※普段井上さんは日差しを避けるため、屋外ではマスクやサングラスをしていますが、今回撮影のために、一部マスクやサングラスを外して撮影させていただきました。
皆さん、こんにちは!僕の名前は井上兼豪(いのうえけんご)と言います。
妻と子どもの家族3人で、明るく楽しく暮らしています。
実は、見た目ではあまり分からないかもしれませんが、僕はある病気を抱えています。指定難病である「色素性乾皮症(D群)」という病気です。
この病気は、日差しを浴びると激しい日焼けが起きるため、僕はお日様の元を自由に出歩くことができません。肌の露出を控えたり日焼け止めをして日差しが直接当たらないようにガードしなければ、シミができやすく皮膚がんになる確率も高くなるなどのリスクがあるのです。
今でこそ家族3人で幸せに暮らすことができていますが、これもいろんな人との関わり合いの中で自分の病気と向き合い、徐々に僕が生まれてきた意味や役割をポジティブに捉えることができるようになったからこそ。これまでたくさんの人の支えがあったおかげで現在の僕があります。
現在は、より多くの人に色素性乾皮症の存在を知ってほしく、僕が配信しているYouTubeチャンネルの中でも自分の病気について語っている動画を投稿しています。
今回は、色素性乾皮症(D群)がどんな病気なのか。僕が病気と向き合うきっかけになった出来事や、自分の病気について発信する理由についてお話しします。
“普通の子”と同じように遊び尽くした少年時代
色素性乾皮症とは、日光によって引き起こされる遺伝子の傷を修復する仕組みに生まれつき障害があり、遮光を怠ると、日光が当たった部分の皮膚にシミができやすく、乾燥が生じやすいことから、皮膚がんになる確率が高いといわれる病気です。
また、日に当たってしまうと異常に激しい日焼けの反応が出て、1〜2週間その痕が治らない、目の障害が生じる、など日常的なリスクも抱えています。
色素性乾皮症にはA〜G群とV型の8つの病型があり、どの病型かによって症状の程度や現れ方が違います。どの病型も共通して、日光に晒された肌の部分に皮膚がんが発生する恐れがあります。
その中で僕は、D群に指定されています。肌に日光が当たったら、日焼けして痛々しくその部分が変色し、数日間続くなどの症状があります。
昔から外に出る時は必ず日焼け止めをしっかりと塗って、帽子やサングラスで頭皮や目を守るなどのケアは欠かせません。それでも、目を日焼けして視界が真っ白になり何も見えなくなる、肌の遮光が不十分で部分的に日焼けしてしまう、などの症状は子どもの頃によく起こっていました。
でも小さい頃は、もちろん自分が病気であることは分かっていたんですが、そこまで自分の病気のことを重く捉えていなかったんです。色素性乾皮症だからといって、ずっと家の中で過ごしているわけではなくて、よく外にも連れて行ってもらっていたし、遊ぶのが大好きな活発な子どもでした。
大人になってから聞いたことですが、それは両親の思いとも関係があったようです。
普通の子たちと同じように遊ばせたい。
父親も母親もそう思いながら育ててくれたおかげで、病気のために入院したり、行動が大きく制限されたりすることはありませんでした。
今思えば、僕が小さい頃はまだインターネットや携帯電話が普及していない時代。病気についての情報が少なく、両親は手探りの状態で育ててくれたのだと思います。また、病院へ行っても治療法がないと医者に言われたため、診断を受けた後も通院していなかったようで、今後どんな症状が出るかもわからず両親はかなり悩んだはず。
そんな状況でも、両親が悩みながら一生懸命に育ててくれたおかげで、僕は他の子と同じように幼稚園や学校に行って、友達と一緒に遊ぶことができました。小学生くらいまでは、全部日光をガードして、公園で夕方5時頃まで鬼ごっこやドッジボールをして目一杯遊んで帰ってくるような毎日。
そして、僕にとって大きかったのは3歳上の兄の存在でした。実はその兄も全く同じ色素性乾皮症(D群)なんです。
もともと、兄が生まれて10ヶ月程経ったある日、長時間外出したときにみるみる顔が赤く腫れ上がり、火傷したように日焼けしてしまったことがありました。その後大きな病院で検査をしたところ、色素性乾皮症が判明したそうです。
両親は次に生まれた子も同じ病気かもしれないと考えて、生まれて数ヶ月経ってから僕も検査をすることに。そこで色素性乾皮症であることがわかりました。
兄とは小さい頃からよく病気のこともお互いに相談したり、助け合ったりしてきました。「今日、太陽がやばそう」という日は、2人ともピンと来るんですよね。全く同じ症状なので、お互いのことも手にとるように分かりました。
この病気は遺伝性なのですが、両親は発症していなく、病院の先生に聞いても兄と僕が二人ともこの病気で生まれてきたのはすごい確率なのだそうです。同じ血を持って、同じ病気で生まれてきているのもあって、僕たち兄弟の絆はすごく深いなと感じています。
日焼け対策のために全身を覆っていても、2人とも同じ格好なので周りの目が気にならず孤独になることはなかったですし、お互いの存在が心の支えになっていました。
なぜ自分だけみんなの輪に入れないんだろう?難病患者だと自覚したプールの授業
周りと同じように育ててくれた両親や、幼い頃から気持ちを理解し合える兄がいてくれたおかげで、小学生の頃までは特に問題なく過ごすことができていました。帽子を被ったりサングラスを掛けたりして外に出ることに対しても、深く考えることはなく、「これが僕のライフスタイルなんや」って思う程度。
でも、中学生になってから、少しずつ気持ちに変化が起こってきました。
なんで俺って、いつもこんな姿で出ないとあかんねやろう?
たとえば体育の時間でも、他の子は帽子なしで運動しているのに、僕1人だけ帽子を被っていることが気になってきたんです。
体育の授業の中でも、夏のプールは水面の日光の跳ね返りが強くて危険なので、僕だけ教室に待機して特別授業を受けることになっていました。
プールの時間になったら、みんなが一斉にダーッと教室を出ていくんですよ。それを毎週毎週「行ってらっしゃーい」と見送るのですが、中学2年生のある時、みんなの出ていく姿がめちゃくちゃ楽しそうに見えました。
僕はいつも教室の窓からプールでのみんなの様子を眺めながら、2時間ひとりぼっち。
そして帰ってきたら、みんなはびしょ濡れで「冷たかったなぁ!」なんて話しているんです。「おかえり」と普通に接するのですが、心のなかでは「寂しい」「なんで自分だけなんだろう」っていう思いでいっぱいで。
あ、僕って病気なんだな。この輪のなかには入れないんだな。
小学校時代でもプールの授業で同じ状況はあって、何も感じていなかったはずなのに、この頃に初めて自分と周囲の違いに気付きました。
そして、今まで病気に関する情報にほとんど触れたことがなかった僕は、その時初めて携帯電話を使ってインターネットで病気のことを調べてみることに。「色素性乾皮症」と検索し、一番上に出てきた記事をクリックしました。それはA群に関する記事だったと思いますが、そこには「20歳までに死亡する」と書かれてあったんです。
神経障害が起こるA群では、重症の場合、20歳前後という若さで死亡することが多いとされてきた影響で、このような記事があったのだと思います。(ただ現在は皮膚がん予防や神経症状への対症療法が進歩しており、A群の重症例の場合であったとしても、平均寿命は延びてきているようです。)
「20歳までに死亡する」
読んでる最中にこの文字が浮かび上がってきて、そこだけ切り抜いたように大きく見えて。僕はそこから記事の続きを読むことができなくて、咄嗟に携帯を閉じてしまいました。
当時14歳だったので、あと6年しか生きられないのだと思うと、どん底に突き落とされたような死の恐怖を感じたことを覚えています。
実際、後になってきちんと調べたり病院に行き始めると、僕はA群より症状の程度が軽いD群なので、あのとき読んだ記事は必ずしも当てはまらないと分かりました。とはいえ、当時はまだ自分の病気についてよく知らない状態だったので、間違いに気づくことなどできません。
思えばこのインターネットの記事を読んだ時が、僕が初めて自分の病気と向き合った瞬間でした。この出来事は両親には言えず、他の誰にも打ち明けることもなく、自分の心の中に秘めていました。
「君は笑顔が素敵。いつまでも笑って生きてほしい」
その次の日。ちょうどまたプールの授業があり、みんなが教室を出て行った後、カーテンの向こうに見える楽しそうなクラスメイトの様子をジーッと眺めていました。いつも特別授業をしてくれている担任の先生が来てくれた瞬間、押さえていた感情が溢れ出てしまいました。
先生、僕、20歳までに死ぬかもしれへん。
僕はいきなり、先生の前で泣いてしまったんです。今になってその先生と当時の話をすると、なんて答えたらいいか分からなくて焦ったそうです。思春期の中学生から突然こんなことを言われたら、無理もないですよね。でも、先生は僕のことを受け止めてくれました。
兼豪は、笑顔が素敵。いつまでも笑って生きてほしい。
僕は先生の言葉を今でもしっかりと覚えています。「笑顔はいろんなことを変えられる力がある。それくらい兼豪の笑顔は素敵だから」と言ってくれました。この言葉が僕をどん底から一気に救い上げてくれて、「笑って生きよう」と決意することができたのです。
この先生は、僕のことを3年間受け持ってくれたのですが、同じ病気を持った兄の担任も3年間していたので、病気についても本当によく理解してくれていました。日焼けを防げるよう校舎の窓ガラスを変えてくださったり、「今日は日焼け止め塗ってるか?」と気にかけてくださったり。ずっと親身に僕のケアをしてくれました。
また、高校に上がる時には、僕が進学する高校の先生の前で病気の症状や対策・ケアについて発表して、理解を促してくれたんです。その先生とは今でも繋がりがあり、第二のお母さんのような存在。
先生の言葉や支えのおかげで、「20歳までに死ぬんや」という不安も吹っ飛び、この先どうなろうと何歳まででも笑顔で生きたいと思えるようになりました。
病気と向き合う一歩を踏み出させてくれた妻の言葉
それからの僕は、「病気のことを心配し続けても仕方がない」と吹っ切れて、自分らしく活発に生きていました。
中学、高校ではバスケットボール部に入部。室内で出来るスポーツしか選択肢が無かったので、兄が先にやっていたバスケを僕もやってみようと思ったことがきっかけです。いざ始めてみたらとても面白くて、バスケに一生懸命打ち込んでいました。
高校卒業後は、小さい頃から警察官になりたいという夢があったので、警察官になるための専門学校に進学しました。しかし色々な事情があって、その夢は叶いませんでした。
今思えば、病気のことがあったので、警察官として働くのは難しかったかもしれません。大人数の統率が取れた組織の中で、病気で制約の多い自分のことを配慮してもらうのは、どこかで無理が生じていただろうと思うからです。
現在は、家業を継いで仕事をしています。仕事は屋外で行うこともあるのですが、自分で「日差しが強いな」と思ったらなるべく避けたりなど、臨機応変に対策やケアをするよう努めていますね。また、兄も同じ職場なので、日焼け止めを忘れたら貸し合ったり、「いいマスクがあったぞ」って持ってきたり、今でもお互いに助け合えていることはとてもありがたいです。
ただ、こんな風に毎日ケアするのはやっぱり大変で……。もはや日課なんですけど、それが嫌になる日もあります。
でも実は、昔はもっと疎かにしていました。
「別に、手なんか日焼けしても多少痛むくらいで済むやん」
「ちょっとくらい大丈夫」
生まれてからずっとこの病気と付き合ってきたので、どのぐらいの時間でどれだけ日焼けするのか、それによりどんな症状に苦しむのかが予測ができるようになっているので、逆に「これくらいでいいだろう」と考えて対策をしてしまっていたんです。
また、病院に通うこともしていませんでした。正直、自分の病気について知るのが怖かったんだと思います。もしも病院で、「これからこんな症状が出るよ」などと現実を突きつけられたら、それを受け入れて生きていける自信がありませんでした。
そんな僕が病気にもっと真剣に向き合うようになったのは、妻の言葉がきっかけでした。
妻とは18歳の時に出会って、25歳になって結婚したのですが、最初から病気のことも全部伝えていました。D群は、ケアをすれば問題なく日常生活を送ることができるので、これが僕なんだと受け止めてくれていたと思います。しかし結婚する前の24歳の時に、「もう一回自分の病気と向き合ってほしい」と言われたんです。
これから先、自分だけの命じゃないよ。
妻のこの言葉がとても心に響きました。
それまではたとえ僕の身に何かあったとしても、自分1人の問題です。けれど、これからは共に生きていくパートナーがいて、今後子どもが生まれるかもしれない。自分がバタッと倒れたら、家族を置いていくことになってしまいます。
もっと自分のことを大切にしなければ。
妻に出会って初めて、こんな思いが芽生えました。それから近くの病院に行って、その後色素性乾皮症を診てくれる神戸の病院の紹介状を書いてもらうことに。
今はそこで自分の病気について詳しく話を聞かせてもらったり、半年に一回、がんの検査を受けています。
顔にあるシミなどががん細胞に変わっていないかなどを調べるのですが、毎回検査結果を聴くときはとても緊張します。
なぜなら、日焼けをして数年経ってから徐々にそれがシミやそばかすとして肌に出てくることも多く、それが皮膚がんの発症につながるかもしれないから。今元気に過ごせていたとしても、油断してはいけないのです。
最近は顔に出ているシミやそばかすの他に、翼状片という目の症状も出てきました。翼状片とは、白目の表面を覆っている結膜が角膜(黒目)に入り込んでくる病気で、主に目頭の方から黒目に向かって三角形状に広がっていくことが多いそう。
小さい頃に目を日焼けしてしまった影響で今も目が充血しているのですが、こんな風に昔受けたダメージが、30歳の最近になって現れたりしています。
このような様々な症状に対しては、普段からあらゆるケアや対策が必要です。
仕事の時はまず、毎朝顔を洗った後に、顔や首、耳、腕などの露出している部分全てに日焼け止めを塗ります。そしてサングラスを掛けて家を出発し、職場に着いたら頭や首元までガードしてくれるマスクをつけて、完全に肌が出ないように覆います。
日焼け止めを何度か塗り直しますが、それでも長袖と手袋の隙間やマスクと顔の隙間などが空いてしまって遮光が不十分だったりすると、そこの部分だけ黒く日焼けしてしまうため、十分に気を使って日々を過ごさざるを得ません。
また、顔のシミやそばかすを目立たないようにするためメイクをするなど、見た目で気になる部分のケアもかかさないようにしています。
同じ病気を持って生まれてくる子どもたちの未来を、少しでもよくするために
2020年からは、僕の病気の症状やケアのこと、中学時代の恩師とのエピソードなどをYouTubeチャンネルで発信しています。こちらは夫婦で運営していて、家族の日常についても伝えています。
「病気のことを発信したい」という気持ちは以前から持っていました。
せっかくこの体に生まれてきたのだから、自分の病気について世界に知ってほしい。そうしないと、僕が生まれてきた意味がない。
こんな話を、昔から中学校の先生や親にもよく話していました。だけどその反面、自分の病気のことを知るのが怖くて逃げている自分もいたのです。
ずっと心の中にモヤモヤを抱え続けていた僕の背中を押してくれたのが、先ほどの「もう一回自分の病気と向き合ってほしい」という妻の言葉。妻のおかげで自分と向き合うようになって、病院へ足を運んでこの病気のことを全部知ることができたので、吹っ切れた感覚がありました。
僕は2万2千人に1人くらいの発症確率で生まれています。この病気を背負って生まれてくることって、そうそうないわけです。じゃあ、どうせ生きるなら、僕はこの先の未来に繋がる何かを残したい。
なぜなら、きっとこれから先も、同じ病気を持って生まれてくる人が絶対にいるはずだから。もしYouTube上にアーカイブがずっと残っていれば、たとえ僕が亡くなったとしても、動画を見てくれる人がいるかもしれません。
同じ病気を持って生まれてくる子どもたちの未来を、少しでも変えられる可能性があるなら、やっぱりできることをしたい。そう決意して、活動をはじめました。
でもYouTubeを開設しても、最初はもちろん登録者数がゼロ。病気のことを投稿しても誰にも届かないかもしれません。最初の2年ほどは夫婦生活や家族のことなど他の人も共感しやすいことを発信し続けて、少しずつ見てくれる人を増やしていきました。
そしてチャンネル登録者数が1000人を超えたところで、思いきって自分が色素性乾皮症であることを初めて公表したんです。
嬉しいことに、その動画には多くの反響がありました。
同じ病気を持つ人だけでなく、病気のことを初めて知ったという人もコメントしてくれて、とても嬉しかったです。
動画をきっかけに、同じ病気の人とは情報交換をするようにもなりました。
「私はC群です」
「日焼け止めは何を使っていますか?」
「どこの病院に通院していますか?」
症状に悩む方から、様々な質問が届きます。
ただ、色素性乾皮症の中で言えば、D群の僕は症状が軽い方に分類されます。他のランクの方のことも知りたいのですが、病型によって症状の差が大きすぎて、なかなか踏み込めないことも事実です。
以前色素性乾皮症にも自助グループがあることを知り、病院の先生に「僕も参加したい」と伝えたことがありました。
しかし、同じ病気でも人それぞれ症状は違い、車椅子に乗っているような重度の方もいらっしゃいます。生きる環境や日常生活が全く違うので、その輪の中では話が合わないことも多いだろうし、僕の経験談は薄っぺらいものに感じてしまうのではないか、という心配もあります。
そのときは医師にも相談していろいろ考えた結果、自分よりも症状が重い人の気持ちなども考慮して、参加しないことを選択しました。
自助グループに参加して語り合うことはできないぶん、僕は情報発信によってアプローチしてきてくれた人とは、いろんな悩みを分かち合いたいと思っています。
たとえばC群の症状がある女性からは、対策のために遮光服やフェイスガードを着て歩いていたら周りから変な目で見られたり、「コロナを怖がってそんな服装をしているんじゃないか」などと誤解されたこともあったと聞きました。
そういう場面で傷つくし、積み重なると出歩きたくなくなる。
その気持ちは、同じ病気である僕はとてもよく分かります。こういった思いを話せる相手が、誰しも身近にいるわけではないと思うので、その方が僕に打ち明けることができて本当によかったなと思います。
これからも僕が発信することによって、色素性乾皮症の存在が広まって、1人でも辛い思いをする人が減ってほしい。そのためにも、YouTubeでの活動を続けていきたいと思います。
自分が生まれてきた意味や証を残したい
なぜ発信をするのかを考えた時に、同じ病気の人たちのためであると同時に、それは両親のためなのかもしれません。僕自身は、病気によって一番つらかったのは自分じゃなくて親の方だと思っているんです。
こんな体に産んでごめんね。
両親はよくそんな風に言いますが、僕は「いや、そうじゃないよ」といつも返します。
それでもなお、過去に外に出て日焼けしてしまったぶんが今になって症状として出てくる部分はあるので、「もし今、もう一回育てられるチャンスがあるなら、多分外に出していないかもしれない」と両親は言います。
今だったら調べれば調べるだけ情報がたくさん出てきますが、昔はそうはいかなかった。情報が思うように得られず難しい時代の中で、両親は一生懸命僕を育ててくれたんです。
たとえ病気があったとしても、なるべくいろんなところに連れて行ってあげたい、いろんな遊びをさせてあげたいという気持ちで広い世界を見せてくれた。
それが今でも貴重な自分の財産だと感じますし、そんな風に育ててくれたから今の僕ができたんだと思います。そうじゃなかったら出会えなかった人たちがたくさんいて、外に出ることも少なくて全く違う性格だったかもしれません。
僕はこの体に生まれてきたことに後悔はしていないし、むしろめちゃくちゃ感謝しています。そのおかげでこの病気の情報を発信できるし、それによって世の中に貢献できるかもしれない。少しでも誰かの力になれれば、もうそれで十分だと思えるんです。
この体に産んでくれてありがとう。
発信する意味や目的はいろいろとありますが、まずは両親へのこの気持ちが一番の理由です。
答えはきっと見つからないけれど、僕は「今の自分」が正解だと思っています。後悔は一度もしたことがない。
一度自分が選んだ道に対しては、「それを決めたんはお前やろ」って自分に言い聞かせて、後ろを振り返らずに前だけを向いています。
これからも、両親がくれたこの体と、僕だからこそ経験できたことを大切にしていきたい。この病気のことをたくさんの人に発信し続けることで、僕が生まれてきた証を残していきたいと思います。
関連情報:
井上兼豪さん YouTubeチャンネル
(撮影/水本光、編集/工藤瑞穂、企画・進行/松本綾香、協力/山田晴香)