【写真】街の中で電動車いすに乗りこちらを見つめるながのりょうさん

皆さん初めまして!「Try chance」代表の長野僚です。

突然ですが、みなさんは「先天性脳性麻痺」を知っていますか?

脳性麻痺とは、受胎から生後4週間の間に発生した脳の損傷によって起こる障害です。私の場合は、生まれた時から脳性麻痺があったので先天性になります。原因は感染症や酸素不足などですが、原因不明の場合もあります。

症状は脳性麻痺の分類により様々ですが、手足の麻痺や身体のこわばり、姿勢が保てないなどです。

現在、日本において在宅で暮らす18歳以上の脳性麻痺のある方々は54,000人いるとされています。
内閣府 平成25年版 障害者白書(全体版) 8 障害児・者数の状況

そんな私の生活には電動車椅子が欠かせません。15歳の秋から乗っていますから、まもなく19年になります。それまでは手動車椅子に乗っていましたが、行動範囲を広げたいと乗り換えを志願し、大学にも電動車椅子で通いました。

【写真】公園で笑顔でお話しするながのさん

大学卒業後は、自身と同じように障害のある方々の自宅にヘルパーを派遣する介護事業所の正規職員として勤務していましたが、30歳を前に独立しフリーランスに。現在は、それぞれの“障害”との向き合い方をみんなで一緒に考えることを目的とした「Try chance」という団体を立ち上げ、講演や執筆、イベントの運営などを行なっています。

今回はそんな私の人生について、今の暮らしや仕事にもたっぷりフォーカスしながら、じっくりお話しできたらと思います。そして最後にはこれからの目標についてもお伝えしますね。

手足の麻痺や身体のこわばりなどがある「脳性麻痺」

はじめに、私の脳性麻痺の症状や生活についてお話しようと思います。

症状としては、常に首や肩といった上半身、足首などの末端に力が入っているような感じで、それに伴って股関節の筋肉が内転しようとする動きがとても強いんです。要するに両膝を離した状態で車椅子に座っていることができません。また、皆さんが話をする時には極端に言えば主に腹筋のみを使えば済むところ、私の場合は首・肩・足首など全身の筋肉を緊張させてしまうため、講演が終わるたびによく汗だくになっています。

また、体幹にも障害があるため、常に身体と逆方向に首が傾いてしまうのが悩みです。

両手を広げたり、万歳をしたりすることはできます。足は曲げることならできますが、伸ばしたまま水平に上げることはできず、イメージとしては膝がかなり曲がった状態で、かろうじてつかまり立ちができるといったところでしょうか。

したがって、家事はヘルパーさんの全面サポートが必要で、仕事をしている時間以外は週7日、つまり「起きている間はいてくれる」という感じですね。移動については方向音痴の克服が永遠のテーマですが(笑)、駅員さんやバスの運転手さんにスロープを出してもらうことができるので、公共交通機関の利用自体は1人でも可能です。

家族との関わりが大半だった子ども時代

【写真】室内でインタビューに答えるながのさん

まずは、私の生い立ちからお話したいと思います。

私は3人姉弟の末っ子として育ちました。とはいえ、私自身が男女(二卵性)の双子であり、両親が上下の区別をしなかったため、真偽ははっきりしません。

保育園の頃から、定期的に通院やリハビリに通う日々が続きました。もちろん痛いリハビリもありましたが、2歳から20歳まで診てくれた先生は、もうとにかく褒めてくれて、ゲーム感覚でめちゃくちゃ楽しかった記憶があります。

親と関わる時間が長く、放課後はもっぱらリハビリに明け暮れる私に、近所の友達ができることはなく、小学校を卒業するまで自力で外出した記憶もありません。

保育園までは、母がずっと送り迎えをしてくれていました。そんな幼少期の私の楽しみは、車の中から線路を走る電車を眺めること。踏切警報音が鳴って遮断機が降りる直前に踏切を渡ってしまった時には、「電車が見れない!」と母にかなり怒っていた記憶があります。自分が早く走れない分、昔から自由に動くものへの憧れがあったのかもしれないですね。

両親は決して障害を理由に私を特別扱いしたり、活動を制限したりするようなことはありませんでした。ただ、幼少期から中学卒業まで私につきっきりで定期的に通院やリハビリに通っていたため、姉たちに寂しい思いをさせているのではないかと気にしていたようです。

生徒たちの喧騒とスピード感についていけず、孤独を感じた小学校時代

小学校は主治医の薦めもあり、学区外の市立小学校内にある養護学校(現:特別支援学校)に入学。子どもと同数の大人がいるような恵まれた環境で、少しずつできることを増やしながら楽しく過ごしました。

私は3つ上の先輩と一緒に勉強していたのですが、3年生の終わりに彼らが一気に卒業してしまって、マンツーマン授業になってしまいました。それで「さすがにマズい」ということになり、親の強い希望もあって、4年生からは上の階に出向き、週4時間だけ通常学級との交流学習を開始することに。

国語や算数、音楽などの教科を一緒に勉強しましたが、1番きついと感じていたのは授業ではなく、週1回の給食交流でした。授業は座っていれば時間が過ぎますし、実際慣れるにしたがって手をあげて発言できるようにもなりました。でも、給食となれば話は別です。

【写真】左の方を見つめながらお話しするながのさん

当時は当たり前だった、みんなで向かい合い、机をくっつけて食べる班給食。通常学級の子どもたちにとっては、毎週別世界からやってくる私と一緒に給食を囲むことになります。もちろん、普段から大人数に慣れておらず、いわゆる喧騒やスピード感とはかけ離れた環境で過ごしていた私にとっても、それは恐怖でしかありませんでした。

共通の話題を持ち合わせているわけでもないためほとんど話もできず、ひたすら下を向いて少しでも早く食べ終わることだけを目指すことしかできなかったこの時間が、とにかくつらかったのを覚えています。

このままじゃダメだ。口をついた言葉は「友達になってくれる?」

僕は通常学級に馴染めないんだ。

そう深く心に刻まれることになった一連の体験は、私にとって初めての大きな挫折でした。こうした私の失敗を繰り返すまいと、実は支援級の方でも、私が6年の時に入学してきた1年生には早々に給食交流を経験させるなど、少しでも通常学級の子どもたちと馴染めるよう試行錯誤を繰り返していました。

その甲斐もあって、後輩たちはいつも「わたしが押す、ぼくが押す」と通常学級の子たちに車椅子を取り囲まれていました。それを見て、先生も私もそのことを口には出しませんでしたが、「僕だって低学年から交流していれば絶対馴染めたのに!」と少し悔しかったことを覚えています。

【写真】電動車椅子のアームレストをつかむながのさんの手

小学校の卒業式から帰宅後、私は心に誓いました。「変わりたい。変わらなきゃ!」と。

中学校から特別支援学校に進学したのもそのため。自分と同じ車椅子ユーザーが大半を占める場所を選ぶことで、障害によるちがいを言い訳にできないようにしました。

実は同校には小学校2年生の時に足の手術と術後のリハビリを目的に半年間入院した経験があります。病気やけがで入院が必要な子どものために病院内に設置された、いわゆる院内学級に転校しているのですが、泣いてばかりいた私は一時期、いじめの対象でもあったんです。

だから当時は車椅子集団に溶け込むことさえ、自信がありませんでした。

しかしこの時は「変わりたい!」という気持ちが勝りました。そして、ただひたすら「友達になって!」と声を掛けて回った結果、同級生12人全員と友達になることができました。

そんなわけで、中学生にして初めてできた同級生の友達との日々は、毎日が新鮮でした。体育で競い合い、期末テストの点数で勝負し、好きな野球の話で盛り上がる。そんな何気ない日常がとても楽しかったですね。

彼らに負けたくない、頼られたいという想いで勉強もスポーツも頑張ることができましたし、気付けば生徒会役員にさえ立候補するような積極的な生徒へと少しずつ変わっていきました。

やがて高校生になった私は、次の3年間も同じように特別支援学校で過ごすことを決めました。

せっかくできるようになったことを続けたい。勉強で競い合って、ともに身体を動かして、そして勇気を持って次こそは、生徒会長を目指してみたい。

そんな気持ちで、より一層色々なことに積極的に取り組みました。その中で、生まれつき障害者になった私たちと、ある日突然障害者にならざるを得なかった友人との対立など予期せぬトラブルもありましたが、目標だった生徒会長も務め、副会長で終わってしまった中学生時代の殻をまたひとつ、破ることができました。

数々の“長”と付くポジションを経験する中で得たのは「対話をすれば分かり合える」という信念であり、この気付きは後の大学生活でも大いに役立つことになるのです。

できないことも正直に伝えるのが長く付き合うコツ

高校卒業が近づき、進路選択をしなければならなくなった頃、自分にゆかりの深い分野は何か?と考えてみました。生活に直結する福祉を選ぶ道もありましたが、自分のことだけでなく、自分の力を活かして他者に貢献したいという想いが強いことに気づき、教育について学ぼうと決めました。

また、子ども時代ならすでに誰もが経験しているため、当時、同世代の他者に比べて知識や経験が乏しいと自覚していた私でも、できることがあるかもしれないと考えたのです。

そして、せっかく学ぶのならば「学んだ証を残したい」と、小学校教員養成課程を履修し、教員免許状の取得を目指しました。

【写真】穏やかな表情ではなすながのさん

大学に進むうえで、私はひとつ決意をしました。

絶対にヘルパーを付けずに1人で大学に行く。そして4年間を完遂してみせる!

それは自分という存在が本当の意味でクラスの一員になるため、キャンパスライフを充実させ、学業に集中するための、最優先事項でした。

もし隣にヘルパーさんがいてくれたら、何の心配もせずやりたいことに専念できるかもしれない。でも、障害がある自分が、他の学生たちとっては関わる必要がない遠い存在になってしまい、どこか他人事になる気がしたんです。

高校時代までの経験を通して「何かあったら誰かに頼めばいい」という境地に達していた部分はあったものの、「友達にサポートをお願いしたい」という思いは決して他力本願的な発想ではなく、むしろ自力で切り拓いていく決意の表れでした。ちがいを乗り越えて、同世代の友達を作るために大学に来たんだから。

そんな私にとっての正念場はすぐにやってきました。入学式から2日後のオリエンテーション合宿。初めてのクラス一斉授業。担任による「長野いるか〜?」という一声で、教室最後方にいた私がなぜか、自己紹介の先陣を切ることになったのです。

一斉にこちらに注がれる27人分、54の瞳。この瞬間、初めて車椅子の存在に気付いた人もいたのでしょう。明らかに空気が変わりました。

「名前、出身校、高校時代に熱心に取り組んでいた部活を1分で」とのことでしたが、私は生まれた時から歩くことができないこと、トイレやお風呂など日常生活動作の多くに介助が必要なこと、それでもみんなのちょっとしたサポートがあれば普通に生活できることなどを簡単に、でも、包み隠さず伝えました。それを証明するために高校までエピソードも付け加えましたが、「生徒会長だった」という事実には多少なりとも破壊力があったようです(笑)。

授業を終えると、合宿だったのでクラスごとに入浴の時間になりました。

すると、先ほどクラスメイトになったばかりの男たちが続々と集まってきたので、自分の気持ちを正直に伝えました。

僕はみんなとの大浴場は諦めて部屋にあるお風呂でもいいし、最悪1日くらいなら入れなくたってかまわない。みんなをケガさせる方が嫌だから。

みんなが私の意見を尊重して「お風呂は個室で」という方向に流れようかという時、それまで黙って聞いていたある1人の学生が待ったをかけました。

みんなでりょうを大浴場に入れようよ!だってりょうはオレたちのサポートが必要なんだろ?りょうだってみんなで入りたいよな?

まさにそのとおりです。数人が狭い個室のお風呂で介助をするより、みんなで広いお風呂に入ったほうが安全だし、何より楽しい。自分には浮かばない発想だったし、こんなふうに自己紹介が響いていたことがとても嬉しかった。

そして「これで時間がなくなっても、最悪俺たちは部屋の風呂でも入れるし」と言いながら、『りょうを大浴場に入れようプロジェクト』が幕を開けました!

車椅子を降りて脱衣所に行き、服を脱いで身体を洗い、お風呂に浸かって服を着て、車椅子に戻るまで、一切教員のサポートはなし。本当に彼らの力だけ。

「やること増やしてごめんね」と感謝と謝罪を続ける私に、1人の友人が浴室で放った言葉が忘れられません。

何言ってんだよ、困っていたら助けるのが友達だろ?オレたちもう友達じゃないか。

この一言で、この大学への入学が間違いでなかったことを確信しました。

友人たちが自然でいてくれたから、僕も自然になれた

入学して3日目のお風呂以降、私はますます彼らの輪に入っていくことができるように。気付けば自分の中にあったどこか“お客様的な感覚”もなくなり、時間とともに同級生の一人としてみんなと関わることができていたと思います。

春と秋に行われた球技大会では、それを示すかのように、ドッジボール、バスケ、キックベースと何でもやりました。委員になったクラスメイトが先輩と交渉し、いつの間にか一緒に参加できるルールを作ってくれていたんです。

私が何も言わずとも、安全を考慮しながら楽しさを追求する姿勢はさすが!それでもドッジボールでは明らかに外野の方が安全だとわかっていながら女子チームの内野に起用するあたり、彼らの優しさとユーモアを感じます(笑)。

【写真】口を大きくあけて笑うながのさん

孤立させずに、ともに楽しむ。

いつも彼らのそんな想いを感じていたから、「もし顔面でボールをキャッチしてメガネが壊れたら、(相手へのペナルティとして)味方の内野全員復活ね!」などと、自らも敵チームに奇想天外な提案をして盛り上げていました。

クラスメイトとの日々の中で常に意識し、彼らに伝えていたのは「僕のせいで何かを我慢してほしくないし、遠慮はいらない」ということ。言うまでもなく対等な学生ですから、僕をサポートしなきゃいけない義務なんてないんですよね。だから手伝ってくれるのはみんなの時間がある時でいいし、慣れたら離れてもいいよとさえ伝えていました。それでも、友人と行った飲食店で車椅子が入れず、みんなも入店を諦めなければいけなかった時は今でも悔しいですし、申し訳ない気持ちになりますが。

こんなふうに、最初は適切な距離感を探しながら奮闘した4年間。結果としてサポートされるだけの存在にならず、「こいつ面白いな」と思ってもらえていたなら嬉しい限りです。

入社早々、思わぬ落とし穴が待っていた

大学を卒業した私は2011年、障害分野に特化した介護事業所に入社しました。

まず担当したのは利用者宅に派遣するヘルパーのシフト作成業務。しかし、その仕事も長くは続かず、やがて当事者コラム執筆を含めた社内広報誌の作成、社内外を対象とした研修運営へと業務内容は移行していきました。

なぜ、長く続けることができなかったのか。それには私の体調不良が関係しています。入社からまもなく、半年も経たないうちに「抑うつ及び適応障害」と診断されてしまったのです。

【写真】真剣な表情で話すながのさん

実はこの時、私は3足のわらじを履いていました。

まずは社会人としての顔。次に同時期に始めた一人暮らし初心者としての顔。最後に社会福祉士の資格を取るため、通信教育課程を履修する学生としての顔です。

大学3年の冬に就職活動に向かう電車内で偶然出会い、1年間のインターンシップと将来の一人暮らしを条件に入社を決めた経緯もあり、私ももちろん社長にも「できて当然」という空気が漂っていました。

だからちょっと分からないことがあっても聞くことができず、指示された仕事を時間内に終えられない日が増えていきました。お金をもらう立場なのだから、他者からの対応が厳しくなるのは当然だと言い聞かせ、必死に喰らいついていました。

そんな状況の中、家に帰れば慣れない一人暮らしが待っています。家での生活をサポートしてくれるヘルパーには学生さんも多く、同僚である彼らにやりがいと楽しさを感じてもらいたいと思った結果、弱音や愚痴を吐くことはできず、生活においてもどんどん追い詰められていったのです。こんな状態の中で休日には通信教育のレポートをこなす。もう心身ともに限界でした。

ダメな自分を受け入れて、回復に努める日々

「こんなはずじゃなかった」

「また迷惑をかけている」

「もう自分の居場所はないんじゃないか」

自分を責め続け、食欲不振に不眠障害などありとあらゆる症状に苦しみました。

ちょうどこの頃、母の勧めもあって精神科への通院とカウンセリングに通いはじめたところ、「何もできない」と落ち込む私に対し、カウンセラーさんは「顔を洗って今日、ここまで来れた自分を褒めてあげて」と言ってくれました。

その言葉だけでも少しホッとする自分に驚きつつも、久しぶりに肯定された感覚を味わう中で、今の自分を受け止め、小さな達成感を積み重ねることの大切さを実感しました。

同時に、もう溜め込むのはやめよう!と思いました。私は自分の気持ちに蓋をして生き続けられるほど、強い人間じゃなかったんです。

そして何事も、相手にとってゆとりのある段階で伝えることが凄く大切なんですよね。例えばヘルパーにトイレの介助を依頼する時、「そろそろトイレに行きたいんだけど、タイミングが良い時に連れて行ってくれる?」と尋ねる。仕事でも、無理して引き受けて途中でプロジェクトを離脱するよりも、つらい時は正直に厳しいと伝えて、代わりに貢献できることを探したり聞いたりした方がいい。

思い返せば、相手の立場に立って自分のできることで貢献するというのは学生の頃から実践していたことですが、人は自信を失うと忘れてしまう。そんな怖さも痛感しました。

「Try chance」は私の人生の証明書

【写真】まっすぐ前を見つめにこやかな表情で話すながのさん

たくさんの人の支えを得て病を克服した私は、その後、社内外でヘルパー向けに研修運営や講師としての経験を重ねました。

こうして丸6年が過ぎた2017年夏、私は自ら退職するという決断をします。そして、次なる目標と位置づけた念願の出版を果たした後、2020年に「Try chance」という団体を立ち上げました。出会ってくれた一人ひとりに「障害を忘れられる瞬間」を届けるために。「Try chance」とは「挑戦すれば道は拓ける」という意味。一人ではできないことも他者と協同すれば可能性はグッと広がるんですよね。

まずは自らの言動を通してその姿を体現したい。そんな想いも込めました。Try chanceはまさに、私の人生の証明書といえます。

当団体はもともと、私の想いに共感しサポートを申し出てくれたメンバーが集まってスタートしたチームです。

事の発端は2016年の秋にまで遡ります。新たな道を模索しながら参加した八丈島でのユニバーサルキャンプで自身の体験を話したところ、皆さんすごく笑って楽しんでくれたんですね。その場で「話うまいね!面白いね!!」と声をかけてくれた人もいました。

この出来事が大きな自信になり、「もっといろんな人たちに声を届けたい!」と考えるようになりました。

そして私は、団体発足前年の2019年秋、すでに別のコミュニティでともに活動していたフォトグラファーに、ふと講演会をやってみたいと打ち明けました。イベントの打ち上げの席だったので、まさにお酒の力を借りてといった感じです(笑)。

すると「撮影ならまかせて!」と、すぐに協力してくれることに。そこからとんとん拍子に話が進み、構想から3ヶ月後の同年12月には近所の市民センターを活用し、初めての主催講演会を開催。6人のお客さんの前で自身のライフストーリーを語りました。

その後も毎月開催を続け、翌年3月にはコロナ禍によりオンラインメインになってしまいましたが、3ヶ月間会場で開催してきたからこそ、本当にたくさんの出会いに恵まれたんです。今では月1回のイベントを楽しみに待ってくれている人たちも多く、それが何より嬉しいです。

ゲストを呼んだり、参加者主体の座談会を催したり、小学校での授業や日々の活動で感じたことを共有する報告会を開いてみたりと、テーマに応じて毎回様々なかたちにTryしています。

【写真】ながのさんが開催したイベントの画像。空をモチーフにした背景に、笑顔のながのさんとゲストの顔写真が掲載されている。

2020年10月に「聴こえにくさのリアルを知りたい!」とゲストを招いて開催したイベントで使用した画像。(提供・作成 浅原ゆき)

誰もおいていかない。そんな想いから生まれたのが「障害を忘れられる瞬間」

Try chanceを立ち上げる前から、次のステージを模索していた私。そんな時に出会ったのが、今このコラムをかせていただいているウェブメディア「soar」です。イベントに出向いて空気を感じ、スタッフさんの優しさに触れるたびに「自分がもし団体を創ることがあったらこんなふうに一人ひとりを大切にしたい」と思っていました。

Try chance主催のイベント(Ryo室空間)では、「話したい人も聴きたい人も主役になれる、唯一無二の参加型コミュニティ」を目指しています。すべての皆さんがリラックスしてありのままの自分でいられるように。

オンライン開催になってからはより多様な特性のある方が参加してくれるようになりましたが、この姿勢が変わることはありません。

私にそんな決意のきっかけをくれた1人の少女がいます。それが私の講演に来てくれたHand&foot代表理事の浅原ゆきさんの娘さん。まだまだ手探り状態で行っていた2回目のイベント前夜、娘さんはお母さんを説得し、一緒に会場に来てくれることになったのです。2020年1月のことでした。

当時はまだ小学1年生。そんな娘さんの気持ちに、どうすれば応えられるだろう。

考えた末に、私は急きょ冒頭にスライドを追加したり、「お子さんが転がしたボールを受け取った人から自己紹介をする」といったレクリエーションも交えて進行。子どもも一緒に少しでも楽しく参加できる方法を模索するとともに、お母さんであるゆきさんに前々から「誰もおいていかないよ」というメッセージを繰り返し伝えていました。

【写真】ながのさんが子どもに自己紹介をする際に使用したスライド。会話ができること、自分の経験を伝える仕事をしていることが書かれている。

小学1年生でも分かるように作ったスライド。他の参加者にもあえて事前説明などはせず、あくまでもユニバーサルデザインの一貫として自然に楽しめる、スライドと空間づくりを意識した。(提供写真)

だからこそ、この先どれだけ忙しくなっても定期的にイベントを開催し続け、少なくとも娘さんが20歳になるまで何かあった時に相談できる居場所を残しておきたい。これが代表としての密かな決意です。

【写真】子どもに笑顔でお菓子を渡すながのさん

急遽用意したお菓子やボール(提供写真:撮影 木村 理)

そんなイベントづくりの根底にあるのは、「この時間が来て下さった方一人ひとりにとっての『障害を忘れられる瞬間』になったらいいな」という心からの願い。これまで周囲の人たちのたくさんの協力によって、私自身が障害を忘れられるような楽しい瞬間を数多く味わってきたからこそ、今度は自分がそんな空間を創ってみたいと思うようになりました。

ただ、「障害」という言葉に対して皆さんが抱いているイメージと、私が考えていることは少しちがうのかもしれません。私にとって障害とは、単に病名や障害名ではありません。一人ひとりが日々を歩む中で感じている「困難さ」や「悩み」、「不安」や「嫌なこと」。こうした感情が今まさにあなた自身の人生を生きる上での試練になっているのだとしたら、私はそれも含めて“障害”と言っていいと思っています。

みんながこれまでに一度は味わったことがあるはずの感情。障害をそんなふうに定義すると、「障害を忘れられる瞬間」も世間で言われているいわゆる障害者だけのものではなくなると気付いた。さらにその点でいえば、忘れることだったら誰にでも、すぐにでもできるのではないか。そして、その権利は誰にでも、すぐにでも保障されるべきだと思ったんですね。

例えば、何か嫌なことがあって落ち込んだ時、誰かにじっくり話を聴いてほしいという人もいれば、そっと一人になれる環境を作ってほしいという人もいますよね。美味しいものを食べたり、好きな音楽を聴いたり、対処法は人それぞれですが、今そばにいるあなたが大切なその人のために、その人が望む環境を作ってあげたり「〇〇してみたら?」と提案してみるだけでもいい。

もちろんそこに、健常者や障害者といった区別はありません。読者の皆さんにもぜひ、ご自身が感じる“障害”について考える、仲間になってほしい。どうか「誰もが障害を忘れられる瞬間の創り手になれる」ということを、覚えておいてください。

もしかすると、すぐに結果が出ないこともあるかもしれません。それでもあなたが諦めなければ、想いが届く瞬間はきっと来ると私は信じています。そして何より、あなた自身の毎日に、たくさんの「障害を忘れられる瞬間」がありますように。今もこれからも、そんな出会いがありますように。私はそんなことを願いながら、自分と出会ってくれた皆さんが少しでもホッとできる、良質な空間をこれからも創り続けていくつもりです。

【写真】ながのさんがオンライン授業で使用したスライド。みんなと同じこと、違うことについて問いかける内容が書かれている。

浅原さんの娘さんとはコロナ禍の休校中、マンツーマンでオンライン授業も行ってきた。ある日の授業でまとめとして使用したスライド。(提供写真)

ちなみに、「障害とともに生きる」や「障害を持って生まれた」という表現もあまり好きではありません。その人が望んで障害者になったわけではないし、誰もが何らかの障害を感じながら生きるのは当たり前で、わざわざいう必要もないと思うからです。反対に、その人が困難さや悩み、不安や嫌なことだと感じたら、その瞬間そのすべてがその人にとっての障害になり得るのです。その大小は他人に決められるものではありません。

こうして自分の中ではすべてが繋がったとはいえ、最初は他者に受け入れてもらえるかどうか分からず、不安はありました。それでも、様々な場所で少しずつ話していくうち、聴いて下さった方がたくさん頷いてくれたんです。それでようやく自信が持てましたね。

改めて、これまでの人生や活動を振り返ると、一人では決して辿り着けなかったところまで来れた。こうやってsoarでコラムを書けたこともその一つ。まさに「挑戦すれば道は拓ける」ですね。

まだまだこれからではありますが、感謝のしすぎということはないので(笑)、ひとまず、この記事を読んで下さっている皆さんに感謝することにします。

「人とちがうことは恐れることじゃない、価値があることなんだよ」と伝えたい

このような経験を経て、私はTry chanceの活動に専念すべく、30歳を前に独立しフリーランスになりました。今年、活動において特に力を入れているのは、子どもたちに向けた講演活動です。幼い頃から先生との距離が近く、周囲との違いに戸惑いながらも、葛藤の末に教員免許取得を志した私にとって、教育は常に身近な存在。だからこそ、「少しでも現場の先生の役に立ちたい!」という気持ちも年々強くなっています。

そして自身の経験から、「子どもはなるべく早いうちからいろんな大人と関わる方がいい」と思うようになりました。

授業では毎回、子どもたちの純粋な反応がすごく面白いんです。いつもはじめに私の第一印象について尋ねるのですが、最初は「かわいそう、大変そう」に全員が手をあげます。でも私がお話して最後にもう一度尋ねてみると、おおよそ8割くらいの子が「楽しそう!」に手を挙げるんです。

これこそ、ちがいの中に自分との共通点を見つけられたからこその変化ではないでしょうか。小学生くらいの子どもたちには「車椅子に乗っていても楽しいこともできるよ!」と伝えています。障害がある人との関わりのハードルを下げてあげたいから。

そんな授業後に届く子どもたちからの感想はどれも私の宝物。

【写真】ながのさんの授業を受けた子どもたちから届いた感想。表紙にはながのさんと子どもの似顔絵が描かれている。

【写真】ながのさんの授業を受けた子どもからの感想。「ながのさんの話を聞いて車いすもいいな、と思えるようになりました」と書かれている。

小学5年生からいただいた感想。ちょっとした文体の変化に学年ごとの成長を感じることも多いですが、変わらないのは一人ひとりの本音が詰まっていること。(提供写真)

今の夢は「全国の学校を回って一人でも多くの子どもたちと対話をすること」です。もしかするとこれが、個人としてのゴールなのかもしれません。

バリアフリーやユニバーサルデザインについて考える時、子どもたちは必ず身近な場所を連想します。もしも授業前に彼らの身近な場所に出向き、実際に旅した様子も交えて届けることができたら学習の理解もより深まると思います。私としては、旅をしながら各地で講演を行い、その様子をこうして発信するまでをセットにしたワークライフサイクルを目指しながら、思うように動けなかった子ども時代の分まで、これからもさらに積極的に活動していきたいですね。

そんな想いを抱きつつ、最近メンバーと考えた新しいスローガン。それが「ちがいも同じも真ん中に〜しょうがいってなんだろう?〜」です。これからの子どもたちとの授業において、最も伝えたいメッセージでもあります。

人とちがうことはダメなことじゃないんだよ。恐れることはないんだよ。ちがいにも同じにも価値があるんだよ。だからどちらも大切にしていい。ぜひ自分の気持ちに正直に、両方とも否定しないで心の真ん中に置いてあげてね。

そんな想いを込めました。

もちろん中学生以上、高校生や大学生、大人の方に向けても講演する機会はありますが、正直、伝えたい想いにあまり変わりはないですね。

どんな方に対しても共通しているのは「長野さんも頑張っているから私も頑張らなきゃ!」と駆り立てられるよりも、「目の前にいるこの人にも実は色々あったんだ。でも、今はこんなに楽しそう!だから私も何かあってもきっと大丈夫」と思ってくれたら嬉しいということ。

これからも、そんなふうに安心感を与えられる講演を目指していきたいと思っています。

【写真】公園で電動車椅子に乗り微笑むながのさん

支援するだけ、されるだけの人なんていない

私は今から11年前に社会人になった時から、一人暮らしをしています。病気をして挫折しそうになったこともありますが、なんとかここまできました。

苦労して手に入れた一人暮らしを手放さずにいられるのは、今もこれまでもたくさんのヘルパーさんにお世話になっているからです。これまで自宅に招き入れたヘルパーの数はのべ130人あまり。

「どのような関係なのか?」と聞かれると難しいのですが、一人ひとり違うというのが正直なところです。

【写真】ヘルパーさんと2人で並びながら車椅子で公園を移動するながのさん

ヘルパーさんと一緒に移動する長野僚さん

年齢も経験も考え方も違う彼らに、体当たりで自ら自分の取り扱い説明書を手渡していく。言葉だけではなく一緒に過ごすことで感じてもらう生活は、大変でもありエキサイティングでもあり、ちょっとだけドラマチックです。

長い時間を共にし、同じ空間にいるからこそお互いにストレスを溜めないよう、本音で言い合うことを大切にしています。ヘルパーといえど同じ人間ですから、特にトイレと水分補給は我慢しなくていい、と伝えています。これは、ひとりで挑んだ学生時代にできるだけトイレに行かなくて済むよう、よく水分補給を我慢していて辛かった自身の経験を踏まえてのものです。

また、ヘルパーそれぞれの得意なことを見極めながら依頼するようにはしていますね。その方が楽しく仕事ができると思うから(笑)。

よく「支援する側、される側」という言い方をしますが、誰もがどこかで誰かの手を借りながら人生を生きていると思います。ある場面を切り取れば確かに「する・される」という関係は存在するのかもしれませんが、誰もが様々な場面で色々な役割を担っているんですよね。

障害があってもなくても、公共の場ではみんな平等

ここで、一人暮らし11年。これまでにヘルパーと遭遇した、最も印象的な出来事をお話したいと思います(今回一緒に撮影してくれたヘルパーとは別の方です)。

それはある土曜の夜、ヘルパーと一緒に電車に乗った時のこと。その駅は始発駅だった為、あらかじめ停車中に空いている車両を探して、発車3分前ぐらいに乗り込みました。

私が乗って間もなく、背後から男性の大きな声が聞こえました。

この車両にはデカイの(※私の電動車椅子)がいるんだよ。別の車両行ってくんないかな!

想像するに、その男性が後から乗車してきた別の乗客に身体を押されたのでしょう。徐々に周囲が険悪になっていく気配を感じました…。

そしてドアが閉まり発車した途端、その男性はヘルパーに怒鳴りはじめたのです。

だから乗るのやめてくれないかな!混んでるんだから空気読めよ!アレ(車椅子優先席)とかあるでしょ。なんでそっち乗んなかったの!ったく。

他の乗客を挟んで斜めに向かい合ったヘルパーとその男性。自分の頭上で行われている状況を飲み込みながら、私は背後で怒鳴る男性の方を振り返ることができませんでした。

【写真】電動車椅子のレバーを握るながのさんの手

その時、ヘルパーがこう言ったのです。

僕には関係ないんで、本人に言ってもらって…。

きっと自分のことではなく、私に関することだからセオリー通り話を振ったのでしょうが、この時ばかりは「生活は利用者主体」と繰り返し伝え続けてきた自身の言動を後悔しました(笑)。

「どうなんだ!」と問い詰めてくる男性とこの時初めて対面した私は、努めて冷静に謝罪の言葉を伝えました。

できるだけ空いている車両を探したのですが、土曜日の夜でどの車両も混んでいて、優先席を探せませんでした。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。

すると、今度はヘルパーと並んで私と対面して立っていた別の男性客が声を上げました。

さっきから黙って聞いていますが、これは本人のせいでも誰のせいでもありません。本人がかわいそうじゃないですか。

この言葉にせきを切ったように、他の乗客も「気分が悪い」「あなたが他の車両にいけばいいじゃないですか」と応戦してくださったのです。

私は小声と会釈で感謝を伝えながら、次の反応を待ちました。周囲は顔を覆ったり、イライラしたりしながらも、必死に冷静さを保とうとしてくれているようでした。最初に声を上げた男性の横にいた女性は涙ぐんでいました。

「あぁ、もうこの路線には乗らないよ」と不利な状況に捨て台詞のような言葉を吐いた男性は、「最後に聞かせてくれ」と、私に質問をしてきました。

障害者はお礼を言わなくても許されるのか!俺は昔ホームから落っこちそうになっている視覚障害者の手を引っ張って助けたのに、お礼も言われなかった!

私は一個人、そして社会福祉士としてできるだけ平静を装いながら、次のように返答しました。

お気持ちはよく分かりました。障害の有無に関係なく、誰かに助けてもらったらお礼を言わなきゃいけないですよね。ただ、今は私もあなたもここにいる皆さんも平等なお客さんです。みんなで一緒に気持ちよく利用しましょう。

正直これで会話が終わったと思いましたが、男性とのやりとりは続きます。

じゃあ、何?明確な答えはないってこと?俺はあの時どうすればよかったんだよ。頼むから答えを出してくれよ~。

そうですね。答えを伝えられれば良いのですが、残念ながら私は神様ではないので、答えを持ち合わせておりません。一人ひとり人間は違いますので。

そう答えたところで乗り換え駅に到着、私は一足早く電車を降りてしまいました。

その直後、あえて少し大きめの声で「何で自分には関係ないって言ったの?プレッシャーかかったじゃん!」と、ヘルパーにおどけて質問をしてみた私。

すると「この空間にいる人たちに長野の話を聞かせたかった」とのこと。

こう言われて納得!さらに少しトーンを上げて「良かったね~。俺が社会福祉士で!」と言って2人で笑いました。

その後ろでは、一緒に乗り換えた“戦友”たちが、黙ってその話を聞いていました。

時間にして10分少々の出来事ですが、30人近くには聞こえていたであろう一部始終は、今でも忘れることのできない、共生を目指す社会のリアルな一幕です。

人生の主役は自分!誰もが主人公になれる

私には介護事業所を辞めてフリーになる以前、健常者と自分を比べて彼らに追いつこうとするあまり「自分は障害者だから、周囲より障害者の気持ちが分かる」と言ってしまっていた時期があります。でも今は考えるとそれは本当に怖いことで、口が裂けても言えません。だって、私とあなたは他人だから、完全に分かろうなんてそもそも無理な話。

何より怖いのは、この人は自分と同じだと決めつけてしまうこと。分からないことを怖がらず、むしろちがうという前提で「教えて」と言えるかどうかが、とても大切だと思うように心掛けています。

だからこそ、一人ひとりが何かしらの当事者であり、それぞれが自分の人生の主人公になれるんですよね。みんなが当事者であり、主人公。そう思うことができたら、今より少しだけ生きるのが楽しくなるかもしれないですね。

【写真】街路樹のそばで笑顔で話すながのさんの横顔

つらい時は誰かに頼りながら、助け合いの循環を

こんなふうに、数え切れないほどたくさんの人の力を借りて、得意なことを活かして生きる道を選んだ私。それができるのも少しずつですが、社会がちがいに寛容になってきたことが大きいと思います。何より車椅子の私たちも皆さんと同じように外出したい、働きたいと思っている方がたくさんいる、と認知されてきていることがとても嬉しい。

もちろん、まだ駅員さんにスロープを出してもらわなければ電車に乗ることができなかったり、必要な場面でヘルパーさんのサポートを受けることができなかったという声も聞きます。これからもさらに、車椅子ユーザーのみならず、障害を感じている方の自由度が日々アップしていくといいなと思います。

【写真】横に並びながら公園を移動するヘルパーとながのさん。二人とも笑顔で話している。

また、1回の失敗を引きずらなくて済む社会になってほしいというのも、私の願いです。私がうつ病になった時には復帰先の上司が部署異動をすすめてくれたおかげで、たまたま再出発を図ることができましたが、1回の失敗でゲームオーバーと言われてしまうような社会ではやりたいことも思いきりできないですよね。誰にでも、何度でもチャレンジするチャンスがあることで、勇気をもって新たな1歩を踏み出すことができるはずです。

それに、もし周囲が挑戦を認めてくれたとしても、やりたいことって一人ではできないことが多い。ここで思い出すのは中学時代の恩師の言葉です。

誰かからもらった恩は、困っている人に返せばいいんだよ。

自分がしてもらって嬉しかったことを相手に返す。その相手は自分が直接お世話になった人じゃなくてもいい。そうすれば助け合いは循環していく。私自身も、それを実践することを心掛けています。

また、こうして少しずつでも活動を続けていると、「長野さんみたいに強く生きるためにはどうすればいいですか?」といった質問を受けることもあります。

ある日の講演では、1人の大学生が誰もいなくなった教室で「私は弱い人間なんです」と打ち明けてくれたことがありました。もしかすると、大学時代に健常者の集団に1人で飛び込んだというエピソードを話したことで、“強い”という印象を与えてしまったのかもしれません。

でも、ここまで読んで下さった皆さんはもうお分かりですね?私が決して、強い人間ではないことを。正直に言ってもともとネガティブな性格ですし、常に最悪の事態を想定することで、自分の心を守っているところがあります。

みんなに導いてもらったおかげで今があるのです。もちろん弱い部分を直したいと思う時もたくさんあるけれど、それ以上に苦手を補ってくれる人たちのことを大切にしたいと思う、今日この頃です。

【写真】満面の笑みで街中を電動車椅子で移動するながのさん

ちなみに、先ほどの大学生には「つらい時は頼っていいんだよ。助けてもらった経験のある人は、いつか助ける側に回るから」と伝えました。助けてもらった経験がある人は、きっと他の人が出すSOSにも敏感になっているはずだから。

心配しなくてもいつか必ず誰かを助ける時がくるから、つらい時は遠慮なく人に頼っていいし、誰かを助けようとしなくたっていい。つらい時はみんな、自分を守ることで精一杯だからとことん休んだっていい。そして、この時に感謝の気持ちを抱いた人には必ず、その恩を返すチャンスがやってくる。

私はそう信じています。

Try chanceの名前に恥じぬよう、身近な人たちの心の拠り所を創り続けること。そして、そんな発信を続けていくことで見知らぬ誰かにそっと寄り添い、背中をちょっとだけ押してあげられるようなサポートができたら…。もちろん、講演に来てくれた少女が20歳になるまでは、この場所も残しておくつもりです。何かあった時にいつでも相談できるように。

私はこれからもたくさんの人の力を借りながら、自分が歩ける歩幅で1歩ずつ進んでいきます。それが、今必要としている人たちに「障害を忘れられる瞬間」を届ける近道だと思うから。

イベントや講演で皆さんとたくさんのご縁があることを願っています。

今はスクールカウンセラーの資格取得にも興味があります。引き続き、自分の生きがいである子どもたちとの関わりの幅を広げるための努力を惜しまず、Try chanceの姿勢を大切に、果敢に挑戦していきます。もちろんたくさんの出会いと経験を蓄え、シェアをしながら。

【写真】街路樹を背に、口を大きくあけて笑うながのさん

関連情報:
長野僚さん Twitter Facebook note Instagram
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著書
僕にしかできないこと あなただからできること: 障害を忘れられる瞬間を求めて
日々是幸日 ——想えば価値!——

(撮影/川島彩水、編集/工藤瑞穂、企画・進行/小野寺涼子)