
2025年5月9日、一人のプレイヤーが格闘ゲーム『ストリートファイター6』の対人戦で念願の1勝をあげました。彼の名前は北村直也さん。小眼球症 *により全盲でありながら、「NAOYA」のプレイヤーネームで活動するeスポーツ選手です。
*小眼球(症)とは先天的に眼球が小さく、さまざまな視覚障害をきたす病気。根本的な治療法は確立しておらず、保有している視力を向上・維持する治療や、重症例では義眼で顔の形を整える治療を行います。
ゲーム会場で私たち取材チームが声をかけると、北村さんは「こんにちはー!今日はよろしくお願いします!熱気がすごいですよね!」と快活に挨拶をして、大会への思いを率直に話してくださいました。

初めてお会いして取材をする、という状況に私は少なからず緊張をしていましたが、北村さんと会話を進めるうちに自然と安心感ある空気に包まれていました。そして「目が見えない中で、突然初めて会う人に話しかけられて、なんでこんなにオープンにコミュニケーションができるのだろう」と驚いたのです。
「全盲のeスポーツプレイヤー」という肩書きは北村さんの一面で、プロの声優・ナレーターとして活動するほか、株式会社ePARAでは就労支援のトレーナーを努め、ライターとして記事や台本を書くこともあります。
目の見える人にとっても夢や理想を形にするのは簡単ではないのに、やりたいことを次々と実現していくうえ、苦労話もユーモアたっぷりに笑い飛ばす。そんなバイタリティにあふれている北村さん。
でも北村さんは、ずっとポジティブに生きてきたわけではなく、自分の生き方や働き方に悩みながら、試行錯誤の末に見つけ出したのが現在のスタイルでした。
格闘ゲームの祭典「EVO Japan 2025」に出場

この日、「東京ビッグサイト」では国内最大級の格闘ゲームイベント「EVO Japan 2025」が開催されていました。3日間で計3万人が来場し、soarの取材チームはその熱気に圧倒されました。
一定の年齢制限はあるものの、EVO Japanはプロ・アマチュアを問わず誰もが参加できるゲームイベントです。障害のある人が、それぞれの障害特性に合ったコントローラーを使用することも認められており、会場では健常者も障害者も区別ありません。
とりわけ株式会社カプコンが発売しているストリートファイター6は、音を頼りにプレイできるサウンドアクセシビリティに優れ、視覚障害者に適したバリアフリーeスポーツとして知られています。
取材チームが到着したとき、会場では北村さんがサウンドアクセシビリティの体験ブースでストリートファイター6をプレイしていました。対戦相手は、東京都盲人福祉協会 パイオニア(管理者)の鶴田貴彦さん。就労継続支援B型事業所で視覚障害のある人の支援に行き詰まっていたところ、全盲のゲームプレーヤーがいると聞いて、今日は北村さんに会いに来たのだそうです。
一緒にプレイしてみて、北村さんの熱量がものすごかったです。事業所でこれまでのやり方だけでなく新しいことも試していきたいなと、今後の支援のヒントも得られました。
鶴田さんはにこやかにこう伝えてくれました。

鶴田さんと北村さん
対戦は会場内に無数に設置された端末で同時進行されます。北村さんの試合前には、視覚障害があってもプレイができるように、ePARAのスタッフが一緒にゲームのサウンド面の設定を行っていました。
北村さんは別のタイトルを含めるとEVO Japan 2023から三度目の出場で、これまでは一度も勝てずに終わってしまったそう。そのため、「今年こそはEVO Japanでの初勝利を手にしたい」と意気込みを語っていました。
多くのギャラリーが注目する中、いざ試合がスタート!緊張感漂う空気感の中、北村さんは静かに、しかし勝利への熱い思いを込めてコントローラーを握っているように見えましたが…第1戦は惜しくも黒星。

アイマスクはルール上必要なわけではありませんが、全盲であることが側から見てもわかるように着用をしていたのだそう。
続く2戦目、ついに北村さんは勝利をあげます。試合後、対戦相手の方は「全盲でマスターの方と試合できて光栄でした」とお話ししていました。
そして3戦目は僅差で敗退。終了後には対戦相手の方と硬い握手を交わし健闘を讃えあっているようでした。
こうして北村さんは目標だった「EVO Japanで1勝」を達成しました。
大会直前、北村さんは日本人の全盲プレイヤーとしては初めて、同ゲームでの成績上位者の証明である「マスターランク」に到達しています。これは障害のないプレイヤーにとっても簡単なことではありません。
もとからゲームが好きだったという北村さんを格闘ゲームの世界に導いたのは、車いすのeスポーツプレイヤーである畠山駿也さんです。

畠山さん
soarでも過去にインタビューした畠山さんは、筋ジストロフィーのため指先などわずかな部位しか動かせません。しかし、コントローラーを自作するなど多くの課題をクリアし、昨年ラスベガスで行われた本家「EVO 2024」に出場を果たしました。
畠山さんは格闘ゲームの面白さを北村さんに教え、現在では一緒に戦略を練るバディのような存在です。試合中も北村さんのすぐ横で、熱い視線を送りながら試合を見守っていました。
これまで北村さんはどのような人生を歩んできたのか。大会終了後にインタビューを行い、お話を伺いました。また、一部には畠山さんにもご参加いただき、対談というかたちで語り合っていただきました。
好奇心いっぱいでいたずら好きだった子ども時代
ーー先日はEVO Japanでの初勝利おめでとうございます。北村さんのこれまでの歩みを聞かせていただきたいのですが、幼少期はどんな子どもでしたか?
北村:昔からよくしゃべるタイプでした。生まれたときからほとんど目が見えなかったのですが、僕は幼稚園から中学校まで一般の学級に行ってまして、特別支援学校は実は高校からだったんですね。なので、20人30人のクラスにまぎれて一緒に遊んだり、勉強したりしていました。よく友達や兄弟とゲームをしていたので、今、目が見える人と対戦することに抵抗がないというのはあると思います。
音楽も好きで、小学校高学年ぐらいから父親がくれたラジオで野球中継とか『オールナイトニッポン』とかめちゃくちゃ聞いてました。休み時間には学校の屋上に行って、歌手がやってるラジオ番組の真似をして、架空のお便りまでつくって友達と二人でパーソナリティーごっこをするっていう。
ーー周りからはどんな子だったと言われますか?
北村:これはもう「いたずら好き」に限りますね。触るなと言われたものを触ってみたり、押すなと言われたボタンを押してみたり。
父方の実家に行ったときにテレビがあったんですよ。で、リモコンでチャンネル操作するだけじゃ飽きたらず、他のボタン押したらどうなるんだろうっていろいろ押したあげく、そのテレビが映らなくなるとか(笑)。
今、パソコン使っててもそうですけど「これやったらどうなるんだろう」という興味本位で行動することは多かったですね。

ーー 視覚障害については何歳ぐらいから意識し始めたか覚えていますか?
北村:3歳か4歳のときに家族で出かけたときのことを覚えています。画面を見てレバーを操作するようなバーチャル系のアトラクションがあったんですけど、「これやりたい」って言ったら、「いや、ちょっとあなたには難しいと思う」みたいなことを家族から言われて。他の子たちはやってるのになんでだろう、と思いました。
記憶にある限り、家族から言葉で障害を伝えられたこともなかったです。子どものときって親と手をつないで出かけるじゃないですか。普通にそういうものだと思っていて、子どもだから近くに親がいるのであって、自分が目が見えないからとは考えなかったです。
僕は二十歳まで色と光が見えていたんですが、中途半端に見えるばかりにみんな自分と同じだと思っていたら、どうもそうではないみたいな。小学校に上がる直前ぐらいで、徐々に「どうやら俺と周りの世界は違うらしい」と自覚していった感じですかね。
ーー当時は人と違うことをどんな風に受け止めましたか?
北村:あまり覚えていないので、覚えてないってことはそんなに衝撃的ではなかったんだろうなって思いますね。色と光が見えなくなったタイミングも同じで、そういえば最近、明るさの違いもわからないような気がするな、と。
変化に鈍感だったから、そんなに衝撃を受けなかった、みたいな。「もうちょっとショック受けると思ったら、全然そんなことなくて逆にびっくりした」って母親も後から言ってました。
ーー小眼球症は治療はされてたんでしょうか?
北村:小眼球症自体は治療ができないということらしく、いわゆる義眼を入れて顔の形を保つぐらいしかなかったです。痛みがあるわけでもないので、現在まで特に治療はしていません。

ーー小学校も中学校も通常学級でみんなと一緒に授業を受けていたんですね。何かサポートはありましたか?
北村:付き添いの先生が一人つく形で授業を受けていました。教科書は点字で、付き添いの先生が黒板の内容を教えてくれたり、図を使うときに教科書の記載を補足してくれたり。
小学校の時は課題が出たときも、僕が一旦点字で書いたものを付き添いの先生が普通の文字に直して提出するみたいな感じでした。漢字の書き取り練習なんかは、レーズライターっていう、ボールペンで文字を書くと線が浮き上がって手で触れる特殊な筆記用具で、形を確認しながら書いてました。
ーー「見える人」中心の仕組みの中で過ごす難しさはありましたか?
北村:中学に上がってやることが多くなったので、教科担当の先生とデータでやりとりができるように勉強用パソコンを貸与してもらったんですね。パソコンでノートを取って、課題はUSBで提出したり。
だけど教科ごとに先生が違うので、先生によってはパソコンで提出できるけど、先生によっては認められないことがありました。テストに関しても、早めに問題ができている教科だと点訳ボランティア*の方に渡して点字でテストを受けることができたんですけど、教科によっては口頭で受けなくてはいけなかったり。
*墨字(目で見て読むことができる文字)で書かれている書籍や雑誌、新聞などの内容を点字に翻訳するボランティアのこと。
僕も今、働いてその立場になってわかるんですけど、仕事帰りで親も大変なんだろうなと思うタイミングで宿題の読み上げをお願いしなきゃいけないことがあって、それがめちゃくちゃ心苦しかったですね。
ーーITに興味を持ったのは、パソコンを使い始めてからなんでしょうか?
北村:中学の途中から宿題をやるために家にパソコンを持って帰れるようになりました。とはいっても、やっぱり勉強するだけではあきたらず、インターネットで遊んでいたんですね。当時はチャットが流行ってたんですが、それが楽しすぎて。
ずっと音楽も好きで、小学生のときにはピアノを習ってましたし、中学校では吹奏楽部で打楽器をやっていたんですが、ちょうどそのころ知り合いにギターを教えてもらっていて。そのギターを教えてくれていたのがITにめちゃくちゃ詳しい人で、「最近チャットっていうのにハマってるんだけどすごいよね」って言ったら、プログラミングというものがあると教えてくれて。
それを知って、俺もいつかソフトウェアをつくるんだ、みたいなことを当時から思ってました。そのころからパソコンを触っているので、もう20年ぐらい経ちますね。俺も年を取ったなぁ(笑)。
特別支援学校で知った視覚障害者の世界
ーー高校は特別支援学校に入学したとお聞きしましたが、それはどういった経緯からですか?
北村:中学校で先生によって対応の違いがあったので、さらに勉強が難しくなるなら普通高校に行きたくないなと思っちゃって。
それと、もし大学を目指すのであれば国立の盲学校である筑波大学附属視覚特別支援学校に行かないと厳しいんだろうなっていうのは考えていました。視覚障害があるので、当時の自分には大学進学か、特別支援学校の専攻科でマッサージの資格を取るかくらいしか道がなかったんですが、その時点でマッサージには興味を持てなかったんです。
障害者にとって、選択肢の少なさは今でも社会の課題だと思っています。職業の選択肢がまだまだ少ないですし、遊べるゲームの選択肢も同様です。選択肢が増えれば活躍の場も、そこから引き出される個性ももっと増えていくのになぁと思っています。
ーー実際に特別支援学校に入学してみていかがでしたか?
北村:中学のときには普通学級だったので1学年160人ぐらいのところにいたんですけど、高校になって1学年16人になったんですね。16人って僕からしたらめちゃくちゃ少ない。それなのに入学式のときに、校長先生が「1学年あたりの人数が増えて…」って挨拶してて、どういうことやねんと、俺からしたら10分の1だぞと(笑)。
よくよく話を聞いてみると、特別支援学校から進学している同級生の中にはそもそも1クラス一人とか二人とか、なんなら先輩や後輩がいないところから来てるって聞いて、「あぁそっか」って。僕のほうがマイナーなんだなと。一般の中学から来たのは僕ともう一人だけでした。

ーーその後、勉強を続けていって視覚障害者・聴覚障害者であることを入学の条件にした筑波技術大学に進学されるわけですが、進路はどのように決めていったんですか?
北村:実は僕、筑波技大の受験はギリギリまで迷っていて。中学から高校に上がったときと逆で、特別支援学校に行ったら今度は世界がクローズ過ぎるように感じられて。やっぱり見える人と一緒に学びたいと思ったんですよ。
でも、大事なのはどこの大学にいるかよりも、入ってからどう過ごすかだから、本人次第だと考え直して。高校3年生の秋ぐらいに受験を決めました。
ーー大学は実際入学してどうでしたか?
北村:大学1年から3年にかけて先生の研究を手伝ってたこともあって、思ってた以上にいろんな経験をさせてもらえたなっていうのはあります。筑波大の点字サークルにゲストとして参加したりもしました。
先生や大学院生がやっていた視覚障害者向けのiPhone講座に講師として参加したり、新しい機能を視覚障害者向けイベントの「サイトワールド」で発表したり。楽しかったなって思いますね。
一方で悩むことも多くありました。もともと高校のころから気持ちの上下があったんですが、大学で勉強していると人数が少ないこともあって人と自分を比べちゃうんですね。自分はできるつもりだったけど、あいつと比べたら全然できないみたいな。
プログラミングの授業が特にそうで、課題を出された瞬間に「これはいけるぞ」と思って作業しても、絶対自分は11人中3番目だったんですよ。どんなに頑張っても上の二人に勝てないみたいなところを勝手に感じていた時期があって。全然そんなことする必要がなかったのに、勝手に周りと自分を比較して疲れてしまっていました。危ういところがたくさんありましたね。
就職でぶつかった壁、そして前例のない全盲の声優として
ーー就職先はどのように決めたんですか?
北村:そもそも全盲の視覚障害者が就職するのは難しいと聞いていまして、大学に企業説明に来てくれた企業は全部受けるぐらいの勢いで、唯一採用まで進んだところに就職しました。会社には視覚障害の先輩が何人もいたので、ソフトウェアの使い方も教えてもらえて、そういう意味ではスムーズでしたね。
ーーそこでは何年くらい働いたんですか?
北村:2年ちょっとですね。メンタルの不調で辞めました。学生時代にもメンタルが安定しなかったとお話しましたが、就職してからもそれが改善せずというところで。
エンジニアとしてクライアントワークの開発業務を任されてたんですが、2年目に責任範囲がちょっと大きくなって。その中で僕もどうやって人を頼ったらいいかわからない、みたいなところで完全に自滅でしたね。
自分は組織で働くことが向いてないのかなぁと考えましたし、起業やフリーランスにも興味があり、お金が尽きるまで一旦自分の好きなことをやってみようと決めました。
実は大学4年生のころから声優の養成所に通っていて、就職と同じくらいのタイミングでプロダクションに所属しました。ずっとレッスンを続けていたんですけど、退職後にウェブライターの仕事を受けたりしてたら急にナレーターとしての初仕事が決まって。
ーー偶然、お仕事を辞めたタイミングで仕事が広がって……
北村:2020年頃でコロナ禍だったので、当時は声優やナレーターの活動も大変なところがあったと思うんですけど、ナレーションの自宅収録ができるようになったというのもあって、僕は逆に仕事がやりやすくなったと感じています。
そのころ僕はYouTubeで朗読をやっていたんですが、ちょうど視覚障害者のナレーション事務所から、参加しませんかとお話をいただいて。この辺は一気にいろいろなことがつながりましたね。

ーーナレーターの仕事をする上で工夫されていることはありますか?
北村:一番に意識してるのは、やっぱり妥協しないってことです。僕は今、テレビ東京の『クリックニッポン』という情報番組のナレーターをやっています。
福祉関係の番組や視覚障害者向けのコンテンツなどの領域で仕事をすることもできると思いますが、自分はあくまで視覚障害者であると同時にいちナレーターとして勝負をしたい。声で勝負するっていう意味では見える・見えないは関係ないと思うので、自分の武器を使って、一般のナレーターと同じところで戦いたいなというのは日々思ってますね。
ーーナレーターのお仕事のときは、具体的にどのように収録されているんでしょうか。
北村:データで文書を受け取ると点字に変換できる「点字ディスプレイ」という端末があって、それを使って台本を点字にしています。
収録時は、自分が話すタイミングに音で合図をもらうんです。もちろん言葉の合図でもいいけど、「どうぞ」を待ってから話し出すとタイムラグができる。そこで、マイクで話しかけるトークバック*というボタンを押してくれるだけでいい、ということにしました。一瞬音量が下がって音がフェードアウトするので、聞いているとわかるんです。これが意外に上手くいったので、それ以降採用しています。
*スタッフのいるコントロールルームから、レコーディングブース内の演者に話しかけるためのボタン
ーーナレーターの仕事が形になって夢が叶ったときの気持ちや、印象に残っていることがあれば教えていただけますか?
北村:仕事が決まったときはいつもそうなんですが、自分と同じか、それ以上にキャスティングした人が喜んでくれるのを感じています。
ーー一緒に活動を展開していく仲間や関係者がいて、その方たちも喜んでくれながら活動がまた広がっていくっていう。ナレーターの活動は実際やってみてどうですか?
北村:いい感じに定期的に壁にぶつかるから楽しいなと思いますね。そもそも台本を点字で読むことに関して、今でこそ理解してもらえますけど、やり始めたころなんて「あなた台本読めるんですか?」みたいなところから始まってるんで。読めると思ってるから来てますよ、と思ったりして(笑)。
どうも話を聞いてると、業界に視覚障害のある声優がいなかったっていうのはもちろんのこと、点字ディスプレイという端末があること自体みんな知らないから、「本当に読めるんだ」と驚く方が多くて。自分にとってはゼロからのスタートというか、マイナスからのスタートでしたね。
少なくとも視覚障害者の中では点字ディスプレイは、高額だから手を出しづらいけど、名前くらいは知っている。いろんな人とやりとりする中で「視覚障害がない人は、こういう端末を知らないんだ」って僕も知って。実際に自分がやり方をお伝えしながら仲間をつくっていったって感じでした。
ーー通勤など、普段の生活では同行援護などの福祉サービスは使っているんでしょうか。
北村:同行援護は総合病院に通院するときとか、遅刻が通用しない資格試験くらいですね。コミュニケーション面でも、読みにくいファイルだなぁって思ったら人に見てもらうくらいで、福祉サービスとして何か使ってるってことは全然ないです。
ーーみなさんそうなんですか?北村さんだからできるっていうことなんでしょうか。
北村:僕は人を頼るのが苦手なので、自分でできる範囲を増やしてきた結果なんです。そういう意味では、たぶん本当はもうちょっと人にお願いできたほうがいいんだろうなと思いつつ。
こういうのって「不自由なくできる・読める・確認できる」ものと、「できなくはないけど時間かければできる」ものと、「もう全くできないから人を頼るしかない」の3つに分けられると思ってて。僕はたぶん「時間かければできる」の範囲が広めで。本当はそれは適切じゃないんだろうなっていうのを最近感じています。
ゲームがつないだ株式会社ePARAとの縁
ーー現在所属されている株式会社ePARA*との出会いも同じころ、2020年ですね。
*株式会社ePARAは、eスポーツを活用した就労継続支援A型・就労移行支援を運営し、就労支援機関と連携しながら、障害当事者のスキルアップや自己実現を支援する企業です。
北村:もともと僕はゲームが好きで、野球も好きだったので雰囲気を味わうために『パワフルプロ野球』をプレイしていたんです。投球の音を聞いて、バットを振るボタンを押す、みたいな。その話をePARA代表の加藤大貴さんにする機会があって、「それめっちゃ面白いですね」と言われたんです。その記事を書いたのがePARAとの最初の関わりです。
同じ年の11月、ePARAが主催するePARA CHAMPIONSHIPという企業交流戦で『鉄拳7』を扱ったときに視覚障害者を出場させてみようかという企画になったらしく、僕ともう一人が「チームePARA」として出場しました。でも、2試合戦って、なんと勝つどころか1ラウンドすら取れないっていう散々な結果でした。
ただ、この大会のことをウェブメディアに書いたら思った以上に記事がバズりまして。「もっとブラインドeスポーツをやっていこうよ」っていう流れでePARAのイベントへの出演が増えたり、司会をやらせてもらったりしましたね。
ePARAとは当時、業務委託契約で仕事をしていたんですが、あるゲームイベントに加藤さんたちと一緒に視察に行くことになったんです。新幹線の車中で点字ディスプレイで台本を書いてたら、それを見た加藤さんが興味を持ってくれて。ちょっと経ってから社員としての雇用契約のオファーをいただきました。
ーー業務内容としてはどんなことを担当していますか?
北村:今は視覚障害者向け就労移行支援のブレイクスルーコース*のメイントレーナーとして、訓練のカリキュラムを考えたりしてます。最近あまりないですが、イベントがあったら台本を書いたりもしますよ。
*視覚障害者がピアサポーターやキャリアコンサルタントのサポートを受けながら、講座受講やイベント参加、コミュニティ活動などに取り組む就労移行支援プログラム

ーーePARAに入ってから、よりいろいろなゲームをやるようになったそうですね。
北村:鉄拳を覚え始めたころ、最初は全然わかんなくて手探りだったんですけど、途中でラッキークロエっていう今のメインキャラを使い始めたら急に勝てるようになって。コンボ(連続技)もいろいろ教えてもらって、ePARAの中でも強いと言われるプレイヤーとそこそこ戦えるようになったんですよ。
よく人間の中で、0を1にするのが得意という人もいれば、1を10にするのが得意な人もいるし、10を10のままで維持する人も大事だよね、みたいな話がありますよね。
僕は自分で0→1タイプだと思ってたんですけど、どうもそうではなく、他人に伴走してもらって0から5ぐらいまでいったら、以降は自分で10にも20にも増やせる。掛け合わせでいろんなことがバッてできるようになるタイプなんだと気づきました。
例えば要素AからEまで人から教わったとして、僕の場合は「AとCを掛け合わせたら」「D→B→E みたいにつなげたら」と、要素を組み合わせる発想が強い。格闘ゲームのコンボがまさにそれなので、性格的に合っていたのかもしれません。
畠山駿也さんと『ストリートファイター6』の世界へ
ーーePARAで働きながらEVO Japanへの道のりが始まるわけですが、ここからは北村さんに伴走している畠山さんからもお話をお聞きしたいと思います。畠山さんは筋ジストロフィーのあるゲームプレイヤーとして活躍していますが、どのように北村さんをサポートしてきたのでしょうか。
畠山:直也さんにストリートファイターを教えるようになったのは、僕がePARAに入社した2021年9月以降だったと思います。最初は「2D格闘ゲームって、そもそもどんな仕組みで動いてるのか」というところから説明しました。
今では、ゲームにアップデートが入ったときにはその内容を共有して一緒に練習したり、僕たちは同じキャラクターを使っているので、「こういう行動が強いよ」といった情報をお互いに共有しながら、日々切磋琢磨しています。
ここ数ヶ月は、EVOに行くまでにマスターまでランクを上げることが課題でした。ギリギリまでどうなるかわからない状況でしたが、目標達成した上でEVO Japanに行くことができた。大会の結果以前にそこがよかったなと僕は思いました。

試合のために移動をする北村さん、畠山さん、ePARAのスタッフ
北村:EVO Japanで1勝したときに「マスターランク到達してます」って言えたほうがかっこいいし、恥ずかしくないなぁみたいなところもあって。実際「全盲でマスターの方と対戦できてよかったです」っていう声もあったので、本当に到達してよかったなって思いました。
ーー畠山さんと北村さんは、プレイヤーとして師弟関係でもあると伺っていますが、お互いはどんな存在ですか?
畠山:正直に言うと、「師弟関係」という言葉には少し照れくさい気持ちがあります。というのも、直也さんは本当に純粋に「強くなりたい」という思いを持って、何でも自分から質問してきて、日々練習を積み重ねているんです。今の彼の成長は、あくまで彼自身の努力の結果だと僕は思っています。
とはいえ、普段はストリートファイターのプレイ中にわからないことがあれば僕が教えることもありますし、どうすればもっと勝てるようになるか、二人で一緒に研究しながら取り組んでいます。
北村:僕にとってJeniさん(畠山さんのゲームプレイ時の名前)は2つの側面があります。ひとつは「人に影響力を与える存在としてのお手本」です。やっぱり大会に出場する資金を募るクラファン*を成功させたり、「ハチエフ」*を3年連続で開催したりっていうのは、Jeniさんの人望があってこそ。
*畠山さんは2024年、米国ラスベガスで行われた「EVO 2024」に出場。サポートスタッフの分も含め多額の渡航費用が必要でしたが、クラウドファンディングを実施し、目標金額を大きく上回る支援金を集めました。
*「HACHIMANTAI 8 FIGHTS(ハチエフ)」は畠山さんが岩手県で開催しているバリアフリーeスポーツイベント
北村:もうひとつは「仕事を超えて話せる仲間」です。仕事の話も多いのですが、ゲームのことやビジネスアイディア、日常の失敗談までくだらない話をすることも多いです。僕たちは同い年なのですが、もし別の世界線があったとしたら二人とも新卒で同じ会社に入って、定時明けに飲み会とかカラオケとか行っていたかもしれないな、なんて妄想しました。
畠山:僕からすると直也さんは「何でも器用に、そつなくこなすタイプ」という印象があります。直也さんは声の仕事もされている上に、プログラマーとしても会社の業務を支えてくれていて、業務の効率化に悩んで相談すると、必要なプログラムをさっと書いてくれたりして、本当に助けられています。

試合中、ePARAスタッフや応援に駆けつけた人たちとともに北村さんを見守る畠山さん
ーーお二人の次の目標はありますか?
畠山:僕が直也さんと一緒に目指したいことは、やはり「障害の種類に関係なく、誰もがeスポーツの世界に飛び込みやすく、活躍できる環境」をつくることです。そのための土台となるような場所を、一緒に築いていきたいと考えています。
北村:僕も同じで、障害のある人が参加しやすいeスポーツ大会を一緒につくり上げていきたいです。
そしてプレイヤーとしては、まずはスト6で高みを目指すこと。ただランクを上げるとかポイントを増やすって言ってもなかなか難しいところもあるので、例えばEVO Japanなら、今回は1勝でしたが、来年はもっと勝ち進んで2日目に行けるようにしたいです。
最近アメリカで身体障害者限定のゲーム大会をオンラインで開いている方がおりまして、僕1回目は10人中3位、2か月後にもう一度挑戦した2回目は10人中2位だったんですよ。世界進出のやり方は一般の大会に出るだけじゃないんだと感じたので、障害の有無を問わず、今年はもっと世界とのつながりを増やしたいなと思っています。
ーー北村さんにとってeスポーツはどんな存在ですか?
北村:eスポーツには、単にゲームというだけでなく、人とのコミュニケーションの手段という側面があると思います。例えば、いきなり視覚障害のある人と話すのはハードルが高いと感じる人も多いですよね。だけど「とりあえず難しいことは抜きに、いったん俺とゲームしようぜ」となればハードルは低くなる。
それだけじゃなく、eスポーツは「たかがゲーム、されどゲーム」ということで、プレイヤーが高みを目指せるツールでもあります。
いろんな側面があるからこそ、僕も使い分けてプレイしているんですよ。TPOというと硬いんですけど、時と場合によって「自分はどういうeスポーツプレイヤーでいるのか」を意識しながら向き合ってますね。

「視覚障害があってもできる」という前例をつくっていきたい
ーー障害がある方の職業の選択肢がまだまだ少ないという話が先ほど出ましたが、北村さんは一般的に考えられるような選択肢にとどまらず、声優、ナレーター、eスポーツとご自身の興味のあることを同時進行で複数やられているのがすごいなと思います。どのように今の活動スタイルになったんでしょうか?
北村:ひとつのことを極めるほど集中力がなかったのか、夢を見つつも声優だけじゃ難しいと思ってたのか、たぶん複合的な要因があるとは思います。
急に声優やナレーターとして仕事がくる時期もあれば、そっちはスランプだけど急にeスポーツのほうで仕事がくる。そういう経験からたぶん軸をひとつにしちゃいけないんだろうと、なんとなく感じていました。今はもう割り切って、自分は「やりたいことをひとつに絞らないことを極めてきた」と思っています。
ーー結果的に自然と到達した形だったんですね、なんだか「北村さんらしい」というか。
北村:でもひとつを極められる人ってすごいなって思う瞬間があるんです。僕は何でも「人よりちょっとできる」程度で終わることが多くて、そこから「もう一歩先」に行きたくても行けないことが、めちゃくちゃコンプレックスで。
そういうときって、新しく他の人の教えを取り入れたりすると一気に伸びる瞬間があるんです。さっきの「5から10にも20にもなる」という掛け算のような伸び方の話につながるんですが。
ーーそうなんですね。私から見ると、自ら道を切り拓くような生き方をしているんじゃないかと感じるんですが、どんなプロセスで今のようになったのでしょうか?
北村:人と同じ生き方をするのが嫌だった、というか、苦手だったというのが大きいです。今思えばそんなことする必要はなかったと思いますが、大学生のときは勝手に周りと自分を比較して疲れてしまい、メンタルが安定しなかったんです。
それもあって、声優活動を始めるときには、「視覚障害のある声優は業界にいない。だったら、自分が声優になることを達成すれば、自動的に“世界初の視覚障害のある声優”になれるのでは」と考えるようにしました。
もちろん演技に対してダメ出しはある。でも、自分が“視覚障害のある声優”である限り、周りよりできてる・できてないというのは全然関係ないと思ってます。なぜなら比較対象がいないから。
そうやってモチベーションを保っていたところがあるので、仕事を妥協しないという話と完全に矛盾するんですけど、自分の中で上手く障害を使うみたいなところがあります。逆風もいっぱいあるけど、人がやらないことをやるのが楽しすぎて。「1番最初になる」って面白いなと。
結果的に声優としてキャラクターに合わせることはまだ難しいなと思い、今はナレーターの活動が中心ですが、根本的には何も変わらないですね。
ーーいろいろな道を最初に切り開いてきていますよね。これまで作ってきた前例にはどんなものがありますか?
北村:例えば声優事務所や養成所の話を聞いたり、ワークショップなどに参加しても、それまで視覚障害の人と出会ってない人ばっかりなんです。「視覚障害の方を受け入れるのは初めてなので、どこまでできるかわかりません」って言われるので、「何とかなりますよ」って。いろんなコミュニティに「視覚障害者が入る」という初めての実績をつくった場面は多いんだろうなと思っています。
ーー前例がないところに飛び込むって未知な部分もあると思うんですけど、怖さはないですか?
北村:僕が怖いと思うよりも、受け入れる側のほうが怖いんですよ、きっと。受け入れ交渉が一番大変で、それさえ通ればあとは何とかなるんじゃないかと思ってます。
今一緒にナレーターの仕事をさせてもらっているところでも、「もし北村さんが他のところでナレーターやってるっていう例がなかったら、うちも受け入れてたかわからない」と聞いたことがありました。そういう意味では一度なんとかして前例を作ることで、その先につながっていくということも多いんじゃないかと思ってます。

ーーいろいろな人と関わる機会が多い北村さんですが、人間関係やコミュニケーションで工夫していることはありますか?
北村:ePARA内でよく話しているのは、例えば障害者と健常者という言葉としての区切りやラベリングはあるにしても、健常者が障害者を支援するだけ、ということは本来ないということです。
僕の場合は目が見えなくて文字が読めないし、移動することも大変です。でもパソコンが得意なので、誰かがパソコンで困ってたらこうしたほうがいいですよってアドバイスができる。
支援する・される関係っていうのは一方的ではなくて、場合によってサポートする側にもなれるし、サポートされる側にもなる。“適材適所”であることをePARAは徹底して大切にしていますね。
ーーみなさんがそれぞれ得意・不得意や障害や特性をフラットに捉える、そういう関係性なんですね。北村さんの中で目が見えないこと、障害はどんな存在なのでしょうか。
北村:よく「障害は個性なのか議論」ってあるじゃないですか。でも僕は障害と個性はイコールではないと思っています。ただ、障害とともに成長していったどこかの段階で、個性になるタイミングがある。個性を生み出す種のひとつが障害なのかなと思っています。
目が見えないこと自体は個性ではなく、「目が見えないこと」に何かをプラスしたり、掛け合わせをしたりすることでその人になっていく気がします。
ーーその考えに至るまではどんな過程がありましたか?
北村:話はすごく簡単で、もし自分が目が見えてたらただの声優やナレーターでしかなかっただろうし、ただのオタクでしかなかったと思うからです。
何でもかんでも肩書きに「全盲の」がつくことを良しとするか、しないのかはまた別の問題ですが、全盲という障害があるからこそ、自分の立場がつくられてる部分はあります。
いずれは「目が見えないのに〜ができる」という表現から、「目が見えないのに」の部分が外れてもいいぐらい、すごい人間になりたいと日々思っています。
ーー最後に、soarの読者にメッセージをいただけますか?
北村:障害や病気を抱えていると、何かをあきらめなければならないことが数えきれないほどあると思います。ときには悔しさだけではなく、怒りを感じることだってあるのではないでしょうか。ただ、どうしてもやりたいと思ったことは一度チャレンジしてみて、「やっぱ無理だ」ってなってからあきらめても遅くはないと思います。
「絶対にできるよ」なんて無責任なことは言えませんが、一歩を踏み出す勇気をおすそ分けできればと思います。
(執筆/木村さやか、撮影/阿部由美、編集/工藤瑞穂、企画・進行/松本綾香)
