「自分にしかできない仕事ってなんだろう」
社会人になって3年が経った今、そう考えては、ちょっとした焦りをおぼえることがあります。
やりたいことや、ちょっと得意なことはある。けれど、心から「これが自分だ」と言える何かにいつか出会えるのだろうか。
ぼんやりとした不安を抱えていた頃、「ろう者の俳優」として、テレビドラマや映画で活躍する忍足亜希子さんを知りました。
“自分にしかできない”を持つ彼女へのあこがれ
前例の少ないなか、耳の聴こえない俳優として活躍し、自らの居場所をつくった忍足さん。彼女にしかできない仕事によって輝く姿に、わたしは憧れと、少しばかりの羨ましさを抱きました。
強さの源を知りたい、少しでも近づきたい。
意気込んで迎えたインタビュー当日、わたしの前には優しく微笑む忍足さんがいました。想像していたよりもずっと柔らかな目にじっと見つめられ、想像以上に肩に力の入っていた自分に気づきます。
今日はろう者の俳優として活躍するまでの経験や、今の想いをお聞きしたいと思います。
わたしが緊張しながら口に出した言葉を手話に通訳してくださるのは、忍足さんの夫であり、自身も俳優として活躍されている三浦剛さん。
忍足さんが手話で表現した言葉を、そしてわたしたちが口に出した言葉を、一言ずつ丁寧に伝えてくれます。
これまで、ろう者の方にインタビューをすることも、会話をする経験もなかったせいか、お話しながら身振り手振りが不自然に派手になってしまいます。
そんなわたしの話をじっと頷きながら聞き、表情豊かに自己紹介をしてくださる忍足さん。こちらが話を聞く側なのに、忍足さんが一つ一つの言葉を受け止めてくれていると思えたおかげで、緊張が少しずつほぐれていきました。
“聴こえない”を意識していなかった幼少期
忍足さんは、日本ではじめてろう者の主演俳優としてデビューして以来、いくつものテレビドラマや映画に出演してきました。
子どものころは絵を描いたり竹馬で遊んだり、ドッジボールをしたりと、体を動かすのが大好きだったそうです。外遊びは好きだけど人前に出るのは少し苦手、「引っ込み思案で大人しい女の子」だったと振り返ります。
忍足さんの耳が聴こえていないと両親が気づいたのは、3歳か4歳のころでした。
忍足さん:何度も名前を呼んでいるのに返事がなくて病院に連れていったら、耳が聴こえていないとわかったそうです。家からはろう学校に通うのがむずかしかったので、4歳のときに家族で横浜に引っ越しました。当時は「聴こえていない」と意識することも、それが何を意味するのかもわからなくって。
両親も「耳が聴こえていない」という診断について、忍足さんに話すことはありませんでした。
忍足さん:ほかの子どもと同じように育ってほしいという想いがあったのだと思います。「聴こえないのではなく、人と違うだけ」という方針で、家でも口語(手話ではなく口の動きから意味を取り、声を出して会話すること)で会話をしていました。
幼稚部から通い始めたろう学校でも、先生や生徒とのコミュニケーションはすべて手話ではなく、口語でやりとりしました。当時は障害があっても「健常者と近づくべき」という考えが一般的だったからです。
手話が禁止の学校生活のなかでは、生徒しか知らない「オリジナルの手話」があったそう。
忍足さん:授業中も休み時間も手話は禁止でした。でも生徒同士だけで通じる手話がいくつかあったんです。例えばメガネの先生を表すために片手でメガネの形をつくったり、怒っている先生だったら鬼のツノを手で表したり(笑)
忍足さんは、笑顔を浮かべながら懐かしそうに教えてくれました。
家庭でも学校でも「聴こえないのではなく、人と違うだけ」。忍足さんはろう者であると意識することなく暮らしていました。
憧れの仕事との出会い、「できないよ」という大人の言葉
小学生の頃には、キャビンアテンダントへの憧れを抱くようになります。けれど、その夢を大人に伝えたとしても、返ってくる答えは忍足さんの背中を押しくれるものではありませんでした。
忍足さん:先生にはすぐ「それは無理じゃないかな」って言われました。なんで?と聞くと、「あなたは耳が聴こえないから、お客さん相手にコミュニケーションできるの?」って。確かにそうだなと思って、すぐに目指すのをやめてしまったんです。
キャビンアテンダントをあきらめた忍足さんですが、すぐに新しい憧れの仕事を見つけます。
忍足さん:絵を描くのが大好きだったので、「漫画家」になりたいと考えるようになりました。これならコミュニケーションが苦手でもできるはずだから。
でも先生に伝えたら「漫画家になるには勉強が必要だよ、言葉もたくさん勉強しなきゃいけないけどできるの?」って言われました。ろう者は耳から情報が得られない分、語彙を増やすのに時間がかかります。その頃は勉強も嫌いだったので、また同じように、諦めてしまったんです。
中学の頃にはもう夢を抱かなくなっていました。頭に「無理」という言葉がぶくぶくと浮かんでいるような。そんな気持ちでした。
当時の様子を明るく話し続けてくれましたが、その表情には少しだけ、悲しさが滲んでいます。
誰かに夢を話す度に「できないよ」と言われつづけたら、夢を持つことに自信を持てなくなってしまいそうです。
忍足さん:「できないよ」と言われても、当時はちょっともやもやするだけ。聴こえないから仕方ないよなって納得していたんです。
まっすぐに夢をみる気持ちが小さくなっていくにつれ、家庭や学校の外で「言葉が通じない」体験をすることも増えていきました。
忍足さん:家族で通ったアイスクリーム屋さんでの出来事は今でもよく覚えています。普段はお父さんが注文してくれたのですが、そのときは「好きなアイスを頼んできていいよ」と言われたんです。「やった!」と思って、お気に入りのシャーベットを注文しました。はっきり伝えたはずなのに、わたしの発した言葉を聞き取れないようでした。
何度も聞き返されて、「家庭や学校の外では言葉を聞き取ってもらえないんだ」って感じました。小学校高学年くらいから実感することが増えていったかな。ずっと練習してきたけれど、社会に出たらわたしの言葉は通じないんだなって。
耳が聴こえないことは、他の人と違うことなのかもしれない。その事実は、思春期の繊細な忍足さんの心にそっと影を落としました。
「助けてあげる」じゃなくて、「一緒に頑張ろう」
忍足さんは幼稚園から高校までをろう学校で過ごしました。小学校高学年での夢を応援してもらえなかった経験からずっと、「なりたい自分」を思い描くための自信は心からぽっかりと抜け落ちたまま。いつしか高校を卒業する時期が近づき、就職か大学進学かの選択を迫られます。
忍足さん:将来何をしたいかと聞かれても、何も頭に思い浮かびませんでした。当時の学力で就職したら大変だろうなと思い、大学進学を決めました。英語と国語の二科目で受験できる短大に絞って受験しました。
無事に合格した短大で、ろう者は忍足さんたった1人だけ。聴こえる人ばかりの環境に飛び込むことになります。家庭や学校の外で言葉の通じない体験を重ねていたこともあり、当時は「聴こえる人が苦手」でした。
けれど、自分から助けを求めなければいけない環境が、忍足さんに一歩踏み出す勇気をくれました。
忍足さん:ろう学校の頃は引っ込み思案な性格で、耳の聴こえる人に声をかけるのは苦手でした。でも、大学では話しかけないと授業もついていけません。覚悟を決め、優しそうな人、時間に余裕のあるそうな人を見極めて話しかけました。
胸をどきどきさせながら、思いきって言葉をかけてみる。すると、忍足さんが想像していた以上に協力してくれる人がいたのです。一緒にランチをしたり、同じサークルに参加したり。そのうちに、周りには気の置けない大切な友人が増えていきました。
忍足さん:授業では友達や教授に手伝ってもらうこともありましたが、一緒に頑張る仲間として接してくれた。「助けてあげる」じゃなくて「一緒に頑張ろうね」っていう態度でいてくれたので、自然と打ち解けられたんです。
「耳の聴こえる人」と「聴こえない人」の間の壁は、きっと忍足さんだけでなく、周囲の友人のなかにもあったはずです。最初は壁があったとしても、「助けてほしい」と伝えられたら、手を取り合うことができる。その先で、忍足さんは「助ける人」と「助けられる人」を超えた、繋がりを育んでいきました。
「耳の聴こえる人が苦手」と固まっていた想いが溶け、キャンパスを友人と軽やかに歩く忍足さんが目に浮かびます。
“社会人”として働く毎日、少しずつ生まれる違和感
充実した短大生活の後半、就職を控えた忍足さんは、再び「わたしは何をしたいのか」と向き合うことになりました。
忍足さん:ろう者には組み立て作業や流れ作業の仕事に就く人が多いんです。でも、わたしは毎日同じことを繰り返すのは苦手かもしれないと考え、事務の仕事を探していました。
そこで偶然見つけたのが、銀行の事務職です。勤務先も実家から近いし、障害
者枠でろう者も募集していました。何がしたいかは相変わらずわからなかった。でも「まあちょうどいいや」と思い、そのまま推薦で就職を決めました。就職先は短大と同じくろう者は一切いない環境。データ入力や書類作成など、慣れない事務作業を必死で覚える毎日でした。
筆談や口語で業務に必要なやり取りができたとしても、朝礼では部長が何を話しているかが理解できないなど、職場のコミュニケーションについていけない場面もあったそうです。
聴者の上司や同僚は助けようとしてくれましたが、「周囲に迷惑をかけている」という意識が、忍足さんの肩に重くのしかかっていました。
忍足さん:会社では何かあればすぐに謝って、常に神経を張り詰めて、周囲に気を遣っていました。忙しいのにごめんなさい、迷惑かけてすみませんって。みなさん優しい人たちでしたが、仕事が終わるとぐったりと疲れきってしまう。
短大と違って仕事は大変だなって思いました。でも、お金をもらう手段だから仕方ない。定年までは我慢するものなんだなって言い聞かせていました。
何とか1年が過ぎた頃、少しずつ忍足さんは仕事そのものにも物足りなさを感じるようになります。
忍足さん:できることは増えていましたが、ワンパターンな仕事に飽きてきました。その頃から少しずつ、「やりたいことを仕事にするのが大切なんじゃないか」って思い始めたんです。
でも忍足さんには、自分に何ができるのか、どこに向かえばいいのかが全くわかりません。振り返れば高校や大学卒業など、選択が必要な節目の度に、「何がしたいのか」という問いにぶつかってきました。
そして、その問いに向き合うために、忍足さんはあえて「選択をしない」という選択をします。
忍足さん:しばらく貯金をしてから辞めようと、一度自由になってから、何をしたいのか考えることにしたんです。それからちょうど5年後、25歳の7月31日ぴったりに仕事を辞めました。
仕事のことで一杯だった頭をリフレッシュし、「やりたい仕事は何だろう」と自問自答する日々。「日本を出て異国を自分の目で見てみたい」という想いが頭をよぎります。
忍足さん:当時の私にとって海外旅行はチャレンジで、少し不安もありました。でも「海外を体験してみたい」「外国の人と会話してみたい」というワクワクは止まらなかったんです。
仕事を辞めてから、仲の良い友人と一緒に、ハワイやオーストラリア、フィリピン、アラスカに旅へ行きました。とても楽しくって、何事もやってみなきゃわからないと改めて感じました。きっとそういう「チャレンジ」が、やりたい仕事に繋がるんだろうなって。
“人前で手話をしていいんだ”という驚き、そして喜び
仕事を辞めてからしばらく経った頃、忍足さんは友人の誘いで、テレビに出演することに。ちょうど銀行の仕事を辞める少し前、手話通訳士の女性から「手話の番組に興味がないか」と誘われていたのです。
忍足さん:番組の内容は、NHKの工作番組に出演していた「ノッポさん」と一緒に手話で歌を歌うというもの。幼い頃からテレビでノッポさんを観ていたので、ノッポさんと話したい、ぜひ行きたいと伝えました。
憧れのノッポさんと一緒にスタジオで手話ができた。忍足さんの心は驚きと、それ以上の喜びでいっぱいになりました。
忍足さん:昔は人前で手話をするのはよくないものと思っていたんです。手話に対するイメージが今よりよくなかったし、実際にからかわれたこともありました。
だからこそ、ろう者のわたしが出てもいいんだって、すごく不思議で、でも楽しかった。テレビや映画は耳が聴こえる人が出るもの、それが当たり前だって思い込んでいたから。
ノッポさんの隣で手話をしながら、大勢の人の前で手話をしてもいいんだ、手話ってこんなに楽しいんだって初めて思えました。
忍足さんの心には、手話ができる楽しさだけでなく、「自分だからできる仕事がある」という新鮮な喜びが満ちていきました。
忍足さん:手話が使えるからこそできる仕事があるということが嬉しくて。ずっと「ろう者のわたしでもできる仕事」を探していました。でも、「ろう者の私だからこそできる仕事もあるんだ」って気づけたんです。
収録が終わった後、またテレビの依頼が来たら絶対にやりたい。そう強く感じました。手話を社会に広げるお手伝いができたらいいなって。
「とにかくやってみたい」から、初めてのオーディションへ
ずっと探していた「本当に自分がやりたいこと」に、少しずつ近づいていく忍足さん。26歳のときには、ろう者の人物が登場する舞台作品『ちいさき神の、作りし子ら』のオーディションを受けることを決めました。
忍足さん:原作となったアメリカ映画を幼い頃にテレビで知り、「海外にはろう者の俳優さんがいるんだ、進んでいるな」と驚いたのを思い出したんです。元々人前に立つのは得意ではないし、演技経験もまったくありません。今でも「あの時なんで応募できたんだろう?」って不思議なんです。でもとにかくやってみたいという思いで、気づいたら行動していました。
思いきって挑戦した初めてのオーディション。でも残念ながら、二次選考で落選してしまいます。「うまくできなかったし、仕方ないよね」と言い聞かせていた矢先、新たなチャンスが訪れました。
忍足さん:ろう者と聴者の監督が共同で制作する映画のオーディションを、ろう者の友人から教えてもらったんです。ろう者の役者と聴者の役者の人数が同じくらい出演する作品と聴いて、面白そうだなって。
「面白そうだな」という純粋な興味とともに、忍足さんのなかには「もっとろう者の本当の姿を知ってほしい」という想いも芽生え始めていました。
忍足さん:ちょうどろう者のキャラクターが出演するドラマが日本で増えていた時期でした。嬉しい反面、なぜかみんな暗い性格なのが気になって。
わたしの周りにいるろう者の友達には、明るい人も面白い人もいる。なのになんでテレビのろう者は暗い人ばかりなんだろう?って思っていました。この作品なら、もっと自然な姿、リアルな生活が伝わる映画になるかもしれない。
テレビ収録の後に抱いた「手話を社会に広げたい」という小さな想いが、どんどん膨らんでいきました。「また依頼があったら…」と思っていたけれど、自分が関わりたい、という気持ちが強くなっていったんです。
オーディションで演じたのは子どもを抱きしめるシーン。本人いわく「とってもぎこちないハグ」を披露した忍足さんは、また落ちただろうなと半ば諦めていました。
残念だけど良い経験になったからいいやと気持ちを切り替えようとしたある日、忍足さんのもとに1通のファックスが届きます。
忍足さん:あれはちょうど家族でご飯を食べていたときでした。「きっとダメだね、落ちちゃったよね」ってみんなが話していて、わたしも「そうだよね」って笑いながらファックスを手に取りました。
すると目に飛び込んできたのは、「合格」という文字だったのです!
忍足さん:喜びよりも「え?!なんで?」という想いが先でした(笑)とっても嬉しかったけど、なんで合格したんだろうって不思議で。わたしだけでなく家族もみんなびっくりしていましたね。
思いがけず届いた「合格」の通知とともに、ここから忍足さんの新たな人生が開いていきます。
初めての出演作品、俳優という仕事のやりがい
出演が決まった作品の名前は、『アイ・ラブ・ユー』。聴者の父親と娘、ろう者の母親の物語です。平凡な3人家族と周囲の人々を通して、聴者とろう者のコミュニケーションにおける葛藤や、それを超えた先にある繋がりを描いています。
母親を演じた忍足さんにとって、本作は主演作でありデビュー作。毎日必死で撮影に臨みました。
忍足さん:ほとんど演技の経験はありませんでしたから、とにかく周囲の役者さんを真似して、見よう見まねで演技をしていました。
ろう者は表情が豊かだから役者に向いていると言われることがありますが、ちゃんと感情が伴わないと演技はできません。映画の撮影では物語の順番どおりに撮影が進むわけではないので、気持ちの準備が全然追いつかなかった。すぐに泣けるプロの役者さんは本当にすごいなと思いました。
銀行で働いていた頃と同じように、俳優の仕事にも大変なことはありました。けれど、忍足さんは、その大変さを超える、数えきれないワクワクに出会います。
忍足さん:俳優ってどんな夢も叶えられる素晴らしい仕事なんです。なりたかったキャビンアテンダントも漫画家も、学校の先生も、医者にだってなれる。仕事だけじゃなく、いろんな感情も体験できる。喜ぶ、怒る、泣く、笑う。人間の豊かな感情の動きを味わえる、本当に素敵な仕事です。
俳優の仕事を通して、次の世代に伝えたい“希望”
忍足さんは『アイ・ラブ・ユー』に出演して以降も、テレビやドラマに出演する数少ないろう者の俳優として、活動の幅を広げていきます。
聴者が圧倒的に多いエンターテイメント業界で、居場所をつくっていくのは簡単ではなかったはずです。
わたしがそう伝えると、忍足さんは「居場所」という言葉に少し首を傾げました。
忍足さん:ろう者の俳優としての居場所をつくろうと強く意識したことはないんです。それよりも周りの人と一緒に良い作品をつくりたいという気持ちで現場に参加しています。
コミュニケーションが大変なのでは?と聞かれますが、手話通訳の方がいてくれますし、簡単な挨拶はみんな積極的に覚えてくれることも多いんです。
だから、わたしにしかできない特別な何かをやってきたというより、作品に関わる一員として精一杯貢献しよう。そういった意識で作品に向き合ってきました。
「俳優」としてひとつひとつ経験を積み重ねていくなかで、忍足さんの「もっと多様なろう者のイメージを知ってもらいたい」という気持ちがより強くなっていきました。
忍足さん:昔に比べてろう者のキャラクターが出てくるドラマは増えてきました。けれど、ろう者の人が出てくるときって、聴者の人が演じているケースが多いし、ろう者の俳優の仕事って本当に少ないんです。
また、テレビドラマに出てくるろう者って若い人がほとんどだと思います。あとろう者の友達が出てくる作品は少ないですよね。もっと友達とおしゃべりしている場面があってもいいんじゃない?って思います。
ろう者のより自然な姿を社会に知ってもらうために、忍足さんは今後役者になりたい若いろう者をサポートしていきたいと話します。
忍足さん:ろう者が演技を学ぶ機会は少ないですし、役者として事務所に所属できるケースもほとんどないんです。でも活躍の場が広がれば、きっと変わっていくはず。そのためにわたしが俳優として活躍の幅を広げるだけでなく、演技ワークショップや事務所のような場づくりをしていきたいですね。
足りないところを補い合い、高め合う二人の関係
「ろう者の役者をサポートしたい」と力強く語る忍足さんに合わせ、通訳をしてくれた三浦さんの声にも、より一層力がこもっていくようでした。
言葉を介さずとも互いの想いを感じられる。そんな2人の関係について知りたくなり、少し隣に座ってお話をしてもらいました。
共演した舞台がきっかけで知り合ったという二人。今では通訳を務める三浦さんも、出会った当時はまったく手話を知らなかったそうです。
三浦さん:僕が彼女にひとめ惚れをして、必死で手話を勉強しました。舞台の休演日に初めてのデートに誘い、ランチを食べながら、覚えたばかりの手話で話しました。
手話は男性手話と女性手話で少しちがいがあります。僕は妻から手話を学んでいったので、初めの頃は“女性手話”を使っていたようです。
出会った頃を思い返しながら見つめ合う二人の間には、愛情だけではなく信頼でつながれている様子も伝わってきます。
ろう者と聴者の違いを踏まえて、日頃からコミュニケーションを工夫しているのかとたずねると、三浦さんは「まったくそういうのはないんですよ」と首を横に振ります。
三浦さん:たまに「耳が聴こえないと大変ですか?」と聞かれるのですが、特にそれで不便だと感じたこともないんです。お互いに得意不得意を補っているのは、多くの夫婦と同じだから。
忍足さんと三浦さんは2009年に結婚し、2年後に第一子を授かりました。家庭でも、仕事でも、2人は良きパートナー。仕事に対してはお互い真剣だからこそ、喧嘩になってしまうこともあるのだそう。
忍足さん:例えば私が「髪の毛を切ろうかな」と言ったら、イメージが変わってしまうから切らない方がいいと反対されました。そのときは「なんで?」と腹が立って、言い合いになりました(笑)
三浦さん:つい色々言いたくなってしまうのも、妻の「人に伝える力」を尊敬しているからです。妻には僕よりも才能があるし、ろう者の俳優としてたくさんの人に勇気を与えられる存在です。だからもっともっと頑張ってほしいし、その活躍をみたい。だからたまに嫌がられたとしても、今後も色々と言いつづけるんだと思います(笑)
忍足さん:応援してくれている気持ちは常に伝わります。「仕事がない」と弱音を吐きそうになったら、SNSやブログを頑張ろうよって提案してくれる。身近に応援してくれる人がいて、本当にありがたいなって思います。
もっと多くの子どもたちが、夢や目標を持てるように
三浦さんと支えあいながら、忍足さんは「自分だからできる仕事」を通して、一歩ずつ、やりたいことを形にしてきました。
そのなかで忍足さんは叶えたい“夢”を見つけました。ためらうことなく夢を語る様子は、「キャビンアテンダントになりたい」と話していた子どもの頃の姿と重なります。
忍足さん:以前ろう学校に講演に行ったんです。そしたら生徒の子たちから「僕も役者になれますか?」「私もなれますか?」と熱心に質問されました。そのときに夢ってすごく大切だなと感じたんです。
私は子どものころ「あれも無理、これも無理」と言われてきました。だからこそみんなに夢や目標を持ってほしい。「できない」と言われている子たちが、「できる」と信じられる希望になりたいんです。そのためにろう者の先駆者として夢を形にしていきたい。
わたしがインタビュー前に想像していた通り、忍足さんは、自らの切り拓く強さに溢れ、輝いている女性でした。
でも、その強さの源は、決して「何者かになりたい」という焦りではありません。「できない」にとらわれず「やってみたい」という心の声に耳を傾けること。時には周囲の助けを借りながら、できない自分を諦めず、前に進みつづけること。この積み重ねが、忍足さんに「できる」と信じる力、画面越しでも伝わる輝きを与えているのではないでしょうか。
ろう者の子どもたちに勇気を与えたい
そう繰り返し話していた忍足さん。まるで、夢を持てなかった幼い自分に、優しく語りかけているようにもみえました。
今の自分の仕事を通じて、過去のわたしに、そして同じような悩みを抱えている誰かに、何をしてあげられるだろうか。
忍足さんのように、やりたいことに全力で取り組みながら、たまには自分にそう問いかけてみようと思います。
きっとその問いを追いかけた先で、“わたしにしかできない仕事”と出会えるはずだから。
(写真/池田昌子)