【イラスト】着飾った女性がペンとメモを片手に笑顔で誰かの話を聞いている

あかしちゃんってさ、自己肯定感が低いよね。

昔、そんなことを先輩から言われた経験があります。私はその時ぼんやりとしか「自己肯定感」を理解しておらず、漠然と「自分の自己肯定感は低くはない」と思っていたので、「えー、そんなことないですよお。前向きですし」と、ヘラヘラ返事をしていました。

ただ、今から9ヶ月ほど前。私は自分の「自己肯定感の低さ」と向き合わざるを得なくなったのです。

今回から3回にわたって、私が実際に日々生きながら感じている「悩み」について、内科医の鈴木裕介先生にお話を伺い、その悩みと向き合うためのヒントを模索するコラム連載をスタートします。

第1回目は、「他者の承認を通じてしか、自分のことを認められない」という悩み、つまり前述の自己肯定感の低さ、についてのお話です。

「働きすぎ」で心身のバランスを崩してしまった

今年の1月、私は働きすぎが原因で、心身のバランスを崩してしまいました。正社員として週5日間働きながら、それ以外の時間を使ってフリーランスの仕事をこなし、さらには都心から離れた場所に住んでいたため片道約2時間の通勤を繰り返す…。そんな生活を続けていたところ、自分が持っているキャパシティを超えてしまったのです。

ある日いきなり涙が止まらなくなり、1週間ほど、会社に行けなくなってしまいました。

会社の同僚やパートナーの支えもあり、幸いにもすぐに職場には復活でき、周囲からも「早く回復できて本当によかったね」と言われました。

……ただ実は、表面上の回復は早かったのですが、一度落ち込んでしまった心の不調が、なかなか回復してくれなかったのです。

私はもともと心が強い人間ではないので、体調を崩してしまう以前も、その調子が乱れることは定期的にありました。生理前のホルモンバランスの関係だとか、仕事がうまくいかないだとか、恋人とのすれ違いだとか、原因はさまざま。

ですが、それらの落ち込みはどれも「一時的なもの」でした。もう26年間、自分という人間と付き合っていますので、自分自身に対する対処法は、誰よりもわかっています。1日塞ぎ込んで寝たり、気分を晴らすために友達とカラオケに行って騒いだり、ノートに鬱々とした気持ちを吐露したりすることで、その落ち込んだ気持ちを晴らすことはできた。自分自身をコントロールすることは、そんなに難しくはないと思っていました。

そんな中、今回ぶつかった心の不調は、今までの「一時的なもの」とはどこか違いました。たとえるならば、一度海の底に突き落とされて沈んだまま、ずっと浮かび上がってこれないような、そんな感覚。何をしていても、誰と話していても、誰かに否定されているような、誰にも認めてもらえていないような気がして、気分が晴れず、不安でたまらない毎日が続きました。

そのような状態だったことを話すと、ゆうすけ先生は、こう言います。

あかしさんには、「浮き輪」が必要なのかもしれませんね。浮き輪とは、つまり「自己肯定感」のこと。何もがんばらなくても、勝手に水面に浮かんでこれる状態が、自己肯定感が高いということだよ。

ゆうすけ先生のこの言葉で、私は自分の「自己肯定感」が低いということに、恥ずかしながら、初めて気がつきました。今までむしろ漠然と自己肯定感は高い方だと思っていたので、これは目から鱗でもありました。

なるほど言われてみるとたしかに、私には、浮き輪がありませんでした。誰かからの期待や承認をエサにして泳がなければ、水面に上がって息をできない。今までは、ただ頑張って泳ぎ続けられていただけなんだ──そんなことに気がつきました。

「誰かの期待に答えること」を前提に生きてきた

思い返してみれば、私は幼少期から、親からの期待、友達からの期待、恋人からの期待に答えながら生きていたように思います。

就職活動で「あなたを何かにたとえるなら?」と聞かれて、「相手に合わせて自由自在に変化できる、スライムみたいだと思います」と答えたことを、今でも鮮明に覚えています(今思うと、この回答はどうなんだとは思いますが……)。それくらい、「相手が望む私はどんな状態なのか」を自然に考えて生きてきました。

相手の望む私でいることは難しくはなく、そして、それが別に苦でもありませんでした。テストでいい点数を取ることも、部活でいい結果を残すことも、相手にとってめんどくさくない「いい子」を演じることも。

だから、私は自分の心の底から何かを「やりたい」と思ったことがほとんどなかったですし、「わがまま」からは程遠い性格だったと思います。なんとなく周りが望んでいそうだから、これをしたら喜んでもらえそうだから。周囲の期待が、何か行動する時の原動力でした。

それを聞いたゆうすけ先生は、私は「自己効力感は高いのではないか」と言います。

自己効力感とは、「自分はできる!」という感覚のこと。誰かの期待に答えられ続けてしまう器用さがある人は、自己効力感は高くなるけれど、一方で、自己肯定感をほったらかしにしてしまうことが多いんです。

まさに、ゆうすけ先生がおっしゃる通りでした。私は、自己肯定感はほったらかしにして、自己効力感ばかりを高めていたのです。

文章という「浮き輪」に出会ったときのこと

高校生ごろからでしょうか。私はそんな「誰かの期待に答える」ばかりの自分に、少し違和感を覚えるようになっていきます。

誰かの期待に答えて褒められ、「いい子だね」と言われることはたしかに嬉しかったけれど、いつからか「自分はそんなに綺麗な人間ではない」と思うようになりました。

ここには書けないような、汚く、醜いことも心の中では考えていた。そんな自分の心の中にある鬱屈した感情と、周りから見られる「いい子」評価のギャップに、自然と苦しむようになったのです。

自分が心の底で思っていることは、誰にも理解してもらえないのかもしれない。理解してもらおうにも、どうやって自己開示をすればいいか、その術がわからない。そんな苦しさを抱えるようになり、外に出すことができない「裏の自分」が、どんどん誇大化していきました。

そんな時期が大学生のなかごろまで続いたのですが、大学2年生のある時、ふとしたきっかけで、私は本屋さんでアルバイトするようになります。

本屋さんで働くようになって、いろんな本を読むようになりました。そして、たくさんの人が書いた「文章」に出会い、触れた時、私はなんだか心が救われるような気がしました。それは、自分の心の底にある「醜い」部分──醜くなくとも、まだ言語化されていない自分の気持ちを、許されるような気がしたからです。

「いい子」とは真逆にあるような、狂気的な本を読むのが好きでした。芥川賞作品を読み漁り、共感する言葉を見つけるたびに、メモをひたすら取っていたことを、今でもありありと覚えています。

【イラスト】夜中にパジャマで首にタオルを巻いた状態で、パソコンで何かを作業している女性

そして自然に、自分でブログや日記を書くことも始めました。文章を書くことは、私がはじめて人の期待「なし」で、心の底からやりたいと思って始めた行為でした。今思い返してみれば、文章を書くこと、誰かの文章に触れることは、私にとっての「浮き輪」のようなものだったと思います。

「好きなことを仕事にする」ことの難しさ

文章に救われてきた私は、次第にそういった文章表現の「作り手」側になりたいな、と思うようになっていました。

だから就職活動で目指していたのは、出版社。でも、新卒で出版社に入社するのは狭き門……。なかなかうまくいかず、「自社メディア」という形で編集者のキャリアが残されている、現在勤めているIT企業に入社することになりました。

入社してすぐには編集職に就くことは叶わなかったのですが、希望が通り、3年目から編集部へ異動。そこから少しずつお仕事で文章に関わるようになり、次第にプライベートのお仕事でも、ライティングのお仕事をするようになりました。

最初の頃は、「やっと文章を仕事にできた」と嬉しさが止まりませんでした。仕事ではないですが、自分が趣味で書いていたnoteがたくさんの人に届いた瞬間も、心の底から嬉しかった。どんどん仕事が増えていき、どんどん周囲から「期待」していただくようになりました。

……そう。文章に対して、「期待」されるようになってしまったのです。これは嬉しいことなのですが、同時に、「期待」から逃れる場所として文章を書いていた私にとっては、危険なことでもありました。

「好きなことを仕事にする」ことに対しては、今も昔も賛否両論があるように思います。今まで私は漠然と、「好きなんだったら仕事にした方が絶対に幸せじゃん」と考えていました。

でも、「好きなこと」とは、人によっては「人生の救い」でもある。そういう「救い」を仕事にするとは、「救い」がいつのまにか「やらなければいけないこと」に変わっていってしまう可能性もある、ということを十二分に考えなければいけない、と今では思います。

文章は私にとって唯一の「浮き輪」だったのに、いつのまにか、その浮き輪を手放してしまっていたのでした。書きたくて書いていたはずのものが、誰かの期待に答えるためのものに変わってしまっていた。この段階が、今年の1月です。

そうして、せっかく見つけた浮き輪をなくして沈んだ私は、浮かび上がることができなくなっていたのでした。

「ダメダメな自分」を受け入れてくれる人を見つけよう

ダメダメな自分でも受け入れてくれるような人を、まずは一人見つけるといいよ。そこで、ひたすらダメな自分を開示する練習をしてみる。自分は何の能力もなくてもここにいていいんだ、と思えるような場所を作ってみる。そういう関係性が3つくらい出来てきたら、それが人生の浮き輪になると思うよ。

ゆうすけ先生は、自己肯定感をつけるためには、「ダメな自分を受け入れてくれる人」を見つけた方がいいと言います。能力や成果にかかわらず、自分を大切にしてくれる人や時間です。

でも、もしダメな自分を開示してみて、そのせいで嫌われたり、裏切られたりしたら…? そう思うと、私のような人間は足がすくんでしまいます。そして私には実際に、ダメな自分を開示して失敗した経験が過去に何度かありました。

そのことをゆうすけ先生に話すと、

ダメな自分を受け入れてくれなかったり、裏切られたりしたとしても、それはこの世の中で本当に一部の人でしかないから気にしなくていい。誠実な人は相手を変に理想化したりしないからね。

きっぱりと、まっすぐ目を見てそう言ってくれました。そんなゆうすけ先生の言葉を聞いていたら、なんだか本当に気にしなくていいように思えてくるから不思議です。ダメな自分のことを受け入れられず、嫌われてしまうくらいの関係だったら、もしかしたら「それまで」なのかもしれない。

そして何より、自分が思っているよりも、相手は「できる私」を別に望んでいないんだ、ということを最近すごく感じるのです。私は大好きな友達に対しては、「どんなことでも受け入れたい」「別にダメダメでもいい」と思っている。人に対しては「なんでも受け入れたい」と思っているくせに、自分のことになると「受け入れてくれるはずがない」と思ってしまうのは、とってもおかしな話です。

 【イラスト】土手で友達と地面に座り、おしゃべりをしている女性

まずは、自分だけマイナスな意味での特別扱いをしないようにしよう。そう思いはじめてからは、少しずつ、ダメな自分についての自己開示ができるようになってきた気がします。

少しずつだけれど、浮き輪ができていることを感じる

そしてそれとは別に、私は今年の6月ごろから、「自分で自分を満たそうキャンペーン」というものをはじめていました。これも、今思うと、自分の自己肯定感を高めるための行為だったように思います。

他人の期待や承認とは関係なく、自分で自分を満たすために、「他者の期待で動くことをやめる」。そして、「自分が心から楽しいと思える時間を大切にする」。

そのために、自分の気持ちをつらつらと書き連ねる、人に見られるためではない文章を書くことにしました。自分自身を浮かび上がらせる、自分のためだけの行為。あとは、一人でただただ好きな映画や演劇を見たり、本を読んだりする時間を増やしました。

そうやって半年間ほど自分自身と対話し、向き合っていくなかで、私は少しずつ、誰かの期待がなくてもやりたいと思うことをやり、自らを大切にすることができるようになってきたような気がします。以前とは比べ物にならないほど、心がちゃんと自然に浮いてくれるようになった。

私の人生は誰のためでもない、「自分のため」のものであるという事実を守り抜くこと。誰にも脅かされることのない、自分自身の気持ちを認めてあげられる時間をつくること。

その時間や人間関係こそが、自己肯定感をあげるために必要なものなのだと思います。また自分の心が沈んでいるな、と感じたら、この文章を読み直し、そのような人間関係を、時間を、何よりも大切にしていこうと思うばかりです。

傷つき、悩んだ分だけ、人は魅力的になる。いろんな葛藤を経験して、自分のための人生を生きだした人は、表情が変わるんですよね。以前に出会った時よりも、今のあかしさんの笑い方のほうが、とても自然で素敵だなと思います。

そう言ってくださったゆうすけ先生の言葉を胸に、明日からも頑張っていこう、と思います。

【イラスト】海で浮き輪を使用し笑顔で浮かんでいる女性

(イラスト/あさののい、編集/工藤瑞穂)