こんにちは、中村善三です。私は、49歳の時に「脳出血」で倒れた経験があります。
脳出血とは、脳の血管が破れるか詰まるかして、脳に血液が届かなくなり、脳の神経細胞に障害が起こる病気「脳卒中」の一つです。脳卒中の中でも、脳の血管が詰まったり閉塞することで脳の血流が悪くなる場合は「脳梗塞」、脳の血管が破れて脳内で出血した場合は「脳出血」という病名になります。
そのため私は、身体の右側の口角と手足部分の麻痺が後遺症として残り、歩くときには杖を補助に生活しています。またリハビリを重ねてよくなってはいるのですが、会話をするときに言葉がうまく話せない軽度の失語症も患っています。
失語症とは、大脳にある、言葉に関する働きを司る言語中枢が損傷を受けたために言葉を使う機能がうまく働かなくなる状態で、高次脳機能障害の一種です。失語症の種類により症状の現れ方が異なります。私の場合は、何かを伝えたいのに、それが言葉になって出てこない喚語(かんご)困難という症状がありました。
現在は、兵庫県西宮市の福祉情報をまとめて、困っている人と必要な情報や支援先をつなげる活動をする「NPO法人みやっこサポート」の副理事長を務めていますが、ここに至るまでには多くの出来事がありました。
今回は、私が脳出血で倒れ、リハビリを続けるなかで生まれた思いをお話できたらと思います。
35歳。突然、経験したことのない頭の痛み。くも膜下出血に
私は脳出血で倒れる前に、一度くも膜下出血で倒れています。くも膜下出血は脳の表面の血管に脳動脈瘤という「こぶ」ができてしまい、その「こぶ」が破れて出血する病気です。
前触れもなく発症したのは、35歳の時でした。
当時私は、株式会社リクルートの大学のパンフレットを作成する部署でコピーライターとして、朝早くから夜遅くまで働いていました。大変なことも多かったですが、やりがいを持って仕事に取り組む日々。プライベートでも妻と生まれたばかりの娘と暮らしており、仕事もプライベートも充実していました。
しかし、ある休日に、自宅の寝室で横になっていると、突然、激しい頭痛に襲われました。これまでに経験したことのない痛みだったため、すぐに「救急車を呼んでほしい。」と妻を呼びました。それ以降の記憶はほとんどありません。
後で聞いた話によると、集中治療室に入っていたそうです。妻の父が医者だったので、私の担当医の方から状態を聞いて家族に伝えてくれました。
意識が戻らない可能性がある。
その話を聞いた私の弟は、妻や娘のことを考えて「兄のことは忘れて、他の人と結婚してもいいと思う」と話したと、後で教えてくれました。
ありがたい周囲の気遣いに、焦りを募らせてしまった
倒れてから6ヶ月が経った頃、私は奇跡的に目覚めました。
ありがたいことに妻と娘は私を待ってくれており、後遺症もありませんでした。
早く働かなければ。
そんな焦りが募り、私は意識を失っていた期間に衰えた身体のリハビリをして、6ヶ月後に仕事へ復帰。会社の気遣いもあり、これまで在籍していた部署よりも、身体的な負荷が掛かりにくい部署へ異動になりました。
自分の居場所はなくなってしまったんじゃないか。
気遣いはありがたかったのですが、同時にそんな考えが頭をよぎりました。実際に仕事に復帰すると、これまでできていた数字周りの業務ができなくなっており、「どうすればいいのかわからない」と他のメンバーに聞く機会が増えました。
周りにいる人は「ゆっくり休めばいい」と言ってくれます。職場のメンバーも妻も「無理しないで」と気遣ってくれる。その優しさゆえの言葉が私にとっては負担でした。
周りに迷惑をかけているんじゃないか。
そう思うと、余計焦り、不甲斐なさが募っていきました。
役に立てないと感じる場所から、好きなことをやれる場所へ
いまこの場所で誰かの役に立てていないのならば、退職して自分の好きなことをやろう。
しばらく会社で働き続けるなかで、いつしかこんな思いが芽生えました。
思い起こせば私は、小さい頃から「食」に関心を持っており、人と人がコミュニケーションを取る場所としての食事や飲み会の時間が好きだったんです。将来的にレストランを開きたいと考えていた時期もあり、準備をはじめるならこのタイミングだと思いました。
どうせはじめるならば、食材からこだわりたい。しかし、自分にはその知識が無い。そこで無農薬野菜を栽培している農家を探して、連絡をとり、すぐに「給与はいらないから、働かせてほしい」と伝えました。
無事快諾してもらい、好きなことの実現に向けて働くのはやりがいを感じる日々でした。一方で、午前中は農作業、お昼からレストランでウエイターと想像以上に身体に堪える仕事。1年間続けたある日、体重計に乗ると10キロも減っていました。
農作業とレストランの修行は1年間と決めていたので、予定通りやめさせていただきました。そして自分のレストランオープンに向けて更に動き出すことにしたのです。
障害のあるなしに限らず、人それぞれできないことがある
そこからは経理や商慣習の勉強をしつつ、一緒にレストランを運営をしてくれる人を探しながら単発で仕事をやっていました。また妻が働いていたこともあり、家にいる時間は私の方が長く家事を担当していました。
でも49歳の時、ある日夕飯を作っていると、突然意識を失ったのです。幸い、前回とは違い2日後に目が覚めました。ただ身体に違和感があり、後遺症が残っていることがわかったのです。右半身の麻痺と失語症でした。
病院のトイレで車椅子から転んでしまうこともありました。でも、誰かに迷惑をかけたくなくて、汗をかきながら自分でなんとかしました。
リハビリは、日常生活での基本動作ができるよう身体機能の回復を目指す理学療法と様々な作業をできるようにして社会に適応していくための作業療法、そして言葉や食べる機能の回復を目指す言語療法を行いました。
私は、カードに書かれたイラストをできるだけ早く答えたり、作文を書くリハビリなどをしました。 目の前でくまのイラストが見せられているのに、それがくまのイラストであると発話できない。頭ではわかっているのに、言葉で伝えられないことも多く、つらい時間でした。
リハビリは「これまでできたことができなくなってしまった」と実感する日々で、私は焦りや不安を募らせていきました。
でも、日々自分の症状を調べ、同じ場所でリハビリしている人たちとコミュニケーションを取るなかで気づいたことがあります。
それは「同じ障害を持っている人は一人もいない」ということです。脳卒中という病名が同じだったとしても、麻痺している部分や、症状はそれぞれ違う。100人いたら100通りの症状がある。また同じように障害も多種多様だと、自分が障害を持ってはじめて理解しました。
そもそも障害のあるなしに限らず、どんな人でもそれぞれできないことはある。だったら自分ができないことを他人と比べて、むやみに恥ずかしがらなくてもいいと思えるようになったんです。
「困っているのにどうすればいいかわからない」「誰に聞いたら教えてくれるのだろうか」
しかし、生活していくことへの不安は常にありました。上の子は14歳、下の子は3歳。妻が働いていたので、自分が稼いでいないと「格好わるいんじゃないか」とも思ってしまうのです。
そんな焦りもあってか、退院後はすぐに、自身が受けられるサポートの手続きをしに市役所へ行きました。ただ、税金や子ども手当、障害年金、国民健康保険、身体障害者手帳などを相談したのですが、窓口はバラバラで、どの順番で手続きをすればスムーズに終わるのかもわからない。思い通りに動かない足をひきずりながら、館内を動き回らなければいけませんでした。
結局窓口では、私が知っている情報以上のことは教えてもらえず「困っているのにどうすればいいかわからない」「誰に聞いたら教えてくれるのだろうか」と思わず口に出していました。
最終的には社会保険労務士の専門家に相談して、障害年金や受けられるサポートの手続きを行えました。その経験を経て私は、サポートを受けたい人が困ったときに「まずここを見ればいい、行けばいい」という場所が必要だと考えるようになりました。
当事者である私だからこそできるサポートの仕方がある
その頃、リクルート時代の後輩が兵庫県の西宮市長選挙に出ると聞き、応援することを決めました。みやっこサポートを一緒に立ち上げた中島恵美さんとは、後輩を応援しているスタッフから紹介を受けて、そこで知り合いました。
中島さんは「支援の必要な人がもっと簡単に必要な情報を探せるようにしたい」という考えを持ち、福祉情報のポータルサイトを作ろうとしていました。それはまさに当時の私が欲しかったもの。自分も参加したいと思い、一緒にNPO法人みやっこサポートを立ち上げました。
今では、西宮市の福祉情報をまとめて困っている人と必要な情報や支援先をつなげるサイトを運営しています。現状は高齢者向けのサイトを運営しており、これから子育て支援や障害者支援のサイトも順次オープン予定です。また事務所兼地域交流スペース「つどッテ西田公園前」は、地域の人が集える場やなにか困った時の相談窓口として機能しています。
私は、自分が経験した苦労を他の人がしなくてもいいようにしたい。
いきなり自分や家族が病気になったとき、症状を正確に理解して受け入れるには時間がかかります。病気によってこれまで見えていた景色や当たり前だと思っていた環境が変化するからです。
みやっこサポートでは、そんな人たちの情報整理を手助けしたり、発生した問題解決の手助けをしたいと考えています。
実際に苦労を経験したことがある私だからこそできるサポートの仕方がある、そんなふうに思っています。
「役に立つ、立たない」「できるできない」に捉われず、ただ一緒にいる時間
私は右片麻痺の症状で、痛みや痺れを感じることが日々あります。これ以上症状が悪くならないようにリハビリを続けていますが、それで治るわけではない。
だからこそ「治らないこと」を受け入れて、自分のできる範囲でやれることをやって生きていきたいと私は思っています。
まだまだみやっこサポートの活動はまだ中島さんに支えられている部分が大きいです。なので私も困っている人と社会資源をつなげる活動に力を入れたい。そのなかで「いい仕事をしている」と今も自分なりに自信を持って言えるようになりたいと考えています。
そして、私は会いに来てくれる友人との時間を大切にしたいと思っています。学生の頃から知っている友人との時間は安心感があります。
みんなとは思い出話やくだらない話をするだけ。でも、「役に立つ、立たない」や「できる、できない」に捉われず、ただ一緒にいる時間が私にとっては心地いいのかもしれません。
だからもし、自身ができないことばかりに目を向けてしまいがちな人がいるならば、ただ一緒にいれる誰かと過ごす時間を大切にしてほしい。そして、できる範囲で自分のやれることを積み重ねていってほしいなと思います。
関連情報
NPO法人みやっこサポート ホームページ
(協力/田中みずほ)