【写真】街頭に立ち、笑顔のかないしゅんさん

こんにちは、金井駿です。

僕は父親がギャンブル依存症だったことがきっかけで、2017年4月に株式会社ヒューマンアルバ(以下アルバ)を設立し、依存症を抱える方々の回復支援事業を行っています。

今回は幼少期のことや父のこと、そしてアルバの事業についてお話したいと思います。

“素晴らしい”家庭で過ごした日々。新しいお父さんとの出会い

【写真】真摯な様子でインタビューに答えるかないしゅんさん

僕には3人の父親がいます。

1人目の血縁関係のある父とは8歳までを過ごしました。その後一緒に暮らした2人目の父親がギャンブル依存症になり、僕が18歳ぐらいのときに横領をして逮捕されて、母とは離婚。そのあとに3人目の父親が来ました。

1人目の父親と過ごした時期のことは、幼かったこともありあまり覚えていません。うっすら記憶しているのは、長男だったこともあり、男の子が生まれたことが嬉しいのか周囲からはよく褒められていたことです。

何不自由ない、“非常に素晴らしい”家庭にも見えていたであろう当時。でも実は裏側では、絶えず両親は喧嘩をしていました。

その後、母は1人目の父と離婚。しばらく母と会えない日々が続きました。当時の僕は小学1年生くらいだったので、「お母さんはどこ行っちゃったんだろう」みたいな。 泣いてたんですけど、一か月ぐらいしたら迎えに来てくれて。そのとき母は、“サングラスをかけた、いかつい男”と一緒でした。

今日からあなたのお父さんよ。

そんなことを言われて正直、「え、なんだこれ。ふざけるな」って思いました。でも母親に捨てられたら生きていけないので、ついていくしかないなと諦めたんです。

父の印象ははじめは“怖そうな人”でしたが、実際は“悪い父親”だったわけでもなく。小学4年生のとき僕がマラソン大会で1位になりたいと言ったら、毎朝練習を付き合ってくれたことも。実際そのおかげで1位が取れたので、すごく感謝もしていました。小学5年生くらいまでは、よく話もして遊んだりもしていたんです。

ある日突然、父が逮捕された

ただこのくらいの頃から、父と母の喧嘩の度合いがヒートアップしはじめます。お金の話もよくしていて、母のお金がなくなっていることがあったりしました。子どもながらに両親の関係や、父の人格が少しずつ変わっていく様子に、心配をする日々。

少しずつ僕も父と一緒に過ごす時間は減っていきましたが、この頃はそれでも“普通の家のお父さん”という感じで、なにか大事を起こすような感じもありませんでした。

【写真】身振り手振りを交えてインタビューに答えるかないしゅんさん

でも、僕が14歳くらいになる頃に、父はパチンコや競馬が止まらなくなり、借金までするようになってしまったんです。そこからも浪費は止まらず、借金はどんどん膨れ上がっていきました。

母との喧嘩もさらに激しいものになり、学校から家に帰ってくると強盗が入ったかのように荒れている日もあったほど。受験期だったこともあり、「勘弁してくれよ 」といった気持ち、悲しみや辛さを感じていたと思います。

実は僕自身、この頃学校では、いわゆる“素行不良”で、先生から嫌われている中学生でした。校内では“悪い奴”だとレッテルを貼られているようにも感じていましたし、おそらく家庭でのストレスを学校でぶつけていたため、先生に悪態をつくしかなかったのでしょう。

当時はストレスの原因を自覚できていなかったので、ただ「イライラするな」とだけ思っていましたが…。誰にも理解されない無念さや、理由もわからず不安定な気持ちに押しつぶされそうになる、苦しさみたいなものを抱えていたことは覚えています。

とにかく家にも帰りたくないので、なるべくずっと友達と一緒に遊んで時間を過ごす、そんな生活を送っていました。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるかないしゅんさん

そんな中で、気づけば最初は「心配」だった父への思いも、徐々に「恨み」や「憎しみ」に変わっていきました。

父が何かしてきたら、自分が家族を守らなくてはならない。

長男でもありますし、11歳離れた妹や母を守らなければという気持ちから、そんなことを考えるようにもなります。僕はサッカー部でしたが、わざわざ野球に使う金属バッドを用意していて、玄関に置いていたほどでした。父が何かしてきたときのために、と。

なんとか日常を送り続けて、高校卒業を控えたある日のこと。大学が決まって引っ越し作業をしていた時に、電話がかかってきます。

父が逮捕された。

突然受けたその知らせは、返せない借金が増え続け、父が横領をして捕まってしまったという事実でした。

父の逮捕を聞いても、ショックも、安心もなかった

そうなんだ。そりゃそうだろ。

電話で話を聞いた瞬間は、そんなことが浮かんだように思います。ショックなどはなく、だからといって安心でもなく、「執行猶予で出所となればまた以前のように戻るだろうな」とすら思っていました。

この頃、「父=嫌なやつ」のようになっていたので、「ざまあみろ」じゃないですけど、“嫌なやつが追い込まれる瞬間”のような気持ちもありました。

【写真】穏やかな表情で話すかないしゅんさん

でも、父が“嫌なやつ”になってしまっていたのは、人格がどんどんと変わってしまったのは、本当は病気だったからなんですよね。今思えばわかるんですけど当時はもちろん気づけませんでした。

逮捕後は、事務的な手続きなどは母親と一緒に対応。実刑ではないので、面会で会いに行くことはできましたが、どうしても会いたくなかったので僕は行きませんでした。

この頃は大学進学の時期だったこともあり、環境が変化する中で父とのことも淡々と進んでいったような感じで、僕は上京して新しい生活をスタートさせました。直後に母とも離婚をしたので、それっきり父親には会っていません。

母から頼られている気もしていたし、母を守りたかった

【写真】はにかんだ表情で質問に答えるかないしゅんさん

逮捕前後も今も、母とはずっと仲良くやってきています。母は昔から父の愚痴などをオープンに僕に話してくれていました。だから僕は母から頼られている気もしていたし、母を守らなくてはと思い続けていました。でも今思うと、それがしんどい時期もあったように思います。

当時は父親との関係が上手くいっていない様子を見ながら心配な気持ちとともに、呆れに近い気持ちもありました。パチンコをしていて妹の保育園のお迎えをすっぽかして、夜遅くまで妹に寂しい思いをさせていたこと。お金のために母が大切にしていたアクセサリーなども全て勝手に売りさばいてしまったことなど、父がしてきたひどいことを僕はたくさん見てきていたんです。

もう別れろよ。

何度も母にそう伝えましたが、いくら言っても母には響かない。愚痴は言うけれど、行動に移すことはしませんでした。

何度言っても無駄なのだと、だんだんとわかってきてからは、積極的に関与しても虚しさを感じましたね。母はただ聞いて欲しくて話していたこともあったのだと思いますが、僕はなんとか母を助けたいという思いがあった。母親のことは好きですけど、何も響かないからどうしようもないじゃないかと、諦めのような気持ちも同時にありました。

別れればいいのだと、母もわかっている。それでも別れられなかったんだと思います。今思うと、共依存のようなところもあったのかもしれません。

「人生をかけてやりたいこと」を考え続けて

今のように依存症の人を支援する事業がしたいと思うようになったのは、大学を卒業するときのこと。

経営者になりたいというのは高校2年生の頃から考えていたことでもありました。正直当時は、経営者=かっこいいというイメージがあったので、「モテたい」とか「注目を集めたい」という思いもあったんですよね(笑)

【写真】街頭で清々しい表情のかないしゅんさん

あとは、震災があったときなどに、孫正義さんなど経営者の方が巨額の寄付をした、とテレビで取り上げられるのをみてかっこいいと驚いたんです。個人資産で数億円の寄付を気兼ねなくしてしまうことって、資産がなければもちろんできないことなので、見ている世界が田舎の高校生だった僕とは全然違うのだと感じて。勉強がつまらないからと経営本を読んでみたら、さらに思いは募っていきました。

父親と反対側にいきたい。父親みたいになりたくない。成功者になりたい。

今思うと、そんな気持ちもあったのだと思います。経営者や、社会に貢献している人たちは依存症で犯罪者である父と対照的に見えたんです。

その思いを原動力に、大学生になってからは経営コンサルティング会社やIT企業でインターンを経験。しかし当たり前ですが、企業としてお金を追いかけ続けなければならないことに学生ながらに直面したことで、ひどく疲弊してしまいます。

【写真】川を背景に真剣な表情のかないしゅんさん

将来は何になりたい?人生をかけてなにがやりたい?

インターンで経験した人事の仕事で、面接をするときに投げかけた質問。就職活動で面接をされるときに、逆に僕が直面しました。

自分だからこそやるべきこと、一生をかけて実現したいことは何か?

大学4年生の時に1年間ずっと考え続けました。自己分析を繰り返したり、川辺でぼんやりと考えごとをしたり。そうして一番幸せにしたい人たちや、そのためのあるべき姿を考えた時にたどり着いたのが、「犯罪被害者を守りたい」「犯罪のない世界を創りたい」といった思いでした。やっぱり父親のこともあって、ソーシャルな領域が自分とは切っても切り離せなかったのだと思います。

アルコール・ギャンブル依存症者の方の、治療や就労支援を行う民間施設「アルバ」をはじめる

【写真】アルバの資料の写真。アルバの回復プログラムのステップや、サービス概要について書かれている。

大学卒業後はIT系の企業にて業務委託で仕事をしながら、空いた時間で出所者の就職支援に関わりました。その後2017年春に独立し「ヒューマンアルバ」を立ち上げ。

アルバはアルコール依存症、ギャンブル依存症の方を中心に、治療や就労支援を行うための民間施設です。利用者さんは通いで利用する方と、アルバが手配する家に入寮している方がいます。寮といっても一人につきワンルームを借りて、自由に過ごしてもらっているので一人暮らしをしているのに近いです。

日中は活動拠点に集まってもらい、トレーナーとともに回復に向けて、ワークブックを使用したプログラムを実施。また依存症の方は体力が落ちている場合も多いことから、週に1回ジムに行って体を鍛えることも推奨しています。

トレーナーは当事者が多く、自身も過去に苦しんだ経験がある人たち。「自分も苦しんだんだよ、仲間なんだよ」といった姿勢で寄り添い、利用者さんとの間に絆が生まれているようにも見えます。ワークの中では自分自身と向き合う必要があるため、ものすごく色々なことを話すのですが、当事者だったからこそ心が開きやすいということもあるかもしれません。

プログラム中は大抵は和やかな雰囲気で、「がははは」と笑い声がよく聞こえてきます。利用者さんはもちろんトレーナーも、武勇伝のように自分のめちゃくちゃなストーリーを開示し合って、笑って話しているんですよね。

依存症がある時、人によっては常にイライラが止まらなかったり、生きづらさを感じて不安が続いているということも少なくありません。そこでいきなりプログラムを持ち出して、目標や回復という話をしても、急には受け入れられないですよね。だからもちろんいきなりプログラムをやれば良いのではなく、アルバではまず、イライラや不安を取り除いていくことに焦点を当て、利用者さんと向き合うことに時間を使ったりもしています。

【写真】外でインタビューに答えるかないしゅんさん

利用者の方は病院や医療機関からの紹介や、webからの問い合わせをきっかけにアルバにたどりつく方が多いです。家族が問い合わせをしてくれることがほとんどで、ご本人が自分でいらっしゃる場合は1割くらいでしょうか。そのためご家族も気にかけてくれながら、アルバに通いはじめる方が多いです。

利用者の方々の回復の過程は一人一人様々ではありますが、トレーナーをはじめとする仲間との出会いや、日々のプログラムで自分自身や過去と向き合うことを経て、飲酒やギャンブルなどの行為が不要になった方も少なくありません。

まだまだはじまったばかりの事業ですが、僕は回復することに絶対的な解はないと思っています。まずは利用者の方の辛い状況を、少しでも変えていくことからお手伝いしたいです。利用者さんがマイナス10の状態だと感じているならば、プラスマイナスゼロの状態に持っていくというか。そこから一緒に将来のことを考えましょう、という姿勢で接していきたいです。

父に必要だったのは、「裁き」ではなく「治療」だった

父親の逮捕は、僕の人生の中でもダントツ衝撃的な出来事でした。ずっと恨んでいた父親の、突然の逮捕。僕は「犯罪者」として父を嫌い続けていましたし、それっきりの関係になってしまいました。

でも今は依存症のことを知って、“父が悪かった”のではなく“病気のせいでもあった”のだと理解できるようになりました。僕の意識として父が、“犯罪者から病気の人”に変化しました。そして必要なのは、裁きではなく治療だったと気づいたのです。

けっして父親だけが悪者なわけではなかった。父を取り巻く環境や、様々な要因が作用して病気へと繋がってしまい、父自身もそれに苦しんでいたのだと思います。これはアルバを利用してくださる方と接する中で、改めて体感したことでもあります。

今できるならばあの頃の自分に「依存症」の存在を伝えたい。当時は認知すらなかったので対策の打ちようがなかったのです。

【写真】アルバの資料の写真。「一人や家族だけで悩まないで。私たちは依存症からの回復をサポートします。」と書かれている。

そして依存症の家族は、僕がそうだったように辛い時間を長い間過ごしている方も少なくありません。だからこそ依存症の人を適切に支援することで、家族の人を救いたいという思いもあります。

犯罪被害者を守りたいからこそ、加害者の支援が必要

【写真】街頭で座り、笑顔でどこかをみつめるかないしゅんさん

父親のことがきっかけではじめた事業ではありますが、その軸にはこの道を志した時に抱いた「犯罪のない世界を創りたい」「犯罪被害者を守りたい」というビジョンがあります。

そのためには被害者の直接的支援という仕事もありますが、僕はまずはアルバを通して加害者を支援することで、再犯の未然防止につなげていきたいのです。

僕自身父とは距離を置いてしまいましたが、加害者のことを除外したり、なかったようにすることはできません。ではどうしたら良いだろう。そう考えたときに、犯罪の再犯率の高さからみても、彼ら加害者の人たちにも幸せになってもらわないと、本当の意味での防止にならないのではと思いました。

一方それで終わりたくないという思いもあります。やはり被害者の方へ寄り添い続ける事にも関わりたい。一生で一度も犯罪をしない、関わらない、本当の意味での予防をやっていきたいと思っています。

まずはその第一歩のためのアルバの事業に力を注いでいます。回復のために必要なのは、夢がある、仲間がいる、物理的に帰れる場所があるということ。アルバを通してこれらを提供していきます。

仕事を通してかつての父を受け入れ、癒されている

父親みたいになりたくない。反対側に行きたい。

もともとはそう思って選んだ今の生き方ですが、僕自身も依存症の方と向き合うという仕事を通して、昔の父親を受け入れ、癒されながら働いているようにも思います。

実はアルバを始めるとき、ふと父親に連絡をしてみたことがあったんです。だけど電話番号が変わってしまったのか繋りませんでした。今はまだ、どこかにいる父親のことをたまに考える程度ですが、いつか父親と会いたいと心から思う日がくるのだろうなと、なんとなく考えています。

【写真】笑顔でインタビューに答えるかないしゅんさん

もしこの記事を読まれている方で、依存症に苦しんでいる本人、ご家族・周囲の方がいらっしゃったら、気が重いかもしれませんが、ご相談ください。

一生このままなんじゃないか。

憂鬱な気分にどうしてもなってしまいますが、依存症からの回復は可能です。そのお手伝いができたら嬉しいです。

僕自身、自分の経験と向き合いながら「依存症になっても、誰もが回復して心地よく生きられる」仕組みづくりを、人生をかけて実現していきたいと思います。

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