【写真】街頭で笑顔で立つまつらひでのぶさん
こんにちは !まつらです。僕は「精神障がい者の孤独をこの世からなくす」ことを目的とした「NPO晴れのこ」の代表をしています。

晴れのこでは直接繋がれる体験談を集めたホームページを作ったり、オンラインサロンを運営したり、精神障がい者の孤独をなくすための仕組みをつくっています。

そもそもなんで僕がこの活動をするようになったかというと、僕自身が精神障がい者になってしまったから。僕には「双極性障害I型」という精神障がいがあります。

双極性障害とは躁と鬱を繰り返す病気のこと。簡単にいうと、気分がハイになり多弁多動になる躁状態と気分が下がって何もできなくなる鬱状態が繰り返し訪れます。

そして、双極性障害にはI型とII型があります。その違いは躁状態の大きさで決まります。I型は躁状態の症状が重く人間関係や社会生活に影響を及ぼすほどの激躁状態がみられ、II型はそこまではいかない軽躁状態がみられます。

僕は躁状態が激しく、症状が出ると気がとても大きくなり、金遣いは荒くなり、しまいには妄想が激しくなって幻聴幻覚までもが現れ出します。そのおかげで三年連続で精神科閉鎖病棟の隔離部屋に、医療保護入院(本人の同意がなくても、精神保健指定医が入院の必要性を認め、患者さんのご家族等のうちいずれかの方が入院に同意したときの入院)をすることになってしまいました。手足とお腹をベルトで拘束されてベッドで過ごすのを3回経験しているのです。

精神障がいになることで、本当に多くのものを失いました。仕事、恋人、友人、居場所、理想像・・・。つらくなく死ねたらどんなにいいものか、ということしか考えられない日々を過ごした時期が何回もありました。

しかし今の僕には死にたい気持ちは一切ありません。むしろ、とても前向きに楽しく幸せに日々を暮らしています。

なぜなら、今の僕には孤独感がないから。みんなの孤独をなくす活動をしていたら僕の孤独もなくなっていったんです。

僕の人生が誰かの力になれるなら幸せだなと感じながら、僕の話をさせてもらいます。

自分が好きで、未来にワクワクする。そんな子ども時代

僕は社会人になるまで精神疾患とは無縁な人生を歩んできました。友達にも恵まれ順風満帆に過ごしてきたように思うので、まさか自分が精神障がい者になるとは誰も予想ができなかったと思います。

元気な頃の僕は正直、精神障がいに対して「甘えだ」とか「努力不足」とかの偏見も持っていたと思います。だからこそ、自分が精神障がいになった時の苦しみはとても大きかったですね。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるまつらひでのぶさん

僕は東京で三人兄弟の長男として生まれ、優しい両親と祖父母にたくさんの愛情を注がれながらすくすく成長しました。性格はおっとりしていて、そのおかげか小さい頃から友達にも恵まれていて人気者でした。

中学、高校でもラグビー部に所属したり、生徒会長を務めたり活発に過ごしていました。この頃から、活動量が多い状態が僕の生活のスタンダード。全てに全力を注ぎ、うまくこなしていたように思います。

大学では、軽音楽部に入り日々バンド練習をし、ライブをしては打ち上げで大盛り上がりをするという生活に。

様々な活動が功を奏したのか、就職活動では大手金融から内定をいただくことができました。内定してからは真っ先に同じ内定者の人たちと交流し、飲み会の幹事をしていたので、「まつらは幹事キャラ」というイメージがついていたと思います。

人事の方々からも期待をされていたため、未来を考えればワクワクし、初めての一人暮らしにも胸を高鳴らせていました。

大学卒業までの僕はもちろん時には悩むこともありましたが自分が好きで、自分は優秀であると思い満足感を得ていました。プライドもあったように思えます。

今振り返ってみて、僕の場合どれが躁状態だったのかはわかりません。僕自身がずっとパワフルに生きてきたため考えようによっては全てが躁エピソードにも見えるし、自分本来の力のようにも見える。このことが、自分は双極性障害ということを受け入れにくくしていたように思います。

希望に満ち溢れた社会人生活は、いつのまにかつらい毎日に

新卒で会社に入ってからは、北海道営業部に所属。緊張と不安もありましたが、それよりも「これから頑張るぞ」という気持ちであふれていました。

僕が配属されたのは4人のチームで、主任が一人、その他の若手2人と僕の構成でした。その若手のうちの1人が僕の育成担当者となり、4人で北海道全域をカバーします。プレッシャーでもありながら、支社長に「まつらを引っ張って来れたから安心している」という言葉をかけてもらったこともあり、光栄に思っていました。

しかしここからが地獄の始まりでした。

うまくいっていたのは配属されてほんの1ヶ月くらい。僕は、育成担当者の方と本当に本当に馬が合わなかったのです。人生ではじめての、「人ととことん合わない」という経験でした。

僕は新社会人ということもあり、至らない点はたくさんありました。仕事でヘマをしてしまうと怒られ、その度に緊張してもっとヘマをするという悪循環に陥っていきます。

その育成担当者に対しては「敬語も完璧でなければ」と頭に刷り込まれていたので、話しかけるだけで心労が溜まっていきました。

確実に僕の心はおかしくなっていき、生きているだけで極度の緊張している状態になってしまいます。

今から考えたらパワハラだとわかるやりとりも、僕はそれが社会人というものだと思っていました。環境がおかしいのではなく自分がおかしいんだと。

この時に僕はだいぶ痩せたなーということに気づきました。そしてそんな程度のことで辛く感じていることは恥ずかしくて誰にも言えない、と強く思っていました。

この頃に、会社に行こうとすると汗がたくさん出て、時には嘔吐して、でも行くだけは行っていました。そしてなるべく誰にもバレないように頑張って取り繕っていました。

【写真】インタビューに答えるまつらひでのぶさん

配属から半年くらいたった頃です。会社から帰宅し、夜ご飯も食べずに自分の部屋でぼーっとしていました。

この生活が一生ずっと続くのであれば、多分死んだほうが幸せだな。

そう思い、マンションの最上階へ行き、死ぬことに決めました。エレベーターで最上階に上がるまでは無心で上がっていくのですが、最上階から地面を見ると恐怖心をとても感じました。

これは落ちたら痛いんだろうな。死ぬことも無理だ。

生きることも無理で、死ぬことも無理。そんな状態に僕は1人で泣き崩れ絶望しました。そうなってから、はじめて父親に電話をしたのです。

すると父親は近くの心療内科を探してくれました。病院に行き事情を軽く話すと、医者からはすぐに休職した方がいいということを告げられました。

それを聞いた僕の心のなかは、安心が2割、不安が8割でした。

社会人一年目でまだ半年しか経っていないのに休職してしまったら今後の人生はどうなってしまうのか?藁をも掴む思いで、先生に聞き続けました。この時はじめて自分の悩みを誰かに相談でき、心が少し柔らかくなったように思います。

診察が終わり、その日に診断書と薬をもらいました。診断名は「適応障害」でした。(この頃はまだ双極性障害I型だとわかっていません)

人生で初めての精神疾患を治療するための薬。プライドが傷つき、障害者の烙印を押されたような気分になりました。しかし、やはりつらかったので早くよくなりたいと思い、薬にすがるような気持ちもありました。

「つらかったな」友人の言葉に、自分は生きていてもいいと思えた

休職期間は実家で過ごしたのですが、だらだらする日々がしばらく続きました。その後はメンタルクリニックがやっている、職場復帰のためのリワークに通うように。

ワークのなかでは、心理士さんと一緒に再発予防策について考えてみました。自分が体調不良になってしまった原因は何か、きちんと向き合ってみようというものでした。

僕はそれまで、会社でいじめられていたことを誰にも話してきませんでした。恥ずかしいことだと思って言えなかったのです。しかし心理士さんのアドバイスを受け、自分が会社でされてきたこと、どんな気持ちだったのかということをできる限り紙に書き出しました。

すると「これは会社にも提出しましょう。泣き寝入りはいけません」と言われました。

このあたりで、「僕がおかしくなったのは僕が一方的に悪いわけじゃないんだ」ということに思うことができるようになってきました。ずっと自分を責め続けるしかない環境に身を置いていたため、認知の歪みが生じているということを教えてもらったのです。心はだいぶ楽になりました。

僕は自分が弱っている姿を見せたくないという思いがあり、友人との連絡を絶っていました。でもこの頃から、友人たちとまた連絡がとれるようになっていきます。

辛かったな、ほんと死なないで良かったよ。

そんなふうに友人は、僕のために泣いてくれました。

あ、僕を好いてくれる人もいるんだ。僕は生きててもいい存在なんだ。

友人の言葉によってそう思えるようになった僕は、みるみる元気になりました。

【写真】笑顔でインタビューに答えるまつらひでのぶさん

しばらくして復職のために体調を慣らそうと、北海道へ戻りました。そして、北海道のリワーク施設を運営しているメンタルクリニックにかかることにします。ここではすごく活発に活動することができ、プライベートでは彼女もできました。

自分のことをなんの価値もないと感じていた僕が、リワークで認知を修正してもらい、友人との交流で自己肯定感を得て、さらには彼女ができたことで完璧に自信を取り戻していました。満ち溢れるエネルギーで、常にプラスのオーラを放ちながら活動している状態だったと思います。

僕の人生これから明るい気がする!まだまだ捨てたもんじゃないんじゃないか。こっから挽回するぞ。

そんな状態で僕は会社に復職することとなりました。

僕はなんでもできる!万能感が募った先に

復職は時短勤務から始まりました。今思い返すとどこからが躁状態だったのかはわかりませんが、確実に気分は上がっていたと思います。

今までの分を取り返して見せる!

多幸感と自信となんでもできるという万能感は、二次関数のごとく昇りに昇っていきました。

でもこのあたりから、また雲行きが怪しくなります。僕は多弁で多動、いろんなことが思いつくから質問もたくさんして、周りの人に対しても社会人経験が一番ないくせにアドバイスや提案をしだすようになります。その姿は一見やる気がある人なのですが、周囲にとっては不快感を伴うものだったかもしれません。

気分が上がって交友関係も活発になり、毎日仲間と飲みに行き、日々の飲酒量も増えていきました。そのせいであまり寝ない日も多く、会社に寝坊で遅刻する日が出てきて、そのうち会社では僕への不信感が生まれてきてしまいました。

それを挽回しようと、仕事で思いついたアイデアを関係者に伝えるのですが、それが受け入れられないと「いい案なのになぜ?みんなやる気がないんだ」と僕の中には怒りが募っていきます。

そして、とうとう事件が起こります。育成担当者と衝突を起こし攻撃的な言葉を言われた際に、「家に押しかけられて殺されるかもしれない」と思い込み、僕は会社関係のあらゆる人に「育成担当者がこれから家に乗り込んでくるかもしれないので助けてください!」と電話をしまくったのです。

布団にくるまり泣きながら恐怖に体を震わせ夜を過ごした翌日、僕は人生で一番憤慨していました。

死の恐怖を味合わせた育成担当者が許せない。こういう人間がいるから昔の僕のように辛い状態になってしまう人が出てくる。許してはいけない!

その思い一心で知り合いの弁護士事務所に相談したり、本屋へ行き労働基準法の本を何冊も買って調べました。

そして出勤日、たくさんの本を持っていき、朝礼で手をあげて、「僕はもうこの会社をやめます!この育成担当者を訴えます!」と叫んだとともに、本を机の上にどさっとのせました。

当然周りはびっくりしてしまい、僕は上司と一緒にメンタルクリニックに行くことになりました。

そこで先生に事情を話し告げられた病名が、「双極性障害I型」でした。

躁と鬱を繰り返していく日々

僕は2度目の休職をすることになりました。でも全くがっかりはしていない状態で、むしろ闘志をメラメラと燃やし「起業しよう」と思い始めたのです。

まずカードローンで軍資金を確保し、じゃんじゃん金を使いながら飲み屋仲間に事情を話していろんな人を紹介してもらいます。そして出資者とバーを経営したい人を見つけ、なんとたった2ヶ月でバーをオープンしたのです。

しかしこのバーをオープンするあたりで、彼女と別れたこともあってか、僕の体力は尽きていき、どんどん鬱っぽくなっていきました。そして、なんとか出資者にも双極性障害という事情を話し、バーのことは全て代表にした人に任せるかたちに。

その後、父のアドバイスもあり、僕はもとの会社に復職します。幸いなことに病気を理解してもらえていて、みんなとても優しく接してくれました。しかし精神不安定な状態は続き、デスクで心苦しみながら座っているだけの日もありました。

僕の人生はなんなんだろう、頑張って生きてきたつもりなのに。

結局、状態がよくなることはなく、僕は退職することにしました。こんな僕なのに会社の方々は送別会を開いてくれ、その優しさは今でも心に残っています。

【写真】街頭で笑顔をみせるまつらひでのぶさん

退職して数ヶ月休んだあとは、今度は好きなことを仕事にしてみようと思い求人を探し出します。「アルバイトになるのか」と悩みもしましたが、家からすぐのワイン屋でアルバイトをすることになりました。

ワイン屋では1社目との違いに驚きました。みんなが全員優しく、温かい人で、業務内容も接客なので僕に合っていました。僕のキャラクターを受け入れてくれて、仕事はそんなにできないけど、愉快ないじられムードメーカーというポジションを得ることができました。
将来のことはもちろん不安だったけれど、社会人になってはじめての安定して楽しい期間を過ごしていました。彼女もできて、どんどんと躁状態になっていきました。

人生このままではいけない気がする。僕は会う人会う人に面白いやつだなと言ってもらえるし、ここは一発当ててお笑い芸人になってみせるか!?

僕は躁状態になると、自分のことを過大評価し、夢に向かって暴走をするのです。お笑いの養成所に何社も面接をしたり、1人でネタをたくさん考えたり。振り返って考えると何も面白くないですが(笑)、自分では「僕は天才なんだ」と思うようなネタがいくつもいくつも出来上がります。

その頃にはもう睡眠は取らなくなっていました。観念奔逸という状態もたくさん起きていました。観念奔逸とは、いくつもの考えが競い合って次から次へと現れて、全体としてまとまりがなくなる状態を指します。

お笑い芸人になることを考えていながらも、人類の平和や、みんなを幸せにするにはどうすれば良いのかといったことまでが頭の中をものすごい速さで回っていました。

入院を経て仕事や友人、いろんなものを失ってしまった

その後僕は混乱状態に陥ってしまい、いろいろあって入院をします。その入院は、最初は手足を拘束されるような状態から始まりましたが、徐々に自由に動くことが許可されるようになり、二ヶ月ほどで退院をすることができました。

退院後にスマートフォンを開くと、混乱状態の中、彼女や友人にわけのわからないメッセージを送ってしまっていたことがわかりました。もうすでにラインはブロックされており連絡を取ることができません。

これには、とことん凹みました。

躁状態になって自分では彼女やみんなのために一生懸命やっていたつもり。でも、それは一般から見たら異常だったんだな。自分でしたことらしいけれど、自分がやった感覚がなくてまるで他人のことのよう。でも責任はすべて僕にあるみたいだ・・・。

仕事面では、ワイン屋さんの休職期間が空けて会社に行くと、「自己都合の退社をするのが君のためだよ」と告げられました。

仕事に行くのが楽しみで、そんな感覚は人生で初めてだったのに。

双極性障害の躁状態で、彼女も、友達も、仕事も失ってしまった瞬間。孤独でした。そのとき僕は、なんとか生きていくために薬を一生飲むことを決めました。

【写真】街頭で真剣な表情のまつらひでのぶさん

その後も、文房具販売の会社の営業として正社員として働いたり、臨床心理士を目指して一年間勉強したり、「精神障がい者を救うんだ!」と会社をつくったりしました。ただ、毎度お馴染みのことなのですが、僕は人生がうまく回りだすとどんどんと気分が上っていきます。

徐々に不思議なことも起きていき、神と交信したり、テレビの画面の中の芸能人と会話をしたり、テレビのリモコンと会話をしたりもしました。

その後はまた2回入院することになり、手足も拘束されて隔離されて過ごしました。3回目の入院から退院した時には、症状が収まり、僕の脳にはもう何もアイデアが浮かんできませんでした。

僕のつらい体験談は、誰かにとって価値があるんだ

つらい毎日のなか、激躁の時に東奔西走している中で出会った仲間の借金太郎さんと僕のお父さんだけが側に居てくれました。

やれることをやっていこうよ。

二人がそう言ってくれたので、僕は「どんなに小さくても少しずつでもいいからやるだけやってみよう」と思えるようになりました。

その後、精神疾患のある人達があつまる当事者会に行きました。そこで「過去に3回、医療保護入院している」という話を笑いながらしたところ、会が終わった後に何人もの人が話を聞かせてほしいと言ってきたのです。

僕の体験談には価値があるのか?

僕はそんなことを思い始めました。

転落人生で、精神疾患になって3回も入院して、ニート状態の僕の人生の体験談に、価値があるかもしれない。それは希望の光を見たようでした。

【写真】インタビューに答えるまつらひでのぶさん

そこから、ホームレス小谷さんという1日を50円で売って幸せに生活しているホームレスの真似をして、僕も1日を50円で売って双極性障害の体験談をシェアする活動を始めました。

まず自身のブログを日々更新しながら、ネットショップで毎月販売可能なスケジュールを打ち込んで、自分の時間を販売しました。どこの馬の骨かわからない人に50円といえどもお金を出して買うとは思えなかったので、頻繁にブログを更新し、twitterでも発信を続けました。でもなかなか依頼は来ませんでした。

そして半年たった後、2018年5月1日に初めての依頼が来たのです!この時は嬉しくて飛び上がりました(笑)。

初めての依頼主とは7時間話し、とても満足そうに「これで50円なんて安いよ!」と握手をしてくれました。そして、僕自身も相手の体験談を聞くことでとても心が救われ、満足していることに気づいたのです。

その後立て続けに依頼は入っていきました。対話のなかで、僕は全ての人が個性的で、自分なりの体験談を持っていると気づきました。それを共有することで深い共感が生まれ、「一人じゃないんだな」と救われた気持ちになったのです。

自分の体験をシェアする場があれば、きっと多くの人が救われる

僕はもっと多くの人と、病気による体験談をシェアしたいと考えました。また、場所というハードルを超え、もっと気楽に自分勝手に参加ができる場ができればと思い、ネット上の当事者会「のこのこバー」を思いつきました。僕の知る限りではネット通話で当事者会を開催している団体はなかったので、Zoomというアプリを使いはじめてみました。

初めての会は僕含め3名。全て身内でした。しかしこれを毎週木曜に繰り返しているとどんどん人は増え、今では毎回30名以上の方が参加し、体験談をシェアしています。

ネットが盛んなら、リアルの居場所も欲しいということで「リアルのこのこバー」というのを毎週金曜にとあるバーではじめました。

活動しているなかで、いろんな嬉しい出会いがありました。

ある50代の女性は双極性障害で、生活保護を受給していました。一人暮らしのため家ではいつも独り、テレビもなく、人との会話は月に2回の主治医との5分間のみ。寂しいというより、もうこの生活に慣れてしまったので何も感じないと言っていました。

しかし、僕の50円で売っている時間を何度も買ってくれ、その度にすごく笑いながら二人でいろんな話をしました。「人と楽しく話すのなんてこの時以外無いんですよ」と笑顔で言いながら。

のこのこバーも体調のいい時だけ参加して、楽しいと話してくれます。それを聞いて僕はとてもやりがいを感じます。

そして、「誰かの孤独をなくしたとき」が、僕はとても嬉しいんだなということに気づきました。

自分では気づかなくても孤独になっていることもある。自分で自覚していて、とてもつらい孤独感を持っている人もいる。その孤独というものをなくしたい。体験談を語ることには、孤独をなくす力があるんだと思います。

【写真】笑顔でインタビューに答えるまつらひでのぶさん

この活動を経て、2018年9月に始まったのが「NPO晴れのこ」です。この団体の代表的な活動として、今は僕の50円活動とのこのこバー、リアルのこのこバーなどをしています。

晴れのこでは、「精神障がい者の孤独をこの世からなくす」というスローガンのもと、ライフスタイルページ(LSP)という、体験談を集めたホームページを新たに作ることにしました。また、そのLSPを描いてくれた人だけが入れるオンラインサロン「晴れのこクラブ」を運営し始めました。

のこのこTVというYouTubeチャンネルも運営しています。こちらはメンタル関係の内容をめちゃくちゃポップに面白く伝えていくチャンネルです。

最後に、今後晴れのこがより進めていきたいのが、zoomの文化を作ることです。誰でものこのこバーを立ち上げられるような掲示板の「のこのこ公園」というものをつくって運営しています。誰かと話したいと思った時にzoomを立ち上げれば誰かしらと繋がって話ができるような環境を作っています。

僕は「孤独をなくす」というテーマで、今後対象を精神障がい者に限定せずに、株式会社も動かしながら活動の幅を広げていきたいと考えています。

病気とともに日常を暮らすために

双極性障害がありながら、日々を暮らしていくために、僕は様々な工夫をしています。

この病気の多くの方に共通する話だと思うのですが、鬱よりも躁の方が自分では気づくことが難しいと思います。躁状態そのものには苦痛はなく、むしろ多幸感や万能感が感じられ、軽躁であれば仕事が捗ったりもするため、自分では気づきにくいのです。

僕も自分が躁状態になっていることをなかなか気づけず、自覚する頃にはもう入院以外では止められないほどになっていて、2015年、2016年、2017年と3回も医療保護入院をしています。

しかし僕は2018年はうまく薬を調整し入院せずにすみました。それは、これまで自分が精神病だということを自らオープンにしてはこなかったのですが、3回目の退院以降はフルでオープンにして、ネット上でも実名顔出しで活動をはじめたからだと思います。

そこで初めて、僕は堂々と周りにいる第三者にチェックしてもらう体制を作り上げることができるようになりました。自分以外の人に自分を見てもらって、躁状態にあったら「上がっているんじゃないか」と指摘をもらうようにすることにしたのです。

しかしここにも問題点があって、双極あるあるだと思うのですが、双極性障害や僕自身のことをよくわかっていない人に「躁状態じゃないの?」と言われると、イラッとしてしまうんです(笑)。相手は自分のことを考えてくれて言っているわけなので無下にはできないのですが、自分が奮起して頑張っていることを病気だと言われるとイライラしてしまう。

僕はこのイライラする気持ちとありがたい気持ちのアンビバレントな状態に陥っている自分をなだめていました。他人からの指摘を全て聞いてしまうと、なにもチャレンジできなくなってしまうような気がするからです。

そこで僕は、この人に指摘されたら信用するという人を決めることにしました。それは父親だったり、ずっとそばにいてくれている仲間の借金太郎だったりです。

そして僕が関わる多くの人に父親のLINEアカウントを教えて、「何かあったら父親に連絡してくれ」とお願いすることにしました。こうすることで、誰かがまつらは躁状態じゃないかと思った時は父親に連絡がいき、父親も躁状態と判断したらまつらに指摘する。まつらは父親のことは信用しているので言うことをきく、という流れができるのです。

少し回りくどいのですがこの体勢が一番スムーズだと思っています。父親には本当に感謝しています。僕はこれからも多くの人に父親のLINEアカウントを教えて、自分のセーフティーネットを作っていきたいと思っています。

【写真】穏やかな表情でインタビューに答えるまつらひでのぶさん

双極性障害では気分安定薬を飲むのですが、その中には副作用で手が震えるものがあります。僕はまさにそれを飲んでいて、時に手がめちゃくちゃ震えます。紙コップが片手で持てなかったり、周りの人からは「大丈夫?」と思われるほど。

でも大丈夫なんです。片手で持って震えるなら両手で持てばいいし、両手でも震えているけれど、コップのお水を飲むことはなんの問題なくできます。

僕は一生震えながら楽しく生きていきます。

しかし病気のことを話さず就労している時は隠すのに大変でしたね。会社の飲み会で乾杯のとき、「お前、震えてるぞ」とよく言われました。僕は「会いたい人がいるので・・・(西野カナの曲の歌詞になぞらえて)」など適当なことを言って誤魔化していました(笑)。

今、病気をオープンにしていく生きやすさを震える手を見ながらしみじみ感じます。

病気でもいい、それよりも楽しいことをして笑って生きていこう

僕の双極性障害Ⅰ型は一生治らないと言われていて、毎日薬を飲みます。

ただ、どう対応すればよいかだんだんわかってきています。今までの激躁は全て真夏に起きてきました。なので僕が危険なのは夏です。夏に近くなると病院に行く間隔も短くなり毎週通院することになります。今の先生はズバッと物を言い、出すにはしっかり薬を出してくれるので僕にはとても合っています。

それでも、初めの頃は病気が一生治らないという不安の中で絶望していました。それは治る、治らないの価値基準で、双極性障害を測っていたからです。

しかし、晴れのこの活動を通じてその考えは変わってきて、「別に病気でもいいじゃん」と思うようになりました。

病気だって薬や工夫によって症状が出ていない状態を続けられたらなんの問題はない。もし体調が崩れたとしても、永遠に崩れているわけじゃない。元気な時は必ずくる。

そうはいっても「一生治らない病にかかっている」っていうのは絶望的だなと思います。でも今は、その絶望感に悲しみなどはなく、どうでもいいという考えが強いです(笑)。問題ないという安心感の中で絶望しています。

主治医の指示に従い、服薬も毎日守りながら楽しく生きていたら、自分が病気かどうかなんてどうでもよくなる。それよりも楽しいことして、美味しいもの食べて笑ってた方がいいなと思っています。

離れていった人もいるけれど、同じくらい受け入れてくれる人だっている

僕はこれまで、自分で自分が病気であることにとらわれていたように思います。躁状態になり、SNS上では暴れ、リアルでも多くの人に迷惑かけました。それは事実です。確かに迷惑はかけています。

しかし、その迷惑を「たいしたことない」と思ってくれている人も多くいるというのは、大発見でした。

僕はこれまで何かをやらかすと、全人類が僕のことを嫌っていて迷惑がっているんだと考え、「恥ずかしくてこの世から消えてしまいたい」と思っていました。

そんな時に、大学時代の軽音楽部の友人から飲み会に誘われました。それこそみんなに迷惑をかけたことを謝るチャンスだと思い、飲み会のはじめに数分もらって、みんなに対して謝罪をしたのです。すると、みんなの反応は「え、なんのこと?」という感じでした。許してあげるよという雰囲気ではなく、「そんな小さな事何にも気にしてないよ。さっさと乾杯して飲もうぜ」という感じだったんです。

僕が、みんなに嫌われたんじゃないかと悩み続けていたことは、まさに杞憂でした。これには衝撃を受けました。

もちろん親友や彼女など、僕を迷惑と感じて離れていく人はたくさんいました。でも、それよりももっとたくさんの人が僕から離れないでいてくれました。そのことにとても感謝しています。

それと同時に自分が気にしすぎていることを痛感し、悩みはスッと晴れていきました。それがまさに自分が自分を苦しめている原因はだったのです。

【写真】街頭で清々しい表情で立つまつらひでのぶさん

今僕は、双極性障害であることをタブー化するのではなくネタにしています。僕はこれがうまい具合にできているととても心地よいです。それがうまくできているのが、現在、リアルのこのこバーの会場に使わせてもらっている「バー南池袋兎」マスターのカズーマさんとのやりとりです。

僕は激躁の時に兎に入り浸ってたこともありカズーマさんは僕の躁状態を間近で知っています。その上で、僕のことを馬鹿にするでもなく、しかし、哀れむでも、優しくするでもなく、対等に扱ってくれます。

よく僕が冗談で変なことを言い出すと、カズーマは「早く病院行ってこいよ(笑)」とか言います。ひどい、ひどいですよね(笑)。

僕が「うるせぇよ!通常状態だわ!(笑)」と答えると「面白いから早くネオまっつん(躁状態のまつら)になってよ(ニヤニヤ)」とか言ってきます。

これらのやりとりが、心地よいのです。

僕だけの話かもしれませんが、自分の障害を自分自身でも客観的にやばいなと思っているので、「大丈夫、あなたは普通だよ」と声かけをされ丁寧に優しく扱われるのは逆に傷がつきます。

カズーマのバカにせずいい意味で何にも気を遣わず笑いながらいじってくるのは、心が楽になります。

(注意点は、これらは信頼関係があってのことだと思いますので、誰にも構わずやっていいことではないと言うことです。難しいですねぇ)

仲が良かったけれど縁が切れてしまった人もたくさんいるし、学生時代友人がたくさんいて周囲の人たちのことが大好きだったからこそ、病気になって失った人間関係はとても悲しかったです。だけど仲が戻る人もいる。ただ何年も必要な場合もある。

今の元気で孤独をなくす活動している姿を、みんなに見せていきたいと思っています。

誰かに依存すること、それによって自分と誰かの孤独をなくす

未来に何が起きるかなんてわかりません。

僕が学生時代の時には、双極性障害I型と診断される未来があるとは思ってもいませんでした。

逆にそんなつらい状態の時には、NPO晴れのこを立ち上げて、こうして自分の体験を記事を書いている未来がくるなんて一切考えてもみなかったです。

これからの未来どうなるかは本当にわからない。それならば僕は「この先の未来は明るい」と思い続けることに決めました。そう思いながら、今この瞬間に向きあって、どうしたら今を良い状態にできるかだけを考えて進んでいきます。

生活に困難があるなら生活支援センターに相談できるし、心の拠り所が欲しければ当事者会に行くこともできる。助けてくれるところはたくさんある。だから死ぬことはないんだよ。

この先の未来は明るいんだよ。

あえて断言して、自殺しようとした過去の僕に伝えたいです。

僕は孤独をなくす活動を初めてから、もう回り回って一生人に依存して生きていくことを決めました。これまでの経験から、僕には独りで自立して生きていくことが向かないんだと痛感したからです(笑)。

だからこそ、むしろ僕は人に依存して生きていこうと開き直りました。言い換えるならば人に甘えて生きていこうと。

そんな時に出会ったのは、脳性麻痺のある熊谷晋一郎医師の言葉で「自立は依存先を増やすこと」というものです。僕はこの言葉でビビッときて、実践してみようと思ったのです。

自分でできそうなことはやりますが、経済的には親を頼りにして、頼みごとは友達にお願いして、事務仕事は晴れのこメンバーにやってもらって・・・というように友達恋人家族だけに止まらず、晴れのこのメンバーなど、あらゆる人の力を借りて生きることにしました。

周りのひとたちに依存をして、僕は「NPO晴れのこを運営する」といった人のためになる活動をしています。あらゆる人に依存をする代わりに、別のあらゆる人の依存場所を作るのです。

すると、僕が人のために活動していくにつれて、仲間が増えて、逆に僕の孤独がどんどんとなくなっていることに気がつきました。僕が依存できる先もどんどん増えています。

このことから僕は「人の孤独をなくす行動をすると自分の孤独がなくなる」ことを学びました。

やり方さえ正しければ、人に頼ってもいいんです。依存してもいいんです。むしろ多くの人に依存したほうがいいのだと思うんです。

僕は症状が強く出ている時は、意味不明な言葉をブツブツ独り言していたりするので、もしかしたら「やばい人だな」と思うかも知れません。そんな時に出くわしたら、正直に「この人やばいな、近寄らんどこう」って思ってもらって僕は大丈夫です。それが素直な反応だと思います。

でももう一歩先にいって、「この人今はやばいな、今は近寄らんどこう」と思ってもらえたらなお嬉しいです。この「今は」というキーワードが大切だと思うのです。

僕はやばい時はやばいですが、それは人生のなかでのたった2%です。残りの98%の人生は楽しく過ごしています。

僕はその2%を余白だと思ってもらえている方々にとても感謝をしています。「あの時は大変だったけど、しょうがない奴だなー」と温かい目で見てもらえた時に心の底から安心をします。

人とのつながりが精神障がいを乗り越えさせてくれる。僕はこれからもたくさんの人に依存しながら孤独をなくす活動をしていきます!やはり「孤独をなくす」が僕の人生のテーマです。

【写真】街頭で笑顔で立っているむまつらひでのぶさん

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(写真/川島彩水)