【写真】自身の描いたイラストの前でポーズをとるいしきとぅーとさん。絵には大きなくじらと太陽が描かれている

こんにちは。絵描きをしている伊敷トゥートです。

私は「自分自身を愛することを通して溢れる希望を届ける」ことをコンセプトに画家をしています。

障害のある姉と育った環境。顔面麻痺などの症状がある「ハント症候群」になったこと。シングルマザーになったこと。その経験が様々な色となり線となり、自分や誰かに寄り添うような活動に繋がっています。

去年、絵描きとして10年目を迎え「私の作品は人生そのもの」だと思うようになりました。幸せだった事も辛かった事も、すべての経験を物語の一ページのように表現しています。今回はそんな私の物語と、人生で大事にしていることについて、お話したいと思います。

きょうだい児として我慢することが当たり前だった幼少期

【写真】幼少期のとぅーとさん。笑顔で立っている

幼少期のトゥートさん(提供写真)

私は両親と姉と弟の5人家族の中で育ちました。姉は生まれた時から心臓が悪く、脳性小児麻痺を患っていました。私は姉のお世話をする両親をみて、幼いながらにその苦労をなんとなく理解していたように思います。

母からは「お姉ちゃんも(病気だけど)頑張っているのだから、あなたも頑張るのよ」と言われていましたし、時には管に繋っている入院時の姉の写真を一緒に見ることもありました。

私は姉を守って生きていくんだ。

物心がついた時からそう思っていました。そのために、我慢をする事は当たり前。例えば親が外出するときは姉を一人で家に置いていくわけにはいかないため、私も姉と2人きりで留守番をする日々が続いていました。

皆のように友達と外で遊びたいけどできない。普通の子が手にしている環境は、いくら望み続けても手に入らないんだ。

そんな日々の積み重ねがあまりにも辛く、「もう望むことは諦めよう。羨ましい気持ちも感情も捨ててしまえば、きっと楽になる」と思うようになりました。我慢をしていることや嫌だという感情に気づかないふりをしていました。

他にも、小学生の頃から姉のトイレ介助をしていて、女性特有の生理現象などもそこから学びました。友達に話した時にすごく驚かれたことから「他の家庭ではしていないことをしているんだ」と実感したのです。

「当たり前のようにしてきたことも、心の底では抵抗があったんだ」と、大人になってから自分の感情に気づくこともありました。

【写真】布のようなものを被っているいしきとぅーとさん。顔には、いくつかの小さい丸模様のペイントをいれている

それでも、姉を嫌いになることはありませんでした。小学生の頃、クラスメイトから「お姉ちゃんが障害者だからお前も変なんだ!」と言われたこともありました。その時は、自分のことよりも姉がバカにされたことの方が悔しかったほどです。

ただ、その頃から目立たないように心がけるようになりました。自分が良いと思うものではなく、みんなが選んでいるものを選ぶ。「辛い」という感情には蓋をしていたので、誰にもその悲しみを話すことはありませんでした。

親に反対されてもやりたかった「絵を描く」ということ

留守番が多かったので、絵を描くことが好きになりました。両親も私の描く絵をとても褒めてくれましたし、保育園の時には「市長賞」を受賞することも。しかし、「大きくなったら画家になりたい」と母に伝えたときは、「一握りしか画家にはなれないから、あなたには無理よ」と言われてしまいました。当時はすでに諦め癖がついていたので、夢を反対されても悲しむことなく簡単に諦めました。

ただ、絵を描くことはずっと好きだったので、中学・高校に進学しても美術部に所属。将来については「みんなと同じ道を進もう」と思っていたのですが、高校三年生で医療関係の学校の体験授業に参加したとき、仕事をすることの大変さを感じてしまいます。

だったら少しでも好きなことを仕事にしたい。今まで好きだった絵を描くことを仕事に繋げられたらいいな。

そんな思いを抱き、美大や東京の専門学校に行きたいと思うように。ですが地元の専門学校にしてほしいと親に言われたこともあり、葛藤はありながらも地元の専門学校へ入学しました。

ありのままの自分を肯定してくれた友達と初の個展開催

デザインの専門学校に入学した私は、広告プローモーション学科を専攻し、ポスターやパッケージデザインなどを企画・制作する商業デザインを学びました。

【写真】自身の作品の前でインタビューに答えるいしきとぅーとさん

そして専門学校で出会った友人達のおかげで、自分の個性を少しずつ取り戻すようになります。

昔から、私の個性や感性、太りにくい体質や個性的な顔立ちは、いじめの対象にしかなりませんでした。集団無視や、聞こえるように悪口を言われたり……。そのため姉だけでなく自分を守るためにも、個性を出さずに周りと馴染み、“はみ出さないこと”を大事にしていました。

ですが専門学校のクラスメイトは個性的な人ばかり。少し安心した私は、当時感銘を受けていたモデルの格好の真似をしたことがありました。

細い体がコンプレックスだったけど、その個性が人気となったモデルと同じ、ミニスカートに白タイツ。少し緊張しながら登校した私をひと目見た友達は、こう言いました。

すっごくいい!とても似合ってる!

その褒め言葉に、人生で初めて生まれ持った個性を受け入れてもらえた気がしました。

私は私の好きなものを選んで生きてもいいんだ。

それからは体型も隠さず、好きなファッションを楽しみました。個性をありのままに表現することはこんなにも楽しいのだと知ることができた経験は、自分の“好き”を表現するはじめの一歩だったように思います。

そうして学生生活を謳歌していたある日。クラスメイトのお父さんでもある芸術家との出会いをきっかけに、「個展(芸術活動)」の開催に興味を持つようになります。その後クラスメイト8人で、グループ展を開催しました。

【写真】グループ展、あなたとわたし展のポスター

あなたとわたし展(提供写真)

コンセプトはそれぞれが思う「あなたとわたし」。会場はDJイベントをするような場所を選び、真っ暗な室内にはクルクルと回るミラーボールの光の粒。壁や天井に敷き詰めた細長いロール紙が空調の風でなびいていました。お客さんには懐中電灯を渡し、作品を照らしながら鑑賞していただきました。結果、初個展は大盛況。

そんな中お客さんから「本当に夢みたいな空間!現実の世界に戻りたくない」と言われたのです。やりたかった個展を形にできたはずなのに、私の中で生まれた違和感。

私が作りたいのは「現実から逃げる夢見たいな空間」ではなく、「現実世界にも元気で戻れるような空間」だ。現実の世界で起きる辛いことや悲しいことも愛せるような活動がしたい。それを絵で表現していきたい。

急に視界が開き、生まれたはじめて抱いた夢だけでなく、生きる意味も見つけたようでした。

「アート活動で生きていく」という一大決心

アート活動を仕事にしたいから就職はしない。そう決断し母に告げると、大反対されてしまいました。それまでは親の言う通りの道を選んできましたが、当時の私は初めて反抗しました。

なんと言われても、私はやる。絶対に成功する自信がある。

人生の一大決心、譲るわけにはいかない。今までにない強い気持ちを持つ私は、夢のために選択した道を進むことしか頭にありませんでした。

【写真】街頭で本を読むいしきとぅーとさん

個性を認められたのが嬉しくて、専門学生のときは憧れのモデルを真似た金髪のベリーショートでした(提供写真)

なんとか両親を納得させたものの、絵だけで生活することは難しく……。卒業後の6年間は様々なアルバイトをしながらアート活動に励みました。

「伊敷トゥート」としてソロ活動を開始したのは4年目のこと。専門で勉強したデザインと活動内容であるアートは似ているようで真逆の性質を持っていますが、物事の考え方、作品のブランディング、広告、パッケージ制作など、学んだことは多いに役に立ちました。知識を活かしてハンドメイド作品も作るようになります。

【写真】いしきさんの作品が並んでいる。スマートフォンケースや、ブローチなど、どれもかわいらしい

【写真】いしきさんの作品。女の子のモチーフがいくつかおかれていいる

できることは全てやりましたが、思うように芽がでない日々が続きました。「諦めよう」と思ったこともあります。それでも続けてこれたのは、周囲の大人達に「できるわけない」と言われていた悔しさがバネになっていたから。そして、人生をかけてやりたいという気持ちが強かったからです。

続けていくうちに徐々に応援してくれる方も増え、皆さんのおかげで今は作家活動のみで生活しています。幼少期に抱いた夢が、ついに現実のものとなりました。

結婚生活、子育てのスタート。そしてハント症候群を発病

活動が6年目に差し掛かった26歳のときには、地元の新聞で大きく取り上げていただきました。そうして順調に活動が広がり始め、これからもっともっと頑張っていきたい!と思った矢先、妊娠が発覚。

【写真】いしきさんが紹介されている新聞の写真

当時の新聞では「無限に広がる世界」と見出しに大きく書いていただきました(提供写真)

当時、地元の同級生の出産ラッシュを見ていた私は、結婚以上に子どもを欲する気持ちが強かったように思います。それでも、実際に妊娠したとわかると戸惑ってしまったのも正直な気持ちです。それでも、当時お付き合いしていた男性が喜んでくれたこと、そして「子どもを授かった以上は夫婦として一生生きていかなければいけない」という私の思いもあり、結婚を決意しました。

ですが産前・産後と体調が悪いなか、彼の個性によって困ることが増えていくように。

離婚をすることで子どもを悲しませたくない。

そう思うと、家庭内の辛い出来事は当たり前となり、感覚が麻痺していきました。辛い、苦しいという感情は見ず、愛おしいところだけを見て暮らす日々。絵を描く時間だけが私が私に戻れる唯一の時間でした。

そんな生活の中で、私は「ハント症候群」を発病し入院することになってしまいました。

ハント症候群になり、感情を表情に出せなくなった日々

ハント症候群とは水痘帯状疱疹ウイルスが原因の顔面麻痺です。

私の場合、疲労やストレスの蓄積から免疫力が低下したようで、耳に帯状疱疹ができました。その帯状疱疹の菌により、顔の神経に麻痺が生じたのです。耳には水泡ができてパンパンに腫れ、陣痛を思い出すほどの激しい痛みと顔の麻痺で私は入院することになりました。

入院中に、顔面の各部位の動きから麻痺程度を診断する検査をしたところ、40点満点中、私の点数は8点。完全麻痺と診断される程の重度の状態です。当時は右半面が麻痺してしまい、瞼を閉じることも、口角を動かすこともできませんでした。

顔面麻痺自体はなんとなく知っていて、一時的な症状ですぐに完治すると思っていたのですが、主治医からは「完治率は60%」と聞き、とてもショックを受けました。入院中に少し瞼が動くようになったものの、目を閉じようとすると白目を向いてしまう自分の姿に悲しくなる日々。

このまま治らなかったら、私のせいで息子がいじめにあうかもしれない……。

出口の見えない不安と恐怖でいっぱいで、未来のことを考えては、涙を流していました。真正面から向き合ったら自分が壊れてしまうのではないかと思うほど。それでも「私はお母さんなんだから、強くならなくちゃ」と思っていました。

同じ病気になっている人のブログを見て情報収集をしたり、当時のブログに前向きな言葉を発することで自分を保っていました。

【写真】インタビューをうけるいしきとぅーとさん

悲しいのに、悲しい顔が作れない。息子が笑いかけてくれるのに、私は笑顔も作れなくなってしまった。さらに夫婦の関係も上手くいかない。

そんな状態になっても、離婚しようとは思っていませんでした。むしろ、頑張っていこうと思っていたのです。実家での休養中に、彼や義母と私の間で気持ちが大きくすれ違うまでは。

今まで我慢して人を愛してきた。でも次は自分を愛する番

病気になったのは自分のせいだ。

彼と義母と話す中で、「自分が我慢することでいつか生活が良くなる」という考え方に限界が来たのだと思いました。このままでは一生幸せになれないと、まるで鈍器で殴られたような衝撃を受けたのです。

もう、我慢して頑張るのはもうやめよう。誰かのためではなく、自分のために生きるんだ。

心からそう思うようになりました。

その後息子の親権を巡って話し合いは難航を極め、離婚するまでに2年の月日がかかりました。できるだけ穏便な形で済ませたかったのですが、歩み寄れば寄るほど、どんどん追い詰められていくかたちになってしまいました。

当時の息子はまだ1歳にもなっておらず、とても手がかかる時期。さらに顔面麻痺はリハビリに通うことで少しずつ回復していきましたが、後遺症で疲れを感じやすく、頭痛やめまいが起きることも。

育児、闘病、仕事と目まぐるしい日々の中での、離婚の話し合い。さらに調停での話し合いでは解決せず、裁判を行うことになりました。

調停・裁判では「目に見える暴力じゃない」という理由から、結婚生活で私の身に起こったことや精神的な被害は考慮してもらえませんでした。裁判官からは「母親なのだから、歯を食いしばって頑張りなさい」と言われたこと、もありました。

これ以上、私はなにを頑張らなければいけないの?なんで他人が私達の人生を決めるの?

全てが辛い環境の中でもどんどん追い詰められ、未来が真っ暗で生きることに絶望して死を考えるようになりました。そんな状況のなかで、友人からある言葉を言われました。

伊敷は今まで周りの人を想って愛してきた。でも今度は自分のことを愛する番。ようやく自分を愛せるね。

そう言われたとき、涙が溢れだして止まりませんでした。理不尽な出来事や辛い状況は、自分を幸せにするためのヒントが隠れている。そう気づかせてもらいました。

私、無理して頑張っていたんだね。今度は自分を愛するね。

そう思うようになり、頑張ってきたことを全て放り投げました。ぼーっとして、息子との時間を過ごし、好きなものを食べて、何もしませんでした。そう過ごし始めたことで、あることに気づきました。

【写真】真剣な表情でどこかをみつめるいしきとぅーとさん

今日見た息子の笑顔も、いつものなんでもない愛おしい日々も、私があの時もし死んでいたら、手にすることができなかったんだ。

自分のことを大切にして生きてみたら、周りに愛が溢れていたことに気付くことができました。私は私のために生きたい。私は私のために沢山泣きました。

離婚を決意した時にも自己犠牲をしないと決めたはずなのに、また我慢をしてしまいました。自分の性格を変えることは大変なことですが、また気付くことができたなら、そこから行動を変えればいいのです。何度も何度も、変えていけばいいのです。

息子との生活の中でも「あなたのために」と自己犠牲はしない

アーティストとして10年目に、離婚をし親権を取ることができました。

そして、シングルマザーを決意した時に、息子のために自分を犠牲にするという考え方をやめました。「あなたのために」という名の自己犠牲は「あなたのせいで」に変わってしまうことがあるからです。

子どもは、親が与えたいと思っている愛を望んでいないのかもしれない。子育てをしていく中で、よく幼少期の自分を思い出します。親が愛だと思って与えてくれたものが、私にとっては苦しいものだったこともありました。親子の愛の不一致を思い出しながら、息子の子育てを通して「自分自身の育て直し」をしているようにも感じます。

【写真】ひまわり畑の前で息子さんと戯れているいしきとぅーとさん

トゥートさんと息子さん(提供写真)

妊娠してから、結婚生活、離婚調停・裁判を経験した数年間は、人生で1番辛い時期でした。しかし、自分自身を愛するという考えや、本当の愛と出会えた時期でもあります。

辛い時に辛いと伝える練習をして、自分を否定することをやめました。そうしたら、情けなくて弱い自分と出会いました。でも、嫌いになるどころか自分自身が好きだと思えるようなりました。

物心がつく頃から自分のことが大嫌いだった私が、生まれて初めて、自分を好きになれたのです。そして、息子を愛し愛されることを通して自分の愛し方を教わったように思います。

独身の頃は、絵を描くことを仕事にするために生活を犠牲にする日々を送っていました。でも現在は息子との日々の中、生活の延長に絵を描くことがあり、絵を描くことと生きることが同じ場所にあります。日々に追われ、絵までたどり着かないこともありますが、トライ&エラーを繰り返しながらその時々に合った心地よい暮らしを模索しています。良い流れになると「育児」「家事」「仕事」がそれぞれの息抜きのような役割になるんです。

【写真】作品の前で笑顔で立ついしきとぅーとさん

ハント症候群は今でも完治していません。身体はストレスを感じやすくなり、疲労で耳が熱を持ち、顔が引きつり頭痛と目眩を起こします。目に見えて症状が出るので、無理をせずに休むようになりました。病気は自分をいたわるためのストッパーのように感じます。

絵描きとして順調に波乱万丈です!

今ではそんな風に笑って話せるようになっています。

麻痺に関しては、口の後遺症が強く、麺類をすすることが難しいです。未だに人と顔を合わせて話すことに抵抗があったり、写真に写る歪んだ笑顔を見る度に胸が苦しくなることもあります。最近は、息子のために風船を膨らますことが出来なくなってしまったことが悲しかったです。

それでも悲しみを否定せず、悲しみを抱きしめて生きてゆく。今はまだ辛いけれど、その先に悲しみを手放せる時がいつかくればと思っています。

画家として10周年の個展「始まりのトビラ 終わりのトビラ」

昨年の9月には画家として10年目の集大成の個展を開催。様々な経験を経て、自分を愛さなければ本当の意味で周りにいる人を愛することができないことに気づいたことで、作品自体も大きく変化しました。

【写真】個展「始まりのトビラ 終わりのトビラ」のポスター。森の中心にいしきさんがいる。その周りには、いしきさんが描いた動物のイラストがいたる所に描かれている。

始まりのトビラ 終わりのトビラ(先方提供写真)

今回の作品は、全て自分のために描きました。様々な節目が重なり、「自分自身を救う旅」に出ることを決意して始めた制作期間。忘れたかったことも、忘れたくないことも、全てを救いあげて作品に落としこむ。私を救う旅は、深い深い森の中で立ち止まっては、しゃがみこみ、一つ一つを抱きしめるようなものでした。そこで出会ったのは、泣いたり、怒ったり、幸せだったり、様々な感情を持った自分。 今まで感じてきたことを救いあげた時、どの感情も輝きを放っていました。

全ての出来事には愛があった。

そう思えた時、私は私を救えたのだと思いました。そして、自分のために描いた作品達が、誰かの心を救いだすきっかけになれたら……。そう願いながら描いていきました。

大袈裟かもしれませんが、今回の個展は人生の全てをかけた展示にしようと決めていました。しかし企画時点で、正直自分の予算では到底まかなえない金額に…シングルマザーで不安定な収入、諦めてしまいそうな状況なのに、夢を見つけた時と同様に、私はどうしても諦めきれませんでした。

困難な状況でも好きなことを思いっきり形にできる!シングルマザーだって好きなことをして生きていいんだよ!

そう自分自身に、そして同じ境遇の人に見せたかったのかもしれません。そこでクラウドファンディングで80万円を募ることを目標に、個展の実現を目指すことに。

クラウドファンディングでは、なんと100万円近い支援を集めることができたのです。純度の高い感謝の気持ちは制作への大きな活力となり、新たなフィールドへと進む大きな一歩となりました。本当にありがとうございました。

【写真】画集の一部。女性のイラストが見開き2ページで描かれていて、その横に「雨音はやわらかくわたしの心を溶かしてくれた」と書かれている。温かい雰囲気が伝わってくる

クラウドファンディングの成功で、当初予定にはなかった画集も作ることもができました

9日間の展示はまるで夢のような日々でした。絵の前で沢山の人が涙を流しているのを見るたび感じたのは、「皆、自分自身を抱きしめているのだな」ということ。そして、会場を出る頃には皆キラキラした笑顔になっていたのがとても印象的でした。

個展の会場となった、表参道にある古民家ギャラリー「裏参道ガーデン」

【写真】いしきさんの作品が展示されている。その前には木を連想させる会場装飾がある

会場装飾は憧れのお花屋さん「カタル葉」さんにお願いをしました

今回の個展を終えて、私が見つけ出したもの。それは「幸せになってもいい」というものです。

以前は、辛い悲しい経験から得たものがあるからこそ、誰かを救えるような絵が描けるのだと思っていました。だから、絵描きとして生きるために、不幸を背負って生きていかなければいけないのだと、心の奥底で思っていたことに気付きました。でもそう決めていたのは誰でもなく自分自身。これからは違います。

私は幸せになっても希望溢れる絵が描ける。

そう自分で決めることができました。画家10年目の個展は、今まで諦めずに前を向いて歩んできた自分自身への大きなご褒美のような展示でした。

【写真】森の動物や植物が描かれたいしきさんの作品

私が私を救う旅を通して、多くの人が幸せを選べるような絵を

ハント症候群の経験、後遺症がある現状に、私はまだ悲しみきれていないようで、病気の話をすると涙が出てきてしまうことがあります。涙が溢れる度、「私はまだ悲しいんだね」と再確認させられています。

でも、心身ともにここまでダメージを受けなければ、ずっと自己犠牲をして頑張り続けていたと思うのです。

明るい色も暗い色も、すべて人生に必要な色。

我慢していた幼少期も、辛かった結婚生活も、ハント症候群になったことも、今の自分を作るうえで大切な経験であり、「自分自身を愛する」ために必要だった出来事です。すべての出来事、感情には愛がある、と思っています。

ひとまず、個展を通して私が私を救う旅は終わりを迎えました。でも、救いというものは一度救えば終わるものではなく、その先も何度も何度も根気よく抱きしめてあげるようなものだと思っています。

どんな自分が出てきても抱きしめてあげる。自分自身の一番の味方であり続ける。そうやってこれからも絵を描き続けていきたいです。そして、優しい人達が「自分の幸せを選べる」ような、そんな活動をしていきたいと思っています。私の思いに共感して応援してくださる方は、ぜひ一緒に活動してもらえると嬉しいです。

もっと自由にもっと楽しく。

これからも愛ある活動をしていきます。

【写真】自身の描いたイラストの前でポーズをとるいしきとぅーとさん

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伊敷トゥート ホームページ

(写真/馬場加奈子)