【写真】窓際で電動車いすに乗り微笑むおざわあやこさん

誰かに「助けて」とSOSを出すことは、簡単なことではありません。

子どもがまだ小さい頃、苦しかったことがあります。忙しいときに子どもが熱を出して、仕事が進まない。ひとりで頑張ろうとするほど空回りしてしまって、仕事も子育ても、なんて中途半端なのだろうと落ち込んでいました。

誰かを頼ることは、自分のダメさを目の当たりにするようで抵抗がありました。そのとき、人を頼ることはとても勇気のいることなのだと思ったのです。

お話を聞きに、電車に乗ってたずねたのは、筋ジストロフィーという難病を抱える当事者である小澤綾子さん。筋ジストロフィーは、筋肉の細胞が壊れやすく再生されにくい性質をもつ進行性の疾患です。そのため、少しずつ筋力が低下し、日常の動作や呼吸などに影響が出ることもあり、症状の進み方や現れ方は人によって異なります。

小澤さんはその症状があるなかでも、講演活動や歌手としてのライブ、車椅子ガールズユニット「BEYOND GIRLS」でのパフォーマンスなど、精力的に活動をされてきました。

そして2023年に、小澤さんは第一子を出産しました。出産後は病気の進行もあり、子育てが始まったことで、どうしても周囲の人に頼らざるを得ない状況になっていきました。もともと人に頼ることが苦手だったという小澤さんは、産後うつに苦しみながらも、「できないこと」を受け入れていくという経験をしたといいます。

夫の邦彦さん、家族、友人、地域の人、そして愛するお子さん。いろいろな人と関わりながら力強く挑戦し続ける、小澤さんのこれまでとこれからを聞いてみたいと思います。

「どうして身体が動かないのだろう」と自分を責めてきた子ども時代

ーー今日は小澤さんがどんな人生を歩んできたか、詳しくお聞きしたいと思います。まず、子どもの頃はどんな性格だったんでしょうか?

外で遊ぶのが大好きな子どもでした。野山を走り回って、セミをつかまえたり、魚や蟹を釣ったり、アクティブな幼少期を過ごしていました。ただ、保育園が好きではなくって「どうしてみんなと同じことをしなくちゃいけないの?」と思う子どもでしたね。

【写真】両腕を組みながら話すおざわさん

ーー筋ジストロフィーの症状は、いつ頃からでてきたのでしょうか。

小学4年生の頃ですね。あんなに活発だったのに、少しずつ体が動かしにくくなったんです。体育の授業で「走れ」と心の中で命令しても、体が動かない。私は一生懸命走っているつもりでも、周りからサボって見えるぐらい遅いスピードでしか走ることができませんでした。

先生に呼び出されて「真面目に走りなさい」と注意されたり、体育祭では「早く走れ」と罵声が飛んできたり。リレーのチーム分けで「お前がいると、チームが負けるからこっちに来るな」とひどい言葉を言われてしまったこともあります。

ーー理由がわからないまま、どんどん身体が動かなくなっていくのはつらいですよね。

そうなんですよ。子どもは身体が成長するので、同級生は年齢を重ねるとタイムが早くなっていく。でも私の場合は、遅くなっていったんです。中学生になった頃には、長距離を走ることもできなくなってしまいました。

筋ジストロフィーは、筋肉を使いすぎると、筋肉が壊れやすくなってしまう。それを知らなかったので「走った後に足が痛むのは当然」と考えていましたが、今思い出すとその頻度が高かったんです。痛む足を親によく撫でてもらっていました。

通っていた中学は、運動重視の学校だったのも大変で。体育の授業は持久走が多く、部活は全員運動部に入らなければならなくて、卓球部で痛みに耐えながら運動していました。

「私の頑張りが足りないから、走れないんだ」と思い込み、もっと頑張ったら、うまく走れるようになるのではないかと、陸上や水泳の課外授業のクラスを受けたこともあります。でも、クラスメートに「走れないのに、なんでわざわざ参加するんだ」と陰口を叩かれてしまって。悲しかったです。

一生懸命やっているのに、どうしても身体が動かない。「できない私が悪い」と自分を責め続けました。毎日辛かったけれど、親にも仲の良い友達にも、相談することができなくて。みんなの前では笑顔で過ごして、家に帰って布団の中で泣く日々が続きました。

「個人差」と誤診が続く。20歳のときに、やっと病気と診断されてほっとした

ーー身体が動きづらい違和感を感じていたということですが、病院で検査は受けたのでしょうか?

高校の推薦入試を受験するとき「体育の成績だけが良くないので、病気がないか調べて来てください」と先生に言われたんです。心配をかけたくなくて親に言えなかったんですが、はじめて「病院に行きたい」と伝えることができました。

でも、病院で検査をしても「個人差ですね」と診断されて、初めて親の前で泣きました。「病気じゃなくて、よかったね」と親は言っていたんですけど、私は信じられなくて、「絶対に個人差じゃない。どうしてわかってもらえないんだろう」と涙を流していたんです。

その後も、いろんな病院で誤診が続きました。筋ジストロフィーは、肝臓の数値が悪くなるので、薬を処方されたのですが、飲んでも一向によくならない。お医者さんも首をかしげていました。

勉強だけは絶対誰にも負けないという気持ちで努力していたので、学年で一番を取るほどだったのに、運動だけは頑張ってもまったく結果がでない。これは絶対に何かある。そう思っていました。

【写真】インタビューにこたえるおざわさんの横顔

ーー高校は、どのように過ごしていたのでしょうか?

自由な校風で、体育でもあまり走ったりしない学校だったので、自分らしくいられる時間が多かったです。仲間とバンドをはじめたのもこの時期で、ボーカルとして歌うのが幸せでしたね。

その頃には階段も手すりを使わないと上り下りできないほど、体が動かなくなってきていました。「どうして階段を上れないの?」と友達に聞かれて「わからないけど、大変なんだよね」と答えていました。バカにされることはなく、楽しかった高校時代です。

ーー筋ジストロフィーと診断されたのは、いつ頃のことなのでしょう?

20歳のときです。当初は困っている人の役に立ちたいと、大学で公共経営学を学んでいました。体調はさらに悪くなり、友達の歩くスピードについていけなくなっていたので、大学病院の神経内科で検査してもらったんです。

そこで、はじめて筋ジストロフィーの診断がでました。お医者さんに「筋肉が失われていく病気です。治療法や薬がなく、あと10年したら車椅子になり、その先は寝たきりになると思います」と伝えられました。

でも、ショックな気持ちより、ほっとした気持ちの方が大きかったんです。身体が動かないのは、私が悪いのではなかった。病気だったんだ。そう認めてもらって、すごく落ち着いたことを覚えています。

落ち込んでしまった小澤さんを変えた出会い。「後悔しないよう、いろいろなことに挑戦しよう」

ーー筋ジストロフィーの診断後に、小澤さんの生活はどのように変化したのでしょうか?

ほっとしたのも束の間で、その後はこれまで車椅子の人にほとんど会ったことがなかったし、寝たきり状態が想像もつかなかったので、「何歳まで元気でいられるんだろう?」と考えて、落ち込んでしまいました。

大学の友達は、将来の夢も希望もいっぱいある。それなのに自分は、と思うと友達に病気のことも言えず、だんだん話が合わなくなってしまって。みんなと一緒にいるけど、心は独りぼっちと感じて、自分の殻に閉じこもりがちになってしまいました。

ーーそうですよね…。

でも、私にとって転機になった2つの出会いがあったんです。1人はリハビリの先生。先生は、診察で「この期間、どんなことがあったの?」とよく聞いてくる人でした。「どうせ治らないのに、なんでリハビリしなければならないんだろう」という思いもあり、冷たく接していたら、ある日「下を向いて生きている人には、誰も近寄ってこないよ。将来寂しく死ぬんだね」と言われたんです。

すごく厳しい言葉に、その時は「この先生、何を言ってるんだろう!もう二度と会いたくない!」と思ったんです。でも、家に帰って落ち着いて考えてみたら、先生が言っていることも一理あるかもしれないと思いました。

そこから、先生をギャフンと言わせてやろうと、診察でいろいろな報告をしていきました。でも、先生は厳しくて「海外旅行に行ってきました!」と言うと「小澤さん、目標は何だったの? ただ単に行っても意味ないよ」と返されたりして(笑)。いつか褒められたいなと、試行錯誤しているうちに、前向きになってきたことに気づいたんです。

【写真】笑顔で話すおざわさん

もう一人の出会いは、松尾栄次さんです。リハビリの先生が、私と同じ病気で講演活動をしている人もいると教えてくれて、そこからインターネットで当事者のコミュニティを作り、親交を深めていきました。

そこで出会ったのが、筋ジストロフィーで30年間病院のベッドで寝たきりの松尾さん。音楽を作り、いろいろな活動をして楽しく日々を過ごしている活動的な方でした。

歌うことが好きな私に、松尾さんは「僕の作曲した歌を歌って欲しい。同じ病気で苦しんでいる人たちを元気づける活動をしよう」と誘ってくれました。「生きる意味を見つけた」とうれしかったです。でも、忙しさを理由に先延ばししていたら、2カ月後に松尾さんが亡くなってしまったんです。

「私は何をしていたんだろう?」と自分を責めました。あんなに嬉しかったのに、どうして行動しなかったんだろう。私だって、明日元気でいられるかも分からない。やりたいことは全部やっていこう、すぐに動こうと思ったんです。

【写真】車いすに乗るおざわさんの後ろ姿

2012年から、全国で筋ジストロフィーについて講演して、歌を歌っています。さらに症状が進行して、車椅子に乗らなければならなくなってしまったことをきっかけに、横断性脊髄炎当事者の中嶋涼子さん、全身性エリテマトーデス当事者の梅津絵里さんと「BEYOND GIRLS」という車いすチャレンジユニットを組み、パフォーマンス活動も始めました。

取り組みが新聞に取り上げられたのをきっかけに、病気のことが友人たちにも伝わっていきました。それまでは、身近な友達にも、病気のことを打ち明けることができなかったんです。診断を受けてから、実に10年後のことでした。

“超バリアフリー”な夫との出会い、そして結婚

ーーパートナーである夫の邦彦さんとのなれそめをお聞かせください。

夫とは、大学を卒業して、就職した会社の同期として出会いました。

就活は、病気を公表して受けていたので、なかなか内定をもらえずに大変でした。いろんな会社の面接で、病気のネガティブな点ばかり聞かれる中、今の会社は「小澤さんのしたいことは何ですか?」と、私の可能性に目を向けてくれたんです。

入社して、出会ったのが夫です。彼は理系出身だったので、文系出身でエンジニアになり苦労した私を助けてくれました。社内の友達とバンドも結成して、夫にドラムを頼み、ライブハウスで演奏活動もしたんです。私が先に彼を好きになり、告白して、付き合い始めました。

【写真】微笑みながら話すおざわさん

ーー邦彦さんはどのような性格の方なのでしょう?

彼のことを、私は「超バリアフリー男」と呼んでいます。会社でも、障害がある人と距離を取る方が多い中、聴覚障害を持つ同期と肩を組んで「一緒に飲みに行こう」と盛り上がるような、誰とでも仲良くなれる人でした。

あるとき、一緒に歩いていたら、顔に障害のある方を見かけたことがありました。「あの人、大変そうだったね」と私が言うと、彼は「いや、向こうはお前が大変だと思っているかもよ」と言ってくれたんですね。そのときハッとして、自分の中にあるバイアスに気づきました。

彼は、障害がある私ではなくて、私自身を見てくれる。でもお付き合いしていても、障害も進んでいるし、結婚は難しいだろうと諦めていました。

でも、5年後に彼からプロポーズしてもらったんです。本当に大丈夫かな、この人を私は幸せにできるのかなと、考えて迷ってしまったんですが、「返事はないの?」と彼が言ってくれた。「この人は、私の全てを受け入れてくれたんだ」と思えて、結婚を決めました。

あきらめていたけれど、コロナ禍で「やっぱり子どもがほしい」と、2人で決意した

ーー子どもを持つことを、どのように考えていたのでしょうか。

私は平日は仕事、余暇時間は歌に講演活動と毎日忙しくしていて、もともと子どもを持つことを考えていなかったんです。

夫は子ども好きな人。でも「僕はあなたのサポートもあるし、日常にあまり余裕がないから、子どもを育てるのは難しいかもしれない」と言われたこともあります。私もその時はそこまで子どもがほしいとは思っていなかったので「しょうがないよね」と話していました。

でも、コロナ禍で生活が変化したことをきっかけに、考えが変わっていきました。ほとんど一緒にいなかったのですが、講演などのイベントがなくなり、仕事もテレワークになり、外出せず2人で一緒にいる日々が続いて。

【写真】テーブルに置かれたおざわさんの両手

その時間に夫と話し合ったんです。人生で何があるか、本当にわからない。やり残したことはないだろうか。話し合いのなかで、実は子どもがほしいという夫の思いを知りました。私自身も、色々な活動をやり終えて一回りしたタイミングで、未来に残したいものは何かと考えたら、子どもを育てたいと思ったんです。

ーー筋ジストロフィーを抱えて、出産することに不安や葛籐はありましたか?

もちろん、病気を抱えた身体で出産できるのか、育てられるのかと不安はあって。でも、子どもを持ちたいと2人で決めたので、情報を集めて、少しずつ不安を軽減していきました。

まずは親などの手を借りられる地元に戻ろうと、東京から私の地元に引っ越しを決意して。子どもがどんな状況で生まれたとしても、大切に育てたいと夫婦で話していましたが、念のため、病気の遺伝の可能性をお医者さんに相談もしました。さらに、筋ジストロフィーの病気を抱えて出産した先輩たちに会いに行き、よい病院や先生を教えてもらいました。

ーー様々な情報を集めて、すごい行動力ですよね。

「どうしたら病気でも子育てができるんだろう」と考えて、行動したんです。そして妊娠することができたので、親身になってくれる先生と出会い、私の症状の進行度合いを考えた結果、経腟分娩で産むことにしました。いろんな病院と連携してチームを組んでもらって、何回も出産リハーサルをして、安心して本番に臨むことができましたね。

【写真】屋外で太陽の光に当たりながら微笑むおざわさん

無痛分娩の予定だったのですが、痛みが緩和するくらいで結局とても痛くて、陣痛時に夫に腰やおしりなどにテニスボールを当ててもらいながら「そこじゃない!」とキレていたみたいです。

17時間かけて、夫の立ち会いのもと、無事に元気な赤ちゃんが生まれました。自分の子どもに会える日が来るなんて思ってもいなかったので、本当にうれしかったです。

出産はゴールではない。思うようにお世話ができず、産後うつに苦しむ日々

ーー出産することだけでなく、子育ては産後からも大変ですよね。

そうなんです。産む前は、出産がゴールだと思っていたんですよ。でも、そこからがスタートでした。最初は、アドレナリンが出ていて、夜に赤ちゃんが泣きだすたびにびっくりするぐらいの力で起きて、赤ちゃんのおむつ替えをしなければ、ミルクをあげなければ、と寝てる夫を起こして「やるよ!」とテキパキ過ごしていました。

でも、ある日突然異変がやってきました。病院のサービスでアロマトリートメントを受けたあとに、ゆっくり海を見ていたら、涙が自然に出てきて、止まらなくなってしまったんです。その後どんどん調子が悪くなって…産後うつになってしまったんです。

ーーその時は、どんなことをつらいと感じていたのでしょう…?

まずは、出産時に会陰切開した傷の痛みで、車椅子に座ることが痛くてつらかったです。さらに出産で筋ジストロフィーの症状が進んで、それまでお風呂もトイレも1人でできていたのに、介助してもらわないといけなくなって。自分の行動範囲が狭まってしまったんです。

【写真】インタビューを受けるおざわさんと、テーブルを挟んで座るsoarまつもととライターあらた

赤ちゃんはこんなに可愛いのに、身体が動かなくて、想像していた以上にお世話ができない。ミルクをあげることも、抱っこして膝の上に乗せることもできない。目の前で赤ちゃんが泣いていても、何もしてあげられない。もどかしくて仕方なかったです。

ーーできない自分を許せなくなってしまったのでしょうか。

もともと人に頼るのが苦手で、できることは自分でやりたいタイプなんです。仕事でも人に任せられなくて、自分でやってしまいがちなところがあります。

でも、出産を通して、さらにいろいろなことができない状況になってしまい、誰かの手を借りることが苦しかった。「もう死にたい」って、親に泣きついたこともありました。

先生に勧められて入院期間を延ばすことに。向精神薬を飲むと落ち着くのですが、服薬による母乳への影響の可能性を考えて、薬はほぼ飲みませんでした。なかなかお世話ができない私にとって、母乳をあげることは赤ちゃんのためにできる数少ないことだと思っていたので。なので、退院してから、産後うつはどんどん悪化していきました。

できないことを認めることで「1人じゃない」と思えた

ーー筋ジストロフィーの症状も進んでしまい、産後うつも発症するなど、小澤さんは苦しい状況をどうやって乗り越えていったのでしょう?

できないことを認めることは、すごくつらいことでした。でも子育ては前に進むしかない。あるとき「どうしたってできないんだからしょうがない。もう諦めよう」と思い切れた瞬間があったんです。

そしたら「誰かの手を借りたらうまくいくのだから、声を上げていこう」と思えた。できないことはできないけど、できることもある。できない自分を責めるのではなく、サポートしてもらいながら私にできることをやればいいんだ、自分を受容していこうと。

【写真】真剣な表情のおざわさん

ーーなるほど、発想の転換ですね。

そこから、ヘルパーさんに、子育てのサポートもお願いできるよう行政との交渉を進めました。前例がなかったことで最初は難航したのですが、交渉を重ねて、半年後に、子どものおむつ替えやミルク、ご飯のサポートを頼める形で承認を受けました。

さらに、地域に車椅子で子育てしていることを知ってもらおうと思い、産後3カ月ぐらいから、祭りの実行委員を引き受けたり、子どもを連れていろいろなイベントに出かけて行きました。

そうすると、知り合いの方が増え「綾子さんお助けLINEグループ」もできて。「夫が疲れて寝てしまって、おむつを変えることができなくて、誰か来ていただける方いますか?」とメッセージを送ると「30分後ぐらいだったら行けるよ」と言ってくださる方もいるんです。

ーー人に頼ることが苦手だった小澤さんから、なぜ変化できたのでしょうか。

温かい人たちに出会えたからですね。「私は、1人じゃない」って思えることは心強くて、私も自分にできることを頑張ろうと思えるんです。

自分でできたら一番いいけど、それは現実的に難しい。それなら自分のできないことを認めて、できることをもっとやろうと思いました。みんなの手を借りればこの子を育てていけるって、今は思えています。

【写真】車いすに座るおざわさんの体

夫も完璧主義者で頼ることが苦手だったんですけど、親や姉妹の力を借りて、少しずつ人に頼ることを覚えてきました。いろんな人の手を借りながら、私たちは生きていきたいと思っています。

車椅子のお母さんだって、子育てができると伝えたい

ーーいろいろな方が関わり子育てをされていると思いますが、日々の役割分担を教えてください。

【写真】車いすに座り、カメラを見つめるおざわさん

お互いできることで育児を分担しています。朝ご飯は夫が担当して、保育園のお迎えや夕ご飯、お風呂は私とヘルパーさんが担当。寝かしつけと歯磨きは、夫の担当です。

両親にも手伝ってもらっています。また、土日休みの友達が「ヘルパーをやるよ」と言ってくれて、夫や子どもと一緒にお出かけしたり、子どもの面倒を見てくれたりしますね。

でも、教育の部分は私たちが大切にしたいことを一番に考えています。なるべく子どもを自由に育てたい。良かれと思って、いろんなことを注意してくれるヘルパーさんもいるんですけど、私たちの考えに沿わないときはちゃんとお伝えしています。

ーーお子さんとは、どんな親子関係を築いているのでしょう?

息子は私のことを“車椅子に乗っているお母さん”と認識していて、外出するときには「お母ちゃん、車椅子に乗るよね」と車椅子を持ってきてくれます。電車ごっこをしているときにも、電車が到着すると「(車椅子用の)スロープ出します」と言ってくれる。車椅子の私と一緒に過ごすことが、子どもの中で自然になっているのかなと思います。

車椅子で体が自由に動かせないことによって、子どもに怪我をさせてしまったことがあったんです。私が車椅子じゃなかったら守ってあげられたのにと、自己嫌悪で悔しくて。夫もショックだったみたいですが、「こういうこともあるから、受け止めて大事に育てよう」と必要以上に責めないでいてくれました。

【写真】車いすにのる小澤さんとsoarまつもとが並んで歩く後ろ姿

ーー車椅子のお母さんにしかわからない大変さが、やっぱりありますよね。

私が普通のお母さんだったら違うのかもしれない、といろいろな場面で悔しく思うことがあります。そういったやりきれない想いを共有するために「車椅子ママの会」を立ち上げました。

車椅子で支援センターに行ったら「土足で入らないでください」と言われてしまったとか、保育園が決まったけど階段しかない2階の施設だったとか。他のお母さんにはなかなか共感してもらえないことをわかち合っています。バーベキューを一緒にやったり、リアルで顔を合わせて交流するイベントも楽しく開催しています。

車椅子に乗っていたり、障害を持つ人が、当たり前にいる社会をつくりたい

ーー様々な困難に向かって果敢に挑戦されてきた小澤さん。現在は仕事復帰を目指して、ヘルパーさんと共に仕事に戻るために、署名活動を展開されていますね。

産後から、ヘルパーさんが一緒にいないと生活ができなくなり、重度訪問介護制度を使用しています。国の決まりではこの制度を使っていると就労が認められず、仕事復帰ができないのです。 *

なので、高齢・障害・求職者雇用支援機構(JEED)の「重度訪問介護サービス利用者等職場介助助成金」を利用するために「雇用施策との連携による重度障害者等就労支援特別事業」を自治体で実施してもらうことが必要でした。

私の暮らしている街ではまだ行われていなかったので、実施のための署名活動を行ってきました。4000通集まり、市長に提出して、その結果制度の導入が決まりました。書類作成をして、承認を受け、会社との契約など、働きはじめるにはまだまだ越えなければいけないハードルが沢山あり、毎日ドキドキしています。

*取材後、就労が認められ2025年11月より小澤さんは職場に復帰しました。

ーー小澤さんは、壁を乗り越えて、前例がない道を作っていくパワフルさがありますよね。

いばらの道が多いので、本当につらいんですけど、変えられる可能性が1%でもあるなら、チャレンジしたい。どんな手を使ってでも、つかみたい未来をあきらめたくないんです。

筋ジストロフィーは、どんどん新しい壁に突き当たる病気です。私の場合、最初は杖が必要になり、車椅子に乗ることになり、出産を経てトイレに1人で行くこともできなくなってしまった。そのたびに落ち込んで、越えなくてはいけない壁を乗り越えてきました。

でも、あきらめたくない。小さい頃から負けず嫌いで、うまく走れなくても苦手な陸上の強化トレーニングにあえて参加するとか、できることはなんでもやってみようと動くところがあります。難しい状況になると燃える。だって、私が諦めてしまったら、何も変わらないんです。

【写真】車いすに座り、カメラを見つめるおざわさん

ーー最後に読者へのメッセージをお願いします。

当事者になってみないとわからないことがあります。読んでくださる方は、ぜひ想像力を持って、身の回りの障害がある方、難病がある方に接していただきたいと思っています。

でも、私は当事者自身も理解してもらう努力をしていく必要があると思います。つらいこともあるけれど、どうしたら一緒に生きていけるんだろうと考えて、お互いに歩み寄ることが必要だと思うんです。

私は、車椅子に乗っていたり、障害を持っている人が、特別な存在じゃないんだよと新しい世代に伝えていきたいです。保育園にお迎えに行くと、子どもたちが「どうして車椅子なの?」と集まってきてくれます。レストラン、映画館、職場に、車椅子や難病の人たちが、当たり前にいる社会をつくりたい。

この間、家族旅行で飛行機を使って沖縄に行ってきました。息子は歌うことが大好きなので、沖縄民謡が聞けるお店で歌いながら、一緒に手をたたいて、私の背中に抱きついてぎゅってしてくれて、幸せな瞬間でした。息子を無事に育てるために、夫や家族、いろんな人と協力して頑張りたいと思っています。

【写真】屋外で車いすに座り、微笑むおざわさん

できないことを認めることは難しい。どうやってそれを受け入れて乗り越えていくのだろう。私が取材前に抱えていた問いです。

小澤さんの抱える筋ジストロフィーは進行性の病気です。その大変さはどれほどのものだろうと、いくら想像しても足りません。さらに子育てという周りの助けが必要な状況のなかで、壁を乗り越えていく小澤さんの生き方に圧倒される時間でした。

小澤さんの言葉から強く感じたのは、できないことを認めて、誰かに助けを求めることは、できることを大切にすることなのかもしれないということです。

泣いている子どもを抱き上げることができなくても、助けを呼ぶことができる。できないことがあるとそのことばかり私は考えてしまいますが、今できることを見つめることで、少しずつだとしてもきっと前進していける。

取材当時も職場復帰に向けて、新しい壁を乗り越えようとされていた小澤さん。「どうしてそんなに力強く挑戦できるのですか」と聞くと「しんどいですよ。でも、私が諦めたら終わりじゃないですか」と話されていました。

私にできることはなんだろう。まだまだ色んなことを学ぶ必要がある。できないことに落ち込んだりへこんだりしても、その時できることを見つめて生きていきたい。小澤さんの言葉の余韻をかみしめながら、そんなことを考えて、帰りの電車に揺られていました。

関連情報:
小澤綾子さん ウェブサイト ブログ X Instagram

(執筆/荒田詩乃、撮影/久松澄玲、編集/工藤瑞穂、企画進行/松本綾香)