【写真】壁に寄りかかりながら左上の方向を見つめるきみづかたくみさん

阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件により、日本人の意識が大きく変化した1995年。当時26歳だった私が、テレビ東京で10月期の連続ドラマとして放送された『クリスマスキス〜イブに逢いましょう〜』の脚本を書いたとき、監督として出会ったのが君塚匠さんだ。

今でも憶えている。君塚さんから一日に何度も送られてくるファックス(当時は感熱ロール紙だった)が、芯から解き放たれたトイレットペーパーのように床の上で無秩序に波打っていた光景を。そこには脚本に関する質問やアイデア、激励など君塚さんの剥き出しの感情が手書きで綴られていた。

返信する余裕こそなかったが、不安だらけの新人脚本家にとって、君塚さんのファックスには伴走者のようなありがたみがあった。感熱ロール紙が切れるたびにコンビニに走らなければならなくなかったことを除いて。

それがADHD(※注1)による行動だったのかもしれないと知ったのは、30年経った2025年の夏。君塚さんが55歳でADHDの診断を受けたという告白とともに、それまでの人生について綴った著書『もう一度、表舞台に立つために ADHDの映画監督 苦悩と再生の軌跡』を読んだのがきっかけだった。

注1 ADHD(注意欠如・多動症)とは、発達水準からみて不相応に注意を持続させることが困難であったり、順序立てて行動することが苦手であったり、落ち着きがない、待てない、行動の抑制が困難であるなどといった特徴が持続的に認められ、そのために日常生活に困難が起こっている状態です。
引用:

【画像】きみつかさんの書籍「もう一度、表舞台に立つために」の書影

(提供画像)

そこには、自身のADHDの特性のひとつと思われる連絡過多でたびたび人を困らせてしまったことも、後悔とともに綴られていた。そして、ADHDを題材にしたドキュメンタリー×ドラマ映画『星より静かに』で、25年振りに長編映画のメガホンを取っただけでなく、自ら出演までしていたことも。

【写真】映画「星より静かに」のポスター

(提供画像)

ここに至るまでに何があったのか。驚いたのは、以前一緒に仕事をしていたときも君塚さんが精神科に通われていたことだ。

私は何も知らなかった。それまでぼんやりとしか認知していなかったADHDについて初めて文献などをあたった。向き合うべきだと思ったし、知るべきだと思った。

55歳でADHDと診断された君塚さんの人生における、短くも濃密な時間をともにしたひとりとして。

私は、30年振りに君塚さんと連絡を取り、取材を申し込んでいた。

君塚匠
テレビ番組の演出家を経て、25歳の時、親友の死からヒントを得た劇場映画『喪の仕事』で、原案・脚本・監督デビュー。

その後、『ルビーフルーツ』『激しい季節』『おしまいの日』『月』と5本の劇場映画の脚本・監督を手がける。一貫して、人間の生と死を見つめる映画を監督している。一方、TVディレクターとしても、ドキュメンタリーや情報番組、テレビドラマを多数監督。TV-CM、企業VPの監督も数多くこなしている。

最新作『星より静かに』(2025)は、企画・脚本・監督・出演をすべて担当。

双極性障害でつらいなかでも、仕事は楽しんでいた

【写真】インタビューにこたえるきみづかさん

久々の再会で真っ先に訊いたのは、君塚さんが30年前に精神科に通院されていたことについてだった。先述したように、私は一緒に仕事をしていたにも関わらず、著書を読むまで何ひとつ知らなかったのだ。気づかなかったことに対する無神経さや申し訳なさを詫びたいような思いもあった。

あのときは発達障害の診断はまだ受けていなかったんですが、双極性障害という、躁状態と呼ばれる気分の高揚期と、うつ状態と呼ばれる抑うつ期を繰り返す病気があったんです。

プロデューサーには話してたんですけど、当時は小康状態だったので仕事と両立できたというか。年も若かったしね。連日のように徹夜だったのはキツかったですけど(※1995年当時の話です)、キャストもスタッフも仲が良かったので仕事自体はすごく楽しかったですね。

今回、取材を依頼させて頂いたあと、交換したばかりのLINEに君塚さんから昼夜問わずひっきりなしにメッセージが送られてきた。それが昔のファックスを思い出させてくれたとともに、ADHDの影響だったことを著書で知ったと改めて伝えた。

当時は自分もADHDだということを自覚していなかったですしね。実は今回の映画『星より静かに』の制作課程でも、あるスタッフに対して同じようなことをしてしまっていました。映画に対する強い思いが、連絡過多という行動に現れてしまうんです。

私からのスマホの着信が一日に十回を超えて、スタッフが「頼むからそんなに電話をかけないでほしい」と正直に伝えてくれたので気づくことができました。

ファックスがひっきりなしに届いても別段気にすることなく受け入れていた私のような人間もいれば、たった一度の衝動的な言葉で関係が壊れてしまった人もいたそうだ。

だが、君塚さんのこうした特性がADHDによるものであることに、ほとんどの人が気づかなかった、あるいは受け流していた理由は、まだ発達障害に関する知識が広まっていなかったことに加えて、「クリエイターに常識は通用しない」むしろ「常識から逸脱していることがクリエイターの証である」という当時の空気にも少なからずあったような気がする。

【写真】テーブルをはさんで向かい合って座るきみづかさんとライターのおばら

学校では、空気を読まない行動で“問題児”とされていた

仕事を始めて以降、特性ゆえの困りごとも多かったという君塚さんは画一性が重んじられやすい学校という場でどのように過ごしていたのだろう。著書にも記されていた幼少期から学生時代についても改めて話を訊いた。

【写真】幼少期のきみづかさん。カメラを見つめて微笑んでいる。

幼い頃の君塚さん(提供写真)

千葉県外房の鵜原という豊かな海に恵まれた土地で育ったんですが、足に砂がつくのがいやでね。そのくせ海には入りたがる。浜辺ではいつも母がビニール袋を履かせてくれていました。潔癖症なのかな。成人するまで口にできるのは母の作った料理だけ。特に母以外の人が握ったおにぎりが苦手でした。

その寛容さに何度も救われたという母親とは対照的に、父親は厳格な人だったと君塚さんは話す。

父が家庭教師になって勉強を見てくれるんですけど、集中力が続かない。過集中といって好きなことには過剰な集中力が発揮できるんですけど、勉強はまるでダメで。しょっちゅう定規で背中を叩かれていました。

その特性は、学校でははっきりとした“問題行動”として現れたのだという。

小学校高学年のときは真剣に授業に臨まない私に先生から「君塚のせいで、先生は胃が痛い」と言われました。ついには堪忍袋の緒が切れ、母を呼びつけて「このままだと犯罪者になります」とも言われました。

授業に興味が持てなくなり、中学では授業中に突然立ち上がって教室を歩き回ったり、習字のときに前の席の子の背中に落書きしてしまったり。空気を読まない行動のせいで、他の生徒に嫌われることもありました。

でも、自分では故意に迷惑をかけようとしているわけではないので、反省のしようもないし、昼休みに誰もいない屋上でぼんやり空を眺めて、「この先、どこへ行くのだろう」と悩んでもいましたね。

今でこそそれがADHDの特性のひとつだったのだろうと周囲も推測できるが、発達障害の知識がまだ一般的ではなかった1980年代においては、学校も“問題児”としてしか扱うことができなかったのだろう。

「病名がついてほっとしたところもありました」

【写真】右手を口元に当てながら話すきみづかさん

学校という小さな社会で腫れ物扱いされることで、生きづらさと将来への不安を抱え始めた、と君塚さんは中学・高校時代を振り返っていた。最初に精神科を受診したのも同じ時期だったという。

商業高校に通っていた高1の朝です。通学電車の中で、急に心臓の鼓動が激しくなって、息苦しくなったんです。急いで次の駅で降りたんですけど救急隊が到着したときには治まってて。

運ばれた救急病院でも大学病院で受けた精密検査でも、心臓には何の異常も看られなかったんです。精神的なものですと医者に言われて、母が精神科に連れていきました。パニック障害(※注2)の発作で、初めて精神安定剤を処方されました。

注2 パニック障害とは、体の病気はないのに、突然、動悸、呼吸困難感、発汗などの身体症状が急激に出現し、「死んでしまうのではないか」と恐怖する「パニック発作」が2回以上起こり、そのために再び発作が起こるのではないかと過度に心配となり、生活に支障をきたす病気。参考:公益社団法人 日本精神神経学会

当初はまだ精神疾患に関する偏見も多く、精神科でケアを受けていることは口にしにくい空気があったそうだ。

精神科に通院してることは周囲には隠してました。父親にも「根性がない」とか言われましたし。病名がついてほっとしたところもありましたけど、当初は合わない薬だったからすごくキツかったんですよね。何度も同じ発作を起こしてたし。今はだいぶ治ったんですけど、完治はしてないです。常に警戒していて、なんかあると薬を飲んでいます。

会社員にはなれないと早くから感じていた

【写真】右手で頬杖をつくきみづかさん

そんな高校時代に君塚さんが強く魅かれたのが「映画」だった。きっかけが「ハイビジョンで観た“小鳥の肛門”の鮮明さに驚いたこと」というのが、才気を感じさせるエピソードだと思った。

そこから数多くの映画作品を観た君塚さんは「スピルバーグのようになりたい」と日本大学藝術学部映画学科監督コースへの進学を決意する。倍率は70倍。高一のときにアメリカのカリフォルニア州に留学経験のあった君塚さんは、得意の英語で点数を稼ぐ方針で試験勉強に打ち込む。

「ADHDはときに驚異的な集中力を発揮すると言うが、それまでの人生でもっとも頭を使った」と君塚さんも当時を述懐している。メンタルに負担が掛かったことからパニック障害の発作を起こしながらも、一浪の末に日藝映画学科に入学した——そう聞くと、夢に向かって前向きに生きていたように思えるが、そこには自分に精神疾患があることへの諦念もあったという。

映画監督は自由業じゃないですか。逆にいえば、自分にはそういう道しかないと思っていたんですよね。毎朝決まった時間に起きて出社する会社員にはなれないし、食っていけないだろうと早くから思っていました。

【写真】学生時代の君塚さんと親友。カメラを見つめ微笑んでいる

君塚さんと親友の学生時代の様子(提供写真)

大学ではその後の運命を決定づけることになる親友と出会い、一緒に映画を撮ったり、ナンパしたりと楽しい青春時代を送っていた。その一方、アルバイトを通じて社会に出た後に待ち構えている“生きづらさ”という現実を少しずつ実感するようにもなっていた。

さらに卒業間近には、唯一無二の親友が肺がんによる闘病のため休学。一緒に作るはずだった卒業制作の映画撮影が延期になった君塚さんは、求人誌で見つけたテレビのアシスタントディレクターに応募する。

君塚さんにとっては映画監督という夢に少しでも近づくための入り口でもあったが、またしてもそこで自身が抱える特性に翻弄される。

事務的なことが全然できないんですよ。会議などで使う資料をまとめるんですけど、ホチキスで綴じると曲がっちゃうわけです。ディレクターに「お前の心が歪んでるから曲がるんだ」なんて罵倒されました。

自己の魂の救済でもあった初監督作品映画『喪の仕事』

【写真】取材を受けるきみづかさん

アシスタントディレクターとしては「クビ寸前だった」というが、自らの企画でドキュメンタリー番組のディレクターに昇格。

しかし、同時期に君塚さんの心に抱えきれないほどの“悲しみ”が襲い掛かる。がんで闘病中だった親友の死だ。

「一世一代の大恋愛のようだった」と語るほどの友を失った喪失感。壊れてしまいそうな自分を救いたい一心で手を伸ばした一冊の本「対象喪失」(小此木啓吾著)が、君塚さんを映画監督としてデビューさせるきっかけとなる。

1991年に公開された『喪の仕事』。友人の死によって揺れ動く24歳の若者の心情を描いた作品だ。「熱病にうなされたように企画書の執筆に没頭した」と語るように、それは大学でともに映画を作ってきた親友の“見えない力”に導かれるように完成させた作品だったに違いない。

【画像】映画「喪の仕事」のポスター

(提供画像)

かくいう私も公開時に本作を観て衝撃を受けたひとりだ。当時から実話を元にしていることは知っていたが、そこには親友の死による喪失感を抱えていた君塚さんが生々しいほど投影されていた。

今回34年振りに見返してみて、君塚さんは『喪の仕事』を撮って、そして映画監督になったことで「悲しみのどん底にいる自分を客観的に見る視点」を手に入れたのではないかと改めて感じた。「自己の魂を救済する」という方法論ともいえるかもしれない。それは、”コントロールできない自分”と共に生きていく上でとても大きな力になっているのではないかと感じたからだ。そのことを私は正直に君塚さんに伝えた。

本当にそうですよね。今回もADHDと診断された自分を主人公にした映画『星より静かに』を撮ったことで、自分が見えるようになったし、そのすがすがしさもあって病状も安定しているのかなと思うんですけど、当時はまだそこまでの自覚はなかったです。

逆に『喪の仕事』を撮った25歳を境に、病状がより悪い方に向かっていきました。最初はうつ病って言われたんですよ。それから双極性障害と診断されて。躁状態のときは気持ちが大きくなってしゃべりまくるし、興奮状態で「飛びおりたらどうなるかな」と思ったり。逆にうつ状態になると、寝込んで何もできないです。

双極性障害に苦しみながらも、君塚さんは精力的に映画を撮り続けた。5年で4本の長編映画を監督している。日本映画界においては常に次回作が注目されている監督のひとりだった。私がテレビドラマを一緒に作ったのもその時期だった。

当時は監督としての側面しか知らなかった私は、その裏で君塚さんが病気を苦に霊能者に救いを求めていたことも、それによって貯金が底をつきコンビニエンスストアでアルバイトをしていたことも、何ひとつ知らなかった。

コンビニでのアルバイトは1日で解雇、その後動物がいるテーマパークで働きましたが、トラブルで誤解を招き結果として解雇されたんです。アルバイトが続かないことで心が打ちのめされました。

親しくて気が楽な相手だと、症状が出ないんです

【写真】お話しするきみづかさん

2000年に公開された『月』以降、君塚さんも著書で「35歳にして監督業にピリオドを打たざるを得なかった」と書いているとおり、次回作がいつになるかわからない状態が始まった。

一方で、同じ35歳のときに最初の結婚をしている。時にその特性で人との関係性づくりが難しかった君塚さんは、パートナーとどのようにコミュニケーションを取っていたのだろうか。

それが、パートナー相手だと症状が出ないんです。親しいから気が楽じゃないですか。自分の場合はそういう依存先があれば出ないのかな、とある時期から思うようになりました。

当時映画を撮る機会とともに、“依存できる人”だった仲間がどんどん離れていって症状も悪化したんですけど、ここ数年も再婚したことも含め依存先が増えたことで、また楽になりました。甘えていい。自分は「依存していい」と根底で思っている相手に対しては、症状が出ないんです。

君塚さんの言う“依存”とは“安心感”という意味でもあるのだろう。逆に言えば、緊張感のある相手の前では症状が出てしまうということでもある。

その後テレビの現場に戻ってからも、スタッフとうまく関われず、仕事を続けるのが難しかったと君塚さんは打ち明けてくれた。

気が短いのが一番の原因だったと思います。20代とか30代のときのことは今でも後悔しています。そういうのって自分の中に強烈に残ってるんです。

特に辛かったのは40歳前後ですね。精神疾患の悪化に加えて、糖尿病にもなったんですよ。ものすごく悪化して目にも腎臓にも合併症が出て。そういう色んなことが重なって人生で一番辛い時期でした。このままだともう、自分は社会には通用しないなと焦りがありました。

前提として障害のことを理解している。そこが大きいです

【写真】手振りをしながら話すきみづかさん

人生のシフトチェンジを模索していたのだろう。君塚さんは、最初の結婚相手との離婚をきっかけに、長年暮らした東京から横浜の鶴見に転居。自然に囲まれた環境に身を置くことで精神疾患の改善を期待したそうだが、人間関係をうまく築けない特性の影響もあって仕事を失い、40代半ばには無職になった。

君塚さんは2017年から半年間、就労移行支援事務所「株式会社にじ鶴見」に通っている。障害者総合支援法に基づく障害福祉サービスのひとつで、一般企業への就職を希望する障害のある人に対してビジネスマナーやパソコンなど就職に必要なスキル向上の訓練やサポートを提供する通所型のサービスである。

映像の仕事を続けたいと思っていたので、そのためには自分で企画を通すしかない。でも、企画書をつくるためのパソコンのスキルがないから、身に付けようと思って。

映画『星より静かに』の舞台のひとつとして、「にじ鶴見」は登場する。君塚さんはこの場所でパソコン講座や、演劇を取り入れたコミュニケーションプログラムに参加したり、面接の練習などを行なったそうだ。

通っていたのは半年ほどだが、代表取締役である脊尾昌壮さんとの出会いは君塚さんにとって人生のターニングポイントのひとつであり、10年後の今につながる大きな支えになっているのだと感じた。

前提として、障害がある人のことを理解してくれているじゃないですか。自分を受け入れてくれるるところから関係性がはじまるので、まずそこが大きいです。特に脊尾さんとは飲み友達みたいになって、ずっと親しくしてますね。

【写真】本を見ながら話すきみづかさんと、話を聞くせおまさたけさん

君塚さんと脊尾昌壮さん(提供写真)

なんとかテレビの仕事を再開した2020年の春、55歳にして初めて受けたのが、ADHDの診断だった。

その頃から、それまでの生きづらさに加えて、記憶障害みたいなものが激しくなったんです。加えて大事なインタビューの時に寝てしまって大失態をおかしたりするようになった。年齢的に認知症の可能性も考えて検査を受けてみたんですけど、特に結果は出ない。

で、鶴見に転居してからずっと通院していた精神科に相談したら「ちょっとテストしてみましょう」と言われたのが、ADHDの診断だったんです。

テストを受けてみると、じっとしているのが難しいことや、計画的に作業を進めるのが苦手であることなど、いくつかの項目が自分の特性に当てはまっていることがわかった。さらに、問診や検査などを行った結果、ADHDであるとの診断を受けた。

ADHDという診断結果がついたことに半信半疑ではありましたが、一方で幼少期からの注意力の欠如や好きなことへの過集中、連絡過多、衝動性など、他の人と異なる行動による生きづらさは、ADHDによるものだったんだと安心しました。加えて処方された薬もとても効いたんです。それで、徐々に「自分はADHDだったんだ」と納得しました。

薬の効果は周囲も実感するほどのものだったという。

あまりイライラしなくなったし、短気でもなくなった。周りからも穏やかになったねと言われます。

一方で、薬を飲んでも変わらない部分もあって、事務的なことができないのは相変わらずですね。整理整頓とか、物をどこに置いたかとか、道順なんかは薬を飲んでいる今も頻繁に分からなくなる。

映画『星より静かに』でも描かれていた“ゆで卵を作っているのを忘れてボヤを起こした”というエピソードは、君塚さんが生きていくうえでの困難さを象徴するもののひとつだと感じる。

すべての障害がそうであるように、ADHDに関しても周囲がその人の“できること”と“できないこと”を正しく理解し、支え合うことが必要不可欠であると再認識させられたのが、君塚さんが2023年の春から講師を務める東京服飾専門学校でのエピソードだ。

専門学校の講師をやってても、事務的なことが全然できないわけですね。学校の中で『あの人大丈夫だろうか』みたいになってきたので、思いきって理事長にADHDであることをカミングアウトしたんです。

そしたら『全然かまわないです』と言ってくれたうえに、事務的なことに関しては『2年目は難しいですが、1年目はアシスタントをつけます』と言ってくれたので、その条件で続けています。自分では極力ADHDを“免罪符”にしたくないので、できる限り努力できればと思ってるんです。

自分自身が“できること”と“できないこと”を正しく認知するようになったことで、意識的に取り組んでいることもあるという。

何でもメモを取るようになりました。どんどん忘れていくんでね。スマホのメモも手書きのメモも使うんですけど、書いておかないとすぐ忘れるんですよ。三行日記みたいなのも毎日書いてます。道に迷って遅れることもあるので、仕事では指定された時間よりも前に着くようにしてますね。

知ることで対処できるようになったこともある一方、ADHDであることを知らない方が良かったと思うことはあるのか、とふと疑問に思い聞いてみた。

若い頃だったらわからないですけど、今はむしろよかったなと思ってます。一度薬をやめてみたんですけど、ものすごく調子が悪くなって。これはやっぱり薬が必要な病気なんだなと。

とはいえ、周囲にカミングアウトしたことで失ったものも少なくないという。

ある時期から、初めて仕事をする方に言うようにしたんですけど「ADHDがある人と仕事するのはちょっと」という人もいましたし、映画でも描きましたが私のことを影で「クレイジー」と呼び合っていた人たちもいました。ADHDであることを伝えただけで仕事を失うこともあって、何も悪いことはしてないのに、なんでやらしてもらえないんだろうと。

ADHDという障害に、正直に向き合って生きる

【写真】椅子に座りながら話すきみづかさん

だからこそ、著書や映画で世間にカミングアウトすることについては大きな葛藤があったという。

カミングアウトするしない以前に、ADHDを題材にしたフィクションを企画して提案していました。そうすると企画を通す側が聞くわけです。「なんでこれがやりたいんですか?」って。通したかったんですけど、そのときは自分がADHDであることは言えなかった。

背中を押したのは君塚さんがADHDであることを知っていた旧知のプロデューサー森重晃さんが、「君塚監督が出演すること」を本作の制作に携わる条件にしたことだった。

【写真】ソファーに並んで座るきみづかさんとプロデューサーのもりしげあきらさん

君塚さんとプロデューサーの森重晃さん(提供写真)

この映画は僕が出ないと説得力がないと言われたんですけど、ええ、やだな、ですよ。ADHDがどうこう以前にカメラの前に立つことが恥ずかしかった。撮影が始まってもカメラマンに「目線はそっちじゃない」とか言われたりして、どんどんこっぱずかしくなりました。

「今まで何人もの人をカメラの前に立たせてきてよく言えますね(笑)」とツッコミを入れたら、君塚さんは笑っていた。本作のキャストやスタッフの方々も、そんな君塚さんを微笑ましく見守っていたのではないだろうか。

主演の内浦純一さんは何度も僕を誘ってきて、酒を飲んだり映画に行ったり、一か月くらい一緒にいました。ADHDである主人公を演じていたので、その役作りもあって、僕のことを知ろうとしてくれたのだと思います。

【写真】レジの前で並んで話すきみづかさんと主演のうちうらじゅんいちさん

君塚さんと主演の内浦純一さん(提供写真)

映画『星より静かに』を観て真っ先に感じたことを最後に訊いた。ADHDである主人公を監督として演出することは、自分自身のこれまでを客観視する機会でもあったのではないかと。

自分が普段やってたようなことを役者にもやってもらったんで、こういうことあるんだとか、おかしなことやってたなとか思いました。客観的に見るから逆に、これはやっちゃいけないとか、こういうコミュニケーションは大丈夫とかの限度もわかった。演出したことで自分自身が成長できたと思いますね。

かつての君塚さんは、特性によって人の気持ちを考えず行動してしまうこともあった。一方で脚本というのは登場人物の気持ちや、顔の見えない観客の気持ちまで想像していないと書くことができないものでもある。が、君塚さんは脚本を書くこともそれを映像化することもできている。その辺りを自分ではどう分析しているのだろう。

そこは自分でもよくわからないですけど、ただ脚本はプロデューサーと一緒に作るものでもある。客観的に質問されたことが的を射てるなと思えば、それを取り入れたりもしていますし。

君塚さんには、創作活動に必要な優れたバランス感覚がある。自分を冷静に客観視できる”もうひとりの自分”もいる。ただ、日常生活においてはその力を十分に発揮することが難しそうだ。それはどうしてなんだろう。

映画を作ったりするのは自分の好きなことであり、もっというと人生そのものでもあるからかな。たとえばパソコン、Excelを使った事務的なことは未だに弱いですけど、Adobeの編集は好きだからすぐにいじれるようになった。そういうことなんですかね。

それでも、薬を飲んだり生活習慣を変えることの他に、今回の映画作りを通じて自分を客観視したことが、君塚さんにとっては自己理解を深め、自己受容——ありのままの自分を否定せずに認めるまたとない機会になったのではないかと感じた。

ADHDに対して、今は個性とか特性っていう捉え方をする人も多いじゃないですか。でも、僕自身はADHDは障害だと思ってるんです。障害なら障害って言って、正直に向き合っていく方がいいなって。

【写真】階段を下りるきみづかさんの後ろ姿

「映画作りは人生そのもの」と語る監督が25年振りにメガホンを取った映画『星より静かに』。あくまで映画そのものの感想としての私見だが、ADHDと診断されるまでの生きづらさが人生の伏線だったとするならば、君塚さんは映画を作ることでその伏線を回収してみせたのではないかと感じた。それこそが創作者としての底力なのではないかとも。

もちろん、日常においては生きづらさが続くのだと思う。確かにインタビューでは質問に対する答えが返って来ないことも多分にあった。何を聞かれているかではなく、何を話したいかで答えられているんだなと感じることも多かった。

先に話してるのに、また後ろに戻ったりしてるんで、ただまぁ話の腰を折ったりしないでいけたかなと思ってるんですけど。会話というより質問してもらってるんで。普通の世間話みたいだと、もっとぐちゃぐちゃになったかなって思って。

それでも30年振りに再会した君塚さんは私にとってあの頃と同じ君塚さんでしかなかった。「ADHDは障害だと思っている」と君塚さん自身は言っていたが、私にとっては55歳にして診断を受けたADHDという特性も含めて君塚さんなので、それを障害という風に切り分けて捉えることは最後までできなかった。

君塚さんはこれからも、生きづらさや特性と向き合いながら、意味づけを急がずに、試行錯誤を続けていくのだろう。

再会の直前と違い、本稿の執筆中は君塚さんからLINEがたくさん送られてくるようなこともなかった。代わりにこんなメッセージが一通だけ届いた。

『30年を経て再会できたのも何かのご縁ですので監督と脚本家という座組で何かしらの映像コンテンツをご一緒できたら嬉しいです。』

30年振りの邂逅。それは私にとっても、人生の伏線をひとつ回収させて貰った機会でもあった。

【写真】ソファーに並んで座るきみづかさんとライターのおばら

関連情報:
君塚匠さん Instagram
映画『星より静かに』 ウェブサイト
著書『もう一度、表舞台に立つために: ADHDの映画監督 苦悩と再生の軌跡

(執筆/小原信治、撮影/川島彩水、編集/工藤瑞穂、企画・進行/松本綾香、協力/芦川直子)