【写真】自然溢れる風景を背景に、セリさんが微笑んでいる
はじめまして!咲セリと申します。

私は在宅のWEBデザイナーと作家の二足のわらじで仕事をしています。そして、私自身が抱える精神疾患である「境界性パーソナリティ障害」を伝える活動をしています。

その前に、境界性パーソナリティ障害を知らない方に。一言で説明するのは難しいのですが、考え方に偏りがあったり、感情のふり幅が激しく、衝動的な行動をとってしまうといった特徴がある精神疾患のひとつになります。このような特徴があることで、人間関係においてトラブルを起こしてしまうこともあります。

昔の私は、自分を「世界で一番いらない人間」だと思い込み、自傷行為や自殺未遂、パートナーへの暴力、依存などを繰り返してきました。まさに、泥沼の10代~20代だったと思います。そんな私が変わりはじめたのは、一匹の不治の病を患う猫との出会いでした。

【写真】黒猫を抱いて微笑むセリさん
そこから、数珠つなぎのように、人のやさしさ、愛、信頼に気づき、少しずつ、本当に、カメの歩みで進んでいって。今、私は生きることを愛おしいと思っています。

境界性パーソナリティ障害という病気。それを抱えながら、仕事をし、本を書き、生きがいである猫を守る活動をし、趣味を楽しむ毎日。そんな私の半生とお付き合いいただければ、うれしいです。

家族との関係がうまくいかず、自分を否定していた幼少期

私は、子どもの頃の記憶は、ほとんどありません。まるでケシゴムで消したように、思い出そうとしても、もやがかかって、思い出せないのです。

そんな中で浮かぶのは、いつも家の中の空気は張りつめていたということ。我が家は、ふつうの家庭でした。エリートサラリーマンの父と、専業主婦の母。外から見たら、ふつうよりも恵まれた家庭だと受け取られたかもしれません。ですが、その内側は、いつ天災が起こるかわからない場所で暮らしているような状況でした。

父は、お酒を飲むと、私と母につらく当たりました。私に対しては「できそこない」と。

普段はやさしい母でしたが、父がそうなると、もう守ってはくれませんでした。だから思いました、「私はできそこないなんだ」と。

小学5年生で、弟が生まれました。弟は私と違って父に愛されていたので、うらやましく思いながらも、当然だとも感じました。だって、弟はとてもかわいかったから。私に対しても天使のような笑顔で懐いてくれました。その姿に「こんな私でも頼られるんだ」と胸が熱くなったのを覚えています。

ですが、ある夕食の時間に、いつものようにお酒を飲む父の前で、私と弟が食事をしていたときのこと。弟がつい、お行儀の悪い食べ方になったのです。私は以前、父にそれで叱られたことを思い出し、弟をたしなめました。その瞬間、父は、突然私をどなりつけました。

そんなことを言う資格はない。失敗作のくせに!

自分を「いらない人間」だと思うようになったのは、この頃からです。

「自分の居場所をみつけたい」依存と摂食障害に陥った日々

そんな家庭の中で、それでも生きていけたのは、学校が楽しかったからでした。私は、成績も悪くなく、友達も多く、そこに居場所を感じました。

ですが、我が家は転勤族でした。ようやく仲良くなったと思ったらお別れ……の繰り返し。その都度、私は新しい学校に必死で馴染めるよう、自分を変えていきました。

【写真】真剣な表情を見せるセリさん

最後に転入した中学校は、いわゆる“ヤンキー校”でした。最初は面食らいましたが、実際に接してみると、金髪で派手な服装の彼らはとてもやさしい心を持っていました。私は彼らを好きになり、自分も同じように金髪にしました。父の風当たりはますます厳しくなりましたが、学校に行き、彼らと一緒にいられれば平気でした。

ところが、その後、受験して合格した高校は進学校。その中で当然、金髪の私は浮いてしまいました。

それを「いじめ」だったと認めるのには時間がかかりましたが、その学校で、私はいじめを経験します。ある教師が授業中、ことあるごとに私を否定しました。やがて生徒たちも私とは話をしなくなりました。授業を受けるのが怖くて、トイレの中でチャイムが鳴るのを息を殺して待っていたのを今でも忘れられません。

その頃から私の顔には異常なほどにニキビができはじめました。それをすれちがいざまの父にぽつりと「汚いな」と言われ、「私が人に嫌われるのは、ニキビのせいなんだ」と思いこみました。

そこで、それを治療するためのエステに通うお金欲しさに、私は援助交際をはじめました。最初に見知らぬ人に抱かれた時、その相手の人は言いました。「かわいいね」。胸が高鳴りました。そして、はじめて思いました。「私は、愛されている」「私は、必要とされている」。

――だから、「生きていてもいい」。

【写真】椅子に座り、話をするセリさん

そんな日々は長くは続きませんでした。母にそれがばれてしまい、私は家を飛び出しました。そして年齢をごまかし風俗で勤め、ひとり暮らしをはじめたのです。

風俗ではナンバーワンになり、お姉さん的存在もでき、居場所を感じました。ですが同時に私は、どんどん「性の対象である自分」にしか自信を持てなくなっていきました。目の前にいる人が男性であれば、性的アピールをしてしまい関係を持ってしまう。その何人かと同時進行でつきあいました。

ですが根っこに自己否定感があるため、相手の愛を信じられないのです。相手を試すような行動をとり、やがて相手は疲れて離れていきました。そのたび「やっぱり私は捨てられるんだ」と誤った確信を深めていきました。

また、愛されるためには外見も美しくなければと、体重を異常に気にするようになりました。市販の便秘薬を、昼に1瓶、夜に1瓶、合計で1日100錠近く飲みました。それも毎日。不安を紛らわせるためにアルコールにも依存していって。まだ10代だったのに、私は性依存と摂食障害、アルコール依存症に陥っていたのです。

彼との同棲をきっかけに気づいた「境界性パーソナリティ障害」の前兆

それらがすべて境界性パーソナリティ障害の前兆だったとわかったのは、20代になり、今の夫と同棲をはじめてからのことでした。私はいつしか彼に暴力をふるうようになったのです。

たったひとりと付き合うとなって、多数と付き合うことでごまかしていた孤独感が押し寄せたのでしょう。彼の帰りが少し遅くなっただけで、「私といるより楽しいんだ」と思いこみ、「私は捨てられる」とおびえました。

それなら、彼に尽くせばいいものを、私が取った行動は、真逆でした。二人の写真をびりびりに破り、自傷をする。彼が傷ついた顔をすると、「ああ、私を好きなんだ」とほっとするのです。

【写真】視線をまっすぐ向け、胸に手を当てるセリさん

その頃もまだ、「性の対象」としての自分にしか自信を持てず、一日でもセックスが途絶えると惑乱し、暴れることもありました。

そんなとき、偶然、出会ったのが、精神疾患系のサイトでした。そこに、境界性パーソナリティ障害のことが書いてあり、「私はこれなのかもしれない」と確信しました。境界性パーソナリティ障害は、「感情のジェットコースター」という言葉で語られることもあります。まさにそれで、5秒前まで機嫌よく笑っていたかと思ったら、5秒後には怒り出し暴れてしまう。そんなことがよくありました。

人から見れば――いえ、自分すら、なぜそんなことになっているのか、ついていけないのです。でも今思えば、すべて理由がありました。その5秒の間に、たとえば彼が携帯をチラッと見たなどがあり、「捨てられる」と怯え、不安から攻撃につながっていたのです。

そういった症状は、不思議と通常の人間関係では出ませんでした。仕事や、そう親密ではない友人関係の中では、むしろ「いい人」で、関係が深くなるほどに症状は出ました。

他にも、強い自己否定感や、見捨てられるのではないかという不安、「今会えないなら、もう二度と会わない」などの両極端な判断をしてしまうことが多い、依存や自傷に陥りやすいなどの特徴がある病気だといいます。

不治の病に感染した猫との出会いで感じた「命の愛おしさ」

自分がそうなんだと分かったところで、解決には至りませんでした。すぐさま精神科を受診しましたが、「うちでは手に負えない」と言われたこともあれば、別の病院では「あなたは病気じゃないので、病気になったら来てください」と門前払いをされました。「うつ」だと診断されることも多かったです。

【写真】遠くを眺めながら、考えこむような表情を見せるセリさん

そんなときでした。私は、一匹の黒猫と出会いました。冬空の下ぼろぼろの姿で私の膝に乗ってきたその猫は、病院に行くと、猫エイズと猫白血病という不治の病に感染していることがわかりました。

保護してしまった以上、看病をしなければいけない。そう思い、必死で看病を続けましたが、なかなか良くなりません。「厄介者が、厄介者を拾ってどうする」と、自分を責めました。「一緒に死んだ方がいいのかな」とさえ思うようになりました。生きていたとしても、人に迷惑ばかりをかけている。これから何かを生み出すことはない。ふたりそろって「いらない命」なのかもしれないと。

だけど、猫は生きました。薬入りのごはんをおいしそうに食べ、少しずつおもちゃで遊ぶ余裕も出てきました。

そんな折、猫は避妊手術をしました。

きっと、よほど怖かったに違いない。手術が終わったら、またベッドの下に隠れるだろう。

そう思っていたのですが、病院から帰った猫が向かった先は、寝転がった私のお腹の上でした。あまえるように、喉を鳴らし、生きている鼓動が聞こえました。

【写真】笑顔で語るセリさん

その時、思ったのです。何もできなくてもいい。命は、生きているだけで、愛おしい。

生きづらさを感じながら、それでも生きる

私は、彼と結婚をして、猫を養うために働くことも決意しました。

当時、はっきりした理由がないにも関わらず強く不安を感じてしまう不安障害も併発し、怖くて外に出られなかったので、家でできる仕事を探しました。そして行き当たったのが、今やっている在宅でのWEBデザインの仕事です。

今でこそ、順調に仕事をこなしていますが、当時はそうはいきませんでした。自己否定感の強さから、たったひとつの修正依頼が入っただけで、全人格を否定されたように感じてしまうのです。相手のメールの返事が遅れただけで「怒らせた」と思いこみ、眠れない日が続きました。生きづらさは消えず、「死にたい」と繰り返す日々でした。

転機が訪れたのは、29歳の時でした。

【写真】明るい表情で語るセリさん

ひょんなことから、性依存のことで、NHKの福祉番組に出演することが決まったのです。その後、NHKの福祉サイトでコラムを連載するようになり、思いがけず、あたたかい反響をいただきました。相談メールもたくさん届くようになり、私は、こんな自分でも誰かの役に立てるということに胸を熱くしました。

ですが、ある時、どうしようもないメールが届きました。「死にたい」とたった一文綴られたメール。

理由を聞こうと返信しても、「死にたい」「たすけて」とだけ。1日に何十通と届いていました。愕然となりました。そして、思ったのです。「この人を助けられない私なんて、いらない人間だ」と。

死ぬしかないと思い、私は真夜中の高層住宅に上りました。飛び降りようとしましたが、できず、雨の中車道をふらふらと歩いていたら、見知らぬ人に助けられました。

そうして家に帰りついたとき、夫の胸のうちを聞きました。

死にたいセリを生かすことは、自分のエゴなんじゃないかと思ってた。だけど、セリが戻ってきてくれて、どうしようもなくうれしかった。

夫は涙をこぼしました。そのとき私は、どれだけ彼を傷つけていたかを知りました。

もう二度と死のうとしない。生きるんだ。私はそのときにそう決意しました。

回復を後押しした認知ノートと周囲からの愛情

それから、自分の病気境界性パーソナリティ障害について、必死で調べました。そして、回復にいいと思われるものは、何でもやってみました。

たとえば、どうしようもなく感情が暴れ出した時は、ノートにぐちゃぐちゃに書き殴りました。言葉を書くこともあれば、絵を描くこともありました。

やがて、少し回復してくると、認知のノートをつけるように。これは、境界性パーソナリティ障害の症状が現れた時、そうなってしまった「きっかけ」と、「その時、どう反応したか(自動思考)」「他に考え方はないか」「それからどうなったか」を記すというものです。こうすることで、悪い出来事を、回復の教本にすることができました。

また、私には、幸運にも、サポートしてくれる人がたくさんいました。たとえば、NHKのディレクターさん。ある時、私が友人と仲たがいし、私は友人に「死ねばいい」と思いました。だけどそれは叶わない。すると「それなら自分が死ぬしかない」と思ったのです。

落ち込みました。あんなに生きると決めたはずなのに。私は耐え切れず夫に漏らしました。

死にたい…。

すると夫は、私を抱きしめ、ずっとなでてくれました。その時、思えたのです。

やっぱり私、死にたくない。生きたい。

そのことをディレクターさんに話すと、彼女は言いました。

“生きたい”だけじゃなく、その前の“死にたい”も言えてえらかったね。

【写真】まっすぐな視線を向けながら語るセリさんの横顔

びっくりしました。ポジティブな感情をほめてもらえるならわかる。だけど、死にたいというネガティブな感情まで認めてもらえるなんて。

彼女は言いました。

だって、それも、セリさんの大切な感情でしょう?

他にも、取材で知り合った記者の友人や夫の両親、同じように病気を抱える友人に救われました。生きづらい私を隠さなくても、受け入れてもらえたことで、私も自分の境界性パーソナリティ障害を受け入れることができたのです。

本の出版をきっかけに見つけた「生きてきた意味」

また、父も母も変わっていきました。話は少し戻るのですが、性依存の番組に出た時、父もそれを見てくれたのです。

どんなセリも、セリは、セリだ。

そう言ってくれて、はじめて私は、父にちゃんと受け入れられていたのだと気づきました。

猫が死に、重いうつ状態になったときは、母は毎日、お惣菜を持って私を見舞ってくれました。母に守られていると感じました。

やがて、私は、自分の生きづらさに関する本を出版する機会を得ます。本のタイトルには、NHKの番組で口にした一言をつかいました。「死にたいままで生きています(ポプラ社)」。そこには性依存だったこと、暴力、自殺、包み隠さず記しています。

【写真】著書「死にたいままで生きています」を膝に乗せるセリさん

正直、どう受け取られるか不安でした。ですが、同じような経験をされた方から、共感の声が届き、痛みを共有できたことで、私は救われました。

その頃から、境界性パーソナリティ障害の講演をしたり、医師との共著で境界性パーソナリティ障害に関する本「絆の病 境界性パーソナリティ障害の克服(ポプラ社)」を出版したりという活動が始まりました。

【写真】著書「絆の病」を持ち上げるセリさん。横には、著書「死にたいままで生きています」が置かれている

訪れて下さった方、読んでくださった方は、皆さん、「ずっと自分だけだと思っていた」「ひとりじゃないと勇気をもらえた」と涙されました。私は、ようやく生きてきた意味をみつけた気持ちになりました。

境界性パーソナリティ障害の自分を認めて生きていく

そんなある時、私に変化が起きます。講演や執筆をすることを、「いやだな」と思うようになったのです。

これまで私は、自分が抱えてきた傷を赤裸々に話すことで、どこか、私を苦しめた両親やいじめた人たちへの「仕返し」をしたようで救われていました。だけど、もう私は、父も母も恨んでいない。悪者のように語りたくなくなったのです。

そして、もうひとつ。私は、けっして、「回復しきった」わけではありませんでした。今でも死にたいと思うことはあるし、自分に自信が持てず、境界性パーソナリティ障害の症状が出てしまうことがあります。そんな現実を隠したくないと思ったのです。

期待されたような、「目標となる回復したセリさん」じゃない。役立たずのまま、だけど生きている自分を、認めてあげたくなりました。

【写真】緑が溢れる自然を背景に、微笑むセリさん

そんな時、ふと思い立ったのが「演劇」でした。実は、風俗を辞めて、夫と同棲をはじめるまで、私は趣味で演劇をしていました。それを、もう一度、やってみたくなったのです。何か社会的なメッセージを伝えるわけではない。お金になるわけでもない。「役に立つわけではないこと」をしよう、と。

だけど、久しぶりに集まった仲間たちと、演じて、そのあと、ごはんを食べながら騒ぐことは、私にひさびさの「楽しい」をくれました。年齢も職業もばらばらの人に囲まれ、活動家のきぐるみを脱いだ裸の私は、あまえんぼで、無防備でした。

もちろん彼らは、私の境界性パーソナリティ障害を知っています。だけど、彼らの中には、心臓病を抱え入退院を繰り返している人がいたり、別の精神疾患を抱える人がいたり、無職になり職探しに奮闘している人がいたりしました。境界性パーソナリティ障害の何が特別なんだろう。みんな、何かを抱えて生きているんだと気づきました。

今は仕事も、無理をしすぎないよう、昼から夕方までの時間で週5日間、在宅で楽しみながらデザインを続けています。クライアントさんにも境界性パーソナリティ障害であることは打ち明け、調子を崩している時は、お休みをもらうようにしています。修正依頼が入っても、以前のように取り乱さない。境界性パーソナリティ障害は、確かに回復していっています。

今、生きている自分を愛してあげてほしい

【写真】真剣な表情を見せるセリさんの横顔

今、境界性パーソナリティ障害に苦しんでいる方は、本当に、とてもつらいと思います。先が見えず、真っ暗闇の中をひとりきりで歩いている気持ちかもしれません。偏見の目で見られることもあるかもしれないし、何より、自分自身が自分を責めてしまうこともあるでしょう。

だけど、どうか、そんな苦しみを抱えながら、「今、生きている自分」をほめてあげてほしいのです。だって病気になったのは、あなたのせいじゃない。それだけいっぱい傷ついてきたから。「治さなきゃ」と自分を追い込むのではなく、依存や自傷や、暴力をふるいながらでも、生き延びてきたことに「ありがとう」を伝えてほしいと思います。投げ出しさえしなければ、必ず少しずつ回復し、愛おしい未来にたどりつくと信じています。

そして、そばにいる方は――混乱し、へとへとかもしれません。

ごめんなさい。そして、そばにいてくれて、ありがとうございます。私たちは、少しずつだけど、変わっていきます。だから、できるなら、「待って」いてもらえたらと思います。そして、「肯定」してあげてください。私たちは、自分を肯定することがへたくそだから。うまくいっている時も、いっていない時も平等に――。

いつかきっと、抜け出せる日はきます。

私は、これからどうなっていくのか、まったくわかりません。また、活動をするかもしれないし、活動する自分を手放して日常を生きるかもしれません。病気を聞かれたときに、「隠さない」というだけで、活動なのかなとも感じています。

でも、ひとつだけ、どんな私も愛してあげようと思っています。誰かの役に立つためではなく、自分のために。

【写真】お腹の前で両手を組み、明るく笑うセリさん

痛みも迷いも抱えながら、私は、生きていきます。笑っていきます。

カフェの窓から、新緑を仰ぎながら―― 咲 セリ

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