【写真】屋外の明るいスペースで笑顔を見せるくさかりさん

こんにちは。草刈良允です。株式会社リクルートライフスタイル じゃらんリサーチセンターの研究員として、地域の組織づくりを支援する仕事をしています。

私は、5年前に統合失調症の診断を受け、1度は会社員を辞めています。統合失調症とは、幻覚や妄想といった症状が特徴の、精神疾患のひとつです。

私の場合は他の人には聞こえないことが聞こえていたり、話していることが支離滅裂になったり、急に大声で叫んだりといった症状が出ていました。100人に1人弱がかかるといわれているそうです。

早期の治療で完全回復できる人も多く、私も今は、発症前とほぼ変わらない生活ができるようになっています。今回は、そんな統合失調症と出会った私の経験をお話させてください。

「気が弱い」と感じていた幼少期、人と関わる楽しさを知った学生時代

【写真】提供写真。きょうだいと並んで写る、幼い頃のくさかりさん

1987年10月、私は神奈川県横浜市で生まれました。とにかく気が弱く、幼稚園では教室に閉じ込められるなど「子どものいたずら」の延長にあるようないじめにあっていました。

小学校に入ると仲が良い友達もできましたが、気の弱さは相変わらず。人の目が気になってしまって、ランドセルの紐に両手をかけ俯き気味に地面ばかりを見て歩いている子供でした。音楽のリコーダーのテストでは、緊張で顔が真っ赤になってしまい、なにを吹くのかも思い出せなくなってしまう。典型的な「恥ずかしがり屋」だったと思います。

【写真】提供写真。ジャングルジムに登って笑顔を見せる、幼い頃のくさかりさん

中学からは中高一貫の男子校に通いました。1日2時間の家庭学習が求められ、制服を着崩していれば先生に呼び止められる、「真面目」という言葉が似合う学校。この頃、夜中になるとお腹や胃に激痛が走り、両親に連れられ近くの病院の救急診察へ…そんなことが何度もありました。毎日の勉強がストレスになっていたのかもしれないと、今は思います。

高校生になると、人と関わることに楽しさを感じるようになっていきました。文化祭で企画をしたり、友達が所属していたボランティアネットワークに顔を出し、他校の同年代の人たちと由比ヶ浜や多摩川の清掃活動に参加したり。新たな出会いにワクワクしていました。

大学進学後は、個人経営の居酒屋でキッチンスタッフとしてアルバイトを始めました。忙しくて料理の指導も厳しい場所でしたが、新しいメニューを覚えて、先輩に認められるまで何度も練習して、ようやくお客さんに出せるようになる。その積み重ねがゲームのようで楽しくて、授業が終わったあとは、ほぼ毎日お店で働いていました。

小さいころから悩まされ続けた体や気の弱さも、飲食店のハードな仕事で鍛えられたのか(笑)、徐々に改善していきました。勉強もそれなりに大変でしたが、音楽やマンガ、カメラなど趣味も広がり、楽しい大学生活を過ごしていました。

NGOでの経験から生まれた「社会のためになることがしたい」という思い

大学3年生になると、就活がはじまりました。合同説明会で見たのは、数千人という就活生が同じような格好をして、「やりたいこととか言われても困るよね」とぼやいている姿。そこで無性に「なにかやりたいことを見つけなければ」という恐怖に近い感覚に襲われました。

「やりたいことを見つける」ためにどうしたらよいのだろう。

思い浮かんだのが、高校生のころ出会ったボランティアネットワークでした。性別も、学年も、趣味嗜好も異なる人たちが、やりたいことをどんどん提案して取り組む様子は、当時の私にとって新鮮に映っていました。

やりたいことを見つけてから就活をしたい。そんな想いから、大学3年の冬、就活を辞めて大学院への進学を選択します。そして、大学で省エネルギーについて研究していたこと、趣味の音楽と関わる活動をしていたことから興味を持ち、環境分野の活動をするNGO「A SEED JAPAN」でボランティアをすることになりました。

【写真】日の当たる室内で、笑顔を見せながら話をするくさかりさん

ここからの2年間は、新たな世界との出会いの連続でした。今の私を形づくるような経験と繋がりがぎゅっと詰まっていると思います。NGOでも、地域でも、会社でも、当時関わっていた大人たちは、学生の私を対等に扱い、「やってみようよ」と背中を押し続けてくれました。そしてなにより、感じていることをありのままに表現すると、それを受け入れてくれた。

気づくと、小さいころから周りの目ばかり気にしてきた私から一転、ボランティア活動だけでなく様々な活動に自ら手を挙げ、参加するようになっていました。母から「もうあなたはどんな仕事につくのか想像もつかない」と言わしめるほどでした。

そうして再びやってきた就活。その頃にはNGOや地域、ソーシャルビジネスに関わる取り組みに励むようになっていました。でも、この世界で働く先輩たちはとてもタフで、仕事が忙しくても家庭との両立が大変でも、折れずに目指したい社会の実現のために進み続ける、強い意志を持っていると感じていました。今の私にはできない。そう思い、企業への就職を目指すことになります。

それでも2年前とは違い、「社会のためになる仕事がしたい」という思いがありました。世の中を変える取組みをしていて、それを目指している人が働いている会社に入れば、自分にもやれることがあるのではないか。そんなことを考えながら仕事を選択しました。

成果を上げられない焦りが不安につながってしまった、入社1年目

【写真】真剣な表情でパソコンに向かうくさかりさん

新卒1年目、私は住宅アドバイザーの仕事をしていました。ショッピングセンターの中にある店舗で、これから住宅を建てようとしているお客さんの要望を聞き、ぴったりな建築会社を紹介するという仕事です。忙しくはありましたが、入社してからの数か月は特に大きな問題もなく、日々頑張って働いていました。

しかし、入社して半年近くが経ち、仕事の目標を自分で立てる必要が出始めたころから、だんだんと悩む時間が増えていきます。

たとえば、家を建てたいというお客さんの中には、私と同年代の若い夫婦で、予算が十分に用意できない人たちもいます。「1年間に●人の成約をお手伝いする」という目標を考えてから接客をすると「この人たちにも無理をさせて、家を建てさせないといけないのではないか」「それはこのご夫婦にとって本当に幸せな選択なのか」そんな想いが接客中に頭を巡ってしまい、冷静に話すことができなくなってしまうのです。

目標を立て、どんどん成約を決めていく同期たち。次第に「早く成果を上げなければ」という焦りと「目の前のお客さんにとって一番の選択はなんなのか」という悩みが強くなっていきます。始業前や終業後に、店長に泣きながら相談する日もありました。

そんな中、入社半年後、神奈川の店舗から京都の店舗への異動が決まります。慣れない土地とはいえ、新しい環境になることで少しは状況が変わるのではと、この時は期待も持っていました。

しかし、異動した関西のグループでは、接客を担う現場スタッフ全員が、目標を達成するべく、必死に頑張り続けていました。今を乗り切るだけでも一苦労な中、さらに店舗を増やしてビジネス拡大を推進していく計画も進んでいる時期でした。そんな環境の中で、悩みはますます大きくなっていきます。

“病気であること”を認めたくない

【写真】パソコンに手をおきながら語るくさかりさん

それまでは仕事が終われば消えていた悩みが、朝起きて支度をしているときも、仕事が終わって電車で帰っている最中も、休日も、常につきまとうようになりました。次第に遅刻や早退を繰り返すようになります。

そして入社1年目の12月のある朝、会社に行こうといても、ベッドからまったく体を動かすことができなくなりました。

その後もしばらくはなんとか出社していましたが、接客中に手の震えが止まらなくなったり、電車に乗るのが怖くて会社に行けなくなったり、周りの人が自分を責めているように感じたりすることが増えていきました。それが「仕事が続けられなくなったらどうしよう」という不安に繋がり、状態はどんどん悪化していきます。

その間、店長や同僚はいつも相談に乗ってくれました。「病院に行ったら?」と勧めてもくれていました。しかし、しばらく私は行くことができませんでした。病院に行ったら仕事が続けられなくなる。自分が病気だと認めることになる。そのことがどうしようもなく、怖かったのです。

遠く離れた実家にいる姉にも、いつも電話で相談をしていました。出社もままならない状況が続いていたある日、姉から「嫌なのはわかるけど、病院に行ったほうがいい」と強く背中を押してもらいました。そして、病院に着くまでの道中、ずっと姉と電話を繋ぎながら、なんとか病院にいくことができました。

そして受けたのが、統合失調症の診断でした。先生の勧めもあり、すぐに休職が決まりました。

「統合失調症」の診断を受けて安心する気持ちと、募る罪悪感

これで仕事に行かなくて済むんだ。

あれだけ自分が病気だと認めること、仕事を続けられなくなることが嫌だったのにもかかわらず、診断を受けたとき最初に感じたのはそんな安心感でした。

【写真】青空を背景に、微笑みながら語るくさかりさん

ただ、そこから始まった休職期間の3か月は本当に、辛かった。

安心の次にやってきたのは、同期や同僚が頑張って働き続けている中で、自分だけが仕事を休んでいることの罪悪感と、申し訳なさ。

そして統合失調症の症状で、外に出ると、周りの人が自分を非難している声が聞こえてくるようになりました。怖くて、食料を買う以外は、最低限の外出しかしなくなっていきました。

昼間に起きていると、働いている同僚のことを考えてしまい不安になってしまう。そのため昼はカーテンを閉めて真っ暗な中で寝て過ごし、夜中に起きて、レンタルしてきたDVDを延々と見る。そんな毎日を送るようになります。

自分はもう二度と働けないのかもしれない。社会のなんの役に立っていない私が、生きていていのだろうか。

そう思うことも何度もありました。感情が溢れるときもあれば、なにも感じなくなるときもあって。2週間に1度くらいのペースで姉や、当時は彼女だった今の妻に京都の家まで来てもらい、生活の面倒を見てもらうこともありました。休職中のことはあまり鮮明に思い出せないのですが、姉いわく、夜中に急に起き出して泣き叫ぶことも少なくなかったそうです。

「辞めたい」という一言を口に出すまで

休職して3か月近くが経ち、仕事に復帰するか、辞めるか、選択をしなければならないタイミングがやってきます。しかし、そのときの私はもう、なにかを判断するという能力を失っていました。

休職生活の中で貯金もほとんどなくなっていたので、職場に復帰しないと生活することができない。かといって、職場に戻って仕事をまともにできる自信もない。仕事を続けることはできないとわかっていたにもかかわらず、どうしても上司に「辞める」の一言が言えずにいました。

【写真】キーボードを叩くくさかりさん

一度実家に帰ることになったある日、就活のときから関わってくれていたメンターが連絡をくれ、東京で会うことになりました。

もう辞めるよね?

当時の状況を打ち明けてすぐ、彼女は一言、そう聞いてくれました。

考える力も失い、ただ重圧だけを感じて自分だけの世界に閉じこもりかけていた私を、メンターのその一言が救い出してくれたのです。

はい、辞めたいです。

私は泣きながら、ようやく伝えることができました。

その気持ちを受け止めてくれた彼女は、こう言ってくれました。

あなたの感じている違和感は正しいから、何を感じているのか、何がそんなに不安にさせているのかをちゃんと会社に伝えたほうがいい

お客さんの本当の幸せにつながっているのか不安だったこと。現場が疲弊している中でビジネスを拡大し続けることに疑問を感じていたこと…ようやく、それまでうまく伝えられていなかった、仕事に対する違和感や不安を、言葉にして伝えることができたのです。

自分の不安を言葉にすることで、救われる人たちがいる

このころから、大学生時代にお世話になった何人かの方々に、電話で状況を伝え、相談するようになりました。

体の声をちゃんと聴いてあげること。どんな選択をしても、体が元気なら大丈夫。

大学時代に活動していたNGOの理事の1人はそう声をかけてくれ、彼のこの一言も、会社を辞める決心をする大きな勇気になりました。

退社後は、京都から神奈川の実家に戻ることが決まりました。そのとき私はFacebookでも、自分が心の病気にかかって仕事を辞めることになったことを投稿しています。すると、同じような状況に悩んでいる友達たちから10通以上のメッセージをもらいました。

【写真】くさかりさんがFace【写真】「こころの風邪、ってやつを、引いてしまいました」という文から始まる、くさかりさんがFacebookに投稿した文面

私も同じような状況だけど、打ち明けられずにいた。言葉にしてもらえて、悩んでいるのは自分だけじゃないんだと安心しました。

中にはそんなことも綴られていました。

この出来事から、たとえ不安や悩みといったマイナスと思われがちなものでも、感じていることを誰かが言葉にすることで救われる人たちがいるということ。違和感や不安を口に出せずに悩んでいる人たちが自分以外にもこんなにたくさんいて、思いを共有することは、打ち明けた本人にとっても救いになるんだということを、知りました。

Facebookの投稿がきっかけで、本当にありがたいことに、NGOや地域での活動でお世話になった方々から「仕事がしたかったらうちに来なよ」といくつか声をかけていただきました。

この頃の私は仕事を辞めたばかりで、これからどう生活していけばよいのかわかりませんでした。「次にまた働けなくなったら、今度こそ終わる」と不安に感じてしまい、正社員としてどこかの会社に入社することも、勇気が出ませんでした。

とにかく今は、いただいた仕事を断らずにできる限り受けよう。声をかけてくれる人がいるのなら、その人に全力で応えよう。それしかありませんでした。

【写真】川沿いに立ち、笑顔を見せるくさかりさん

その結果、複数の会社やNGO・NPOでアルバイトとして働きながら、個人としてもWEBサイト制作やコピーライトなどの仕事をするという働き方のスタイルに繋がっていきました。

そんな生活を続けて約1年半後のこと。ご縁が繋がり続け、症状もだいぶコントロールできるようになってきたことで、冒頭にお伝えしたとおり、再び会社員として働くことができるようになったのです。

今は会社員として仕事をしながら、お昼休みや平日夜の時間を使って、NGOでの活動や個人としての仕事も続けています。

今の自分を受け入れる。理解してくれる人たちと働く

私自身、会社で働くという生活に戻っていることに、驚いています。

ただ、「戻った」といっても、私の状況は以前とはだいぶ違います。

【写真】青空の下で、上を向いて笑うくさかりさん

今の職場で働き始めるときには、所属する予定の部署の上司と会わせてもらい、事前に症状のことを伝えることができました。そのおかげで、私の弱さを知り、助けてくれる人たちが部署内にいる中で、働き始めることができたのです。

社内で初めて一緒に仕事をする人にも、継続的な仕事になりそうなときは、必ず自分の病気のことをメールで伝えるようにしています。

具体的には、仕事が忙しくなりすぎるとストレスが溜まり、手の震えや軽いけいれん、不安症状が出てしまうこと。それにより通勤ラッシュの朝の時間帯に会社に出社することが困難になったり、メールソフトを開くことができなくなること。半日~1日経てば波が収まりまた通常通り、連絡や仕事ができるようになることなどを伝えています。

個人で受けているWEB制作の仕事も、そんな私の特性を理解していただいてから受けるようにしています。そのため急ぎの案件はなく、3か月以上かけてゆっくりと丁寧に制作していくものしかありません。

「甘えだ」「依存はよくない」と言う人もいるかもしれません。でも、症状が出てしまうことも含めて私だし、周りの力を借りないと仕事ができないのも、今の私です。だったら弱さを伝えて、力を借りながら仕事ができる環境をつくったほうがいい。そう思えるようになったことは、私にとって大きな変化でした。これは周りの環境が変化したというよりも、病気を経て、私自身の周りとの関わり方が変わったようにも思います。

「弱さ」を伝えることで、きっと誰かが助けてくれるはずだ

【写真】足元に目線を落として佇むくさかりさん

病気になったことや、会社を辞めることを、どうしてFacebookに書いて周りに伝えることができたんですか?

毎日仕事をできる状態にまで回復した今、休職していたころの私と同じような状況に苦しんでいる人たちに、そう聞かれることがあります。

小さいころからの自分を思い返してみても、決して私は思っていることをすぐに言葉にできる人ではありませんでした。反論できずにいじめられたこともあった。人前に出ることがこわかった。塾に行きたくないのに、母に言えずただ泣いていた。

そんな私が、「弱さ」とも捉えることができる“病気”のことを、さらけ出せるようになったのはなぜだろう。

伝えることで、きっと助けてくれるはずだ。

そう思わせてくれる方々が周りにたくさんいたからだと、今は思っています。

在職中、悩みをたくさん聞いてくれた店長。休職中の私を支えてくれた家族。退職の決断を後押ししてくれたメンターやNGOの先輩たち。東京に戻った私に仕事を与えてくれた人たち。私が病気になっても、仕事を辞めても、それまでとなんら変わらずに私と接してくれ、力になり続けてくれた人たちがいました。

弱さをさらけ出しても、変わらず周りに居続けてくれる人たちはいる。

病気のことも、これからの仕事のことも、周囲と相談すれば道が見つかる。

そう信じさせてくれる人たちがいたからこそ、人に自分の本当の気持ちを伝えることができたのだと思います。

【写真】川沿いの道に立つくさかりさん

私は今も、自分の精神状態を知ってもらうために、Facebook投稿を利用しています。

機能停止期間に入りそうです。連絡が取りづらいかもしれませんが、数日経てば戻るので連絡だけ入れておいてください。

こういった投稿をしておくことで、その後はメッセンジャーを開けなくても「言ったから大丈夫」と自分を安心させ、ゆっくり回復に専念することができています。

過去を受け止めて、今に向き合うこと

統合失調症の診断を受けてから4年が経ち、昨年まで月1~2回程度起きていた手の震えやけいれん、不安症状も、今はほとんど出ないようにまで回復しました。

そんな今、診断を受けた当時の仕事を振り返ると、あの頃とは違う考えも浮かびます。部署の業績や目標と、目の前のお客様の幸せを同時に叶える方法はいくらでもあっただろう。スタッフが疲弊しすぎることなくビジネスを拡大していく道も、今なら周りの人と一緒に考えられるかもしれない。そう感じています。

ただ当時の私には、能力的にも、精神状態的にも、それができなかった。

仕事をできない状態になったことで、当時の同僚や上司には本当にたくさんの心配と迷惑をかけてしまいました。辞める時も、業務の引き継ぎもまったくできない状態だったので、残された同僚はその後も大変だったことと思います。今でも本当に申し訳ないと思っています。

【写真】真剣な表情でパソコンに向かうくさかりさん

それでも、あのときに戻ってやり直すことはできないんです。私にできることは、そんな自分の弱さもしっかりと受け止め、今できることに丁寧に、1つずつ向き合っていくことかもしれない。

今、目の前の困っている人や苦しんでいる人の力になること。そしてなにより、私自身が健康に、人の力も借りながら生き生きと暮らし働き続ける姿を見せること。うまくいかないときもまだまだたくさんあるけれど、このことを大切にしながら日々、仕事や活動をしています。

誰かが弱さを見せることで、周りも安心して弱さをさらけ出すことができる

昨年のsoarのカンファレンスにも登壇されていた熊谷先生が「自立とは依存先を増やすこと」とおっしゃっていましたが、統合失調症を経験して、私も同じことを感じています。病気のことをオープンにできたことも、仕事を辞めて実家に帰ることを打ち明けられたことも、仕事以外の依存先がたくさんあったからこそ、できたことでした。

依存先を増やすにはどうすればいいのか。私には弱さを吐き出せる人が周りにいない。

そう思う方も多いと思います。でも、温かな依存の輪は、人づてに、リレーのように繋がっていくものだと私は感じています。

だれかが弱さを正直にさらけ出すことで、それを見た周りの人は、安心して弱さを吐き出せるようになると思うのです。私のFacebookの投稿を見てメッセージをくれた人たちがたくさんいたように。

【写真】満面の笑みを見せるくさかりさん

それが周囲に伝わり、だんだんと弱さを吐き出せる温かなコミュニティがその人たちの周りにできていく。その輪がいつか、少し離れたところで悩む人の手にも届いていく。そんなサイクルが回り始めると良いなと思います。

同じ境遇で悩む人たちに「自分だけではないんだ」と安心を与えたい

 「ツレがうつになりまして。」という映画で、終盤、主人公(宮﨑あおい)が、”ツレ”(堺雅人)がうつ病になったことについて母親と語るシーンがあります。

私最近思うんだ。ツレがうつ病になった原因じゃなくて、うつ病になった意味はなにかって。

私にとって、統合失調症を経験した意味はなんだろうと考えることがあります。統合失調症を経験し、依存できる人たちが周りにたくさんいる私だからこそ、自分の弱さを言葉にしてさらけ出すことができる。同じ境遇で悩む人たちに「自分だけではないんだ」と安心を与えることができる。だから私には、統合失調症になった意味がある。今ではそう思っています。

先日、私と同じように病気を経験して会社を辞め、今はフリーランスとして活躍している友人が結婚しました。

この中には、私が病気のころ以来、お会いできていなかった人もいます。そんな人たちにはどうか、今のこのハッピーな姿で、私についての記憶を上書きしてほしい。

彼女は式のあいさつでそう話していました。私も、元気になってからまだ会えていない、当時の同僚や上司に、同じ気持ちを抱いています。

この記事は、病気になったとき私を支えてくださったすべての皆さんへ、当時の状況と今の私のありのままの姿をお伝えする“手紙”の意味も込めて書きました。

この手紙がその人たちに届くこと。そしてもし叶うのであれば、日常の中で誰にも言えない不安や病気を抱えている人のもとにも届き、弱さを周りに打ち明けられる人が1人でも増えていく。いろんなところで温かい依存ができるコミュニティが増えていく。そんな幸せな連鎖が起きてくれたら、とても嬉しいです。

【写真】パソコンを前に、笑顔を見せるくさかりさん

(写真/馬場加奈子)