
「まだ、うまく言語化できていないんだけど」。仕事の打ち合わせで、あるいは友人との会話で、申し訳ない気持ちとともに口にすることがあります。
申し訳なさの裏側には、感じたことや考えたことは明快に言葉にしたほうがいい、という規範があるように思います。「言葉にしないと伝わらない」という声が頭のなかで聞こえてくるのです。
けれど、うまく言語化できていないとき、そこには微細な感情の動きや、まだ言葉になっていない違和感があるはず。そうした感覚にこそ、自分や他者の思いや願い、その人らしさが眠っているのかもしれません。
言葉になる前のものに耳をすますとは、どういうことなのでしょうか。言葉になりきらないものは、どのようにして言葉になっていくのでしょうか。
2026年7月10日の夜、NPO法人soarは、東京・世田谷のHOME/WORK VILLAGEを会場に、トークイベント「語りに耳をすまし、未来へ手渡す。聞く・書く・記録するプロセスを開く」を開催しました。
ゲストとして登壇したのは、情報学の研究者として、言葉とテクノロジー、ウェルビーイングの関係を探究し続けるドミニク・チェンさんと、働き方研究家として著作を重ねながら、10年以上にわたる「インタビューのワークショップ」を通して「きく」実践を深めてきた西村佳哲さん。
この10年でおよそ600人の語りを記事として届け、今年からは参加者同士が互いの語りを聞き合い、記録する「コミュニティアーカイブ」の活動も始めたsoarにとって、一人ひとりの語りを聞き、記録し、未来へ受け継いでいくことは、活動の真ん中にあるテーマです。当日は、soar代表理事・編集長の工藤と、理事のモリが進行役を務め、対話の時間を過ごしました。
言葉によって自分がつくられていく——ドミニク・チェンさんの活動紹介

まずは、ドミニクさんによる活動紹介です。早稲田大学文学学術院教授として、情報学やウェルビーイングの研究を重ねながら、言葉とテクノロジーをめぐるものづくりを続けてきたドミニクさん。自己紹介は、こんな一言から始まりました。
「言葉って何だろうということを一生考えているなと思っています」
原点には、フランス語や英語、中国語、日本語といった多言語環境で育った子ども時代があります。6年前に出版された半自伝的な著書『未来をつくる言葉』は、その体験を掘り起こしながら書かれたものでした。
ドミニク:日本でフランス式の学校に通っていたので、学校で過ごす時間は全部フランス語。一歩外に出ると全部日本語で過ごしました。そのうちフランス語を話している昼間と、日本語を話している朝と夜で、自分のキャラクターが少し違うと自覚をしたり、周りからも指摘されたりして。言葉によって自分がつくられていく感覚を抱くようになりました。
そうした体験をもとに「未来をつくる言葉」を書き、腑に落ちたことがあります。それは、私がコミュニケーションを欲しているけれども、同時に信じていないところがある、ということです。わかり合えているのは氷山の一角の部分なのかもしれず、相手や自分をさらに理解するには、もっと時間と手間が必要なのではないか、と。
そうした多言語の世界やわかり合えなさを表現した作品の一つが、ドミニクさんが展示ディレクターを務めた「トランスレーションズ展−『わかりあえなさ』をわかりあおう」でした。「翻訳とはコミュニケーションのデザインである」という考えのもと、翻訳を異なる背景をもつもの同士が意思疎通を図るためのプロセスとして捉えなおした本展覧会。そのなかから、AIによる自動翻訳を用いた体験型の展示作品「Found in Translation」が紹介されました。
ドミニク:翻訳は、元の言葉と訳語が一対一で結びつくものではありません。一つの言葉を訳すだけでも、無数の選択肢がある。それをテーマにした展示です。
会場に入ると、モニターが様々な言葉を映しており、真ん中にマイクが設置されています。表示された問いに答えると、その場で23か国語に同時翻訳されて文字が表示されると同時に、人工音声でその単語が再生されます。一つの言葉の向こう側に、無数の知らない言葉が広がっていると感じてもらおうと試みました。

「Found in Translation」(出典:Ferment Media Research)
続いて紹介されたのが、あいちトリエンナーレ2019で発表された作品「Last Words / TypeTrace」、通称「10分遺言」です。
「あなたがもし10分後にこの世界からいなくなるとしたら、どんなメッセージを、誰にかけますか」というお題に対して書かれた2300件以上の投稿を、タイピングの過程ごとデータで記録。手が止まった瞬間も含めて、書かれたとおりに画面上で再生される「TypeTrace」というソフトウェアを用いた仕組みです。
ドミニク:再生すると時々タイピングが止まります。そうすると受け手は「今、書き手のなかで何が起こっているんだろう」と想像する。例えば、ここで言い淀んでいるのは、慎重に言い換えを探そうとしているのかもしれない、といったふうに。
こうした言葉を書くプロセスそのものを共有するテクノロジーがあったら、私たちはどう考えるだろうという問いかけでもありました。

「Last Words / TypeTrace」(出典:Ferment Media Research)
トランスレーションズ展が投げかけた、一対一の対応におさまらない翻訳の可能性。「10分遺言」が記録した、言葉が書かれていくプロセスそのもの。わかり合えなさを前提としながら、ドミニクさんは言葉の豊かさや言葉が生まれるまでの時間に耳をすませてきました。
その声を「きく」相手は人間にとどまりません。愛着のあるぬか床を一晩で腐らせてしまった後悔から生まれたのは、喋るぬか床ロボット「Nukabot」。センサーで発酵の様子を捉えて、呼びかけると「今、食べ頃だよ」と答えたり、「そろそろかき混ぜたら」と人に声をかけたり。ぬか床の声を聞き、対話をするための装置です。

「Nukabot」(提供写真)
「NukaBot」を実際に使ってもらったり、味噌のもととなる麹菌の生態系を表す「みそボット」を開発したり。発酵をめぐる思考と実践を重ねるなかで、ドミニクさんは今「言葉も発酵するのではないか」と考えていると言います。
ドミニク:我々の体のなかでは、思考とか言葉が無意識のうちにどんどん変化したり、分解されたり、編成されたりして姿を変えていきます。まさに今日のイベントタイトルのとおり、書いたり、話したり、人の話を聞いたりすることを通してどんどん変わっていく。まさに発酵しているのだと、確信に近い考えをもっています。

なかでも発酵と構造的に似ているとドミニクさんが考えるのが、日誌を書き、定期的に振り返ることを繰り返す「ジャーナリング」です。ゼミでは学生とともに実践を続けているそう。「基本的に人に見せない前提のテキストで、孤独に書くことにこそ意味がある」と言います。
ドミニク:ジャーナリングツール「oryzae(オリゼ)」の開発も始めました。書いたテキストを瓶に漬け込むと、時間をかけて発酵するようにテキストが分解され、短いコメントが付いたり、キーワードが生成されたりする。ジャーナリングの書く行為を生成AIで支援するツールです。
生成AIは気をつけて使わないと、どんどん言語能力がそがれていくと感じています。なので時間を置く、分解させる、変換させる、そしてAIに正解を出させない。そうした仕組みを試行錯誤しているところです。
生成AIとどう共存していくのかは教育現場でも切実に感じている課題です。こうしたツールも作りながら、改めて言葉というものと向き合おうとしています。

「oryzae」(提供写真)
違和感を手放さない――西村佳哲さんの活動紹介

続いて西村佳哲さんの活動紹介です。西村さんはリビングワールド代表として、働き方の研究を続けながら、インタビューのワークショップを10年以上にわたり開いてきました。
西村さんのプロジェクトの一つである「サウンドバム」は、1999年に始まった「音」をテーマにした旅のプロジェクト。参加者は世界各地を訪ね、レコーダーやマイクを片手に、耳を澄ませて旅をします。
きっかけは、パソコンの前に座る時間が長くなり、「外に行く仕事をつくろう」と思ったこと。そしてもうひとつ、旅先での気づきがありました。
西村:人生で2回目、3回目の海外旅行から、最初の頃のビビッと来る瞬間が減ってきたなと感じていたんです。
美しい風景や、旅に出る前にウェブや雑誌で見ていた風景を目にすると、カメラのシャッターを押した瞬間に「情報処理済み」みたいな感覚になる自分がいました。
だからレコーダーを片手に旅するツアーを始めました。オーロラの音を聞きにアラスカへ、街の音を聞きにリスボンへ。台湾やキューバなども含めて、計29か所をめぐりました。

各地の音を集めたCD『Traveling with Sounds』(出典:Living World)
世界の音に耳を澄ます旅とあわせて、西村さんが続けてきたのが、働き方をめぐるインタビューです。2003年に出版した『自分の仕事をつくる』、続く『自分をいかして生きる』などの著作を通して、さまざまな人の働き方に耳を傾けてきました。
今も忘れられないと西村さんが語るのが、デザイン事務所DRAFT代表(当時)の宮田識さんとのエピソードです。
西村:いかつい表情で仕事に厳しい方だから、緊張して取材に行きました。でもオフィスに入ったら、いたるところに働き方の工夫があると手に取るようにわかって、感激してしまったんです。
「いい仕事がしたい」と多くの人が考えるけれど、オフィスや働くプロセスのなかで具体的な工夫を実践できる人は少ないんです。「宮田さんは、なんでそれができるんですかね」と、感激のあまり独り言みたいな問いを発してしまいました。
「答えやすい具体的な問いから始める」というインタビューの原則から外れてしまった。焦る西村さんに返ってきたのは、あっさりとした一言でした。
西村:「いや、違和感を手放さないってことですよ」と言われました。
聞いた瞬間、ジグソーパズルの最後のピースが手に入ったような気持ちになりました。働き方について考えたいと思っていたことのうち、ずっと探していたものが見つかった気がして、取材序盤なのに「もう帰ろうか」とすら思いました。

それから15年ほど経って再会したとき「あの話の続きを聞きたい」と伝えると、宮田さんは「忘れたけど、自分が言いそうだな」と続きを語ってくれたそう。その一部を、西村さんが会場で読み上げます。
西村:「ここに、一人として同じ人がいないわけです。(中略)思うことも感じることも、他の人と違う。引っかかりとか違和感というのは、そういうこと。それは、他の人には本来的にわからないんですよ。(中略)自分が純粋に何か変と思うことを大事にしていったらどうなるのか。それが10年経ったら、ものすごいことになっているんじゃないかな。
それが、自分の個性になっていくよね。感じていることをちゃんと、10年ぐらい大事にすると……いや、もう一生。歳を重ねても、その感覚だけは忘れないほうがいいかなと思う。それがないとできないから」
読み上げると、今でも泣きそうになります。違和感を手放さない、実際に感じていることを手がかりにして生きていく。それが自分を生きるということなんだと思います。
こうした「きく」の実践を続けてきた西村さんが15年に渡り開催しているのが、ひとの話を「きく」技術と感覚をめぐるインタビューのワークショップです。そこで必ず共有するのが「人は2種類の言葉を話している」というお話なのだそう。
西村:人がある事柄を喋っているとき、その事柄は頭から出てきているように感じられますよね。けれど、それとは別に喉から胸、腹へと続く縦方向の空間からも、言葉は出てきていると感じるんです。実際に「言葉が喉まで出かかっている」と表現したりしますよね。
頭の中に入っているのはセンテンス状に整理された情報で、そこから出てくる言葉は人から聞いた言葉や本で読んだ言葉も混ざっている。一方、胸や腹から出てくるものは事柄よりも気持ち、いわば感覚だと思います。純度も現在性も新鮮度も高いのではないでしょうか。
上のほう、頭から出てくる事柄が主に言葉で表現されているとしたら、下のほう、胸や腹から出てくる感覚は「表情や目の動き、抑揚、調子、体の動きなどさまざまな要素で表現されている」と西村さんは言います。
西村:上が「話」だとすると、下は「話しぶり」ともいえます。その“ぶり”の部分に、その人が本当に伝えたい、表現したいものがあるんじゃないかとも思います。
「きく」の実践として、続いて紹介されたのが「駒沢の生活史」です。きっかけは、社会学者の岸政彦さんによる『東京の生活史』。150人の聞き手が、東京で暮らす150人の語りを聞き書きした一冊です。
「駒沢の生活史」はそのスモールタウン版。東京・駒沢の街で約40人が聞き書きに参加し、全53編を週に1本ずつ、1年かけて公開してきたプロジェクトです。

「駒沢の生活史」のウェブサイト
西村:「東京の生活史」よりも小さな単位で実践したら面白いという確信があったんです。互いの語りのなかで「この人物は、あの語りに登場した人かも」とつながりがみえたりして、経験が重層化していくのではないか、と。
「傾聴」という考え方を提唱したカール・ロジャーズ(※)の言葉に「最もパーソナルなもの、個人的なものが、最も普遍的である」というものがあります。最初から大きな言葉にしていない、その人自身に根差した極めて個人的なものを交わし合っていると、それが、その人だけの言葉ではなくなってくる。「駒沢の生活史」を通して改めて実感しました。
※カール・ロジャーズ:アメリカの臨床心理学者。話し手を評価や誘導をせずにそのまま受け止める「来談者中心療法」を提唱し、カウンセリングにおける傾聴(アクティブリスニング)の考え方を広めた。
「今日、何を感じましたか」に答えられるか
ここからは、soar代表理事・編集長の工藤と、理事のモリを交えたトークセッションです。「お二人とも『きく』の幅が広く、違和感を大切にされている」とモリが二人の共通項を示したところから、セッションは始まりました。
最初の問いは、西村さんからドミニクさんへ。oryzaeの画面に置かれた「今日、何を感じましたか」という一文をめぐってです。
西村:あれ、書けない人が多いんじゃないか、という気がしているんです。SNSしかり、とにかく情報摂取が色んな時間の隙間に入ってきているから、感じていることを寝かす時間がないというか。
昔の自分を思い返すと、電車に乗って帰っているとき「昼間の誰々さんとの会話って…」などと、その日の出来事を反芻していました。今はそれより新しい情報を入れちゃう人が多いと思うんです。その結果、自分が何を感じているのかわからないという人も増えているんじゃないかなって。
ドミニク:おっしゃる通りだと思います。だから感情を思い出す筋肉、いわば感情筋を鍛えていかないといけない。そこは訓練が必要で、ジャーナリングは一つのいい手段なのだと思います。
ゼミで実践しているのは、ファクトと感情をサンドイッチのように重ねる、4段階の方法です。まず今日あった出来事をファクトとして書く。次にそれについて感じたことを書く。さらにその出来事の背景を、最後にその背景について感じたことを書きます。
繰り返していくと、1週間ぐらいでステップを踏まなくても「今日はこういうことを感じた」と無意識に考えるようになる。少なくとも自分自身には身体化してくる感覚がありました。

「感じる」をめぐるやりとりのなかで、「考える」と「感じる」の間にある「思う」という言葉の曖昧さも話題に上りました。
ドミニク:「思う」は少し曖昧な言葉ですよね。文章で「私はこう考える」と書くと強い主張をしている感じがするから、自信がないときほど「こう思う」と言いがちな気がします。
そうした曖昧なものをあえて残しておけるのが、ジャーナリングのいいところですよね。原稿で「かもしれない」ばかり書くと編集者に怒られそうだけれど、誰にも見せない文章では取り繕わず「今、自分はわからない」ともやもやしている状態を書き置ける。言葉にならないものと自分は向き合っていたという証拠を残せることが、大事なのだと思います。
フィーリングは、語尾の「んだけど」に宿る?
自分で書くことと、誰かに話すことでは、感じていることの出てき方が違うのかもしれない。そう前置きしたモリから、西村さんへ問いが向けられます。事柄の話は出てきやすいけれど、気持ちや感じていることを話してもらえるような働きかけは、何かあるのでしょうか。
西村さんの答えは、「働きかけずとも、すでに表現されていると思う」というものでした。
西村:たとえば誰かが「どこどこに行ったんだけど〜」と言ったとします。
この文章には「どこどこに行った」という事実と、「んだけど」という感情が語尾に表現されていると思うんです。
「何を感じているか」と聞かれると、多くの人は感情表現をやらなくちゃいけないと意識してしまう。でも感情は少し情報処理が進んでいる状態なんです。そのもっと下に、ただのフィーリングがある。そしてフィーリングは語尾にどんな言葉を置いているかなどで、すでに表現されている気がします。
西村さんの捉え方に、ドミニクさんは感情をめぐる概念として使われる「エモーション」と「アフェクト」という言葉を重ねます。
ドミニク:エモーション、つまり感情は「なんて悲しいんだ」とか「なんて嬉しいんだ」といったふうに自分で認知しているもの。一方でアフェクト、つまり情動は「楽しい」や「悲しい」といった言葉にまだ着地していない状態のこと。「もやもやする」とか「ちょっと楽しくなってきたぞ」みたいな感じですね。
話しているときの「んだけど」とか「けど」とか。そこに自ずと現れているものなのだと思います。

アフェクトは本人が気づくものなのか、それとも聞き手に伝わるものなのか。モリの問いかけに、西村さんはこう答えました。
西村:本人は、無意識にやっていると思いますね。話しているとき、自分の体がどう動いているかにも気づいていない。だから、本人が気づくべきだとは別に思わないんです。
それより、聞き手が相手の居所みたいなもの、今どんな感じでここにいるのかをキャッチして反応を返す。そうすると話し手も今現在の自分というものを育てやすくなるのだと思います。
いいインタビューは、雷に似ている
聞き手の側に何ができるか、という話を受けて、今度は西村さんからドミニクさんに「いいインタビューを、どう定義されますか」と問いが投げかけられました。
ドミニク:いいインタビューだったなと感じるときは、インタビュアーとインタビュイーが融合しているときだと思います。「そうそう」と掛け合いが少しでも生まれるときは、一緒にインタビューをつくっている感覚があって楽しかったなと思い出しました。
西村:インタビューの語源は「inter-view=お互いに見る」なんですよね。共同作業というか、一緒にやることだなと思います。
あと雷も近いですよね。雷って一般的に「落ちる」というふうにイメージしているけれども、雲のなかの電位と地面のなかの電位が釣り合って、双方向の放電が起きてつながっている状態。相互作用なんですよね。
インタビュアーとインタビュイーの間で、そういった相互作用が起きて「だねー」と感じ合えているときが、いいときだなって思います。

これを受けてドミニクさんは、安易な共感とそうでない共感はどう生まれるのか、と西村さんにたずねます。「だね」と言い合える安心感がある一方で、適度な緊張感がいい対話を生むのではと問いかけます。
西村:「だね」と言い合える状態。いわば一緒に同じ湯船に浸かっていて「いい湯だね」という感じは、インタビューで言えば後半の時間にあればいい。
そして出発点は「あなたは私ではないし、私はあなたではない」であるといいですよね。そのわきまえが起点にあるべきだし、そこをキープしたまま終わらないといけないのだと思います。
文章は音楽。書くことと身体のつながり
ここまでの対話は、感じていることがどう表れ、聞き手はそれをどう受け取るか、という「きく」をめぐるものでした。ここから話題は「書く」ことへ。
お二人はどのように自分の考えや思いを文章にされているのか。編集長の工藤の「頭の中ではいろいろ考えているはずなのに、『話そう』だとまだ出てくるんですけど、『書こう』とするとなかなか出てこないときもあって」という悩みまじりの質問に対する、西村さんの答えは少し意外なものでした。
西村:文章って音楽なんだと思います。人の話をちゃんと聞こうとすると、多くの人が、内容を頭で正確に理解しようとしますよね。でもそれって、歌詞カードだけ読んでいるようなもので。
今、私が喋っている瞬間も歌っているに等しい。調子があるし、手も動いているし、必ず身体ごと動いているんですよね。
話すときは、それが自然にできる。身体が一緒にあるからでしょうね。書くときは、その身体性が外れていっちゃうので、むしろ難しくなるんだと思います。
文章を推敲するときも、どこに、どんな濁音が入るかとか、そういうことで音楽が形成されていく感じ。それを見ているんですね。「気持ちよくないな」みたいな感じで、ちょこちょこ直していく」
ドミニクさんも声に出して読む推敲を実践していると話します。
ドミニク:大学1年生向けのアカデミックライティングの授業でも、自分の書いたものを口に出して読みながら推敲しましょう、とよく言うんです。シンプルなんだけれど、この文章、全然身体感覚がないなとか、もうちょっとリズムをつけよう、とか。自分でわかるんですよね。

書くことと身体のつながりをめぐって、話題は手書きにもおよびました。
生成AIの登場で自宅でのレポート課題が成立しなくなり、教室での手書きに切り替えたアメリカの学校の記事をドミニクさんが紹介します。
ドミニク:手書きは意外にも学生に好評で、安心して、自分の考えをクラスメイトに話すことができるようになったという声が書かれていました。
手書きは摩擦を生むんですよね。紙とペンによって摩擦や振動を手で感じながら線を描く。そのなかで自分が考えている感覚が体に返ってくる。手書きだと、思考とアウトプットになる文字との距離がすごく近いんですよね。キーボードだと10メートルくらい遠くに考えが投影されている感覚があります。
だから、タイピングしてうまく書けないときは手書きで書いてみる。手書きで書けないときはボイスレコーダーにしゃべってみる。その時々の状況に合うツールがあるのではないでしょうか。
忘れるために書く「源泉かけ流し」でいい
セッション最後の問いは「残す」ということについて。記録し、未来へ手渡すことを想定すると、書き方や振る舞いは変わるものなのでしょうか。
ドミニク:記録するって、どんどん蓄積していくイメージがあるんだけれども、実はそうじゃない気がしています。忘れていくために書いている感覚がある。
5年後、10年後に「完全に忘れていた」と思い出すとき、それが自分の身体に染み込んだと思える。すべてを記憶すべし、というのは、ある種の強迫観念だと思います。忘れると、今にフォーカスできるようになる。軽装で旅をしている状態がいいなと感じます。
西村さんも、自身が体験した街を歩いて、地図をみんなでつくるワークショップの例を挙げながら応じます。
西村:地図ってつくっていくときが一番楽しいんですよ。街で見たものを文章にしたり、地図にしたりというフォーマットに落としながら、本人たちが世界を再体験する。できあがった地図を活用するところは、逆に人間じゃないものに任せたほうがいいんじゃないかな、と思います。もう、そこは忘れていくというか。源泉かけ流しでいいんじゃないかな、という気がするんです。
ドミニク:マップをつくるとき、つくったマップを素晴らしいものにしよう、じゃなくて、マッピングという行為が一番大事なんですよね。
ジャーナリングというのも、ある種のマッピング行為なんですよ。今、思いつく言葉を、ひとまず言葉にして当てておく。ファイナルアンサーである必要はないんです。だから、それも源泉かけ流しなんでしょうね。
「『源泉かけ流し』って、めっちゃいいですね。使っていいですか」とドミニクさんが身を乗り出し、会場は笑いに包まれました。

お二人の対話から見えてきたのは、「聞く」「書く」「記録する」という工程そのものに潜む豊かさでした。語尾に表れるフィーリングや身体性をともなう話しぶり、言葉に着地する前のアフェクト、ファイナルアンサーになる前の書き置かれた言葉。それらを一つひとつ味わいながらつくり、交わしていくことが、結果として、語りを未来へ手渡すことにつながっていくのかもしれません。
「まだ、うまく言語化できていないんですけど」。次にそう口にするとき、必ずしも申し訳なく思う必要はないのかもしれません。うまく言葉にならないもやもやは、時に、そのまま書き置いてもいい。源泉かけ流しで、言葉になりきらないものに耳をすます時間は、誰の毎日のなかにもつくることができるはずです。
関連情報:
西村佳哲さん ホームページ
(撮影/荒田詩乃、編集/工藤瑞穂)
