「私は〜だから、きっとできない」
そんな考え方は、しばしば私たちの前向きに行動しようとする足を引っ張ります。「子どもだから」「大人だから」「男だから」「女だから」。
「女の子は勉強なんてしなくていい、いい大学になんて行かなくていい」
今から30年くらい前の話ですが、私が生まれ育った田舎の小さな町では当たり前のようにそんなことを口にする大人がいました。当時小学生だった私にとって、それは学びへの意欲を風化させるには十分な呪いの言葉でした。
高校生になって、それでも自分の行きたい大学に進もうと考えたとき、私の中に渦巻いていたのは未知の環境へひとりで飛び込んでいくことへの不安だったように思います。経験したことのない「大学」という場での学び。親元を離れての一人暮らし。自分にできるんだろうか……。
そんな不安を打ち消そうと情報をせっせと集める中で、実際の学生生活を思い描くために役に立ったのは、自分とバックグラウンドの近い先輩の体験談でした。
一歩踏み出した人の体験談には、同じように前に進もうとしている人を後押しする力があります。
障害があるから、きっと大学には行けないーー。障害があることでそう考えている若者を、先にその道を進んだ人たちの経験談を伝えることで応援する取り組みがあります。
それが、認定NPO法人健康と病いの語りディペックス・ジャパンの運営する「障害学生の語り」です。このサイトには、障害がありながら高等教育機関で学ぶことを選んだ人たちの語りが掲載されています。
障害がありながら大学に進学する人はかつてに比べれば増えていますが、それでも特別支援学校の大学進学率は2%(※1)ほど。しかも、障害がありながら大学で学ぶ「障害学生」の数は全学生数の1%程度(※2)と非常に少数です。障害があると、高校卒業後に大学で学ぶという選択肢を視野に入れにくいという状況もあります。現状では障害のある生徒が大学で学ぶために新しい環境に飛び込んでいくのは不安も負担も大きいでしょう。
※1 文部科学省「学校基本調査(令和4年度)」による
※2 独立行政法人日本学生支援機構令和3年度調査結果による
「障害学生の語り」には、障害があっても学びを諦めない人たちの背中を押すような体験談があります。
このサイトを立ち上げたのは、都内医療系大学の准教授である瀬戸山陽子さん。ご自身も歩行障害と顔面神経麻痺の当事者であり、看護師を志して大学に入ったものの、障害のために臨床の現場に立つことを諦め、大学院へ進学した経験があります。
なぜ瀬戸山さんは「障害学生の語り」を立ち上げることにしたのでしょうか。今の障害学生を取り巻く環境はどんなものか、障害によって学びをあきらめないためにはどうすればよいのか、お話をうかがいました。
自らの病気がきっかけで、看護師が働く女性として身近な存在に
瀬戸山さんは現在、都内医療系大学の准教授として、主に「信頼できる情報をインターネットで探すにはどうしたらいいか」などといった情報リテラシーを看護学生に教えています。また、医学生のPBL(Problem Based Learning、問題解決型学習)という、問題に対して解決方法を探していくグループワークの授業に、チューターとして関わることもあります。
瀬戸山さんがこのような医療の道に足を踏み入れたきっかけは、中学生のときに手術を受けたことでした。
中学3年生の時に頭蓋内に血管奇形が見つかりました。急に顔に痛みがばーっと出てくるようになって、最初は虫歯かと思いこんでいたんですが、検査してもらい頭蓋内の問題だということがわかったんです。
それまで瀬戸山さんは部活動のバスケットボールに打ち込み、朝練や昼練もこなす活発な中学生でした。かつての自分を振り返り、瀬戸山さんは自らを「非常に負けず嫌いな性格だった」と話します。
このときに受けた手術は脳外科の中では非常に小さな部類のものだったのだそうですが、痛みは完全に取れず、さらには後遺症で左耳の聴力を失います。
片耳難聴は、困難さが周囲にわかりにくい障害のひとつです。聞こえない耳の方から話しかけられても気づけなかったり、騒音の中での会話が聞き取りづらかったりするなどといった不便さがあります。
右耳は聞こえているので、困ることがあっても何とかなってしまうため、左耳が聞こえないことを何度伝えても周りの人たちにすぐ忘れられてしまうんですよね。そのときに「見えない障害って大変だな……」と思いました。
バスケ部は続けていましたが、左耳が聞こえないと後ろから声をかけられても方向が分からず、とても戸惑ったのを覚えています。ほんの一時期ですが、それが理由で不登校になったこともありました。
その後もなかなか取れない痛みや後遺症のために病院とのつながりが続くことになり、高校3年生のときに2回目の手術を受けることに。そんな中で、瀬戸山さんにとって看護師という職業が身近なものになっていったといいます。
看護師を目指すようになったのは、私自身が看護師に助けられたというのもありますし、働く女性として身近な存在でもあったからです。看護師と接する機会が多かったことで、将来のことを考えるときにイメージしやすい職業になったのかなと思います。
手術の後遺症で精神的に追い詰められた学生時代
瀬戸山さんは高校卒業後、看護師を目指して看護系の大学に入りました。入学後に3回目の手術を受け、4回目の手術を受けたのは在学中の23歳のとき。この手術の後遺症として歩行障害と顔面神経麻痺が残りました。
歩行障害については、障害名でいうと小脳失調による平衡機能障害。歩くときに蛇行してしまうなど不安定になってしまうため、肘にカフがついたロフストランドクラッチという杖が必要になりました。
歩くためのリハビリはとても大変で、思うように歩けるようになるまでに時間もかかったのだそう。それでも、瀬戸山さんにとっては「どう考えても顔面の麻痺の方が辛かった」といいます。
顔面神経麻痺で顔の左側が動かなくなり、左目は瞬きができなくなって。そのために角膜が炎症を起こして左目は失明しました。
口も左側が動かないので滑舌が悪くなり、思うように喋れなくなってしまいました。顔の左側は、動かなくなる顔面神経麻痺だけでなく、知覚がなくなる三叉神経麻痺にもなっており、食事をしているときに口の左側から食べているものがこぼれても気づけません。食べこぼしでテーブルや洋服が汚れているのを見て、口から食べ物がこぼれたことに気づくんです。
入院中、ベッドの上で食べていると自分のパジャマやベッドのシーツを激しく汚してしまって、なんか、やっぱりもう、ちょっと耐えられないな、と。
鏡を目の前に置いて、うまく食べられるようになるための練習もしたそうですが、「自身の歪んだ顔を凝視しながら食べるのはとてもしんどかった」と瀬戸山さんは振り返ります。
顔って隠せないですよね。片耳が聞こえなくなったときには「見えない障害って大変だ」と思ったのですが、顔に麻痺が出たら「なんで隠せないんだろう」とつらくなりました。ずっとこの顔でいなければならないんだって。
日常的にさまざまな不便が生じるようになったことに加えて、顔面麻痺になったことに対する周囲の反応が、瀬戸山さんをさらに精神的に追い込んでいきました。
顔面麻痺が出る以前からの知り合いと再会したときに、少しでも「え?」という顔をされることが耐えがたかったです。自分も逆の立場になったらそういう反応をするのだと思うので周囲の反応はごく自然なものですが、それが分かっていながらも、当時は耐えがたい思いでした。
顔面神経麻痺って真顔のときよりも笑ったときの方が目立つんです。私の場合、左側が動かないので、笑うと右側だけが笑っている表情になり、左右で表情に差が出るんです。「もう笑うなってことか」という歪んだ思いにもなりました。
誰にも会いたくないと思ったし、普通に笑っている人を見てなんで笑えるんだろう、なんでふつうの顔をしているんだろうって。ごくごく当たり前のことなのに、ある日突然自分の顔が変わったことで非常に妬ましくなって。私はそういう気持ちを抱くのかと、さもしい思いになっていること自体が非常につらかったです。
街に出られるようになると、さらに追い討ちをかけるようなできごともありました。
子どもたちは素直というか、残酷というか。私の顔をジーっと見てくるんですよね。顔が歪んでいるのを真似してきたり、大きな声で「変な顔!」と言ってきたり。今ならこちらからニコっとして「笑ってあげるよ」くらいに思えるんですけど、当時は、そういう一つひとつのできごとにささくれ立つような思いがあったなと思います。
悩んでいたのは知らなかったから。情報を得ることが力になる
手術後に1年半ほど大学を休学し、その間にリハビリを行った瀬戸山さん。精神的にも不安定な状況が続きましたが、やっとの思いで復学することになります。
「どうしても看護師になりたいから大学に戻りたい」というよりも、「所属がなくなるのが怖い」って思ったんですよね。この先やることがなくなったら、私は何もしなくなってしまいそうだと感じるくらい、顔面麻痺のことで精神的に落ち込んでいる状態でした。
復学するにあたって、このまま看護学生を続けていけるのかという壁にもぶつかります。
周囲と話していて「杖をついて看護学生を続けるのは難しいんじゃない?」という話になって。私も最初は、確かに杖をつきながら臨床は難しいかもと一度は納得しかけたんです。でもどうしようか考えるうちに、「なぜ障害があると大学で学べないのか?」という疑問が湧いてきました。
そんなモヤモヤした思いを抱えながらインターネットで情報を調べていたときに瀬戸山さんが出会ったのが、障害学生の当事者が中心となって活動する「一般社団法人全国障害学生支援センター(以下、全国障害学生支援センターという)」でした。この団体は障害がある学生や卒業生が集まって、年齢や障害の違いを超えて自身の経験を語り合う交流会を開催したり、当事者の声をメッセージとして機関紙で発信したりしており、1999年の設立以来、23年にわたって活動を続けています。
全国障害学生支援センターを設立したのは、障害学生としては先駆者的な存在である殿岡翼さんです。彼は生まれつき重度の脳性麻痺による全身性の肢体障害があって、それこそ「障害があったら大学進学は無理ですよ」って言われていたような時代から、「なんで障害があって大学で学んじゃいけないんだ」と闘ってきた人。そういった障害学生の体験が、たくさん蓄積されている団体です。
交流会に参加した瀬戸山さんが出会ったのは、車椅子で大学に通った人や、全盲で盲導犬を連れて教育実習に行った人など、障害がありながら自ら道を切り拓いて大学で学んできた人たちでした。その出会いが瀬戸山さんの意識を大きく変えていきます。
大学の同級生たちが看護師となって社会に出て行こうとする中で、「私だけこんなことになっちゃってどうしよう」って思っていたんですけど、障害がありながら大学で学ぶことを諦めなかった人に出会うにつれて、私が「どん底にいる」って感じていたのは「知らなかっただけ」なんだなって。それまでの自分は井の中の蛙だったなと思いましたし、「なんで私は悩んでたんだろう……?」って思うくらいに世界を広げてもらって、気持ちが楽になりました。
瀬戸山さんは全国障害学生支援センターの交流会に参加し、当事者がぶつかるさまざまな課題についてどう対応したかを、同じような経験をした人から教えてもらうことができました。
「大学に自分の障害をどう伝えるか」とか、「大学で学ぶにあたって、どう大学と交渉するか」とか、自分ではまったくわからなかったことも、経験者の人がたくさんいて、教えてもらえたことは大きかったです。
その交流を通して瀬戸山さんが感じたのは、情報を得ることが力になるということでした。
知っているか知らないか、誰かとつながりがあるかどうかということは、気持ちの面でも、役に立つ情報を得られるかという面でも大きな影響があると思いました。そして、「体験した人しか話せないことがある」ということに気づかされました。
同じ頃に瀬戸山さんが興味を持ったのが、インターネット上の健康情報でした。
私自身が「顔の痛み」という症状や、自分の障害についてインターネットで調べたからこそ、「どうやら『障害学生』という人たちがいるらしい」ということを知ることができました。当時はYouTubeの日本版ができていなかったし、SNSも広まる前で、情報を得るにはホームページのテキストを読むのがメインでしたが、それでも「インターネットってすごいな」と思ったんです。
瀬戸山さんは徐々に「インターネットで情報を得られるかどうかで、医療を受けるときの意思決定も違ってくるのではないか」と考えるように。ネット上の健康医療情報にはどんな意味があって、どういうものであれば患者さんや医療の受け手がよりよい意思決定ができるのかに関心を抱くようになり、大学院で「看護と情報」について学ぶことにしました。
大学院進学という選択を瀬戸山さんは「学問分野にこだわったというよりはモラトリアムの延長で、自分の中では『逃げた』という感覚だった」と振り返りますが、このときの決断が、後の障害学生の語りの立ち上げへつながっていくことになります。
人の体験が社会資源になる。DIPExとの出会い
大学院生となり、インターネット上での医療や健康にまつわる情報発信に関心を持っていた瀬戸山さんは、「DIPEx」という活動の日本版を立ち上げるための勉強会があることを知り、参加してみることにしました。
かつては医者の経験則によって治療が行われていたために医療の質がまちまちだったのが、80年代頃に「エビデンスを元にして医療を決めていきましょう」という考え方が出てきました。それは非常に大事な考えだし、大きな医療の進歩だったと思うんです。
その一方で、エビデンスを元に「これが効きます」と言われても、人は一人ひとりがそれぞれの思いを持っていますし、価値観や好みも違います。なので、「エビデンスも大事だけど、もっと一人ひとりの体験にフォーカスを当てたような医療も考えていく必要があるんじゃないか」という考え方が社会に起こってきて生まれたのがDIPExです。
DIPExは、データベース・オブ・インディビジュアル・ペイシェント・エクスペリエンス(Database of Individual Patient Experiences)の略で、一人ひとりの体験談をデータベースにしていくプロジェクトです。ある治療を受けることについて数十名の当事者に医療体験の話をしてもらい、Aさん、Bさん、Cさんでそれぞれみんな違うということがわかるようにインタビューの動画やテキストをネット上に公開しています。
DIPExは1990年代後半にイギリスで始まり、ウェブサイトがオープンしたのが2001年。それをモデルに日本でも同様のプロジェクトを立ち上げようという動きが出てきて、任意団体「ディペックス・ジャパン:健康と病いの語りデータベース」として活動が始まったのが2007年です。
医療や社会の状況は国によって違いがあるため、日本版の「健康と病いの語り」のデータベースを構築し、それを社会資源として活用していくことを目指してのことでした。
DIPExを知って、人の体験を社会資源にするというのがすごくユニークだと思いました。
私は全国障害学生支援センターでの出会いによって「体験した人にしか話せないことがある」ということを身をもって知りました。当事者の体験を社会で活かそうとするDIPExにはいろんな可能性があるんじゃないかと思ったのをよく覚えています。
DIPExは医療における問題意識から生まれていますが、そのとき瀬戸山さんが感じたのは「“体験したことを活かす”のは、医療に限らなくてもよいのではないか」ということでした。
以前から「障害者」や「障害児」という言葉は知っていたんですけど、自分が障害のある学生になるまで、「障害学生」という言葉にピンときていなかったんですよね。でも実際には、障害がありながら大学で学んでいる人たちがいて、体験した人にしか話せないものをたくさん持っているし、私はそれにすごく救われました。
そんな経験をしてきたので、DIPExは医療体験にとどまらなくてもよいのではと思ったし、もし自分が関わるなら障害のある学生が学校や日常生活の体験を語る「障害学生の語り」をつくりたいと、その頃から思っていました。
DIPExとの出会いで改めて体験のもつ価値を感じ、障害学生の語りのビジョンを見ていた瀬戸山さんですが、実際に立ち上げるまでにはそれから10年以上の年月を要することになります。
「障害学生の語り」立ち上げへ
ディペックス・ジャパンは2009年に認定NPO法人化し、「乳がんの語り」を公開します。瀬戸山さんはこの頃から運営委員に加わり、広報のサポートなどをしていたそう。
乳がんの語りは、在籍する研究者が大型の研究費を獲得してきて、中心的に活動しているメンバーがインタビューや分析をして、サイトを制作するというプロセスでつくられました。
そして2018年には「慢性の痛みの語り」、続いて翌年「クローン病の語り」が公開されます。
ディペックス・ジャパンの立ち上げ当初は研究費を取りやすいがんのモジュールが続き、その後、社会的なニーズの高い認知症のモジュールもつくられるようになりました。運営が軌道に乗ってきて第二段階とでもいうべき時期に入ると、メンバーから「次はこういうものをつくってみたい」という声が上がるようになってきて、「慢性の痛みの語り」が立ち上がりました。
これに続く「クローン病の語り」はそれまでと違い、潰瘍性大腸炎の当事者の方がクラウドファンディングで資金を得てつくられたもの。こうして分野やつくり方にもバリエーションが出て、「必ずしも医療分野の語りに限らなくてもよいのでは」という意見も言いやすくなってきたんです。
さらには瀬戸山さん自身を取り巻く環境にも変化が起こっていました。
2014年頃までは非常勤だったので自分の仕事も安定せず、研究費を取れる立場でもなかったんです。その後、都内の医療系大学で看護学科の教員として常勤の仕事に就くのですが、最初の頃は「臨床経験がないのに看護を教える」ということに毎日いっぱいいっぱいになっていて。
それでも「いつかは、いつかは……」と思いながらやってきて、大学での仕事にも慣れて余裕が出てきた2017年にエントリーしたトヨタ財団の研究助成をいただけることになり、そこから「障害学生の語り」の話が一気に前に進みました。
大学生活で出会うさまざまな場面やテーマを、多様な障害学生たちが語る
ディペックス・ジャパンのなかで9番目に立ち上がった障害学生の語りには、障害がありながら高等教育機関で学んだ20代から40代の男性19名、女性14名のインタビューが掲載されています。
大学選びから入学準備、大学での授業やプライベートでの生活、進路選択と就職など、障害学生が直面するさまざまな場面が語りのテーマ。サイトでは各テーマについて語っている体験者たちの1〜4分の短い「語り」の映像、音声、テキストを見ることができます。
障害がありながら大学で学ぼうと考えた時、大学の授業などについては比較的情報を得ることができるようになってきていますが、寮生活やアルバイト、サークルなどの課外活動についてはまだ情報が不足しています。そのため、課外活動について「リアルな話を知ることができてよかった」という声が当事者からはよく寄せられます。
また、大学関係者からは「障害学生へのメッセージ」や「大学や社会への要望」を聞けて良かったと言われたことが印象的でした。障害学生の在籍している大学であっても、大学関係者が当事者からじっくりと話を聞く機会はなかなかないのかもしれません。
誰もが自由に情報発信できる時代に、「障害学生の語り」の持つ意義
この数十年の間にインターネットが普及し、誰もが自由に情報を発信できる社会になりました。中には自らの病気や障害などについて、YouTubeなどを使って発信している人もいます。そんな中で、DIPExが教えてくれるのは同じテーマについてであっても、語る人によって内容が多様であるということです。
DIPExはひとつのテーマについて30〜50人くらいの、なるべく多様な方々に話を聞くというコンセプトでつくられています。例えば、テーマが病気であれば、その病気の治療法、年代、患者さんの住んでいる地域など、それぞれにバリエーションをつけるルールがあるのだそうです。
障害学生の語りでは、さまざまな障害がある学生たちに、「大学選び」、「入試の準備と実際」、「授業や試験」、「合理的配慮をめぐる学校との対話」などの多岐にわたるテーマでインタビューしたコンテンツがあり、複数の人たちの語りにふれることができます。
大学での学びについてだけでなく、授業外のサークル活動、寮生活やひとり暮らしなどのプライベートに関する内容や、インターンや就職活動などといった卒業後の就職に向けた動きに関するテーマもあり、学生生活を多面的に捉えているのもこのサイトの特徴のひとつ。
たとえば「就活での壁と進路の選択」では、自分の障害について履歴書に書いたところ、会社に「障害があるとこの仕事は務まらないかもしれない」と言われた人もいれば、差別的な対応を受けることはなかったと振り返る人もいるなど、それぞれの体験が語られています。
サイトに掲載されている脳性麻痺で車椅子ユーザーの学生は、小学校から普通学級に通っていましたが、障害者雇用の合同説明会に行ったときに、会場に車椅子の人はほとんどおらず「企業は手のかからない人を求めている」と感じたこと、就職活動をして初めて「自分の体って不自由なんだな」と挫折感を覚えたエピソードを話しています。
一方で、高校時代に数学が得意で友達に教えて喜ばれた経験から大学で教員免許を取りたいと考えており、実習先を見つけるのに苦労したものの周囲の協力もあって特別支援学校で実習をすることができたのだそう。今はその経験を活かし、事業所からの業務委託で介護ヘルパーの研修講師を務めながら、地域の学校で車椅子や障害の体験を話す仕事をしています。
また、「人間関係」のテーマでは、「先生や友人にどう自分の障害を伝えたか」など、障害学生たちが何に悩み、どう工夫を重ねてきたかが語られており、学生たちにとって大いに参考になることがありそうです。
「大学での友人関係」についてインタビューに答えている視覚障害(弱視・色盲)のある学生は、授業内の自己紹介の機会に、弱視であり手助けが必要な場面があることや、構内ですれ違っても気づかないから声をかけてほしいという希望を伝えました。そのおかげで周囲からのサポートを得られ、充実した大学生活を過ごせたと語っています。
DIPExは「人はみな価値観も好みも違うし、自分に合った方法はそれぞれだ」ということが伝わるリソースになっていることに、非常に意味があると思っています。
障害学生の語りをつくっていく中で、知れば知るほど知らないことが増えるような感覚でした。同じテーマについて話をしているのに、人によってこんなにも違うとわかるのは、多様な人が一緒に生活をしていく社会において大切なことなんじゃないかと思います。
2021年にオープンした障害学生の語りには各所からの反響がありながらも、まだ「始まり」だと瀬戸山さんは言います。
障害学生の学びに関する環境については本当にいろんな問題が出てきています。これまでは、そんな課題が表面化することすらなかった時代が長く続いてきて、今、やっと少し議論できるようになってきたということでもあると思うんですけど、やっぱり一つひとつ、みんなで「どうしていこうか?」っていうのを、当事者も周りも一緒になって考えていかなきゃいけない。
まだ本当に途上なんだろうなっていうことを思わされますね。
多様な語りから見えてきた課題としては、例えば、重度の障害のある学生の生活介助の問題があります。授業や試験、演習や実習については大学が合理的な配慮をするのが義務になっていますが、それ以外の食事や排泄などの介助はどうするのかということです。
また、呼吸器をつけているなどして医療的ケアが必要な学生について、医療的ケアは大学の合理的配慮の範囲内になるのかという議論もあります。
あるいは、ぱっと見ただけではわかりにくいような精神障害や発達障害がある学生、進行性の疾患で症状が安定しない学生、症状に変動があるといった学生など、一人ひとりにとって学びやすい環境というのは、まだこれから、当事者と一緒にさまざまな人が協力して探っていきたいと瀬戸山さんは話します。
障害学生をめぐる環境のいま
2016年に障害者差別解消法が施行されたことをきっかけに障害学生への支援が進み、文系学部では支援の方法が徐々に蓄積されつつあります。
一方で、資格取得や実習を伴う医療系学部や教育学部、実験を行う理工系学部や大学院、実技が必須の音楽大学などでは、障害のある人の学びは手探り状態なことが多いのが現状だと瀬戸山さんは見ています。
そんな中で、障害があっても大学で学びたいと考えたとき、大学を選ぶ上で迷うことがあったらどうしたらよいのでしょう。
大学を選ぶときに迷うことがあれば大学に直接聞くのがよいと思いますし、情報を得るにはオープンキャンパスなども活用できます。
大学横断的な組織としては、私が在学中にお世話になっていた全国障害学生支援センターもあります。90年代から続いている団体なので、これまでの知恵が蓄積されています。定期的に障害学生同士や高校生向けの相談会も行っていますし、必要な場合は、当事者と一緒に大学に行って質問をしたり、場合によっては交渉したりもしています。
最近では「障害学生支援室」などの窓口が設けられている大学も増えたといいます。困りごとは障害のあるなしにかかわらず起こることなので、キャリアに関する相談や奨学金についてなどもすべてまとめて「学生相談窓口」としている学校もあるそうです。
私が学生だった2000年代に比べると、障害学生を受け入れる大学側の環境がだいぶ整いつつあります。学生側の意識も変わってきていて、障害学生自身の口から「今は障害者差別解消法がある時代だから、法律を味方につけて自分の学びに関して自分の考えていることを伝えていきたい」という話を聞いたことは印象的でした。
ただ、大学側に一定のルールがあるために、それ以上のことを言いにくくなるという問題も出てきています。
ルールや法律があることで環境が整えられていく一方で、ある前例にならって定められたルールがすべての学生のニーズには合うとは限りません。ルールに沿って大学が配慮してくれていれば、これ以上要望を言うのは申し訳ないと感じる学生もいます。
また、要望を伝えたときに、「こういう前例があった」と大学側から示されると、自分を無理に納得させて本当に必要としている要望を飲み込んでしまうこともあります。
加えて、大学での学びは高校までとはいろいろな面で違ってくるので、学生自身も答えを持っていないことがあるのだといいます。
私自身もそうでしたが、そもそも看護の実習自体を経験したことがないのに、杖をついて実習に行くとどうなるかということは全然想像がつきませんでした。だから大学側は当事者と一緒になって話し、調整しながら、余裕を持って動きながら、一つひとつ対応していくということが必要なのだと心から思っています。
教員でもある瀬戸山さんは、教員と障害学生支援の職員との連携を強めていくことの重要性も強く感じています。
教員は学生を教育し、評価する立場です。とはいえ、教員も人間なので、目の前の学生から「こういう障害があってこういう調整が必要です」ということを詳しく聞いた上で公平に評価をするのはなかなか難しく、障害のためのバイアスが評価に影響してしまうことも考えられます。
だから、「支援する人」と「評価をする人」は分けることが望ましいし、第三者的に関わって部署間の連携調整を行う障害学生支援室のような存在は、今後ますます重要になると思います。
「知ること」が人生のチャレンジのスタートになる
障害学生の語りが2021年にオープンした際、瀬戸山さんたちは広報の一環として全国にある約1200校の特別支援学校に障害学生の語りのパンフレットを送付しました。その際の特別支援学校の先生の反応が印象的だったのだそう。
ある特別支援学校の先生が「特別支援学校にいる生徒の中には、支援があれば大学で学べる子がいくらでもいます。ただ、そもそも自分が大学で学べると思っていない子がほとんどです。もっと言うと、障害があっても大学に進学できると思っていない保護者や教職員も多いんです」とおっしゃったんです。
その言葉を聞いて、本人が学びたいと思ったときに、それを後押しするような資源があること、本人の意向を尊重するような周囲の考えが大事なのだと思いました。
また、先生たちから「子どもたちや保護者の方々にもこのことをぜひ伝えたいから、障害学生の語りを紹介するパンフレットを人数分送ってもらえませんか?」という連絡をいただいたこともあったそうです。
障害があっても学ぶ人たちがいることを知らなかったり、そもそも大学で学ぶという選択肢を考えたこともなかったりする人にとって、「知る」ということがスタートなんだろうなとその時に思ったんです。
パンフレットを送ることで何かが劇的に変わるわけではありません。でも、選択肢の一つとして大学で学ぶという道があることを知ってもらうことはできる。そして、重度の障害があっても、本人がチャレンジしたいと思うんだったら、ハードルは非常に高いかもしれないけれども選択肢としてあり得るんだということを「障害学生の語り」を通じて知ってもらうことができると手応えを感じました。
「学ぶこと」は人と関わることであり、生きることそのもの
今は障害学生の語りを通して障害のある人の学びを後押ししている瀬戸山さんも、かつて障害学生の一人でもありました。瀬戸山さん自身は、学ぶことをどう捉えているのでしょう。
学ぶことは人と関わることであり、かつ自分がいる社会を知ることであり、ほとんど生きることそのものかなと。私はやっぱり学びに喜びを感じるので。
だからこそ、学ぶことが障害の有無に左右されてはいけないと思います。障害があってもなくても、大学での学びに限らず、学びたい人が学びたい場所で、学びたい方法で学べる。それは人間が持つ権利として非常に重要なんじゃないかなと思います。
学ぶことはすべての人に与えられた権利だとしても、障害のある子どもをもつ親御さんの中には、「チャレンジさせてあげたいけれど、子どもが傷つけられたらどうしよう」、「現実的に考えた時にクリアしなければならない問題が多すぎる」などと感じてためらう人もいることでしょう。
そういう親御さんに相談されたら瀬戸山さんはどんなふうにアドバイスするのか聞いてみると、こんな答えが返ってきました。
大学は知識を得る場所ですが、一緒に学ぶ仲間がいるところでもあります。その中で、自分の障害を説明して「こういう合理的配慮が必要です」と伝えていくプロセスそのものも、本人にとっては一つの学びだと思うんですよね。
もちろん、当事者が苦労せずに合理的配慮を得られる環境が整っていることが望ましいのですが、まだまだ社会はそうはなっていません。社会に出てからも、必要なことは何らかの形で自分で表現をしていくことが求められるんじゃないかと思うと、やっぱり大学という場でそれを練習できるといいと思います。
大学は失敗してもいい場です。傷ついたとしても、それをリカバリーできるような環境をつくるのは大学の責任だと思うんですけど、仲間をつくっていくとか、知識を得ていくとか、自分の障害のことを表明していくとか、いろんなことを獲得していく場として大学を活用してもらえたらいいんじゃないかなと思います。
体験した人にしか話せないことがある。“語る”ことの意味
体験を語ることは、自分の体験を振り返って言語化するということです。それは本人にとっても、非常に意味のあることに違いありません。ただ、瀬戸山さんは当事者が「自分の体験を社会のために語らなければ」と気負う必要はないといいます。
「障害があっても学ぶ」という体験を伝えていくことは、社会にとって非常に意味のあることです。ただ、もちろん障害の有無に関係なく一学生は一学生なので、障害学生が自分の体験を「役に立たせなきゃ」と無理に語ろうとする必要はない。「社会が人の体験を活用する」というような形で、一人ひとりの体験を活かしていけるといいなと思います。
私自身は活動を通して教えてもらうことばかりで、当事者の人からこういう問題があるということを知らされることもありますし、気づかされることもあります。
やっぱり体験している人にしか話せないことがあるんです。
正直にいうと、私は障害学生の語りのコンテンツを開くのには勇気が必要でした。それは私自身がライターとして、語りの持つ力の強さを肌で感じてきたからだと思います。
サイトに掲載されている障害学生の語りは、いつでも変わらずにそこに佇んでいますが、ときには若者の背中を押す存在になるだけでなく、障害学生の周囲の人間にも働きかけていく力も持っています。
瀬戸山さんは「学ぶことは人と関わることであり、かつ自分がいる社会を知ることであり、ほとんど生きることそのもの」と話してくれました。
私たちはこの世に生まれ落ちた瞬間から、意図せずとも他者と関わり合い、学びながら生きてきたはずです。そうやって学び、成長していくことは、障害の有無はもちろん、性別や国などで制限されることのない、誰にも等しくある権利のひとつです。
学ぼうとするとき、私たちは自分の今いる場所から一歩踏み出さなければなりません。一人目の冒険者が傷だらけになりながら切り拓いた道も、通る人が増えれば増えるほどに均されて歩きやすいものとなります。
すべての人に等しく学びの機会がある時代へ向かって社会が動き出しているタイミングで、これから障害学生の語りが果たしていく役割は大きいのではないでしょうか。
(執筆/松山史恵、撮影/金澤美佳、編集、企画・進行/工藤瑞穂、協力/吉本理子)