【写真】光明寺の本堂で足を組んで座り微笑んでいるまつもとしょうけいさんともりじゅんや

本当はやりたくないことをしたり、周りに合わせてしまって自分が出せなかったりする経験は、きっと多かれ少なかれ誰にでもあるもの。

多くの人が、「自分の可能性を活かし、自分らしく生きたい」と願っているはず。それなのに、どうして私たちは自分の意思とは違う選択をしてしまうのでしょうか?

そこには、不安や心配といった「おそれ」の気持ちがあるのかもしれません。

そう話すのは、光明寺の僧侶・松本紹圭(まつもとしょうけい)さん。世界経済フォーラム(ダボス会議)のYoung Global Leaderにも選出され、住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を運営する松本さんは、日常生活や組織のなかでも、この「おそれ」ベースの行動やコミュニケーションを変えていくことが大切だと考えているそうです。

おそれとは、ちょっと聞き慣れない言葉ですが、昔から仏教の世界ではこのおそれを取り除くことが大事だと考えられてきたのだとか。松本紹圭さんとsoarの理事であるモリジュンヤが、おそれの正体とそこから生まれる「生きづらさ」から抜け出すためのヒントについて話し合いました。

松本紹圭さん
1979年北海道生まれ。東京神谷町・光明寺僧侶。「未来の住職塾」塾長。世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leader。武蔵野大学客員准教授。東京大学文学部哲学科卒業後、インド商科大学院(ISB)でMBA取得。2012年、住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を開き、宗派や地域を超えた若手僧侶の卒業生を輩出。誰でも参加できる、お寺の朝掃除の会「テンプルモーニング」の情報をツイッターで告知。

【写真】光明寺の一角。木製の椅子や机があり、木の柵の外側には森がある。

「おそれ」が強く、身動きができない若い人たち

モリ:以前、松本さんが「今の時代、おそれを取り除くことがとても大事だ」と仰っているのを聞いて、すごく興味をもちました。どうして、そう考えるようになったのでしょうか。

松本:お寺の活動を通じて、いろいろな方とお会いする機会があります。そのなかで、とくに若い方と話していると、人間関係や職場のしがらみにしばられて、身動きがとれなくなっている人が多いと感じるのです。

その背景には、おそれがあるのではないでしょうか。仏教でも、おそれは重要なテーマのひとつです。おそれの気持ちが強くなるとチャレンジもできなくなる。だから、まずはおそれを取り除くことが必要ではないかと感じるようになりました。

【写真】光明寺の本堂で質問に丁寧に答えるまつもとしょうけいさん

モリ:仏教の世界では、おそれはどのように扱われているのですか。

松本:「お布施」というものがありますよね。梵語では「檀那(旦那)」といい、英語のドネーションも同じ語源から生まれた言葉です。多くの方が思い浮かべるのは、お坊さんがお経を読んでくれたお礼に渡すものかもしれません。

でも、布施は別にお金の話だけではありません。布施のなかにも「財施」、「法施」、「無畏施」の3つがあると言われています。

「財施」はお金や物を手放して人々に施すこと。「法施」は仏の道を説くこと、そして3つめの「無畏施」が、おそれ(畏れ)を取り除くことです。たった3つしかない布施のなかに、おそれをなくすことが入っている。それだけ昔から、人々はおそれには大きな意味があると考えてきたのだと思います。

無理して期待に応えようとする理由

モリ:今、「無畏施」が特に大事になってきている、と。でも、そもそもおそれとは、どういうものなのでしょうか。

松本:仏教では「諸行無常」といって「一切は変化すること」、「諸法無我」といって「永遠で不変な『私』というものは存在しないんだ」ということを言っています。「私」というものは、さまざまな縁によって、その瞬間、瞬間に立ち現われて来るもの。だから、「ずっと変わらない私」というのはフィクションなのです。

だけども、その「変わらない」というフィクションを人は信じたいんですよね。人間というのは習慣の生き物なので変化がこわい。新しいことをするとか、行ったことのない場所に行くとか、今持っている物や場所を失うことがこわい。それがおそれを生みだして、今あるものや関係にしがみついてしまいます。

でも、私たちは日々年をとっていくし、環境も何一つとして昨日と同じことはないわけです。全部が変化しているにもかかわらず、しがみつくから苦しくなる。手ばなせないおそれが大きな苦しみを生んでいると思います。

モリ:変化を常とすることが大切なんですね。多くの人は、先のことがどうなるか分からないのに、「何か悪いことが起こるかもしれない」と考えてしまいます。そうすると、おそれが生まれますよね。

こうしたおそれは、コミュニケーションにも起きている気がします。たとえば、「嫌われるかもしれない」「がっかりされるかもしれない」というおそれや不安がベースになってしまうと、無理をして相手の期待に応えようとしてしまう。他人から期待されたときに「期待に応えられなくても大丈夫だろう、何も起きないよ」という安心感をもつことができればいいのですが、そうやって苦しくなることもある気がします。

【写真】光明寺の本堂で真剣な表情で話すもりじゅんや

「私には、ここにいる価値があるのだろうか」

松本:最近、よく若い人たちが「私はここにいていいんだろうか」という風に話すことがあるんですよ。自分は価値をちゃんと出せているだろうか、ここにいるだけの価値があるんだろうかという不安があって、「価値を出さないと居場所がない」という強迫観念をすごく感じます。

今の教育や社会の仕組みがそういうメッセージを発している部分もあるので、そう考えてしまうのも無理はない。でも、「価値を出せているだろうか」というのは、評価のものさしを他人に預けている状態ですよね。誰かに認められて、初めて「ここにいていい」と思える。その背後にも、やはりおそれがあるのかなと思います。

モリ:「ここにいていいのだろうか」と不安を抱えている人に対して、松本さんはどう声をかけるのですか。

松本:実は、そういうことも考えて、誰でも参加できる「テンプルモーニング」という活動を2週間に1度くらいのペースで2年ほど前からやっています。要するにお寺の朝掃除なのですが、お経を読んでから境内を掃除して、その後に対話をしています。Twitterで告知をすると、毎回10~20人ほどの人たちが入れ替わりで参加してくれます。

仕事をしていても、組織が大きくなり、仕事が高度化していくことで、達成感というものが持ちづらくなっていますよね。「この仕事は何の役にたっているのだろうか」というのが見えないと、すごくしんどい。でも、掃除というのは日常生活のなかで誰にでもできて、少しやっただけでも確実に成果が見えます。きれいになった、役に立ったという達成感があるんです。

【写真】光明寺の入り口を竹ぼうきで掃いているまつもとしょうけいさん

仏教では「あなたはそのままで価値があるし、素晴らしい」と説いています。ただ、そう言われたからといって、誰もが素直にその言葉を受け止められるわけではない。掃除という出番があることで、ここが居場所にもなれる。そういう機会をつくってあげることも大事だと思っています。

数百年続くお寺という場の効果

モリ:おそれを取り除くことを考えるときに、自分自身と向き合うことはもちろん必要ですよね。それに加えて、自分のおそれを周囲と適切に分け合っていくことも大事なのかなと思います。

松本:たしかに「おそれを持っている」、「私はおそれている」と、口にして誰かに伝えること自体がすごく勇気のいることです。自分だけで思っていることと、それを口に出して言うことには、大きな違いがある。でもそれを周囲に口にできた時点で、人はおそれを手放すプロセスに入っているのではないでしょうか。

モリ:おそれを自分で認識して誰かに共有することは、小さくも大きな一歩ですよね。この光明寺では、テンプルモーニング以外にもいろいろな人が集まる機会をつくっているそうですが、「お寺で一定以上の人が集まる場」があることによって、自分のおそれに気づいたり、分かち合ったりといった変化が起きる場合もあるのでしょうか。

松本:そうですね。人の内面に変化が起きる場として、お寺という舞台環境は優れていると思います。来てくださった方は「こんなこと話したことありませんでした」とか、「自分が何を思っていたのか、話してみて初めて気づきました」とか、そんな風に話してくださることがすごく多い。本堂では阿弥陀様が見ているので、二人で話していても“三人目の目線”がある。そういう場の力はすごく感じます。

【写真】光明寺の本堂が厳格な雰囲気を作り出している

モリ:仰る通り、この本堂にも場の力を感じますし、そもそもお寺という空間自体が、日常とは異なる場所ですよね。

松本:光明寺は街なかにありますが、それでも鳥の鳴き声がしますよね。お寺ということに加えて、日常の喧噪から隔てられた静かな環境の効果もあると思います。

それから、このお寺には800年の歴史があり、昔からこの土地にあって、ご本尊がずっと続いてきています。ご本尊の前でたくさんの人が数えきれないほどの祈りを重ねてきたんだろうなという、そういうストーリーに思いを馳せることができる場所でもあります。そういった大きなスケールのなかで物事を相対化して考えてみることも、おそれを手放すためには大事です。

モリ:800年という長い時間のなかで見たら、自分の悩んでいることが大したことではないと思えるかもしれませんね。

松本:だから「フューチャーセッション」といった、みんなで未来を構想するような場をお寺でやると結構うまくいく。会社の会議室でやっても、せいぜい30年後、50年後の未来くらいまででしょう。100年後の未来といったときに、その会社自体がないかもしれない。だけど、お寺だと100年後のことを考えてもリアリティがあるのです。

モリ:そもそも800年続いてきているから……。

松本:はい。900年目もあるだろうし、あってほしいよね、と。ここまで続いてきたものを、先につないでいくためには何をすればいいんだろうかと考えられます。

その人の世界観が幸福度に大きく影響する

モリ:数百年いった時間軸で物事をとらえたら、世界の見え方や自分の生き方も変わってきそうですよね。

松本:そうだと思います。そうした世界観や人生観というものは、その人の幸福度にも大きく影響してくるのではないでしょうか。

先日、友人のお寺のイベントに、ブータン王国のプリンセス(現国王の従妹)が招かれて来ていたのですが、ブータン王国といえば仏教国で「幸せの国」とも呼ばれています。物質面でいえば日本はブータン王国よりも豊かで幸せなはずですが、日本とブータン王国では世界観や価値観が大きく異なるという話をプリンセスとしました。

ブータン王国では、霊魂が人や動物など他の生を転々と生まれ変わっていく輪廻の考え方が強くあるので、「今そこに飛んでいる鳥は、亡くなったお母さんの生まれ変わりかもしれない」と考える。そういう世界観のなかでは「今こうして生きている」ということだけが、すべてではありません。私はまた違うものに生まれ変わるかもしれないからです。

だけど、今人間に生まれているということは、仏教でいえば悟りを得られる幸運なステージにいるということでもある。だから、ブータンの人々は、この生を最大限生かしていくことが大事だと考えています。

もちろん「受験に失敗してどうしよう」「借金が返せない」とか、日本と同じような悩みはブータンにもあります。だけど、大きな世界観のなかでは「まあ、その悩みもひとつにすぎないよね」ととらえることもできるのです。

【写真】光明寺の本堂で真剣な表情でインタビューに答えるまつもとしょうけいさん

モリ:その輪廻のなかで、「たまたま自分は今この命を生きているんだ」と考えることで、見える世界が変わるんですね。

松本:もうひとつ印象的だったことがあります。イベントの参加者がプリンセスに「仏教徒として、どんなことを日々心がけているか」と質問したんです。そうしたら「毎日、その日あったことを振り返ってみて、必ず死を思うようにしている」と答えていました。

一日一回は死を思う時間をつくり、自分の人生は永遠ではないことを意識する。少なくとも人間として生まれている時間には限りがある。それを強く思うことで、逆に今日一日、一瞬一瞬が大事なんだ、素晴らしいんだ、と気が付いていくという話には納得させられました。

「死」というものにリアリティがない

モリ: スティーブ・ジョブズも「今日が人生最後の日だったとしたら」と毎日自分に問いかけていたという話があります。つまり自分の死を見据えたうえで、今をどう生きるかを常に考えていたのだと思います。

でも、今東京に住んでいて死を意識する機会はほとんどありません。もともと僕は岐阜県の小さな町の出身で、祖父母と同居していたし、近所には高齢者がたくさん住んでいたので、人の死に直面することも多くありました。でも、東京に住んでいて普段接点をもつ相手は同世代ばかりです。

また、地元ではお墓が当たり前のように点在していましたが、東京だとお墓がある場所も限られています。死に触れることが日常化されないとうことは、死を意識することも日常化されないということかもしれません。

さっきの数百年という長い時間もそうですが、死と比べたときに自分の悩みは大したことではないと思えることもある。「どれくらい死というものを意識する機会があるか」と、自分や周囲に起きる変化をおそれることには、実はけっこう関係があるんじゃないかなと思うんです。

【写真】真剣な表情で会話をするもりじゅんや

松本:最近でも自然災害の大きな被害がありましたし、ちょっと想像力を働かせれば身近にも死を意識する機会はたくさんあるんですけどね。あるはずなのに、見えないようにしているのかもしれません。

モリ:無意識のうちに、そういう情報を受け取らないようにシャットダウンしちゃっている部分もあるのかなと思います。ニュースで「死者数が何人」と報じられても、単なる数字の情報としてしか受け取っていなくて、そこにリアリティはありません。

松本:「自分ごと」にはならないですよね。

モリ:おそれと、世界で起きているいろいろな出来事に対して自分の心のチャンネルをどれくらい開くかということとが、僕のなかではつながっているような気がするのです。

世界で起きている事件を「自分ごと化」して受け止めることは大切だと思うのですが、世界中から入ってくる情報を一つひとつ受け止めていると、とても心がついていかないし、処理しきれない。だから、ある程度チャンネルを閉じて、あえて鈍くするということが起きているように思う。

でも、その鈍くしている状態のなかで、ふと漠然と何かに不安になるとか、おそれを感じたりすることも起きてくるのではないでしょうか。

松本:情報に溢れている時代だと言われるわけですが、実際には情報をスルーする技術ばかりが上がっているような気もしますね。

思考停止したほうが本当に楽なのか

モリ:大きなスケールで物事をとらえることも大事ですが、一方で「今この瞬間」にちゃんと集中するマインドフルネスのようなことも、おそれと適切に向き合うためには大事ではないかと思います。

でも、今の多くの人は、みんなその中間のところに気をとらわれている。今この瞬間のことは全然考えられていないし、だからといって、数百年先とか死といったスケールの大きな視点で考えることもできない。

「将来どうしよう」とか「老後どうしよう」とか、考えても仕方がないような少し未来への漠然とした不安に、意識がとらわれてしまっているのではないでしょうか。

【写真】光明寺の本堂で真剣な表情で会話をするまつもとしょうけいさんともりじゅんや

松本:そうなってくると思考停止してしまうんですよね。どこかに逃げ込みたくなってくる。

以前、組織論がテーマのトークイベントで、会社で働きながら「本当にこれでいいんだろうか」とか「この会社がやっていることは社会の役にやっているんだろうか」とか余計なことを考えていると疲れてしまうし、つらいという話がありました。

だから、とにかく思考停止して、その会社のシステムやルールに染まって成績を伸ばすことだけを考えたほうが楽なんだ、と。でも、それは“会社教”ですよね。会社が宗教のようになってしまっている。

【写真】質問に丁寧に答えるまつもとしょうけいさん

モリ:なるほど。

松本:SF映画の『マトリックス』では、人々はコンピューターに支配された仮想現実のなかにいます。ブルーピルを飲めばずっと仮想現実のなかで生きていけるけど、レッドピルを飲めば目は覚める代わりに苦しい現実を知るという設定でしたよね。じゃあ「あなたは、どちらを飲みますか?」と。

ブルーピルはいわば思考停止です。何も考えずに与えられたシステムにのっかっているほうが楽だという選択をする人もいる。そういう人は結構多いと思うんですよ。それも、おそれからくる選択だと思います。本当はどこかに違和感があって、おかしいと気づいているのだけど、現実を見たくないからフタをしてしまう。

どちらが正しいということではないと思うのですが、私自身はレッドピルを飲みたいなと思います。夢から覚めることが苦しかったとしても、本当のことに向き合いたい。システムのなかで思考停止をするのは一見楽ですが、結局は根底の部分でどこか苦しさを抱えたままになってしまいます。

モリ:たしかに、そうだと思います。

評価のものさしを他人に渡さない

松本:「主人公」という言葉がありますよね。意外かもしれませんが、あれは禅の言葉なんです。私がこの人生、私のかかわりにおける世界の主人公であることを思い出すこと。そのことに、死を意識することで気づく人もいれば、大きな時間軸のスケールでとらえることで気づく人もいる。どちらにしても、共通するのは「私が私を生き始める」ことの大切さです。

モリ:思考停止をして舵とりを誰かに任せるのではなく、ちゃんと自分で自分の人生の主導権を握っていくということでしょうか。

松本:思考停止した状態だと舵取りも他人に任せているし、評価軸、ものさしも他人に渡してしまっていますよね。どうやったら外から評価されるか/されないか、で生きてしまっている。だから、おそれが生まれる。人にものさしを預けるのは楽ですけど、それでは「自分が主人公」とは言えません。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるまつもとしょうけいさん

モリ:今のお話を聞いていて「オーセンティック・リーダーシップ」のことが頭に浮かびました。その人らしさを発揮したオープンなリーダーシップの在り方を意味する言葉なのですが、僕は「ダイバーシティ」よりもいいな、と思っているんです。

ダイバーシティという物語を共有しようとする動きが強くなっていると思うんですけど、ダイバーシティって、みんなで同じ物語を共有しているようで、実はあまり同じ物語ではなかったりする。

ダイバーシティ、つまり多様かそうでないかを意識するよりも、一人ひとりが「自分らしくある」ことを目指すほうが、結果として多様性が育まれるのではないかと思う。

松本:今までの評価軸が「ダイバーシティ」にただ変わるだけで、「とりあえずバラバラ感を出していこうよ」となったとしたら意味がないですよね。

それよりは、ダメなところも含めて、一人ひとりが人生を主人公として生きていることのほうが大事。真のダイバーシティは、きっとオーセンティックなあり方に近いものだと思います。

「自分も同じかもしれない」というまなざし

モリ:自分の物語だけでなく、他人の物語も尊重できることが大切ですよね。おそれと受容は近いところにあるように思います。

過剰に相手をジャッジしたり、攻撃的になったりする風潮がありますけど、自分のおそれをちゃんと見つめられていれば、攻撃的になることなく「自分もそういうところがあるよ、わかるわかる」みたいな感じの向き合い方もできるのではないでしょうか。

【写真】真剣な表情で会話をするもりじゅんや

松本:浄土真宗の開祖である親鸞と弟子とのやり取りの中で、人間は縁さえあればどんな悪をも犯してしまうものなのだと教え諭したエピソードがあります。

ニュースやSNSで、何か社会に受け入れられないことをした人を、ものすごくバッシングする傾向がありますよね。でも、親鸞が言っているのは、「同じようなことを自分は絶対しないってことはない」ということです。

いろいろな縁のなかで、たまたましていないだけで、縁さえあれば同じことをする可能性がある自分なんだっていう、そのまなざしがあるかどうかはすごく大きい。

すぐには変われなくてもいい

モリ:いろいろなものは移ろっていくことを前提に、どう生きていくのかを考えたら、やっぱり評価軸を自分に持ってくるしかない。おそれに気づいて、開示したり、相対化したりしながら、ちょっとずつ手ばなしていく……。

松本:もちろん最終的に手ばなしていければいいのですが、それは簡単にはできないことでもあります。仏教的な文脈でいえば、悟りを得るとかブッダになるということですから、みんながすぐブッダにはなれるわけではありません。

やっぱりこわいし、思考停止したくなるし、私は私にしがみついてしまう。でも、「そういう私」も許して受け入れていくことで、変わっていくものがあります。

【写真】微笑んでインタビューに答えるまつもとしょうけいさん

今まで積み重ねてきた行為であったり、考え方であったり、いろいろなクセがありますから、いきなりそれを180度変えることができるかと言ったら、そんなことはない。車が急に止まれないのと一緒で、そういうクセがすぐになくなるわけではなりません。

でも、そのことにがっかりする必要もないのです。急には止まれなくても、ブレーキを踏めば時間はかかるけど止まっていきます。だから、あまり焦らずに、「また同じことをやってしまったけど、人間はそういうものだよね」と思ってほしい。自分のおそれと長い目で付き合っていくことが大事なのです。

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おそれをテーマに始まった今回の対談ですが、コミュニケーションや死生観にまで話は広がり、思わずうなずくところがたくさんありました。

変化を受け入れるのがこわい、他人の評価軸に任せてしまおう……おそれの気持ちからさまざまなものにしがみつくことは、生きづらさにもつながっているかもしれません。でも、大昔から多くの人が同じようなことで悩んできたのだ、とも思いました。

大きな世界観で考えてみたり、「この瞬間」に集中してみたり、対談の中ではおそれから距離をおくためのヒントもありました。もし、それがうまくいかなかったとしても、「焦らなくて大丈夫。ゆっくりと変わっているはず」という松本さんの言葉を思い出せば、少し心も楽になりそうです。

今度、モヤモヤとした息苦しさを感じときには、おそれをベースに行動していないだろうかと「私」に問いかけてみたいと思います。

そして、ちょっと掃除でも始めてみましょうか。

【写真】光明寺の前で立っている笑顔のまつもとしょうけいさん

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(編集/工藤瑞穂、写真/川島彩水)