろう。そもそも折り合いをつけるってどういうこと?
長い時間、多くの人に話を聞いて、考えてきました。
私の病気と障害に対する考えに大きな影響を与えたのは、大学で学んだ障害への2つの考え方。障害の原因は障害者本人の側にあるとする「個人(医学)モデル」と、障害の原因は社会の側にあるとする「社会モデル」です。
それまではただ「病気が治らない限り、障害は存在し続けるもの」だと思っていました。いわば「個人(医学)モデル」の視点しか持っていなかったんです。けれど「社会モデル」の視点を知ったことで、「社会を変えていくことで障害はなくしていけるもの」だと知ったんです。
アメリカ留学中にルームシェアをしていた障害のある友達が言った、印象的な言葉があります。
障害がある自分を好きなときも嫌いなときも、どちらもあっていい。その方が自然だよね。
さっき「障害は属性である」という話をしましたが、女性であることや、日本人であることが無条件に不利になる状況におかれたりしたら、属性を疎ましく思う方もいると思います。反対に、女性として、日本人としての楽しさを感じれるような環境だったなら、自分に自信や誇りを持てるのではないでしょうか。障害も、それと同じだと思います。
自らの属性に対してどう思うかは、社会のあり方にも関係します。だから「障害を乗り越える」とか「障害と向き合う」という姿勢を、障害者が目指さなくてはいけない、ということではないのだと思っています。
私にとって、病気と付き合っていくのに必要なことは、自分を鼓舞したり前向きな格言を読んだりすることではありません。障害が不利にならない環境を、周りの人と一緒にコツコツと築いていくことです。まさに「社会モデル」を前提とした付き合い方です。
なので私は、生活のなかで少しの工夫をしています。
例えば職場で安定して働き続けるために、週一回の訪問看護や定期的な通院を行い、身体の変化を丁寧にフォロー。身体が疲れやすいので、会社内にベッドを置いてもらい、1日1回横になって休めるようにもしています。
午前中に体調が悪くなったときは出勤・退勤時間を調整したり、少しでも「疲れてきたな」と思ったら無理をせずに休むことも大事にしているのです。
他にも、平日は朝に1時間ヘルパーさんが来て、私ができない部分の家事を援助してもらうなど、障害者自立支援法に定められたサービスも利用しています。
「病気に立ち向かう」のではなく、小さい工夫をいくつも見つけたり、近くにいる人に協力してもらったりして、少しずつ障害を無くしていけるように心がけています。これってきっと、病気にかかわらず、仕事や受験や、人間関係など、いろんな悩みと共通しているとも思うんです。
「障害者」といっても、一人一人違う人間で、考えも様々。どちらの考えが間違っているなどということはなく、きっと正解はありません。
読んでくださったみなさんに、いろんな考えの障害のある人がいるのだということが、お伝えできていたら嬉しいです。
テクノロジーの進化やバリアフリーの推進により、“物理的な”不自由は今後どんどん解消されていくでしょう。それと同時に私が大切にしていきたいのは「障害者であること」から心理的にどれだけ自由になれるか、というところです。
以前は、歩けなくなったらいろんなものを失うのだろうなと漠然と想像していましたが、実際そうなってみると失うものは案外多くはありませんでした。むしろ今の仕事に出会ってやりがいを持って働くことができたり、こうして誰かに自分のことを伝える機会に恵まれたり、人生はより豊かなものになっていると思います。
私はきっとこれからも、考えつづけたり、誰かと話をしたりしながら、あらゆる場面で豊かさを見つけていくのだと思います。
関連情報
WHILL株式会社 ホームページ
(写真/川島彩水)