【写真】お母さんと膝の上に乗っている赤ちゃん、そして隣におばあちゃんが座っている。笑顔で微笑み合っている

いいことがあった日も、何もかもうまくいかない日も。元気なときも、弱っているときも。いつでも自然体で自分らしくいられる場所が、あなたにはあるでしょうか。

職場における上司・部下、家庭における親子や夫婦。その関係性のなかで自分に期待される役割を意識して過ごしていると、自分を良く見せようとしたり無理を重ねたりして、疲れてしまうことがあります。

そんなとき、調子の良いときも悪いときもふくめた自分自身を受け入れてもらえる居場所や関係性があると安心して、また頑張ろうと思える。私自身、そんな経験をしたことがあります。

地縁・血縁のつながりが圧倒的に強かった時代と比べ、今、所属するコミュニティも、つながりを持たずに生きることも、自分の意志で選べるようになりました。けれどたとえ「居場所がほしい」と思っても、それは具体的にどのような場所なのか、どのようにつくるのか、はっきりとイメージできない人も多いのではないでしょうか。

東京都港区には、多世代が集う地域の居場所があります。2008年より、港区と慶應義塾大学が協働して運営を続ける「芝の家」。子ども、大人、高齢者、住民や在勤・在学の人、誰もが自由に出入りできる地域のコミュニティづくりの活動拠点で、10年以上にわたって地域の人から愛されてきました。

年齢や立場を超えて多様な人たちが集まり、ゆるやかなつながりのなかで元気になる。そんな「居場所」は、どのようにつくられているのでしょうか。私たちも、芝の家に足を運んでみることにしました。

【写真】黒板に運営時間や「芝の家」の文字が書かれている

人と人がゆるやかに交わる、芝の家

ここは、東京タワーや慶應義塾大学からほど近い港区芝エリア。オフィスビルに囲まれた街の一角を歩くと、日当たりの良い縁側がある小さな家がありました。

【写真】木でできた建物の玄関前には植物が植えられたプランターが並ぶ

室内はぐるっと全体を見渡せるくらいの、こじんまりした広さです。

【写真】子どもや高齢者など様々な人が、ソファに座っていたり、立っていたり、誰かと話していたり、一人でただずんでいたり。自由に過ごしている

芝の家がオープンしているのは、火・水・木・金・土の週5日間。そのうち、火・木曜は大人がゆっくりできる「くつろぎの日」、水曜は「子どもの遊び場中心の日」、土曜は「大人も子どもも誰でもようこその日」。このように曜日によって大まかに過ごし方のテーマがあるものの、厳密な決まりはありません。

子どもから高齢者まで誰でも訪れることができる芝の家では、過ごし方も自由。

お母さんが子どもを連れて遊びに来たり、高齢者がお茶を飲みながらおしゃべりを楽しんだり。日によっては近くのオフィスで働くサラリーマンが昼休みにやって来て、お弁当を食べてお茶を飲んでいくこともあるのだとか。

私たちが芝の家を訪れたのは、「子ども遊び中心の日」でした。

到着した午後1時ごろ、子どもたちはまだ少なく、赤ちゃんを連れたお母さんや、窓際で日向ぼっこをするおばあちゃんたちの姿がありました。

この日は物入れから端切れが出てきたことをきっかけに、おばあちゃんたちが雑巾を縫い始めました。おばあちゃんたちは「私は若い頃、運針が苦手でねえ」など楽しそうにおしゃべりをしながら針を動かします。いっしょに雑巾作りに参加する人たちも出てきました。

【写真】ソファに座ったおばあちゃん2人が、雑巾を縫っている

その傍ら、通りに面した縁側を介して、通りすがりの人とのコミュニケーションも活発に発生します。縁側から声をかけられて芝の家を訪れ、常連さんになった人も多いそうです。

【写真】犬の散歩中の女性が縁側から、芝の家の中の人に話しかけている

やがて通りは、下校中の小学生で賑やかに。縁側越しに「おかえりなさい」「ただいま」の声が飛び交い、今日学校であったことを楽しそうに報告する子どもたちの姿もありました。

【写真】ランドセルを背負った学校帰りの子ども2人がやってきて縁側に座っている

しばらくすると、ランドセルを家に置いた子どもたちが芝の家に続々と集まって来ました。どうやら芝の家に集合して遊ぶ約束をしていたようです。

【写真】自転車にのって男の子が芝の家にやってきたところ。友人と待ち合わせをしているよう

奥の机では、常連の高野さんによる「ちぎり絵ワークショップ」が始まりました。

【写真】ちぎり絵を教わっている様子

ちぎり絵を習う大人たちのとなりで小学生たちがゲームをしているという不思議な光景ですが、ゲームを中断してちぎり絵の様子を見に行く子がいたり、ワークショップの途中で子どもたちに話しかけるおばあちゃんがいたり。それぞれがやりたいことをやりつつ、ゆるやかに交わっています。

そのあとも、部活を終えた中学生や赤ちゃんを連れた若いお母さんなど様々な年齢の人たちが芝の家を出入りしていました。

【写真】おばあちゃんがお母さんの膝に座っている赤ちゃんのほっぺを笑顔でつついている

絶えずいろいろな人が訪れる芝の家では、どんな人でも無理をせずすんなりとその場に溶け込めるような空気感があります。常連さんかと思って声をかけてみると、今日が初の訪問だという方もいました。

芝の家は、同じ空間で、様々な人がそれぞれやりたいことをして過ごすことで、ゆるやかに出会い、交わることのできる場所です。

スタッフとお客さんみんなで、場をつくる

無理に輪に入らなくても良い、それでもひとりぼっちだとは感じない。そんなほど良い距離感と居心地の良さはどのようにつくられているのでしょう。芝の家のスタッフにお話を伺いました。

加藤:芝の家は「屋根のある公園」みたいな場所ですね。

そう話すのは、現在のスタッフのリーダーである加藤亮子さん。元保育士で、芝の家がオープンした2008年から関わっています。

【写真】インタビューに応えるかとうりょうこさん

加藤:公園では、遊んだり本を読んだりおしゃべりしたり、誰もが自由に過ごしますよね。芝の家も同じ。決まった使い方がないから、いろいろなことが起きるんです。

私たちが訪れた日、たまたま物入れから端切れが出てきたことから雑巾作りが始まったように、何が起きるかわからないのが芝の家の日常です。

【写真】ぞうきんを縫おうとしている人たち。真剣な人もいれば笑顔の人も

加藤:予想のつかないことも受け入れるために、プログラムを作り込まないようにしています。

芝の家ではちぎり絵ワークショップのような来場者によるイベントも多く開催されますが、あくまで「人が集まったらやる」というスタンス。「絶対にこれをする」とは決めず、自然発生的な出来事や出会いを楽しむ隙間を残しています。

【写真】ちぎり絵のやり方を教わっている

あえてプログラムを固定せず、訪れる人にその場で何をするかを委ねる。運営側がコントロールを手放すことは、勇気がいることのように思います。

加藤:プログラムをつくってその通りに動かしたほうが、楽ですよね。ルールなしに運営するのは、来る人を信頼しないと難しい。芝の家はルールのない場に人がどのように集まるのかを考える、実験の場でもあるんです。

【写真】縁側に座っておばあちゃんと話をするかとうりょうこさん。その横では子どもたちがゲームをしていて、近くにいるけれど別々のことをしている、ということが自然に成り立っているのが感じられる

芝の家において、スタッフとお客さんの境界線は曖昧です。

「スタッフ」がおしゃべりやゲームを来場者とともに楽しむことも、「お客さん」がお茶を淹れたり洗いものをしたり積極的に動くこともあります。

加藤:「お客さんだからやってもらって当然」ではなく、「ともにその場をつくる」。お客さんが人のためにやりたいと思った気持ちを取り上げないように、やってもらったことは「ありがとう」と受けとめています。

初めて訪れるお客さんにはスタッフや常連さんが声をかけに行きますが、基本的にはその場の状況を説明するのみ。

「今こちらでは子どもたちがゲームをしていて、あちらではワークショップをしています。こっちでは昼寝をしている人や本を読んでる人もいて、みんな自由に過ごしているんです」

こんなふうに状況を伝えて、その人自身がどう過ごすのかは本人に委ねます。

加藤:その人にとって関わりやすい方法は違います。来場者としてここで過ごすのが良い人も、スタッフの役割があったほうが過ごしやすい人もいる。お子さんがいるから常駐はできないけれど少しだけ手伝いたい人もいます。

それぞれの関わり方を尊重しつつ、一緒に場をつくっていくというスタンスです。だからこそ一人ひとりの持ち味が発揮されるんだと思います。

【写真】ソファに座って話をするおばあちゃん。近くには赤ちゃんを抱っこするお母さんと話をするかとうりょうこさんが

目的やプログラムを定めない。芝の家スタイルができるまで

芝の家の運営スタイルは、どのように築かれてきたのでしょうか。

芝の家発起人の一人である坂倉杏介さんに、立ち上げから今に至るまでのストーリーをお聞きしました。

【写真】笑顔でこちらを見ているさかくらきょうすけさん

東京都市大学准教授である坂倉さんは現在、慶應義塾大学で「グローバルリサーチインスティテュート客員所員」も務めています。

港区の芝地区総合地所の提案で「地域をつなぐ!交流の場づくりプロジェクト」の一環として芝の家が始まったのは、2008年のこと。地域の人が立ち寄ることができる交流拠点をつくることになり、芝地区にキャンパスがある慶應義塾大学にも相談が寄せられました。

慶應義塾大学教員であった坂倉さんはそのころ、教員と学生が集う学外の居場所「三田の家」を運営していました。大学の近くに借りた小さな家で、講義やゼミを行い、学生だけでなく地域の人が参加することもありました。「教室でも居酒屋でもない場所」として、フラットな交流が行われていたのです。

【写真】インタビューに答えるさかくらきょうすけさん

坂倉:三田の家では例えば、教員が本を読んでいるとなりで学生が編み物をしているような状況がありました。「この関係性は一体なんだろう?」とおもしろくて。研究室だと勉強しなくてはいけない感じがするし、教員と学生は「教える側」「教えられる側」と立場を固定されてしまう。けれども家という空間では、同じ人が集まっても全然違う時間が流れます。

当たり前だと思っていることに風穴を開けていくことによって、いろんな人が集まってきて、予期せぬ出会いがあったんです。

三田の家の経験から、日常的にフラットに人が集う場があることのおもしろさを感じていた坂倉さんは、芝の家の立ち上げチームに加わることになりました。

【写真】縁側に座ってインタビューをしている。近くでは子どもたちが走り回って遊んでいる

目的やプログラムをあえて定めない。この芝の家のスタイルができるきっかけとなったのは、その場に集まった人があえてテーマを決めずに自由に対話をする、心理学で「非構成エンカウンターグループ」と呼ばれるワークです。この対話のワークを体験した板倉さんはある気づきを得ました。

坂倉:「人がその場にいること」自体にすごくエネルギーがあって、誰もしゃべっていなかったとしても、何もしていないわけじゃないんですよね。「すごく感動した」「何か言おうと思ったけど言わなかった」だけでも、エネルギーが大きく動いている。

なのに「ここはこういう場ですよ。みなさんこうしてください」と定めてしまうのは、ものすごい暴力だなと思うようになったんです。

【写真】パソコンで仕事をする人、その近くでは雑談をしているお母さんたちや、一人でくつろぐおばあちゃんが

芝の家は行政から委託されているので運営の指針を示す仕様書があります。しかし坂倉さんは、その一つひとつの指針に沿って運営することに違和感を持ちました。

坂倉:来場者が港区の事業の目的に合わせて行動するよりは、「今自分がどういう風にありたいのか」を確認して、発揮できるような場所にする方がいい。

「人を大事にする場をつくる」ことが結果的に、「地域に人と人とのつながりを取り戻す」というこの事業の目的を叶えるものなんじゃないかと思ったんです。

「いまここ」の自分の気持ちにフォーカスするミーティング

芝の家では開所日の朝と夜、「お当番」と呼ばれるその日のスタッフによる、ミーティングが行われます。これが、「一人ひとりが大事にされる」空気感をつくるのに、非常に大事な役割を担っているのだとか。

ミーティングのチェックインでは、「最近は」とか「先週は」とか「昨日は」ではなく、「いまここ」の自分の体調と気分に目を向け、メンバーに共有します。

大切にしているのは、一人ひとりが強がったり弱みを隠したりせず、深い自分の感情に敏感になるということ。

例えば朝のミーティングはこんな様子です。

今朝は、家族と喧嘩をしたのでちょっとイライラしています。

病み上がりで、体調がよくありません。

夜のミーティングでも、その日の芝の家で起きたことをたどりながら、一人ひとりが自分の気持ちを話します。

今日、来場者の人からこんな話を聞いてうれしかったです。

今日はこんな出来事があって、今ちょっと疲れています。

【写真】ぞうきんをぬう人たちの横に、ライターのやつもとが座って笑いあっている

このミーティングを始めて2週間が経つ頃、スタッフ間、そして芝の家全体の空気に変化がありました。

スタッフ間の変化について、加藤さんはこのように話します。

加藤:自分を開くと、相手も開いてくれる。マイナスなことを言うのは悪いと思ってためらってしまいがちですけど、誰かが声に出してくれると、「実は私も…」と続くことが多いです。

「朝は元気だと言ったんですが、実は緊張していました」という発言が、夜出てくることも。みんな初めは強がって「元気です」と言ってしまいますが、慣れてくると、少しずつ思っていることを素直に言えるようになりますね。するとスタッフ自身に大変なことがあっても、「色々あったけど、来てよかったな」という気持ちで帰れるんです。

辛そうな人が「大丈夫です」と強がるのではなく、「辛いです」と弱さも見せること。まずはスタッフ同士が、弱さも含めて受け入れあえる関係性をつくることが、来場するお客さんの居心地のよさにもつながっていきました。

坂倉:人間はたとえ頭では理解していなくても、その空間に入った瞬間に、ここは自分を出してもいいのか、直感的に反応してると思うんですよね。

スタッフ同士が、例えば「体調が悪いです」と言ったら「困るね。体調管理をちゃんとしないと」と言われるような冷ややかな関係性だったら、その場所は来場者にとっても油断ならないじゃないですか。

スタッフの間に互いを受け入れる空気が流れることで、お客さんも安心して意識や気がゆるみ、あとからやって来た人にも伝播する。結果、その場は一人ひとりが大事にされる居心地の良い空間になっていったのです。

【写真】ちぎり絵ワークショップに参加するかとうりょうこさん

「相手のため」ではなく「自分がどうしたいか」で助ける

芝の家の夜のミーティングではときに、運営面や来場者との関わりについて悩んだこともシェアされます。対話を通して「私だったらどうするか」を考えてアイデアを出しあいますが、正解があるわけではありません。

芝の家に来るようになって変化したこととして来場者がよく挙げることのひとつが、「駅や道端で倒れている人や困っている人によく声をかけるようになった」というもの。

坂倉:多くの人は「私がアクションをしたら相手からどういう反応があるか」を気にするんですね。相手のことよりも、自分がどう思われるかを気にしながら人と関わる。

だから倒れてる人がいたとしても助けたときの反応を考えて躊躇して、「まあいいか」とスルーしてしまうことになるんです。

【写真】玄関には数え切れないほどの靴が並んでいて、今にも溢れ出しそう

芝の家には背景のわからない人がたくさん集まるため、相手の反応をいちいち気にしていては関わることができません。

坂倉:芝の家では、「私が心配だと思ったから」助けるんですよ。

「その人が寂しそうだから声をかけてあげようかな」じゃなくて、「ひとりなのかな」と思ったから声をかける。

望んだ返答が返って来なくても良いし、感謝されなくても別に良いと思えるようになるんです。

「私」起点のおせっかいも、人と人のゆるやかなつながりをつくるのに一役買っているようです。

“順調に問題だらけ”。だから対話で解決する

ルールや目的を設けず、来る人を制限しない。芝の家を10年も運営するなかで、大きなトラブルはなかったのでしょうか。

坂倉:たくさんあります。「べてるの家」の向谷地さんの言葉を借りれば「順調に問題だらけ」です(笑)

【写真】笑顔で話をするさかくらきょうすけさん

運営面でいうと立ち上げから5年が経ったころ、運営メンバーの入れ替わりが進むなかで、忙しさから大事にしたいことを共有できず、メンバーの余裕がなくなることがありました。

坂倉:会社だったら売上というわかりやすい目的があるけれど、芝の家は「何が大事なのか」をみんなでつくらなくてはいけない。「今私たちがやってることにはどういう意味があるのか」を話し合う時間を何度も重ねました。

その結果「まずスタッフが生き生きと楽しくいられることが大切だ」という観点から、週6日の開所を5日に減らし、スタッフはそれぞれの事情に応じて関わる頻度を変えられるようにしたといいます。

【写真】縁側で取材をしている様子

来場者に関するトラブルもいくつもありました。

例えば数年前、ある小学生の男の子たちが黙々とゲームをするためだけにやって来て、大人が声をかけても反応しないことがありました。

坂倉:スタッフそれぞれのやり方で、子どもたちにより積極的に関わるようにしました。「おやつ食べる?」と話しかける大人も、「挨拶しても答えないの、腹立つ」と子どもたちに直接言う大人もいました(笑)

すると「こんにちは」と言う子が出てきたし、ゲームをしながらもスタッフのことを気にしてくれてるようになっていって、他の来場者とのトラブルも減っていったんです。

【写真】遊ぶ子ども達にかとうりょうこさんが自然に話しかけている

ルールをつくる、問題を起こす人を追い出す。それらはすぐに役立つ解決策かもしれませんが、同時に、状況が変わるとすぐに役立たなくなるものでもあります。

「問題が起きないようにする」のではなく「問題が起きることを前提に、対話で柔軟に対応する」。ここにも、芝の家が人を大事にする場として開かれ続けているヒントが隠されているような気がしました。

生きていてよかったという実感は、人との関わりのなかに生まれる

【写真】ちぎり絵ワークショップを教える女性は、笑顔で話をしている

手芸が好き、人の話を聞くことが上手、笑顔が優しい、子どもと遊ぶことが好き。

何に価値があり人の役に立つのかという軸は無数にあり、どんな人にも必ずそれぞれの持ち味があるのだと、芝の家に集まる人たちが体現していました。

坂倉:人が生きていてよかったと感じる瞬間って、人との関わりのなかで自分が尊重され、相手を尊重するときに生まれるものだと思うんですよね。

「安心して過ごせる居場所」とはすなわち、「自分自身を大切にしながら、人と関わることができる場所」なのかもしれません。そのような居場所で人は、本来持っている力を発揮して生き生きと元気になっていきます。

【写真】縁側にたくさんの子どもや大人が混ざって並び、カメラに向かって笑顔を向けている

地縁・血縁を超えたコミュニティに所属することも、一人で生きることも、選択できる時代。そのなかで私は、「ありのままの自分と相手のことを尊重できる」居場所を持って、生きていきたいと思います。

「自分はこうあらねばならない」と自分自身を認められないとき、人に対しても厳しくジャッジしてしまうときがある。だからこそ「私が私で良かった」と思え、人に対しても「あなたがあなたで良かった」と思える居場所を持っていたい。

そんな思いを胸に抱いて私は、夕闇に包まれ始めた芝の家をあとにしました。

関連情報:
芝の家 ホームページ

(写真/馬場加奈子、編集/徳瑠里香、協力/佐藤碩建)