【写真】街頭の手すりの前に座りどこかをみつめるかないつかゆうきさん

初めまして。金井塚悠生です。高校2年生で発達障害と診断された私は、同じく発達障害のあるお子様のための教室を運営する会社に障害者雇用枠で勤務しながら、お子様の支援や採用活動、社内広報等の仕事に取り組んでいます。

また、副業が認められている環境を活かして、ミレニアル世代を主なターゲットとした次世代型のホテルを運営する会社で企画や広報等の仕事に取り組みながら、趣味の延長でライター等の活動もしています。

今回は、私が発達障害と向き合う中で、今の自分らしい働き方が出来る様になるまでの経緯や、当事者としてこれまで考えてきたことをお話したいと思います。

定型発達者と発達障害者の間。外から見えづらい困りごとに抱えて生きる日々

私が医師から受けた正式な診断名は「高機能広汎性発達障害」と言います。知的な障害を伴わないものの、対人コミュニケーションなどに困難が生じやすい特性がある発達障害の一種です。また、発達障害は同じ診断名や傾向のある人の中でも、特性の強さや困難の度合いはさまざまで、スペクトラム(連続体)だと表現されることがあります。私も、自分自身の立ち位置をあえて言うなら、定型発達者(健常者)と発達障害者の境界にいる存在だと感じています。

私は発達障害の診断を受けていて、障害者手帳も取得しています。

そう伝えると、「全然そんなふうに見えないですね」と言われることがよくあります。

しかし、私は多くの高機能広汎性発達障害の人達と同様に、外から見えづらいところに発達障害者特有のコミュニケーションや想像力、社会性に関する困難や、感覚過敏、多動傾向など、実はたくさんの困りごとを抱えながら生きています。

【写真】明るい日差しがさしこむ街頭を歩くかないつかさん

例えば、私は、相手の表情を読んだり、気持ちを感覚的に理解することが苦手です。相手の反応を見ずに、早口で一方的に話してしまい、伝えたいことが全然伝わらないということがしょっちゅうあります。3人以上の集団での会話が苦手で、たまにそれまでの文脈と全く違うことを話して、流れを止めてしまうことも。

また、自分の中での独特のこだわりがあり、部屋の中の物には全て定位置があって、少しでも乱れるとストレスになったりします。幼い頃から偏食がひどく、ずっと同じ物を食べていたりします。

極め付きは多動性の高さです。1つのことに集中することが苦手で、常に動き回っていて、並行でいくつも作業をしていないと落ち着かないという特性があります。

どこまでが発達障害によるもので、どこまでが自分自身の性質によるものなのか。正直良くわからないことも多いです。そんな困りごとを抱えながらも、今は周囲の人達の理解に支えられながら、何とか自分らしく働いて生活することが出来ています。

「人に愛されていた」優しい記憶が残る子ども時代

幼い頃の私は、人懐っこくて好奇心旺盛な子どもだったそうです。

公園や商店街など、どこかに出かけると知らない人にも人見知りせずに話しかけて、可愛がってもらったり、たまに無邪気に失礼なことを言って母をヒヤヒヤさせていたみたいです。

幼稚園の頃は、自然や生き物が好きで感受性が高く心優しい反面、こだわりが強くわがままな傾向も顕著だった気がします。「好き」「嫌い」がはっきりした性格で、みんなでやる遊びに関しても「自分の思い通りに進めたい」という自己中心的な一面がありました。

【写真】明るい光を振り返るかないつかさん

突発的に思い立ったことをやりたくなる癖があり、体操服の自分の名前を書くところに当時憧れていた仮面ライダーの主人公の名前を書いたり、スカートを履いてみたくなって何故か一日だけ全身女の子の格好で通園したこともありました。今でも何でそんなことをしたのかはよく分かりません。

当時通っていた、丘の上にある教会の付属幼稚園の先生は、そんな私の突飛な行動に対しても、咎めることなく「元気でいいですね」「個性豊かで素敵ですね」と寛容に受け止めてくれていた記憶があります。

今思うと、まわりの人達にはいろいろ迷惑をかけていたのですが、環境に恵まれたおかげで幼少期は何不自由なく楽しく過ごすことが出来ました。人生の中で、唯一、自分の存在が無条件で肯定されていて、確実に「人に愛されていた」と思える時期でした。

教室は子どもたちだけの国。必死に生き残る術を探していた

【写真】街頭を全力疾走するかないつかさん

私が「他人と少し違う自分」に気が付いて、社会と自分との接点を探る長い闘いが始まるのは小学校3年生の頃でした。この頃の自分は、かなり教室で浮いていた気がします。

まわりは少しお洒落などにも気を使い、テレビを見て流行などを追いかけ始める年頃。一方、当時の私の家庭環境は、母親が抑鬱状態だったこともあり、家は散らかり放題、毎日よれよれの服を着ていて、バラエティー番組は教育に悪いからという理由で見せてもらえませんでした。

思春期を前にどんどん成長していくクラスメイトと、いつまでも小学校低学年の頃のノリで生きている自分。当時はそんな自分の状態を客観に見ることも出来ず、空気を読まずに自分のペースでクラスメイトと関わってしまっていたこともあり、気が付くとクラスで孤立していました。

この頃に、軽いイジメを受けたことで私の自意識は大きく変わりました。学校の教室という『子どもたちだけの国』では、分かりやすい価値を身に着けないと誰にも相手にしてもらえない。足が速いこと、さりげなく勉強が得意なこと、話が面白いこと。何かと不器用で要領が悪い自分にとっては、どれをとっても不利なゲームに思えました。

ここで価値のある存在にならないと誰にもかまってもらえない。

この時の自分は、そんな強い強迫観念と、生来の負けず嫌いな性格に後押しされて、生き残る術を身に着けるために必死に努力を重ねました。

【写真】屋上からみた学校の校庭の写真

過剰にまわりの目を気にするようになり、サッカーの練習に打ち込み、塾に通い始めました。サッカーも勉強も夢中になって努力を重ねると、幸いなことにどんどん上達して、少しずつクラスメイトに認められるようになった気がしました。

小学校では最終的に、「少し変わっているけど面白いヤツ」という立ち位置で、教室に居場所を得ることが出来ました。この頃はまだ、そこまで深刻な生きづらさは感じていませんでした。

楽園とスクールカースト。自分の価値 誰が決めるか、何が決めるか

中学受験をして入学したのは、関西でも有数の中高一貫の進学校でした。放任主義の自由な校風で、教師も生徒も理知的で理不尽なことはほとんどない世界。ある意味、楽園のような環境でした。

一方で、世の中では、「勝ち組や負け組」「格差社会」等の言葉が流行していました。そんな風潮に影響を受けていたこの頃の私は「~でなくてはならない」、もっと極端に言うと「~でなければ生きてる価値がない」というこだわりがどんどん強くなっていきました。こうしたこだわりの強さや認知の偏りも発達障害の特性の1つとして挙げられることがあります。

「大学は東大か京大に合格しなくてはならない」
「ガリ勉はダサい、部活も出来なければ意味がない」

常に他人から見た自分の価値=「他者評価」を意識して、その価値を上げるために努力しなければならないという思いに駆られて、自分を追い込んでいました。学校の中で自然発生する序列『スクールカースト』という言葉が一般的に使われるようになったのは少し後でしたが、当時の自分はそんな価値観に過剰に囚われていた気がします。

【写真】見渡しの良い景色を背景に、穏やかな表情のかないつかさん

それでも、中学3年間は部活や勉強に明け暮れて、それなりに充実した日々を過ごしていたのですが、高校進学にさしかかったあたりから、日中、謎の眠気に襲われるようになりました。前の日に10時間寝ても、授業中また寝てしまう。後になってこの頃は、発達障害の二次障害で抑鬱の傾向や自律神経失調症の状態であったことが分かりました。

部活と勉強に打ち込んでいた生活から一変して、一日中眠気と闘いながらただ時間だけが過ぎていく毎日。結局、部活は中学で引退、上位をキープしていた成績もどんどん落ちていきました。

中学校からの友達は何人かいたのですが、当時は、部活も勉強も出来なくなった自分には価値がないと思い込んでいて、友達ともどう接してたら良いのかも分からなくなっていました。次第に学校からも足が遠のいて、学校に行く日より行けない日の方が多くなり、「不登校」と呼ばれる状態になっていきました。

発達障害の告知「気づけば普通じゃなくなっていた僕」

発達障害の診断を受けたのはそんな生活が1年半ほど続いた、高校2年生のとき。心療内科で心理検査を受けました。

実は、自分が発達障害であることをはっきりと自覚したのがいつだったのか、正確に覚えてはいません。ただ、心理検査を受けてしばらく経った時、母の口から「障害」という言葉を聞いて、それが自分に対して向けられたものだと知ったとき、背筋がスッと寒くなる感覚になった記憶があります。

【写真】インタビューに答えるかないつかさん

今なら知識や経験をもとに、自分が発達障害であることや特性をある程度認識することが出来ます。ただ当時、知識もなく、思春期真っただ中で様々な葛藤を抱えていた自分には、発達障害というものと向き合う余力はありませんでした。

物心ついた時から、将来は人の心を動かすものをつくりたいという思いがありました。東大か京大に入って、マスコミや広告代理店で社会現象を起こすような仕事をする。そんなふうに無邪気に夢見ていた目の前の道は、跡形もなく崩れ去ってしまったように思いました。

後々振り返って、転機となったのは、高校2年の冬に1週間、沖縄のフリースクールに見学に行った時のこと。そこには全国から、不登校の子が集まっていて、みんな一緒に寮で暮らしていました。

それまで、進学校の友達としか接点がなかった自分は、多様なバックグラウンドを持った子達との出会いに衝撃を受けました。

ここで出会った東京の男の子の影響で、映画やアニメにハマりました。凝り固まった価値観の狭い世界に閉じこもっていた自分にとって、それは社会への関心を繋ぎ止める役割を果たしてくれた気がします。

【写真】本屋さんで本を読むかないつかさん

結局、高校2年生の終わりには、出席日数が足らずに留年するか自主退学をするかの選択を迫られました。このまま、学校生活を続けても出口が見えないと感じた私は自主退学という道を選びました。この頃は、何もかもに疲れ切っていて、他に選択の余地が無かったという感覚でした。

その後は、近所の通信制の予備校に通い、高認の取得と大学受験を目指して勉強をしていました。この頃は、睡眠障害に加えて、感覚過敏もひどくなっていて、家の横を通る車の音が気になって耳栓が手放せない様な状態でした。

それでもまだ、「大学に行くなら東大か京大」という思いにとりつかれていました。一方で現実は、数か月集中して勉強したかと思えば、また数か月全く勉強が手につかないという生活の繰り返し。

この頃、母親のすすめで、大阪市内のフリースクールに通っていました。そこは、不登校の当事者研究をしている大学の先生との出会いがありました。世の中の仕組みや人の心に強い興味を持っていた私は、その先生との出会いをきっかけに、社会学という学問の存在を知りました。いつのまにか予備校にはほとんど行かなくなり、本屋で社会学関連の本ばかりを読み漁っていました。

当時、秋葉原連続通り魔殺傷事件の「誰でも良かった」という犯行の動機に強い衝撃を受けて、事件の背景にある、格差社会、派遣労働者、ネット社会、若者の承認欲求の問題などに強い関心を持っていたのですが、社会学の本は、自分が社会に対して疑問に思っていたことを考える手がかりを与えてくれました。そんな日々の中で、やはり、大学に行って勉強したいという思いが再び湧いてきました。

結局、受験勉強には最後まで身が入らなかったのですが、後期入試でなんとか関西の私立大学に合格することが出来ました。

新しい人との出会いが、自分を縛り付けていた鎖をほどいてくれた

大学では、約2年間引きこもっていた反動で、一転して活動的になりました。

入学したのは2011年。ちょうど東日本大震災が起こった年でした。「自分が引きこもっている内に社会が大変なことになっている。とにかく何か行動しなければ。」そんな思いから、被災地のスタディツアーを企画する活動に参加しました。その他にも、学園祭の実行委員や学生団体など複数の組織に所属して、高校時代の失われた青春を取り戻すみたいにずっと動き回っていました。

新しい人と出会ったり、新しいことを経験する度に、自分の考えを縛りつけていた鎖がとけて、視野が広がっていく感覚がありました。「自分が想像以上に、世の中には多様な価値観を持った人がいて、たくさんの生き方があるんだな。」そんな当たり前のことを身を持って実感しました。大学での活動を通して、たくさんの人達と出会い、小さな成功体験をたくさん積むことが出来ました。自分が発達障害であることは忘れかけていました。大学3年生くらいの時に、入学前に顔見知りになった大学の職員さんに「随分と表情が柔らかくなったね」と言われたことが記憶に残っています。

就職活動にも前のめりに取り組んでいきました。人生で初めて経験した就職活動の面接では、学生時代に積極的に活動をしていたという自負があったので、面接でも意気揚々と自己PRをしました。ところが、面接官の第一声は「君、独りよがりなところあるよね」。

今振り返ると、当時の自分のエントリーシートや面接での受け答えがいかに自己本位なものだったかが分かるのですが、当時はどこがズレていたのか理解することも出来ず、ひたすら落ち込んでいました。

また、自分が発達障害であることを思い出しました。

【写真】手すりの前に座り、どこかをみつめるかないつかさん

当時、発達障害であることを開示しての就職は考えていなかったのですが、履歴書で高校を中退していることは絶対に突っ込まれるため、就職活動では、過去の自分と向き合って総括することが求められていました。

その後は夏にベンチャー企業のインターンシップなどで場数を踏んだこともあり、秋になると面接での要領を掴んできて、大手企業のインターンに通るようになっていました。面接では、過去に不登校だったことなども話した上で、認めてもらうことが出来て大きな自信になりました。

大手企業のインターンシップでは、まわりは一流とされる大学の学生しかいなかったので、かつて、進学校にいた時の同級生とようやく同じスタート地点に戻ってこれた気がしました。

しかしながら就職活動はそう簡単にはいきませんでした。就職活動の軸を絞り切れないまま、毎日〆切に追われながら、エントリーシートを出す日々。手書きとスケジュール管理が苦手な自分にとっては苦しい条件でした。

希望していた大手のマスコミや広告代理店などの企業には次々落ちて、第一志望にしていた大手出版社も役員面接で不採用。お祈りメールを開いた瞬間、周囲の景色が滲んだことを覚えています。

最終的には、志望してきた企業への内定は叶わなかったものの、教育系の大手企業と出版取次の大手2社の内定をもらうことが出来ました。就活がひと段落した後は、社会に出て「働く」ということに対して、不安に駆られるようになりました。数か月間、ずっと体調がすぐれない日々が続き、期限のギリギリまで進路に迷っていました。最終的には、将来出版社に転職したいという動機と、比較的ゆとりある環境で働けそうという理由で、出版取次の企業を選びました。

初めての配属は「世界で一番向いていない仕事」

出版取次の会社に就職した私は、正直、全く使い物になりませんでした。

私は、初期配属で物流センターに配属されることになりました。レンタルビデオ店に入荷するレンタルCDをメーカーから入荷して全国の店舗に配送するというラインの管理業務。 大手マスコミ志望のミーハー就活生だった私にとっては、ギャップが大きな職場でした。

多動性のある私にとって、ミスが許されないルーティンワークは最も苦手とする仕事。いつまで経っても一人で業務をまわすことが出来ませんでした。

【写真】音楽を聴きながら歩くかないつかさん

また、会社の寮から物流センターまでは、片道2時間かけての通勤がありました。元々疲れやすく、睡眠時間が長く必要な私にとって、満員電車に揺られて都内を横断する通勤は身体に堪えました。日中も眠気が付きまとい、あくびが止まらず上司に怒られることも度々ありました。

眠気と不本意配属の気分の落ち込みから、業務に必要なこと以外ほとんど職場で話すことがなくなりました。

何でこんなところにいるんだろう。

出口の見えない毎日が続き、本格的に体調が悪くなっていく。そして寮の近くの心療内科に定期的に通うことになりました。診断が下りるほど深刻な状態ではないが、抑うつ傾向にあるとのことでした。

職場にも、心療内科に通っている旨を相談しました。当時の上長は事情を知ると親身になって相談に乗ってくれました。仕事内容は合わなかったが、人には随分恵まれた職場だったと思います。

今でも、全く仕事が出来ない新人だった私に、真摯に向き合ってくれたこの時の上司には感謝しています。

再びレールを降りて「障害者雇用」で働いて生きていく道を選ぶ

そんな中、就職活動時代の友人の紹介で、人材企業のエージェントの人に会う機会がありました。私は自身が発達障害で、「もう一般就労で働ける気がしないから、障害者雇用で仕事を探して転職活動をしようと思う」という話をしたところ、障害者雇用は領域外なので会社を紹介することは出来ないと言いがらも、転職活動について親身になって相談に乗ってくれました。

それから毎日、インターネットで障害者雇用の求人を見ていました。

自分は障害者として生きていくのか。

これまであまり意識してこなかったが、求人を見るたびに、「障害者である」という現実を突きつけられている気がしました。障害者雇用の求人は、就職活動の時に見ていた一般就労の求人に比べて、非常に職種が限られていて、給料が低く正社員の仕事も少ない。また、発達障害を含めた精神障障害者の求人は、その中でも圧倒的に少ないという現実がありました。

【写真】外で座りながら携帯を使用しているかないつかさん

早くも行き詰まりを感じていた時に、今、勤めている会社の求人と出会いました。

「障害のない社会をつくる」をヴィジョンに掲げるその会社では、障害者雇用でも、仕事内容も待遇も一般雇用と変わらない水準。障害のある人を支援する事業を展開するこの会社であれば、自分のこれまでの経験を活かして何か出来るかも知れない。真っ暗だった前途に少し光りが射した気がしました。

内定をもらった後、悩んだ末に、もう一度再出発したいと考え、転職することを決意しました。前職の人達には、本当に自分の都合で振り回してしまって申し訳ないと思いました。それでも気持ちよく送り出してくれる人たちもいて、自分は自分の道で頑張ろうと決めました。

個性豊かな子どもたちに、かつての自分の面影を感じた

私が採用されたのは、発達障害などの障害があるお子様を対象に学習支援やソーシャルスキルトレーニングを実施する教室の指導員。これまで特に子どもに接した経験があるわけではなかったので、正直自分でも実際に働くまで全くイメージは湧きませんでした。

いざ仕事を初めて見ると、慣れないながらも教室に通う個性豊かなお子様と向き合う日々は、想像以上に楽しい毎日でした。みんなそれぞれ違った個性を持っていましたが、不思議と、必ずどこか自分と重なるところがある気がしました。

自分が発達障害であることは直属の上司以外には、特に同僚にも、利用者様にも伝えることはしませんでした。それは自分自身がまだ、発達障害の自分と向き合い切れていないという思いがあったからです。同じ発達障害と言っても、それぞれが抱えている困りごとが多種多様な中で、安易に自分が当事者を名乗れないとも考えていました。

一方で、同じ発達障害の当事者として生きる身として目の前のお子様に、自分との関わりの中で、何か少しでも残してあげたいと思うようになりました。

【写真】オフィスが立ち並ぶ前で清々しい表情のかないつかさん

慣れ親しんだ地元の大阪に戻り、やりがいのある仕事が見つけた私は、どんどん元気になっていきました。

ひとたびエネルギーが湧いてくると、ひとところに留まることが難しい性格。半年くらいが過ぎると、通常の業務以外でも、教育や福祉関係のイベントに通いつめ、何か新しいことが出来ないかと考えるようになっていました。

熱い思いを持った優秀な仲間達に囲まれて働いているうちに、「もっと成長したい」という思いが日に日に強くなりました。そんな時、たまたま、社長と個人面談をしていただける機会に恵まれ、これまでの人生や自分の考えを全力でぶつけました。社長は「君は、異能人材だね」と自分の経歴や考えを面白がってくれたことが嬉しくて、他者に個性を認めて貰えたことは自分の人生を生きる原動力になりました。

障害者雇用×副業。パラレルキャリアな私の新しい働き方

特に大きな悩みもない一方で、将来に対しては漠然とした不安と焦りを感じていた入社2年目のある日。知人の紹介で、ホテルプロデューサーをしている若い経営者に会う機会がありました。

【写真】街頭を歩くかないつかさん

話を聞いていると、斬新な視点や、人を惹きつけるカリスマ性に、「この人が考えることが、実現した世界を見てみたい」という気持ちが湧いてきて、なりゆきで副業で仕事をお手伝いすることになりました。

手探り状態で始めた副業でしたが、次第にホテルや会社の広報や、新しいプロジェクトの企画などいろいろ任せてもらえるようになり、仕事を通してたくさんの新しい出会いにも恵まれました。

かつて、広告代理店や出版社に入社したらやってみたいと思っていたクリエイティブの企画や、ローカルメディアの制作などの仕事にも挑戦することが出来ています。「人生って思いがけないところで繋がるもんだな」と、スティーブジョブスの「Connecting the Dots」という言葉を思い出しました。

現在は本業の仕事も、現場の指導員以外に、採用や社内広報など、複数の業務を掛け持ちする働き方になりました。また最近は、別軸の活動としてライターとしてWEBメディア定期的に記事を書かせてもらえる機会などにも恵まれてました。最近は、独自の価値観や信念を持って活動している人と出会い、話を聞いて、その人の物語を自分なりに発信することが、自分にとって天職なのかもしれないと思っています。

働くことは、自分を社会に繋ぎ止めてくれる重要な役割

気づけば自分にとって、「働くとは生きること=この世界のすべて」になっていました。今は、ありがたいことにやりたいことだけをやって生きていくことが出来ていますが、寝る時間以外はほぼ働いていて、完全な休みは、ほとんどありません。

日常で接点がある友達と呼べる人はほとんどが仕事で出会った人達。友情、家族、親戚、恋人など、曖昧で目的のない人間関係が苦手な自分にとって、仕事は分かりやすく自分と他人の関係を定義して、役割を与えてくれます。働くことは、私が他者や、社会とつながる上でとても重要な機能なのだと思います。

私は、環境に恵まれたおかげで、この2年くらいは仕事が面白くないとか苦痛だと感じたことは一度もありません。一方で、ある時期から、どれだけ活動が増えて日々が充実しても、常に虚無感が付きまとうという悩みを抱えるようになりました。

【写真】真剣な表情でどこかをみつめるかないつかさん

それは日常のふとした瞬間、例えば夜の帰り道や、何かがひと段落した時など、どこかともなく湧き上がってきます。だから、起きている時は常に動き、考えている必要があります。立ち止まることは出来ない。何の予定もない休日が一番怖いです。この虚無感をどうすれば解消できるのかは正直まだよく分かりません。

【写真】見渡しの良い橋の上を歩くかないつかさん

ライフステージの終点から、自分の人生を取り戻す旅へ

最近になって、自分がマイノリティであるということを実感する機会が増えました。25歳を過ぎたあたりから友人がどんどん結婚して、新しいライフステージへ進んでいきます。結婚、出産、子育て、家、車、保険。世の中で「当たり前のもの」として描かれているものが、ことごとく自分とはほど遠い世界の話に思えます。

高校時代に家族がバラバラになって以来、ずっと独りで変わらない平坦な日常を生きる自分は、既にライフステージの終点に立っている気がしました。

一方で、よく考えたら、自分が「普通」や「マジョリティー」だと考えている人生も、実は無数にある可能性の1つで、幸せな人生のかたちは決して1つではない気もします。もしかしたらこれからは、マイノリティに限らず、誰もが自分の道を歩む道自分でつくっていく時代なのかもしれません。

発達障害はまだまだ未知なことが多い分野です。発達障害のある人にとってどんな働き方、生き方が幸せなのか、誰にも正解は分かりません。それは、きっと人の数だけ答えがあることだと思います。人生を通して、これまで先人が生きる中で開拓してきた道に、小さな1本の道を加えること。それが、暫定的な自分が生きる意味なのかなと思っています。

【写真】街頭を歩くかないつかさん

働き方に関しては、もっと発達障害のある人の可能性を広げられたら良いなと考えています。発達障害という言葉は随分と一般的になりましたが、実態の理解はまだまだ進んでいない気がします。教育の現場でも就労の現場でも、正しい理解が進んで、個人に合わせた合理的配慮などの支援の環境が整えば、発達障害のある人が活躍出来る場所もまだまだ広がると思っています。

私が結果的にたどり着いた「障害者雇用×パラレルキャリア」という働き方には、大きな可能性を感じています。障害者雇用は賃金が低かったり、業務内容が限定的なこともあって、生活とやりがいを両立することが難しいという現状があります。

そんな中でも、私は、今の働き方にたどり着いたおかげで、本業では障害を開示して配慮が得られる環境で安心して働いて、副業では思いっきりやりたいことに挑戦するということが可能になりました。

自分のケースは少し特殊な事例かもしれませんが、障害者雇用やパラレルキャリアという働き方がもっと一般的になるだけでも、今より発達障害のある人の可能性を広がると思っています。

「普通ではない自分」を認めてくれる人との出会いが人生の支えになる

今、自分と同じように発達障害があって、生きることや働くことに悩んでいる人がいるとしたら、「自分のことを認めてくれる人を探し続けること」が大切だと伝えたいです。

私は、ずっと普通になりたいと思っていました。普通になれば、特に何かに秀でていなくても、みんなの輪の中に入れて認められると思っていました。「普通になりたい」と思いながら、自分の個性を否定して生きていた頃は、辛くて、苦しい毎日でした。でも生きている中で、多くの人に会っていると、稀に自分の「普通ではないところ」も含めて理解して認めてくれる人と出会えることがありました。

「普通になろう」ともがいていた自分は、「普通じゃない自分」の個性を認めてくれる人との出会いによって、このまま自分らしく生きても良いのかと思えるようになりました。

昔、職場の同僚に「あなたの言っていることに共感できる人ってたぶん1億人に1人だよ」と言われたことがあります。言った同僚は悪意なくストレートな物言いをする人だったので、むしろ感心した記憶があります。「そうか、だから今までこんなに孤独だったのか」と。

仮に1億人に1人しか共感してくれる人がいなかったとしても、全世界70憶人の中から探したら、70人くらい、「普通じゃない自分」に共感してくれる人がいるかも知れません。「普通」の呪いは簡単には解けないので、私も今でもよく「普通じゃない自分」に絶望することがあります。そんな時に「普通じゃない自分」にもちゃんと価値があることを思い出させてくれる人と、出会い、繋がっていることが、何より心の支えになることを実感しています。

【写真】橋からどこかを眺めるかないつかさん

君は君らしく生きる自由がある

「欅坂46」のデビュー曲、「サイレントマジョリティー」にこんなフレーズがあります。

君は君らしく生きる自由があるんだ 大人たちに支配されるな 初めからそう諦めてしまったら僕らは何のために生まれたのか?

私が仕事で発達障害のお子様に接する時に、伝えたいことはこれに尽きると思っています。人は誰もが、生まれながらに自分らしく生きていく権利を持っていると思います。だけど、様々な困難に遭遇しながら、社会と折り合いをつけて生きているうちに、ついそのことを忘れてしまう気がします。全ての人達が自分らしく生きられる社会に少しでも近づけるように、これからも自分に出来ることを考えて、目の前の課題に向き合っていきたいと思います。

最後に、最近見つけた夢の話をさせてください。死ぬまでに、1つ、かつての自分と同じように眠れない夜を過ごしている人に向けた物語を残したいと思っています。これまで何度も人生に絶望してきましたが、その度に、様々な小説や漫画、映画、音楽などの物語によって救われてきました。

「この世は生きるに値する」。それを子ども達に伝えるためだけに私は作品をつくって来た。

尊敬する作家宮崎駿が引退する時に話した言葉です。彼の作品は、虚無感に呑み込まれそうになる私を何度もこの世界に繋ぎ止めてくれました。誰か1人にとってでも、この世界を生きる希望になる様な物語を残せたら良いなと思っています。もしかしたらその物語は、これから自分が歩む人生を賭けて遺すものかもしれません。

そんなことを考えながら、今日も生きています。

【写真】芝生に立つかないつかさん

(写真/延原優樹)

訂正:記事掲載時に、①高機能広汎性発達障害関する記載②心理検査名の記載について誤りがありましたので、以下のように訂正させていただきます。大変申し訳ございません(2019/3/18 soar編集部)

①高機能広汎性発達障害関する記載

<訂正前>
私の正式な診断名は「高機能広汎性発達障害」と言います。これは知的な障害を伴わない軽度の発達障害を意味します。属にグレーゾーンやボーダーとも呼ばれていて、あえて言うなら、定型発達者(健常者)と発達障害者の境界にいる存在です。

<訂正後>
私が医師から受けた正式な診断名は「高機能広汎性発達障害」と言います。知的な障害を伴わないものの、対人コミュニケーションなどに困難が生じやすい特性がある発達障害の一種です。また、発達障害は同じ診断名や傾向のある人の中でも、特性の強さや困難の度合いはさまざまで、スペクトラム(連続体)だと表現されることがあります。私も、自分自身の立ち位置をあえて言うなら、定型発達者(健常者)と発達障害者の境界にいる存在だと感じています。

②心理検査名の記載

<訂正前>
心療内科で「WAIS-Ⅳ」という主に学齢期から成人が受ける心理検査を受けました。

<訂正前>

心療内科で心理検査を受けました。