聴覚障害者は、音のない世界を生きる“プロフェッショナル”だ――。
これはぼくが大好きな言葉のひとつ。
ぼくの父は後天的な、母は先天的な聴覚障害者です。けれど、彼らはそのことで決して弱音を吐いたりしませんでした。“饒舌”なほどに手話でお喋りをし、いつも明るく笑っている。こちらの顔色を瞬時に読み取っては、そのとき抱えている悩みを見抜いてしまう。そして、言葉ではなく態度で、やさしく背中を押してくれる。その姿は、まさに音のない世界のプロフェッショナルです。
そんな彼らが生きる「音のない世界」を体験するイベントがあります。それが「ダイアログ・イン・サイレンス」です。
音のない世界を体験する「ダイアログ・イン・サイレンス」とは
「ダイアログ・イン・サイレンス」は2017年8月に日本で初開催されたイベント。昨年の開催では、約3500名もの参加者がいたそうです。
運営をする一般社団法人ダイアローグ・ジャパン・ソサエティは、1999年11月に「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」を初開催。同イベントは、完全に光が遮断された暗闇の中を探検するというもの。視覚以外の感覚を研ぎ澄まし、「見えない世界」を体験するという内容に多くの反響が寄せられ、これまでに約21万人が体験しました。
そして、この「ダイアログ・イン・サイレンス」は、いわば「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の“聴覚”版。参加者は無音の世界へと誘われ、音を必要としないさまざまなコミュニケーションを体験します。
そこでは音声会話はもちろん、手話の使用も禁止。“アテンド”と呼ばれる案内人に誘導されながら、表情やボディランゲージを駆使し、参加者同士で対話を重ねていくのです。
でも……本当にそんなことできるの?普段、音のある世界に生きる人たちからすれば、きっと不安なことだらけでしょう。
けれど、結論からいえば、そんな心配は杞憂でした。いったいそこにはどんな世界が広がっていたのか。未知の世界の一端をお届けしたいと思います!
聴覚障害者のスタッフが、イベントの案内人を務める
ある晴れた夏の日、ぼくら取材陣は「LUMINE 0 NEWoMan新宿 5F」にやって来ました。そう、「ダイアログ・イン・サイレンス」の会場です。
会場には同じ回に参加する他のメンバーたちの姿も。みんなそわそわしながら、これから足を踏み入れる未知の世界への好奇心が抑えられないようです。
やがて開場時間が迫ると、ひとりの女性がやってきました。
彼女の名前は「えみる」さん。今回、ぼくらのアテンドを務める、笑顔のかわいらしいスタッフさんです。聴覚障害のある彼女は、参加メンバーを集めて自己紹介をしてくれました。ニコニコ笑う彼女に、その場に少しだけ漂っていた緊張感が和らいでいくのを感じます……!
そして、いざ!音のない世界へ。
静寂だけが広がる世界で感じた、心もとなさ
まず通されたのは、「ようこそ静寂の世界へ」と名付けられた一室。ここでメンバーは全員「ヘッドセット」の装着を促されます。
恐る恐る装着してみると、想像以上に音が聞こえません。え、こんなに聞こえないの……!と不安になってしまい、思わず周囲を見渡してみると、他のメンバーも同様に不安そう。聞こえてくるのは、自分の心拍音だけ。こんなに音が遮断された状態で、本当にコミュニケーションなんてとれるのかな……。ぼくらの心配をよそに、えみるさんはイベントの趣旨を説明してくれます。
口元に人差し指を立てるえみるさん。これは「お喋り禁止」のサイン。えみるさんはこのように、表情と体全体を使って、ぼくたちにルールを解説してくれます。
不思議だったのは、えみるさんの言わんとしていることが、すんなりと理解できたこと。音声や手話を使わずとも、意思の疎通はできるんだ。開始早々その事実を肌で感じたぼくらは、ようやくここで音のない世界への恐怖心を薄めることができたように思います。
そして、えみるさんの指示に従って、会話に使用する「声帯」を一人ひとり預けていきます。粋な演出に、メンバーたちもちょっとだけリラックス。さあ、この先では、いったいなにがぼくらを待ち受けているのでしょうか…?
音声に頼らないコミュニケーションの難しさと楽しさ
この「ダイアログ・イン・サイレンス」では、参加者がグループを組み、それぞれに異なる“テーマ”が掲げられた部屋のなかで、音声に頼らない対話を体験します。
たとえば、こちらの「手のダンス」というテーマを掲げられた部屋では、手を使ったいわゆる“影絵遊び”を体験しました。
“キツネ”を作っては隣同士でじゃれ合ったり、両手を使って大きな“ハート”を表現したり。シンプルな手遊びですが、童心に返ったメンバーたちは、みな無邪気な笑顔を浮かべています。
最後には全員で手をつなぎ、大きな“太陽”を作り出しました。その瞬間、生まれた連帯感。メンバーはみな初対面同士ですが、ここで初めて“仲間意識”が芽生えたように思います。ぼくも隣の人と顔を見合わせて、思わず笑っちゃいました。
コミュニケーションとは、他者と他者をつなぐものである。この部屋では、そんな当たり前のことをあらためて実感させられました。
こちらの「サインで遊ぶ」という部屋では、より本格的なコミュニケーションにトライすることに。えみるさんから出されるお題に従って、“手の動き”だけでそれを表現します。
最初のお題は、「スポーツ」。メンバーそれぞれが、思い浮かんだスポーツを手だけで表現します。これは意外と簡単!想像力を働かせて、ほんの少し工夫するだけで、いろんなスポーツが手だけで表現できるんです。
その後は、ふたつのチームにわかれて、難易度の高いクイズに挑戦し、正解数を競うことに。
実は、これが超難問!最初のお題が簡単だったために「いけるいける!」と思っていたのですが、他のメンバーと顔を見合わせて、苦笑いする始末。う~ん、やっぱり手だけでなにかを表現するのって容易なことではないのかも。そう考えると、聴覚障害者が普段使っている“手話”のすごさが、身にしみて感じられます。
「ダイアログ・イン・サイレンス」では、他にもさまざまな趣向を凝らした部屋が用意されていました。ひとつ、またひとつと先へ進んでいくごとに、ぼくらに課せられるハードルが高くなっていき、メンバー同士でコミュニケーションを取ることが難しくなります。
けれど、とても印象的だったのが、それに反比例するかのように、みんなの笑顔が増えていったこと。
思いが伝わらないもどかしさを感じつつも、どうやって伝えればいいのかを探る。そして、それが伝わったときに訪れる喜び。あぁ……コミュニケーションの本質って、こういうことだよな。音のない世界に身をおいてみて初めて、ぼくらは他者と意思疎通することの難しさと、それ以上の喜びを感じることができたのです。
ぼくらは誰もが「未知の世界」に馴染むことができる
また、合間に挟まれたのが、「サインの廊下」。こちらには基本的な手話が解説されているパネルが並んでいます。
「こんにちは」「だいじょうぶ」「なに?」「おもしろい」「よい」「アイラブユー」……。どれも覚えておくと、聴覚障害のある人と最低限のコミュニケーションが図れる手話ばかり。
実際にえみるさんに教わりながら、メンバーは手話に触れます。きっとなかには、これが初めての手話体験だった人もいたはず。見よう見まねでえみるさんの手話をなぞるメンバーたち。その目はキラキラしていて、新しい言語に触れた喜びや発見に満ちているようでした。
そして、最後に通されたのは、「対話の部屋」。こちらで、ようやくヘッドセットを外すことが促されます。外した瞬間、耳に飛び込んでくる空調音や衣擦れの音、メンバーのささやき。ぼくらが普段生きている世界って、こんなにうるさいんだ……!
やっとイベントの冒頭でえみるさんに預けていた「声帯」が返され、ここからは発言も解禁に。それと同時に、手話のできるこずえさんも、えみるさんとぼくたち参加者をつなぐスタッフとして登場します。
こずえさん:こんにちは~!
元気よく挨拶をしてくださるこずえさん。けれど、突然音のある世界に引き戻されたぼくらは、うまく切り返せません。
こずえさん:みなさん、声を忘れちゃいましたか?
ここでようやく、笑い声がこぼれるものの、まだ若干の戸惑いが残ります。
先程までいた、音のない世界。そこでえみるさんに案内されながら、少しずつ音声言語以外のコミュニケーション方法を模索してきたぼくら。急に発言が解禁されても、なかなか思考が切り替えられません。なんだか不思議!
やがて、えみるさんから「今日のイベントで感じたことを教えてほしい」と、画用紙を渡されます。そこに思いの丈を綴っていくメンバーたち。
ぼくはえみるさんに、「音のない世界が怖かった」ということを伝えました。すると、えみるさんからは「怖いという気持ちは、その後もずっと続きましたか?」との質問が。
考えてみれば、怖かったのは最初だけ。すぐに慣れてしまい、音声言語を使わないコミュニケーションの楽しさを知ることができました。そう伝えると、えみるさんは嬉しそうに微笑みます。
他のメンバーとも積極的にコミュニケーションをとるえみるさん。音のない世界や聴覚障害者への純粋な疑問に、一つひとつ丁寧に答えてくれます。
今日という日を忘れないように、一冊の本に想いをしたためる
えみるさんとたくさん“対話”をしたことで満足しつつも、「これでイベントも終わりなんだ……」と少し寂しい気持ちになっていたぼくらを待ち受けていたのは、「新しい関わり」と題された広々とした空間。ここでぼくらは、カバーのかけられていない、真っ白な一冊の本を手渡されました。
それはこのイベントの感想や気づきを書き込むことができる、参加者それぞれにプレゼントされる世界にひとつだけの本です。
部屋を見渡してみると、小さなお子さんから年配の方まで、さまざまな人たちが、本になにかを書き込んでいます。
こちらはぼくと同じ回に参加していた親子。最初は不安そうだった少年も、最後にはこんな笑顔に。初めて触れた音のない世界がいかに楽しいものだったのか。彼の笑顔がそれを物語っています。
感想を書き込んだ本にはカバーをかけて、タイトルをつけます。それらが収められている本棚を見ると、参加者それぞれの思いがこめられた、印象的なタイトルばかりが。これらの本は、今日の日のことを忘れないようにと、時が満ちた頃、手元に届けられるそうです。
もちろん、ぼくもここで一冊の本を作らせてもらいました。
また、この本を書き終えた人たちは、先程よりもさらに積極的にえみるさんと交流を深めています。
なかには記念撮影をする人たちも。みんな、えみるさんの大ファンになってしまったようです。
障害の有無なんて関係なく、ぼくらはこうして友人になれる。彼女たちの笑顔を見たぼくは、胸が熱くなりました。
あくまでも“エンターテイメント”に昇華させたかった
聴覚障害者が生きる、音のない世界。それを伝えるためには、さまざまなアプローチが考えられます。彼らの不便さや苦労を丁寧に説明し、訴えかけることもできる。けれど、この「ダイアログ・イン・サイレンス」でのアプローチはまったく異なるもの。誰もが楽しめて、ワクワクできて、気がつけばその世界がどんなものか理解できている。そこにあるのはお説教臭さや小難しい話とは無縁の、エンターテイメント性豊かな世界です。
老若男女、誰もが楽しめて、聴覚障害者が生きる世界を理解できる本イベントは、どのようにして生まれたのか。どうしても気になったぼくは、広報を務める脇本ひかるさんのもとを訪ねました。
脇本さん:私たちは、「ダイアログ・イン・サイレンス」を“ソーシャルエンターテイメント”と呼んでいるんです。このイベントは、あくまでもエンターテイメントである、と。障害者の世界を疑似体験する、というと、どうしてもその困難さや苦しさにスポットが当たってしまいがち。でも、私たちは彼らが持つ文化と対等に出会うことで、私たちの世界がもっと楽しく豊かになる、ということを伝えたい。
「ダイアログ・イン・サイレンス」であれば、アテンドをするのはみんな聴覚障害のある人たちです。彼らは「音のない世界」を生きるプロフェッショナル。その魅力を感じてもらうことで、さまざまな文化を感じ交流することは、なんだか楽しく素敵なことなんだということを届けていきたいんです。
このイベントで大切にしているのは、「決して押し付けない」ということ。
脇本さん:私たちは明確なゴールや「これに気づいてくださいね」といった答えを用意しているわけではありません。エンターテイメントを通じて、障害のある人たちやその世界に触れフラットに、そして楽しみながら対話してもらうことで、自然と“気づき”が生まれると信じているんです。
その言葉通り、これまでの参加者からは数え切れないほどの感動の声が寄せられたといいます。
脇本さん:特に印象的だったのは、お子さんたちの反応です。それまで障害のある人に出会ったことがない子どもには、どうしても彼らに対する“恐怖心”や“戸惑い”があることも多いかと思います。けれど、この体験で出会うアテンドたちは、音のない世界の楽しみ方を教えてくれる、ただのお兄さん、お姉さん。それを知って安心した子どもたちは、アンケートにも「お兄さん、大好き」「お姉さん、また会おうね」って書いてくれたりもするんです。
本イベントで聴覚障害者についての理解を深めた子どもたちの心には、きっと“優しさ”が生まれているはず。この先、日常生活で障害のある人と出会ったとしても、臆することなく手を差し伸べることができるのではないでしょうか。
私たちは聞こえないだけで、“普通”なんです
このイベントの特徴は、実際に障害のある人たちがアテンドを務めていること。ぼくたちを案内してくれたえみるさんも、聴覚障害のある方です。
けれど、えみるさんはそれを感じさせないくらい饒舌で、面白くて、パワフルな女性でした。そのエネルギーはいったいどこから湧いてくるのだろう……?疑問に感じたぼくは、えみるさんにも声をかけてみることにしました。
えみるさんはご両親も聴覚障害のある、“デフファミリー”のひとりとして育ちました。だからこそ、えみるさんにとって、「聞こえない」ということは普通だったといいます。
そんなえみるさんが、「ダイアログ・イン・サイレンス」に参加しようと思ったのは、意外なことが理由だったそう。
えみるさん:実は、もともと人前に立つことが苦手で。高校まで通っていたろう学校では人前に立つ機会は何度かあったものの、なかなか慣れなくて、苦手意識が大きかったんです。でも、大学に入ってからは、同級生の人数も増えて、しかも、それまで関わりのなかった聴者の人たちと交流する機会も多くなった。そんなとき、コミュニケーションに自信が持てない自分に気づいたんです。それを克服したいと思っていた矢先に、このイベントのことを知って、もしかしたら変われるんじゃないかと思ってアテンド募集に応募しました。
「ダイアログ・イン・サイレンス」のアテンドとしてデビューするためには、数カ月間に及ぶトレーニングを経る必要があります。エンターテイナーとして参加者を楽しませるためのトレーニングは厳しいものではありますが、結果的に、「ダイアログ・イン・サイレンス」に参加したことで大きな変化があったと、えみるさんは笑います。
えみるさん:聴者の方とは筆談でコミュニケーションをとることが多いんですけど、それまでは相手の手元にあるノートを見つめっぱなしだったんです。でも、このイベントでアテンドを経験してからは、相手と目を合わせることを意識するようになりました。顔を見て、笑顔を浮かべてコミュニケーションをとる。それがいかに大切なのかを私自身も学ぶことができたんです。
そのなかで、さらに気づいたことがありました。
えみるさん:いろんな聴者の方と接するなかで、みんなが聴覚障害者にどんな疑問を持っているのかがわかったんです。たとえば、「どうやって言葉を覚えたんですか?」とか。みんな、本当に些細な疑問を抱いているんですよね。私たちのことを理解してもらうためには、まずそういった細かな疑問に答えていくことも大切なのかなって。何度も何度も説明をして、わかってもらう。そういった歩み寄りが必要なんだと気づきました。
「ダイアログ・イン・サイレンス」を通じ、「音のない世界」、そして聴覚障害者のことをもっと知ってもらいたいと話すえみるさん。その根底にあるのは、こんな想いです。
えみるさん:私たちは聞こえないというだけで、普通と変わらない。だからこそ、怖がらないで、もっと飛び込んできてもらいたいんです。聴覚障害者とのコミュニケーション手段は、手話以外にも筆談や口話など、たくさんあります。通じないことは決して怖いことではありません。このイベントを体験してくださった方ならわかるように、工夫をすれば通じ合うことはできるんです。
――私たちを怖がらないでもらいたい。
えみるさんのそんな言葉を聞いて、イベントに参加したメンバーの顔がよぎります。最初は不安そうな表情を浮かべていた人たちも、イベントが進むにつれて笑顔を取り戻していきました。それはまさにえみるさんが願っていたこと。「音のない世界」を体験することで、メンバー一人ひとりが、聴覚障害者に対するイメージを塗り替えていったのだと思います。
冒頭でも伝えた通り、聴覚障害者は音のない世界を生きる“プロフェッショナル”です。普段、音を頼りに生きているぼくらからすれば、まったく想像もつかないような工夫をしながら、彼らは生活をしています。
誤解を恐れずに言えば、そんな彼らが生きる世界は、“とても面白いもの”でした。音が聞こえなくたって、他者とコミュニケーションが図れる。人は工夫次第で、いくらでも豊かな生活を送ることができる。
この「ダイアログ・イン・サイレンス」は、そんなシンプルなことを教えてくれるイベントでした。
今日の日のことを、決して忘れたくない。そう感じたぼくは、この日の思い出を「母が生きる世界」と名付けました。この本には、えみるさんとの出会いや、「ダイアログ・イン・サイレンス」を通じて得た気づきを綴っています。
聴覚障害者が生きる世界は、「大変そう」や「かわいそう」なんかではなく、とてもワクワクする面白い世界なんだ。
それを忘れないように、ぼくは何度もこの本を読み返すつもりです。
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(写真/高橋健太郎)