【写真】歩道橋の上で笑顔でほほえむつのみさん

こんにちは!バセドウ病に関する発信をしている、つのみです。

私は大学4年生の時にバセドウ病を発症して以降、一般企業に6年間勤務しました。しかし2度の病気再発と治療を経た後、仕事が原因で大きく体調を崩し、現在は仕事を辞め療養生活をしています。

発症以降は、自律神経失調症、パニック障害、過敏性腸症候群など様々な病気を経験しました。現在は少しずつ体調が回復し、Twitterで日々の生活や病気の事を発信するほか、ブログ「tomarigi」ではバセドウ病の体験記を掲載しています。

今私は、周囲の人たちの協力を得ながら、病気とともに生きています。みなさんに今回は、バセドウ病とはどんな病気か。発症してから私はどんな風に生きてきたか、お話したいと思います。

人のために尽くす喜びを感じていた、子ども時代

子どもの頃は内向的で、我慢強い性格でした。旅行好きな両親が色々なところに連れて行ってくれましたが、いつも旅館の人に「とても静かね」と言われるほど。両親に対しても自己主張ができず、欲しいものが「欲しい」と言えないなど、溜め込んでしまうタイプでした。

そのためか、昔から絵を描くことで自分を表現するのが好きでした。一人っ子だったので元々ひとり遊びが得意で、紙と鉛筆さえあれば何時間でも描いていられました。

子どもの頃から体は丈夫な方ではなく、幼稚園くらいから嘔吐発作を繰り返す自家中毒を発症して、小学校では学校を休みがちな時期もありました。

中学高校はキリスト教系の学校だったため福祉活動が盛んで、委員会や部活を掛け持ちしながらボランティアなどにのめりこんでいきました。当時、福祉活動を通して仲良くなった友達は今でもかけがえのない大切な存在。

そしてあの時に得た人に尽くす喜びが、今の私の原点にもなっています。

なんだか、体の調子がおかしい。原因は「バセドウ病」だった

はじめてバセドウ病を発症したのは、大学4年生の夏。

動悸がしたり、髪が抜けたり、胃が不調だったり…。体重が減って生理も止まってしまいました。ものすごい疲れで、家から最寄り駅まで歩けないなど、自分の体調が日々おかしくなっていくことに不安を抱え続けていました。

しかし、近所の内科で診療してもらってはじめに下った診断は「夏バテ」でした。

こんなに毎日つらいのに、夏バテのはずがない。絶対におかしい…。

【写真】真剣な様子でインタビューに答えるつのみさん

そう思い毎日ネットで症状を必死に調べて、たどり着いたのがバセドウ病でした。そして病院で自ら検査を依頼し、そこでやっとバセドウ病であることが発覚しました。

病名がわかった時は、とにかくほっとしました。原因が分からない恐怖、どうしたら良くなるのか分からない不安、そういったものから解放された気持ちでした。

発症当時の私は就活中で、加えて母との関係や、自分自身の生き方に悩んでいました。母とはいわゆる“共依存状態”で、お互いに親離れ子離れができていないと感じていたのです。

私は母の生き方を模倣していたため、ずっと自分に違和感がありました。

その頃、ある日突然、友達とどんな風に話していたかわからなくなった瞬間があって。恐らくそれが、母を模倣することで積み上げてきた“偽のアイデンティティ”が崩壊した瞬間でした。

自分を見失っていた私は、自分の好きな食べ物さえ知らないまま生きていたんです。

そこから母との関係をどう切り離すか、自分らしい生き方とは何かを模索しはじめるのですが、バセドウ病の発症もちょうどその頃だったのです。

負けたくない、つらい病気があっても働きたい

【写真】インタビューに丁寧に答えるつのみさん

大学を卒業し、発症当時の症状はほぼなくなっていましたが、バセドウ病が寛解しないまま就職しました。当時は新入社員で仕事を覚えることで精一杯な上に、先輩も威圧的な態度だったため、バセドウ病どころではなかった、というのが正直なところです。

精神的に追い詰められていたので、自分がバセドウ病であることさえすっかり忘れてしまいました。その結果、バセドウ病の薬の飲み忘れが増え、寛解間近だった症状が再発することになったのでした。

泣かない・負けない・くじけない

そんな風に毎日唱えていたくらい、私は自分に対して負けず嫌いでした。

私がなぜそうなったか。それは父の存在がとても大きかったように思います。父は仕事に厳しく、辞めたいと呟いても「続けなさい」と一言呟くのみでした。実は父自身も、メニエール病を患いながらSEというハードな仕事に耐え続けた人だから。

私はつらいなかでも仕事を頑張っていた父を、尊敬していました。だからこそ、父の仕事に対する姿勢を見て、自分も負けたくないと感じていました。

私は退職間近には限界を迎え休職をしましたが、それまでは6年間ひたすら働き続けました。心も体もボロボロで、本当はとても辛かったです。でもそれ以上に、私には強い想いがありました。

この環境で私らしい花を咲かせたい、それまでは諦めたくない。

胸のなかでいつもこんな言葉を唱えていました。

一番辛かった時期の私にとって、学生時代に出会った友達の存在は非常に大きな支えでした。友達と過ごす時間は私にとってかけがえのない大切なもの。この幸せな瞬間のために働いているのだと感じることもありました。

また会社では色々な人との出会いがありましたが、優しい人たちもたくさんいて、私の調子を心配して気にかけてくれました。

頑張り続けるのではなく、もっと自分に優しくしてみよう

仕事を辞める選択肢が浮かんできたのは、勤め始めて6年目。体調の限界を迎えたこと、結婚が決まったことがきっかけでした。

実は私には今まで、「絶対にやりたいこと」がありませんでした。でも、恥ずかしながら、学生の頃から「良い奥さんになる」というたった一つの小さな夢がありました。

しかし当時は夫を支える事はおろか、自分のことさえ支えられないくらい限界を迎えていました。仕事を終えて、家に帰り、なんとか食事を作り、そのまま食事する体力も無く倒れこむ日々。心も体もついてこない。

そんな自分が悔しくて悲しくて、理想からほど遠い生活にもどかしさを感じていました。私は、結婚したらいつかは子どもが欲しいと思っていました。

でもそれは当時の私にとって、あまりにも非現実的で夢のような話。心と体が日を重ねるごとに壊れていくのを感じる中で、自分が妊娠や出産に耐えられるとはとても思えませんでした。

明るい未来が全く見えなくなっていたこと、それが退職を決意する決定打になりました。

【写真】歩道橋の上から外を眺めるつのみさん

またその頃には、パニック障害とうつ病も併発していたので、半休をもらわないと出勤できない状態。上司の奥様がバセドウ病だったので体調に対しての理解があり、週に3回ほど半休を取る日を事前に決めて、タスクを調整して休みをもらうことができました。

ですが、休みはもらえる一方で仕事はあまり減りません。忙しい部署だったのでタスクの調整ができず、休むことで周囲に迷惑をかけているというプレッシャーに押しつぶされそうでした。

部署の方々に「ごめんなさい」「すみません」と謝りつづける日々。悪いのは私ではなくて病気なのだとわかっていても、謝り続けずにはいられませんでした。

悔しくて悲しくてたくさん泣きました。出勤途中に電車で涙が止まらなくなり、会社に行けなくなった日もありました。

追い打ちをかけるように、バセドウ病の再発を重ねるなかで体調は悪化していました。機能性低血糖症、自律神経の不調、低用量ピルに頼らなければ動けないほどの生理痛…。挙げればきりが無いほど。

症状が多すぎて、自分が何の病気と闘っているのかまるで分かりませんでした。

これ以上は頑張れる状況じゃない、もうここまでなんだ。

今までも病気の辛さに何度も心が折れましたが、はじめて限界を悟りました。今思い返してみても、とても働けるような状態ではありませんでした。そうなってはじめて、こんな風に思えたのです。

もっと自分に優しくしてもいいのかもしれない。

心と体を立て直すことを中心としたライフスタイルに転換しよう。そう決意した私は、仕事を辞めることにしました。

私の病気の経験が、誰かの支えになったら

【写真】身振り手振りをまじえて説明するつのみさん

そこからは、「ブログで情報を発信したい」という思いが私の支えになりました。

実際に私自身、バセドウ病を発症した当時に、当事者の体験談が少ない事で非常に悩んだのです。

私の経験が誰かの役に立ったらいいな。

そう思い、病気の発信活動を意識するようになりました。

強く思うようになったきっかけはTwitterでした。はじめは日々の料理のことをツイートする程度でしたが、ある日、何気なく描いたイラストを公開しました。そのイラストは、私がバセドウ病で体験した症状を、小鳥の絵でまとめたもの。

【イラスト】つのみさんが描いた小鳥のキャラクターが、バセドウ病の症状を説明している。

提供画像

このイラストを掲載した時、思っていた以上に大きな反響があってとてもびっくりしました。

わかってもらえて嬉しい

とても分かりやすいので家族に見せたい

色々なメッセージを頂き、こんなに人の役に立てるのだと嬉しい気持ちになりました。初めて、自分の人生でやりたいことが見つかった気がしました。

私は20代のほとんどをバセドウ病と共に歩んできましたが、そのような時間が自分に与えられた意味も理解したような気がします。

また、中学高校の時に福祉活動を通して感じていた人に尽くす喜びを思い出し、これが私のやるべきことなのだと、使命感のようなものさえ感じました。

夫がインフラ関係の仕事をしていたので、ブログ運営の基礎を作ってもらい、ブログによる発信活動も無事にスタート。またTwitterでは、疲れた心がふっと軽くなるような呟きや、バセドウ病に関する情報をつぶやくよう意識するようになりました。

たくさんの人に少しでも元気になってもらいたい。

そんな気持ちがずっと根本にありました。

でも何より、Twitterやブログを見てくださる皆様のメッセージに私自身が救われていたのです。またはじめは自分でバセドウ病のイラストの缶バッチを作っていましたが、フォロワーさんと協力して、甲状腺疾患を広める為に私のイラストでキーホルダーを制作頂き、配布して頂いたりもしました。

今後はバセドウ病の正しい理解を広めるとともに、今まで自分が悩んできた心と体の不調、母との関係などもブログで発信していきたいと思っています。

そのため内容は自然と辛いことになってきます。

たとえばバセドウ病で言えば「髪が抜ける」という症状は、実際とても怖いこと。ですが、辛いことや苦しいことをなるべく深刻になりすぎず、誰にでも見てもらえるように伝えたいと思っているので、やわらかいイラストや文章で発信することを心がけています。

今後も、少し笑ってしまうような、そしてふっと心が軽くやわらかくなるような、そんな伝え方を模索していきたいと考えています。

また「興味や関心の無いことに振り向いてもらうためにはどうしたら良いか」と考えると、活字よりも漫画やイラストの方がより多くの人の心に届きやすいように感じています。文章を書くことが好きなのでイラストと文章をベースにしつつも、今後は漫画のような形にも挑戦してみたいです。

【写真】笑顔でインタビューに答えるつのみさん

友人、家族。たくさんの人の支えと「心地よい無関心」

私にとって励みになったのは、友人と家族の存在です。

学生時代の友達は私にとっては大きな存在で、体調が辛いけれど会いたい、そんな時は家や家の近くまで会いに来てくれることもあります。

以前、外で遊ぶ予定を体調が悪くてドタキャンしてしまった時がありました。申し訳なさや残念な気持ちで落ち込んでいたそんな時に「今からそっち行くから!」と、私の結婚式で撮った写真をまとめたアルバムやお土産を持って、家を訪ねてくれたことがありました。

あの時は泣くほど嬉しかったです。

病気で自由が奪われていく中で、楽しい時間を運んできてくれる友達。無理のない自然な状態で、ゆったりとした時間を共有してくれる友達。みんな私にとってかけがえのない大切な存在です。

母との関係は、こじれて大変な時期もありましたが、母はいつでも話を聞いてくれ、私の味方であり続けてくれました。現在では母との関係も前よりずっと素敵なものになり、お互いに色々なことを話したり支えあったりできるようになっています。

父も私の病気のことを本当に心配してくれて、会うたびに体調を気にかけてくれるようになりました。父と母には本当に感謝しかありません。

結婚してからは、夫にもすごく支えられています。出会った時から夫にバセドウ病の事は伝えていたので、自然と病気である私を受け入れてくれています。口数は少ない人ですが、仕事と病気で限界寸前だった時期に言ってくれた一言は、今でも覚えています。

会社はいっぱいあるけど、つのみさんは一人しかいないから。

あの時は本当に嬉しかったです。

夫は良くも悪くも、「無関心」な人。他の人から見たら、冷たいと感じることもあるかもしれませんし、私自身も時折そんな風に感じます。それでも私にとっては「心地よい無関心」です。

あまり自分から助けにきたりはしないけれど、「助けて」と言うと助けてくれる。「そばにいて」と言うと、優しく手を握ってくれる。

もしも夫が自ら頑張って支えようというタイプだったら、きっと私はそのプレッシャーに押しつぶされて、期待に沿えないことに申し訳なく思ってしまったことでしょう。そしてきっと、夫もつぶれてしまったのではないかと思います。

思い起こせば、昔、母は過保護で私との間に境界線が無く、それは非常に苦しいことでした。私のテリトリーに土足で入り込まれているような、私の気持ちに沿わない善意を押し付けられているような、そんな息苦しさがありました。

だからこそ、何もせずに見守ってくれる「心地よい無関心」は私がずっと求めていたもの。自然と自分のテリトリーが守られて、一方的な期待に応えなくて良い環境は、心がとても穏やかになりました。

【写真】ほほえみながらインタビューに答えるつのみさん

幸せは小さなことでもいい。自分にとって必要なものが何か考えよう

現在も体調には波があり回復途中で、精神疾患とバセドウ病の治療は続いています。パニック障害のため食事が苦手で、少しなら家で食べることができますが、外食はほとんどできません。

疲れが溜まると調子を崩しやすくなるため、体調が良い時に調子に乗りすぎないようにしています。

体調が少しでも良くなると嬉しくて「あれもこれもやりたい」と思ってしまうのですが、そこでぐっと我慢します。同時に、我慢しすぎてフラストレーションを溜めすぎないようにと気を付けていますが、これは今でも私にとって非常に難しいことです。

そういった状況とうまく付き合っていく上で、身に付いた考え方があります。「足るを知る」ということです。

私は、本当は食べることが大好きです。ですから、友達から美味しいランチやビュッフェの話を聞くと「行きたいなあ、いいなあ」といつも羨ましく思っていました。そんなある日、夜中に甘いものが食べたくなって夫とコンビニに行きました。

そこで私が買ったのは、チロルチョコでした。その時の自分が「食べたいな」と思ったのが小さなチロルチョコ1個だったのです。

帰ってから夫と一緒に、おやつの時間をしました。でも、私はたったそれだけのことで、とても心が満たされました。

外に出かける体力があること、夜に散歩ができるわくわく感、パニック発作に怯えることなくお菓子を食べられたこと。何より、そんな楽しい時間を夫と共有できたこと。

幸せって、こんな小さなことでいいんだな。

その時、思いました。「足りないもの」から「今足りているもの」にフォーカスが変化した瞬間でした。

そして同時に、今までの自分が色々なものを惰性で欲しがっていたことに気が付きました。それ以来、本当に自分にとって必要なものは何か、本当に自分が欲しいと思っているものは何か、よく考えるようになりました。

【写真】満面の笑顔のつのみさん

「明日は今日よりよくなるかもしれない」そんな日々を積み重ねて

バセドウ病のように波のある病気は、体調の良し悪しが見た目では分かりません。骨折のように目に見えませんし、「完治」するというより、症状が治まっておだやかになる「寛解」を目指す病気だからです。

ですから、周囲にバセドウ病の方がいらっしゃる場合には、「治った?」ではなく「今日の体調はどう?」というような気のかけ方をして頂けると、とても助かると思います。

私自身、初めは「病気=治る」という感覚があったので、ずっと治そうと思っていました。

でも実際は体調に波があります。体調が悪い方に傾くたびひどく落ち込むので、ゆっくり付き合っていこうと思わないと自分も辛くなるだけだと気が付いたんです。そして「治す」病気ではなく「付き合っていかなければならない」病気なのだと意識が変わっていきました。

そう思い始めてからは、調子が悪くても今までのように落ち込むことは少なくなりました。

明日は今日より、少し良くなるかもしれない。

そんな希望に思いを馳せることで以前よりも前向きになりました。

【写真】歩道橋の上で前をまっすぐみつめるつのみさん

またバセドウ病で闘病中の方には、ぜひ悲観的になりすぎないでもらいたいと思っています。

病気には、お金も、時間も、自由も、好きなことも、離れて行ってしまう悲しさがあります。健康な人と比べて、どうして自分だけがと思ってしまうこともあるでしょう。でも、バセドウ病は適切な治療を行えば良くなる病気です。

病気で離れていくものはたくさんあります。でも、戻ってくるものもあるし、今までに無かったものを手に入れることもあります。私自身、病気になって良かった、とは思いませんが、病気になったことに意味はあったと感じています。

私はこれからも病気が原因で、辛く苦しい思いをすることがあるかもしれません。でもそれ以上に、病気を通して素敵な出会いや気づきを得る機会がたくさんあるかもしれないと信じています。

私にとって、バセドウ病は人生の一部だから。

周囲への感謝の気持ちを忘れずに、これからも病気と共に私らしい人生を歩むための道を探し続けたいと思います。

【写真】歩道橋の上でほほえみながら前をみつめるつのみさん

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(写真/高橋健太郎、編集/工藤瑞穂)