【写真】街頭で笑顔で立つともよせれんさん

こんにちは、友寄蓮です。

私は高校2年生で急性リンパ性白血病と診断され、1年4ヶ月の闘病生活を過ごしました。現在はタレント活動や、日本赤十字社との献血イベントや講演会の開催をさせてもらっています。

今回は、私が白血病と診断されてからどのように過ごしていたのか、そして現在の活動を通してこれからどのように生きていきたいのか、お話しようと思います。

コミュニケーションの楽しさを教えてくれたのは、演劇の世界

幼少期は内気な性格で、人前に立って発言することが苦手でした。アパート暮らしで部屋数が少なかったので自分の部屋はなく、3歳年下の弟と一緒に21時には就寝する生活を送っていました。夜遅くに放送している流行のドラマも見たことがなかったことから学校の友達の話についていくことができず、今思えば周囲と馴染みづらい子だったように思います。

【写真】ベンチに座り穏やかな表情のともよせれんさん

しかし、中学生になり、演劇部の勧誘を受けたことをきっかけに私の性格は変わっていきました。舞台や演技に興味がなかったものの、入部したい部活もなかった私は「演劇部、入るよね?」と笑顔を向ける先輩の誘いを断りきれず、律儀に入部(笑)。

当初は教えられるがままに発声練習をしていましたが、徐々に日常生活の会話でも大きい声が出るように。自分が発した言葉がきちんと相手に届くようになって初めて、コミュニケーションの楽しさを知りました。

あるとき、演劇部の友達がエキストラとして出演した学園モノのドラマを見て、衝撃が走りました。当時私にとってドラマと言えば、「水戸黄門」や「渡る世間は鬼ばかり」と、大人向けのものばかり。若い俳優さんはえなりかずきさんのように落ち着いている方しか知りませんでした。

画面の向こう側で演技する同年代の少年少女がキラキラと輝いて見えて、自分の中で世界が広がって演技への憧れが募っていくのを感じはじめます。その後、雑誌の広告にタレント養成所の募集を見つけて、迷わずオーディションを受けることに決めました。

その頃は中学3年生。高校受験シーズンでしたが、「将来の夢は女優」の一点張りでした。

徐々に体力がなくなり、高校二年の冬に「白血病」と宣告される

めでたく養成所のオーディションには合格!忙しい中でもなんとか都立高校に合格し、学業と芸能生活の両立が始まります。夢に向かって頑張る毎日はとても忙しく、週3回芝居のレッスンがあったので友人と遊ぶ時間はありませんでした。それでも私にとっては、とても充実した日々でした。

しかし、高校2年生の10月頃から体に異変を感じ始めます。

なんだか体がだるいし、咳も出る……。近所の病院を受診すると風邪と診断されましたが、今まで経験した風邪の症状とは少し違うような気がしていました。朝食をしっかり食べた後に体調が悪くなるので親には体調不良であることを信じてもらえず、無理しながら通学する毎日。

体育の授業では見学が増え、少し階段を上がっただけで動悸や息切れがするほどに体力が落ちていきました。慢性的な眠気も強くなり、授業中だけでなく大切なテスト中でも眠ってしまうのです。最初の異変から一ヶ月が経ち、別の病院でも受診しましたが、やっぱり風邪との診断。

もともと体力がなかったせい?普通の体調ってなんだっけ……?

体調不良なのか、もとからこんな状態だったのかが分からなくなってしまいました。

しかし、11月下旬には体に触れただけで痣が出来るようになり、数時間鼻血が止まらなくなります。どこの病院で見てもらえばいいのか分からず、小さい頃に通っていた小児科に行くことにしました。高校生なのに小児科なんて…と思うと恥ずかしくて避けていましたが、神頼みの気持ちで向かいました。

【写真】笑顔でインタビューに答えるともよせれんさん

先生は私の顔を見るなり深刻そうな表情で血液検査をして、翌日母親に血液疾患の可能性があることを伝えたそうです。その日の夜には武蔵野赤十字病院の血液内科へ運ばれましたが、意識が朦朧としていたので当時のことはよく覚えていないです。

その後ベッドの上で母と一緒に白血病であることを宣告されました。衝撃も受けましたが、案外あっさりと宣告されるんだなぁ……なんて思いました。家族のほうが混乱していたので、私は逆に冷静になっていた気がします。

今までは原因不明の体調不良に悩まされていたけど、ようやく治療ができるんだ。

まさか白血病だとは思っていませんでしたが、自分が病気だとわかったことで、これまでのことが納得できました。

でも、今までの不調は極度の貧血状態が原因ということで、緊急輸血によって血液を入れたらすっかり元気になったので、「私、抗ガン剤治療が本当に必要なの?」と疑問に思っていました。

入院期間の延長。自分で出来ることが少なくなっていった闘病生活

人間は、体内の骨髄で必要な血液細胞(赤血球、血小板、白血球など)をつくります。しかし、血液ができる過程でがんになる病気が「白血病」です。

白血病になると、自力で血液細胞をつくることができなくなり、貧血や免疫力の低下が起こり、出血をしやすくなるのです。治療方法は人それぞれで、年齢によっても治療方針が大きく違います。

私の場合は、抗ガン剤投与のみでの治療計画が決められました。抗がん剤を投与し、細胞の回復を待ち、一定の数値に達したら次の治療計画へ移る、というサイクルです。当初の血液内科では「3ヶ月ほどで退院できる」と伝えられていたので、「春先の修学旅行にも行ける!」なんて呑気に考えていました。

しかし、突然小児科に移ることになり、入院期間が1年間に伸びたことを告げられます。

3ヶ月で終わるんじゃないの?私、進級出来るの?大学受験はどうしよう……。

頭を殴られたような衝撃が走り、混乱状態のまま闘病生活が始まりました。

学校では、担任の先生からクラスメイトに白血病であることが伝えられ、すぐに学年中へ広まったようです。心配してくれる友達から嬉しい思いやりの言葉をかけてもらう一方で、嬉しくない連絡もきました。

白血病って余命ヤバいんでしょ?

白血病になる人は天罰が下ったから、と思う人もいるらしい。

不安になるような言葉をかけられ、悲しさと憤りが込み上げました。

病気は誰のせいでもないし、周りが思うほど私は不幸ではないのに。色眼鏡で私のことを見ないでほしい。

最初は学校中で大ニュースになっていた私の存在も、月日が経つに連れて「いないことが当たり前」になっていきました。私にとっては、人生の中で「病人になる」ことは何日経っても慣れることのない大事件。でも周りはその状況に慣れていく……。それがすごく嫌で、入院中に誰かと会うことはなくなりました。

【写真】凜とした表情をみせるともよせれんさん

もし、身近な人が病気になってしまったら。中にはどう声をかければいいか迷う方もいらっしゃると思います。

退院したら◯◯しようね。

当時の私はこのような約束の言葉をもらうと、未来にも自分の存在が続いてるような気がして嬉しかったです。「頑張れ」という言葉は、前向きな気持ちで受け取るとパワーになりますが、状況によっては追いつめる表現になってしまうと思います。

言葉というのは、複雑な感情を伝えるには拙いもの。だからこそ私は、発した言葉の背景にある「想い」を見失わないようにしたいです。

とても辛いからこそ、大切な人が白血病にならなくてよかった

治療による外見的な副作用を覚悟はしていましたが、いざ現れはじめるとやっぱり辛かったです。まず髪の毛がまだらに抜けていきました。でも刃物で出血したら大変なのできれいに頭を丸めることができません。

また、ステロイド剤によって顔が丸く腫れ上がる「ムーンフェイス」という副作用が起こります。このときは、別人のように変わってしまった自分の顔を見るのがとても辛かったです。

筋力の低下によって、起き上がるだけで心電図が異常心拍数を知らせる音を鳴らしてしまうこともありました。自力で歩くことが出来ず、常に介助が必要でした。

また、高熱を出してしまったことで、抗がん剤を投与できずに治療を進められなくなったこともありました。私より後に入院してきた子たちが次々と退院していき、終わりの見えない生活に落ち込みました。

口の中いっぱいに口内炎が広がり、口を開けることも話すことも出来なくなった時は、筆談で「どうして病気になる体で私を産んだの?」と母に当たってしまったこともあります。誰のせいでもないことは頭では分かっていたのに、誰かのせいにしないと心が保っていられなかったのです。

でも心が荒んでいた時期、私は病棟で出会った2歳年下の女の子の言葉にハッとさせられました。

こんなに辛い病気になったのが、私で良かった。大切な家族がなっていたら、見ていられないから。

この言葉を聞いて、「様々な副作用が出ている私を見ていることしか出来ない家族だって辛いんだ。この病気が両親や弟じゃなくて良かった」と思いました。治療は変わらず大変だけれど、そこから少し、誰のせいにするでもなく病気と向き合うようになれた気がします。

退院してから感じたのは、日常に散りばめられた幸せ

そして厳しい闘病生活を経て、入院から1年4か月が経ち、やっと退院を告げられました。

【写真】笑顔でインタビューに答えるともよせれんさん

やったー!

麻酔を打って朦朧状態のなか、これが最後の治療で退院ができると聞いたので、喜びのあまりに廊下に響くほどの声で叫びました(笑)。もう本当に、嬉しいという気持ちでいっぱいでした。

生モノや菌類が禁止された食生活を送っていたので「何でも食べられる」ことへの喜びもすごくて。禁止されて食べたくなったのは、納豆ご飯とか素朴なものなんですよね。病気になる以前はすごく好きな食べ物ではなかったのに、今も毎日食べ続けています。

【写真】退院後のともよされんさん。納豆巻きを美味しそうに食べている

退院後にはじめて食べた納豆巻き。すごく嬉しかった思い出です。

無機質な病室から眺めることしかできなかった景色が今、私の目の前にある!食べたいものが食べられるし、行きたいところへ行ける。会いたい人にも会えるんだ!

病気になる前は当たり前だと思っていたことは、入院中は「いつ叶うかわからない夢」でした。季節には匂いがあることがわかり、花や動物を見るだけで感動するようになり、日常に散りばめられた幸せに気付くことができるようになりました。私の価値観はガラッと変わったように思います。

残念ながら同級生たちとの卒業式には間に合わず、学業面を心配していた学校からは留年の提案がありました。でも私は、友達のいない校舎で毎日を過ごす覚悟が出来ませんでした。心のどこかでは「病院を出たら、学校に行けなくなったあの日の続きがあるのではないか」と信じ込んでいたのかもしれません。

先生方は「せめて皆と一緒のタイミングで卒業したい」という私の思いを尊重してくれ、私一人の卒業式をしてくれました。

病気で悩む人へ、「白血病を経験しても元気な今の私」を知ってほしい

いざ社会に出てからは、自分が浦島太郎のような状態になっていると気づきはじめます。友達は大学進学や就職とそれぞれの道を進んでいるのに、退院後すぐに「学生」でなくなった私は何をすればいいのかさっぱり分かりませんでした。

離れていた期間はたったの1年4ヶ月と思っていましたが、当時はお互いに声のかけ方が分からず、友達との連絡も途絶えてしまいました。

私はまず、何か仕事をしようと思いアルバイトの面接を受けました。でも入院していたことを伝えると「何かあった時に責任が持てないから」という理由でなかなか面接に受かりません。受け入れてくれた飲食店では、コーヒーカップの1つも重たくて持てず、1日で辞めてしまいました。自分の体力がここまで落ちていたことに焦りを感じました。

他にも、駅で足を踏まれて骨折してしまったり、具合が悪くなり電車で座っていたら「若者のくせに」と囁かれたり……。当時は、障害や病気などを理由に配慮を必要としていることを周囲の人に伝えるヘルプマークの存在を知らなかったので、周囲の視線がとにかく気になっていたんです。

次第に外には出かけなくなり、自宅療養がメインの生活になりました。退院後でも免疫力が下がっていると思わぬ場所から菌が入り、重症化することもあるため、生活には様々な工夫が必要でした。

退院すれば全てが元通りだと思っていた分、退院前のように活動的に生活出来ないことへのストレスは大きかったです。

私が病気だったことを知らない知人に「いつになったら働くの?」と言われたり、病気を言い訳にしてサボってると思われてしまうこともあって。「働きたくなくて働かないわけではない」と理解してもらえず、悲しくなりました。でも、事情を知らないことが原因ならきちんと話せばいいんだと思い、繰り返し説明することを心がけました。

そんな日々を過ごすなか、ある考えが頭をよぎります。

私以外にも、私のように人生の歩み方に行き詰まり、悩んでいる人がいるのではないだろうか?

良くも悪くも「白血病」は亡くなった著名人の名前ばかりが目立ちます。見事に芸能界へ復帰し活躍する渡辺謙さんがいらっしゃいますが、私にとっては性別も異なり年齢も離れていているので、自分のストーリーには重ねづらいと思っていました。

【写真】インタビューに答えるともよせれんさん

私が発信者になることで、中高生くらいの子達が『病気になってもこうして元気になれるんだ!』と希望を持ってもらえるかもしれない。

そうひらめいたのです。ただ、私が「医療」というコンテンツを発信するには様々な課題がありました。

本人や周囲の人が病気を経験していたり、医療分野を「自分ごと」として捉えている人は私の話を一生懸命聞いてくれるかもしれません。でも、病気になったこともなければ身近にもいないような「他人ごと」である人たちは関心を持ってくれない可能性が高い。それに、私は専門家ではないから、自分が経験したことしか分からない。情報を求める人は素人より専門家の話の方がいいのではないか…。

悩みはたくさんありましたが、「それでも自分が出来ることは?」と考えた時に、私だからできることを武器にしたいと思いました。

タレント活動をしながら発信していけば、『友寄蓮の過去だから』と話を聞いてくれる人がいるのではないか。そしたら多くの人に届くかもしれない。闘病生活から回復するまでのリアルを伝えるには、今しかない!

私はこのとき、タレントになることを心に決めたのです。「やりたい」というよりは「やるしかない!」というのが正直な気持ちでした。

楽な道ではない芸能界。それでも見ている人に笑顔を届けたい

タレントになる決意を固めて動き出したものの、それからもたくさんの苦労がありました。

まず、病気であることを伝えてしまうと、「仕事中に倒れるのではないか」と心配をされてしまいます。これではスタートラインにすら立てなくなります。「この子は大丈夫だ」と安心して仕事を任せてもらえるよう、私は大きな声で挨拶をしたり、明るいファッションを身につけて元気に見えるように意識しました。

ショックな言葉をかけられることも多く、レッスンに励んでいた時は病気のことは言わずにカツラを着用していたので、ファンの方に「カツラを外して見せてよ」「似合ってないよ」と言われました。また、輸血の際に体に残るカテーテル跡をキスマークだと噂されることもあったのです。それでも変わらず笑顔でいなければいけなかった時は、正直苦しかったです。

それでも負けずに活動を続け、退院してから6ヶ月後の2013年9月に「友寄蓮」個人の名前で芸能界デビューを果たすことができました。ただ、2014年の1月にカミングアウトをするまでは病気のことは黙っておくことにしました。白血病の経験はあくまでも私の過去の一部だから、まずは私自身を知ってほしいと思っていたんです。

カミングアウト後のメディアの影響は大きく、「売名行為」や「死ね」といった心ない言葉が届きました。全く傷つかなかったわけではないですが、「そう言われるぐらいに私は病人に見られていない、元気に見られている」と捉えていました。

匿名の悪意より笑顔のパワー!そういう人もいるよね。

私を思いやってくれる多くの人からの愛に守られている私は、素直にそう思うことができています。

【写真】街頭で笑顔でポーズをとるともよせれんさん

そんな調子なので、「(悪意が含まれているのかどうかは分かりませんが)お気楽だよね」と言われることはありますが、「そうなの!私って生きてるだけで幸せなの!」と思っています。「蓮ちゃんが強いから」と言われることもありますが、決してそんなことはありません。私が病気になったのはたまたまで、神に選ばれたとか使命なんて思いたくありません(笑)。

見ている人が笑顔になれるように、私はいつでもハッピーオーラを纏っていたい。

私はいつも、ただそれだけの気持ちで活動しています。同じ白血病の患者さんや、輸血用の血液を献血してくださった方から応援のメッセージが届くこともあり、そのたびに自分の活動には意味があると感じることができます。

私は現在、半年に1回、定期検診に通っています。「白血病を乗り越えたんだから大丈夫」と無理やり自分を奮い立たせていたことで苦しんだことがあり、「あの頃よりはマシ」を重ねていたら必ず限界がくることを知りました。だから私は、自分に対してのSOSを素直に受け、無理をしないということを大切に、これからも笑顔で活動していきたいと思っています。

伝えたいのは苦しい経験ではなく、その先に描く明るい未来

一昨年頃からは、講演会に出演する機会が増えました。現在私がお話していることは闘病生活の体験だけではなく、「病気を経験した当時を振り返り、今思うこととこれからの生き方」についてです。

病気を題材にした映画やドラマには、美しく脚色されたものもあります。でもその物語の裏側にある、本当の苦しみを伝えることが必要だと私は思っています。

けれど、闘病生活の大変さを聞いてもらった上でみなさんに考えてほしいと思っていること。それは、辛さの先にある“未来への希望”です。

私の言葉をすべて受けとめる必要はありません。誰が言っていたのか忘れたとしても、いつか救われるような言葉が残せたらと思っています。

これは私が講演前に必ずお伝えしていること。つらいときに私の話をいつか思い出してくれて、希望を感じてくれる人がいたら嬉しいなと思います。

時が経つにつれて、あんなに苦しくて忘れないと思った闘病中の記憶が、どんどん薄れていっています。そのうち私は経験を話せなくなるのではないか、と不安を抱いたこともあるほどです。苦しい闘病生活のことを話すなら、今の私よりも退院直後の方のほうが向いていると思います。

でも、時が経つほどに過去の自分を俯瞰して見られるようになりました。苦しい経験の先にどのような楽しいことが待っていたのか。時間が解決してくれることもあるということも、話せるようになったのです。

輸血を通して、献血の必要性と人のあたたかさを知った

私は今、献血を広めていくための活動もしています。

私は出血しやすく、輸血が欠かせない入院生活でした。深夜に鼻血が出た時は、壊れた水道水のように血液が流れ、夜通し抑えていた看護師さんの表情には焦りと疲れが浮かんでいて……。そのときは、朝方に緊急輸血をしたことで真っ白な顔に色が戻り、極度の貧血で辛い身体がだんだんと暖かく楽になっていき、なんとか助かりました。

どんなに医療が発達しても、現時点で血液を人工的に作ることはできません。そして、輸血用血液には「赤血球は21日間」、「血小板は4日間」という有効期限があります。つまりはこの数日間のうちに、わざわざ足を運んで献血をしてくれた方がいるおかげで自分は生きられたのだと、本当にありがたく思います。

患者にとって、献血はいのちを救う贈り物。

「献血は社会貢献」と言われても、相手の顔が見えないからイメージが湧きづらいかもしれません。でも、私たち患者は輸血中に顔も見えないあなたのことを考えます。見えない誰かに、頑張れ!と命を分けてもらっているのだと、感謝の気持ちでいっぱいになるんです。100回以上の輸血をした私の体の中に流れている血液は、100人以上の方の優しさなんです。

血液を必要とする人がいると身を以て知った時、私はすでに輸血を経験しているので献血ができない体になっていました。献血の必要性を呼びかけることしか出来ずもどかしいですが、あなたの一歩が明日の誰かの命になることを知ってもらいたいです。

「献血をするとお礼にお菓子が食べられるから」など、最初はフランクなきっかけでもいいと思います。若い世代の人たちが、気軽に献血へ足を運べるような場になってほしいです。

【写真】階段で笑顔をみせるともよせれんさん

将来の夢は、愛のパワーで誰かを守れる人になること

取材を受けていると、「将来の夢は女優ですか」と期待をしていただけることがあります。でも私は、夢ってそんな仰々しいものである必要はないと思っています。

スポットライトを浴びて拍手されるのも嬉しい。でも私は、健康で過ごせる日常の幸せを噛み締めて生きていきたい。

私は今そう考えています。

求められれば舞台も上がりたいですが、私自身はやっぱり人前に立つのが苦手なので、文章を通じて言葉を残していくことも続けていきたいです。

私が尊敬する方で、ラジオDJの「山本シュウ」さんという方がいます。献血を啓蒙する活動に参加している方で、「We are シンセキ!」を合言葉に、ご自身を”お節介オバちゃん”として関わった人たちの悩みにとことん向き合ってくださる方です。

感謝の気持ちが防護服!ありがとうの気持ちがお守りだよ。

辛いことがあった時にシュウさんにかけて頂いたこの言葉に、何度も救われました。私もシュウさんのように、愛のパワーで誰かを守れるような人になりたいです。

過去の私へ、「未来の私は楽しんでいるから大丈夫」と伝えたい

私が病気になっていなかったら、それはそれで幸せな人生を歩んでいたでしょう。でも、もし今目の前に神様が現れて、「病気のない人生を歩めるように過去に戻してあげるよ」と言われても、私はお願いしないと思います。それほど、病気の後に出会ってきた人たちや「今」が大切なんです。

言葉ではすべては伝わらないかもしれない、でも経験は自信としてあなたの中にあるからね。

これは闘病中に主治医の先生がかけてくれた言葉です。当時は意味が分からなかったけれど、今になってその通りだなって思います。今でも私が出演する舞台に駆けつけてくれたり、見守ってくれている第二のお母さんのような存在、病気にならなかったら出会えなかった人です。

その他にも病院でお世話になった人達や仲間、応援してくださる方々、最近家族の一員になったウサギのぽんちゃんも……。別の人生ではすれ違うだけだったかもしれない人たちと関わることができている。「現在」にある大切なもの・人や記憶は、「過去」があったから出会えた奇跡だと思えています。

そして、将来に不安を抱き、病気で苦しんでいた当時の私にはこう伝えたいです。

未来の自分が楽しんでいるから、今は思う存分苦しんで大丈夫だよ。

【写真】笑顔をみせるともよせれんさん

明日死ぬと思って今日を過ごし、未来を生きると信じて今努力する

私の座右の銘であるこの言葉を後世に残していくため、自分にできる精一杯の努力をする。そうして多くの人を笑顔にしていきたいです。

関連情報:

友寄蓮 オフィシャルブログ

(写真/川島彩水)