過去は変えられない。
それは当たり前のことだけれど、とても残酷なことのように思います。犯してしまった失敗や、思い出すことがつらいほどのできごとも消すことはできません。
でも、そんな過去を抱きながらも、より良く生きていく方法があるのではないか…。だって過去は変えられなくても、自分自身や未来は変えることができるはずなのだから。
けれど私自身、変わりたくても変われない自分に嫌気が差すことがありました。だから今回、変えられない過去と向き合い、自分や未来を変えるヒントをもらうために、中村すえこさんのお話を聞きに行くことにしたのです。
中村さんは少年院出院者をサポートする団体「NPO法人セカンドチャンス!」(以下セカンドチャンス!)に所属しながら、さまざまな活動を行なっています。
毎日バイクでの暴走と暴力に明け暮れ、15歳のときにはレディースの総長にまでなった中村さん。その後傷害事件を起こして少年院へ送致されます。でも今は、少年院出院者を支える立場。
そんな中村さんのこれまでの人生を紐解くため、子ども時代にまで遡ってじっくりとお話を聞くことにしました。
夜の時間を一人で…。それは小学校6年生の頃から
私たちを人懐こい笑顔で迎えてくれた中村さんは、まずはご自身の生い立ちから話してくれました。
「すえこ」という名前の由来は、末っ子。中村さんは4人姉妹の4女として生まれました。
中村さん:適当に付けられたような気がして、この名前が嫌いでした。姉たちに比べると極端に子どもの頃の写真も少なかったし、私は大切にされていないと子どもながらに感じていましたね。
あまり裕福ではない家庭で育ったという中村さん。六畳と四畳半の2つの部屋に家族6人で住んでいたため、友達を家に呼ぶこともできませんでした。
家庭では、お父さんがお母さんに暴力をふるうこともありました。決してその暴力が中村さんたち姉妹に向くことはありませんでしたが、お父さんの怒りのスイッチが入らないよう、食事やテレビ鑑賞など、“家族団欒”と言われるような時間でもどこかピリピリとした空気が流れていたのです。
中村さん:父は働かず、母が働きに出ていました。そんなことからも“自慢できるお父さん”ではないなとはずっと感じていました。その後、母が働くお店を父が手伝うことになって、夜のあいだ両親が不在という状況になったんです。
それが小学校3年生のとき。その時点で上のお姉さん2人は結婚して家を出ていたので、中村さんは4歳上の3番目のお姉さんと夜を過ごしていました。しかし数年後にはお姉さんも高校生になり、アルバイトを開始。中村さんは夜をたった一人で過ごすことになりました。
はじめの頃は、厳しいお父さんがいないことや、自由に遅くまでテレビを見られることが嬉しくて、気ままに楽しく夜の時間を過ごしていたといいます。
でも、そのとき中村さんはまだ小学6年生。体調が悪くて誰かに側にいてほしいときも、台風で家がミシミシと音を立てるような怖い夜も、誰にも頼れず一人で夜の時間が過ぎるのを待つしかありませんでした。
中村さん:今あの頃の気持ちを言葉にするなら「寂しい」と言えます。でもあの頃はこの感情が「寂しい」のだと分からなかったんです。だから、それを表現することもできませんでした。
やっと手に入れた自分らしくいられる場所。それは、女性だけで構成される暴走族“レディース”
寂しい気持ちを胸に抱いたまま、中学生になった中村さん。ですが、新たな友達との出会いで、夜の過ごし方も少しずつ変わっていきます。
中村さん:学校では気づけばいわゆる不良グループと言われるようなグループの一人になっていました。意識したわけではなく、気が合ったのがそういう子たちだったんです。今思い返すと放課後寂しい時間を過ごしているなどの共通点があったような気がします。よその学校の同じようなグループの子たちとも仲良くなってどんどん世界が広がっていきました。
その頃、中村さんが憧れていたものがありました。それが特攻服に身を包んだ“レディース”の姿だったのです。レディースとは、女性だけで構成される暴走族のこと。まわりの女の子たちがアイドルなどに憧れるのと同じような気持ちで、深夜テレビに時折登場するレディースに惹かれていったのだと中村さんは話します。
新しくできるレディースの見学に行かない?
先輩からのこんな誘いに飛びついた中村さん。見学に行ってすぐにメンバーになることを希望しましたが、レディースに入れるのは高校生から。まだ中学生だった中村さんにはその資格がありませんでした。
でも、どうしても入りたい。
そんな中村さんに提示された条件は「対面式」でした。対面式とは、メンバー全員からぶたれるというもの。それに耐えて立っていられたら、中村さんを仲間として迎え入れるというのです。
結果、中村さんはそれを耐え抜き、レディースの最年少メンバーに。中学二年生で憧れの特攻服に身を包みました。
中村さん:レディースに入って一番の変化は、夜の時間を一人で過ごすことがなくなったことです。他のメンバーたちも夜を寂しく、つまらなく過ごしていた子たちばかりだったように思います。
誰かが家出をすれば朝まで一緒にいたり、失恋した人がいればみんなでカラオケに行ったりと、それは中村さんにとってとても楽しい時間でした。日課は、自分たち以外の不良の存在は許さないと駅の見回りをする「駅番」。当時不良の象徴だった、長いスカートや茶髪の高校生を見つけると「そんな格好をしてこのあたりをうろつくんじゃない!」と声をかけて、喧嘩になることもありました。
中村さん:家でも学校でも自分の居場所が見つけられなかった私が、ようやく居心地良い場所や絆を手に入れられたと感じました。頼れるお姉さんや私のことを思って怒ってくれる仲間がそこにいたんです。
ほかのメンバーから妹のようにかわいがられていた中村さんも時が過ぎれば、年長者に。高校一年生のときには、レディースのトップ、総長の座にのぼりつめます。
中村さん:それまではただ居心地が良くて楽しい場所だったのですが、総長になってからは、リーダーとしての責任感やこのチームをもっと大きくしたいという野望のようなものが私のなかに生まれました。
レディース同士の“潰し合い”が傷害事件に。総長だった中村さんは少年院へ送致
高校1年生だった中村さんが初めて抱いた野望。それがその後の中村さんの人生を大きく変えることになりました。
中村さんたちレディースは、自分のチームを大きくするために「潰し合い」を決行。ほかのレディースチームと暴力によって優劣をつけ、自分のチームを大きくしていくのが「潰し合い」です。そして、それは頻繁に行われるようになりました。
でもある日、潰し合いで相手チームの一人が大きな怪我を負ってしまいます。それが傷害事件となり、チームの総長であった中村さんは逮捕されることになったのです。
そして、審判を受けた中村さんは少年院送致となりました。
少年院に入る前、「しばらく家に帰れないんだな」と思うと、涙がこみ上げてきたといいます。それまで、何日も家を空けてお母さんに会わない日が続くことも多かったのに、そのときはお母さんに会えなくなることがどうにも悲しかったのです。
何より中村さんの胸を締め付けたのは、審判のときにお母さんが泣いている姿を見たことでした。あの涙は私が流させているのだ、と。
中村さん:でも、当時のレディースがなくてはならない場所で、そこにいるのは大切な仲間だという意識は変わることがありませんでした。だって、そこはようやく見つけた誰にも壊されたくない居場所だったから。
この思いがあったからこそ、少年院に送致されるときには「チームの看板を背負っているのだから、舐められてはいけない」という、強気な気持ちにすらなっていました。
素直な気持ちで過ごした少年院での時間。それでも消えることのない、仲間たちへの想い
一刻も早く出院してレディースに戻りたい。
そんな気持ちで少年院に入った中村さんは、“本当に反省している人はどんな行動をするのだろう” “模範的な反省の言葉はどんなものだろう”ということを常に考えながら生活をしていました。それは、反省している自分の姿を見せて、少年院を出院し、1日でも早くレディースに戻るため。「反省しているように見せられればいい」という本当の意味での反省とは違ったものでした。
中村さん:その反面、少年院では素直な気持ちでいられたという記憶もあるんです。それまでは暴力で一番を決める世界にいたけれど、みんな平等な環境がそこにはあったんですね。
全寮制の学校のイメージに近いという少年院での生活。ただ違うのは、授業がなく、代わりに作業が課されるということ。手芸や洋裁、農芸などの科に別れてそれぞれが作業を行います。中村さんは、レース編みなどをする洋裁科で作業の時間を過ごしました。
また少年院には、運動会やエアロビ大会に向けて一致団結して頑張る“普通の少女”たちの姿がありました。
誰かの家族が面会に来ると「おめでとう!」と言い合って家族との再会をみんなで喜び合うことも。少年院での生活でなにより楽しみだったのが、家族の面会でした。自分の家族が面会に来てくれることはもちろん、ほかの誰かの家族が面会に来たときもそれを心から喜ぶことができたのです。
中村さん:私の家族は月に一度の面会には必ず来てくれました。そのうちのほとんどは家族全員で。当時姉たちは家を出ていましたし、両親もその頃別居していたので、家族全員が揃っていたのは、少年院の面会室くらいだったと思います。姉たちは手紙や写真も送ってくれて、感謝の気持ちしかなかったです。
中村さんが少年院で生活をしたのは1年間。お話を聞いていると、少年院出院前には見えていなかった家族の絆を感じ、少しずつ更生しているように感じました。それでも、心のなかからレディースやその仲間たちを想う気持ちが消えることはありませんでした。
居場所と仲間、親友を失い、残ったのは自分では癒すことのできない喪失感
1年間におよぶ少年院での生活を終えた出院の日、家族は面会のときと同じように、全員で中村さんを迎えにきてくれました。家族と離れたことで、そして離れているあいだに家族が愛情を向け続けてくれたことで、中村さんの家族を想う気持ちは少年院出院前とは全く違っていたのです。
中村さん:私の親はどちらかというと放任主義だったんですね。それは私が愛されていないからなんじゃないかと思っていたんです。でも少年院に入って、家族と離れたからこそ、その間のやりとりで親や家族にきちんと愛されているんだなと感じられたことは大きかったです。出院の日にも改めてそう思いました。
中村さんがレディースに戻ったのは、少年院出院から2、3日後のこと。でも、そこに思い描いていたような居場所や仲間たちの存在はありませんでした。
お前なんか、総長でもなければ、友達でもない。
これは、レディースの副総長で、一番の相棒だと思っていた仲間から言われた言葉。1年間の不在のあいだに、中村さんは「反逆者」のように仕立てられていました。あんなにも強く想っていたレディースの仲間から突きつけられたのは、破門という予想もしていなかった現実だったのです。
レディースを抜けるには、リンチを受けないといけないという決まりがありました。それまで暴力で人を押さえつける立場だった中村さん。そこで初めて暴力の恐ろしさに気が付きました。
中村さん:あのときの私には、喪失感しかありませんでした。だって、レディースという唯一の居場所も、親友も、何もかも失ってしまったのですから。
まわりの同年代の女の子たちがどんなふうに毎日を過ごしているのか、当時の中村さんには想像もつきませんでした。心に空いた喪失感を埋めることもできず、これからどう生きていいのかがわからなかったのです。
そうして、誘われるがままに手を出したのが覚せい剤。仲間に見捨てられたのも、親友に裏切られたのも、どこにも居場所がないのも、自分が悪い人間だからだ。もう生きていても仕方ない…。中村さんは自暴自棄になっていました。
中村さん:覚せい剤に手を出した人の多くがそう言うように、私もすぐにやめられると思っていました。でも中毒になってしまって、毎日打つように…。もうすべてがどうでもいいやという気持ちだったのだと思います。でも、覚せい剤の使用が明るみになり、また逮捕されてしまったんです。
二度目の逮捕。それは少年院を出院してからたった半年後のことでした。
母の言葉で、「変わりたい」初めて心からそう思うように
留置所に面会に来たお母さんの顔を見たときに、中村さんははっとしました。普段あまり感情を表に出すことがないお母さんの表情にあったのは、明らかに“怒り”だったのです。
覚せい剤に手を出してしまったということに対しての怒りもあったでしょう。でも、中村さんのお母さんが怒りをあらわにしていた理由はそれだけではありませんでした。
中村さん:そのとき、実は私、妊娠していたんです。
妊娠が分かったのは、留置所に入っているときでした。度重なる嘔吐は、覚せい剤の離脱症状だと思っていましたが、そうではなく、妊娠によるつわりの症状だったのです。
中村さん:母が怒りながら「お腹にある命は、お母さんであるお前にしか守れなかったんだよ」と言ったんです。その後留置所に戻って一人になった私には、“とんでもないことをしてしまった”という想いが襲いかかってきました。私にしか守れなかった赤ちゃんの命を、守るどころか覚せい剤でだめにしてしまった。このままではいけない。変わりたい…とこのとき初めて思ったんです。
その後、中村さんは留置所でも、鑑別所でもただただ変わりたい、という心からの気持ちを持って過ごしたといいます。少年院で「反省しているように見せられればいい」と考えていたような中村さんはもういませんでした。
自分を信じてくれる大人との始めての出会い。そして…
二度目の審判で、試験観察処分が決定。試験観察処分は、家庭で生活を送りながら、調査官との定期的な面談を受けて更生を目指すもの。少年院送致を覚悟していた中村さんは、調査員になぜその判断だったのかを聞きにいきました。
中村さん:そのときに「今の君なら大丈夫だろう」と言われたんです。それが家族以外で初めての自分を信じてくれる大人との出会いでした。
心から「変わりたい」と思いながら行動していた中村さん。でも、それは誰にも信じてもらえないだろうと諦めていたのです。傷害事件を起こしたこと、少年院に入ったこと、少年院を出てたった二ヶ月で覚せい剤に手を出してしまったこと。そんな過去を持つ自分の言葉を信じてくれる大人なんているはずがない。だから中村さんは少年院送致を覚悟していました。
でも、調査官は中村さんの言葉や行動をそのまま信じてくれたのです。それは、その後の人生を大きく変えるできごとでした。自分を信じてくれた調査官を裏切る行動は絶対にしてはいけない、そんな気持ちが中村さんの中に芽生えたのです。
家に戻った中村さんは、産婦人科を受診。覚せい剤を打ってしまったからもうお腹の赤ちゃんは産めないと思っていましたが、医師から産むこともできると言われます。でも、少年院送致は免れたとはいえ、試験観察処分の身。母親になる自覚も覚悟もつことができません。結局は中絶するという決断をしました。
中村さん:とんでもないことをしたという気持ちは変わりません。でも、もしこれ以降、以前の生活に戻ってしまうようなことがあったら、もうそれは心を持った人間じゃないなと思ったんです。変わりたい、ではなく、変わらなくてはいけないという気持ちでした。
自分のお腹に命を宿し、それを手放すということ。それはこれまでの人生、そしてこの先の人生を考えてもこれ以上大きな出来事はないはず。そう考えた中村さんは、絶対に変わらなくてはいけないと改めて強い決意を固めました。
子どもがくれた満たされた時間、そして生まれた覚悟
半年間の試験観察期間を経て、20歳までは保護観察期間が続きます。その保護観察期間が終わりに近づいた頃、中村さんは一人の男性と出会い、結婚。そして、20歳になる年に一人目の子どもを出産しました。
子どもが生まれてから、中村さんは「こんなふうに自分を必要としてくれる存在を求めていたんだ」と気付きます。もちろん生活は一変しました。自分がいなければ、ミルクも飲めないし、オムツも変えられない…。そんな赤ちゃんとの生活は大忙しでしたが、とても幸せで、それまでにない満ち足りた時間を過ごしました。
中村さん:結局当時の夫とは2年ほどで別れてしまったのですが、覚せい剤のことや過去のことを知りながら一緒になってくれた彼の存在もとても大きかったです。
子どもを産み、そして育てるなかで、中村さんのなかに親としての覚悟が育まれていきました。その覚悟はシングルマザーとなり、一人で子どもを育てることになってからも損なわれることはなかったのです。
小さな子どもを抱えたシングルマザーとなった中村さんは、子どもを保育園に預けて、事務員や配達の仕事を開始。実家に戻ることも考えたそうですが、一人で子どもを育てる道を選びました。それは実家に戻れば、甘えてしまうと分かっていたから。子どもをしっかり自分で育てたいという想いがあったからこその選択でした。
泣いている子どもを保育園の先生に託し、後ろ髪を引かれる思いで仕事に行く途中の車で涙する毎日。そんな日々のなかで“覚せい剤を打てばいろいろなことを考えなくて済む” “いろんなことから逃げられるな”という考えが浮かぶこともありました。
中村さん:それに打ち勝てたのは、ほかでもない、子どもの存在があったからです。もし私がいなくなったらこの子はどうなってしまうのだろう…。そう考えることが何よりのブレーキでした。
そんな生活を約4年過ごした後、中村さんは再婚。お互い連れ子がいたので、いっきに家族が4人になりました。そして、2人の男の子を生み、中村さんは4人の子どもたちのお母さんとなります。
中村さん:血の繋がらない娘との関係に悩んだり、下の男の子たちがやんちゃで手を焼いたり、いろいろありました。でも今となってみれば、自分が生んだとかそうじゃないとか、もう全く関係ないですね。
被害者でもある、今まさに少年院にいる少女たち。そのことを世の中の人に知ってもらいたい
4人の子育てという怒涛の忙しい生活のなかで、その後の人生の転機となる出会いがありました。
それは北欧で、犯罪の再発防止のための当事者団体を見学し、「犯罪を止めるのは、当事者の力が必要」という考えを持った津富宏さんとの出会いでした。津富さんを中心に、非行の経験や、少年院出院者、また津富さんと考えを同じくする人などが、初めて集まったのが2009年。それが今も中村さんが活動を続ける「セカンドチャンス!」の始まりだったのです。
中村さんは当初、かつて傷害事件で加害者という立場だった自分がこんな活動に加わって良いのだろうかと悩んだと言います。でも、それを打ち消したのは、ほかでもない、当時のセカンドチャンス代表の津富さんの言葉でした。
少年院を経験した君の力が必要なんだ。
この言葉は、中村さんの肩の荷を降ろし、過去を受け入れて生きていこうという気持ちにさせたのです。
中村さん:今も自分が起こした事件のせいで、苦しんでいる人がいるのかもしれないと思うと、自分の活動や発信とどう折り合いをつけたらいいのか分からなくなることもあります。でも、セカンドチャンス!の活動を通して、少年院にいる子、非行に走っている子の多くが傷ついている子たちだとわかりました。その子たちがやり直せる社会を作りたい。そのための活動をやめるわけにはいかないと思うんです。
セカンドチャンス!の取り組みは、少年院出院者であるセカンドチャンス!の仲間たちが少年院に出向き「自分も立ち直ったから大丈夫だよ」と、若者たちに寄り添う「少年院講話」。そして、少年院出院者に居場所を提供する「交流会」の2つです。
中村さんは、それらの活動のなかで、多くの若者と出会いました。そしてかつての非行少年・少女と現代のそれとは大きな違いがあることに気づいたのです。
少年院に入っているのは、それ以前に日常的に虐待を受けていたり、ネグレクトで家に入れず夜の街を彷徨うしかないような環境の子どもがとても多いということ。それは、中村さんが少年院にいたときと現在との大きな違いだといいます。
だからと言って、決して起こした事件や犯した罪が許されるわけではありません。でも、彼女たち自身が“大人の行動による被害者”であることも多いのです。
そんな彼女たちの身の上を知って、みんなで見守っていけたら…。犯罪を起こす子どもたちが少しは減るかもしれない。そして、少年院出院者もやり直しの場所を見つけやすくなるかもしれません。
セカンドチャンス!の活動で、中村さんが出会った少女たちのなかにも、その出会いをきっかけに力強く自分の人生を歩めるようになった子が大勢います。
中村さん:以前少年院講話のときに「私は幸せになってはいけないと思う」と話す少女と出会ったんです。そのとき私は「そんなことない。幸せになっていいんだ」と伝えました。その子から、少年院を出院してしばらく後に「結婚して、子どもを授かって幸せに暮らしています」と連絡をもらったときは、とても嬉しかったです。
どんなに隠しても過去は消えない。それなら受け入れてオープンにして生きていく
セカンドチャンス!の活動の大きなポイントは、支援者が被支援者に何かを与えるという一方通行ではないところです。中村さんも活動のなかで、たくさんの刺激を受けてきました。
活動に参加するまで、中村さんは少年院を出た後に、高卒認定を取っている人を知りませんでした。でも、セカンドチャンスの活動で出会った少年院出院者のなかには、高卒認定を取った人、大学で学んでいる人、留学をした人もいたのです。
中村さん:学び直していいんだってそこで初めて気づいたんです。それから私も高卒認定を取って、今は大学で教員の資格を取るための勉強をしています。母親業、学生、仕事、そしてセカンドチャンスの活動とかなり忙しいのですが、私が学ぶことで、「何歳になっても学び直しはできるよ」って若い子たちに証明してやろうという気持ちもありますね。
また、セカンドチャンス!の活動を始めてから、少年院出院者であることをオープンにしたという中村さん。それにはとても大きな勇気が必要でした。
心配だったのは子どもたちへの影響です。上の子2人は思春期にさしかかる年齢。そして、下の子2人はまだ幼く、ママ友との繋がりも強い時期でした。過去のことをオープンにすることで、子どもたちに迷惑がかかるのではないかという気持ちがあったのです。
中村さん:上の子2人はお母さんは昔ワルだったらしいと気づいていたようで…。「でも今は恥ずかしい生き方はしてないんだからいいんじゃない」と昔のことをオープンにすることを賛成してくれたんです。
いざ、過去のことを話してみると「さすが!元レディースの総長。肝が座っている!」などと冗談を言われることはあっても、中村さんや子どもたちから離れていく人は誰もいませんでした。
中村さん:レディースに入っていたことや、少年院出院者であることなどは、世間的には良くないことです。でも、どんなに隠したとしてもその過去が消えるわけではありません。だったら過去を受け入れてオープンに生きる方が私らしいなと思ったんです。それに今は、過去のことはすべて私には必要なものだったのだと感じています。
過去のできごとはすべてが必要なこと。そう話す中村さんですが、みんなが学校で学び、卒業して働き始め、結婚して子どもを育てて…という当たり前の順番を歩むことはできなかったと振り返ります。
中村さん:だから私は今、やりたかったことをまとめてみんなやっているんです。子育ても、仕事も、学ぶことも。本当に忙しいけれど、目標を持っていることは生き甲斐にもなるし、何より今の頑張っている自分が好きなんです。
人は自分の変化には気づかない。グラデーションのようにゆっくりと移り変わるものだから
夜をひとりで寂しく過ごしていた子ども時代から、レディースや少年院を経て母親になり、今は子どもを育てながら働き、学び、それに加えてさまざまな活動もしている現在の中村さん。1人の人間として、大きく変わったように私には見えました。
でも、「なぜそんなに変わることができたんですか?」という質問に返ってきたのは意外な答えだったのです。
中村さん:実を言うと、自分では変わったという実感はないんです。
もちろん、傷害事件や覚せい剤と無縁な生活を送っているという、その部分の変化はあります。ただそれ以外の部分で、自分が大きく変わったという実感は中村さんにはありません。
中村さん:人は自分では自分の変化に気付きにくいもの。でも、本来「変わりたい」と思ったら人はその時点で既に変わっているものなのだと思います。
それは、赤だった色が突然青に変わるような鮮やかな変化ではないでしょう。でもゆっくりとグラデーションのように、気づいたら変わっている…そんな移り変わりなのかもしれません。
人は毎日を生きていく中で少しずつ変わっていきます。中村さんにとって、自分を信じてくれた調査官との出会いが大きなターニングポイントになったことは間違いありません。でも、その後自分と向き合い「すべては必要なことだった」と過去を受け入れ、自分にも人にも嘘をつかず、まっすぐに進んできたからこそ、今の中村さんがあるのだと思います。
過去は変えられないけれど、未来と自分自身は変えることができる。でも、それには時間が必要です。人は急には変われないものだから。
忘れてしまいたい過去がある。
変わりたいけど、変われない。
私もそう思っている一人です。だからこそ、その気持ちを大切に生きていこうと思います。1年後、5年後、もしかしたら10年後、今とは違う自分に出会うことを楽しみにしながら。
関連情報:
NPO法人セカンドチャンス! ホームページ
(写真/中里虎鉄)