【写真】笑顔で座っているあやさん

それは本当に「嫌い」なの? それともただの「違い」なの?

ある日出会ったWebコンテンツが、私にそう問いかけます。

それは、「『嫌い』と『違い』を混同してはいけません」というタイトルで、異文化理解について描かれたもの。イギリスの子どもが日本の子どものお弁当を「くさい」と言ったとき、学校の先生がこんな風に諭したエピソードです。

世界にはあなたがまだ知らない食べ物があります。日本という国の食べ物にはイギリスの食べ物とは違う匂いがあります。あなたはまだ知らなかった。それは“違い”であって、“嫌い”と考えてはいけません。

私にも思い当たる節がありました。これまでの知り合いにはいなかったキャラクターの人と出会ったとき、一瞬「うっ、苦手かも」と身構えてしまうのですが、その人を知っていくにつれて、徐々に緊張が溶けていくことを何度も経験しました。これもきっと、自分が「知らなかった」ことからくる違和感を、「嫌いかもしれない」という感情にすりかえてしまっていたのかもしれません。

それを発信していたのは、ウェブメディア「Palette(パレット)」。BASILさんという方の体験を綴ったブログを、マンガにして発信していたのでした。

PaletteのTwitterアカウントを覗くと、タイムラインには社会的なテーマをやさしいイラストで紹介するマンガが並んでおり、「多様性」を軸に幅広い領域の課題や価値観を伝えていました。

(提供画像)

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私はその日からPaletteの発信を追いかけるように。コンテンツはLGBT、フェミニズム、家族、性、障害など多岐に渡り、ある日はなかなか面と向かって聞くことができないセクシュアルマイノリティ当事者の日常、ある日は難しそうで敬遠されがちな同性婚の違憲裁判に関するマンガが発信されていました。Paletteのコンテンツを読むたび、新しい発見があったことを覚えています。

共通のコンセプトは「こうあるべき、を超えていく」。Paletteのコンテンツには、自分の中に存在する「普通はこうあるべき」に自覚的になり、それをちょっと横に置いてみようと思わせてくれるようなやさしさがありました。

いつも新しい気付きをくれて、違いに対する姿勢を教えてくれるPalette。さまざまな違いの中で心地よく生きていくために、私にできることはなんだろう。それを聞くために運営会社である株式会社アラン・プロダクツを訪れ、Palette編集長のAYAさんに会いに行ってきました。

多様性に必要なのは、当事者の不断の努力ではなく、周囲の絶対的な愛

マイノリティが自分を肯定しながら生きられるかどうかって、当事者次第ではないと思うんですよ。

はじめにAYAさんはしっかりとした口調で、Paletteを運営する意義についてこう話してくれました。

Paletteって当事者向けのメディアではないんです。というのも、私は生きづらさを抱えている人たちが自分を受け入れるために必要なのは、その人自身の強い意志ではなくて、周囲の絶対的な愛だと思うんですよ。だから非当事者が社会課題を自分ごと化して、自分とは違うと感じている人とも共生していけるようになったらいいなと。

【写真】質問に丁寧に答えるあやさん

ああ、なるほど、と思いました。これだけLGBTという言葉が広まっていても、これだけ精神疾患のある人がいても、私の周囲には「当事者に会ったことがない」と言う人が少なくありません。特にセクシュアルマイノリティは、左利きの人やAB型の人と同じくらいの比率で存在するという調査結果がありますが、それを実感できている人はそう多くないのではないでしょうか。

顔の見えない誰かにやさしくなるのは、とても難しいことだと思います。だからPaletteはマンガやインタビュー記事を通して、“見えない存在”を“見える存在”へと変えているのです。

女性は選ばれる存在だと感じた、“華の1女”という呼び名

物心がつきはじめる頃からもう、私たちはいろいろな「らしさ」や「べき」に囲まれています。男の子たちはレンジャーごっこをするようになるし、女の子は人形遊びをするようになります。身に付ける洋服や持ち物も、もしかしたらブルーやピンクなど、性別が持つイメージに近いものになっているかもしれません。

レンジャーごっこで率先してレッドをやっていたというAYAさんは、女子校育ち。高校を卒業するまでは、あまりジェンダーギャップやジェンダーロール(性別によって社会から期待される役割)を意識することがありませんでした。けれども大学で男女共学になると、女らしく振舞うことを求められる空気を感じ、気持ち悪さを感じるようになったと振り返ります。

大学って、1年生の女子を1女(イチジョ)と呼んだりするんですよ。華の1女、嫉妬の2女、諦めの3女、屍の4女って言葉があって、女子は若いうちが一番価値があるかのような価値観にビックリしたんです。女子校の頃は、“人間・AYA”でいられたんです。全員女子だから重い荷物を持つのもリーダーをやるのも当たり前のように女子だったのに、男女がいる世界では女性は男性から好かれないといけないんだなと。

社会に出ると、AYAさんの違和感はジェンダーギャップにとどまらず、思想や文化、バックグラウンドの違う人たちを排除しようとする動きが、社会のあちこちにあることに気付きます。

大人は子どもに対して「いじめはいけません」って教育をするけど、大人が大人の世界で当たり前のように人を虐げているのを目にしたんです。ゲイが「ホモきもい」と言われたり、精神障害があるだけで「メンヘラ」と呼ばれたり。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるあやさん

今うちで働いてくれているADHDの子がいるんですけど、彼女は「Paletteは他ではないくらい私を受け入れてくれた」って言うんです。それを聞いたら、なんだか悲しくなってきて。受け入れる側と受け入れられる側に明確な境界線があるんですよね。本来職場なんていうのは、フェアな複数の存在が同じ方向に向かって走るだけの場所なのに。

ADHDだから、うつ病だから、ゲイだから、トランスジェンダーだから。「あっ、君は普通じゃないのね、じゃあバイバイ」ってしてしまう人に、何かできないだろうかと思ったんです。人はそれぞれ何かを抱えていて、人を人として見るだけ。たったそれだけのことなのに、彼らにとってはどうしてそれがそんなに難しいんだろうって、苦しくなってしまったんです。

【写真】インタビューに答えるあやさん

Paletteを立ち上げる前は、採用情報プラットフォームでイベント企画を担当していたAYAさん。当時、LGBTフレンドリーの企業だけを集めた採用イベントを開催したところ、数百人の求職者が集まったそうです。世の中にはこんなにも困っている人がいるんだと目の当たりにし、その瞬間から人と人との境界線を無くすことへの使命感が高まっていきました。

LGBTも障害者もフェミニストも、みんな「べき」に悩んでいた

そんなときにAYAさんは、アラン・プロダクツから多様性をテーマにしたメディアを立ち上げることを伝えられます。そこで「採用イベントは私じゃなくてもできるかもしれない。でも多様性メディアの立ち上げは、きっと私がやらなければならないことだ」と決心し、編集長として新しいコミュニティを作っていくことを決めたのです。

メディアを立ち上げるとき、特定の分野に絞った方がいいのではという声もありました。でもPaletteは、ターゲットなしで行くことにしました。障害のある人、ジェンダーロールに抗いたい人、ゲイであることを悩んでいる人、性差別からの解放を訴えるフェミニスト、みんな根っこでは同じところで悩んでいるんです。「普通」とか「こうあるべき」って、もういらないよねって。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるあやさん

マンガという形で発信をしているのも、多くの人に届けるためには「伝え方」にまで気を配ることが重要だと、これまでのビジネス経験の中で学んだから。

文章って、意思がないとなかなか読めないじゃないですか。私たちも長めのインタビュー記事は作っているんですけど、フックとしてマンガを選んでいるんです。いきなり「LGBTとは」といった専門的な説明を読み込むのはハードルが高いかもしれません。私たちはUX(ユーザー・エクスペリエンス)の観点から、マンガで分かりやすく概要を届けることで、テーマへの敷居を下げるようにしています。

Paletteのクリエイティブは、「中高生が電車の中で読んでも疲れない気軽さ」を心掛けているのだそう。その分かりやすさから、Paletteの発信は「なるほど、そういうことだったのか!」「そうそう、それが言いたかったの!」といった共感を呼んでいます。

セクシュアリティは変わるもの。公表しない選択肢もある

ここ数年、性の多様性について認識が広まっていくなかで、カミングアウトが推奨されるような風向きがあります。けれどもAYAさんは、公表することに前向きになれない人には「言わない選択肢もあるんだよ」と伝えたいのだそう。

なぜなら、セクシュアリティは生きていくなかで変わっていく可能性があるものだから。

私は最近、自分のセクシュアリティを聞かれても、あまり語らないようになりました。1年後の自分が同じセクシュアリティであるとは限らないし、そもそも性自認や性的指向はその人の一部でしかないんですよね。「埼玉出身です」くらいの情報量なんです。

私が自分のセクシュアリティを事細かに明言することによって、そのセクシュアリティ代表のように表現されてしまうと、例えば「ゲイってこうなんでしょ」と一般化されかねないなと思っていて。

【写真】インタビューに答えるあやさん

AYAさんの現在のパートナーは、恋愛感情を持たない“Aロマンティック”と呼ばれるセクシュアリティを持っています。AYAさんとパートナーの両者が納得して付き合いを続けていけるよう、月に一度の「更新制度」をとっているのだそうです。

パートナーが恋愛的な“好き”がよく分からない人なので、これからも一緒にいたいかどうかを月に一度考えるタイミングを設けています。恋人同士は尽くし合うとか、結婚したら一生パートナーだけを愛するとか、約束された関係の中で主体的に愛し続けるって、実は難しいことなのかと思っていて。恋人とか妻とか夫とかラベルを全部はがして、人と人としてどう一緒に時間を共有していきたいのか。それをきちんと考えたいよねと話し合った結果、今は更新制がしっくりきています。

更新制という言葉を聞いたとき、私はちょっとドライな印象を受けたのですが、AYAさんの話を聞いていると、より自分と相手に誠実でありたいという根底にある価値観が見えてきました。恋人同士は互いに尽くしあう「べき」だから尽くすのではなく、今の自分が尽くしたいから尽くす。主体的に人を愛するために見つけ出した、AYAさんたちなりの解なのだと。

念のため言っておくと、めちゃくちゃ仲良しで想い合っていますよ。形式的でドライに聞こえるかもしれないけど、私たちは来月が保証されていない中で、どう相手に対して思考停止せずに大切にできるかを重要視していて。関係性で愛していない分、逆にすごく労力がかかるのですが、毎日毎日「今日も一緒にいられて幸せ、ありがとう」って心から思っています。

【写真】笑顔でインタビューに答えるあやさん

パートナーに恋愛感情がないことに寂しさを覚えることはないかを聞くと、AYAさんは「寂しさはゼロです」とキッパリ。嫉妬されることで好かれている実感を得たい人にとっては寂しいかもしれない、けれどもAYAさんにとって、嫉妬のない関係性は悪いものではないのだそう。

どうして寂しくないのかというと、私たちはパートナー同士であるだけじゃないんです。私たちはパートナーであり、きょうだいであり、親友であり、同志なんですよ。自分たちで心地いい関係性を築いているので、仮にパートナーとしての関係性を失ったとしても、きっと同志のままではいられるんですよね。

こうあるべきという枠は、ときに道しるべになることもあります。自分が立っている場所が分からなくなったり、どう振る舞えばいいか分からなくなったりしたとき、すでにあるフレームがそれを教えてくれることがあるからです。けれどもその枠が自分にとって息苦しいものだと思うのなら、自分で人との付き合い方をアレンジすればいい。

【写真】微笑んでインタビューに答えるあやさん

恋人だから、夫婦だから、家族だから。そのラベルにあぐらをかいちゃいけないなって思うんです。そこが安心できる場所であることは大切だと思うのですが、安心できることと対話をサボることは違います。父としての役割や母としての役割ではなく、一人の個人として扱うことは自分としても意識していきたいことです。

例えば明らかに家事分担が妻の方が多いのに、“妻はこういうもの”と互いに思い込んで対話をすることなく疑問にふたをしてしまうこと。例えばもっと育児をしたい父親が、“男は外で働くもの”という空気感から育児休暇をとりたいと言い出せないこと。日常の中にあるモヤモヤを見過ごさないことで、人と人との関係性が一歩前に進むのです。

モヤってることって、言い出しづらいと思うんです。でも応急処置的に、虫歯に治療をしないまま被せものをしたら、見た目はキレイでも根本がむしばまれて結局抜くことになっちゃうじゃないですか。同じことですよね、人間関係も。モヤっとしてる本質的な原因を見つめること。治療するなら、早ければ早いほど簡単なんじゃないかな。

AYAさんはPaletteで発信していることと、実際の生き方にブレがないようで、なんだかとても眩しく見えました。

【写真】笑顔で立っているあやさんとライターのにしぶまりえさん

“ムカつく発言”の奥には、きっと分かり合えるポイントがあるはず

AYAさんから感じる「やさしさ」と「強さ」は一体どこから来るのだろう。人にやさしくなりたいと思っていても、価値観の違う人や攻撃的な人に対してどう接していいのか分からなくなることがあります。人権を無視するかのような発言に、心がポキッと折れそうになることもあります。

AYAさんはそんなとき、どんなことを考えるのでしょう。

社会は確かにムカつく出来事が溢れているけど、私はムカついたら終わりだと思っているんです。例えば、少し前に「LGBTは生産性が無い」と発言した政治家がいましたね。攻撃的な発言にムカつかずにはいられないのだけど、こちらが間に受けて対立してしまえば、対立構造はずっと変わらないまま。だから私は「何が彼女をそうさせたのか」に視点を転換するようにしています。

【写真】質問に丁寧に答えるあやさん

攻撃的な発言は最終的なアウトプットであって、その奥の奥を深掘っていくと、絶対に分かり合える地点があるんです。結局は知識がなかったり、周囲に当事者がいないことで人を傷つけている意識が希薄になる。知らないことに拒否反応を示してしまうのは、一定はしょうがないとも思っていて。でもきちんと向き合って対話をしようとすれば、「そこまでは分かる、そこからは考え方が違うね」と多少なりとも歩み寄ることはできると思うんです。

あなたはそれを「知らない」から嫌いなのか。知っていたとして、自分と「違う」から嫌いなのか。では、それは本当に「嫌い」なのか。知らない、もしくは違うだけの話ではないのか。それらを一緒くたにしてしまわないために、AYAさんは教育が大切なのだと話します。

全ての情報処理は、その人がどんな引き出しをもっているかで決まると思うんです。そして、引き出しの種類を豊富にするのが教育なんじゃないかなと。日本でも最近徐々にリベラルアーツ(問いを立てる力を育むための教養)を取り入れる学校が増えてきていますが、情報が入ってきたときにどうそれを捌くかという自分軸を知ることが、教育の意義だと思います。

【写真】花壇の中で立っているあやさん

さらにAYAさんは、Paletteが企業だからこそ担うことができる役割についても付け加えました。

企業というニュートラルな立場を利用して、感情として流されがちな「怒り」を社会への「投げかけ」に変えていきたいです。不利益を被っている人たちが、怒りの言葉を選んでしまうのは仕方がない。でも企業が同じように怒りを並べてはいけないと思っていて。中立的な立場である私たちができることは、それを解決に導けるよう伝え方を工夫することだと思います。

私たちは“普通”で、“受け入れる側”という意識から変えていく

LGBTもフェミニストも障害や病気のある人も、自分以外の誰かが決めた「べき」から解放されたなら、もっとありのままに生きていけるはず。

「誰に対してもフェアでありたい」――AYAさんは人と関わるとき、その人のラベルや肩書が持つバイアスに惑わされず、その人自身を見つめるようにしたいと話します。AYAさんは発信している立場でありながらも、活動するなかで忘れないようにしていることがあります。

心の中で、自分は普通で、彼らは可哀想な人たちだと分けてしまっていることがあると思うんです。でも世の中の人たちは、受け入れる側と受け入れられる側の二種類ではないんですよね。まずは「私は受け入れる側ではない」ということに気付くか気付かないかによって、アウトプットとしての発言や行動が変わってくると思います。

パレットのように、ただそこに色々な色がある。支援する・されるという関係ではなく、誰もがただそこに存在して互いに関わり合っているだけ。それを聞いて、自分の中にあった「して“あげたい”」という考えがいかに自分本位なものだったかに気付かされました。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるあやさん

ラベルを取った先に残るのは、これまでの歩みや紡ぎだす言葉

違いを受け入れるには、そしてさまざまな「べき」から解放されるにはどうしたらいいだろう。そう思ってAYAさんに会いにいったのですが、私自身も「べき」の意識を作り出していることに気が付きました。理想を掲げる限り、私も誰かを縛ってしまう可能性はゼロではありません。受け入れる側・受け入れられる側に境界がないのと同じように、私は誰かに傷付けられることもあれば、誰かを傷付けてしまうことだってある。

自分の行動や発言の根本にある思想から「べき」は作られます。人それぞれ持っている思想・理想はさまざまなので、世の中から「べき」が無くなることは難しいのかもしれない。対話を通してしか、私たちはその思想の違いに気付くこともできません。だから、対話をしなくちゃいけないんですね。

【写真】微笑んで立っているあやさんとライターのにしぶまりえさん

人からラベルを取ったとしたら、そこに残るのは、その人の歩んできたストーリーとその人が紡ぐ言葉や思い。属性や肩書ではなく、その人の根底にあるものを通してコミュニケーションを取ることができたら、世界はもっと面白くやさしくなれる。AYAさんはそれを教えてくれました。

人との違いを受け入れることは、一見他人に対するやさしさのようですが、それは同時に自分に対するやさしさでもあると思います。人は人、私は私。パレットのようなバラバラな個性をただ認知するだけで、自分のことも一つのユニークな存在として受容できるようになるはずです。

「違い」というのは、厄介で、怖いもの。けれども尊くて、面白くもある。

自分と異なる意見を持つ人や、初めて出会うタイプの人を前にしたとき、私はまだまだ「みんな違って、みんないい」と言えるほど成熟していないかもしれません。けれども少なくとも、話を聞いてみたい。どこかで分かり合えないかを探ってみたい。

AYAさんとの対話で、私の心の中にあった分断の意識が、少し溶けはじめたような気がしました。

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(写真/中里虎鉄、編集/工藤瑞穂、協力/石原みどり)