「自立」と聞いて、どんなイメージを思い浮かべますか?
自分で稼いだお金で、生活できるようになることでしょうか。それとも、問題を自分の力で解決できるようになり、誰にも頼らずに生きていけるようになることか。
誰でも今の社会で自立して働いて生きていくことは大変だけれど、障害があるとさらに、自分自身も周囲の人も不安が増します。
私が障害のある子どもたちに教える仕事をしていたとき、最終的にたどり着く問いは「自立」でした。
困ったときに助けてくれる人や使えるサポートがあれば、すべてを一人でできるようになる必要はない。その子らしい自立の形があるはずだと思う一方で、将来その子が暮らす地域や働く職場をイメージできないままではどうしても、具体的に自立を描くことができませんでした。
今回お話を聞いた金澤泰子(かなざわやすこ)さんは、娘にダウン症があるとわかったときから将来の自立を案じ、「自分一人の力で生きていけるように」という思いで子育てをしてきました。
娘の翔子(しょうこ)さんは、現在は書家として世界的に活躍しているだけでなく、5年前から一人暮らしを実現させました。
今の翔子さんは街の人とのつながりのなかに暮らし、母・泰子さんもまったく想像できなかった、自分らしい「自立」の形を築いている最中です。
街に溶け込み、一人暮らしを続ける翔子さん
2人の住む街を訪れると、商店街を自転車で軽やかに走っていく翔子さんの姿がありました。行き交う人たちに笑顔で挨拶する翔子さんは、すっかりこの街に溶け込んでいるように見えます。
翔子さんはダウン症で、生まれつきの知的障害があります。言葉でスムーズに話すことは得意ではありませんが、表情やボディサインでコミュニケーションをとり、人を喜ばせることが大好きだといいます。
自転車を走らせて商店街で買い物をして、料理をつくって食べる。掃除や洗濯などの家事も自分でこなす。翔子さんは地域の人たちに支えられながら、この街で5年前から一人暮らしをしています。
住んでいるマンションから実家までは徒歩10分の距離ですが、仕事の用事以外で実家に立ち寄ることはほぼないのだそう。精神的には強いつながりで結ばれている親子ですが、それぞれの自分の世界を持って生活しています。
泰子さん、翔子さん親子がここまで歩んできた道のり、そして親子にとっての「自立」とはどんな意味を持つのか。泰子さんにお話を聴きました。
娘に障害があると知ったときの、絶望と孤独
翔子さんの母・泰子さんは、取材のあいだ終始、翔子さんのことを愛おしそうに語ってくれました。
しかし35年前に翔子さんが生まれて「ダウン症がある」と告知されたとき、泰子さんは絶望の淵に突き落とされるような気持ちだったと話します。当時、世間の「障害者」に対する偏見は強く、障害のある子の親に向けた情報もとても少ない時代でした。
泰子さん自身、「障害があることでこの子が周囲に迷惑をかけてしまうかもしれない」と思い、親戚にも翔子さんのことを話すことができなかったといいます。
翔子はこの社会で生きていけるのだろうか。
不安と悲しみに暮れ、「翔子の障害を治してください」と神頼みをする日々が続きました。
金澤泰子さん(以下、泰子):私たちは生きてちゃいけない、チャンスがあったら死のうとすら思っていました。私は孤独で、何の希望も持てず、まるで大海に漂う木の葉のようでした。
それでも翔子さんはいつも明るく朗らかで、母親の泰子さんへの愛情を全身で表現しました。そんな翔子さんの笑顔を見て泰子さんは、「私が守らなくては」と感じたといいます。
泰子さんの気持ちは、「翔子さんへの愛おしさ」と「先の見えない苦しみ」とのあいだで、揺れ動いていました。
翔子さんが14歳のときに夫を心臓発作で亡くしてからは、泰子さんはさらなる孤独のなかで、子育てをすることになります。
泰子:今でも私、梅の咲いている時期に散歩をすると、小学校や中学校に行ったときに苦しい思いで歩いたなあと思い出すんです。気持ちの揺らぎはあったけれど、翔子が20歳になるまでは、ずっと苦しかったですよ。
書道は、苦しいときの親子をつなぐものだった
そんな苦しみと孤独を感じていた親子をつないでくれた、そして光の差すほうへ導いてくれたのは、書道でした。
翔子さんは今、世界的な書家として活躍していますが、書道を始めるきっかけとなったのは、泰子さんがもともと書家だったから。2人は、親子でありながら師弟関係でもあるのです。
翔子さんは5歳で書道をはじめ、小学3年生で学校に行けなくなったことをきっかけに、書道とより深く向き合うことになりました。
当時は通常学級に通っていた翔子さんですが、担任の先生は翔子さんがクラスのペースについていくことは難しいと考え、「もう預かれない」と言われてしまったのです。特別支援学校へ転校することを迫られた泰子さんは激しく落ち込み、学校に行けない翔子さんとともに数ヶ月間家に引きこもることになります。そのとき親子の間にあったのが、書道でした。
泰子:私は孤独で頼れる人もいなくて。もともと書を書くことが仕事だから、さまざまな苦しいことを、書道でしのいできたんです。翔子はそれを、ゆりかごに乗りながら見ていたんじゃないかな。
翔子は私の苦しみをどうにか受け止めようとしていた。きっと幼心に「書道をやればお母さんは喜ぶかも」と思って、ついてきたんじゃないかなと思います。
親子で書道に向き合う日々、このとき翔子さんが書いたのは、仏教の経典のひとつである般若心経でした。複雑な漢字が278文字並ぶ般若心境を書き切るのは、大変なことです。翔子さんは来る日も来る日も、ときに失敗して泣きながら、書き続けました。
泰子:母親が苦しそうな姿を見るのは、翔子にとってもたまらなく苦しかったと思うんです。私の気持ちを少しでも和らげたいという彼女の優しい思いと、私の孤独で苦しい思いの真ん中に書道があったんです。
私は泣きながら子育てをする日々でしたが、翔子は私の頬を流れる涙に両手を添えてくれることもあって。私は親でありながらも、翔子の愛に救われました。
書き上げた般若心経には翔子さんの涙のあとがあり、のちに「涙の般若心経」と呼ばれ、もっとも人気のある代表作の一つとなりました。このときに楷書の基本を身につけたことが、結果的に書家への道へとつながっていくのです。
「私は、世界一幸せな母親だ」と思えた日
その後、特別支援学校へ転校したことで翔子さんはまた楽しく学校へ通えるようになりました。
翔子さんが高校を卒業して20歳を迎える年、泰子さんは翔子さんの個展を開くことに決めます。
亡くなった夫が生前、翔子さんの書の才能を認めていて「20歳になったら個展を開こう」と話していたのを思い出したのです。また、卒業後は福祉作業所へ就職する予定でしたが、その前に一度でいいからたくさんの人に書を見てもらえる機会をつくりたい、という思いもあったそう。
この個展で翔子さんののびやかな書は賞賛され、メディアにも取り上げられました。翔子さんが「書家」と呼ばれるようになったきっかけです。
この頃、泰子さんだけが気がついた翔子さんの変化がありました。それまで頻繁にあった爪を噛む癖が、すっかりなくなったのです。
泰子:翔子はずっと、存在を人に認めてもらいたかったんですよね。それまで存在を無視されたり「かわいそう」と思われたりしていたのが、初めてたった一人で拍手を浴びて、認められた。翔子にとってそれは、すごく大きなことだったのだと思います。
その後、翔子さんは、NHK大河ドラマで揮毫・国体の開会式や天皇の御製を揮毫するなど、書家として活躍の場を広げていきました。
泰子さんはよく周囲から「どういうふうに書家として育てたのか」と質問を受けるそうですが、泰子さん自身は「翔子を書家にしようと思ったことは一度もない」と答えているのだといいます。
泰子:翔子が書家になったのは「結果」なんです。誰かに教えられたら、あの字は書けない。
翔子さんは般若心経の練習で楷書の基本は身につけましたが、上手に書くためのテクニックを誰かから教わったことはありません。
泰子:左右のバランスやら大きさやら、観念に囚われすぎているかもしれない私は、翔子の書のパワーや自由さにとても敵いません。翔子の書が素晴らしいのは、社会や教育から影響を受けず、観念的なところを離れた感性があるから。
苦しいとき2人のあいだにあった書道が偶然にも人生を変え、良い方向へと導いてくれた。泰子さんは翔子さんが書家になったことについて、「苦しかったことも含め、初めから組まれていた宿命だったのでは」と感じることもあるといいます。
翔子さんが26歳で再び個展を開いたときの会場は、泰子さんがかつて、翔子さんが幼いころ孤独な子育てと人生に絶望し、「ベビーカーを手離してしまおうか」とまで考えながら登った坂の途中にありました。一度は死のうとすら思って歩いたその坂を、泰子さんは誇りと喜びに満ちて再び登ることになったのです。
さらにその4年後、国連「世界ダウン症の日」イベントのスピーチに翔子さんは登壇しました。「ダウン症の書家」としての登壇でしたが、翔子さんが話したのは、母・泰子さんへの感謝と愛を伝える言葉ばかりでした。
お母様が大好きなので、お母様のところに生まれて来ました。5歳から書道を教えてくれてありがとう。お母様は私にうまく書かせたいなと思って、だからうまく書けるようになりました。
それを聞いた泰子さんは幸せで心が満たされて、涙が止まらなくなったといいます。
泰子:ダウン症と告知されたのは国連のスピーチから30年前のこと。当時私は苦しくて、日記をつけていたんです。その日の日記には、「今日私は世界で一番悲しい母親だろう」と書いていました。
ところが、30年目に「お母様は今日世界一幸せだよ」って思えたのね。だから私、みんなに言っているの。人生何が待ち受けているか分からないって。死のうと思って死ねなかったのに、世界一幸せって思えた瞬間があって、そしてずっと幸せなんですから。
孤独に強い子に育てようと決めていた
翔子さんが書家として成功し、社会のなかで認められるようになったこと。書道を通して親子の結びつきが強まったこと。書道によって救われ、心から幸せだと思えるようになった泰子さんですが、一方で、その心は不安でいっぱいでもありました。
自分がいなくなったあと、翔子さんが自分の力で生活していけるかどうかはわからなかったからです。
泰子:私はずっと、「自分が翔子よりも先に死ぬことはできない」と思っていました。
翔子さんの将来の幸せを心から思うからこそ、泰子さんの子育てには、強い信念がありました。
泰子:私は翔子を、孤独に強い子に育てようと決めていました。
5歳で書道を始めさせたきっかけも、「孤独な時間を書道で埋められるように」という親心だったのだといいます。
また泰子さんは「子どもの力を信じ、一人でできることを増やす」ことにこだわりました。翔子さんが子どものときから、生活のあらゆることを翔子さん自身でできるように教え、できるだけ手出しをしないよう見守ってきたのです。
例えば、今の翔子さんが一人暮らしで楽しんでいる料理。泰子さんは翔子さんが幼い頃から、周囲に反対されても包丁を持たせました。そして翔子さんが料理をするときはどれだけ時間がかかっても、大人がキッチンに入ってはいけないことにしたのだといいます。
泰子:作業がゆっくりなのを見るとつい、手伝いたくなってしまう。けれど、できることを他の人にやられてしまうのって嫌だし、傷つくじゃないですか。
だから出来上がるまではキッチンに入らない。そうして翔子が一人でつくった料理を食べて「おいしいよ」って伝えると、本人はすごく達成感があったみたい。それでできることが増えて、広がっていくの。
難しいことも一人でやらせて、できることを増やしていく。一人での登校や自転車に乗ることも、そんな挑戦のうちのひとつでした。こうした泰子さんの子育てに対して、周囲の人からは「かわいそう」「危ない」などと言われることも多くありましたが、泰子さんの信念は変わりませんでした。
泰子:愛情って、ただかわいがって優しくすることではなく、私は子どもの「自立」のためのものだと思っているんです。
泰子さんがこのように思うようになった背景には、自身の母親の影響がありました。泰子さんの母親は、自分の力で生きていけるようにという信念で娘を育て、互いに自立した親子関係を築きました。そんな母親に、泰子さんは感謝しているのだといいます。
泰子:私は母が自分のために生きて犠牲になるのは、嫌だったんですよね。だから母が亡くなったとき、私は母に対して「母が自分の生きたいように生きて、やりたいことをやれて良かった」と思えることができたのは、嬉しかったんです。翔子にもそう思えるようにいてほしい。
泰子さんの強い願いによって、少しずつ翔子さんはできることを増やし、自分の力で生活するための力をつけていったのです。
「障害があるからできない」なんてことはない。30歳で始まった一人暮らし
30歳になったら、一人暮らしを始めます。
翔子さんが自らの意志でそう宣言をしたのは、翔子さんが泰子さんへの感謝の気持ちを伝えたのと同じ2015年に行われた「世界ダウン症の日」イベントのスピーチでした。
30歳になったら、一人暮らしをします。一人暮らしになっても家事をがんばります。一人になっても寂しくないです。一人でも大丈夫です。お母様も泣かないで。
我が子の「自立」を強く願って子育てをしてきた泰子さんでしたが、突然の一人暮らし宣言にはとても驚いたそうです。
泰子:私に何も伝えずに、スピーチでいつのまにか「一人暮らしします」って宣言していたの!何十万人もいる場所でですよ。
私もそのときはまだ時間があるから、軽い気持ちで「一人暮らしさせてみます」と言ってたんです。でも30歳になっちゃって、周囲の人たちもそれを楽しみにしていたし、始めざるを得なくなってしまって。
その後、翔子さんは宣言どおり30歳で一人暮らしをはじめました。
翔子さんの住まいは、実家から徒歩圏内のマンション。親子が暮らしてきた場所で、すでに地域の人との関係性や理解は一定ありました。
それでも、翔子さんが一人暮らしを始めるの容易なことではありませんでした。まず、翔子さんに部屋を貸してくれる大家さんがなかなか見つからず、部屋探しは難航しましたが、やっと商店街に運良く借りれる部屋を見つけました。
泰子:もう翔子は一人暮らしがしたくてしたくてしょうがなくて。人に喜んでもらうことがものすごく嬉しい子だから、とりあえず母親にいちばん喜んでもらいたいわけですよ。
引っ越しの準備も自分でやって、いざ大事なものをキャリーバックに入れて玄関出てくときに、私が「翔子ちゃんいってらっしゃい」って言ったんです。
そしたらくっと後ろを向いて「お母さんもういってらっしゃいじゃないでしょ!さよならでしょ」って言って。「わぁ、この子やる気だ」って思った(笑)。その日から全然実家に帰ってこないんです。
いざ部屋を見つけて暮らし始めても、お金のやりくりなど一人ではできないこともある翔子さんに対して、泰子さんは「1週間で実家に帰ってくるのではないか」と思ったそうです。
しかしそんな心配をよそに、翔子さんは地域の人に支えられながら一人暮らしを続けました。
泰子:ゴミの出し方も、翔子のマンションの隣の人が教えてくれたんです。ゴミの分別方法まで教えてくれて、今翔子はゴミ出しも完璧に出来るようになってる。買い物で出すお札がわからないときも、店員さんが教えてくれるんです。
人は助けてくれるし、困っている人がいるとそこにコミュニティが出来ていく。ものすごく素晴らしいですよ。障害がある人とそうでない人が助け合ってて、これがダイバーシティっていうのかなと思ったりします。
もちろん地域との付き合いはうまくいくことばかりではなく、ときに衝突が起こる場合もありましたが、それすらも泰子さんの力を借りることなく解決したのだといいます。
泰子:商店街のお菓子屋さんで、翔子がトラブルを起こしたことがありました。私がお店に電話をしたら、「金澤さん、これは私と翔子ちゃんの問題だから、出てこなくていいです」と言われたんです。
翔子に向き合っていっしょに解決しようとしてくださったことが、すっごく嬉しかった。今もお菓子屋さんとはとてもいい関係でお付き合いさせてもらってます。
人様に迷惑をかけないようにとずっと思っていたけれど、いざ外に出てみると、人の優しさに満ちていたんですよね。
地域の人の力を借りながら、自分らしい一人暮らしを続ける翔子さんの姿を見て、泰子さんは翔子さんが持つ力を改めて実感したといいます。
泰子:すごいでしょう、一人暮らしはもう5年になりますからね。楽しいらしくて、今だって実家に一分たりとも帰ってくる時間ないですよ(笑)。
本当にすごい。やらせたら出来た。親が思うよりずっと力があったということですよね。だから親には尊重してほしい、その子が持っている力を。「障害者だから出来ない」なんてことはないと思う、みんな本当は力があるんです。
商店街はまるで、「翔子通り」
今では商店街には翔子さん顔なじみの地域の人たちがたくさん。困っているときは誰かが助けてくれる、翔子さんを囲んだコミュニティができています。
泰子:まるで、「翔子通り」ですよね。街の人みんなに育ててもらっています。
翔子さんが、泰子さんと私たち取材班を行きつけのカフェに案内してくれました。
アンティーク調の家具照明が並び、どこか懐かしいようなほっとする空気の漂うお店、「カフェガーデン・おとなしです」。
翔子さんがカウンター席に座ると、「はい、いつものやつ。翔子ちゃんスペシャル!」と、特別メニューのはちみつ入りアイスミルクティーが出てきました。
翔子さんはほぼ毎日このカフェに通いミルクティーを飲んだりスパゲティーを食べたりしています。お店のお手伝いをすることもあり、店主のひろこさんとも大の仲良しです。
ひろこ:ここに来ているときの翔子ちゃんは「書家」ではないのね。ただひたすら、楽しい翔子ちゃん。翔子ちゃんも私もいつも「楽しい楽しい!」だから、たくさん声を出して笑って、パワーがぴーん!とみなぎるの。
そんなひろこさんの話を微笑みながら聞いていたのは、常連のお客さんの高山さんです。翔子さんと仲良しで、いつもおしゃべりしては元気をもらっているといいます。
食事のあとも、お皿洗いを手伝ったり、大好きなダンスを披露したりしている翔子さん。はじけるような明るさと陽気なおしゃべりにお店全体が包まれて、みんなニコニコしています。
ひろこ:翔子ちゃんはもうね、ここの一員よね。翔子ちゃんが来ると、その日1日、お店の中が明るいムードでいっぱいになる。お客様のなかには悩みを抱えている方もいるけれど、みんな涙を流すほど笑うの。
私はみんなが笑顔になれるお店であってほしいと思っているから、お客様が声を出して笑って「ああ楽しかった」って言って帰られると、すごくうれしい。1日のうちでそんなに笑うことって、そうあることではないでしょう。
一緒に話を聴いていた泰子さんは普段、翔子さんと一緒にカフェに来ることはありません。自分の知らない娘の様子を知り、驚きながらもうれしそうに微笑んでいます。
泰子:翔子はきっと、世の中の本質を知っているんだと思います。
2000年前のお経で、「唯心偈」っていうのがあるんですよ。「この世のことは全部心が決める、この世に起こることは全部自分の心が作り出すんだよ」という内容で、翔子はまさに「唯心偈」の哲学で生きてる。
すべてが肯定される、生きているだけで大成功な世界のなかにいる。だから、その力で周りを明るくする「魔法」が使えるんですよね。
「残して死んでいく苦しみ」はあるけれど、地域のつながりを信じてみようと思えた
泰子さんにとって「自立」とはずっと、「人に頼らず一人で生きていけるようになること」でした。だから翔子さんにはできるだけ一人で身の回りのことをできるように教え、「孤独に強い子になるように」という願いで子育てをしてきました。
そのおかげで翔子さんは家事を覚え、母親からも精神的に自立して一人暮らしを続けることができています。
一方で事実上、今の翔子さんが経済面や生活面で、完全に誰にも頼らずに暮らしていくことはできません。例えば翔子さんの生活費は泰子さんが管理しており、「遊んだり食べたりするのに使うお金は、3日間でいくらまで」と泰子さんが決めています。
支援員のサポートを受けながら生活をする入所施設に入りたくても、翔子さんの障害等級では叶わないのだといいます。
泰子:私が死んだあと、数年でもいいので翔子のことを託せるような身内がいてくれたらまだよかったのだけど、誰もいないんです。
一時期は誰と会っても「この人なら翔子を託せるかな」ってそればっかり考えていました。今でもそんな人を探してはいるけれど、当たり前ですが心から信頼できると思える人には、なかなか出会えないんですよね。
泰子さんは翔子さんの方を見てから、苦しそうな表情を見せます。
泰子:もしも子どもが自立して生活できる力があるとしたら、それだけで親は幸せじゃないかと思うことがあるんです。安心して子どもを残して死んでいけると思えるなら私、それ以上何も求めない。
障害者の親として、子どもに障害があるとわかったときの絶望からだんだん立ち上がって楽しくなってきて、最後には「残して死んでいく」という大きな課題があるわけです。本当に、とても大きな課題です。
ただ、一人暮らしを始めて地域のつながりの中に暮らす翔子さんの様子を見て、泰子さんの心境は徐々に変化していきました。「人に迷惑をかけないように、一人で生きられるように」という気持ちが和らぎ、地域のつながりを信じてみようと思えるようになっていったのです。
泰子:翔子が街によく溶け込んでいるのを見て、みなさんの優しさをすごく感じました。あぁ人間ってすごいんだ、地域のつながりって大事だなと。
街は共生社会で複数の人たちがいるから、この人がだめならあの人、というふうに頼ることができる。世代交代を経て、代々つながっていく関係性もあるんですよね。
今では泰子さんは、そんなに心配しなくても翔子さんを助けてくれる人は必ずいると、思えるようになったといいます。それは、翔子さん自身に「愛し愛される力があるから」です。
泰子:翔子は誰といても幸せになれるなって思えたんです。翔子は昔からずっと、みんなを喜ばせようとする子です。「翔子ちゃんがいなかったら舞台を探せ」って言われるくらい、地域のお祭りやイベントでは率先して舞台に上がって楽しませていた。人から好かれる力があるから、大丈夫。
泰子さんは今でも、「翔子には“自立”は難しいのではないか」という不安を抱え続けていると話します。
それでもその口調が絶望に満ちているわけではないのは、地域の人と人のあいだで生き生きと暮らす翔子さんの姿に、親亡きあともこの街で暮らし続けていくイメージが少しずつ持てるようになってきているから。
街の人と手をとりあう、翔子さんらしい「自立」の形が見えてきているからだと思います。
誰かがきっと、助けてくれる
取材を終えて「カフェガーデン・おとなし」を出ると、商店街は夕闇に包まれていました。翔子さんと並んで歩いていると、「ここは、歯医者さん」「ここのケーキは、おいしいのよ」などと弾むような口調で教えてくれます。
店じまいのため外に出てきた人に声をかけたり、軽やかにお店に入って行って店員さんと握手をしたり。あなたに会えたことがうれしくてたまらない、というふうにニコニコしている翔子さんにつられて、街の人たちの顔にも優しい笑顔が灯ります。
翔子さんと並んで街を歩くと、翔子さんの人柄が地域の人たちから愛されていること、温かい関係性を築いていることが伝わってきます。
そして翔子さんが誰かに話しかけるたびに、泰子さんは「いつもありがとうございます」と丁寧に頭を下げて、言葉を交わすのでした。
泰子:死ぬに死ねない思いはずっとあるし、これからも必ずあり続けると思います。けれど、今の翔子を見ていると、誰かがきっと助けてくれるのではないかと思える。だから今では、ときがきたらいろいろな心配には目をつぶって死のうと思っています。
翔子さんが現在築いている「自立」の形は、「地域の人に支えられ、助けてもらいながら生きること」。一人で完結するものではありません。これは、孤独のなかで子育てをしてきた以前の泰子さんには、まったくイメージできなかったものでした。
人はいつも100%元気でいられるわけではないし、一人ですべてのことをうまくやれるわけではありません。障害の有無によらず、「自立」とは「誰にも頼らず一人で生きていく」ことではなく「頼れる先を増やして、周囲に支えられて生きること」なのだと思います。
とはいえ、「人に頼れない、迷惑をかけてはいけない」という考えがもともとある人にとって、それを改めるのは容易なことではないでしょう。
「自立」への第一歩はまず、「人に頼っても迷惑をかけても、大丈夫だった。支えてもらえた」という体験をすること。そして、そう思える環境や居場所が必ずあると信じて、探していくことなのかもしれません。
二人の姿からもらった希望は、きっと「自立」に悩む多くの人の力となると思います。
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金澤翔子さん ホームページ
(編集/工藤瑞穂、撮影/加藤甫、企画・進行/松本綾香、協力/杉田まりな、三谷なつこ)