【写真】笑顔で立っているおんだなつえさん

頭では分かっている、なのにできない。そんなとき、周囲のアドバイスが少しつらく感じてしまいます。

ありがたい、とってもありがたい。だけど、今教えてくれた方法は私ももう分かっているんだ……。私が苦しいのは、分かっている「のに」できないこと。分かっている頭と、それでも動かない身体がどんどん離れていく気がして、理想を描くこと自体しんどくなってしまう。

それでも、ふと「大丈夫」になる瞬間があります。きっかけは私の場合、誰かがくれたアドバイスでも自己啓発本でもありません。私がやってきたことは無駄ではなかった、きちんと思いは伝わっていたと、自分自身が「私は大丈夫」と納得できたとき。グレーがかっていた視界がだんだんと明るくなっていきます。

10代より20代、20代より30代の方が生きやすくなる。

私のまわりの大人たちは、そう言います。確かに、私もどんどん生きやすくなっていっている。それはきっと、経験を重ねるにしたがい、人は自分なりの回復の方法を体得していくからなのではないでしょうか。

これは、一人の女性が「大丈夫」になるまでの、回復のストーリーです。

彼女の名前は、恩田夏絵さん。地球一周の船旅「ピースボート」の職員をしながら、「一般社団法人ひきこもりUX会議」という団体の代表理事を務めています。約束の場所に現れた恩田さんを見て、私は“落ち着いていてクールな人”という印象を持ちました。

肩書からイメージしていたのは、“オープンで社交的な人”。しかし、実際にお会いした恩田さんはどちらかというとその反対でした。小学生の頃から不登校を繰り返し、人との距離感をつかむことが苦手なまま大人に。そして、人との会話は今でも得意ではないのだそうです。

それでも、ひきこもりだった過去から、いま発信者として世の中に情報を届けるようになるまで、どのような人生を歩んできたのでしょうか。一つひとつお話を聞いてきました。

コミュニケーションって難しい。会話が苦手だった幼少時代

恩田さんが自分と周囲とのズレを感じ始めたのは、小学校に入学した頃だったそうです。

【写真】微笑んでインタビューに答えるおんだなつえさん

保育園の頃から、みんなが外で遊んでいても、「私は絵を描きたい!」と思ったら絶対に聞かない子でした。けど、その頃はまだ好きにできていたから良かった。小学校に入ってからストレスは大きくなりましたね。まず決められたカリキュラムが堪えられなかったんです。

保育園と比べて、小学校では決まりごとが増えます。ホームルーム、授業、給食、掃除――決められた時間に、みんなで決められた活動をする。恩田さんにとって、集団生活を日々こなしていくことは簡単ではなかったといいます。

【写真】インタビューに答えるおんだなつえさんとライターのにしぶまりえさん

学校って、私には難しいことだらけだったんです。時間割にそって、黒板とノートに向き合い続ける作業が1年で限界だったんでしょうね。小学2年生になる頃には、学校に行けない日が増えはじめました。小さいながらに罪悪感を感じていましたけど、当時の自分にはどうすることもできなかった。

恩田さんは当時を振り返って「よく考え込む子どもだった」と話します。

色んなことに疑問を持ってしまう性格だったんです。例えば勉強する必要性がまったく理解できなくて。三角形の面積を求める“底辺×高さ÷2”を知ったところで、何の意味があるの?って、そんなこと一つでもとても悩みました。

学校で感じていた困難はそれだけではありませんでした。恩田さんは、人との“会話”が苦手だったのです。

コミュニケーションってすごく難しい。みんな当たり前のように会話をしているけど、話す速度や間、言葉づかいも気を付けないといけないし、相手の意図を受け取ったら私の思いを言葉で表現しないといけない……これ、私にとってはめちゃくちゃ大変なんですよね。

例えば、誰かに「楽しかった思い出はなに?」と聞かれたとき。恩田さんの頭の中では「楽しいって何だろう?」から始まります。今聞かれていることは、私が解釈する楽しさなのか、世の中的な楽しさなのか……。そう考えているうちに、答えるタイミングを逸してしまう。

恩田さんは、問いを立て、物事を深く突き詰めていく思考の癖がある。それゆえに、多くの人が集まり協調性が求められる学校は、エネルギーを使い果たしてしまう戦場のような場所だったのです。

【写真】インタビューに答えるおんだなつえさん

しかし、学校を休んでいる間も、恩田さんの中から罪悪感が消えることはありませんでした。行きたい気持ちはあるのに、体がついてこない。「早くみんなに追いつかなければ」と気持ちだけが焦り、自分を責める日々が続いていきます。

「早くまともにならなければ」って思いがいつも頭の中にあるから、ときどき学校へ行く五月雨登校をするんですよね。私、みんな多少なりとも“重い鎧”を着て日々生活していると思うんですよ。自分にエネルギーがあれば鎧を着ていても動けるんですけど、私の場合、エネルギーが充填しきる前に月曜日がきちゃうんです。それで、また行けなくなる。

私みたいな人間からすると、世の中の流れがちょっと早いんですよね。あぁ、やっぱりまたできなかった、みんなと同じようにはならなかったって。

リストカットに引きこもり。それでも消えない自己嫌悪

本当はこんな人間じゃないのに、本当はもっとできるはずなのに。行き場のない焦りや悔しさをどう処理すればいいのか分からず、恩田さんはいつからかリストカットを繰り返すようになっていました。

そして中学校にあがる頃には、部屋から一歩も出ない生活を送るように。

あのときは、ご飯もほとんど食べていなかったし、会話もしていなかったです。便意も催さず、お風呂にも入らない。省エネな生活と引き換えに、取り返せないくらいの“負債”が溜まっていくのを感じていました。

小学校や中学校では必ずと言っていいほどある“仲良しグループ”も、恩田さんを学校から遠ざけた理由の一つでした。

学校って、いくつもの群れができるじゃないですか。一つのクラスに30~40人集めると、その中で強者と弱者が生まれてスクールカーストができてしまう。ひきこもりの私は、どうみてもカーストの一番下だなって思っていたので、学校にいたらいたで“底辺”を実感してしまうのも苦しくて。

【写真】質問に丁寧に答えるおんだなつえさん

学校に行かず部屋からも出てこない恩田さんに対し、ご両親は強引に学校に連れていくこともなく、恩田さんの意思を尊重してくれていたといいます。しかし、中学3年生の頃、恩田さんにとってショッキングな出来事が起こります。

もう限界を感じて、精神科に行きたいと親に言ったんです。距離が近い親には苦しさは吐き出せないし、悩み事を相談できる友達もいない。けれども、この状況をどうにかしたいから、第三者につながりたい。今の自分がとれる手段は精神科にかかることだと思ったので、勇気を出して言いました。すると、「そうやって自分が言えるうちは大丈夫」って受け流されてしまって。病院に行きたいっていうのは自分なりのSOSだったので、道が断たれた気がしてショックだったし、その後しばらくは親を恨んでいました。

中学を卒業し、恩田さんは定時制高校に進学します。生まれる家、両親、兄弟、地域、学校など、自分で選択できる環境がほとんどない中で、定時制高校に通うことは恩田さんにとって初めて自分の道を決めた経験でした。自分一人で決めた進路は、両親に対するちょっとした抵抗でもありました。

親から離れたかったんです。自分なんかをこの世に産み落とした両親からは、自分を育てる権利を奪いたかった。だって、学校に行くこともしんどくて、行かなければ行かないで白い目で見られる。生まれなかったらこんなに苦しさを抱くこともなかったのに。何で産んでくれちゃったんだと恨んでいました。

親や社会は「命は素晴らしいし、あなたには輝かしい未来が待っている」と平然と言うけれど、全然待っていない。そんなに人生が素晴らしいなら、誰か生き方を教えてくれよっていつも思っていました。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるおんだなつえさん

どんな選択をしても辛いことしか待っていない。勇気を振り絞って口に出した精神科への通院の道も閉ざされてしまった。恩田さんはもう何を信じればいいか分からず、ギリギリのところで生きていました。

両親の管理下から離れ、別世界を期待して入学した定時制高校。部屋からほとんど出なかった中学生活とは打って変わり、高校は休みつつも通いきれたのだそう。その理由の一つに、教室の空気感がありました。恩田さんを苦しめていた“女の子グループ”や“スクールカースト”の文化が、中学時代より弱まっていたのです。

定時制のクラスは同一性が低いので、大きな群れにはならないんですよね。服装も自由で、年齢もバラバラ。オタクっぽい人、ゴスロリ、ヤンキー、学びなおしに来ている年上の人たち、色々な人たちがそこにいたことが、私が休みながらも最後まで通いきれた要因になっていると思います。

しかし、学校に行けるようになったからといって、一緒に“つるむ”友達ができたからといって、恩田さんの胸の中にある孤独が消えることはありませんでした。それまでの人生で形成された自己肯定感の低さは、恩田さんの中に巣食い、いつどこで何をしていても自分が存在していることに負い目を感じていたのです。

人生最期の旅のつもりで飛び込んだピースボート

深い闇の中にいる恩田さんは、15歳のとき自分自身に約束したことがありました。

自分は生きてる価値がないから、成人するまでに死のうって決めたんです。そこからの4年間は、毎年カウントダウンしていたんですよね。誕生日が来るごとに、あと3年で楽になれる、あと2年で楽になれるって。

この約束は、恩田さんにとって、ある意味“吹っ切る”行動をするきっかけにもなりました。

ある日、ファッション雑誌を眺めていた恩田さんの目に、モアイ像の写真がとまりました。よく見てみると、それは「ピースボート」と呼ばれる世界一周の船旅の体験談でした。

学校に行けない自分を全力で責めていたけれど、一方で、日本の社会や教育システムに疑問を感じていた部分もありました。日本じゃないところだったらどうだったんだろう。世の中には、自分とはまったく違うキラキラした青春を謳歌している人もいるんだよな。そう思ったら、自分で生きたいように生きるためには、特別な何かをくぐりぬけてボーナスポイントを稼ぐしかないと思っていたんです。

生きることを諦めかけていた恩田さんの心の中には、 「それでも、やれるものならやってみたい」という気持ちもかすかに残っていました。約束のハタチまであと1年に迫った19歳のとき、恩田さんはピースボートの船旅に出ることを決意します。きっとこれが人生最後の旅になると、一か八かの賭けに出たのです。

【写真】笑顔でインタビューに答えるおんだなつえさん

今では笑い話にしているんですけど、ひきこもりや不登校の人たちの中には、自分は小説を書いて芥川賞をとるんだ!というレベルの、無謀ともいえる目標を本気で追いかけている人たちがいるんです。なぜかというと、彼らは自分が常にマイナス100くらいの負債を負っていると思い込んでいるからです。ちょっとやそっとじゃ巻き返せないから、巨大なマイナスを払しょくするために、芥川賞級のプラスな経験をするしかないよねって。私にとっては、世界一周がそれでした。

知らない場所に行ったり、知らない人と話したりすることが苦手だった恩田さん。ピースボート乗船を決めたのも、ポジティブな理由というよりは、崩れ落ちていく崖から生き延びるための荒療治でした。

ベースがバラバラな環境で、解放されていく自分

ピースボートは、約100日間かけて世界各国を周遊する船旅。恩田さんが乗船した回の渡航先は、シンガポール、ケニア、エジプト、ギリシャ、モロッコ、キューバ、パナマ、ペルー、イースター島などを回りながら地球一周をするコースでした。船は最大速度でも自転車の立ちこぎほどのスピード。そのため、ピースボートの100日間の旅のうち3分の2程度は船上で過ごすのがピースボートの旅です。

【写真】海を移動しているピースボート

この船で世界各国を旅するピースボート(写真:Chiga Kenji)

ピースボートでは、航海の間、“自主企画”と呼ばれる参加者自身が発案し企画するプログラムが頻繁に開かれます。ダンスの練習、手芸教室、ディベートにイルカを呼ぶ企画など、参加者がそれぞれの得意を持ち寄り、毎日さまざまな自主企画が催されていました。

冗談みたいな本当の話なんですけど、私はそこで最終的に150名くらいの大きなグループになった「南中ソーラン」の企画を持っていたんです。実は、9歳の頃からピースボート乗船までの間、ひきこもり生活をしながらも細々と地元の和太鼓チームに所属して、伝統芸能に触れていたんです。数少ない“私ができること”だったので、船の上ではみんなに南中ソーランを教えていました。

船上で和太鼓を披露するご様子(提供写真:Masagaki Naoto)

恩田さんの話を聞いていた私も、突然の変化に驚きました。“普通”になれないことを思い悩み、死まで覚悟していた恩田さんが、どうしていきなりリーダーに。その要因を尋ねると、答えはいたってシンプルなものでした。

環境が変わったから。ただそれに尽きるんですよね。10代の頃っていつも周囲の空気を気にしなければならないし、嫌でもスクールカーストを意識しちゃうじゃないですか。私も、誰から言われたわけでなくてもヒエラルキーの一番下だってことをずっと気にしていたので。でも、ベースがすでにバラバラであれば、そんなもの気にする必要ないんですよね。

小中学校をまともに行っていなかった私が高校を卒業できたのは、定時制で同一性が低い集団だったからというのが理由だったけど、ピースボートの方がその要素が強くて。私が乗ったときの参加メンバーは、最年少が16歳で最年長が90歳だったんです。年齢だけじゃなく、職業も住んでいる地域もバラバラ。バックグラウンドが違うのでまとまりようがないし、他人と自分を比べようもないんですよね。だからピースボートは、自分のやりたいことをやっていたらいいっていう空気になるんです。

【写真】マチュピチュで笑顔のおんだなつえさん

ピースボートの旅では様々な国を訪れた(提供写真)

同一性を求められない環境では、リーダーにさえなることができる。恩田さんは、これまでのスキマを埋めていくように、人と人との関わり合いを経験していきました。

旅の間はもちろん楽しいことばかりではなくて、旅を共にしている仲間とケンカしてしまったり反りが合わない人がいたりと上手くいかないこともありました。でも、それすら私はそれまでの人生で経験したことがなかったんです。人間の営みというものをのびのびとした空間で体感できて、すごく大切な時間を過ごさせてもらったなって。

【写真】笑顔でインタビューに答えるおんだなつえさん

100日間の船旅を終えて帰国したとき、恩田さんは迷っていました。ハタチの誕生日はもう目前に迫っていましたが、ピースボートのスタッフから「一緒に働かないか?」と誘われていたのです。

もしここで働くことにしたら、ハタチで死ぬことはできない。それでもいいかを自分に問いかけました。結果、それでもいい、ハタチより先の未来に賭けてみようって思うことができたので、ピースボートで働いてみることにしたんです。

「あの日の自分を救いたい」と始めたグローバルスクール

ピースボートで働き始めて数年たった頃、恩田さんはふと学校に行けなかった頃の自分を思い出します。学校では培えなかった社会学習をピースボート上で経験していった恩田さんは、もしかしたら私以外にもこういう機会が必要な人がいるかもしれないと、「ピースボート・グローバルスクール」というプロジェクトを立ち上げました。地球を一周しながら多様な生き方を知り、自分のあり方を深めるためのプログラムです。

きっかけは、元ひきこもり当事者として受けたいくつかの取材でした。

記事化されたときの反響がものすごかったんです。特に「一人じゃないと思いました」という声が、私には痛いほど分かって。学校に行っていないときって、自分は無価値だと責め続けて社会のことも否定して、孤立している感じが辛いんですよ。自分と同じような人が他にもいるなんて、あのときの私はみじんも思わなかったので、“自分だけではない”と分かればどこか救われたかもしれないなって思うことがあったんです。

多くの共感の声を受け、過去の自分と重ねた恩田さんは、絶対に彼らに届けなければと使命感を強めていきました。

【写真】街道を並んで歩くおんだなつえさんとライターにしぶまりえさん

恩田さんは、今でこそ思いを言語化できていますが、渦中にいるときはつらさが言葉にならず、大丈夫か、大丈夫じゃないか、でしか気持ちを表現できていなかったといいます。しかし、内省や取材を通して、思いを一つひとつ言葉に落とせるようになっていきました。

それらの言葉が他者から共感されることで、恩田さんの自己肯定感も少しずつ育まれていきました。

言葉にならないうちから、ずっと思っていたんです。暗闇の中にいたとき、“こんなダメな人間は自分だけなんだ”というプレッシャーが、身動きをとれなくさせて自分を追い詰めていた。だから私が今、不登校やひきこもり時代のことを隠そうとするのであれば、あのときロールモデルを求めていた自分に嘘をつくことになるって。

言葉を届ける人には、ときには批判や心無いコメントが寄せられます。恩田さんは、それらに対する恐れを感じつつも、絶対に裏切ってはいけない何かを自分の中に見出したのです。それは社会の中で見えない存在だった自分を、可視化していくことでした。

洋上で出会ったパートナーが、安全な居場所に

恩田さんにとって生きる希望となったものは、使命感だけではありませんでした。ピースボート上でのパートナーとの出会いが、恩田さんの人生を大きく変えたのです。2013年、恩田さんは同性パートナーと結婚式を挙げています。

彼女はピースボートの同僚だったんです。長年いい仕事仲間だったけれど、あるとき人生のしんどい時期が重なったんですよね。私はグローバルスクールを立ち上げて、頼ってくれる人が増えて意義も感じているのに、なんでこんなに死にたくなっちゃうんだろうって。死なないって決めたのに死にたくなってしまってうなだれてたんですよ、「orz」みたいな感じで。

気付くと隣にもう一人「orz」ってなってる人がいて(笑)。彼女はレズビアンとしての活動をしていたけれども、10代の頃自分を肯定できなかったことが、今でも心の傷になっていたんです。そこが私たちの共通点でした。

普通にならなきゃ、みんなに追い付かなきゃ、という思いを抱えながら思春期を過ごしたことが、大人になっても後遺症のように色々なところに影響しているという恩田さん。無意識のうちに背伸びをしてしまったり、恋愛をしていても嫌われないよう気を張ってしまったり。しかし、彼女と一緒にいるときだけは、恩田さんは素の自分でいられたのです。

あるときふと、私たちは絶対一緒にいた方がいいんじゃないかと思うようになって。そんな思いを抱えているとき、彼女のとある発言に私がキレたんですよ。それで「ちょっとそこ座って」って座らせて、「あなたはそのままじゃ幸せになれない。でも、私とあなたが一緒にいたら幸せになれる。私はあなたと明るい未来を築きたいので、真剣に考えてください」って。告白というか、ほぼ説教でした(笑)

【写真】ウェディングスドレスを着ているおんだなつえさんとパートナー

(提供写真:Ueno Yoshinori)

恩田さんにとって、同性のパートナーができるのは初めてのことでしたが、1ミリも不安はなかったのだそう。女性だから、男性だから、といった区分けは人と向き合う上では重要ではないと気付いていたからです。

異性と付き合ったからといって、うまくいくとは限らないじゃないですか。「○○だからうまくいく」なんていう“絶対”は存在しない。だから、同性のパートナーを持つことに何の抵抗もありませんでした。

多様性を推進している職場ゆえに、周囲からもすんなりと受け入れられ、二人が結婚を決めたときにも多くの人が祝ってくれたのだそう。それに嬉しさは感じつつも、ときには違和感を抱くような反応もあったといいます。

素晴らしい、希望だ、それこそが真実の愛、みたいな過剰な解釈をされることもあって。異性愛が前提の社会だからかもしれないけど、困難を伴ってまで同性愛を貫くことが美しいと過剰評価されるのは、それはそれでしんどいなって思っていました。異性カップルがお付き合いをして結婚しましたっていうのと何も変わらないのに。

同性愛だから本物の愛とは限らないし、そもそも本物の愛かなんて決める必要ないじゃないですか。本物だと思っていても崩れるものだっていっぱいあるんだから。

【写真】ウェディングドレスを着て泣いているおんだなつえさんとパートナー

(提供写真:Ueno Yoshinori)

自分のことは、自分で決める。そんな思いの強い恩田さんが、社会的な儀式でもある“結婚式”という形をとったのは、自身の生きやすさを考えてのことでした。

結婚式をセーフティネットとして捉えていたんですよね。今の日本の制度では、同性は婚姻関係を結べないから戸籍上は他人のままなんですよ。法的に認められないのであれば、少なくとも周りの人たちにはその認識をしておいてもらいたいと思って。万一何かがあったとき、自分たちの心理的な安全と生活上の安全を守るために、保証人をつくるつもりで結婚式をしました。

【写真】ウェディングドレスを着ているおんだなつえさんとパートナーの周りにはとても多くに人が集まっている。

結婚式には多くの人がお祝いに集まった(提供写真:Kajiura Takashi)

「そのままのあなたでいい」存在を認知しあうコミュニティの立ち上げ

ピースボートにパートナー、安心できる居場所を見つけていった恩田さんは、ずっと抱いていた考えを改めるようになっていました。学校に行けないことを責め、自分は価値がないと思い込んでいた10代の頃。本当は、自分はできない人間なんかではない。ただ安心できる環境がなかっただけなのだと。どんな人でも、自分が自分でいられる環境さえあれば生きていけるのだと。

それを同じように苦しんでいる人たちに伝えるため、恩田さんは仲間といっしょに居場所づくりを始めます。それが、「ひきこもりUX会議」。“生きづらさや孤独を解放し、人生と社会をリデザインする”をコンセプトに、ひきこもりをはじめとしたマイノリティが集まる場づくりや、孤立した人の存在を可視化するための実態調査などを行っています。

「UX」とは、ユニーク・エクスペリエンスの略語。本来、UXはユーザー・エクスペリエンスのことをいいますが、ユーザーを「ユニーク」と言い換えているのには、恩田さんたちのこんな思いがありました。

ひきこもりや不登校って、お世話しなきゃいけない対象、社会的弱者だっていう風に思われていて。単なる甘えだって声すらあります。でも、本当によりよい社会をつくっていくのなら、当事者の声を反映させることでもっと誰でも生きられる社会になっていくのに、無い方がいい存在にされていることに疑問がありました。

【写真】植木の前で微笑んで立っているおんだなつえさん

一方で、“当事者体験”でありながらも、私たちのアイデンティティって「ひきこもり」「不登校」「LGBT」ではないだろうという思いもあったんです。ひきこもりにも色んなひきこもりがいるし、LGBTもパーソナリティはバラバラです。だから、「親族がひきこもりなんだけどどうしたらいい?」と相談されても、私はその人がどんな人かを知らないのでアドバイスをすることはできません。すべてのひきこもりが、同じ解決法で癒されるとは思わないので。

支援する側・される側、守る側・守られる側、やさしくする側・される側、じゃなくて、すべての個性が必要。それをもっと強調したくて、ユニーク・エクスペリエンスと呼ぶようになりました。固有の体験を社会に還元して、その人がその人でいられる社会をつくっていきたくて。

ひきこもりUX会議の立ち上げから4年、シンポジウムや「ひきこもりおしゃれカフェ」というファッション企画、フェスや女子会など、恩田さんが企画したイベントは、それぞれ数百人を動員するほど認知されるようになりました。

イベントにはいろいろな事情を抱えた人がやってきますが、ひきこもりUX会議が行っている企画が、結果的に誰かのエールになっていることは実感しています。ですが、誰かの背中を「押すため」にやっている、というと少し異なります。どちらかというと、背中を押さずとも、その場にいることをみんなで認識しあうってことをやりたいんですね。

“自分とは違う”多様な価値観を持つ人がいるってことではなくて、“自分も含めて”みんなグラデーションのどこかにいる。それが書いてあるsoarの記事を読んだとき、そうそう、私がやりたいのはそういうことなのって激しく頷きました。

(提供写真:Kajiura Takashi)

生きづらい、苦しい、生きる意味が分からない――恩田さんは、自分がそう感じて生きてきたからこそ、同じような状況にいる人に「体験」を届けたいのだそうです。自分を産んだ親を恨んでも、学校という仕組みを恨んでも、生きていくためには結局「自分の一歩」が必要なんだと気付いたから。

恩田さんがピースボートに乗り続けるのも、グローバルスクールを企画しているのも、ひきこもりUX会議を立ち上げたのも、すべてはそこに集約されていました。

私自身が納得をしたいんです。言葉だけじゃ分からないことって多いから。道徳に出てくるようなキレイな言葉は、言葉で理解するんじゃなくて体験を通して理解していくものだと思っています。

自分の人生は、自分で決めるしかない。どんなに辛くても、人生に責任を持ってくれる人は自分の他にいないから。それでも、苦しいときに自分の足で立つことがどんなに難しいかも分かるから。そのなかでも自分の人生を描いていくためには、私はこういう人間だってことを、自分の頭と身体を使って実感していくことが大切。私は、そのためのきっかけをつくっていきたいなと思っています。

【写真】微笑んでいるおんだなつえさん

本質は変わらない。それでも“嫌じゃない鎧”をまとって生きていく

周囲との違いや「できない」ことに目を向け苦しんできた恩田さん。今では、一人ひとりの体験をシェアする場を作り、それぞれが自分の足で歩いていくためのきっかけを生み出しています。

「以前の死にたい気持ちを“10”とすると、今はどれくらいですか?」――その質問に対し、恩田さんはじっくりと考えると、こう答えました。

ゼロ、かな。今は前のめりに活動している分、出くわす困難の数は多いんですよ。それでも、“つらい”の質が変わりました。居場所がなくて自分が誰か分からなくて“つらい”のと、居場所があって目的があって“つらい”のとでは大違い。やっぱり結婚して安全な場所ができたことは特に大きいので、パートナーに感謝しないといけないなと思います。

今では大勢の前で話したり、新しい人と知り合う機会も多くなり、過去と環境はまったく異なるものの、恩田さんの中身は変わりません。物事を深く考え、対人関係からストレスを感じやすい性格は昔のままだといいます。それでも、いくつもの体験を通して、生きていくための術を学び、生きやすく生きるためのコツが身に付いてきたのです。

今でも人と関わることは嫌いだし怖いんです。コミュニケーションだって苦手なままだし私の本質は変わらない。それでも、今では武器を手に入れ、鎧を着られるようになりました。それも、“嫌じゃない鎧”を。人との出会いは悪いものじゃないって圧倒的な成功体験ができたから、今の自分があるのかもしれません。

【写真】笑顔で立っているおんだなつえさんとライターのにしぶまりえさん

恩田さんは、言葉にとても誠実な方でした。場の空気に流されず、時間がかかっても本当に思ったことを口にする。深く考えてしまう癖が、ある場所では足かせにもなれば、ある場所では多くの人を孤独から救うための尊い行為にもなる。

どこで生きるかで、私たちは人生を大きく変えられるのだと、恩田さんの生き方が教えてくれました。

そして、一人ひとりが「大丈夫」になる方法は、みんなそれぞれ違うもの。同じ肩書を持っていたとしても、同じ病を抱えていたとしても、誰かの回復のプロセスが自分にもぴったり当てはまるかというと、そうとは限らない。いろいろな人と出会ったり、予想しきれないような出来事をくぐりぬけたりしながら、その都度自分と会話をして、オーダーメイドの処方箋をつくっていくしかないのです。

自分だけの処方箋を手に入れるために恩田さんがくれたヒントが「体験」。不確実なものが怖くても、ときには他者との時間に身を委ねることが、明日の自分を救うかもしれません。

大切なのは、自分の心も身体も納得すること。

頭で考えてもダメなときは、外に出てみよう。外の世界から戻ってきたら、もう一度考えてみよう。何に感動したか、どうして腹が立ったのか、誰といるときが心地よいか、何に違和感を抱いたのか。それら一つひとつの問いが、生きやすく生きるための大切な一歩になるはずです。

関連情報

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ピースボート・グローバルスクール  ホームページ

(写真/工藤瑞穂・野田菜々)